No.866489

秒速5センチメートル(前編)

第二話で貴樹と花苗が付き合う話です。原作と大きく違うため、それが大丈夫という方のみ読むことをお薦めします。話は、花苗が貴樹に告白しようとするところからです。

2016-08-31 16:58:23 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:861   閲覧ユーザー数:855

 

 

 私は今日、遠野くんに告白すると決心したのに、やっぱりどうしても言えないよ…… 迷いなんてもうなくても、気持ちを伝えたくても言葉が出てこない。今日告白できなければ次いつ言えるというのだろう? このタイミングを逃したら、永遠に告白できないとはっきり分かってる。なのに……

 だからお願い遠野くん、あたしに一言でいい、『好き』と言わせて――

 

「澄田……俺はいつまでも待つよ」

 

 彼は突然優しく微笑み、私につぶやいた。まるで私の気持ちに気付いているかのように。

「遠野くん……」

 私は彼の言葉を聞いた瞬間、自分がとても恥ずかしく感じた。遠野くんが待ってくれているのに、何を言えずに戸惑っているのだろう…… 言うんだ、告白するんだ!

 この時、私は自分がこれまで生まれてきた中で最も勇気を出した瞬間だったと思う。自分でもどこにこんな勇気があるのか不思議なくらいだった。

 私は彼に向き直り、意を決した。

「遠野くん……あのね……あたし、遠野くんに出会った中二の時から……本当に……本当に遠野くんのことがずっと……ずっと好きでした。だからね……あたしと、付き合って欲しいんだ……」

 なかなか次の言葉が出てこなかった。まるで誰かに首を絞められているような感覚。それでも私は一言一言振り絞るように言葉を発した。おまけに私は告白している最中に泣いてしまった。壊れた蛇口みたいに涙が止まらなかった。ちゃんと告白できたのか、遠野くんにはっきりと気持ちを伝えられたのか、それすら分からなかった。ひどい顔をしていたかもしれない、恥ずかしいものを見せてしまったかもしれない……。それでも声に出して言うことができたんだ、それだけで私は胸のつかえが無くなったような気がした。結果はどうであれ、遠野くんが私に向き合ってくれただけで嬉しかった。

「澄田……」

 遠野くんは、嬉しいのか悲しいのか、それとも全く別のなにかが混ざった様な、はっきりと読み取ることができないような表情でつぶやいた。

 彼からの答えを聞くまでのほんの少しの間が、まるで永遠に時が止まったような、決して辿り着けない果てしない旅をしているような感覚に襲われた。怖い……怖いよ……聞きたいけど聞きたくない、早く過ぎ去って欲しい……ただひたすらに。

 そして遠野くんは再び優しく微笑み、私の瞳をまっすぐに見つめて言った。

「……うん……いいよ。付き合おう……」

 私はその瞬間何が起きたのか全く理解できなかった。付き合えればいいなとずっと思い続けてきたけれど、まさかそれが本当に叶うなんて夢にも思わなかった。

 私は嬉しさのあまり何も答えずに、いきなり彼に抱きついてしまった。体が勝手にそうしていた。でも遠野くんは私を引き離そうとはせず、母親が子供を慰めるように優しく抱きしめてくれた。

 私はくしゃくしゃになった泣き顔のまま、彼の顔を見上げ

「遠野くん……ありがとう。本当に嬉しい……嬉しいよ……私すごく幸せだよ」

 そう言って、またも何も考えずにいきなり彼にキスをしていた。今までの遠野くんに対する思いがすべて出たからこその行動だったと思う。遠野くんの気持ちも考えずに、突然こんなことしてごめんね。驚かせちゃったよね。でもずっとこうしていたかったんだ…… これが今の私のスキの気持ちだよ。受け取ってくれると嬉しいな……

 

――その時だった。夕闇に突如鳴り響く轟音。目の前がまぶしく光り輝く。今日打ち上げのロケットだった。空の彼方、大気圏を飛び越えて宇宙の先まで飛んで行く。まるで今の私の気持ちを代弁しているみたいに、これから未来に向かって遥かなる旅路に就くんだね。それになんだか私たちを祝福しているかのように感じたよ。

 私たちはその光景に驚いて、ロケットが飛んでいく空をただ見つめていた。そしてその時、私の目の前には遠野くんとの二人だけの世界が広がっているように思えた。誰にも邪魔されたくない、そんな世界。

 

 そして再び静寂が訪れ、夕闇が私たちを包み込む。

 私ははっと我に返り、自分がしたことがなんだかすごく恥ずかしく思えてしまった。

「あの……いきなり変なことしちゃってごめんね……」

「いや……いいんだよ」

 遠野くんは微笑んだままだった。

 

 そしてまた私たちは歩みを進めた。いつもの見慣れた帰り道。そんな帰り道が、普段と違ってすごく鮮やかでキラキラして見えた。とにかく色んな事を話したくって、でも頭も心も整理できなくて、そんなことをしているうちに私の家までは一瞬だった。本当に時間が止まってくれればいいなって思ったよ。

 私の家に着くといつものようにカブが駆け寄ってきて、心なしかなんとなく嬉しそうに見えた。私の気持ちに気付いているのかな? なんだかちょっと照れちゃうよ。

 そうして私は遠野くんとバイバイをして、彼の背中が見えなくなるまで見送り続けた。彼が見えなくなっても私はドキドキしたままで、その後もしばらくそこに立ち尽くしていた。

 少し気持ちが落ち着いてから家に入ると、お姉ちゃんが何かを察したように話しかけてきた。

「何かあったの?」

「べ、別に……何でもないよ」

 そう言って私は話をはぐらかした。だけど多分私の顔はおかしいくらいにニヤついていて、お姉ちゃんにはバレバレだったと思う。こんな表情私自身が見ても笑っちゃうんだろうなぁなんて思いつつ、嬉しさで心が一杯だった。

 

