No.966132

「ナラタージュ 上」

蓮城美月さん

ベジータ×ブルマ、未来編、シリアス長編。
ダウンロード版同人誌のサンプル(単章・全文)です。
B6判 / 200P / ¥600
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2018-09-04 21:51:05 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:1324   閲覧ユーザー数:1323

◆CONTENT◆

 

第一章 終わりのはじまり

第二章 堕ちていく夕闇

第三章 もどれない二人

第四章 Crime Season

第五章 心の距離

第六章 かりそめの安息

第七章 金色の覚醒

第八章 彼女の選択

第九章 目覚めた刃

第十章 紅の戦慄

 

 

第一章 終わりのはじまり

 

世界に始まりがあるとすれば、世界の終わりも等しく同様に存在する。それは栄枯盛衰、自然の摂理、生命の流転、そういう言葉で表されるものであり、いつの日か現実に訪れるだろう、逃れられない運命(さだめ)。

だけど、あの頃のわたしたちは知らなかった。知ろうともしなかった。世界が絶望に覆われ、明日を閉ざされ、終わりを待つだけの日々がやってくるなんて。

そんなことは自分たちがいなくなったあと、ずっと遠い先の未来の話で、太陽が寿命を終える数十億年後のことだと思っていた。わたしたちの生きている現実世界は、これまで数々の危難を乗り越えてきたのだから、これ以上悪いことは起こらない。根拠もなく、そう信じていた。

たとえなにか悪いことが起こったとしても、大丈夫だ。彼がいてくれるから。どんな敵が現れても、戦って守ってくれる――――この世界を。今までがそうだったように、平和は守られると信じて疑わなかった。何度も地球を救ってきた彼に対する盲目的な信頼は、一度も揺らぐことはなく。過ぎてゆく毎日を当然のように受け流し、日常を生きていた。

だから、想像もしていなかった。この世から彼がいなくなるなんて。だれよりも生命力が強く、どんな窮地でも生き残っていた彼が病魔に負けるなんて。そしてその先に到来した、安穏と暮らしていた人々からすべてを奪う惨劇も。

思ってもなかった。あんな悲惨な未来が現実を侵食するなんて。惰性的に繰り返されてきた営みが永遠に失われるなど、だれにも予見できなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

それはナメック星人たちが新しい星へ移り去ってから約一年後。孫悟空は戻らないものの、平穏な生活が続いていたある日のことだった。

 

「はい、焼けたわよ」

青空の下に肉が焼ける香ばしい匂いと、食欲をそそる音が流れる。西の都にあるカプセルコーポレーション、その屋外ではバーベキューが行われていた。彼女が調理を担当し、ちょうどよい焼き具合を見極める。テーブルに置かれた皿の上には、焼き上がった肉や野菜が山盛りだ。お腹を空かせた住人たちは、相好を崩して熱々の串に手を伸ばした。

「うまそうだ」

「いただきます」

ウーロンとプーアルが一本目を口に運び、ヤムチャは冷えたビールでのどを潤す。コンロの前に立つ彼女は次の串を並べながら、用意された食材を見た。この場にいる面々で食べるには多すぎる量だ。恋人や動物型の居候に「いっぱい食べてよ」と言いつつ、家の中へ視線を向ける。

なにやってるのよ、あいつ。家の中にいるはずの人物に対し、心の中で呟いた。大量の肉や野菜は、あの男なら軽く平らげるだろうと準備したものなのに、肝心の本人がまだ姿を現さない。

『今日の昼にバーベキューをするんだけど、あんたも食べる?』

今朝ダイニングで顔を合わせたとき、彼女はそう訊いた。男が返事をしないのも、無言で食事を口に運ぶのもいつものことだ。気に留めず彼女は話を続ける。食べることに関してのみ、男が拒否することは一度もなかった。だからきっと食べるはずだと勝手に判断する。

『また外へ行くのかもしれないけど、肉が食べたければ昼時には家にいることね』

ちゃんと言っておいたのに、なにをしているのだろう。もしかして話を聞いていなかったのかと考えたが、それはないと思い直した。あの男は聞いてないふりをして、意外と人の話を聞いているのだ。猛烈な勢いで朝食を食べていた男の耳に、彼女の声は届いていたはずだ。

現に今日、男が外へ出て行った形跡はない。焼き上がれば来るかと思って待っているのに、まだ来ない。もしあの男が現れなかったら、この大量の肉はどうすればいいのか。庭の動物たちに与えるには豪勢すぎる餌だ。密かにため息をついたとき、件の男が突然家から飛び出してきた。

「ベジータ。あんた、もっと早く来なさいよ」

普段着でいたということは、外へ修行に行く予定はなかったのだろう。どうせ食べるのだから、最初から来ればいいのに。まったく素直じゃないというか、ひねくれているというか。

消滅寸前のナメック星から、強制的に地球へ瞬間移動させられたサイヤ人の王子。目つきの悪い男は、結局この家の居候となった。一年半ほど一緒に暮らしてきたが、万事に囚われることもなく自由気ままに生きている。食事の時間だけは決まっているので、その時刻にダイニングへ姿を見せるが、それ以外は家にある訓練施設を使っているか、外へ鍛錬に行っているかだ。

基本的に彼女たちと打ち解けることはしない。自分の領域を侵させず、こちらのテリトリーに踏み入ることもせず。喋る必要がない相手、つまりウーロンやプーアルは存在自体を完全に無視しているし、家主である父や食事を作ってくれる母にも、必要最低限の会話しか交わさない。

彼女は男を連れてきた責任上、地球での一般知識や家のことを教えるなど面倒を見ているため、他の同居人よりはそれなりに接点はあるほうだ。

「やっぱり匂いに釣られたんでしょう。孫くんと一緒で鼻が利くわね」

男と同じ種族の昔なじみは、食べ物に関して特段に嗅覚が鋭かった。あの頃の冒険は楽しかったと、懐かしい記憶を思い出しながら、目の前でおいしそうな音を立てて焼かれる肉を裏返す。

