No.775679

すみません、こいつの兄です。96

妄想劇場96話目。100話くらいで完結させようと思っているこの作品。そろそろ最終話に向けて進みます。

最初から読まれる場合は、こちらから↓
(第一話) http://www.tinami.com/view/402411

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2015-05-06 17:28:56 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:1114   閲覧ユーザー数:910

 翌朝。

 台風一過。宇宙まで見通せそうな透き通った青空を窓ガラス越しに見上げて一瞬、自分のいる場所を見失う。

「ああ。そうだ。昨日は泊めてもらったんだった」

ひとりで眠るには大きすぎるダブルベッドを降りて、ジーパンを履く。上半身は寝ていたときと同じTシャツだから手間はない。

 時計を見ると午前六時前。

 さすがに、みんなまだ寝ているかと思ったが、台所のほうから人の動く気配がする。ベッドを整えて、寝室を出る。

「おはよ」

台所にいたのは、真奈美さん。それと由利子お母様。二人で並んで台所に立っている。

「あら、お兄ちゃん。早いのねー。まだ寝ててよかったのに」

由利子さんにはすっかり市瀬家のお兄ちゃんにされてしまっている。まぁ、真奈美さんのお兄ちゃんポジションなのは、今更である。あとリアル妹のほうも市瀬家には『ただいま』と言って入ってくる。あっちはなんとか修正しないといけない。ゼータガンダム方式で修正するか……。いや、それは暴力だよ。

 台所からは、ふんわりと甘いおいしそうな匂いが漂ってくる。シナモンとバニラの香り。

「朝食は真奈美がワッフル作ってるから、ちょっと待っててね」

市瀬家は、なぜそんなに美味そうなものばかり三食出てくるのに全員美人なのだろう。やはり三食いいものをバランス良く食べるのは、下手なダイエットよりよほど美人を作るのかもしれない。もしくは、最初から遺伝子が不公平。なんとなく後者の方がありそうだ。

「おはよー」

 そこに、美沙ちゃんが寝ぼけまなこで降りてくる。少し着崩れたパジャマと寝癖のついた髪もかわいい。油断した姿まで可愛い。眼福。

 ところで美沙ちゃんは寝るときにブラを着ける派だろうか、着けない派だろうか。確認せねばなるまい。たぶん、着けない派だ。超眼福。

「えっ。あっ。きゃーっ。そうだったっ!」

俺と目を合わせた途端、美沙ちゃんが悲鳴を挙げて逃げ出す。ぱたぱたと軽い音を立てて、階段を駆け上っていく音が聞こえる。つづいて天井越しに二階でバタバタという足音。再び、階段を駆け下りてくる足音。洗面所の扉の音。シャンプードレッサーを使う音。ドライヤーの音。合計十分弱。

「お兄さん。おはようございます」

きらきらー。ぴしっと可愛らしく制服を着た美沙ちゃんが、さらさらの黒髪を揺らして現れる。うむ。こっちもいい。眼福。それにしても、この制服姿の美沙ちゃんが見られるのがあと数ヶ月とはもったいない。

 女の子のきらめく時間はあっという間に流れさるのだ。

 花の命は、そんなに短くないけれど……。美沙ちゃんはきっと女子大生になっても、超かわいいだろう。わかる。確信を持ってわかる。きっとOLになってもかわいいし、お嫁さんになんてなったら可愛さ有頂天だ。

 ……。

 やはり美沙ちゃんと結婚するしかないな。

「美沙ちゃん……」

結婚しようと言い掛けたところで、真奈美さん作のワッフルが出てくる。きわめておいしそうである。

 うん。プロポーズは朝食の後にしよう。

 食卓に並ぶのは暖かいブルーベリーソースとクランベリーソースのかかったワッフル。絶妙な焦げ目のカリカリベーコンとスクランブルエッグ。ミニトマトのオリーブオイル炒め。アールグレイ。

