No.803273

「NOW HERE」

蓮城美月さん

小林大和中心のシリアスな物語。
ダウンロード版同人誌のサンプル(単一作品・全文)です。
B6判 / 120P / \200
http://www.dlsite.com/girls/work/=/product_id/RJ159193.html

2015-09-20 16:28:50 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:392   閲覧ユーザー数:392

◆CONTENT◆

 

Happy Christmas

DAYDREAM~邂逅~

ココロノトビラ

空の記憶~far away~

陽光

あの日に帰りたい

ノスタルジィ

おうちに帰ろう

あの日の僕をさがして

ユメノオワリ

Brand-New

翼をください

ココニイルコト

Miracle

 

DAYDREAM ~邂逅~

 

――――本当は、たったひとつだけ叶えてほしい願いがある。

もう一度…せめて、もう一度だけでいいから………。

 

「千尋クン、健吾クン、吹雪ちゃん!」

山中の深い森で一人はぐれた大和は、大声でみんなを呼んでいた。

「燕先生、あげはちゃん!」

心細さを我慢しながら叫び続けても答えは返ってこない。大和は歩き疲れて途方に暮れていた。今日はいつものメンバーで登山に来ていた。さっきまで空はよく晴れていて、みんなで山頂を目指していたのに、濃い霧が通過したとき、大和だけみんなとはぐれてしまったのだ。

「どっちへ行けばいいの?」

険しい山道で方向が分からなくなった大和は、大木の根元に座り込んだ。肩からリュックサックを下ろして水筒のお茶を飲む。

「…どうしよう」

こんな深い山林で迷子になってしまうなんて…。大和は不安になった。このまま、だれも自分を見つけてくれなかったら。そんな恐怖に心が覆われてしまいそうになる。もう二度とみんなに会えないのでは…と、無性に怖くなった。

「おや、こんなところに仲間がいるようだよ。母さん」

「あら。本当」

膝を抱えて震えていた大和は、突然聞こえてきた声に顔を上げる。

「キミ、迷子かい?」

どこから現れたのか、三人の家族連れがいた。父親と母親、そして高校生くらいの女の子。

「………はい」

優しい口調で訊ねる父親に、大和は恥ずかしそうに頷いた。高校生にもなって迷子になるなんて笑われるのではと、情けなくなった。

「いや、恥ずかしながらわたしたちも同じなんだよ。急に霧が深くなったと思ったら、登山道からいつの間にか外れていたみたいでね」

「お父さんが道を間違えるからいけないのよ」

苦笑いを浮かべて説明する父親を、娘が叱責する。

「まあ、仕方ないじゃない。焦っても疲れるだけだし、ゆっくり道を探しましょう」

母親は娘を宥めるため、おっとりとした口調。

「そうだな。キミも一緒に行こう。一人じゃ心細いだろう?」

「あ…はい」

楽しそうな家族だなと思いながら、大和はリュックを背負い立ち上がった。

 

「だから、そっちじゃないよ。お父さん」

「いいや。お父さんの勘ではこっちが正しい」

「二人ともケンカしないでくださいよ。あなたも、子どもじゃないんだから」

道に迷っている状況の割に明るい三人を見ていると、大和の心から不安が消えていく。遠慮のない論争に、大和は思わず笑みをもらした。

「ほら、呆れられちゃったでしょう」

「…お父さんが急に山登りなんかしようって言い出すから」

「この山に登れば、願い事が叶うというじゃないか。だから」

家族のやりとりを微笑ましく眺めながら、大和は先日聞いた話を思い出していた。

『この山って、頂上まで登ると願いが叶うっていう言い伝えがあるんだよね』

『へえ、すごいな』

『小林クンは、なにをお願いするのかな?』

『ボクは…』

そのときは願い事はないと答えた大和だが、心の奥に押し込んだ想いがあった。だがそれは、どうあっても叶うはずのない願いだったから、忘れてしまおうとした。消してしまおうとした。

