No.754091

ソウルリンケージ

あらすじ・八年前の火事で双子の妹を失ってから、他人の思考を感じ取れるようになった高校二年生の少年、陽。
夏休み前に転入して来た女生徒は、妹によく似ており同じ名前を持つ少女、月子だった。

一年ほど前に書いた小説を手直ししました。20115字。

2015-01-27 20:18:22 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:556   閲覧ユーザー数:556

 夕闇の中、誰かの呼ぶ声がした。

 助けを求める幽かな少女の声を辿り、彼は制服のジャケットを翻して夜の住宅街を疾走した。角を曲がれば黒々とした人だかりが出来ており、小さな呼び声はその内側から聞こえてくる。

 ひしめく暴徒を引き剥がしながら声の主を探すと、しゃがみ込んで怯えていた少女がその白い顔を上げた。

 

「……月子?」

 

 柔らかく降り注ぐ月光の中、彼の口からは何故か、八年前に死んだ妹の名前が出た。

 次の瞬間、少女の周りからぱっと火の手が上がり、息つく間もなく彼女は炎に包まれる。これは夢だ。彼は咄嗟にそう思った。八年前に起こった火事が今、目の前で再現されている。あのとき命を落とした双子の妹――――月子が、悲しげに笑っているのがちらりと見えた。

 

『タ・ス・ケ・テ』

 

 声もなく言葉を辿る彼女の唇は、確かにそう呟いていた。

 どれだけ伸ばそうとも手は届かず、少女の幻影は伸ばした腕をすり抜けて、やがて闇の中へ消えていった。

 

 

 

「陽ちゃん、起きろってば」

 

 背中をつつかれる感覚と聞き慣れた少年の声で、陽は目を覚ました。何故妹の夢を見ていたのか、それすら今では思い出せない。突っ伏していた机から顔を上げると、そこには静かな怒りを湛えた先生の姿がある。

 ぎりぎりと教鞭をしならせる姿に、今がホームルームの最中なのだと彼は思い至った。ふと黒板横のカレンダーを見れば七月十四日を示している。火事で死んだ妹の命日だから、あんな夢を見たのかも知れないと彼は思った。

 

「御神渡。お前はいい度胸をしているな。朝っぱらからホームルームで居眠りなど、この私が許さんぞ」

「……すいません鹿山先生。先生の声を聞いてたら気分が良くなって寝てました」

 

 普通ならここで笑い声でも上がるものだろうが、鹿山先生の前ではそういった茶目っ気も通用しない。怒り狂った先生の目に留まれば、矛先が自分に向かいかねないからだ。

 それでなくとも、陽のクラスは先生方に目をつけられている。居眠りばかりしている陽の成績がずば抜けているだけではなく、彼が他の生徒から気味悪がられているのが一因でもあった。

 陽は常人よりも感覚が鋭敏なために、思考を見透かされている気がして不気味に思う者が多かった。高校生となった今でも変わらず接してくれるのは、真後ろの席に位置する幼馴染の龍星だけだ。

 

「まあいい。今日のところは見逃してやる。夏休み前だが、転校生を紹介する。高峰、入れ」

 

 先生の声と共に、一人の少女が教室内へ入って来た。一瞬にして湧き上がったどよめきはすぐに静まり、誰もが彼女に釘付けになった。

 ふんわりとしたセミロングの黒髪は俯き加減の白い顔にかかり、手を伸ばせば消えてしまう朧月のような儚さを醸し出している。

 彼女は黒板の前に立つと、先生に促されるままに自己紹介を始めた。

 

「高峰月子といいます。よろしくお願いします」

 

 月子が柔らかく微笑むと、どこからともなくため息すら聞こえる。先生は「林の隣を使え」と席を指定し、面倒そうにさっさと教室を後にした。

 指定された席は陽の斜め後ろだった。その隣は先ほど彼をつついて起こした龍星の席になっている。月子は席に着くと、にっこりと龍星に微笑みかけた。

 

「よろしくね、林君」

「こちらこそよろしく、高峰さん。あ、こっちは御神渡」

 

 陽気に紹介する龍星を尻目に、陽は言葉を失った。それは彼女が、夢の中にいた少女によく似ていたからだ。

 遠目ではそうとは分からなかったが、間近で目にすれば雰囲気も驚くほど酷似している。

 

「高峰さん……会ったことあるかな、君に」

 

 唐突な陽の言葉に、龍星は呆れたような目線を彼に向けた。

 

「ちょっと陽ちゃん。高峰さんがかわいいからって……物事には順序ってものがあるよ?」

 

 龍星には口説き文句に聞こえたようだが、月子はくすりと笑っただけで何も答えなかった。ほどなく授業が始まると彼らはそちらに集中し、しばらくは陽も夢で見た話を忘れた。

 

 

 

 その日の授業も終了し、がらんとした教室からは生徒がぽつぽつと消えていく。窓の外を見れば夕焼けに雲がたなびき始め、淡いオレンジ色の光彩を放っている。

 クラスメイトの背中を見送り陽も帰ろうと席を立った時、月子が不安げな表情をしているのが見えた。彼女の表情に、陽はふと朝に見た夢を思い出した。驚くほど現実味の残る感覚に、彼は心がざわめいた。

