No.765707

真・恋姫†無双~外史書~


どうも遅くなってすいません!!
先に言いますが、今回は絶対にこのまえがきを読んでから読んでください!!!!
それと謝罪を・・・
歴史上の人物の行動が、こっちの世界の歴史とちょっと違うようにしてみました。

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2015-03-20 02:29:07 投稿 / 全15ページ    総閲覧数:2099   閲覧ユーザー数:1776

『三国同盟から晋、そして北郷一刀に関して』編

 

 ここからは、多くの歴史家が言っている正史に則って、「『蜀の賢王の世界』から三国同盟が成立した」という仮定の上でその後の歴史を考察していこうと思う。

 

 三国はそれぞれの領地を治めながら、他国への技術供与なども行い、大陸の発展に貢献していた時代である。

 

 しかし、国という単位で相手と友好な形で接しようとするということは、必然的に外交面で相手を刺激しすぎず、自国を発展させるという国主の至上命題の遂行を意味していた。

 

 乱世であったなら、攻め滅ぼすという選択肢があったものの、一度治世になったものを再び乱世にすることは、基本的に平和を望む民からの支持基盤を失うということからだ。

 

 必然的に三国同盟成立の立役者にして大陸の象徴たる北郷一刀は、三国の折衝に日々奔走する毎日を送っていた。

 

 北郷一刀にとっては望むところだっただろうが、それでも相当な激務であったことは彼の残した言葉に現れている。

 

 『政務とは、血の流れない戦である』

 

 この言葉に対する反応はさまざまである。三国の平和な時代において初めて出た北郷一刀の弱音だという者も当時から少なくない反面、激務の中でも「平和の取得は武官の功績、平和の維持は文官の功績」という文官たちに政務の重さを認識させ、奮起させる深い戒めと発破の言葉だという者は現在でも多い。

 

 残念ながら、この言葉をいつどのような状況で発したのかの記録がないため、ここは憶測するしかないが、北郷一刀はわからないが、他の文官たちはこの言葉で奮起させる必要があるほど非常に疲れていたことくらいは読み取ることができる。

 

 三国の折衝の激務に疲れる文官、それの意味するところは、近い将来この政治体系が崩壊することを意味していた。

 

 

 北郷一刀はこの政治体系の危うさに気付いていたようだ。

 

 現に後年、司馬懿に大陸を譲っている。

 

 しかし三国時代の戦乱の傷跡が癒えていない段階で下手に国を併合しても、国内で軋轢が生まれ、真の統一を果たす前に五胡に付け入られるのは容易に想像できた。

 

 残念ながら、その時はまだ下策だとわかっていても、三国が本当の意味で和解し合うまでの猶予を稼ぐ必要があったのだ。

 

 この考えを裏付けるかのように、この頃大陸では様々な催し物が開かれていた。

 

 天下一武芸大会や当時の将棋大会、木登り一番乗りや音楽祭、中には女装大会や仮装大会といった現代の文化祭でもたまに見るような面白い催し物もあったようだ。

 

 これらは民の傷を少しでも癒すための催し物と昔から思われていたのだが、中世になって別の見方が浮上し、それが有力視されるようになった。

 

 それは急激な制度の変化に伴う『ストレスの解消』、および『反発の中和』である。

 

 人間は善きにしろ悪しきにしろ、変化にストレスを感じる生き物である。

 

 この見方は、17世紀、心理学が学問として確立し始めた頃に提唱されたものだ。

 

 実際、三国時代中期から後期にかけて北郷一刀は大陸のあらゆる分野に、『革新的』という言葉すら霞むほどの『大改変』、いやむしろ新たな世界を『創造』している。

 

 当時の『治政』という言葉の定義すら書き換えかねないレベルでだ。

 

 それに伴い、もちろん各地で反乱が起きていた。しかし、その規模も頻度も、後の時代のどの指導者も驚愕するほど小規模、低頻度なのだ。

 

 三国の戦争で大陸全体が疲弊していたとしても、この頻度は異常の一言に尽きる。

 

 

 現代の我々に置き換えればわかることだろう。

 

 現代の我々は、消費税率が『たかが』数%上がるだけで、有名人の『たかが』結婚騒動ごときで、テレビの放送手段が『たかが』デジタルになるくらいで、我が国に『たかが』新型高層建築物が建つ程度で、右へ左へ翻弄されていると言っても過言ではない。

 

 そんな我々にとって、「我が国は本日から資本主義に替わり社会主義国家となる」と総理大臣に言われるよりも、当時の衝撃は大きかった。

 