どうせこの肉も、あっという間に男の腹の中に納まってしまう。ペースを上げて焼いていこう。彼女はどこか嬉々とした気持ちで手を動かした。

料理は苦手というわけではないけれど、母のように凝ったものは作れない。だが長年、大食漢の友人と付き合ってきたため、鍋ひとつで作れる簡単メニューや大皿料理は、数をこなしてきたので得意と断言できる。自分の手料理をみんなが食べてくれるのは嬉しい。それに普段はなにを考えているのか分からない男が、一心不乱に料理を食べる姿を見るのは、彼女は嫌いではなかった。

アウトドア用のテーブルでは、ウーロンが必死で自分の皿に串を盛っている。遅れて現れたベジータに、肉を食べられてしまうと危惧しているのだ。そんな心配しなくても、材料はまだこんなにあるのに。苦笑しつつ、彼女はなかなかこちらへやってこない男を見る。

どうせお腹が空いているだろうから、さっさと食べればいいのに。早く来なさいよ、と声をかけようとしたが、言葉は出てこなかった。予想外に男が険しい表情だったので、驚いて口を閉ざす。まるで睨むかのように、空の彼方を凝視していた。

彼女はふと、男が現れた場面を脳内再生する。てっきりバーベキューを食べるために出てきたのだと思い込んでいたが、よく考えれば、そんなことであの男が家から飛び出すなんて変だ。

そのとき、平和そうに肉を味わっていた恋人も挙動を止めた。なにが起こったのか分からない、という面持ちで遠くを見ている。彼女には感知できないなにかがあったのだろう。二人のおかしな態度を怪訝そうに眺めていると、男が「ち…!」と舌打ちした。

 

「カカロットのヤロウ、とどめをささなかったな…!」

あのバカ野郎。フリーザにも、オレと同じ情けをかけやがったのか。かつて、自分がこの地球で味わった屈辱的な出来事を回想しながら、ここにいない宿敵へ言い捨てる。

匂いに誘われて表へ出て行こうとしたとき、男は遠くから接近する気を感じ取った。それは唯一の同胞がナメック星で倒したという、宇宙の支配者の気配。しかも最悪なことに、それはひとつではない。フリーザより大きな気が、一緒にこの地球へやってきている。

 

空の向こうから近づいてくる、想像をはるかに超えた巨大な気を感じた瞬間、ヤムチャは身体中に鳥肌が立った。自分が戦ってきたレベルとは次元が違う。

「こっ、この気はほんとにフリーザなのか?」

返事を期待してはいないが、とっさにベジータへ問いかけた。実際フリーザと遭遇したことのないヤムチャに確かめる術はない。しかし、ヤムチャより数段は強さのレベルが高いベジータが、あんなに緊迫した様相を見せるということは、この戦慄の予感に間違いはないのだろう。

 

「なに?」

事態を把握できない彼女は、二人を交互に見つめる。ヤムチャが発した言葉、ピリピリした男の表情。自分には分からないけれど、なにかとんでもないことが起きているのだと察した。

「フリーザが、どうしたっていうの?」

恐々と訊くと、ヤムチャが引きつった顔で答える。

「……フリーザが近づいてきてる。地球に向かって」

力なく答える声に、事態の深刻さが伺えた。

「えっ? フリーザは孫くんがナメック星で倒したんじゃ…」

 

「でも実際、とんでもなく恐ろしい気がこの星へやってきているんだ!」

心の中に潜む怯えをかき消すように、ヤムチャは強い口調で言い放つ。サイヤ人にすら勝てずに死んだ自分が、それよりはるかに強いというフリーザに対し、どうすればいい。戦うための気力など湧いてくるはずもない。そんな弱気も、圧倒的な力量差の前では当然だとヤムチャは思った。とにかく、バーベキューなどやっている場合じゃないことだけは確かだ。

 

「くそっ!」

ここでただ突っ立っていても時間の無駄だ。男は苦い記憶をかき消しながら、最高速で空へと飛び出す。エントランス側からは空を飛ぶなと女から口うるさく言われていたけれど、非常事態だ。一目散に、フリーザともうひとつの気がやってくる方角へ向かった。

 

「ちょ、ちょっと、ベジータ!」

ただならぬ様子で飛び出した男に、彼女は聞こえもしないのに呼びかける。ヤムチャはわずかに逡巡したが、意を決しベジータのあとを追った。

「ヤムチャ、どうする気?」

とっさに声をかけると、ヤムチャは空中に浮遊したまま振り返り、

「このまま放ってはおけないだろ。地球の危機なんだ!」

と、スピードを上げて行ってしまう。

「ブルマ。なにかあったのか?」

そのとき家の中から出てきた彼女の両親は、この緊迫感を打ち破った。

「あら。ベジータちゃんとヤムチャちゃんは?」

姿が見えない二人に、母親が周囲を見渡す。

「そ、それが、その…」

「フリーザって、あのフリーザのこと、だよな…?」

プーアルとウーロンが言葉を濁しながら呟いた。

そうだ、あのフリーザが地球へやってこようとしているんだ。彼女の脳裏にナメック星での日々がよみがえる。あんなに怖い思いをしたというのに、自分はフリーザの顔を知らない。

「かあさん。これ、あと頼むわね!」

すっかり焦げて黒くなった火の上の食材を指し、彼女は家の中へ駆け込んだ。一分もたたずに戻ってきたかと思うと、カプセルを放り投げて飛行機を出す。

 

