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Blue-Crystal Vol'04 第一章 ~反立~

C93発表のオリジナルファンタジー小説「Blue-Crystal Vol'04 ~The First Rebellion~」のうち、 第一章を全文公開いたします。

2017-12-25 21:40:40 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:978   閲覧ユーザー数:977

 

 <1>

 

 この集落からは一切の活気が途絶えていた。

 あちこちに亀裂や劣化の目立つ石畳の隙間からは雑草がのぞき、そして、その道の両脇に立ち並ぶは傷みの目立つ家屋の数々。

 家々からは人の気配は全く感じられず、まるで時が止まったかのよう。その姿は廃墟と化したかのような──まるで死せる集落の如き様相。

 この命なき街はラムド国中央部、南北の教区を区切る境界線の程近く。国を縦断する主なる街道より大きく外れた心寂しき一帯にある集落。かつては静かな生活を求める者達がひっそりと集い、穏やかな生活の営みが育まれていた。

 しかし今、かつての人の営みはすっかり鳴りを潜め、辺りを支配するは、草葉の陰に潜む虫の羽音と風の音のみといった有様。

 そんな荒廃の果てにある名もなき集落に訪れた夕刻の時。強く赤みを帯びた太陽が天空の円屋根を照らしていた。

 集落の中央に流れる河、水面はまるで血の如き赤色に染まり、そこに一つの影が差したかと思うと、流れに映る暗色が二つ、三つと数を増し、遂には十を超えたかに見えた。

 河に架けられた橋の上を駆ける一団であった。これらの正体は純白の装束に身を包んだ男達であり、誰もがその手には武具を携えていた。武具はいずれも精錬された業物ばかり。まるで何らかの武装勢力の如き様相であった。

 その目に浮かぶ感情は狂気にも似た輝きに満ち、また同時に悲壮な覚悟を抱いた無感情ささえ窺える。

 彼らの来訪の理由は、まさにこの街が死した理由──そのものであったのだった。

 驚くべきことに、この心寂しき集落を物々しく闊歩するこの武装集団とは、ラムド国に仕える騎士団の者達でも、或いはどこかの貴族家に雇われた私兵団でもない、一般の若者達のみで構成された一団であったのだ。

 だが、彼らがいわゆる『普通』の若者達とは違う点が一つ。それは、北の最果てにあるルインベルグ大聖堂に対する熱烈な信者であるということ。

 そう。北の大聖堂のみが輩出することが許される『聖石の巫女』の信奉者であったのだ。

 彼らが武装をし、周辺の集落を闊歩し始めたのは、ちょうど一年前のこと。北の大聖堂で起こった『事故』がきっかけであった。

 その事故とは、南より巡礼の訪れた巫女を志望する少女への儀式の失敗。その際、儀式を執り行った高僧も命を落としたのだという。

 巫女とは『魔孔』に対抗する唯一の手段。新たな巫女の輩出はまさに魔物の被害に喘ぐ全国民の希望と言っても過言ではなかった。

 そんな最中に起こった『事故』──儀式失敗と、大聖堂の幹部である高僧の死。大聖堂の権威を失墜させるに十分にして余りある大失態。醜聞に他ならぬ。

 新たな巫女を一日も早く擁立させるのは大聖堂にとって目下の課題であり、失墜した権威を回復させる唯一の手段であるのは明白と言えよう。

 このような誰の目にも明らかな解決手段を前に、一部の熱狂的な信奉者が反応を示した。

 ──それが彼らであった。

 その目的は新たな巫女候補である少女の拉致。

 彼らは、何を差し置いてでも優先すべきは巫女という救世主を輩出することであると完全に凝り固まっており、その為には過激な手段を取ることも厭わぬという過激思想に染まり切っていたのである。

 誰もが全てはこの国を魔物の脅威より救うためと信じていた。

 だが、誰もが──おのれ自身が魔物と同然の鬼畜へと成り下がってしまっているということに気付いてはいなかった。

 いつしか彼らは思い込む。自分達こそが大聖堂を救う者達であると。巫女制度を守る為に行動する聖戦士であるのだと。

 そして、いつからか彼らは自分達のことをこう名乗っていた。

『聖皇庁』──と。

 自分達こそが大聖堂の根底を支える組織の一員であるかのごとく。

 事実、彼らの実績は目覚ましいものであった。

『聖皇庁』の構成員は三百を超え、その活動範囲は北教区の殆どを支配するに至っていた。彼らの手によって拉致された少女はその十倍にも至り、これらは事故より一年の間で成し遂げられていた。

 その様たるや、心なき狩人が獣を乱獲するかのごとく。

 しかし、そのような『活躍』をもってしても、新たなる巫女は現れる気配は見せぬ。

 だが、それでも狂人は今日も集落を歩く。少女を浚うために。大聖堂が新たな巫女を作り出してくれると信じて。浚った少女の数と、おのれの信仰心の篤さと無理矢理に結び付けて。

 この心寂しき集落に住まう人々は、今夕も訪れた脅威を前に、ただ息を潜めて暮らすことしか身を守る術をもっていなかった。

 自由に外に出ることも叶わず、震えあがり、魔物と勝るとも劣らぬ卑劣漢が現れたことに人々はただただ恐怖するしかなかった。

『魔孔』と狂人の脅威に晒された今、ラムド国は安寧には程遠い場所に存在していたのである。

 

 木製の床の上に敷かれた大きな布。

 そこに、繊維状の黒い何かがいくつもいくつも舞い落ちた。

 か細きそれは敷布の上で山となる。

 それとは髪の毛だった。布の上に置かれた椅子に座する少女と思しき子供の。

 そして、娘の髪に刃を入れ、切っているのは少女の母親と思しき女であった。

 少女の髪は短く整えられ、その様は少女というより、少年と言うに相応しき容貌へと変じていく。

 母の手が進むたび、或いは娘の容姿が変容していくたび、母娘の表情は暗く沈んでいく。

 幼き少女の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちる。

 落涙を背より察した母は、そんな娘の残された短い頭髪を優しく指で梳いた。

「──ごめんね」

 そして、涙混じりの詰まらせた声で謝罪の言葉を口にする。

 母は知っていた。

 娘が自分の長く伸ばした髪を心より気に入っていたことを。

 それを切ることが、どれだけ残酷な行為であることか。

「……でもね」

 だが、母は止めることはなかった。

 悲しみと、良心の呵責によって微かに震える手を。

「こうしないと、貴女が女の子だと知られてしまって『あいつら』が攫ってしまうの──『聖皇庁』を名乗る連中に」

 悲しみに満ちた声に、微かに怒りと憎悪の色彩を帯びる。

 そんな悲嘆にくれる母の言葉を背で聞く娘は、反抗したり我儘を言ったりもしなかった。

「大丈夫よ。母さん」

 涙を噛み殺し、母を励まさんと気丈に声を絞り出していた。

「隣のおじさんが言っていたわ──『奴らの活動も長くは続かないだろう』って」

 娘が口にしたのは、ここ最近になってまことしやかに囁かれている噂であった。

 誰が吹聴しているのかはわからない。ゆえに根拠は誰も知らぬ。

 だが、この絶望的な状況下において、誰もがこの噂がもたらす希望に縋っていた。

 それほどまでに人々は追い詰められていた。誰もが顔を伏して息を潜め、この根も葉もない噂が真になる日を──祈りを捧げながら待つしか方法はなかった。

 女は馬鹿馬鹿しいとすら思っていた。現実はそれほど甘くはないものだと。

「──そうね」

 だが、愛娘にそのような現実を突きつけるのは、あまりにも酷。ゆえに母は話を合わせた。

「そんな日が早く来るといいわね」

 ──しかし、この世とは母の言葉で用いずとも限りなく残酷にして冷酷な現実を突きつける。

 もし、この家の玄関に居合わせる者がいたとしたら見たであろう。

 入り口の扉を蹴り開けている暴漢──『聖皇庁』の者の姿を。

 そして、聞いたであろう。彼らの群れの中から「女の話し声だ」という声を。

 そう。この度、暴徒の標的とされたのは、この悲嘆と儚い希望に縋る無力な母子であったのだ。

 