 本当に高級ホテルでも出てこないようなすばらしい朝食だ。

 慣れないフォークとナイフで朝食を頂く。サクサクとした触感とふわふわとした触感の絶妙なバランスの焼け具合のワッフル。甘みと、ソースの酸味もたまらない。朝の血液にエネルギーが満たされていくのを実感する。ベーコンの塩味とオリーブオイルの効いた香ばしいスクランブルエッグも絶妙だ。ケチャップにまで軽く胡椒が振ってある。

 真奈美さんと一緒になったら、毎朝、この朝食が食べられるのか……。

 やはり、真奈美さんと結婚するしかないな。毎朝の朝食が美味しい。普通の毎日の小さな幸せ。それはきっとかけがえのないものだ。

「真奈美さん……」

結婚しようと言いかけて顔を上げると、隣に座る美沙ちゃんの指が俺の頬を不意に触る。

「お兄さん、ほっぺにブルーベリーソースついてるよ」

そう言って、指先で拭ったそれをぱくっと桜色の口に運ぶ美沙ちゃん。可愛すぎ。

 選べない。

 どちらのルートも大勝利過ぎて、選べない。

 というか、俺大丈夫なのか。こんな幸せで大丈夫なのか。これ、じつは病院で昏睡状態になっている俺が見ている夢なんじゃないのか。実は俺、自転車で川にダイブしたままこん睡状態になっているんじゃないだろうな。SF小説だと自転車が見つからないのが物語の鍵を握る秘密になっていたりするよな。

 ……。

 本気で、あの自転車は探すべきじゃないかしら。

「お兄ちゃんは、大学そのまま行くの?」

ぼけーっと、絶品朝食に舌鼓を打っているところに真奈美さんが現実を降り注ぐ。

「そうだった!」

やばい。今日は一時限目からきっちり講義が入っている。しかも、テキストは自宅だ。

 うぎゃーお。

 

 勿体ないことに絶品の朝食をあわてて口に押し込むと、挨拶もそこそこに市瀬家を飛び出す。駅までダッシュ。駅のホームに到着した頃には、胃がひっくり返っていた。

「うげげ。気持悪い……」

あんなに美味しい朝食を戻しそうになるとか、本当にもったいない。

「顔色悪いよ。大丈夫?」

電車に乗り込むと、ちょうど同じ車両に知り合いが乗っていた。三白眼の長崎みちる先輩。

「おはようございます」

「ん……」

「ひょっとして、朝帰り?」

「昨日、出かけた先にいる間に電車が止まったんです」

「ああ。らしいね」

みちる先輩は相変わらずの藪にらみで、愛想のひとつもない。返事をしてくれるようになっただけずいぶんとマシだけどな。

「それで、一時限目から幾何なんでテキストを取りに自宅に戻らないと……」

「部室にあるよ」

「え?」

「浦山先生のだろ。テキスト、部室においてあるから使っていいよ。他にもたぶん、一通りテキストなら置いてあると思う」

「そうなんですね」

なるほど。

 俺は、大学ではなんとなく趣味にあうサークルがなくてサークルに入っていなかったが、サークルに入るとそんなメリットもあるのか。

 急ぐ理由がなくなって、ほっとする。

 駅に到着して、みちる先輩と一緒にバスに乗り換える。朝、少し早いからかバスはいつもよりも空いている。もともと、うちの大学の学生が乗客の大部分を占めるバスだし、まだ一時限目にも早い時間だから、当たり前だな。みちる先輩と並んで二人がけの席に座る。足元が丁度後輪のタイヤハウスのところで、少し狭い。

 みちる先輩の服装は、説明するまでもなく安定のオーバーオール。中はTシャツ。

「なおと…」

バスが走り始めて、わりとすぐにみちる先輩が話しかけてくる。みちる先輩の方から話しかけてくるとは珍しい。ニセモノじゃないだろうな。

「はい」

「夏コミ」

……。

……。

 それだけ言って、みちる先輩が黙る。

「はい?」

意味がわからないので、とりあえず疑問アクセントで相槌を打つ。

「……三日目に買った本な」

「ああ……」

そういえば、みちる先輩はつばめちゃんの描いたエロ同人をまとめて大人買いしていったのだった。まぁ、大人じゃないと買えない本だけどな!(だれうま)