「おいブルマ、どうする気だよ」

おおよそ予想がついているものの、ウーロンはつい訊いてしまう。

「決まってるじゃない。見に行くのよ、フリーザを!」

堂々と宣言したブルマに、ゲッソリとした反応を見せる。こいつの怖いもの知らずに限度というものはないのか。相手はあのフリーザだぞ。胸中でもらすウーロンとは対照的に、プーアルは身を乗り出した。

「ボクも行きます!」

「な、なに考えてるんだ、おまえら」

とてもじゃないが、正気の沙汰じゃない。ウーロンは絶対にこの場を離れないと身を固める。

「オレは絶対に行かないからな。命あっての物種だ」

 

「あんたに一緒に来いとは言わないわ。じゃあ行くわよ!」

プーアルが飛行機に乗り込んだと同時に、彼女はペダルを踏み込む。

フリーザが地球にやってきて、することなんて決まっている。地球を滅ぼしに来たのなら、どこにいても同じだ。死ぬのが多少早いか遅いかの違いだけ。それなら、フリーザの顔を拝んでおきたい。諦念にも近い感情を覚えながら、二人の男が飛んでいった方向へ機体を向けた。

 

 

「ど…どうしようもないじゃないか…!」

仲間が集結した荒野でフリーザの宇宙船が着陸するのを見届けると、地球での戦いしか知らない彼らからは怖気づいた声がもれた。精神の中にある「戦っても無駄、敵うわけがない」という薄暗い感情を打ち消すには、フリーザと自分たちの間に、あまりにも力の差がありすぎた。

クリリンや悟飯にしても、経験から立ち向かうことはできるものの、見込みのない戦いに挑むことは分かりきっている。希望などなかった。この中で期待が持てそうなのはベジータかピッコロだが、二人にしてもナメック星でフリーザにはまったく歯が立たなかったのだ。

「はっきり言ってやろうか」

男は皮肉交じりの嘲笑を浮かべ、彼らを顧みる。自分だってフリーザに勝てない以上、訪れる結末はひとつしかない。――――また、殺されるだけだ。

「これで地球は終わりだ」

 

明言された絶望に、それぞれ返す言葉も否定の気休めも思いつかず、ただ沈黙が彼らの間を支配していた。フリーザ一味が動き出したら、いずれは見つかる。殺されるのを承知で戦うしかない。彼らが地球を滅ぼすつもりなら、地球上のどこにいても同じことだ。

静寂は時間の流れを実測と違わせる。それから五分がたったのか十分が過ぎたのか、ふと悟飯が顔を上げた。幸いなことに、フリーザ一味はまだ動き出していない。だが、それが次の瞬間にやってくるかもしれないのだ。その数分間で希望が見出せることなどありえない。

「えっ?」

「どうした、悟飯」

隣にいたクリリンが訝しそうに訊ねる。

「なにか、感じませんか。空の向こうから近づいてくる気配を」

頼りない口調ながらなにかを信じるように、悟飯は空を指差した。みんなの視線がいっせいにそちらへ集まる。

「ん?」

「…なんだ?」

「たしかに、なにかが来る」

集中して気を探ると、フリーザほどの大きさではないが、こちらへ向かっている気配があった。接近するごとに、その気配がはっきり感じられてくる。それがよく知っている気だと、懐かしい気だと察知した悟飯は喜びの声を上げた。

「お、おとうさんだ!」

「なにっ?」

「そうだ。この気は、悟空の気だよ!」

驚くピッコロ、確信を持って同意するクリリン。暗く沈んでいた空気が一気に明るくなる。

地球に到着したフリーザたちが、どうしてすぐに動かなかったのか、その疑問が解けた。彼らは悟空の帰着を待っていたのだ。おそらくは、ナメック星で倒されたことへの報復のため。

「来るぞ!」

どんどん迫ってくる悟空の気配、そして雲の向こう側から丸い物体が落下する。一直線に地上へ向かっていく球体を、目を凝らして見つめた。

見上げる空中で丸型ポットから扉部分がはがれ落ち、直後に人影が飛び出す。どうやら着陸まで待っていられず、コックピットを力で破壊したようだ。

 

「おとうさん!」

「悟空!」

みんなが歓喜の声を救世主に向ける。彼女は必死に背伸びしてそちらを見つめるが、いかんせん視力が違いすぎる。一般人である彼女には、仲間たちのような常人以上の視力などないのだから。それでも、彼らに浮かぶ表情、期待のこもった笑みを見る限りは、あそこに浮かんでいるのが彼だということは間違いないのだろう。

 

帰還した孫悟空は超サイヤ人に変身し、フリーザ一味との戦闘に突入。多数の下等兵士はものの一瞬で片付けてしまい、すぐにフリーザの出番がやってきた。

金色のオーラをまとった悟空は、フリーザ親子に対し圧倒的な強さをみせる。今の彼は、ナメック星で余計な情をかけたために地球が狙われたとあって、容赦も甘さも介在しない――――冷徹なサイヤ人らしい戦い方だった。その戦いぶりに興奮を抑えられず、近くまで接近していた仲間たちは、フリーザが発する断末魔の叫びを聞いた。

そして悟空は、フリーザより大きな気を持つコルド大王を歯牙にもかけずに倒し、その屍を捨てた彼らの宇宙船に向かって、大きなエネルギー弾を放った。爆音が響き、コルド大王の身体と楕円形の宇宙船は原形もなく砕け散った。

 

「あ、あれが…超サイヤ人……」

伝説の戦士と言われた超サイヤ人、初めて目の当たりにするその姿に、男は怒りと悔しさと、わずかな畏怖に打ち震える。

あいつは、サイヤ人の王子である自分に超えられなかった壁を越えた。天才であるはずの自分を差し置いて、ただの下級戦士が。それはプライドの高い彼にとって到底許せることではなかった。ナメック星から地球に飛ばされたときに聞いてはいたものの、こうして直に超サイヤ人の力を肌で感じると、耐えられない屈辱感に襲われる。