 ご飯を食べて、お風呂に入って、寝床に就いた。今日起こった事を改めて思い返してみる。

 最初に告白しようとして、でもできなくて、またもう一度ちゃんと遠野くんに私の気持ちを伝えられたのは、もちろん彼があの言葉を掛けてくれたからだ。あの言葉がなかったら絶対に告白なんてすることができなかったと今はっきり分かる。どんなに彼が好きでも、あの時の私は自分の口からはどうしても言葉が出てこなかったし、それ以上に出してはいけないと感じたからだ。

 私の勝手な想像かもしれないけど、遠野くんは私のスキという気持ちに気付いていたからああしてくれたんだっていうことでいいのかな? そうだとしたら今までの彼に対する行動が、ちゃんとスキとうい形で伝わってくれていたんだってきっとそう思う。私のしてきたことは決して無駄なんかじゃなかったんだね。

 今日という日を境に私と遠野くんは恋人同士になったんだ、これは夢じゃないんだと思うとすごく不思議な感じがした。告白によってこんなにも世界が目まぐるしく変わるなんて頭が付いてこないよ。

「まだ全然実感が湧かない……今日は寝られそうにないよ……」

 体が火照ってのぼせそうだった。そして私は遠野くんのことだけを考えながら眠りに就いた。

 

 翌日、遠野くんはいつもと変わらない彼で、いつもと同じように接してくれた。でも私はなんだかすごく恥ずかしくて、彼と目も合わせられなかった。普通は誰でもそんな風になっちゃうんじゃないのかなぁ? やっぱり遠野くんは不思議な人だね。

 そして遠野くんと付き合い始めたその日から卒業までは一瞬で過ぎていった。

 毎日が本当に楽しくて楽しくてどうしようもなかった。私の心はいっつもふわふわして全然地に足が付いていなかったし、すっごく浮かれていたと思う。夢見心地っていうのはこういうことを言うんだね。そんな私を見た周りの友達によくからかわれたりしたっけ。私のどこが好きなのかなんて、そんなことちょっと怖くて訊くことはできないけれど、遠野くんと一緒にいれる、それだけで私は満たされていた。

 彼から来るメールは、決して多くはなかった。それでも私はメールが届くたびにドキドキして、一言一言噛みしめるように心に刻み、何度も何度も読み返す。返信が来るまでの時間が、たった数分なのに何時間にも感じられたよ。わずか数十バイトしかないケータイのメールが、こんなにも待ち遠しく思えるなんてなんだかおもしろいね。ただの文字でしかないけど、それにはやっぱり人の気持ちが籠っているからだってそう思うんだ。たわい無い内容だけど、次はどんなことを伝えようか、どんな反応が返ってくるんだろうなんて考えるだけですごくウキウキして楽しかった。早く返信が来ないかなぁなんて思いながら、私は今日も遠野くんとメールのやり取りをするのだった。

 悩んでいた進路は、結局私も遠野くんと一緒に東京の大学を受験することに決めた。やっぱり遠野くんとずっと一緒にいたい、それが今の私の切実な願いだから。彼に私が上京して進学することを伝えるとすごく喜んでくれて、私も嬉しかった。勉強が苦手な私に遠野くんはいつも付きっきりで勉強を教えてくれて、そのおかげでなんとかギリギリ四年制大学に合格するだけの学力を付けることができた。本当に遠野くんは優しいね。まぁ、でもただ一つ残念なのは、結局私は遠野くんとは別の大学に進学することになってしまったこと。本当ことを言うと、彼と同じ大学に行きたかったなぁって思う。けどそんなことは正直どうだっていいの。だって私たちの関係はここで終わりじゃない、これから先も続いていくんだから。

 こうやって私の抱えていた問題が全部解決してしまうなんて、ちょっと信じられないよ。それも全部遠野くんのおかげだよ。

 だけどね、そんな遠野くんを心配させたくなくて言わなかったことがある。それは進路が決まったというものの、いきなりこの種子島から東京に上京するなんて本当は不安で一杯だったってこと。ちゃんと生活できるのかなとか、東京に馴染めるのかなとか、家族と離れ離れになっちゃうんだなんて色んなことが頭を駆け巡ってしまう。でもきっと大丈夫。だって私には遠野くんが付いてくれるんだから。これからだってずっと私の側で一緒に過ごしてくれるんだってそう確信しているよ。

 自分自身の未来に対する期待と不安が入り混じったような、自分でもよくわからないそんな気持ちがしていた。まるでこれから大空に羽ばたいていこうとする雛鳥みたいだってそう思ったよ。

 そして私はそんな思いを抱えたまま、遠野くんとのたくさんの経験とたくさんの思い出が詰まった高校を卒業した。

 

 

 東京に上京する当日、お姉ちゃんが空港まで見送りに来てくれた。

「わざわざありがとうね、お姉ちゃん」

「いいのよ。東京に着いたらちゃんと電話するのよ」

「うん。わかってるよ」

「何かあったらすぐに連絡しなさいよ」

「もう、わかってるって。私ももうそんなに子供じゃないんだから」

 私は強がった。

「何言ってるの。あんたはもっと私に頼っていいのよ。私は花苗が生まれてきた時からずっと見守ってきたんだから。それにこれからもずっと私は花苗のお姉ちゃんなんだからね」

 私はその言葉にはっとした。

「うん、そっか……ありがとうお姉ちゃん……」

 こんな会話をしていた時のお姉ちゃんが、今まで見たことがないくらい心配そうな表情をしていたのがすごく印象的だった。私は強がって笑っていたけど、その表情を見てしまったせいで本当は今すぐにでも泣いてしまいそうだった。ただ上京するっていうだけなのに、もう二度と会えないようなそんなとても悲しくて寂しい気持ちで一杯になってしまった。でもこんな優しい言葉を掛けてくれたおかげで、同時に私はすごく安心することができたよ。やっぱりお姉ちゃんは私のお姉ちゃんなんだね。

「じゃあ、もう行くね」

「そう……元気でやりなさいね」

「うん、お姉ちゃんも元気でね!」

 精一杯の笑顔でそう答えると、お姉ちゃんも笑ってくれた。

 そして私は本当に泣きだしてしまう前に背を向け、搭乗ゲートに向かった。

 