 なにせ我々は『社会主義を知っている』。その効果や、どのような社会体系になるかもある程度『想像できる』。

 

 当時の治政と北郷一刀の考えた治政を比較してみると面白いことがわかる。

 

 まず漢王朝のころの治政は腐敗の一途をたどっていたが、正常な形に直してみると以下のようになる。

 

 絶対王政、基本税は算賦(変動あり)、他の州への移動に税がかかる、法はあるが罰則は官憲の一任で規定はない、警備は軍が行う、各地の治政は牧に一任などである。

 

※算賦とは…人頭税(一人につきいくら、といったもの)としての「口算、口銭、財産税」の貲算(要は総財産はどの程度かを調べること)があり、毎年調査し、15~56歳の全ての男女に対して課した税。なお時代によって税率は変動を続けたが、漢王朝末期は増加の一途をたどり、真偽はわからないが酷いところでは税率78%だったとする資料すらもある。

 

 次に三国時代の北郷一刀以外が考えた治政は北郷一刀の考えたもののせいでインパクトが薄れてしまっているが、それでも当時としては画期的だった。

 

 絶対王政、基本税は算賦(税率変動あり)、他の州への移動に税がかかる、法はあり罰則の規定はある程度ある、警備は警備隊が行う、各地の治政は牧に一任などである。

 

※法について…ある程度基準となる罰則は規定されていたが、上の人間への侮辱や抗議などの場合、官憲や将などの一存で死罪にもできた。

 

 

 最後は北郷一刀の考えた治政である。

 

 半民主王政、基本税は年貢(税率変動なし)、他の州への移動に税はかからない、法はあり罰則の規定もある、警備は警備隊が行う、各地の治政は王が大まかな方針を決めて牧に一任などである。

 

※年貢について…我が国古来の税制と同一視されがちだが、我が国は田畑の面積から収穫量を計算して税を課すのに対し、北郷一刀の考えた年貢は手間がかかるものの、毎年収穫量を調べ、収穫量から一定率の税を徴収するものである。なお余談だが、収穫量が少ない土地には調査が入り、やむを得ない原因の場合でなおかつ、生活すらままならない可能性が出た場合のみ、世界初となる『生活保護』が受けられた。

 

※法について…北郷一刀の考えた法は「法の下に人類は平等である」とし、法を犯した者はたとえ王であろうとも、平民と同じだけの罰を課せられる形をとり、為政者を縛る世界初の法律となった。

 

 お分かりいただけるだろう。彼の考えた税も法も当時としては異質ですらあり、これはむしろ現代の憲法、税制に近いものなのだ。

 

 当時誰も考えもしなかった、『権力者を縛るための法』は後の時代のあらゆる権力者たちに大きな制約を与えた。その意味で、これは誰より民を愛した彼らしい革新だったと言える。

 

 北郷一刀は考えていたのだろう。漢の腐敗だけでなく、歴史に名を連ねる数多の国の末路から、その原因について。その末の結論がこれだったということなのだろう。

 

 国家体型の創造。北郷一刀の築いた『千年国家』計画には民のことが深く考えられていた。

 

 北郷一刀はこの革新を進めるにあたって『ある人物』と対話をしている。

 

 『その人物』は北郷一刀の無二の親友であり、北郷一刀自身が教えを乞うたある意味師とも言える人物だ。

 

 後の時代において『この人物』を知らない人間はいないだろう。

 

 

 『神医』、華佗。

 

 今なお、医学界の神とまで言われる、世界初の外科医として有名な男だ。

 

 神農大帝から脈々と受け継がれる五斗米道の唯一の正統継承者であり、後述するが北郷一刀と共に龍の退治まで行ったとされる人物。当時の人々からは『医者王』と呼ばれ、民からの人気では北郷一刀に勝るとも劣らぬほどであったと言われている。

 

※五斗米道…発音は漢字圏にしては珍しい「ゴットヴェイドー」である。この読みを間違えるのは五斗米道に対する侮辱になるとされている。五斗の米を対価にいかなる医療行為も行うとする教えである。ただし華佗自身はこの「米」に関する教義をあまり守っておらず、重税に苦しむ村などでは無償で治療を行っていたとする記録が確認されている。五斗米道は医学としての教えだけでなく、宗教的な教えも多く、五斗米道(ややこしいが、教義を指して「ごとべいどう」と発音する)では悪行を行ったものは三回までは許す、いかなる命も見捨ててはならないなど儒教的な教えも含まれている。なお、北郷一刀との対話をきっかけに華佗の手によって教義の一部が改変された形跡がある。

 