 

敵のすべてを殲滅した悟空は変身を解き、金色のオーラを消した。冷たさすら感じた表情が一瞬にして消え去り、いつもの孫悟空が戻ってくる。

「やっほー!」

久しぶりの再会。仲間たちへ向けられた屈託のない笑顔に、ベジータとピッコロを除いた一同は彼のもとへ飛んでいった。

恋人の手を借りて移動していた彼女の視界に、黒髪の男が写り込む。男が拳を握り締めているのが見えた。そして悟空を睨むと、背中を向けて飛び去っていく。ピッコロと悟空だけは去り行く男に気づいたが、なにも言うことはなかった。

地上に降りて再会を喜ぶ悟空と仲間たち。あの爆発寸前のナメック星から、どうやって脱出したのか。この一年以上どこで過ごしていたのか、なぜ帰ってこなかったのか。息子と仲間から矢継ぎ早に繰り出される質問に、彼は楽しそうに経緯を語る。

ナメック星でとっさに乗り込んだ宇宙船は遠い星域の星に着陸し、そこで特殊な能力を教わっていたこと。その星は地球からかなり距離があったため、帰るのに一年近くもかかったのだと。

 やはり彼は、みんなにとって太陽のようなものなのだろう。かけがえのない存在の悟空が帰ってきたことで、明るい空気が漂う。

彼女はずっと昔、初めて出会った頃の彼を思い出した。辺境の山中で暮らす世間知らずの少年。今はその幼かった面影は遠ざかり、桁違いに強くなった青年。たくましい彼に大きな安心感を覚えるのは、彼が地球にとって必要不可欠な存在になっているから。彼さえいてくれるのなら、この先も大丈夫。何の不安もない。地球はずっと平和だと、彼女は安直に考えた。

そしてふと、男が姿を消した方角を見つめる。なんとなく…ただなんとなく、あの男のことが心配になった。思えばこの瞬間が、平和を感じられた最後のときだったのかもしれない――――。

 

 

第四章 Crime Season

 

約束された明日が目の前からこぼれ落ちて、残ったのは世界の残骸。虚空な闇が襲いかかる、今という時間さえ侵略して。わたしたちは、どこへ行こうとしていたんだろう。どこへ行けばいいのか分からなかった。自分が迷っていることすら知らなかった。

ただ必死につかもうとしていた――――微かな光を。おぼろげに燈る、まるで蛍のような頼りない灯りが、今にも壊れてしまいそうなわたしの心を救っていた。それだけが、自分を暗闇から逃してくれる。見えない未来へ踏み出すための力をくれた。

 

◇ ◇ ◇

 

三ヶ月があっという間に過ぎた。孫悟空というだれにとっても特別な、大きな存在を喪って、心に痛手を負ったまま、仲間たちはそれぞれの日常へと戻る。この現実が夢なら、どれだけいいだろう。ひょっこりと目の前に現れて、いつもの屈託ない笑顔を見せてくれたら。だけどいないのだ。悟空はもう、ここにはいない。それがまぎれもなく残酷な、現実だった。

大切な仲間を亡くした者たちの反応はさまざまで、形としては同じではなかった。悲嘆に暮れる者、想い出に縋る者、己の無力を嘆く者、平静なふりをして日々に埋没する者、自身の鍛錬に精魂を傾ける者。しかしだれの心にも明らかに、埋めようもない空虚な穴が開いていた。

身体の中心にある哀しみに気づかないでいれば精神が疲弊し、向き合えば在りし日の記憶が心を削る。悟空のいた景色が鮮やかすぎて、そのすべてを忘れることができない。癒やしようもない痛苦を抱えた仲間たちは互いに距離を置き、世界が危殆に瀕するまで顔を合わせることはなかった。

 

悟空とは最も長い付き合いである彼女は、一家の柱を亡くした妻子を気遣い、当初は折々に季節の食べ物などを持参して足を運んでいたのだが、それも遠のいた。家の中に残された悟空の気配に耐え切れなくなった。悟空の不在が重くのしかかってきて、心が悲鳴を上げたから。

彼女にとって、悟空はある意味で恋人以上に特別な存在だった。出会ったことにより運命が変わった、世界が広がった。悟空がいないこの世界に違和感を覚える。

今、地球がこうしてあり続けているのは、孫悟空によるものなのに、どうしてその本人がここにいないのか。彼女はいまだ、悟空の死を自分自身に納得させることができないでいた。

そしてもう一人。現実を拒むように、悟空の死を受け容れなかった男がいた。自分では宿敵の死を受容しているという認識らしかったが、違っていた。少なくとも、彼女にはそう映った。表面的には理解しているのだが、本質的な部分でそれを認められずにいる。再戦を果たせずに終わってしまったことが、宿敵との決着を永遠に奪い去ったから。

結果的に、男は悟空に勝ち逃げを許してしまった。相手が死んでしまったあとでその力を超えたとしても、それは真の勝利じゃない。男は己のプライドを取り戻す機会も失ったのだ。

悟空を越えるための訓練は激しさを増し、自分の肉体を痛めつけることでなにかから逃げているように見えた。毎日のほとんどを重力室で過ごす男は、今も彼女を悩ませている。逆に、もう一人のことでは悩まなくなっていた。悟空の死後、彼の姿はとんと見ない。

ろくに帰ってこなくなると、彼女の中で波が引いていった。もう悩む必要はないと冷静な心が判断した。あちこち友達の部屋を転々としているのか、女のところへ転がり込んだのか、それさえもどうでもいいと思えてきていた。