 飛行機の座席に着いて窓の外を見る。小さくなっていく種子島を上空からただ見続けた。

 島での思い出――

 今思えば、遠野くんと中二で出会ったあの日から東京に上京する今日までの五年間、私はすごく密度の濃い日々を過ごしてきたと思う。私はいつも彼だけを見てきた。遠野くんのいる場所に来るだけで胸が苦しくなったり、何気ない会話をしているだけで心が温かくなったり、彼の笑顔を見るだけで私は癒されたりした。簡単な言葉ではとても言い表せない色んな感情思いが、私の目の前を交錯していたように感じた。なんでもないような当たり前の事一つ一つが、私にとっては一生消えることのないとても大切な思い出だよ。そしてこれからの東京での生活を送る中で、私はもっとたくさんの大切な思い出を遠野くんと一緒に作っていきたいって、そう強く思っているよ。いったいこれからどんな未来が待っているんだろうね。すごく楽しみだよ。

 そんな願い思いを抱きながら、私は遠野くんと出逢いそして自分が育ったこの種子島を旅立った。

 

 

 

 

 

 高校時代の俺の心には、明里を追い求め続ける強い思いと、彼女からの便りが来なくなった今、早く明里のことを忘れて前に進むべきなんじゃないかというわずかながらの思いが混在していた。

 澄田から告白を受けたあの日のこと、俺が彼女にあの言葉を掛けたのはそのわずか数%の、いやもっと低い心の潜在意識に自分の背中を押されたからだと思う。なぜだろう、あの時はその思いが強く出たのだろうか? 自然と口に出ていたのだ。

 そして自分の口から告白せずに澄田の口から告白させるように促したのには理由があった。

 それは自分の口から告白するという行為自体が、明里に対する裏切りになると思ったからだ。彼女から便りが来なくなってしまったけれど、俺が彼女を思うように今でも俺のことを思い続けてくれていると信じていたのだ。そんな確証なんてどこにもなかったが、澄田からの告白に自分は答えただけだ、そういう形にしておきたかったんだ。

 もちろん澄田が自分のことを好いているということには気付いていた。俺と一緒にいた時の行為や表情、会話や視線などの一つ一つが心に訴え掛けてきたからだ。それは彼女に出会った時からいつも感じてきたし、彼女にとって俺は特別な人間だということも分かっていた。

 一方俺はそんな澄田の好意を嫌に思ったことは今まで一度もなかったが、それでも彼女に対して特別な恋愛感情を抱くことはなかった。それだけははっきりしている。つまり俺と澄田の内心は違っていたということだ。だから彼女の好意に応えてあげたいなんて気持ちはあまり無かった。あの時の自分には彼女の気持ちがどうこうというのは特に関係がなかった、そう思う。

 あの時の心の中にあったのは、とにかく今の自分を変えたいという思いだった。俺を思い続けた澄田と恋人同士という先の段階に進むことによって、この現状に変化を起こせるかもしれないと思ったのだ。明里に依存することのない新しい自分に。俺は澄田の力を借りようとしたのだ。だけどそれが彼女でなければいけない理由もなかった。自分の心にこの思いがあり続ける限り、遅かれ早かれ俺は誰かの力を借りていただろう。それがたまたま澄田だっただけなんだ。そうそれだけ……

 これが俺が澄田と付き合うことを選んだ理由なのだ。

――その選択をしたあの時の自分の感情はどうだっただろう?はっきりと心が揺れ動いたのは……そう、澄田にキスをされた瞬間のことだった。

 ついに自分は明里以外の人とキスをしてしまったんだ。

 明里に最後に会ったあの日から彼女を思い続けたこの人生が、そこで終わってしまったような気がした。絶望感とでも言うのだろうか、よくわからない。でも明らかな悲しさがこみ上げて俺の心を絞めつけた。その時俺は自分の心がいかに明里に向けられていたのか、いかにその気持ちが大きく深かったのかがはっきり分かった。そして俺と明里はこの先も永遠に、再び巡り会うことはないのだと感じたのだ。

 でもその後には、これから先は澄田と共に歩いて行くのだと認識し、自分の心に覚悟のような、そういった感情が芽生えたような感じがしたのだ。またそれと同時に俺が明里を思い続けたように、澄田も俺を思い続けていたのだとはっきり気付いた。

 それでも澄田の泣き顔を見てしまったせいなのか、あの時の自分にはただ彼女を抱きしめることしかできなかった。

 そしてすべての最後には、再びこのキスによって世界の何もかもが変わってしまったような気がしたのだ。

 

 

 澄田と付き合い始めたある日、俺はこんなことを訊かれた。

「ねぇ、遠野くんはどうしてそんなに優しいの?」

「え、そうかな?」

 予想外の質問に俺は少し驚いた。

「うん。遠野くんはね、あたしには特別優しいってすごく感じているよ」

「きっと澄田と付き合ってるからだよ」

「ううん、あたしは遠野くんの彼女になる前からそういう風に感じていたんだよ」

「そう? うーん……自分でもよく分からないな。多分そういう性格なだけだと思うよ」

 俺はそう答えて話をはぐらかした。そんな澄田はただ笑っていたけど、本当の理由に気付いているのかどうかは分からない。

 彼女が言うように俺は本当に優しいのだろうか? ……いや、違うだろう。俺は優しいんじゃない、ただ人に冷たくしたくないだけなのだ。

 なぜそうなったか、いつそうなったか、自分でよく分かってる。それは昔のこと、まだ小学生の時だ。無力で幼稚だった俺は、自分の一番大切で守ってあげなくてはならないはずの女の子を自らの言動でひどく傷つけてしまったからだ。それは今でも恥ずかしく、そんな自分を変えようとしてきたのだ。だから俺はもう誰かを傷つけたくないのだ。そうそれは澄田に対してだけではない、誰にだってそうなのだ。自分が好いていようがいまいが。

