No.871989

サヨナラの日

menocoさん

「ふたりのこと」 (http://www.tinami.com/view/870078 )

お母さんがお空にかえった夜のこと

2016-09-30 12:38:27 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:372   閲覧ユーザー数:372

「なんで!!なんでなんだ!」

 

いつも穏やかで稲穂のようなお父さんが、空気をも振るわせる大きな声をあげました。

 

「なんできみは、いつも…」

 

ワッと怒鳴った後、恐ろしい顔をくしゅっと崩し、今度はぽろぽろと涙を流します。

そのお父さんの眼下には、お布団に横になったお母さんがいました。

かつて、白い浜木綿を思わせていたお母さんは、痩せてしまい、

今では白より青い鈍色の深海魚を見ているようです。

 

「…なんも、」

「なんもなくないものか、なんも、なんも、なんて、そんなこと」

 

 

お母さんは昔から、「なんでもないよ」が口癖でした。

照れくさいとき、焼きもちをやいたとき、寂しいとき、苦しいとき、辛いときも、少し寂しげに微笑んで

 

「なんでもないよ」

 

と言うのでした。

お父さんはそのことをずっとずっと知っていました。

もっと正直になってほしいな、と少し悔しくもありましたが、

それがお母さんなんだと、どこか甘えた気持ちでいました。

でも、もうそんなものに目を瞑っておれなくなったのです。

 

 

「君の、本当の気持ちを教えてよ。どこが痛い、苦しい、

辛い、こわいって、ぜんぶぜんぶ教えてよ。ぼくは、わからないよ。

きみ…君に、なにをしてあげたらいいのか分からないよ。

ぼくは、ぼく、なにが…」

 

お父さんは、お母さんの小さくこけた手を、両手で握りしめました。

折れてしまうのではないかと思うくらい、ぎゅうっと強くつよく握りしめました。

 

お母さんは、ちょっとの間お父さんのことをほぅっと眺めていました。

その瞳は眠たげに霞みがかって、ぼんやりとしています。

でも、お父さんのことをしっかり写すと、温かさが宿りました。

そして優しく微笑んで、開いた方の手を、そっとお父さんの頬へと伸ばしまた。

 

「…ぁ」

「なんも、なくなってしまうんよ」

 

お母さんの指先はまるで氷のように冷たく、でも、羽のように柔らかでした。

俯いていたお父さんは、はっと顔をあげて、涙を流しながらお母さんを見つめます。

指が頬を撫でる、ゆっくりとした歩みに合わせて、お母さんは言葉をつづけました。

 

「なんも、…ないことは、ないけど、でも、あなた、それを、知ってるでしょう?」

「…」

 

「それだけ、それだけでいいんよ、なんも、なんもないって、

無かったことに、せんやろう?それだけで、わたし、

うれしいんよ、もうなんも、なくなるんよ」

「そんな、ぼくはいやだ」

 

「…あなたのなかに、わたしのこころ、あるとよ。

なんにもなくなってない。それで、いいの」

「きみはよくても、ぼ、ぼくは、分からないよ!」

 

「わからんでええ、いいっちゃぁ」

「いやだよ、教えてよ。君の、言ってること分かんないよ…」

 

お父さんはぐずぐずと、お母さんの前で肩を丸くして泣きました。

お母さんは笑みを崩さず、単調に、優しく、お父さんの頬を撫でています。

でも、その指先は触れているのかいないのか、分からないところにありました。

 

「…」

「…え?」

 

「だいすきよ」

「ぼ、ぼくだって、ぼくだってきみのことがすきだ、

 

だいすきだ」

 

 

お母さんの返事はありませんでした。

ただただ、しずかに微笑んでいました。

まるで、この晩の空に浮かぶ満月のように、白くしろく清らかなものでした。

 

 

おしまい。

 

 


 
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