 華佗と北郷一刀の衛生観念と治政、医学、文化など様々な分野を題材に行った対話をまとめた本、『大陸王と医者王の対話』はあらゆる分野で聖典とされ、医学の分野では四大聖書に数えられる。余談だが徳川家光はこの本を手本に、田舎だった江戸を大都市にしたらしい。

 

 華佗は乱世の間大陸中を旅して、各地で医療行為を行っていたため、話題は豊富で、『大陸王と医者王の対話』は後の時代、文官育成の教本や帝王学の必須科目として使われている。

 

 話を戻そう。

 

 北郷一刀は各分野の人間と対話をした上で、新たな社会の創造に踏み切っている。

 

 しかしここまで革新的でなお、北郷一刀の目指していた形にはまだ程遠かったようだ。

 

 『北郷の書』の存在がそれを主張している。現代から見るとよくわかるのだが、当時彼の影響を受けていない分野はない。農業、林業、水産業、商業、製鉄業、医学、帝王学、材質工学、力学、戦術、武術、錬金術、政治に宗教的価値観など上げるだけでもきりがない。

 

 

 だが現代に至ってなおも、『北郷の書』には未解明な部分も多い。

 

 現代の立ち位置から見ても、意味不明な言い回しも多く、幼稚な説明と思われかねないものや、中には勘違いすら疑われかねない内容まである。多くの歴史学者が、「このあたりが当時の限界」と高を括っているが、私の考えは違う。私は、『北郷の書』一部が散逸していることが原因なのではないかと見ている。

 

 『北郷の書』はその書簡一つとっても十二分な価値を有する。

 

 しかし、『北郷の書』は単体で機能し切ることはできない。

 

 『北郷の書』は内容が数巻にわたっていたり、数十巻前に説明したことを当然知っているものとして書いていたりする。

 

 中には第3巻、第127巻、第5446巻の内容が揃って初めて第29404巻の技術が成立したものもある。ちなみに、これで完成した技術は電話である。

 

 つまるところ、今現在失われている部分が補完されなければ、『北郷の書』の全てを読み解くことはできず、そこまでの技術を自力で開発しなければ、全てを成立させることはできないのである。

 

 そして読者の皆様もご理解いただけている通り、『ある目標に到達するための手段は必ずしも一つではない』のです。

 

 たとえば、無人島で火を点けるために人は何をするのか?

 

 木の棒と板を使うだろうか?それとも火打石でも打ちつけるだろうか?もしくは黒い紙とレンズだろうか?あるいは偶々発見した鑑で太陽光を収束させるのも面白いかもしれない。

 

 そう、火を点けるだけで、私ですらこのくらい思いつく。『ある目標に到達するための手段』はいくらでもあるのだ。それならば、我々の知らない技術で北郷一刀が『ある目標に到達するための手段』を考えていても不思議ではない。

 

 

 人間の考え、発想できるものの数には限界がある。

 

 つまり、『ある目標に到達するための手段』は本当のところ星の数ほどあるかもしれないが、人間が考え出した方法はせいぜい5つや6つくらいなのだ。現に私が先程火を点ける方法を考えた時、手段は5つしかなかった。読者の皆様の中にも、他の手段を考えられた方もいらっしゃったはずだ。

 

 我々の考え出した『道程』が、たとえ北郷一刀の目指した目標に『到達』していても、北郷一刀の考えていた『道程』と同じとは限らない。

 

 そして我々がこの先、北郷一刀と同じ『道程』を発見できるとは限らないのだ。

 

 だからこそ私は非常に惜しいと思う。

 

 『ある目標に到達するための手段』から派生する技術という者は非常に多い。

 

 残念ながら、現在残っている『北郷の書』はおよそ6割程度しかない。歴史の変遷の中で消失したもの、世界に散逸したものなど様々な経緯を辿っている。

 

 ただし、第1巻に関しては歴代の中華王国の王族が代々継承し守っている。そして2007年1月26日初めてその一部が公開された。その全てが公開されるのは今から2年後、2010年4月2日と現中華の王、習遠氏は明言したのは皆様の記憶にも新しいだろう。

 

 『北郷の書』には、ある一つの興味深い事実が存在する。

 

 失われてしまっている残り4割に、その事実を覆す内容が書かれている可能性もないわけでもないが、おそらく書かれてはいないだろう。

 

 『北郷の書』を目にした歴史上の偉人たちの内、何名かはこの事実に気付いていただろうが、その生涯において指摘したという記録はない。そもそも指摘しようなどとは思わなかったのだろう。

 