 

 澄田と付き合い始めて数カ月が経った。だけど自分でも拍子抜けするほど二人の距離感には何も変化がなく、ここ最近は受験勉強の忙しさを実感する毎日だ。

 俺は以前から決めていた進路通りなわけだが、実は澄田が同じように東京の大学を受験すると決めたのは、俺の方から進学することを勧めたからだった。もし仮に遠距離で付き合っていたとしたら、きっと明里のように自分のことを忘れていってしまうんじゃないかとそんな気がしてならなかった。もうこれ以上自分から誰かが離れていって欲しくなかったんだ。だから澄田には自分の側にいて欲しかった。

 

 そして年が明け、受験が終わり、高校を卒業した。寂しさなんてものはほとんど無かったし、上京する不安なんてものも特に感じなかった。もともと東京に住んでいたし、引越しの多かった自分にとってそんなことはいつものことだったからだ。それよりもやっと卒業できた、そう思った。それはこの場所は自分の住むべき場所ではないとずっと強く感じてきたからだ。何年経ってもそれが変わることはなかった。

 だからこそ種子島に来てからの五年間、その日々はとても長く感じた。早く東京に戻りたい待ち遠しさ、島に慣れることができないもどかしさ、明里からの便りが来ない悲しさ辛さがそんな風に感じさせていたのだろう。あの日澄田に言われた『遠くに行きたそうだもの』、その言葉を思い出す。確かにその通りだった。

 中二の時から俺の側にはいつも澄田がいた。そして今まで色んな事があって色んな事が変化した。

 そうだけど彼女と一緒にいたり、一緒に帰ったり、楽しい会話をしたりしても、俺は心の底から幸せだと感じたことはなかったように思う。それは自分でそう思えないだけなのか思いたくないだけなのかは分からないが、明里からの便りが来なくなってからも、それもまた変わることはなかった。

 俺と澄田は今現在付き合っている。それは間違いないし、自分で選択したことだ。この現状に変化を起こせるかもしれないという期待を持って彼女と付き合い始めたわけだが、これから澄田との東京での生活の中でこの現状が、そして彼女との心の距離がどのように変化をしていくのかは自分でも全く分からないのだ。

 これでよかったのだろうか……

 今の俺の心にはいつも霧がかかっている。だから思う、俺はこの気持ちで何度同じ季節を過ごせばいいのだろう?

 そんな内心のまま俺は初恋の女の子と出逢い、そして彼女との思い出が詰まった東京へ向かった。

 

 

 

 

 

 中学一年以来、俺は再び東京に戻ってきた。五年ぶりの東京は種子島と何もかもが違っていたが、そんな中で桜の花は美しく咲いているということに変わりはない。

 ただ自分の人間関係には大きな変化がある。それは俺の隣には澄田がいるということ。俺達は別々の大学に通いながらも別れるということはなく、一応は恋人同士の関係を保っていた。二人の距離感は少しも縮まったようには思えなかったが、何というか付き合い続ける理由があるというよりも別れる理由が特になかった。だから自分から別れを切り出すということはなかったし、はっきりと別れたいと思うことは全くなかった。

 

 

 大学に入って一年目、澄田にとって初めての大都市東京での生活。種子島と違い過ぎる時間の流れでの生活に、彼女は慣れるのがとても大変そうだった。ましてや一人暮らしをしているのだから当然だ。それに大学の授業やバイトなんかで日々忙しい毎日を送っていた。それでも彼女は平日でも休日でも関係なく俺に会っていたし、会いたがっていた。

「まだ東京に来たばっかりだけど、こっちでの生活はどう? 大変じゃない?」

 俺は何気なく彼女にこんなことを訊いた。

「うーん……やっぱり島での生活とは何でも違っているから、ちょっと大変なところはあるかも」

「そっか、やっぱりそうだよね」

「うん。何よりも家族と離れて一人で生活してるのがすごく寂しい……」

 澄田は寂しげな表情でうつむき、そうつぶやいた。

「早く慣れるといいね」

「ふふふ、ありがと。あっ、でもね、楽しいこともたくさんあるよ。地元じゃ見られなかったものが見れたり、できなかったことも色々できて毎日がすごく新鮮。それに何でも手に入っちゃうしね。やっぱり島とは全然違うんだね」

「よかった。心配してたんだ」

「それと、こうやって遠野くんと一緒に過ごせていられることが一番嬉しいよ。あたしはそれだけで毎日の大変さなんて忘れられちゃうよ」

 彼女は照れ恥ずかしそうにそう答えた。

「そっか、嬉しいよ」

 子供の頃から引っ越しを繰り返した俺は、新しい地で生きていく術を知っていた。でも澄田はもちろん初めての引っ越しで、その術を知らなかった。小学校の頃初めて東京に来た時の強い不安を、きっと彼女も今同じように強く感じているだろう。それに俺には両親という家族がいたけど、澄田には家族ではなく俺しかいないのだ。彼女をこの地に連れてきたのは俺だ。自分が彼女を支えていかなければならない。そのことははっきりと頭の中に存在していた。

 そして一方俺の方も、澄田と同様日々忙しい毎日だった。でもだからといって彼女と会うことを拒んだりしたことは無かったし、むしろ自分の方から会おうと誘ったりして連絡なんかもよくしていた。

 

 

 そんなこんなであっという間に一年が過ぎ、また春が来た。

「ねぇ、遠野くん。今度お花見しようよ!」

 澄田は嬉しそうに俺を誘ってきた。二年生になった彼女は、東京での生活にかなり慣れたようだ。

「うん……そうだね。それもいいかも」

「あたし、まだこっちのこととか全然分からないから、どこかいいとこ遠野くんが連れてって欲しいな」

「うーん、そうだな……まぁ、俺もそんなに詳しいわけじゃないけど、桜が見える公園があるんだ。そこでいいかな?」

「うん、もちろんいいよ。じゃあ今度の休みの日に行こうね!」

 そうして俺は澄田とお花見の約束をした。

 