 少女は泣いていた。

 自分が女であることを捨てさせるため、おのれの髪を切られようとも、決して涙を流すことのなかった少女が。

 家を襲い掛かった武装した狂気の集団を前にして。

 そして叫んだ。母さん、母さん、と。

 襲撃者の足元に横たわり、胸から血を流して果てた母へと向けて。

 おのれを庇って殺された母へと向けて。

「どうして」

 少女は頭を抱え、叫んだ。

「私たちが何をしたと言うの?」

 全てを呪った。おのれの非運を。現実の冷たさと理不尽さを。

 祈りを聞き届けてくれなかった神を。

 そして何よりも──骸と化した母の身体を踏み越えて近づいてくる狂人らを。

「下らぬ小細工を」

 狂人の群れ、その先頭に立つ男が静かに口を開いた。

 その口調は平静なそれであった。しかし、彼は数秒前に自らの手で凶行に及んだばかり。娘の母を殺し、その手を血で汚したのである。にも関わらず、まるで虫を殺したかのような平然とした様相。その姿に戦慄を覚えた娘は反射的に泣くのを止め、数歩後ろへと後ずさった。

「我々は既にこの家に目をつけ、観察していたのだ。この女──数日前に裏庭で女の子供服を大量に焼き捨て、それとほぼ同日に男物の子供服を買いあさっていた姿が確認されている。その様から何をしようとしていたのか類推するのは簡単なこと。そして、この髪切りは仕上げといったところか。自分の子を女であることを隠すための」

 そして、憎々しげに吐き捨てる。

 この背教者、売国奴め──と。

「この国の一大事に、教団の一大事に一切の犠牲を厭わぬと考えるのが、国教の信徒たる民のあるべき姿であるはず。しかし、我が教団が代々輩出してきた巫女様のお陰で今日まで存在しているという事実から目を背け、その御恩を忘れる不届き者。まさに万死に値すべき大罪」

 後ろに控える狂人らも、この言葉に続く。

「巫女様が新たに立ち上がり、困るのは当然『魔孔』の魔物どもに他ならぬ。我々を妨害したこの女は魔物に魅了され、操られている人物であるといるという証左」

「そうだ。また我々は魔物に操られし哀れな人間を解放したのだ!」

「神よ、歴代の巫女様よ。御導きにより、我々は今日もまたこの上なき善行を積むことができましたことを心より感謝いたします」

 狂信者は口々に独善的な理屈を展開し、自らが行った凶行の全てを善行へと飾り立てる。

 一切悪びれた様子すら見せず、全ては神の意志であると、おのれの悪行を信仰対象へと擦り付けていく。

 声はやがて歓声と化し、室内を支配するものへと変じていく。

 幼き少女はただ怯えるしかなかった。

 武装した集団に戦いを仕掛けるほどの力強さも、この善悪が倒錯した世界に抗えるほどの心の強さももたぬがゆえに。

 ただ、慄然と震えあがるのみ。

 ゆえに、払いのけることなどできなかった。自分を連れ去ろうとするために伸ばされた手を。

 ただ脳裏に、思い浮かべるのが精々であった。

『彼らの活動も長く続かないだろう』──そんな噂話の一節を。

 それがもたらす希望に縋ること。それが力なき少女に許された唯一にしてささやかな抵抗であった。

 

 <2>

 

 この地にラムド国が興ってから五百年余り。王都アルトリア北に聳え立つ王城も、それと同時期に建てられた国内で最古の建造物である。

 四方を深い森林に囲まれた丘陵地帯に建てられているので、普段はこれら自然の織り成す地形に守られている形となる。

 城の正門から市街地にかけて、これら丘陵地帯を横切るかのように石橋が整備されているため普段の交通には何の支障もなく、有事の際は橋の両端に設けられた門を閉ざすことによって、敵の攻撃に対する強固な守りと化す。眼下に広がる深い森林地帯は侵入者の方向感覚を狂わすのみならず、これら数多の木々は攻城兵器の持ち込みを妨げる絶好の障害となっている。

 このような高い実用性を有しながらも、その姿は麗容そのものであり、外壁を構成する純白と尖塔の屋根を彩る紫がかった深い青色は、眼下に広がる緑の中において一層際立っていた。木々の葉が紅く色づく秋や、新雪の白色に染まる冬のなかであってもその美しさは一切損なうことなく、これら季節ごとの自然の変わりようによってまた別の彩りを演出していた。

 美と剛が両立する王城にも朝が訪れた。森の木々より立ち込め裾野を悉く覆い隠す朝霧は、城をまるで雲上に浮かんでいるかのように錯覚させた。そして、その姿もまた麗姿にして麗容。もし、その姿を遠方より見る者がいたとしたら、その幻想的な姿に陶然と魅了されていたことであろう。

 そんな王城の一室、その窓より眼下に広がる雲を模した朝霧をぼんやりと眺める者がいた。

 身体に密着した白いシャツに赤茶色に染めたズボンという軽装であった。そのため、胴から腰の辺りは緩やかな曲線を描き、胸は形の良い膨らみといった体の輪郭がはっきりと見て取れた。

 艶を帯びた長く黒い髪は、そのまま背中へと流されている。

 女であった。宮廷婦人のような豊満さとは無縁でこそあれ、その引き締まった肢体は健康的な魅力があった。

 暇を持て余しているのだろうか。その左手は腰に巻かれた帯に吊るされた剣の柄をもてあそんでいる。

 女の名はアイリ。ここより遥か南にあるラズリカに駐屯する騎士隊に所属している騎士見習い。

『聖石の巫女』を志す盟友クオレの要望により、北の最果てにあるルインベルグ大聖堂への旅に相棒であるアイザックとともに同行したものの失敗。大きな損害を受けて、まさに這う這うの体で帰還を余儀なくされたのである。

 それが、一年前の出来事。

 彼女は眼下に広がる濃霧を眺めながら、当時を思い起こしていた。

 巫女を創りあげる儀式の真相──いや、それは儀式と称するのもおこがましい非人道的な行為を。

 その内容とは、新たな巫女の魂を『聖石』を介して『魔孔』への生贄とし、空となった肉体にかつて生贄とされた先代巫女の魂の残滓を憑依させることによって一時的に『魔孔』を封印させる能力を付与するといったもの。

 要約すれば『魔孔』が封印されている『時間』を巫女の魂で買うといったもの。まさに悪魔の取引と言っても過言ではなかった。

 それを知ったアイリはアイザックとともに儀式とは名ばかりの取引の場を妨害。クオレの救出にこそ成功したものの──儀式を円滑に進めるためであろうか──全身を麻痺毒によって侵されていた状態であった。その際、アイリとアイザックは取引の仲介人である大聖堂の高僧を殺害。満身創痍の身体を引き摺って南北の境界線を抜け、何とか王都アルトリアへ保護を求めたのである。