 その事実を指摘したのは、オッペンハイマーだった。彼はこう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『北郷一刀は私の犯した過ちを犯さないように気を付けていたようだ。彼は私とは違う。非常に優秀だ。私は愚かだった。彼は、自分の技術が兵器転用されないような細心に注意を払って『北郷の書』を書いていたんだ。私もその可能性に辿り着きたかった。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オッペンハイマーは「マンハッタン計画」のチーフであり、原子爆弾の生みの親である。

 

 オッペンハイマーは核兵器開発後、その恐ろしさに深く後悔し、現在の原子爆弾排斥派最大組織である核兵器根絶主義、通称『NWEP』という組織を自ら立ち上げた人物である。

 

 オッペンハイマーは自ら過ちを犯して、『北郷の書』の未来を見据えた慎重な言葉使いに気付いたのだ。

 

 『北郷の書』は兵器転用可能な技術に関する記述において、意図的に他の使い方に目が行きやすいように書いてある。

 

 ただし完璧ではない。

 

 北郷一刀も人間であり、読む側も人間なのだ。当然気付く者は気付く。しかしオッペンハイマーが指摘するまで、誰も指摘していないのだ。

 

 話を戻そう。私はどうも脱線する癖があるようだ。失礼した。

 

 三国の争いが無くなってから、大陸を大きく変えた北郷一刀だが、彼の下にいる民は人間だ。従って、どれだけ彼が努力しても疫病などが消えることはありえない。

 

 ここで私は、この頃に関する『ある伝説』について言及していこうと思う。

 

 それが事実であったのか、はたまた、ただのおとぎ話なのかはわからないが、内容は有名なので皆様もご存じだろう。北郷一刀の二つ名にもある『龍退治の英雄王』という話だ。

 

 『龍退治の英雄王』はおとぎ話としての方が有名だろう。

 

 内容は極めて簡単だ。

 

 「民が疫病に苦しんでいることに悩んでいた王は、国一番の名医に意見を求めた。名医が言うには龍の肉があればこの疫病を乗り切れるという。王は国中の精鋭6人の兵と名医を引き連れ、龍の被害で荒れ果てた最果ての地に向かい、見事龍を退治し、民を救った。」

 

 

 王というのは言うまでもなく北郷一刀のことだ。名医に関しては前述した華佗のことである。

 

 龍は幻想上の生き物として知られているが、古代種、すなわち恐竜の生き残りのような生き物の存在は、記録として多く残っている。

 

 現実的な見方としては、南蛮に生息いていた大蛇と考える説がある。南蛮の記録では、全長20m級の超巨大な蛇もいたことになっているので、そう言ったものであった可能性は大いにある。

 

 しかし、古代種の蛇の骨が残っている訳ではなく、龍そのものの何かが残っている訳でもないので、北郷一刀らが実際何と戦って、何の肉を持ち帰ってきたのかは不明である。

 

 ただわかっていることは、北郷一刀らが持ち帰った肉で、疫病に苦しんでいた民の多くが救われたということだ。

 

 このとき、北郷一刀が将軍級の人間を連れて行かなかったことにも理由がある。

 

 五胡の動きが活性化してきていたのだ。

 

 疫病で死にかけの国など、普通は接触したくもないはずだが、五胡には呪術師と言われる存在がおり、呪術師には疫病を浄化する力があると考えられていたため、大陸側としては一方的に自分達が弱っている状態だったのだ。

 

 この状況で将軍級の人間がいなくなれば、即座に攻め入ってくるのは目に見えていた。

 

 それは北郷一刀自身にも言えたはずのことなのだが、北郷一刀には考えがあったようだ。

 

 それは「王が自ら龍退治に向かうなど、敵をおびき出すための罠にしか聞こえまい」という、賭け要素の強い考えだった。

 

 結果的に五胡は攻めてこなかったが、家臣一同から独断専行を諌められ、以後動きが制限されたのはご愛嬌である。

 

 

 その後数年間、治政の下地創りに精を出していた北郷一刀だが、世代交代の波が来た頃、遂に後継者を決めることになった。

 

 この時代は自分の子孫に国を託していくのが常であったが、北郷一刀は魏の無名の軍師、司馬懿に任せた。

 

 しかも北郷一刀は司馬懿の治政に一切口出ししないことを明言し、歴史の表舞台を去っている。

 

 これだけ聞けば、司馬懿の陰謀説すら囁かれかねないが、当時の司馬懿の地位から考えれば、司馬懿の陰謀が北郷一刀に届くとは考えにくい。

 

 おそらく司馬懿の才能を北郷一刀が見出したのだろう。

 

 司馬懿は『晋』を建国したが、正確なところ、三国の国境がなくなっただけで、大きな混乱にはならなかった。

 