 

「高峰さん、帰らないの? 最近物騒だし、途中まで送っていこうか」

 

 上目遣いに顔を上げる彼女は、誰の目にも分かるほど青い顔をしている。

 

「御神渡君……ありがとう。お願いしてもいいかな。まだこの街に慣れてなくて不安なの」

 

 不安を押し隠して気丈に振舞う彼女の姿に、陽は微笑んで見せた。

 

「大丈夫。ちゃんと送るから。用意が出来たら行こう」

「あっオレもオレも! 一緒に帰ろう?」

 

 横からひょっこり顔を出し無邪気に笑う龍星は背も小柄で、高二とは思えず中学生にすら見える。明るい色の癖毛が特徴の変わり者ではあるが、陽にとっては憎めない幼馴染ではあった。

 

「じゃあ三人で帰ろう。準備は?」

「オレはいつでもオッケーだよ。行こう!」

 

 カバンを引っ下げ意気揚々と歩き出す龍星に、呆然としていた陽と月子は顔を見合わせ、笑顔を交わした。

 

 

 

 校門を抜けると空はいつになく暗く、三人は付かず離れず夕方の路地を歩いた。振り仰げば空には黒雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうだ。

 

「今日って雨の予報だった? オレ傘持って来てないや」

 

 のんびりとした龍星の口調を聞き流しながら、陽は胸騒ぎを覚えた。この雰囲気はあまりにも――――夢に似ている。薄暗い住宅街。辺りは物音ひとつせず、ただ静まり返っている。あの角を曲がれば月子の自宅は目の前だ。そして――――。

 嫌な予感ばかりが的中する。陽はふとそう思った。

 角を曲がった先には見知らぬ男たちが数人いる。それぞれが手に特殊警棒や鉄パイプ、コンバットナイフを持ち、明らかに彼ら三人を凝視していた。全員制服を着てはいるが、高校生のようには見えない。そして七月だというのに、彼らが着込んでいるのは冬服のように黒い長袖だ。

 

「陽ちゃん……。変な奴らがいる」

 

 龍星がそう言い終わるよりも早く、男たちは三人が逃げられないよう駆け寄り、ぐるりと周囲を取り囲んだ。

 

「お前より変な奴はそういないよ、龍星」

「そうかな? とりあえずどうしよう。こいつら危なそうじゃん」

 

 呑気なやりとりを交わしながら、二人は取り囲む男たちを睨み付けた。総勢五人。二人でも何とかできる人数ではあるが、彼らの背後には無防備な月子がいる。

 

「俺が奴らの注意を引くから、高峰を連れて安全な場所に行っててくれ。後で落ち合おう」

「……わかった。気をつけてね。陽ちゃんなら大丈夫だろうけど」

 

 陽の言葉を受け、龍星は振り向くと手前にいた男を見据えた。にやける男に侮蔑の視線を向けると、そいつが楽しげに舌なめずりをするのが見える。

 

「何ニヤけてんだよ。気持ち悪い奴」

 

 龍星がそう呟くのと同時に、男の視界からその姿が消え失せる。驚いた男が目を瞬かせると、不意に視界が歪み、気付けばアスファルトの上に肩から倒れ込んでいた。

 姿が消えた瞬間、龍星は驚くべき速さで屈み込んで蹴りを放っていた。両腕を軸にした蹴りは鮮やかで、龍星は間隙を縫って立ち上がると、月子の手を引いた。

 

「高峰さん、こっち! あとは陽ちゃんに任せて」

「で、でも……。御神渡君が危ないわ」

「平気平気。オレらはガキの頃からじいちゃんに稽古つけられてるからさ。詳しい話はあとにしよう」

 

 月子を連れて駆け抜ける龍星を横目で見送り、陽は男たちに向き直った。龍星に蹴り倒された男も起き上がり、彼を睨みつけている。全部で五人。彼が仮に武道の達人であったとしても、一対多は恐ろしく不利に見える。

 ゆっくりと拳を構える陽を嘲笑いながら、男たちは一斉に飛び掛かった。手に手に凶器を振りかざして迫る姿に、常人は怯えて震え上がるだろう。

 うなりを上げた鉄パイプが振り下ろされる瞬間、陽の姿がふわりと掻き消えた。アスファルトを叩き付ける耳障りな金属音が周囲に木霊し、男の一人が苦々しい表情で辺りを見回した。

 

「クソッ! どこへ行った!」

 

 その言葉も終わらないうちに、他の男が声を上げた。陽は鉄パイプをかわして、すでに彼らの背後に回りこんでいる。

 息つく間もなく正拳で一人が倒され、横にいた男も強烈な肘打ちを胸に受け、地べたを這いずった。

 目にも留まらないその立ち居振る舞いは、まるで相手の思考を読んでいるようにすら思える。苦しげな呻きを漏らしてのた打ち回る仲間に、残る男たちは冷や汗をかきながら引きつった笑みを見せた。

 