 保護の申し出は、言わば賭けであった。

 歴代の巫女の護衛は正規の騎士が担うのが慣例とされている。しかし今回、旅の護衛として指名したのは、本来は正規の騎士にはなれぬ平民の出であるアイリとアイザックであった。ゆえに、慣例に外れた今回の旅は、表向きには宮廷非公認のものとせざるを得ず、ゆえに旅の結果責任も宮廷は与り知らぬのもとして、保護は受けられぬ公算が大きかったのだ。

 ──だが、予想に反して保護は受け入れられた。

 理由こそ明確に示されたわけではない。だが、恐らくは国王の遠戚筋にあたる養父オルク卿の力が働いたこと。そして、自分達が知ってしまった巫女の真相──その情報の扱いに宮廷も苦慮しているものと思われた。

 内容の善悪に関係なく巫女は『魔孔』に対抗する唯一の手段である。民にとって唯一縋ることのできる希望であることには変わりはない。そのような民の脆弱な心を揺るがしかねぬ大醜聞を知る人物を野に放つわけにはいかないのだろう。

 それだけではない。

 ルインベルグ擁する北教区と、宮廷のある南教区は対立関係にあり、今回二人が握った情報は言うなれば、今後の南北関係を優位に進めるための絶好の切り札を南教区が握ったに等しく、アイリたちの保護は南北問題に熱心な宗教色の強い貴族家からの口添えによるものである可能性が高いと考えられた。

 まさに運が味方したと言えよう。

 しかし、アイリはこの幸運を喜ぶつもりになどなれなかった。

 今の自分達は様々な人たちの思惑によって生かされていると言っても過言ではない。そのような者達の心変わり一つで取り巻く状況は一変しかねない。最悪の場合、明日にでも社会的に抹殺される可能性もあるのだから。

 現在、アイリとアイザックの二人が置かれている状況は、言うなれば波の荒れ狂う冬の海上に浮かぶ一枚の薄氷の上に立っているようなもの。足元の波の気紛れ、空を吹き荒ぶ寒風の加減次第でいとも簡単に足場たる薄氷を破壊し、二人を極寒の海底へと誘うことだろう。

 それほどまでに今の自分達の立場は弱く、脆い。

 アイリは小さく溜息を吐く。

 ちょうどその時──彼女の耳に部屋の扉をノックする音が流れ込んできた。

 

「──相変わらず、浮かぬ顔をしているな」

 部屋を訪れたのは大柄の男。

 身に纏うは上質の召し物。筋骨逞しい肉体の上に纏われたそれは、引き締まるかのような印象と同時に、どこか気品めいた雰囲気すら醸し出されていた。

 貴族位にある者は、多くの者が騎士位を有し、日々努力と研鑽を積む毎日を送っているのが常。男性貴族の召し物は屈強な肉体の上に着けてこそ映えるよう意匠をこらされていた。

 だが、そのような気品極まりし胴体の上、首より上についている頭部、その顔たるや醜さの極地。刀傷の跡がいくつも目立つ醜面が衣服より漂う上品めいた気配を全て台無しとさせていた。

「城暮らしはお気に召さぬか。我が愛娘よ」

「いえ。滅相もありません」

 アイリは慌ててそう言い、苦笑いを浮かべる養父へと向き直った。

「北より逃げ延び、窮地にあった私たちを保護して頂いたことに感謝していることには変わりはありません」

「無理をして言い繕うことはあるまい」

 醜面の養父オルクはそう言って、言い繕うアイリを優しく制する。

「お前の思いは理解しているつもりだ。窮屈な思いをさせて悪いと思っている」

 アイリは僅かに頷くだけであった。

 保護された二人の生活は、傍目には何一つ不自由のないものであった。

 朝は騎士団と同じ剣の訓練を受けさせ、昼からはアイザックには絵の勉強を、アイリには歌の練習を受けさせるため、宮廷のなかでも屈指の実力を有した者を教師につけさせていた。

 昼餐や晩餐は宮廷の者との同席を許され、食するものも同じ上等なもの。夜間の自由時間における遊戯や語らいの場に至るまで徒や疎かにされることは一切なく、その日々は、まさしく本物の貴人であるかのよう。

 しかし、保護されてからこの一年間──アイリ達は外へ出ることが許されなかったのだ。

 この王城から一歩たりとも。

 二人は巫女の正体を知ってしまったのだ。巫女とは『魔孔』に住まう魔物たちによる偽善的な自作自演のために造られたものであると。

 長きにわたり巫女に依存してきた人々にとって、この事実がもたらされたとしたら恐慌は必至。

 それだけではない。番兵や街の巡回兵からの噂によると北から送り込まれたと思われる人物が王都や宮廷の周辺を嗅ぎまわっているという。

 そのような状況下で二人を軽々に外に出すことは保護する宮廷が許さなかったのだ。

 そう。二人が今置かれている境遇は退屈を紛らわせるための宮廷の配慮。退屈は人を自由への希求──外出の動機となるがゆえに。

 だが、それは例えるならば豪華に飾り立てられた牢獄。四方を石に囲まれた房、その一面にある格子を直視させ、おのれが囚人であることを自覚させないため、房内にあらゆる娯楽物、食や酒に満たしているようなもの。

 それはあまりにも歪。不自然極まりないものと言えよう。

 ゆえに養父は心を痛める。

 事実、ここに居続けさえすれば身の安全は保障される。この豪奢で広大な王城のなかで、何の苦労もなく絵画や歌、剣の訓練などに徹底的に打ち込められよう。没頭できよう。

 見る者にとっては、まさに憧れの生活ともいえよう。これを苦にするなど極めて贅沢な悩みと言う者もいるだろう。

 だが、彼女は知ってしまったのだ。

 現実を──あまりにも奇にして酷な現実を。

 巫女の正体を直視し、その悪事を食い止めんと、アイザックとともに奮起し、足掻いたにも関わらず──クオレを助けだすのが精々。

 結局何も変えることができなかった。

 そう。彼女は現実に敗れたのだ。

 残酷な評価かも知れない。しかし事実、その悪を挫くことができなかった以上、騎士として敗北と同義。

 オルクは娘がその意味に気付いているはずと察していた。今まで面倒を見てきた孤児のなかでも最も出来の良い娘なのだから。

 ゆえに、顔にこそ出さぬが彼女は今、強い焦燥感に駆られているだろう。今すぐにでも外へと飛び出し、北の大聖堂に殴り込んでは諸悪の根源を全て潰して回りたいという衝動と戦っていることだろう。

「それに、お前達の行動が全て無駄に終わったわけではない。数こそまだ少なくはあるが、一件によって巫女儀式の事実が外に漏れたのだろう。巫女制度に疑問を持つ者も出てきているそうだ。中にはそれを積極的に喧伝して改革を煽っている者達もでてきていると聞く」

「それは先代巫女の護衛を担った、元王都騎士団の者達だと思われます」

 アイリは忌々し気に吐き捨てる。

「私たちの行動を自らの政治的発言のために利用しているのでしょう」

「利用──か」

「彼らの目的は巫女制度の破壊。本来ならばそれに代わる『魔孔』対策を構築してから廃止に追いやるのが筋であるべきところ、彼らはその筋道すら描かずして目的を達しようとしているのです」