本当は、たったひとつだけ叶えてほしい願いがある。もう一度…せめて、もう一度だけでいいから――――会いたいよ。

「叶うと信じていれば、希望はあるさ」

「えっ…?」

「ほら。登山道が見えた。君の大切な人たちが待っているよ」

父親が指差した方向に、みんなの姿が小さく見えた。

「ホントだ!」

「もう、迷わないようにね」

母親が大和に優しく声をかける。

「はい!」

大和はみんなのところへ急ごうと駆け出したが、ふと気になることがあって彼らを振り返った。この家族と一緒にいたときの、奇妙な感情はなんだろう。心が温かくて安心するような…。

「……大きくなったな、大和」

父親が感慨深そうに呟いた。その言葉に大和は息を呑む。その瞬間、彼らの姿が記憶の中にある懐かしい人たちの姿に変わっていった。

「おまえがしあわせそうで安心したよ」

「あなたの笑顔が見られて嬉しかったわ」

「高校生にもなったんなら、もっとしっかりしなさい」

「お父さん、お母さん、お姉ちゃん!」

大和はそちらへ駆け寄ろうとするが、足が金縛りになったように動かない。自分と彼らを隔てる空間に霧がかかっていく。

「待って、行かないで! せっかく会えたのに…。ボクも一緒に連れて行ってよ!」

大粒の涙を流しながら、必死に彼らを引きとめようとした。三人とも慈愛に満ちた表情で大和に微笑んでいる。

「だめよ。あなたには、あなたを待っている人たちがいるでしょう」

「しあわせになりなさい。大和」

「いつまでたっても子どもね。バカ大和」

「行かないで! もう少しだけ…一緒にいてよ」

「いつもそばにいるから。おまえの近くで見守っているから」

「だから、笑っていてね。元気でいてね」

徐々に深くなっていく霧が、大和と彼らを遠ざけていく。

「ボク、ごめんなさい。ごめんなさい…。ずっと、言いたかったの」

「バカね。わかってるわよ、そんなこと」

「わたしたちは、あなたが大好きよ。ずっとね」

彼らの姿が消えていく。声も薄れていく。大和は涙で濡れた瞳を拭いて、消えていく彼らを瞳に焼きつけていた。

「――――会えて、嬉しかったよ。大和」

「…ボ、クも…ボクも嬉しかったよ」

大和が途切れるような声で告げると、彼らの姿は完全に消え去る。濃霧が覆い尽くしたその空間に大和は佇んでいたが、やがて霧は異常な速度で晴れていった。

「小林クン!」

自分を呼ぶ声に、大和は顔を上げた。大和の姿を見つけた千尋が走ってくる。あとから他の四人の姿も見えた。

「急にいなくなるから捜した…」

駆け寄った千尋は、大和の顔を見て言葉を止めた。なにも言わず大和の頭を撫でて抱きとめる。大和は自分の身に起こった出来事を話そうとしたが、うまく説明できず言葉に詰まった。

「…小林クン。この山はね、霊峰っていって死者に会える場所でもあるんだよ」

千尋は穏やかな口調で諭す。

「悲しい夢でも見たのかい?」

「ううん。…とっても、嬉しい夢だった」

大和はひとときの再会を思い出して告げる。

「すごくしあわせな、楽しい夢が見れたよ。ボク」

「そう…。よかったね、小林クン」

温かい千尋の言葉に、大和は大きく頷いた。

 

ココロノトビラ

 

 

第一章 彷徨

 

『いつまでそこに隠れているつもり?』

ふと呼びかけられて目を覚ます。見知らぬ場所に一人、ボクはいた。無限に広がっている永遠の野原。果てしなく続いている。呼びかけられた声に周りを見渡してもだれもいない。目を凝らして人影を探すけれど、ボク以外だれもいなかった。なにも言わずに野原が広がっているだけ。その広さに、小さなボクの存在なんて埋もれてしまいそうなほど――――。