 当日になり、約束通り公園に来ていた。俺達は適当に芝生に座り、桜を眺める。

 穏やかな春の日差しが心地よく、風が爽やかに吹き抜ける、そんな一日。澄田もいい天気でよかったと喜んでいる。桜も八分咲きで丁度見ごろだ。太陽に照らされた花びらが煌めき、淡いピンク色を一層際立たせる。その美しさと華やかさに心奪われる。

「桜、本当にきれいだね。東京にもこんな桜が見れる場所があるんだ……感動しちゃった」

 澄田は目をキラキラさせながら微笑んでいた。

「でもさ、桜の花ってすぐ散っちゃうのがなんか残念だなぁ……ずっと咲いてくれていたらいいのに」

 今度はどこか寂しげな表情に見える。

「秒速五センチなんだ」

 思わず口に出る。

「え、なんのこと?」

「桜の花びらが落ちるスピードだよ」

「へ~、そんなこと全然知らなかったなぁ。遠野くんってそういうことよく知ってるよね」

 彼女は屈託のない笑顔でそう答える。

「いや、ただ昔、小学生の頃に人から教えてもらっただけなんだ」

「そっか、そんな物知りの人がいたんだね。その人って同級生?」

「うん」

「今でも連絡し合ったりしてるの?」

「いや……特には……」

 自分からそんな話をしたくせに、俺は話を断ち切るように答えた。

「そういえば、遠野くんって種子島に引っ越してくる前のことってあんまり訊いたことなかったけど、どんな感じだったの?」

「うーん、親の都合で引っ越しが多かったかな。俺自身は体が弱くて、よく図書室で過ごしてたんだ」

「え、なんか意外。今からは全然想像できないよ」

「まぁ、昔のことだから」

「そうだよね。他にはなんか特別な思い出とかってないの? 聞きたいな」

 澄田は俺の過去のことを訊きたがった。

「特別な思い出……いや……何もなかったよ。普通の子供だった」

 俺は嘘をついた。過去のことは話したくなかった。ただそれだけ。

「そうなんだ……」

「澄田は?」

「あたしも普通だったよ。普通っていうより、ぼんやりして平凡な感じだったかもしれないけど」

「うん、そっか」

「でもね、遠野くんに出会ってから私の人生はすごく変わっちゃったんだ。あ、もちろんいい意味でだよ。だからこそ今こうやって、ここでお花見ができているんだよ」

「そう言ってくれるとなんだか嬉しいよ」

 遠くを見ながら答えた。澄田は俺を変えてくれるのだろうか?

 

「ねぇ、遠野くん! あたしお弁当作ってきたんだ。よかったら食べて欲しいな」

 言うタイミングを見計らっていたように突然そう言うと、彼女はお弁当を取り出した。

「えっ、澄田って料理できたんだ。知らなかったな」

「うん。本当はあんまりできないんだけど、遠野くんに食べてもらいたくて頑張ったんだよ。まぁ、お姉ちゃんにも色々訊いたりしたんだけど」

 開かれたお弁当は行楽用の少し大きめのもので、下の段にはおにぎりが、上の段には色々なおかずが敷き詰められていた。冷凍食品や出来合いのものなどは一切なく、全てが手作りでかわいく盛り付け、彩られていた。女の子が作ったお弁当そのものだ。

「おいしそうだね。じゃあ、頂こうかな」

 俺はおにぎりを手に取り、頬張った。

 口にした瞬間、過去のある出来事が思い起こされ、なんだか胸が急に切なくなった――

「あの……おいしくなかったかな?」

 澄田はいぶかしげに俺の顔を覗き込んだ。どうやら冴えない顔をしていたようだ。

「いや、すごくおいしいよ。俺の好きなものばっかりだし、料理、上手なんだね」

 嘘じゃない。本当においしかったし、また食べたいと思える味だった。

「本当に!? よかったぁ」

 澄田は安心したように笑顔になった。「もっともっと上手になるね」と嬉しそうに言っていた。

 色々なことを考えながらも、俺はお弁当を完食していた。

 

「ねぇ、遠野くんは大学卒業した後のこととかってもう考えてるの?」

 食後のお茶を飲みながら、澄田はまた質問をする。

「うーん……まだ何も決めてない。いや、そういうよりもまだ何も分からないんだ。具体的に自分が何をしたいのか、どうなりたいのか全然見えなくて迷ってばかりなんだ」

 俺は正直に話した。

「そうなんだ。でもあたしはそれでもいいと思うよ。人生なんてそう簡単に決められるものじゃないし、時が経てば考えだって変わると思う。それに夢ややりたいことだってきっと見つかるよ。だからそんなに悩まなくてもいいんじゃないかな。あたしは今ここにいるけど、それは遠野くんが受験することを勧めてくれたからだよ。それまでのあたしは自分で何一つ決めることができなかったんだ。でもね、遠野くんの言葉のおかげで、一つずつできることからやるんだってそう決めることができたんだよ。」

 澄田は自分の意見をしっかりと述べた。

 こんなことを澄田に話したのは初めてのことだったけど、こういった彼女の言葉を聞いていると、なんだか今の自分よりもずっと大人びているように見えた。今の自分には相変わらず余裕なんてどこにもないけど、澄田はそうじゃないのだろうか?