「なるほど」

「同じ巫女制度を否定するにしても、これだけ手法が違えば共闘することもできぬであろうな」

「巫女制度の存在をこのまま許しておくことなどできません。しかし、だからと言って彼らのような人間をのさばらせておくわけにもいきません。ですから──」

「アイリよ」

 養父は姿から似合わぬほどに穏やかな声でそう言い、焦りを色濃く浮かべる愛娘を制した。

「そのような後先考えぬ連中の活動など、対案となる現実的な方策──巫女へと変わる『魔孔』への新たな対抗手段を持たぬ以上、いずれは行き詰まりを見せ、やがて立場が危うくなるはず。さすれば彼らを支持してきた者達の心も離れるというもの。私はその後こそが肝心であると思っている」

 そう言うとオルクはアイリに向かい、更に続けてこう告げた。

「明日より行動に移すぞ」──と。

「──!」

「その時、お前の言う通り『魔孔』の魔物と対抗できるほどに強固となった騎士団が準備できれば、元護衛の騎士より離れた民の心を掴むことは容易となる。では、今の我々が為すべきことは一つ。奴らが粋がっている間に、水面下で準備をしておくことに他ならぬ」

「父様! では……」

「お前ももう、我慢の限界だろう?」

 養父はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「先日、南北境界線付近に存在する集落の長より、騎士団へ救援の要請が届いた。要請によると『聖皇庁』と名乗る武装勢力が現れ、白昼堂々と女児を浚って廻っているそうだ。その対策のため、一部隊を派遣しようと考えている。そこでお前はアイザックとともに、その部隊に応援として同行し、彼らとともに対策に当たるのだ」

「よろしいのですか?」

 アイリは喜びつつも、困惑めいた表情を見せる。

「私とアイザックは北の大聖堂が行った不正を垣間見た生き証人。宮廷は北教区との政治的な駆け引き──その切り札として私たちを保護しているのではありませんか?」

「あれから一年。そろそろ、その切り札の存在をチラつかせる時期に差し掛かったのだよ」

「チラつかせる?」

「『聖皇庁』とは、巫女制度を保持する北の大聖堂を信奉する団体。一年前にクオレへの巫女儀式に失敗したことによる大聖堂の権威失墜を恐れるあまり、代わりとなる巫女を急造するため各地より女児を浚い続けているのだとか」

「なるほど──大聖堂側の連中ですか」

 アイリは得心して頷いた。

「奴らにとって私とアイザックは──信仰の都合上、排除すべき存在であるはず。それを逆手にとるというわけですね」

「まるで寄せ餌とするみたいで悪いが、こうでも言わぬ限り宮廷の連中は納得してくれぬのでな」

「構いませんわ」そう言い、アイリは笑みを浮かべる。

「奴らを誘き寄せて一網打尽にし、一刻も早くその集落より脅威を取り除くには最適な手段、人選だと思います。窮地にある民を守るのは騎士の本分。可能な限りの手を尽くすのが当然です」

「無事に奴らを集落より排除できれば、その情報は必ず大聖堂の連中の耳に入ることとなろう。討伐隊のなかにアイリやアイザックの姿があったとなれば、奴らへの最大級の牽制となるし、そして何よりも民に騎士団の存在を改めて示すこともできる。こういった地道な活動による民からの求心力増強が後々の大事な場面で効いてくるのだ。言わば、お前たち二人が書いた脚本による大聖堂への反撃と、その序幕となろう」

 その時、養父の表情が険しき色彩を帯びたものへと変ずる。

「最初の『魔孔』復活阻止の失敗、そして、今回の旅の失敗。リュートの街における功績を差し引いても現在、宮廷におけるお前たち二人の評価は厳しいものと言わざるを得ぬ。恐らく最後の挽回の機会となろう──しくじるなよ」

「ええ」女騎士の表情が引き締まる。「心得ております」

「これをアイザックにも知らせたかったのだが──先ほどから探しているのだが見当たらぬ。絵画指導の時間は終わっているはずだから自室にいるものと思っていたのだが」

「アイザックならば今頃は中庭にいるはずです。クオレに稽古をつけるために」

「──稽古だと?」養父は驚き、思わず素っ頓狂な声をあげた。

「あの娘は毒が抜けて自力で歩けるようになって二月と経っていなかったはず。そんな状態で稽古をつけるなどアイザックめ、とんだ無茶を……」

「いいえ、父上。今回、アイザックに稽古を乞うたのはクオレでございます。アイザックはむしろ彼女の熱意に圧され、折れた格好。どうか叱らないでやって下さい」

 俯く養父に、アイリは言った。

 真剣な眼差しで、訴えかけるかのように。

「昨年の旅において最も心身を傷つけられ、辛酸を舐めたのは彼女──かつての巫女候補であったクオレ本人にございます。大聖堂への反撃は私とアイザックのみならず、彼女の三人の手によって行わなければ意味を成しません。父上。明日からの任務、どうか彼女の同行もお許し下さい」

 

 <3>

 

 泥濘んだ地面に雫が二、三つ滴り落ちる。

 数瞬の後、雫の染み込んだ土は何者かの足によって踏み固められ、靴底より泥水が染み出してくる。

 革製の靴であった。子供か女性のものと思われる小さな靴。その上に続くは白く、か細い脚を覆い隠す衣服の裾。

 白を基調としていると思しき衣服は撥ねた泥によって黒く薄汚れ、肩のあたりで切りそろえているであろう髪は乱れていた。

 髪の先端が触れている肩、そしてその下──淡く膨らむ胸は激しく上下しており、その者が今、極度に消耗した状態にあることが伺える。

 常人ならば顔を上げることすら不可能であろう。だが、この者は──いや、この少女はそれを可能としていた。

 正面を睨みつける眼差しは、年端もゆかぬ少女とは思えぬほどに強くぎらついており、その様はまるで餓えた豺狼の如く、戦意に満ちたものであった。

 だが、強いのは眼差しのみであった。疲労ゆえか顔中にはひどい発汗が見られ、顎先や鼻の頭より絶えず汗が滴り落ちている。

 疲労の色は顔だけではない。右手に握られし短剣、その切っ先は手の震えが伝播して細かくカタカタと揺れている。瞳に込められし強い戦意を発露できるほどの力など、彼女には残されてはいなかった。

 少女とはクオレだった。かつては巫女の道を志し、北のルインベルグ大聖堂を目指した僧侶の少女。

 いや──『元』僧侶の少女と言うべきであろうか。

 その身を包むは、かつて纏っていた僧衣ではなく、聖職者ならば絶えず身に着けているはずの聖印は今、彼女の首に下げられてはいなかった。

 そして、彼女の右手に握られているのは、僧兵などが好んで用いる槌鉾や戦鎚といった鈍器の類ではなく短剣。

 教団は肉体とは神が創造し現世にもたらしてくれた魂──命を現世に留めるための聖なる器と定義。その聖なる衣を徒に傷つけ、流血を促しかねぬ忌まわしきものとして、信徒が武具としての刃物を持つことを強く禁じている。

 今、クオレはその禁を破っている。僧衣を脱ぎ、聖印を外し、教団が禁じた武具を手にしている。

 彼女のこの行動。それが意味するものはただ一つ。

 そう。彼女は信仰を捨てていた。

 もともと熱心な信者であったわけではない。貴族と平民の間に生まれたがゆえに、母子ともども貴族社会からの容赦なき迫害より身を守るため、幼少の頃に教団に身を寄せただけに過ぎぬ。

 無論、守ってくれたことに対する恩義は今も感じている。

 しかし、自分から母を奪い人知れずその魂を『魔孔』への生贄とさせた。それだけに飽き足らず、その母を餌として真相を知らぬ自分をおびき出し、更なる生贄に仕立て上げようとしたのだ。

 毒を吸わせて全身を麻痺させ抵抗できなくなった自分を、『魔孔』の中枢より、魔物に食われ堕ちた残滓となった先代巫女である母の魂を召喚して──

 母の生存を信じ、巫女を志した自分に対するこの仕打ち。これを裏切りと言わず何と言おうか?