「おもしろかった」

「そうですか」

「実用もした」

それは聞いていないし、聞きたい情報ではなかった。私、こういうときどういう顔をしていいのかわからないの。ただ笑ってもいけないことが分かるだけだ。なぜならみちる先輩は耳たぶをほんのり紅潮させるほど照れているからだ。笑ったら恥をかかせてしまう。いらんことは言わないで欲しい。

「そうですか」

それしか言いようがないよな。

「反応薄いな。そんなにどうでもいい情報だったか?」

どうでも良くなかったらどうしろというのか。

「あれって、男性向けですよ」

「知ってる」

「女性でも使えるんですか?」

「使ってみたら、なんと使えた」

要らない探究心だ。

「女性は視覚情報よりも、シチュエーションとか設定とかが重要だと聞いていましたが」

「設定脳内補完で使えた」

そこまでして使うなら、もういっそのこと完全自給自足でいいんじゃないだろうか。というか、なぜ俺は朝からみちる先輩の自慰行為を聞かされなければならないのだ。これが逆なら完全にセクハラ事案だが、みちる先輩であっても女性は得なのか?かわいくなくても正義なのか?まぁ、不器量なのは目つきだけで、鼻筋とか顎とか、上下に寸詰まりだけど丸みのある顔立ちはそんなに悪くもないけどな。たぶん中の上くらい。

「そうですか」

「どんな設定を追加したか聞きたい?」

「いや別に」

みちる先輩が執拗に自慰行為の詳細を聞かせようとする。これ、いつまで続くんだ。

 バスが大学前に到着してくれる。ありがたくバスを降りる。

 みちる先輩(さっきまで執拗に自慰行為の詳細を聞かせようとしていた)と並んで、まずはサークル棟に向かう。学内もまだ人がまばらだ。三十分早く来るだけで、こんなに違うものなのか。みんなギリギリすぎじゃないかな。

「漫画研究会の会員じゃないんですけど、いいんですかね」

「いいよ」

漫画研究会(腐)の部室に入ると、なるほど先輩の言っていたとおりテキストが一通り本棚に並んでいる。壁には講義の時間割も貼ってある。

 先輩の許可をいただいて、ありがたくテキストを貸していただく事にする。時間割り通りに幾何、物理、英語、午後は化学実験実習だからテキストナシ。返しにくるときは、またあの腐ったお姉さま方がいるのか……。少し気が重くなるが、しかたない。あと、あの時つかまっていたおかげで、真奈美さんに三島先生のアシスタントの職場を紹介できた。

 ……うん。感謝すべきだな。

「そういえば」

ふと、以前気になって聞いていなかったことを思い出した。この際だ、聞いてみてもいいだろう。壁に向かって置かれた事務机の傍の回転椅子に座ったみちる先輩の方を向いて切り出す。

「なに?」

「みちる先輩って、なんで漫画研究会(腐)に入ったんですか?」

「なんでって……漫画好きだから」

「あ、そうじゃなくて……。なんか、以前に一度おじゃましたときも、漫画描いていたのみちる先輩だけだったじゃないですか」

あと、夏コミのときも二日目も三日目もひとりでいたしな。サークルの人たちは友達なんじゃないのかと思う。

「ちがう」

「あ、他の人たちも描いているんですね」

「ちがう」

「描いていないんですか?」

みちる先輩のコミュ力が低くて、意味が捉えられない。

「ちがう。漫画研究会なのに漫画を描かないあいつらの方がむしろなんで漫画研究会に入ってんだって聞けよ」

それだと、漫画研究会がみちる先輩とOGの三島(姉)だけになるな。とは言え、正論な気もする。

「そういえば、そうですね」

「だろ。私は間違ってない」

 どうだと言わんばかりに、椅子の上でみちる先輩がふんぞり返る。

 サークル活動ってなんだっけと問い返したくなる。それでもたしかに、この部屋でぼっちで漫画を描いていても漫画研究としては間違っていないのだ。その理屈も分かる。サークルに参加して、大学内に私物を置きっぱなしにしたり、テキストを借りたり出来る部屋があるメリットは実感したばかりだ。