いつもどこかでこの風景を見ていた気がする。ああ、そうだ。うなされて目を覚ます、あの夢に出てくる光景。歩いても、歩いても、どこにも行けなくて、出口がなくて、ボクは途方に暮れる。ボクの知っているすべての人の名前を呼び続けても、だれの声も返ってこない。

もう、足が動かない。のどが嗄れて声も出ない。時間の流れさえ感じないこの空間に、ボクは一人でかくれんぼをしている。だれも見つけてくれない場所で。

どうしてボクはここにいるの。どうして、ボクだけがここにいるの。どうしてボクは一人でいるの。なぜ、ボクだけがここに取り残されているの。

だれか、だれかボクを見つけて。ボクを見つけてよ。ボクを捜して。ボクのことを必要だと言って。大切だと言って。好きだと言って。お願いだから。そうじゃなければボクは…生きていていいのかわからなくなるよ。

淋しさと不安で押し潰されそうになる胸。いつもなら笑って自分を奮い立たせることができるのに、一人ぼっちになると弱音ばかりが心を覆い尽くす。

一人にしないで。置いていかないで。ボクを一人にしないで。どんなに嘆いても、非情な現実はボクの存在をまるで認知していないかのように無表情で。ボクは力なくそこに座り込んだ。

神様、ボクはそんなに悪い子ですか。あの日あなたに連れて行ってもらえなかったほど、悪い子でしたか。それが悲しかったから、ずっといい子になろうとしたのに…。いい子でいようと努力してきたのに。それでもまだ、ボクは悪い子ですか。

ボクはいつもみんなに言います。「大好き」だって。「みんな大好きだよ」って。みんなにボクのことを好きになってもらいたくて、みんなと仲良くしたくて。心からそう言っているのに。「みんな大好きだよ」って――――。

『嘘つき』

不意に届いた辛辣な言葉に、ボクは振り返った。この声の主をボクは知っている。いつの間に現れたのか、一人の少女が立っている。風船を片手に持って、空からふわりと降りてきた。

「お姉ちゃん!」

ボクは叫んだ。その人のことを呼んだ。よく知っている人。親しい人。ボクがかつて失ってしまった大切なもの。ボクがもう二度と取り戻せないもの。大好きだった、家族。

『嘘つき大和』

会えるはずもない人と会えて緩んだボクの表情が、瞬時に凍る。姉の冷たい台詞の理由が分からずに、ボクは反論した。

「ボクは嘘なんてついてないよ。本当にみんなのことが好きだもん。千尋クンも、健吾クンも、吹雪ちゃんも、燕先生も、あげはちゃんも、校長先生も、クラスのみんなも…みんな大好きだよ」

それぞれの顔を心に描きながら、ボクは必死で訴えかけた。どうして嘘だなんて言うの。ボクは本当に、本当に心からみんなのことが大好きなのに。

『本当に、みんなのことが大好きなの?』

「もちろんだよ!」

『じゃあ「小林大和」のことは…? 好きっていえる? 大好きだって、ちゃんと言える?』

思ってもない姉の質問に、ボクは言葉を失った。

『自分のこと、好き?』

黙り込むボクに、姉は訊ねた。ボクは頷こうとするけれど、できなかった。頭の中を灰色の霧が広がって、ボクの思考を止めさせる。言わないで。それ以上、言わないで。見たくないんだ。お願いだから、それを見せないで…。

『心の奥底で、本当の自分を隠してる。殻に閉じこもったまま、なにも見てない、なにも聞いてない。世界から逃げて、たった一人でかくれんぼをしている。そんな自分を好きだと言える? 大和、アンタは自分のこと好き?』

姉が語った光景が、そのままボクの心に投影される。精神世界の奥深くで、幼いままの自分が膝を抱えていた。何重もの分厚い殻に自分を閉じ込めている。

「ボクは…」

はっきりと否定できない事実に、ボクは心を震わせる。

『どうして、自分を好きになってあげないの? どうして自分をしあわせにしようとしないの? 自分のことを好きじゃない人が、本当に他人のこと好きだって言える?』

「だって! ボクが…ボクがあの日、あんなこと言わなきゃ!」

優しく諭そうとする姉に、切迫した声で返した。あの日、ボクが海へ行きたいなんて言わなければ…嫌いだなんて言わなければ…。なにも起こらなかったのではないかと、失わずに済んだのではないかと、思わずにいられない。自分の言葉の代償を、ずっと後悔し続けている。だから、好きだなんて言えない。一番大切だったものを喪う原因になった自分を、好きだなんて言えない。