彼の気持ちも分からなくもない。彼女だって同じだったから。彼女と彼が一緒にいると、どうしても悟空の存在が胸にちらつく。悟空の不在を思い知らされてしまう。そばにいたら、どちらもがダメになりそうな気がした。だから、帰らない恋人になにも感じなくなって、憂鬱もなくなったのだ。彼女にはもう、彼と一緒にいる理由がなくなっていた。

 

 

十年以上付き合っていた恋人と別れたのは、晴れない気分を一掃しようと出かけたショッピングの最中。ブティックのウインドーを眺めながら歩いていると、正面から腕を組んで楽しそうに笑うカップルがやってきた。先に彼女が気づき、すぐあとに彼が立ち止まる。

昔なら、こんな場面に遭遇した際のやり取りは決まっていた。彼女が恋人の胸倉を掴み、この女はだれだと怒鳴るのだ。そしてヤムチャは、この子はただの友達だと言い訳をし、それを聞いた女の子は彼に平手を食らわせて去っていく。

しかし、今の彼女はそういう対応はしない。怒ることも泣くことも。彼に対して、何の感情も湧いてこない。ヤムチャもまた、後ろめたさがあるわけでもない表情で佇んでいた。

彼女は彼の隣にいる女へ視線を注ぐ。どこかで見たことがある。記憶を呼び起こすと、かつて彼が助けを求めてきた、三人の女が揉めたときにいた子だった。三人の中で唯一、本気で彼を好きだった女の子。そのときには分からなかったけれど、昔の彼女にどこか似ていた。

(ああ、だからか…)

彼女は素直に得心した。彼は、彼女に変わってほしくなかったのだ。自分は変わってしまったのに、相手にはそのままであることを望んだ。二人は変わっていく互いを認められなかった。そこに歪みが生じ、修復できないところまで壊れてしまった。だから終わるのだ、彼女と彼は。

「もういいでしょう、終わりにしても」

歩み寄った彼女が告げる。

「…ああ」

彼はまっすぐ彼女を見て答えた。

「近いうちに、荷物を取りに行くよ」

「分かった」

短い言葉を交わして、彼女はその場を立ち去る。十数年の日々を過ごした二人の関係は、この日あっさり終焉を迎えた。

 

翌日、ヤムチャは荷物をまとめて出て行った。彼女と顔を合わせることはなく、大量の私物をカプセルに収納し、プーアルと共に居候として過ごしたカプセルコーポレーションをあとにする。

彼女は母親やウーロンから別れの理由を訊かれたが、なんとなくとしか答えられなかった。表層的な破局の理由とすれば、常に悩まされ続けた彼の浮気と言えなくもない。

彼女がヤムチャと出会ったのは荒野だった。女との接点もない場で生きてきたため、女が苦手という弱点があったけれど、都に来て都会の若者のスタイルを知ってから彼は変わった。

自分の容姿は悪くなく、むしろ異性にもてるのだと自認して以降、彼の周りには常に複数の女がまとわりつき、彼女をヤキモキさせた。もちろん、本当にただの友達もいたのだが、そうじゃない相手もいて、そのたびに彼女は傷ついてケンカをして、結果的に丸め込まれて元の鞘。

傷つくことに慣れれば痛みは感じなくなると思ったけれど、その前に、何度も同じことで自分が傷つけられることが許せなくなっていた。だから諦めて、仕方ないと割り切るようになって。

その頃から、彼との関係に温度差が生じていたのだろう。自分を騙しながら、これだけ長く付き合っていれば彼しかいないと、強引な刷り込みによってごまかしながら続けていたけれど、悟空の死によって抑えていた呪縛が外れた。もう自分に嘘をついていたくない。我慢したくない。

いつでも地球を守ってくれた悟空の喪失により噴出した感情。これからの世界に感じる不安と、平和や幸せは永劫じゃないという、ある種の諦念。そういうものが重なって、彼女は彼に別れを告げた。もうこれ以上、自分が傷つけられるのが嫌だった。自分を守るために別れたともいえる。利己的な理由だという自覚はあった。だから、別れた理由を「なんとなく」としか言えなかった。

 

ヤムチャとプーアル、その少しあとにウーロンまで出て行って、カプセルコーポレーションの広い邸内から喧騒が消えた。長年、居候がいてにぎやかだった生活の風景が変わる。なにかが大きく瓦解していくように思えた。楽しかったはずの日常は過去に遠ざかり、なにかが欠けたまま日々は刻まれていく。彼女が恋人と別れてから、半年が過ぎようとしていた。

 

 

永遠の宿敵がこの世から去ってどれだけの日々が過ぎようとも、男の日常は悟空が死ぬ前と変わらず、修行に専念するのみだった。戦うことの目的そのものを失ったにも関わらず、脇目も振らず心血を注ぐ。それが純粋に悟空の強さを超えるためなら問題ないのだが、今の男はそうじゃない。取り憑かれたように自分をボロボロにしているとしか、彼女には見えなかった。

孫悟空――カカロットを倒すことは、男の生きている理由でもあった。その死によって大義を失い、男は空っぽになってしまった。空洞を埋めるために、己の身を痛めつけることしかできない。悟空を超えるという出口を失くした心は閉塞し、冷たくなっていく。

精神が逼迫した男に、両親は声をかけられなくなった。しかし彼女だけは鋭い眼差しで睨まれても臆することなく、必要な限りは男に接する。男の態度は己の脆さを容認できない裏返しと思えたので、彼女は恐怖を感じない。むしろ人間らしいと思えた。それに悟空との約束もある。男のことを見捨てない、ここにいる限りは面倒を見ると。故人との約束が、彼女の心に刻まれていた。

この半年、彼女は男にとって唯一関わりを持つ存在としてあり続けた。父親から重力室のメンテナンスを引き継いだあとは故障を頻発させ、時刻を問わず彼女を引っ張り出して直させた。彼女は文句を言いながらも部品を変えるなど、多少の改良を加えながら修理していた。