「だから本当にね、悩みでも何でもあたしに話して欲しい。あたしはいつだって相談に乗るよ!」

 澄田は真剣な顔をしていた。

「うん、ありがとう。優しいんだね」

 素直にそう答えた。

 彼女のその言葉を聞いて、少し嬉しい気持ちになった。そうだよ、俺には澄田がいるじゃないか……

「澄田の方はもう決めてるの?」

 気になって訊いてみた。

「えっと……あたしもまだよく分からないんだ。お姉ちゃんを側で見てきたから教師もいいかなと思って一応教職取ってるんだけどね、でもあたしはお姉ちゃんみたいにはとてもじゃないけどなれないなぁってはっきり分かってるんだ……だからね、あたしも今の遠野くんと同じで迷ってばっかりなんだよ。それに遠野くん高校の頃言ってたじゃない、『誰だってそうだよ』って」

「そうだったね」

 そんなこと忘れていたから、思わず笑いが出た。

 澄田の話を聞いたら、なんだか少し楽になれたような気がした。彼女と会話をすると、なぜかいつも心が安らぐような感じがする。すごく意外だったし、不思議だと思った。

「あとね……えっと、その……実は、もっとその先の将来の夢ならあるんだよ」

 澄田はうつむいたまま顔を真っ赤にしてそう言った。

「そうなんだ」

「でもね、その夢の中身は……今は秘密っ!」

 彼女は俺の方を向いて、無邪気な子供が精一杯隠し事をするかのようにはにかんだ。

「そっか……」

 俺はあえて深くは訊かなかった。その答えを聞いてしまうのが怖かったから。

 自分はこれからどこに向かって行くのだろうか? 自分の目的地ってどこなんだろうか? もう一度深く考えた。だけど何も分からない。答えのない問題を解くのは苦しかった。澄田の言うとおり時が解決してくれるのだろうか? そうなれば俺は楽になれるのだろうか? 悩みは尽きない。そんなことばかり頭を巡っていた。

 

 そうしていつの間にか日が傾いて夕方になり、そろそろ帰宅することに。

「あっという間に時間が経っちゃったね。もっとこの場所にいられたらいいのになぁ」

 澄田は残念そうに言った。

 俺自身も今日はなんだか楽しかったように思う。全てを話したわけじゃないけど、澄田と出会ってからこんなにもたくさん自分の事を話したのは初めてだったかもしれない。まぁ、色々話したせいで過去の事を思い出してしまったのも事実だけれど、不思議と口から出てしまっていたような気がするし、こんなことは今までなかった。彼女は、そんな俺をどう思ったのだろうか? どうしようもない奴だと思ったのだろうか? 少し気になった。

 次から次へと物事が頭に浮かんでは消え、色んな事を感じた。でもそれでいて全体としては穏やかで安らぐような、そんな不思議な一日だった。

 そしてまた彼女も今日一日、終始笑顔ですごく楽しそうに見えた。俺といる時はいつも笑顔のことが多いものの、今日はそれが一段と強く感じられた。

 その表情を見て、ふと考えた。

 澄田は悩みとかないのだろうか? なぜかそれを今まで、またこの先も彼女に直接訊くことはしなかった。というよりもできなかった。

 帰り道、俺の数歩先を澄田はゆっくりと歩く。彼女の後姿をぼんやりと眺める。適当に会話した後、しばし沈黙――。そして彼女は何かを決心したように突然俺の方を振り返り、満面の笑顔のままこう言った。

 

「ねぇ、遠野くん。また来年も一緒に桜見ようね!」

 

 燃えるように赤い夕焼け空の中に、熱を帯びた春の夕日に照らされた澄田の姿がくっきりと映っていた。

 

 

 そらからも澄田は、事あるごとに俺を誘って旅行やイベントに出掛けたがった。

 夏は海水浴に花火大会、秋は紅葉狩りに学園祭、冬はクリスマスに初詣。その他にも、とにかく見たことも行ったこともない色々な場所に出掛けたのをはっきりと覚えている。

 だから彼女に、「どこかに行ったりするの好きなんだね」と訊くと、「うん! 遠野くんとの思い出をもっとたくさん作っていきたいんだよ」と嬉しそうに言っていた。

 この頃から彼女の提案に応えるように、俺も一緒に過ごすことが多くなっていったように思う。澄田のその行動は、心の内にふさぎこむ俺を外の世界に連れ出してくれるような気がした。もしかしたら、自分自身の変化が少しずつ育ち始めていたのかもしれない。

 

 そんな中で澄田の提案を拒んだことがあった。

 彼女は正月や夏休みになると種子島に帰省した。俺も一緒に帰ろうと何度も誘われたが、行かなかった。やはり行く気になれなかったのだ。またあそこに行ってしまうと、なんだか過去に戻ってしまうような気がしたし、自分の心も後退してしまうと感じたからだ。あの場所は自分が帰る場所ではない、ただの通過点に過ぎないのだ。もうあの頃の自分には戻らない、戻りたくないとそう思った。初恋の女の子の姿が日を経つごとに薄く遠ざかっていくのを感じたのは、何よりも辛く悲しかった。だからそのことはあまり思い出したくはなかったのだ。

 澄田が帰省し、遠くに離れて一人になると、俺はいつも物思いにふけった。彼女からケータイにメールなんかは来ていたりもしたけど、バイト以外で他にすることもなかった。

 東京で一人暮らしをしている自分の部屋。一応は片付けをして、きれいにしているつもりだ。実家から持ってきたものなどほとんどなかった。必要な物以外、全てを置いてきた。その辺の大学生が住んでいそうな、何の変哲もない至って普通の部屋だ。

 畳の上に仰向けに寝転び、ぼんやりと天井を見詰める。畳の匂いに包まれた。近くで行われている工事の騒音が、わずかに部屋に入り込む。電気を点けていないその部屋の窓から直射日光が差し込み、自分のいる場所の影をより強くし、光の当たっている場所を強烈に照らし出していた。

 物語を作り上げるように、頭の中で色々なことを想像する。今までのこと、これからのこと。それが誰かに届くことはない。

 そんな時まず頭に浮かんでくるのは、いつも小学生時代のことだった。意識せずとも自然に思い起こされ、もう何回目なのかも分からない。そしてその当時の思い出は、今でも鮮明にありありと目の前に浮かんでくるのだ。まだ肉体的にも精神的にも幼かったけれど、一人ぼっちではなかった自分はいつも笑顔で、どんなことも怖くはなかったし、それからの未来だって輝いて見えたものだった。目を閉じれば、あの頃の自分にまた戻れるような気さえした。