『バカ大和!』

唐突な怒鳴り声に、ボクは顔を上げた。半分怒って、半分泣きそうな表情でバカと連呼する。

『バカバカ。バカ大和! あの事故はアンタのせいじゃないことくらいわかるでしょ。ホントにバカね。そんなことで、いつまでもウジウジと悩んでるなんて。大和、アンタには喪ってしまったもの以上のなにかを得られる未来があるの。なのに、なぜそこから目を背けてしまうの? 逃げ出してしまうの? アンタがそんな状態だと、わたしたちだって悲しいのよ!』

「だって、ボクだけ取り残されたんだよ。ボクだけ選んでもらえなかった。ボクも一緒に逝きたかったよ。家族みんな一緒なら、怖くも淋しくもなかったのに」

あの日、ボクだけが空を飛べなかった。飛んでいけなかった。あの日一緒に逝けていたなら、ボクはこんなに淋しくなんてならなかった。

『それでわたしたちが喜ぶと思うの? アンタも一緒だったら嬉しいって? そんなこと、思うはずないでしょう! ――――大和。アンタが生きててくれたことが、唯一…わたしたちの救いだったのよ。アンタだけでも生きていてくれてよかったって、本当に神様に感謝した。嬉しかったのよ? 生きていれば、生きてさえいてくれたら、悲しみも痛みもいつか癒える日が来る。しあわせになれる日が来るから。アンタにしあわせになってもらいたいって、願って…祈って……。だから、いつまでもわたしたちに囚われていないで。自分のしあわせから逃げ続けていないで。わたしたちを「しあわせになっちゃいけない言い訳」にしないで。自分から逃げないで。許さないから…。しあわせになることを放棄して、自分で自分を不幸にしたなら、許さないから!』

「……――――――」

『ねえ、大和。アンタは、みんながしあわせな顔で笑っているのを見ると嬉しいでしょう。自分もしあわせな気持ちになれるでしょう。その逆を考えてみて。アンタがしあわせそうに笑うと、みんなもしあわせになれるの。一緒にわかり合えるの。つまり、アンタがしあわせじゃないと、みんなも嬉しくない。しあわせが欠けてしまうの。アンタが心に淋しさを抱えたまま笑っていても、本当にみんなが心からしあわせになれると思う? アンタがみんなのことを好きなように、みんなもアンタのことが好きなのよ。楽しいことや嬉しいことも、アンタがいなきゃ意味がないの。一人でも欠けたら意味がないの。そういう気持ち、よくわかるでしょう』

「けど、ボクは」

姉の言葉はもっともで、正しいとは思うけど…それでも弱気な言葉しか出てこない。そんなボクに、姉は呆れたように告げた。

『いつまでたっても甘えん坊ね。もう高校生なんだから、しっかりしなさい。もっと生きることに強くなりなさい。人生を楽しくもつらくもできるのは、アンタ自身なんだから。アンタには、この先ずっと続いていく未来があるんだから。みんなのことをしあわせにしたかったら、まずアンタ自身がしあわせでいなきゃ』

「え……?」

『大和。自分をしあわせにできるのは、自分しかいないのよ』

姉が語った言葉を、昔どこかで耳にしたことがあるような気がして、ボクの脳裏に浮かんできた記憶。透きとおるように綺麗な声が、姉の声に重なって…ボクの耳によみがえった。