 なるほど。サークル内でぼっちでもサークルに所属しているメリットは十分にある。

 女子大生が楽しそうにきゃっきゃっうふふしている空間で一人原稿用紙に向かう鋼鉄の鈍感力があればという条件がつくけどな。

「先輩のマンガを読んだときも思ったんですけど」

事務椅子に座るみちる先輩の目が微かに見開かれる。無表情かいきなり発狂する両極端なみちる先輩だが、それでも自分のマンガの話をされるときだけは微かに表情が変わる。こんなところも、こう思うのだ。

「先輩って、芸術家ですよね。マンガの」

みちる先輩は芸術家だ。三島(姉)は職人で、つばめちゃんは趣味人。同じ漫画を描くのでもいろいろだ。みちる先輩の漫画は芸術だ。理解しづらいし、楽しいかといわれれば楽しくない漫画も多い。描いている本人すら楽しんでいるかどうか怪しい。

「みちる先輩は、なんだか身をよじるようにして、頭をかきむしりながら原稿用紙に向かう昔の文豪みたいな。ゴッホみたいな漫画の描き方をしている気がします。えと……ただ思っただけですけど。それじゃ……一限始まるんで、テキスト借りて行きますね」

そう言って、部室を出る。

 

 いつも使っているよりも少し古ぼけた、書き込みに他人の筆跡の残るテキスト。これは何時の誰の書き込みだろうかと思いながら講義を受ける。俺が顔も知らない先輩の書き込みなのだろう。いつのものかも分からない。十年ということはないけれど、四年くらい前でも不思議はない。

 妹なら、誰かの筆跡を見たらすぐにいつごろの誰の筆跡か分かるのだろうか。なにせ、あいつは見たものをほぼ全部そのまま覚えている。妹の部屋に電柱が突撃してきて破壊されたときに、本棚の裏側から出てきた子供の絵を見ていつ描いたものか日時まで正確に指摘していたくらいだ。

「あいつ、いつくらいまで記憶をさかのぼれるんだろう?」

講義への集中力を切らして、そんなことを考える。そういえばそうだ。あいつ、どこまで記憶をさかのぼれるんだ。

 

 今度、聞いてみるか?一瞬、そんなことを思って恐怖を感じる。

 

 普通、人の記憶は……少なくとも俺の記憶は古くなるほどあいまいになって、混じりあって順序のはっきりしないモザイクの中に溶けていく。俺の一番古い記憶がどれなのかわからない。幼稚園の床にしゃがみこむ年少組の子を見下ろしながら、何歳?と聞かれて五歳と答えた記憶はギリギリある。幼稚園の年長組に上がるとき、ひつじ組でヒツジのぬいぐるみのところに集められたのも覚えている。それが、おそらく一番古い記憶だ。時期を推定するカギが残っているから、古い記憶とわかる。母親に連れられて、幼稚園に通った道の記憶は年少組のころだっただろうか。記憶の順番はすでにわからない。

 それがたぶん「普通」の記憶なんだろう。

 じゃあ、あいつの「普通じゃない」記憶はどうなんだ。

 永遠に凍りつき、固定される永遠の記憶力を持つ妹の記憶は、どこまでさかのぼれるのだろう。凍りついた記憶の中にあいつを置き去りにして、不確かな現実は吹っ飛ぶようなスピードでその姿を変えていく。じゃあ、置き去りにされた過去はどこまで戻るんだ。