ただ明らかに壊した際は「故意の不調は直さないから。故障と破壊の違いは一目瞭然よ」と釘を刺した。感情を制御できなくなれば、自己の確立が危うい。すると自分の不利益を計算したのか、それ以降故意の破壊はなくなった。自暴自棄に陥りかけても、まだ彼女の言葉は届いたらしい。

訓練でひどい怪我をしたときは、押しかけて手当てをする。不機嫌度を上昇させながらも気力は萎えているので、彼女の好きなようにさせた。口では勝てないことを男は知っている。

こういうのは自己満足かもしれない。自身を省みて彼女は思った。恋人との別れに、ダメージがなかったわけじゃない。互いへの恋情が冷めた結果だとしても、痛手がないとは限らない。彼女は最後まで、彼のことを嫌いにはならなかった。けれど、恋人への想いよりも勝った感情があったから。自分が傷つくことが嫌だという、エゴイスティックな感情。

つまり、恋人より自分が大切だということだ。心からだれかを愛せる人間じゃない。それを知ってしまった。淋しい人間だ。恋人と別れたから淋しいのではなく、自分が冷たい人間だったから、それが淋しくてたまらない。一生このまま変わらないのだとしたら、あまりに哀しすぎる。

心がフラフラと定まらないでいた。空虚に日々が流れる中で。自分がなにをしたいのか、なにを望んでいるのか分からない。どこへも行けなかった。どこへ行けばいいのかも、分からなかった。時折、壊れたくなる自分を感じる。無性に自分を傷つけたい衝動に駆られた。

『ねえ、お願い。だれかわたしを傷つけて――――』

傷つきたかったのは自分も同じだ。男のことをどうこう言えない。自覚はあった。彼女が男にかまうのも、そういう深層心理が働いていたこともある。そこに男がいた。視界に映りこんだ。あの男を見てしまった。望んでいた相手がタイミングよく目の前にいた。自分のどうしようもなさから抜け出したい。己の醜さも弱さも全部暴いて、受け止めてほしかった。傷つけてほしかった。

それを叶えるのに理想的な相手だった。自分への気遣いなどまるでなく、彼女の価値なんて粉々に砕いて、容赦なく傷つけてくれるだろうと。だから男が刺々しい気配を漂わせても、鋭い視線を向けても怯まない。彼女自身が望んだことだから。そんな無意識に近い心理を感じ取ったのか、男は彼女に敵意を向けることをやめた。どういう行動であれ、利用されるのは御免なのだろう。

それからは、互いの存在があるのみだった。淋しい自分が孤独ではないと実感する。そう思えるのは、あの男以外にだれもいなかった。こんな距離感も悪くはないと彼女は思う。男といる間だけ一人じゃない。とめどもなくあふれてくる冷たい感情を消し去ることができる。あの男を見ていることで、ここに留まっていられると感じた。少しだけ安心するから、自分だけじゃないと。

独りの淋しさにもがき苦しんでいるのは、自分だけじゃない。悟空がいなくなって、それでも強くなることを求める男の存在が、ひたむきな姿が、彼女の救いになっていた。男がここにいてくれなかったら、自分がどう崩れていたか分からない。怪我をした男の手当てをしたり、重力室の故障に文句を言ったり、彼女が彼女のままでいられたのは、男の存在があってこそだと思った。

 

 

男の存在によって救われていた彼女とは違い、ベジータの問題はそれだけで救われるものではない。悟空がこの世を去ってから、もうすぐ一年が過ぎようとしていた。辛うじて自我を保っていた男の精神も疲憊の度が濃く、もう彼女の言葉も存在も受け容れられなくなっていた。

『それがだれかを傷つけるって分かっていても――――死ぬまで、戦っていたいんだ』

死んだ悟空の言葉が、今も彼女の耳に残っている。男と同じ戦闘民族サイヤ人の悟空が言った、まぎれもない真実。だれかを傷つける、それは自分のことだとは思ってない。彼女は男の姿に胸の痛みを覚えるけれど、それを相手のせいにしたくはない。

傷ついているのはあの男自身だ。己を傷つけてまで、戦うことをやめられない。それがサイヤ人の本能だ。自分にすらどうすることもできない。どうすることもできないと分かっていても、今の男を見ているのが彼女にはつらかった。あの男を黙って見ているのも、もう限界だと思った。

 

食事も睡眠も忘れ、肉体を削り取るような激しい鍛錬が続く。しかし、超サイヤ人の域には到達していない。まだカカロットを超えられないのか。宿敵がいなくなったあの日が遠ざかるにつれ、その強迫観念は強まっていく一方だった。それは相手との力の差、才能の差を表していたからだ。

どうすれば、どれだけ努力すればあいつを超えられるのか。悟空と戦うことは二度とないのに、何のために強くなるのか。そう自問すれば、すべての意味を失ってしまう。だから必死に頭から排除してきた。訓練に熱中していた。考えまいとしても、常にその思いがつきまとうから余計に。

先の見えない暗闇から、ずっと抜け出せないでいる。宿敵が心臓病で死んだため、こんなところでくすぶっている。戦いたかった。戦って、相手の強さを超えたかった。元の自分に、サイヤ人の王子に戻って、プライドを取り戻したかった。けれど一年ほど前に宿敵はこの世から消え、再戦の機会は失われた。一度死んでいるため、もうここに生き返ることはない。

それなのに、自分はどうしてまだここにいるのか。カカロットを超えられないから…違う。どこへ行くこともできないからだ。自分がどうしたいのか、なにをすればいいのか、どこへ行けばいいのか。ひとつも分からない。身動きが取れない。超サイヤ人に到達すれば、この行き場のない感情から抜け出せるのに。それすらいまだに叶わない。男の強靭な精神力も、もう限界にきていた。