 幼少の頃より浅くこそあるが培っていた信仰心を吹き飛ばすには十分。

 替わりに、彼女の心を支えているのは復讐心。母を辱め、おのれを罠に嵌めようとしたルインベルグ大聖堂に対する怒りであった。

 しかし、今のクオレにその怒りを、復讐心を発露することは許されなかった。彼女はアイリと同様、巫女制度の真相を知る者。人道的、政治的の双方の理由で宮廷に保護され、同時に軟禁されている。

 ゆえに、今の彼女にできることは、治療に専念する傍ら、いつ来るかもわからぬ復讐の結実する日に備え、こうして武術の訓練に明け暮れることのみ。

 そんな彼女の正面に立ち、クオレの相手をしているのは甲冑を身にまとった一人の戦士。

 銀色の髪が印象的な青年であった。一見すると騎士然としてこそいるが、その甲冑の胸当てには身分や属する隊を表す文様の類など一切刻まれてはいない。騎士と言うよりは流浪の傭兵に近い姿であった。

 だが、その両の手に構えられし大剣、その刃より醸し出される業物めいた気配は、高名な騎士が所有する名剣のそれに酷似している。

 困憊の色濃いクオレに対し、彼は幾許かの余裕すら伺えた。短剣を振りかざし、繰り出してくるクオレの連続攻撃を、次々とかわしていく。

 初撃は一見、重厚そうに見える大剣で弾き、二撃目はその体術をもって、そして最後の三撃目は鎧の厚い部分に掠めさせて。

 その動作は正規の訓練を受けた者特有のそれ。

 正規に叩き込まれた武術。業物の剣。

 そして、みすぼらしいとも言うべき鎧姿。

 その姿たるや、例えるならば様々な色彩の布地を無造作に継ぎ接ぎ合わせたかのようなもの。凝らした意匠もなく、その上色彩の妙なども全く心得てはおらぬ、まさに粗雑とも言うべき様相。

 もし、心得ある者が見たとしたら、その不釣り合いな姿に首を傾げることであろう。

 その戦士とはアイザックであった。

 アイリとクオレとともに期待の大聖堂を目指し、同じく巫女の真実を垣間見て、敗走を余儀なくされた騎士見習い。

 彼の所有する剣は、その際に先代巫女の護衛である元王都騎士隊の者達に押し付けられたもの。

『巫女の儀式をぶち壊し、高僧の一人を殺め、巫女制度に一定の打撃を与えたことによる報酬』として。

 不本意な報酬であった。だが、その時は激戦を繰り広げらた直後、矢尽き剣折れの状態とあってはそれに縋るしか選択肢はなく、武具そのものの使い勝手の良さや途中で買い換えるほどの経済的な余裕のなさもあって、なし崩し的に使わざるを得ぬ状態にあった。

 かつて彼が愛用していた片手半剣──バスタード・ソードよりも刃渡りの長い剣。その重さと長さゆえに以前のように片手で扱うことはできず、間合いや、剣を振る際に込める力の加減も何もかも違う。かつてのような力加減で奮えば、その遠心力によって体の軸はぶれ、十分な威力は発揮できぬばかりか、その状態より立て直す数瞬の時間が相手に大きな隙を見せてしまう。

 両者は一見似ているようで、使い勝手に関しては全く異なる厄介な代物であった。

 だが、アイザックはこの新たな武具による剣術を、旅より帰還してより一年間。自らに課した訓練によって体得しつつあった。

 この暴れ馬の如き大太刀を、絶えることなき努力と研鑽によってねじ伏せつつあった。

 その努力の根底にあったのは悔恨。全ては北のルインベルグ大聖堂からの敗走──その悔しさと怒りゆえ。

 そして、彼もまたアイリやクオレと同様、宮廷に保護されている状態にある。その窮屈な状況に身を置くゆえに希求する自由への渇望が、姿かたちを変えて彼を訓練の日々へと駆り立てていた。

 そのような苛烈な努力を積んできた者が、つい二月前まで寝たきりの状態にあったクオレが敵うはずもない。

 これはむしろ、言うなれば彼女の更生であった。長きに及ぶ治療のなかで低下した体を鍛えなおし、再び彼女を戦える状態へ回復させるための。

「今日はこのくらいにしておこう」

 アイザックが訓練の終了を宣言し、構えを解いた。

 しかし、対峙するクオレはそれに従う様子はなかった。構えを解こうとはせず真正面に彼を見据え、その美しい青き瞳で続行を訴えかけている。

 控えめな彼女が時折見せる頑固さが今、顔をのぞかせていた。

 十四年前に生き別れになった母と再び会うために巫女の道を志し、その最中に先代巫女である母の死を知り、そればかりかその尊厳すらも蹂躙されていたのを知ったのだ。

 まだ二十年とて生きておらぬ彼女にとって、この現実はあまりにも苛烈な仕打ち。

 今、彼女の胸中を支配しているのは──母の死、その死の尊厳を取り戻すこと。この一点に尽きていた。

 クオレは今、必死に前へと進もうと足掻いていた。

 母を思うがゆえに。

 しかし、そんな決死の覚悟を固めた友を見て、アイザックは小さく溜息を吐いた。

 見れば、彼女の脚は震えていた。いくら強い気持ちがあろうが身体とは正直なもの。体力は既に底をつき、今やその身体は悲鳴を上げている。

 

 

「これ以上は身体に毒だ。今日のところは休むんだ」

「──ですが!」

「気持ちはよくわかる。しかし、剣技というものは身体の重心をぶらすことなく繰り出してこそ威力を発揮するもの。これ以上、そんな力の入らない状態で続けても身体に変な癖をつけてしまい却って上達の阻害。事態を後退させるだけだ」

「わかりました」

 事態の後退──この言葉がクオレに納得を与え、構えを解かせる。

 表情こそ渋々といった様相。だが、反論の言葉を口にすることはなく、素直に彼の言葉に従った。

「では、戻りましょう」

 その口ぶりたるや、まるで自分に言い聞かせているかのよう。

 この素直さこそが彼女の反省の証、成長の証左であった。

 ルインベルグ大聖堂での修業の最中、先代巫女の元護衛に襲撃を受けた時──必死に修行の中断を提案していたアイザックやアイリに対し、彼女は頑なにそれを聞き入れなかったのだ。

 その結果、クオレはあの悪魔の儀式への生贄とされかけ、十月もの時間を病床に臥す羽目となってしまった。

 いくら母との再会という希望を目の前に吊るされていた状態、冷静な判断がつかぬ状況下であったとしても、仲間に迷惑をかけてしまったのは事実。その責任の重さたるや計り知れぬ。