 あいつが、妹が、二宮真菜が世界を認識するその始まりまで戻れるのだろうか。

 そこに思い至って、恐怖を感じたのだ。

 人が生まれて、目が開き、世界を認識する。それ以前の目も開かないころの世界。赤ん坊はなにを感じているのか。なにが見えていたのか。なにを「聞いて」いたのか。

 泣き叫ぶ赤ん坊の認識している世界。

 そんなことはありえない。

 そんなことを記憶しているわけがない。

 あいつの偏愛する「デス」メタル。シャウト。

 記憶の中に世界を凍りつかせて、夢幻のように変わっていく世界に涙する妹の偏愛する音。それがデスメタルのデスヴォイスなのか。あいつは生まれてくる前の目が開く前の記憶まで凍りつけて、命の始まりの前の「デス」サウンドを求めるのか。ありえない。これじゃホラーだ。ちがう。あいつは、俺の妹だ。少し変わっているだけの、少し記憶力がいいだけの妹だ。

 

 俺は頭を振り回して、その発想を頭の外に振り払ってしまう。

 

 俺があいつをそんな風に思ってどうする。俺は、あいつの兄なのだ。現実があいつを記憶の過去においてけぼりにしても、俺はあいつの兄としてそこにずっといるのだ。兄は妹より先にこの世に生まれた。つまりあいつが生まれたとき、俺はすでにあいつの兄で、あいつが生きている過去すべてでずっと兄であり続けたのだ。それでいいじゃないか。妹が少しくらい変わっていてもいいんだ。

 

 頭の中に浮かんだ嫌な考えを忘れようと、その後の講義は今までになく真面目に集中して受けた。化学実験実習も集中した。

 それでも、ときおりその考えが頭に浮かんできた。

 頭から振り払いたいのに、頭の後ろをぐるぐると回る歌の一フレーズのように……。

 

「失礼しまーす。テキストお借りしてましたー」

講義が全部終わって、テキストを返しに漫画研究会(腐)の部室のドアをノックする。

「あ、そこでいいよ。受け取るよ」

ドアが小さく開いて、みちる先輩がドアの隙間からテキストを受け取ってすぐにドアが閉まる。二分ほどで、またドアが開く。

「帰る?」

相変わらずの最低限ワードで、カバンを持ったみちる先輩が現れる。

「ええ」

なぜか、みちる先輩と待ち合わせしていたみたいな状況になって、ならんで帰ることになる。勝手だけど、今日に限ってはちょうどいい。今はなんだか一人になると、例の嫌な考えがまた頭に返ってくる。

「先輩」

「な、なに?」

バスを待ちながら、先輩に話しかける。今日は、美沙ちゃんの家庭教師もない日だ。このまま部屋に戻って、時間をひとりでもてあましたくない。

「この後ヒマですか?」

「は?えと……な、なんで?」

みちる先輩が分かりづらくキョドる。口から出る言葉だけは、疑問系が並んでいるが表情が変わらないのだから分かりづらい。

「いや。ちょっとなんていうか、俺もヒマで」

「……えと…フラグか?これ?」

「違います」

そういうわけではないのだ。

「ツンデレ?」

「違います」

「クソめが死ねよ」

「すみませんでした。忘れてください」

今日も長崎みちる先輩の殺意沸点は富士山山頂の飽和蒸気圧より低い。カバンからグロック17(モデルガン)が出てこないうちに謝罪の意を表明する。

「断ってないだろ。殺すぞ」

どちらもデッドエンドルートだった。どこで間違った。

 

 二宮直人は死んでしまった!~DEAD END~

 

じゃない。まだ生きている。

「じゃあ、ヒマなんですか?」

死ね、殺すと連発する三白眼の先輩に予定の有無を再確認する。いい加減、これにも慣れてきたのである。人間、なにごとにも慣れる。紛争地帯で生活している人たちだってこの世にはいるのだ。