 北郷一刀たち、つまり司馬懿たちの先達が敷いた下地の賜物である。

 

 曹操や劉備といった名だたる英傑の最期についての資料はない。

 

 遺言として「自分の葬儀に金などかけるな。そんな金民のために使え。死体はその辺の山にでも適当に埋めればいい。」と言い残しているためだろう。

 

 ただし、一人だけ例外的に気になる人物がいる。

 

 何度も言うが北郷一刀だ。

 

 時期は不明だが、北郷一刀だけは死に関する資料がある。

 

 北郷一刀だからそう感じたのだろうが、私にはどうも胡散臭いような気がしてならない。

 

 彼の死に関する一文がこれである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『天の御使いは天に帰った。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お分かりいただけただろうか?

 

 天に()った。

 

 天に()ったのではなく、天に()ったのだ。

 

 天に()ったなら、我が国の言い回しにもある。

 

 だが天に()ったというならそれは違う意味になるだろう。

 

 しかも彼の最初の二つ名は『天の御使い』である。

 

 これではまるで郷里に帰ったように感じるのだ。

 

 実際彼が余生を過ごすためにどこかの郷里に帰った可能性はもちろんあるが、それを指して『天』というだろうか?

 

 その答えはわからない。

 

 その考えでも『天』という地名は当時どこにもないのだ。

 

 私は、北郷一刀の謎を解く鍵は『北郷の書』、中華王国が守り続けているあの第1巻にこそあると考えている。

 

 根拠もある。

 

 第1巻のみなのだ。中華王国が国家を上げて守っている『北郷の書』は。

 

 私は2010年の公開に立ち会うように中華政府から打診を受けている。当然参加させていただくつもりでいる。

 

 私も歴史を研究し、真実を追い求める一人の探究者として、北郷一刀は興味深い存在なのだから。

 

 

あとがき

 

まずは本書を手に取っていただき感謝いたします。

 

いかかでしたでしょうか?

 

歴史的に最も異端な人物をクローズアップした、ただの歴史考察のつもりでしたが、SF的な要素が入り、いささか詠み辛くなってしまったことをここに深く謝罪いたします。

 

さて、歴史研究家として随分異端な私でございますが、物事を考察するという一点に関してはいささか自信がありました。

 

私は多くの物事をまず一度分解し、一つ一つにとっての答えを導き出したのちに、大前提と大局の折り合いをつける考え方をする人間です。

 

私のこの考察の癖のせいで、三国時代の史実を三つに分けるという恐ろしい暴挙に出たわけなのですが、思いのほか整合性が取れたことに私自身も驚愕しております。

 

本来であれば、もう少し長々と書きたいことがあるのですが、私事で大変恐縮なのですが、皆様に助けを求めたく、このあとがきのページを使わせていただきたいのです。

 

私には、高校二年生の息子がおります。

 

剣道をやっていますが、腕はそこそこで、学力もそこそこ。根は優しく、他人のことでも自分のことのように思い悩んでしまうそんな子なのですが、実は8か月前、突然行方が分からなくなってしまったのです。

 

最後の息子の目撃情報は、8か月ほど前の夜に学校の寮から竹刀袋を持って外出する姿でした。

 

息子はたまに外で素振りをしているときがあったので、目撃した男子生徒も特に気には止めていなかったようなのですが、その日以降、息子の行方が分からなくなってしまったのです。

 

 

私も四方手を尽くして捜索いたしましたが、ついぞ手がかり一つ見つけることができませんでした。

 

現在わかっていることは、2008年4月11日、つまり息子が最後に目撃された日の夜、何者かが息子の通う学校の資料館の骨董品を盗んだということだけでした。

 

当初警察は息子に疑いをかけていましたが、そもそもその骨董品がいつの時代の誰にどう使われていたものなのか、まったく未解明の品だったことと、息子と資料館の接点がその日の前日に友人に誘われるまでなかったことが幸いし、息子はむしろこの事件に巻き込まれたという見方が強まっているとのことです。

 

骨董品はどうやら美術的な価値があるものでも、歴史的に大きな価値が証明されたものでもなく、仮にマニアに売っても、運が良くても平均的なフリーターの月給に届くか届かないか程度の価値しかないとのことでした。

 

皆さんにお願いいたします。

 

どうか、息子の目撃情報等ございましたらご一報いただきたいのです。

 

息子の顔写真を掲載しておきます。

 

どうか、どうかよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

息子、北郷一刀の聖フランチェスカ学園入学当初の写真

 

 

三国歴史考察 著 北郷 優刀

 

第1版発行 2008年12月26日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 
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