『大和クン。だれかをしあわせにしたかったら、まず自分自身がしあわせにならなきゃ』

『自分をしあわせにすることを、自分自身で選ぶの』

『しあわせになるチャンスを、自分から放棄しちゃだめよ』

「――――お姉ちゃん!!」

ボクが『お姉ちゃん』と呼んだ、もう一人の女性。そのシルエットが瞳に映っては、消えた。あの日、夜の闇を侵食するほど燃え盛った業火に生命を奪われた、優しかった人。

安心できる穏やかなピアノの音色。その細い指から奏でられる繊細な音楽がボクは好きだった。ボクの心の中の淋しさを癒してくれた。本当の弟のように思ってくれた…ボクが好きだった、もう一人の『お姉ちゃん』。

 

 

第二章 Shine ~シャイン~

 

突然のブレーキ。慌しく切り返されるハンドル。激しく揺れる車体。狭い空間を引き裂く悲鳴。迫ってくる電柱。だれかが「神様!」と叫んだ。衝撃、轟音、そして訪れた静寂。薄暗い気配の中で、ぼんやりと映った画像。なにが起こったのかわからなかった。

ただ、車の中がグシャグシャになっていて、やがて全身が痛みを訴えだした。痛い…。痛いよ。どうしてこんなに痛いの? お父さん、お母さん、お姉ちゃん。助けてよ…。徐々に意識が遠のいていく。深く、海底に沈んでいくようにゆっくりと。

「大和…」

だれかがボクの名前を呼んでいた。途切れるような声で、何度も繰り返していた。そしてボクは意識を失った。

 

あの日からどれだけの時間が流れただろう。いくら日々はあの日から離れても、ボクの記憶の中にある光景はまったく色あせず、そこにあり続ける。その頃ボクは、二軒目の伯父の家で暮らしていた。そこでもボクは、あの夢にうなされて眠れない夜を数えていた。

「大和クン」

限りなく透明な優しい声に引き戻され、ボクは目を覚ます。あの人が、心配そうな表情でボクを覗き込んでいた。秒針を刻む時計の音が夜に響いている。

「お姉ちゃん…」

高校生になる伯父さんの長女。ボクからすると、十歳年上の従姉にあたる。ピアノがとても上手で、ボクによく聴かせてくれる…温かい人。そのか細い手が、汗に濡れたボクの額を撫でた。ボクが夢にうなされていることに気づいてくれた、唯一の人だった。

それからは、毎日のようにボクの様子を気にかけてくれた。うなされているときは、こんな風に呼び起こしてくれる。再び眠りに就くまで頭を撫でてくれた。まるでお母さんのように。その手の温かさに、ボクは安心して眠りに誘われた。どうしても眠れないときは、枕元でいろいろな話を聞かせてくれた。

「暗闇が怖いの?」

「…うん。だって、真っ暗だから。なにがいるかわからなくて、怖いよ」

「大和クン。暗闇はね、悪いものじゃないのよ。大和クンを怖がらせたいから真っ暗なわけじゃないの。暗闇がなかったら、昼と夜の区別がつかなくなってしまうでしょう。闇があるから光は明るく輝けるの。光と影は双生児なの。もともと同じものがふたつに別れたの。光は明るくて綺麗だけど、ずっと明るいままだったら、光がどんなに輝いていても見えないわ。だから、闇があるの。光を輝かせたくて、綺麗な光を見せたくて闇は存在しているの。真っ黒な色をしているの。お互いがなくてはいけないもの同士なの、光と影は。どちらかを失ってしまったら、存在する意味がなくなってしまうの。影は光に憧れて光になりたいと思うときもあるけど、自分まで光になってしまったら、光の美しさがわからなくなってしまうから。影はね、光のことが大好きなの。そして光も影のことが大好きなの。光と影は仲良しなの。それがわかれば、もう怖くないでしょう?」

「うん」

ボクが笑うと、あの人も笑った。ほっとするような温かい眼差し。ボクを包み込んでくれる。でも、あの人は心の片隅に深い哀しみを抱えていた。ボクと同じように。

 