 

 

逃げよう――と彼女は決意した。病床の悟空と約束したけれど、もう無理だ。見ていられない。このままでは、彼女も共に奈落へ堕ちてしまう。一緒に暗闇へ堕ちていくような、堕落的な関係に呑みこまれたら、自分も男も救いがなくなって不幸になるだけだ。

閉塞に息づいた世界の片隅で、彼女と男はある意味で存在を許容してきたけれど、あんな風に身を削って己を毀すことでしか自我を保てなくなっている男に、彼女は耐えられない。心が押し潰される。抜け殻のように虚無感の漂う男を、これ以上見ていたくなかった。

目をそらせばいい、見なければいい。視界の外に置いてしまえば。でも、そうすることもまたできなかった。あの男の淋しさを知っているから、自分と同じ淋しさを抱えているから。

互いの欠けた心がさまよっていた。他のだれにも、なににも癒すことのできない欠落から逃れたかった。解放される方法は、ひとつだけあった。彼女は知っていた。この男とひとつになりたい。そうすれば、この半身を塗り潰す淋しさは消えてくれるだろう。

彼女と彼は同質の孤独に気づいていた。そして相手に寄りかかった。これまでの数ヶ月がまさにそれだった。利用しているのは承知の上、ずるさも呑みこんで。でも、一線を越えるまでに至らなかったのは、そこまで依存したくなかったからだ。

自分が己以上にだれかを愛せる人間じゃないと知っていながら男を引き込むなんて、さすがに卑怯だと思った。そこまで自分をおとしめたくはない。それに、戦いのことしか考えてないあの男が彼女を抱くことはない。だったら、逃げるしか選択肢は残されていなかった。

危ういバランスの上に漂流していた男と彼女の関係は、もう均衡を保てない。あとのことは考えたくなかった。男の今後や両親のことも、考えてしまえばここから動けない。荷物をまとめ、カプセルケースを持って、それだけあれば充分だ。お金さえ持っていればどうにでもなる。

決心が揺るがないうちに行こうと部屋を出た。ためらいを振り切るように、歩調を速めて廊下を歩く。心の中の後ろめたい気持ちから目を背けて逃げようとした。その足取りが突如、止まった。

「――――――…」

廊下の壁に寄りかかっている影がある。いわずと知れた彼の男だ。自分の部屋まで帰る途中、ここで力尽きたらしい。うなだれて、手足は無防備に投げ出されていた。

(どうして…)

彼女はやりきれなくて、左手で顔を覆った。出て行こうとしたタイミングに、こんな姿を見てしまうなんて。男は意識がないのか、彼女の存在に気づいた節はない。通り過ぎればいい。見なかったことにすればいい。明日自分がいなくなったとしても、この男は変わらない。

彼女は視線を外し、男の前を通り過ぎようとした。心が痛い。哀しい。切ない。苦しい。複雑な感情が渦巻く。逃げようと決意したのに、脆い意志が揺らいだ。

「……なにやってるのよ」

混沌が彼女を襲う。決めたのに、決めたはずなのに。――――ゆれる。

 

男が意識を取り戻したとき、見慣れた自室の天井が目に入った。廊下で倒れたと思ったが、無意識にたどり着いたのか。その考えが外れていたことは、すぐに分かった。半分だけ明かりのついた部屋、ベッドに寝ている自分の腕に点滴。怪我には処置が施され、自分以外の気配が存在した。

すぐ近くの人影に視線を向ける。予想していた相手ではなかった。この家の主が作ったらしい、発明の一種だろう。さまざまな器具を装着した白衣姿のロボットがそこにいた。ドクターロボットといったところか。ちょうど点滴が終わったところで、器用に男の腕から針を抜いた。

「テンテキ、オワリマシタ」

別の方向へ機械音が喋る。ロボットが話しかけた場所へ視線を向けた。薄暗い中、ソファに座っていた女が顔を上げる。半身を起こした男と視線が交わったところで、すぐにそらした。

「ありがと。もう行っていいわよ」

彼女が告げると、ロボットは片付けをして部屋を出る。ドアの開閉ボタンを押し、四輪で自走していった。どれくらいの時間がたっているのか、男は時計を確認する。日付が変わる手前の深夜。

 

(…なにやってるのよ、わたし)

静寂の支配する空間で、彼女は自問した。ここから逃げようとしたのに、男を放っておけなかった。ドクターロボットを呼び、男を部屋へ運んだ。その間にでも行けばよかったのだ。

身体の怪我はそれほどひどくはなかった。ただ食事をろくに摂っていなかったため、栄養失調に陥っていたらしい。点滴を打ったから、多少は回復しただろう。だが身体の怪我は治っても、心の痛手はだれにも治せない。孫悟空という、唯一の存在以外には。

 

「なにやってるのよ…」

男がそこから動かない女を訝しく思っていたとき、掠れた声が聞こえてきた。倒れこむ前よりは回復した肉体を実感しなら、双眸だけを動かす。

「バカじゃないの」

それは非難を含んだというよりも、悲痛が混ざった声色。

「少しくらい、自分のこと考えなさいよ」

まるで自分が憐れまれているように思えて、男は反発した。

「同情など、乞うた覚えはない」

もう充分に動けるのだと、ベッドから抜け出し床に足を置く。冷たく言い放てば、女の口からは文句があふれてくる…はずなのに。一向にその気配がない。男は違和感を覚えた。

 

もう、この男のことで傷つきたくない。無為なことはやめようと、彼女は決めた。だからなにも言い返さない。どうだっていいことだ。あらゆる感情を廃し、ソファから立ち上がる。男には目をくれず、まっすぐドアへと歩き出す。