 這う這うの体でこの王都へ帰還した後、長きにわたる療養の最中、寝台の上に寝転び、言うことの効かぬ身体で苦心を覚えながら、どれだけおのれを責めたことだろうか。

 クオレは猛省のなかで思い知った。

 希望とは所詮、おのれの遥か遠くに存在する夢や幻に近きものであるのだと。希望を抱くことは悪ではない。だが、それに縋るあまり現実を疎かにしてしまったこと。仲間からの忠告という、すぐそばにあったはずの現実を見ようとはしなかった。これが自分の敗因であるのだと。

 そう。彼女は今、本当の意味において仲間の大切さというものを痛感していた。

 次は──次こそは。そう、クオレは思う。

 同じ轍は踏まぬ、と。

 クオレはアイザックの横に並び、城内へと戻ろうとした。

 その時だった。人の声が二人の耳朶を打った。

 正門の方向。複数人からなる騒ぎめいた物音。

 王城は王都より離れた丘陵地帯の上に聳え立っている。城で働く者達、あるいは王との謁見を目的とした者でなければ、人が訪れることはない。本来、このような騒めきとは無縁の場所。

 それゆえに、この騒ぎは非常事態であるということの証左。

 不審に思ったアイザックはクオレに言った。

「──俺が行こう。クオレは父さんとアイリを呼んできてくれ」

「はい。わかりました」

 二人は訓練の疲れを忘れ、それぞれ別々の方向を目指して歩き出した。

 <4>

 

 全身に傷を負った少女が吹き荒れる雨風の中を歩いていた。

『聖皇庁』に拉致された少女であった。

 彼女はルインベルグへ拉致される最中、南北境界線での検問の隙を見て逃げ出してきたのである。

 全身に刻まれた傷は、逃走の最中でついたものであった。

 背中の刀傷は逃走に気付いた『聖皇庁』の者に切り刻まれたものであり、その脚や腕の裂傷は『魔孔』によって変異した獣魔によって噛まれたもの。

 今は雨季の只中。強烈に打ち付ける大粒の雨が地面の土を跳ね上げ、吹き荒ぶ風がその泥を撒き散らしていた。それは創傷の止血を妨げるばかりか刻々と悪化させた。しかし、生存への意志は一時たりとも萎える事なく、徘徊する魔物と遭遇すれば、傷口に激痛が走るのを無視し、困憊する肉体に鞭打って走って逃げ、走って逃げを繰り返し、おのれの限界を超えて歩を進めていた。

 昼夜問わず獣魔の襲撃と雨風に苦しめられた。ゆえに一時たりとも休息の許されぬ過酷な逃避行が三日三晩続いた。

 そして、拉致された日から数えて四度目の夜。娘は揃って王都の地を踏んだ。

 救出の手はすぐに現れた。

 彼女に救いの手を差し伸べたのは、王都で宿屋を経営している主人の男であった。

 食材の補充のため外出していた最中、行き倒れとなった少女を見つけたのである。主人は恰幅の良い初老の男で暴徒に襲われたという事情を知るとひどく憐れみ、娘が金目のものを持たぬにも関わらず、休息の場の提供を申し出てくれた。

「だが、部屋は狭いぞ。あいにく今晩は部屋が全て埋まっているゆえ、暇を与えた住み込みの者の部屋を使わせてもらおう。それでも寝床は疲れた体を癒し、活力を与えてくれるであろうし、この雨風もしのげるはず」

 そう言って主人は娘に肩を貸し、おのれが羽織っていた雨具を彼女に着せてあげた。王都アルトリアはラムド国で最も人の集まる街。交易の盛んな土地柄という事情も手伝ってか、宿屋の主人ともなると彼女のような異邦人の類には極めて慈悲深くあったのだ。

「ありがとうございます」

 体を主人に預けた少女は絶え絶えの意識のなか、何度も何度も礼の言葉を述べた。

「礼など無用、それより養生なさることだ。見たところ背中の傷が深い。確か、今宵の客のなかに傷の検分のできる方がいたはずなので、その怪我を診ていただこう」

 主は娘に身体を預けられるのを苦とせず、優しく声をかける。その善意に少女は胸を打たれた。身の安全を悟って心が落ち着いたのか、過酷な道行きの緊張が途端に緩んだ。想いはたちまち溢れだし、少女は堪らず咽び泣いた。

 目の前で殺された母を何度も何度も呼び続けて。

 突然の感情の吐露を見て、主人は彼女が抱えるおおかたの事情を悟った。

「体と心の傷が癒えたら、この都で新たな生活を始めると良い」

 主人は言った。

「その時はうちの店で仕事をしてくれないか。アルトリアの宿場は連日交易商人で賑わい過ぎるあまり、どこも働き手が足りぬ。君が来てくれれば、他の働き手にも十分な休息を取らせることができるし、老体に鞭打ってきた私も少しは楽ができるというものよ」

 娘は涙を止めて「はい」と気丈に答え、頷いた。

 ここにきて、遂に気力が尽きたのか、少女は主人に肩を借りた姿勢のまま、まるで眠るかのように気を失った。

 

 だが、現実の非情さとは、往々にして弱き者へと牙を剥く。

 もしも、雨風吹き荒ぶこの場所を見張る者があったなら見たであろう。物陰に隠れながら、少女の周辺を嗅ぎまわる一団の存在を。

 その先頭は武装した若い人間。北より派遣された狂信者。大聖堂の命により、保護されているアイザックら三人の殺害のため宮廷周辺を嗅ぎまわり続けてきた男であった。

 天然の要塞たる丘陵地帯に聳え立つ王宮への侵入は容易ではなく、この王都に留まって支給された路銀を食いつぶしながら、来るかどうかもわからぬ機会を伺っていた。

 そして今宵になって王都を襲った豪雨。この雨風の中ならば、城の警備は薄くなるかも知れぬと踏んで、改めて偵察のため夜の王都へと繰り出していた。城内への侵入こそ叶わずとも、荒天時の警備体制を調べるには絶好の機会。外出するには十分にして余りあるほどの理由であったのだ。

 そんな豪雨降りしきる夜道で、彼は少女を見つけた。

 老人に担がれた少女の姿を。

 夜の闇で仔細はわからない。だが、その引き摺るかのような弱々しき歩調から見て、一目で手負いであると知れた。

 街の外を徘徊する魔物によって負わされた傷であろうか?