「いいよ。どこ行く?ラブホテル?」

相変わらず両極端なみちる先輩である。今の俺に死と生の両極端を連想させないで欲しい。

「いや。そこ以外でお願いします。あと、墓場とか以外で」

「なんで墓場が出て来るんだよ」

「いや、さっきから先輩が殺すとか死ねよとか言うから」

「あいづちみたいなもんだろ」

なかなかに珍しいあいづちだが、まぁ、サウスパークという映画では会話中にフ○ックというワードをランダムに挟み込むキャラクターも出てた気もするし、そういう人もいるのだろう。

「そうですか?」

 そこにバスがやってくる。何台か走っているやたらに古いタイプのバスだ。それなりに混雑した中に乗り込む。自然とみちる先輩との距離が縮まる。みちる先輩のつむじが見える。少し、辛そうな姿勢でつり革にぶら下がるように捕まっている。

 このくらい混み合っていると、車内で話すのはためらわれる。

 みちる先輩と触れそうで触れない距離のまま、無言でバスに揺られる。十五分ほどノロノロとバスが走って、駅前に到着する。乗っていた乗客も、俺とみちる先輩も一斉に降りる。がらがらになったバスが走り去っていく。

「なおと」

「はい」

「うちに来ない?」

「……」

どうしようかな。不穏なものを感じる。主に俺の貞操的理由で。

「セックス抜きで」

「それなら……」

女性の部屋に誘われて、ためらって、セックス抜きでと言われて安心する。大学生的には男女が逆である。男子の草食化というやつである。みちる先輩は肉食である。肉を食べたことのない肉食だけどな。

 二人で並んで、改札をくぐり電車に乗る。何駅か先で降りる。無言のまま、先輩の後について行く。途中、スーパーに寄る。カゴを持って、ペットボトルのお茶やレトルト食品などを買う。

「なんか、こういうのいいな」

みちる先輩がぽつりと言う。独り言のようなその言葉に俺はなにも返さずにだまってレジ待ちの列にならんで、二人で適当に出し合って代金を支払う。三円払ってレジ袋を買うのももったいない。小さなものはみちる先輩のカバンに入れて、大きなペットボトルは一つずつ手に持ってスーパーを出る。

 駅から十分少々歩くと、みちる先輩の住むボロアパートに到着する。先輩の住居をボロと言うのは失礼な気もするが、本当にボロなのだからボロとしか言いようがない。二階建てで、入り口の扉の外に洗濯機があり、階段は錆び付いている。ドアノブの中心に鍵穴のあるタイプのカギを開ける。

「ど、どうぞ」

みちる先輩にいざなわれてドアを潜る。ドアを開けてすぐ右側にキッチン。キッチンの窓枠の上に歯ブラシの立てられたコップがぽつんと置いてある。左側にトイレと思しき扉。九十度の角度で風呂場があるみたいだ。引き戸の向こう側が居住スペース。ミニマムなワンルームというか一間。日当たりの悪い部屋は、ほんのりとカビ臭い。

「お邪魔します」

二歩でキッチンや水周りのスペースを抜けてみちる先輩の部屋に入る。畳敷きの六畳間に二段ベッドの上だけみたいなベッドがある。その下に机がある。天板の上に斜めに板が渡してあるあたりが、漫画を描く人の部屋っぽい。

「適当に座って」

「はい」

ベッドが頭の位置くらいにあるので、異性の先輩の部屋でベッドに腰掛けるみたいな事態は回避に成功する。適当に部屋の中央にぽつんと座る。机の横の壁は押入れの襖。その反対側は窓。その横は、今入ってきた引き戸だ。背中を預けるところがない。あとローテーブルみたいなものもない。ぽつんと座るしかない。クッションもないが畳なので、尻は痛くない。