ボクがその理由を知ったのは、ある日アルバムの中に一枚の写真を見つけたから。少し前のあの人の隣に、ボクと同じ年頃の男の子が映っていた。

いつものようにピアノを弾くのを見ていた昼下がり。以前コンクールに出たことがあるのだと、アルバムを見せてくれた。開かれたページに、その写真は佇んでいた。

「お姉ちゃん。この男の子、だれ?」

ボクの見知らぬ男の子。あの人は表情を歪める。答えようとする唇が震えていた。

「――――弟…なの。三年前に、死んじゃったけど」

心細い口調であの人が語ったこと。その弟は自分の目の前で車にはねられて死んだのだと。自分はそばにいたのになにもできなくて、みすみす弟を死なせてしまったと言った。助けられなかったと嘆いた。ああ、そうだったんだ。だから、あの人の弾くピアノの音色は、もの悲しく淋しいのだと気づいた。そしてボクに対する優しさやいたわりは、あの人にとっての贖罪だったのだと。

「なにかを…大切なものほど喪ってしまうのは本当に一瞬で…どんなに悔やんでも時間は戻ってはくれなくて。どうしようもなく、自分を責め続けていたの。でもね、わたしがずっと負い目を感じ続けてもあの子は喜ばない。むしろ悲しむって気づいて。そして、自分にできること、まず自分がするべきことから考えようって思ったの」

あの人の頬に一筋の涙。哀しみの色の笑顔を浮かべて。

「答えは、ピアノを弾くことだった。奏でる旋律の中に、あの子との思い出が刻まれている。あの子の笑顔が浮かんできた。『お姉ちゃん、ピアノを弾いて』って。『僕、お姉ちゃんのピアノ、好きだよ』って言ってくれた。何度も…何度も。わたしがピアノを弾くたび、嬉しそうな顔で笑ってくれた。そんなあの子を見ているのが、しあわせだった。しあわせだったの…」

感情が大きく揺れ動いて泣き崩れるあの人を、ボクは見ていることしかできなかった。この人はボクと同じだ。ボクと同じ哀しみを、痛みを持っている人だと思った。そして心の隅で、ボクの喪ってしまった大切な人を思い出していた。お父さん、お母さん、お姉ちゃん。今のボクにできることはあるかな。ボクになにか、できることは…。

「お姉ちゃん」

ボクが呼びかけると、あの人は顔を上げた。涙に濡れた瞳がボクを映している。泣かないで。もう泣かないで。いつも笑っていてほしいんだ、あなたには。

「………ピアノを、弾いて。ボク…お姉ちゃんのピアノ、好きだよ。大好きだよ」

勇気を振り絞ったボクの言葉に、あの人は優しく笑う。

「――――ありがとう…」

そのときあの人が演奏したピアノは、心が泣きたくなるくらい透明で…綺麗で。波ひとつない水面のように美しかった。ボクはこの音を一生忘れることはないだろうと思った。

「…わたしね、だれかをしあわせにしてあげられるピアノを弾きたいと思ってたの」

「うん…」

「でもね、そのためには自分がしあわせでなければいけなかったの。しあわせじゃない人が、だれかにしあわせを分けてあげられるはずないもの。だから、大和クン。だれかをしあわせにしたかったら、まず自分がしあわせにならなきゃ」

「自分が…?」

「そうよ。人はね、しあわせになるために生まれてくるんだから。自分をしあわせにすることを自分で選ぶの。悲しいことや、つらいこともたくさんあるけど、だれだって楽しい夢だけを紡いで生きてはいられないもの。人生が嬉しいことや楽しいことばかりだと、なにがしあわせなのかわからなくなるでしょう。いいことと悪いこと、どちらも生きていくことに、しあわせになることに必要なことなの。心の傷や痛みを味わっても、いつか癒える日が来るわ。それらの経験を乗り越えて、感情を自分の中に昇華して、しあわせになるのよ。しあわせになれる日は必ず来るわ。だから、生きている限り、しあわせになることを諦めちゃいけない。しあわせになることから逃げちゃいけない。しあわせになるチャンスを、自分から放棄しちゃだめよ。だれだってしあわせになりたいの。だれだって、しあわせになっていいのよ。それが『生きている』ってことなんだから――――」