 しかし、男はその可能性を即座に否定した。

 その根拠は、一瞬だけ雲間より月光が差した際に、男が見た光景にあった。

 少女が背に羽織った外套の表面、右肩から左の脇腹に至るまで滲んでいた血。

 それを見た男は、この出血を刀剣類によってつけられたと思しき傷によるものであろうと悟った。

 この辺りに生息している魔物は、ゴブリンやコボルトといった小型で貧弱な魔物がほとんどであり、これらの魔物が用いる短剣ごときではこれほどまでに長く深い傷をつけることは不可能。

 人の手による創傷であると知れた。

『魔孔』の封印が解け、魔物が跋扈する今、街の外で盗みを行う野盗は碌に活動できぬ。それ以外の集団に寄るものと考えるのが自然。

 それを悟った刹那、男は思わず口元に笑みを浮かべていた。

 この常軌を逸した状況、その真相に心当たりがあったがゆえに。

 恐らくこれは『聖皇庁』の仕業。何らかの理由によって拉致され、逃げ出そうとしたところを背中より斬られたのだろう。

 そう、男は判断した。

 判断するや、男は今日の行動、その方針を変えた。

 標的はあの少女。『巫女』となるべく栄誉を捨て、事もあろうか逃げ出すという暴挙に出た愚か者を粛正せねばならぬと思い至って。

 そう。彼は北の大聖堂の僧侶。『聖皇庁』の熱狂的な支持者でもあったがゆえに。

 ──こうして、襲撃は実行された。

 国内で人口の最も多い王都と言えども、街の外門近くの場末。豪雨降りしきる夜とあっては人の往来など皆無。

 相手は手負いの少女と老人。殺傷は容易であった。

 もしも、この場所を見張る者があったなら聞いたであろう。たちまち辺りに湧きあがった悲鳴を。

 そして、狂気を帯びた男の雄叫びを。

 明け方、雨雲が晴れてようやく東の空が白みはじめた頃、夢現の中で聞いた物音に不審を覚え、床より這い出た住人の一人が何気なく家を出た。そして、家の前に広がる──両眼に映った凄惨な光景に、その住人は大きな悲鳴をあげた。

 

 <5>

 

 王城の正門に現れ、騒ぎを起こしていたのは一人の兵士。

「先ほど、住民の報告を受けて駆けつけたのですが、まさに修羅場の跡の如き様相。昨夜が豪雨であったにも関わらず、そこら一帯は血の海と化しておりました」

 街の巡回兵と思しき男であった。

 気丈に報告をしてはいるものの、嘔気を堪えているのか顔面は蒼白。その姿が、彼の語る言葉以上に現実の凄惨さを物語っていた。

「死者は三名。一人は少女。胴より首と両腕が切断されている状態にあり、辺りの出血の大半はその遺体からのものと思われます。一人は老人。王都の西端付近にて営まれている宿屋の主人にございます。彼は左腕を切断され、左胸を剣で貫かれた状態にありました。だが、最後の気力を振り絞って抵抗したのでしょう。その老人は兇徒と思しき者に馬乗りとなり、残された右腕一本でその首を締め上げた状態で息絶えておりました」

「では、その兇徒とは?」

 オルクを伴い、遅れてやってきたアイリがその兵士に尋ねる。

 報告より、状況を想像してしまったのだろうか。その顔色は悪い。

「その老人に首を絞められた状態で息絶えていたのが、その兇徒。鎖帷子で武装した男にございました。腰に空の鞘を佩いていたところから見るに、老人の胸を貫いた剣こそが彼の所有物。ゆえに少女や老人は彼の手によって殺害されたものと見て間違いはないでしょう」

「そいつはいったい何者なのだ? 宿屋の主人など襲ったところを見ると物取りが目的とも思われるが、それならばその少女を、それほど残忍な方法で殺める意図が分からぬ」

「オルク卿のおっしゃる通り、我々も奇妙と思い至り、彼の所有物を探しましたところ」

 そう言うと、兵士は懐より一枚の血に濡れた羊皮紙を取り出し、差し出した。

「──このようなものが」

「これは……」

 醜面の好漢は思わず僅かに目を瞠った。

 そこには奇妙な文様が描かれていた。教団の象徴を彷彿させる意匠のようにも見えるそれは、まるで表面の粗い羊皮紙などに記すには相応しくはないほどに、細かく豪奢な装飾の描写が施されていた。これらは中央に描かれた文様の周囲に幾重にも幾重にも描かれており、左右には金糸や銀糸、宝珠で装飾された天使の翼が十枚を遥かに超え、天上には豪奢な冠と光輪が描かれており、それはまるで神を象徴しているかのよう。

「これが噂に聞く『聖皇庁』の紋様か」

 オルクは羊皮紙より視線を外し、言った。

 これほどまでに派手派手しく緻密な描写は、中年を通り越して初老の域に入ろうとしている男の衰えた目には疲れる代物であったのだろう。

「最近、王都や王宮周辺を北の者と思しき人物が嗅ぎまわっていると噂されていたが、これではっきりとしたな」

「……私たちのことを探していたようですね」

 クオレが呻くかのような声を発した。

「なるほど。巫女の事実を知った私たちを狙うほどに北の思想に心酔しているのならば、当然『聖皇庁』の思想にも同調して然るべき。では、被害者は新たに巫女とするべく攫われそうになった少女といったところでしょうか」

「いえ。今のところ王都ではそのような拉致被害に遭った者の報告は受けてはおりません」と、巡回の兵士。「少女の遺体を検分しましたところ、致命傷となった首の傷より幾分古い、治りかけの刀傷が背中に一筋。それから察するに、どこかで手傷を受けた後、この王都まで逃れてきたものと思われます」

「では、別のところで拉致されかけたところを、命からがら逃げだしてきたということかしら?」

 アイリが眉根を顰め、言った。

「そんな年端もいかない少女が単身で街の外からやってくるなんて、今ならば魔物に追われるよりも『聖皇庁』の連中から逃げてくる人のほうが多いくらいなのだから」

「──だとしたら不幸な話よ。逃れた先で、また別の『聖皇庁』の奴らに見つかってしまうとはな」

「北の連中め。いくら巫女を用意せねばならぬとはいえ、これでは形振り構わずではないか」

「おおかた、巫女儀式の真相を広められる前に『魔孔』を封じて人々の支持を固め、批判そのものを封殺したいのであろうさ」

 いつの間にか門扉に集ってきた宮廷の野次馬たちより、次々と声が上がる。

 これらの声を背で聞き、アイザックは小さく呟いた。

「俺たちがこんな場所で──いつまでも燻っていたばかりにな」

 口を突いて出たのは、不甲斐ない自分を責める言葉。

「そうでなければ、あんな奴ら──王都に蔓延らせてなどいなかったのに」

 誰にも聞こえぬような声で吐き捨て、そして一瞥する。

 養父が手にする羊皮紙に描かれた、神を象徴する聖印を過剰に飾り立てるかのような絵を。

 ──心得のある彼は類推する。

 このような絵をおのが団体の象徴とするような連中の心理を。

 異常なほどの装飾は、拉致や殺害に対する大罪の裏返し。神を過剰に飾り立て、おのれが篤い信仰者であると思い込む。神託があって、これらの行為に及んだのだと思い込むことによって、おのれの罪の重さと良心の呵責から逃げているのだろうと。

 しかし、冷静な目で見れば、これらの行為は──全ての罪を神に擦り付け、勝手に各々が自分に許しを与えているだけに過ぎぬ。

 拉致は拉致。殺害は殺害である。その重さは如何なる理由があろうとも軽減されることなどない。

 そのような矛盾に気付かないからこそ、奴らはこうして飾り立てるのだろう。

 心の拠り所。逃避先である神という存在を。

 罪の重さゆえに、その装飾は過剰にして異常なほどに積り重なっているのだ。

 アイザックは、この絵に込められた狂気の匂いを嗅いでいた。

 独特の甘さを伴った匂い。胸焼けを起こすかのような腐敗臭の如き臭気を。

『魔孔』より這い出てくる魔物どもが可愛く見えてしまうほどに醜悪にして歪。

 人間とは、これほどまでに下劣になれるものなのか。

 そして、そんな連中をいつまでも蔓延らせて良いのだろうか?