 座って、窓枠と引き戸の縁に斜めに渡されたつっぱり棒に洗濯ハンガーがかかっていることに気づく。洗濯物はいつも着ているオーバーオールと、下着。目をそらす。

「気にしないか。ものすごく気にして」

みちる先輩に二択を提示されて、気にしないほうを選択する。

「いつも机でなんでもしてるから、なんにもないんだ」

そう言いながらみちる先輩が台所へ行く。しばらく水音がして、もどってくると手にマグカップと、さっきまで歯ブラシの立てられていたプラスチックのカップを持ってくる。

「コップ一つしかないから、そっち使って」

マグカップの方を俺に差し出す。

 ペットボトルのお茶をマグカップに注いで飲みながら、ぐるりと部屋を見渡す。高いベッドの下に配置された机の正面にはフックが打ち付けられて定規やクリップで束ねられた紙がぶら下げられている。サイドテーブルにシャープペンシルやらペン軸やらインク壷やらが置いてある。テレビも置いていない畳敷きの部屋とその机周りは、昭和の香りがぷんぷんする。

「ここは時間が止まっているみたいですね」

自分でも意識していない言葉が口から滑り出る。

「悪かったな。オンボロで」

三白眼に睨まれる。

「あ、いや。そういう意味じゃなくて、時間が止まっていて安心だなって意味です」

俺の言い訳じみた言葉にみちる先輩が不審な顔をする。説明不足だった。俺もみちる先輩のコミュ力不足を言えない。説明を追加する。

「うちの妹が、やたらと記憶力が良くて……。あいつが覚えていることを置き去りにして、周りだけがどんどん変わっちゃうんです。うちの妹はバカなんで、そうは見えないですけど実際にはかなり不安だろうなって思うんですよね」

「ああ……そうなんだ。そんな風に見たことなかったな。ここ」

みちる先輩が、納得して部屋の中をぐるりと見渡す。古びた壁。古びてぽちぽちと白く錆が膨らんだアルミサッシ。壁際に積み上げてある文庫本や漫画は古本屋で買ってきたものが多いのだろう、少し茶色に染みている。

「いつくらいに引っ越してきたんです?」

「高校のころだから、まだ四年くらいだよ」

そうか。俺と真奈美さんは中学三年生のころ。妹と美沙ちゃんは中学二年生のころだな。真奈美さんは中学校に保健室登校していたころだな。

「私、漫画かいてていい?」

「え?どうぞ」

みちる先輩は揺らがない。俺が押しかけていようが、部室で腐った女子たちが腐った話をしていようが、机に向かってただ漫画を描いている。文豪は揺らがない。安っぽい回転椅子をきしませて机の上にかがみこむようにみちる先輩は漫画を描き始める。

 こちらが勝手に押しかけたようなものだ。みちる先輩が俺の相手をしなければいけない理由はない。俺も壁際に積み上げてある本を手にとって開く。

 

 遠くに電車の通る音が聞こえる。近くの公園で叫ぶ子供の声が聞こえる。漫画を描くみちる先輩がたまに椅子をきしませる。消しゴムのかすをはらう紙ずれの音が聞こえる。どれも眠気を誘う。

 本が顔の上に落下してきて、そのまま眠りに落ちる。

 

 ああ……これは夢だなと思う。明晰夢というやつだ。

「にーくん、こっちっす」

夢の中で妹に呼ばれる。妹の髪は青色だ。垂直に立てているわけじゃなくて、普通の髪型で普通の服装で青色だ。

「なんでお前、髪の毛青いの?」

「なに言ってるんすか、薄幸キャラの髪は青って決まっているっすよ」

「お前、薄幸キャラなの?」

両親に失礼だろう貴様。なに不自由なく育てておいてもらって薄幸とはどういうことだ。

「薄幸キャラっすよ。あと、ピンク色の髪のキャラは性欲強めっす」

さすが俺の夢。エロゲキャラデザインの基本が分かっている。青は薄幸。ピンクは性欲強め。オレンジは幼馴染。紫は世話焼きお姉さんキャラだ。

 この夢の中ではみちる先輩はピンク髪なのだろうか。

 妹と並んで歩く。

 歩く道は見知った自宅近所の住宅街だが、今の住宅街とは違うところもある。今はお洒落なタワーマンションになってしまったところは、古びた団地のままだ。誰かの個人宅が立っているところは、託児所で顔のついた木の置物というか遊具が立っている。美容室は床屋のままだ。