 もちろん種子島でのことも考えた。あの地に来てから色々なことがあり、色々なことが変化した。それは今の自分にとって良いことだっただろうか? ――何とも言えない。ただはっきり覚えているのは、かつて感じたあの輝きは、本当に過去のものになってしまったということだ。澄田と出会い一緒に過ごしていっても、それが帰ってくることはなかった。だから小学生時代とはまるで別人になってしまったようだった。

 あれから確実に時は過ぎている。だけどなぜだろう、今の自分には恋人であるはずの澄田との未来はどうしても想像することができなかった。

 そんなことを考えているうちに、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。

 そして夢を見た。

 夢の中では、俺は再び鳥だった。目的地もなくただふらふらと飛び続ける。力なく上昇下降を繰り返し、今にも墜落しそうだ。一休みする場所さえない。眼下に広がる景色は何もないただの荒野で、空はどんよりと暗く霧がかかり、遠くまで見渡すことができない。いったいここはどこなんだ、なぜこんなところにいるんだと困惑した。辿り着くべき場所にとにかく一秒でも早く飛んでいきたいと、そう強く思った。

 こんな夢を、その後も何度も見てしまうのだった。

 

 三年生になり、大学生活も後半に入った。

 この頃俺は、澄田以外の別の女の子と仲良くなったりした。学内で知り合った澄田とは全くタイプが違う子で、髪が長く、控えめな性格をしていた。どちらかというと彼女の方からアプローチがあり、自分がそれに応えたとうい形だった。

 付き合ってすぐに「遠野くんは、本当に私のこと考えてるの?」と泣かれた。彼女の言うとおり別に何も考えてなかったし、好きじゃなかった。

 なぜそんなことをしたんだろう。この頃の自分は、過去のことを早く忘れたいのか、過去の思いを確認したいのか、それとも澄田との仲を深めたいのか、何をしたいのかよく分からなかった。目まぐるしく切り替わる信号のように、俺の心は定まらなかった。 

 結局その子とはすぐに別れた。自分でも何してるんだろうと思った。後には虚無感だけが残った。

 

 四年制になり、俺も澄田も就職を決め、そのまま無事大学を卒業した。

 この四年間は、種子島にいた時に比べて一瞬で過ぎ去ったように感じる。充実していたということだろうか? 様々な人と出会い交流し、様々な経験をし、世界が広がった。今になって思えば、学生時代にしかできなかったであろう非常に有意義な時間の使い方ができていたんじゃないかって思う。授業で得た知識や、バイトで培った仕事のノウハウ、友人たちとの討論で感じたことや、何気ない世間話ですら自分の人生にとっては大切な財産の一つだろう。

 そしてもう一つ。俺の側にはいつも澄田がいたということ。この四年間、正直彼女がいなくても生活はできていただろう。いつも俺の心はフラフラして彼女を見ていなかったこともあったし、どう思われているかなんてことも考えていなかった。じゃあ逆に、澄田は俺のことだけを見ていたのだろうか? それは分からない。

 だけどそれでも、澄田との思い出だってたくさんできた。色々な感情が渦巻き、多くのことを学んだ。こんなことは、共に過ごしたのが彼女でなければ感じ取ることができなかったはずだ。そう、これからだって……

 俺はもうすぐ社会人になる。立派な大人だ。この先もこの場所で、そして澄田と生きていくのだ。今目の前にいる彼女の顔を見詰めてそう強く決意した。

 

 

 

 

 

 澄田は以前言っていた通り教師にはならずに、都内のとある中小企業の事務職に就いた。彼女は就職活動の時、俺には一言も相談してくることはなかった。なぜだろうと思ったし、正直それを少し寂しくも感じた。まぁ彼女なりの考えもあったのだろう、特に深くは考えなかった。

 会社に入ると学生時代の生ぬるい環境とは違い、毎日非常に忙しく時間に追われる生活になった。澄田と会う時間も良くて月に数回になり大幅に減ってしまったが、それでも休日に会うと彼女はいつも笑顔で接してくれた。

 澄田は東上線の上板橋に住んでいたから、いつも池袋や新宿でデートをした。特に何をどうこうしようって訳じゃないけど、公園に行ったり、映画を見たり、ブラブラと買い物なんかをした。その他にも、すっかり得意になった彼女の手料理を食べるために、外出だけでなくお互いの部屋に行くこともたくさんあった。どちらかというと彼女が自分の部屋に来てくれることが多かったように思う。半同棲のような感じだったかもしれない。

 料理の食材を抱えてくる澄田に「いつもわざわざ悪いね」なんて言うと、「そんなの全然気にしないでよ。それにあたしが来たいからこうして来てるんだよ」なんて言って笑ってた。楽しそうな顔を見ると、自分の心も安らいだ。

 会う時間が減る一方で、メールをする回数は増えていった。その文面には寂しいとか会いたいなんてことは一言も書かれていなかったし、俺の方もそんなことは書かなかった。普段の彼女のメールは、会社でこんなことがあったとか、この前の何がおいしかったとか、こんなことを感じたとか、そういった取り留めのない日々の日記のような内容だった。思わず笑ってしまうような文章ではなかったけれど、そんなメールを読むことが自分の日々の楽しみであり、一日の終わりにそれを読むと明日も頑張れる、そんな気がした。

 

 大学二年以来、俺と澄田は毎年のようにお花見をした。どんなに忙しくても一年の恒例行事になっていたし、自分としても日々の疲れを癒す貴重な時間だった。やることは特に変わりない、いつもと同じ。桜を眺めて、彼女の作った弁当を食べて、ぼーっとする。ただそれだけのことだけど、心が回復するのを感じた。きっと来年もまたこの場所に来るのだろう、自分でそう思う。

 いつもの夕焼けの中の穏やかな帰り道。そこで澄田は毎年必ず、俺の瞳の奥をまっすぐに見詰めてこの言葉を言うのだった。

「ねぇ、遠野くん。また来年も一緒に桜見ようね!」

 