 ──良いはずなどない。

 国を蝕むほどまでに成り果ててしまった新たな病巣。これを取り除かぬ限り、いかに『魔孔』を封じることに成功しようとも、このラムド国に安寧など決して訪れぬ。

 脅威の芽は摘まねばならぬ。

 願わくば、この状況を作りあげてしまった遠因たる自分達の手で。

「報告、大儀であった。少女と宿屋の主人の亡骸は丁重に弔え。この件は騎士団の預かりとする」

 そんなアイザックを余所に、醜面の騎士は巡回兵にねぎらいの言葉をかけていた。

 敬礼のあと、正門より去っていく兵士の背を見届けながらオルクは血の繋がらぬ子供たちに向けて言った。

「迂闊であった。『聖皇庁』の下劣さを軽視するあまり、ほとぼりが冷めるまでの間、お前達を匿いさえすれば良いものと思い込んでいた。奴らの跋扈を知っておきながら、刺激するのは下策と思い、積極的に対策しようなどと考えなかった」

 それは反省の弁であった。

 殺された二人に思いを馳せているのであろうか。醜い顔は苦悩によって更に醜く歪み、その手は悔しげに拳を握りしめる。

「しかし、思惑は全て裏目。結果、罪なき民の命が失われてしまった。この一件は民を守るべき騎士団の沽券に関わる致命的な失敗。これを挽回するには『聖皇庁』の連中を追い詰め、責任を負わせねばならぬ」

 オルクは控える継子の名を呼んだ。

 後悔の念と、無力感に苛むアイザックとアイリの名を。

「数日後『聖皇庁』討伐のための隊を出す。お前達もその隊に参加させようと考えているので、準備をしておくように」

「──父上。よろしいのですか?」

「確かに、お前達は正規の騎士ではない。だが、隊の補助という名目であれば同行は可能であるし、補助人員の運用は隊に一任(・・・・・・・・・・・・)されている──この意味、わかるな?」

 その言葉に、二人だけではなく──クオレの表情までもが晴れやかなものへと変じた。

「お前達を政治的に利用しようと考えていた宮廷の上層部は文句を言うであろうが、実際の被害を目にした以上、もはや漫然と機を待ち続ける訳にはいかぬ。北の大聖堂の暴走──『聖皇庁』による非人道的な行為の被害拡散を防ぐためには形振り構ってはいられぬ。騎士団は民を守る組織だ。自ら打って出て害をなす連中を叩かねば、その存在意義は疑わしきものとなろう」

 三人は一様に頷く。

 彼らの覚悟は既に固まっていた。

『魔孔』への生贄も同然な巫女制度の真実を知っても、それを変えるために動くことのできぬ心理的な負荷。母親の存在を匂わせ、クオレを裏切り、生贄にしようとしていたことに対する怒り。『聖皇庁』による非人道的な行為に対する義憤。そして、北の大聖堂での自分達の行いを、自らの政治的主張に利用しようとしている先代巫女の元護衛騎士たちに対する嫌悪感。

 この一年間、そんな募り続ける不平不満の発露すら許されなかった。その様は、まさに檻に入れられた闘争心剥き出しの獅子の如し。

 怒り猛る獅子にとって、まさに地獄のような日々であったのは言うまでもない。

 若人の怒り、我慢は限界を迎えていた。

 そんな猛る気高き獣を長く、長く閉じ込めて来た檻の扉が今、開かれんとしていたのだ。

 同じ怒りを胸に秘める老いた義士によって。

 こうして差し伸べられた救いの手を、怒りを発露する好機を逃す理由など、果たしてどこにあると言うのか?

 覚悟を固めた継子たちに、騎士の長は語り掛ける。

「騎士とは単なる身分を表すものではない。おのが信念と正義に従い、不正を正すため剣を手に戦うことのできる覚悟──それこそが騎士道精神の真髄。その身体に流れる血が平民のそれでしかなかろうとも、或いは貴人と平民の間に生まれていようとも、そして、長く信じ続けてきた信仰を捨てようとも関係はない。その心を、思いを貫いてさえいれば俺はお前達を騎士と認めよう。たとえ国が、宮廷が、王家が認めずともな」

「ええ」

 養父の激励の言葉にアイリが笑顔で応じた。

「そのお言葉だけで十分です」

 一年ぶりに見せる、心からの笑みであった。

 三人は空を見上げ、思いを馳せる。

 かつて、自分達が経てきた旅路を。

 ラズリカでは『魔孔』復活を看過してしまい、リュートの街での戦いにおいては時間を稼ぐのが精一杯な有様。

 そして、北の大聖堂においては言うまでもない。

 一度たりとも勝利と呼べる体験はなく、記憶にあるのは敗北と失敗だらけであった。

 我ながら嫌になる。それが率直な感想であった。

 だが、それでも自分達は生きている。傷つき、力尽きかけた果て、宮廷に泣きついた挙句、無様にも庇護下に置かれながらでも。

「──今日からまた、やり直すんだ」

 アイリは高らかに言った。

 生きているのならば、やり直すことができる。如何に不名誉で無様であろうとも、誰かに後ろ指を差されようとも──命さえあれば挽回することができるのだから。

「私は今も母さんのことを誇りに思っています。だからこそ、その死の尊厳と安寧だけは守りたい」

 次いで、クオレが控えめな声で言った。

 巫女の儀式の真実を知り、それが如何に汚らわしく、それにより今現在、その母の魂が『魔孔』の走狗へと成り下がり、娘である自分の魂を食らわんとしていたとしても、十四年前のあの決断──愛情は本物。

 自分を守るために巫女となったという事実には変わりはない。

 娘として、たった一人の家族として、その愛情に報いねばならぬ。

 いつの日か、母の魂を『魔孔』より解放すること。

 そして、この狂った巫女制度をなくすこと。

 それが今、心身ともに傷ついた彼女を衝き動かす原動力であった。

「自分が犯してしまった失敗だ。自分の人生のなかで片を付けるさ」

 最後にアイザックが宣言する。

 転生する能力を得たがゆえに、些細な失敗を苦に軽々に命を捨てるようになってしまったリュート。

 そして、政敵との戦いで優位に立つため、巫女儀式を利用して『魔孔』と契約を結び、転生する能力を得た北の大聖堂の高僧たち。

 彼の言葉は、そんな者達──転生者に対する反立(アンチテーゼ)であった。

『魔孔』が存在し、魔物が跋扈するこの世界。日々を無事に過ごすことのできる保障など、どこにも存在せぬ。

 死の概念は常におのれの隣、或いは背に張り付いているかの如き世界。事実、アイザックやアイリは幼少の頃『魔孔』によって真の家族を失っているのだ。

 だが、言い換えれば自分達の命は、そういった人たちの犠牲の上で成り立っている。

 彼らの死によって、自分達の命は繋がり続けている。

 ゆえに重いのだ。人の命というものは。人生というものは。

 多くの者の犠牲、死によって支えられているがゆえに。

 だからこそ、許すことができぬ。

 命を軽々に扱う、北の大聖堂の連中が。巫女制度というものが。

 そして、転生者というものの存在が。

「今に見ていろ」

 彼は呟いた。

 かつての失敗の日々を思い起こし、自分達を傷つけてきた者達の顔を思い浮かべて。

 声こそ小さくとも確固たる意志を込め、宣言する。

「反撃開始だ」──と。


 
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