 何年位前の町がこうだったかなと俺は夢の中でも思い出せない。俺の夢に出てきているのだから、俺の脳みそのどこかには入っていたのだろうけど。

「真菜の街?」

妹はこの記憶の中の世界を現在の幻のような街に重ねて生きているのだろうかと思って、たずねる。

「ちがうっす。私の町はこっちっすよ」

そう言って、妹の手が俺の手を掴んで路地に引っ張る。

 路地を曲がると、出るはずのないところに出る。

 見たことのない街だ。見たことのないところも夢に出る。記憶と想像が頭の中で混じりあって、夢を作る。少し交通量の多い道路。ガードレールの向こうを車が走り去っていく。やたらとSUVが多い。妹と手をつないで、信号待ちをする。横断歩道を渡る。映画館の前を通り過ぎる。ID4と大きく書かれた、やたらとでかいUFOがエンパイアステートビルにビームを降らせているポスターが目を引く。

「にーくん。あれっす」

あれ?

 妹が俺の腕にすがりつくようにしがみつく。妹の見る方向に視線を向けると、大きな音を立てて青い色の小型車に大型のSUVが突っ込んだ。ばがしゃんっと音を立てて小型車が一回転半転がってさかさまになる。

「うおっ」

 夢の中とは言え、衝撃的な光景に声を挙げる。

 そして、自分の声に驚いて目を覚ます。

 

 目を覚ますと、みちる先輩が玄関のドアを開けて外を見ていた。

「どうしたんです?」

みちる先輩の後ろから覗き込む。

「事故だ」

「あー」

アパートの目の前の電柱にプリウスが突っ込んでいる。なるほど、この音と夢の中の音がリンクしたのか。たまにあるよね。夢の中で起きたことと現実で聞いている音がリンクしているのって。あれって、夢の中ではちゃんと順序立っているのが不思議だ。夢の中で音を聞く前に、音を聞くことを予知しているのか、それとも音を聞いた瞬間に頭の中にそういう順序で夢を見ていたと記憶が作られるのか、どっちだろう。後者のほうが理屈には合いそうな気がする。

「大丈夫かな?あれ?」

「あ。運転してたの出てきましたよ」

銀色のプリウスの運転席と助手席からおっさんが出てきて、スマホをいじっている。

「スマホいじってる場合かよ。オッサン」

みちる先輩が隣で悪態をつぶやく。

「警察とか保険屋に電話しているんじゃないですか?」

「そっか」

スマホいじってよそ見運転して事故起こしても、スマホをいじって警察を呼ぶのは少し喜劇じみている。

「ま、大丈夫だな」

「そうですね」

二人でドアを閉めて部屋に戻る。

「なぁ、なおと」

「なんです?」

「本当に、ちょっとだけエッチしないか?」

「しません」

「先っちょだけ」

先っちょだけというのは、リアルにあり得るんだろうか。たぶんない。

「しません」

「じゃあ、ハグ。ハグだけでいい」

みちる先輩が食い下がる。

「先輩、それを合コンでやったら、たぶんゲットできると思います」

はぐらかす方向で、ぜひひとつ。

「合コンとかもう行かないし。クソビッチども死ねばいいのに・・・・・・」

三白眼がじろりとにらむ。しかし、はぐらかすことには成功。

 とりあえず、部屋に戻る。

 

「すみません。お邪魔しました」

夕方近くになって、先輩の部屋を辞去する。なにをしていたかというと、俺は漫画を読んで、先輩は漫画を描いていた。ろくに会話もしていない。

「いや。また来て。楽しかった」

それなのに、愛想と社交辞令を完全に無視するみちる先輩が楽しかったと言う。殺意沸点も低いが、エンターテイメント融点も低いみちる先輩である。

 電車に乗って家に帰る。

 五時前なのに、電車の中から見る町並みは夕日に染まっていた。秋が近い。車窓から見る黄昏の町は、幻のように不確かに見えた。

 

(つづく)


 
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