あの人の言葉が心に溶けていって、ボクの心の底にある不安の塊を消してくれた。こびりついていた慙愧の念を取り除いてくれた。あの日からずっと思っていた『ボクさえいなかったら…』という思いが、いつの間にかなくなっていた。

あの人とボクは、とてもよく似ていた。だから、あの人の気持ちがわかりすぎるほど理解できて…心が痛い。ボクとあの人は、同じ心の傷を抱えた漂流者だったんだ。

でも、もう痛くない。今までよりも強い意志を持って生きていけそうな気がしていた。あの人が笑っていてくれるのなら、ボクも笑っていられると思った。あの人の微笑みをずっと守り続けられたらと、そう願っていた…心から。

 

 

第三章 Prayer

 

ある寒い冬の日。夜半過ぎに上がった火の手は、あっという間にこの家を炎で覆い尽くした。出火原因がなんだったのか、ボクには思い出せない。だた、真っ暗な夜の闇を明るく照らしだすほどに燃え上がった焔。気づいたときには、もう手の施しようがなかった。

熱い…熱いよ。どちらへ進めばいいの。熱気でのどがやられて、思うように声が出ない。煙で視界が遮られて、自分の居場所さえ掴めなくなっていた。

黒い煙がボクに襲いかかる。煙を吸い込んで、激しく咳き込んだ。火の手がボクに忍び寄る。足音を隠しながら、じわりじわりと。ボクはその恐怖に怯えながら、必死で逃げ道を探していた。

「大和クン!」

ボクを見つけたあの人が、火の粉が舞う中こちらへ向かってくる。近くから不気味な音がした。なにかが焼け落ちているような…。だめだ、こっちは火が回ってる。危ないから来ちゃだめ。だめだよ、お姉ちゃん!

「お姉ちゃ――――」

叫んだ刹那、ボクの真上から炎に包まれた柱が落ちてきた。逃げなきゃ。頭は指令を出しているのに、身体が反応しない。硬直していた。ボクは目を閉じた。

そのときのことは、記憶にカーテンがかかっているようで、はっきり憶えていない。ただ、ボクは背中に大きな傷を負ったけれど生きているということ。そしてあの人は……あの焔に生命を呑み込まれてしまったという、事実だけ…。

「…今度は……助け、られた………」

あの人の声が耳に残っている。怒り狂った焔の雄叫びに、かき消されてしまいそうなほど小さな呟きを…忘れない。

「大和…クン………生きて――――」

それが、最期の言葉だった。

 

長い回想から意識を取り戻す。そこは相変わらず殺風景な野原が広がっていた。だけどひとつだけ変わったものがあった。

『いつまでそこに隠れているつもり? 大和クン』

ボクの目の前に立っている人は、風船を持ったお姉ちゃんではなくあの人だった。

「いつから、そこにいたの…?」

ボクは訊ねた。あの人は小さく笑って答えた。

『ずっとよ。ずっとわたしはここにいたわ』

「ここって?」

『あなたの、心の中よ』

ボクは大きく首を横に振った。ボクはずっと長い間、あの人のことを記憶から消し去ってしまっていた。痛すぎる傷を見たくなくて、向き合いたくなくて。ずっと目を背けていた。見ないようにしていた。逃げていたんだ。

『大和クン。本当にどうしようもなくつらいときは、逃げてもいいのよ。その痛みに耐えられなかったら逃げてもいいの。そうでなければ、生きていくのが苦しすぎるでしょう。忘却っていうのはね、人が自分を守るための能力のひとつなのよ。心を壊してしまうほどの悲しみにいつまでも浸り続けていては、前を向いて歩いていけないもの。自分を不幸にしてしまうから。忘れてもいいの。逃げてもいいの。あなたは、つらいことや悲しいことを自分の中に溜め込みすぎるわ。そして、なんでもないふりをするのが上手だけど…それは哀しいことだわ』