「重力室、もう少し大事に使うのね。壊したら、もう直す人はいないんだから」

数歩で足を止め、告げた。その言葉に男は眉をしかめる。

「どこに行く気だ?」

「あんたには、関係ないでしょ?」

 

かつては自分がよく投げた言葉を返される。重力室はあちこち改良を加えたため、今はこの女にしか扱えない。その女がいなくなるという。男がそれを許せるわけがなかった。

「どこでもいい。あんたが…あんたさえいない場所なら、どこでも」

男に背中を向けたまま、声だけが感情を表す。

「もう限界。だから逃げるの」

真意を凝縮した言葉を聞いて、男は素直に納得した。ああ、そういうことか。それならそのほうがいい、お互いに。どこへでも行け。自分の目の前から消えろ。

女から外した視線を、足元に向けた。いなくなる女の姿など、脳裏に残しておきたくはない。

 

相手が無言のまま佇んでいるのを見て、彼女は再び足を進めた。空間を隔てる扉の前までたどり着く。力ない指が、開閉ボタンを押した。男は俯いたまま、目を閉じていた。やがて女の気配は、この部屋から消える。男は感覚を遮断した。

 

刹那の空白。扉が完全に閉ざされる音を聞いて、男は眼を開く。すべての六感を稼動させる。感じ取った、あるはずのない気配にハッとした。同時に、心の中で舌打ちをする。

バカな女だ。千載一遇のチャンスを自分から放棄しやがった。逃げられる機会を、自分で捨てた。さっきならば逃げられたのに。逃がしてやれたのに――――。

男はひとつ大きな諦めの感情を持って顔を上げた。扉の前に、女がいた。

 

「……もう、いや」

彼女は扉の前で立ち尽くしたまま、声を震わせる。背中越しに、心まで見透かすような男の眼差しを感じていた。

「あんたのことで、自分がこんな風になるのはいや」

振り返るのが怖かった。そこには精神における怯えがあった。

「見なければいい」

平静さを装った、男の言葉が返ってくる。もうどうにもならないと知りつつ、無駄な抵抗をしてしまう。複雑な思考を持ち合わせた、男と彼女の場合においては。

「そうできるなら、とっくにそうしてるわよ」

彼女は両手で顔を覆った。あふれてくる感情を抑えられない。

「あんたもわたしも淋しいのよ。一寸間違えれば、途切れてしまう糸のような」

繊細で頼りなく、危うすぎて見ていられない。けれど目をそらすことができなかったから、ここまで追いつめられた。

「ボロボロにならないで…傷つかないで……」

もう逃げることができない。最後の機会は、自ら放棄した。

「――――見てるこっちが痛いのよ!」

あふれてくる、感情が。彼女の瞳から、雫が。

「もうやだ…」

崩れ落ちそうな心で彼女は呟く。もうこれ以上、一人で自分を支えられない。

 

男は瞬刻、苦味を負った表情を浮かべ、立ち上がった。最後までためらっている自分もたしかにいる。けれど理性は途切れた。どんな言い訳も、理屈も、逃避すら無意味だ。

「…ずっと、独りだ」

限りなく重い一歩を、認めるしかない感情に従って踏み出す。時間の流れが、ひどく緩やかに感じられた。今という時を刻む音が、身体の中から聞こえる音と同じリズムを叩く。

「独りで生きて、独りで死ぬ」

 

男の声が近くなる。彼女は頬を濡らした顔を上げ、向き直った。どういう表情と形容すればいいのだろう。今までに見たことがない、初めて見る顔だった。

「なんで…そんな哀しいこと言うのよ」

そんな哀しいことを言わないで。独りだなんて言わないで。だれもいないなんて言わないで…。

(わたしが、ここにいる)

どこにいても、だれといても独りだというならば、自分がここにいよう。

「だれといても独りなら…わたしがここにいても、いいでしょう?」

あとになって、自分と関係を持った理由を訊かれ、彼女はこう答えた。

『自分を大切にしろ、なんて間違っても言わないでいてくれるからよ』

 

女の瞳から流れ落ちる滴が深く心に刻まれる。透明な涙。その穢れのない雫が、自分に触れて紅く染まる前に。追い出せ、テリトリーから。視界に入ってくるな。そうしないと…見えない障壁を取り払って、呑みこみたい誘惑に負ける。

心のどこかで往生際の悪い抵抗が残っていた。分かっているからだ。女に触れてしまえば、後戻りはできない。際限まで抑制していたものが、自我のままに動き出すだろう。歯止めは利かない。自分の感情はもう制御不能だ。

扉の前から動かない女に、手を伸ばせば届く距離まで近づく。ジリジリとした、心に突き刺さる感触。わずらわしい。この暗闇に、引きずり込みたくなる。どうすればいいのか分かっている。だが、分かりたくなかった。もう――――手遅れだ。

 

脆く崩れてしまいそうな男をつなぎとめられる手段は、それしかなかった。男を独りにしないでいられる術は、もうそれしか残されていなかった。彼女は迷わなかった。

「わたしをこわして」

男の手が彼女の腕を掴み、身体ごと引き寄せられる。漆黒の瞳が、すぐそばにあった。

 

この血まみれの手に抱かれることが罪だというのなら、わたしはそれでかまわない。どんな罰だって拒まない。一緒に地獄へ堕ちてもいい。共に生きていく、なんてことはできないとしても…そうね。一緒に死ぬぐらいは、してあげてもいいわよ。そしたら、淋しくなんかないでしょう。

 

 

薄闇の中に堕ちていく。手探りで、なにかを探った。そこに愛だとか、希望だとか、陽性の因子などひとつもありはしない。いつの間にか迷い込んでいた、闇の迷宮がそこにあった――――。

 


 
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