 社会人になってから、俺は澄田にどんどん惹かれている自分がいることにはっきりと気付き始めていた。

 仕事の忙しさや辛さも相まって、彼女と過ごす時間は自分の生活において非常に大切な時間であり、また仕事に対する原動力になった。そして澄田の笑顔と「お仕事頑張ってね」という一言が、いつも心にエネルギーを与えてくれ、そんな自分も彼女を喜ばせたくって平日だろうが極力会って一緒にいることに努めた。

 仕事においてもプライベートにおいても、自分なりの方法で毎日を全力で生きた。それがなんだか楽しくって、この先もずっと続けていきたい、いって欲しいと思うのだった。

 そんな日々の充実感の中で、自分は前に進めている、成長できているということに心躍らせた。俺はもっと先に行けるんだ、そう強く思った。

 

 社会人二年目、二月の第一土曜日。全てを凍えさせるほどに冷え切った日々に、春の雪解けが待ち遠しい、そんな時期。

 共に過ごせる久々の休日で、いつものように澄田とデートをした。

 改めて彼女を見る。『遠野貴樹』という一人の人間の色に染まった澄田は、今までにないくらいに愛おしく感じられた。

 そしてその日の夜、俺は彼女と一夜を共にした。自分の心の内を確かめるように。これは肉体的快楽じゃない、そう精神的な共鳴だ。もう昔の俺じゃない、澄田と一緒にいたいとはっきり思った。ちゃんといい方向に変われていけているのだ、それがとても喜ばしかった。

 きっと澄田はこれからも自分にとって大切な人になる、そう感じた。

 

 

 

 

 

 それから一ヶ月後、三月の第一土曜日。未だに外は冬のように寒く、桜のつぼみもまだ硬く閉ざされていた。天気だけは雲一つなく晴れ渡り、部屋に降り注ぐ日差しが眩しかった。

 今日は澄田に予定が入っているため、前から家でのんびりしようと決めていたが、なぜだかいつになくソワソワして何も手に付かなかった。いつもならタバコでもゆっくり吸って気分を落ち着かせるが、それもする気にならなかった。

――俺は外出することに決めた。

 適当に上着を着て、財布とケータイだけポケットに突っ込んで外に出た。息は白く、冷えた空気が肌を突き刺した。

 目的地を決めることなく、ただブラブラと新宿駅周辺を歩き回る。

 こうしていると普段気にも留めなかった様々な物事が、頭に次々と飛び込んできた。街の喧騒や排ガスで汚れた空気、行き交う人々の会話、立ち並ぶ商店の照明や活気、電車のスピードにビルの色や高さ、生い茂る植物の匂いまで。そういうことに今日は非常に敏感になっていた。

――普段あまり行かないような道を歩きたくなった。住宅街の中の細い路地を行くと、十字路に出た。その一つが少し急な上り坂だった。俺は何も考えずに、その道を選択した。それは直感的な判断だった。

 坂を上る。足取りも軽く、上り切ると高台に出た。

 一人の女性が歩いてくるのが目に入る。えんじ色のマフラーに白いコートを着て、艶やかな髪が光をキラキラと乱反射させていた。背筋よく颯爽と歩くその姿は美しかった。

 その姿がはっきりと見えた瞬間、心の奥底がざわめき立った。寒さにかかわらず全身から汗が噴き出るのが分かる。俺はその場に釘付けされたように立ち止り、一歩も動くことができなかった。

 その女性を見詰める。

 そして彼女も俺に気付き、立ち止まる。はっきりと目が合う。二人を遮るものはなく、自分と彼女の世界だけが無限に広がっていた。

 頭で考えることなく本能的に分かった。その女性は紛れもない、篠原明里その人だと。

 

 俺と明里は我に返ったようにお互い歩み寄り、見詰め合う。

「明里……」

「貴樹……くん?」

 明里は今目の前に起きていることが信じられないといったように大きく目を見開き、顔を紅潮させている。その目はどこまでも透明で澄んでいて、光り輝いているように見えた。

 言葉ではとても言い表せない感情が心に溢れ出し、目に熱いものが込み上げて視界がぼやけた。それは遥か昔に過ぎ去ってしまった懐かしい感覚だった。

 そして現実に手で触れ合うことができる距離にいる明里は、自分の想像をはるかに超え、ずっと美しく、ずっと大人になっていた。中学一年のあの日に感じたものよりもずっとずっと。

 心のどこかでは、もしかしたら今日、いや明日、明後日明里にまた出会えるんじゃないかってそう思ってきたことに今気付いた。それがこの瞬間、本当に叶ったのだ。

 今日この時間、この場所を通らなければ明里に出会うことは絶対になかっただろう。これは奇跡以外のなにものでもない。あの日明里と離れてから今この瞬間までの人生が、全てここに繋がっていたのだと、そう思った。

 

 

 話を聞くと、明里は今でも栃木に住んでいて、今日は仕事で知り合った東京の友人と遊ぶために本当にたまたまこっちに来ていたということだった。

 その人との約束の時間までまだ少しあるということなので、こうして近くの適当な喫茶店に入ったわけだ。

 少しの時間しかないせいもあって、あまり突っ込んだことは話せなかった。それでもあの日以来の明里との会話は、彼女と過ごした小学生時代の感情を蘇らせ、非常に懐かしく自分の心を躍らせた。こうやって直接会話するのはもう十一年も前のことなのにそれを全く感じなかったし、昨日も会っていたかのように俺も明里も次から次へと自然に言葉が溢れ、途切れることはなかった。それはとても不思議な感覚だった。とにかく嬉しかったし、彼女も同じように嬉しいと言ってくれた。

 明里との関係が完全に途切れてしまったことがあったけれど、今でも俺達はしっかりと繋がっていたのだと確信できた。

 こうして久しぶりの会話を楽しみ、当然のようにお互いの連絡先を交換してそれぞれの予定に戻った。

 そして明里は今現在、お付き合いしている人はいないということだ。それは今の俺には完全に関係のないことのはずなのに、なぜか安心してしまった。

――そう、俺はこの時澄田の存在が頭から完全に消えていたのだ。

 

 

 


 
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