「……………」

『世界が怖い?』

ボクは無言のまま、頷いた。あの人は慈しむような眼差しでボクを包んだ。

『たしかに世界は綺麗なものばかりじゃなくて、時にはあなたを傷つけてしまうことがあるけれど…あきらめないで。しあわせになることに、背を向けてしまわないで。あなたを大切に思っている人がいる。あなたのことを大好きな人がいる。あなたのしあわせを祈っている人がいる。一人じゃないのよ。あなたは一人じゃない。みんな、そばにいてくれるでしょう。だから、つらいときも悲しいときも、無理しなくていいのよ。心が痛いときは笑わなくていいの。本当の自分を押し込めてまで笑わなくてもいいの。あなたの近くにいる人たちは、ちゃんと受け止めてくれるから。あなたを受け止めてくれるから…。もっと、みんなを信じてあげて。みんなはあなたの本当の笑顔を待ってる。あなたが本当にしあわせになってくれることを祈ってる。だから大和クン。もう、かくれんぼは終わりにしましょう』

かくれんぼ…。たった一人のかくれんぼ。だれもボクを見つけてくれなかったのは、ボクが自分の世界に閉じこもっていたからなんだね。ボクが一歩足を踏み出せば、みんなはちゃんといてくれる。嫌われるのが怖くて、ボクは自分をその殻の中から出れなくさせていただけなんだ。ボクはみんなのことを大好きだって言っていながら、本当は信じてなかったんだ…。だからずっと淋しかったんだね。そこに取り残された『ボク』がいたから。

「お姉ちゃん」

『なあに?』

「もう一度だけ名前を呼んで。そうしたらボク、これからもっと強く生きていけるから」

まっすぐにあの人を見つめて、ボクは告げた。あの頃のように、ボクの名前を呼んで。ボクはそれだけで勇気が湧いてくるんだ。もう会えないかもしれないから、呼んで…ボクの名前を。あなたの声で、聴かせて。

『――――大和クン。あなたが、大好きよ…大和クン』

「……ありがとう、お姉ちゃん」

ボクの瞳から、静かに一筋の光が流れ落ちた。ありがとう。本当に、ありがとう。ボクを助けてくれて、ボクに生きる勇気を与えてくれて、ありがとう…お姉ちゃん。

『さあ、早くみんなのところへ帰らなきゃ』

「うん。でも、どうやって…?」

『目を閉じて。それからゆっくりと、心の瞳を開くの。出口はそこにあるわ』

ボクはあの人の言葉に従って両眼を閉じ、心の中でゆっくりと瞳を開いてみた。真っ白な一面の壁が続いている。その中央に真っ白なドアがあった。

『それが、あなたの心の扉』

「心の扉?」

『あなたが、自分の手で開けなければ開かない扉よ』

ボクはそっとそのドアに手を伸ばした。扉の向こうから、みんなの声が聞こえていた。

『元気でね、大和クン』

あの人がささやいた。

「…うん」

『さようなら。大和クン』

あの人が最上級の笑顔を浮かべて送ってくれた。ボクも涙に濡れた顔で笑う。

「さようなら、お姉ちゃん――――」

そしてボクは、そのドアを開いた。

 

光の世界。まぶしくて目を開けていられない。眼を閉じていても、その光の束はまぶしかった。

「小林クン。どこに行ってたんだ?」

千尋クンの声でボクは双眸を開く。そこは野原ではなく、いつもの教室だった。

「捜したぞ、大和」

健吾クンがそう言った。

「心配したのよ、小林クン」

吹雪ちゃんがやわらかい声で言う。

「本当に人騒がせな…」

あげはちゃんが呟いた。

「小林クン。君はクラスの一員なんですからね」

燕先生が温かい口調で。

「おかえりなさい、小林クン」

クラスのみんなが次々にそう言ってくれる。ボクはどう応えたらいいのかわからなかったけど、どこからか聞こえてきたピアノの音が教えてくれた。ああ、そうだ。簡単なことだったんだ。ボクはまっすぐ、みんなに笑い返して答えた。

「ただいま」

 


 
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