「これが《フォアサイト》の能力者、の御神渡か。本当に心を読んでるかのような動きをしやがる。お前、周囲の人間に気味悪がられているそうじゃないか。『まるで他人の思考を読んでいるみたい』なんだってな」

 

 笑いながら挑発を繰り返す男たちに対して顔色も変えず、陽は更に間合いを詰めた。手前にいた警棒男の膝を踵蹴りで折ると、すぐさま横へ跳躍する。突き出されるコンバットナイフをいなして左脚を軸にした回し蹴りで脚を掬い、アスファルトの上に叩き付けた。

 

「残ったのはお前だけだな」

 

 五人のうち四人はすでに叩きのめされ、陽の足元に無言で転がっている。取り巻きを倒されたリーダーは狼狽し、鉄パイプを放り出すと落ちていたコンバットナイフを握り締める。

 汗でぬめる指がナイフを取り落としかけたが、すぐに握り直された柄はぎりぎりと金属が擦れる音を立てた。

 

「噂に違わぬ化け物だな……。特殊訓練を積んだ我々を相手に、普通の人間が勝てる訳がない」

「勝てるさ。俺は人の心を読んでる訳じゃない。そいつがどんな行動を取るか、それが予め《視える》だけだ」

「抜かせ。だがお前が我々に勝ったところで、あの二人は逃げ切れん。向こうには精鋭八人で構成されたチーム《チドリ》が先回りしてるんだ」

「……言いたいことはそれだけか?」

 

 静かに呟くと陽は地を蹴り、ナイフの間合いよりも深く懐へ入った。予期しない行動に男は怯み、動体視力に任せてナイフを振り回した。その意図すら理解しているかのように、陽は全ての刃を避け切った。

 最後の一振りが頬を掠めた瞬間、男の手首をがっちりと握ると左拳で叩き折り、ナイフを落とさせた。そのまま引き倒して後頭部に肘を当てると、男はそのまま路上にのびて気絶した。

 

「余計な世話だ。龍星は俺より修練を積んでる。……恐ろしく強いよあいつは」

 

 無言で転がる襲撃者たちを一瞥し、頬の血を拭うと陽は二人を追って駆け出した。

 

 

 

 五人の襲撃者から逃れた後、龍星と月子はひたすら走り続けた。

 辺りはすでに夕暮れを過ぎて宵闇が迫りつつある。息の上がった月子を気に掛け、龍星もその場に立ち止まった。

 

「高峰さん平気? 振り切ったとは思うけど、もう少しだけ移動しよう」

 

 いつしか二人は住宅街から離れた繁華街の近くまで来ていた。極彩色の明かりが薄暗い舗道に不気味な影を伸ばし、不意に彼らの行く手を遮った。

 

「急いでいるんで、どいて下さい」

 

 龍星はぞろりと揃った八つの影にそう声を掛けた。影たちは音も無く二人に近付き、静かにその行く手を阻んだ。

 

「そこにいる女を渡せ。そいつは我々の研究所から逃げた大切な被検体なのだ。貴様を殺してでも返してもらう」

「ヒケンタイ? ヒケンタイって何だろ……? まーわかんないけど、邪魔するならぶっ飛ばす」

 

 月子を背後に庇いながら龍星はニヤッと笑った。

 たった独りで誰かを護りながら八人を相手にするなど、正気の沙汰ではない。それでも勝算があるのか、龍星はじりじりと迫る影たちを睨みながら後退した。

 

「お前らってさ、陽ちゃんが怖いからオレらをわざと逃がしたの? 分断すればやりやすいって思ったんだ。ナメられたもんだね」

「ナメてるんじゃあない。我々の目的はあくまでもその女と御神渡だけだ。お前のような普通の人間は研究対象としては不必要」

 

 男の言葉に、龍星は人知れずそっと目を細めた。その笑みは普段の無邪気な彼とは思えない、不気味な冷たさを放っている。

 

「何だ。やっぱりナメてるじゃん。……だったら教えてやるよ。普通の人間にねじ伏せられる絶望をさ」

 

 そう呟くと彼は月子を庇いながら素早く屈み込み、最も近い男の脚を勢いよく払った。もんどりうって倒れる男を尻目に、気の逸れた者を本能的に見分け、体勢を崩した一人に襲い掛かった。みぞおちに拳を打ち込むと慣性に任せて痩躯を反転させ、次の獲物へ鋭い蹴りを放つ。

 龍星の不意打ちを受けた者たちは呻き声ひとつ上げず、目を見開いたまま気絶した。

 次々に倒れる仲間を見て、男たちは怯んだ。一瞬のうちに三人も倒され、残るは五人。たった一人を相手にしているというのに、彼らは半ば戦意を喪失していた。

 

「退け! 撤退だ。一度研究所へ戻り指示を仰ぐ」

「バカだね。オレが逃がすとでも思ってんの?」

 

 恐怖に立ち尽くす男へ振り向くと龍星は身を翻し、強烈な裏拳を顔面へ打ち込んだ。白目を剥き、口から血を垂らしながら崩れる男を飛び越えると、呆然としていた一人が悲鳴を上げた。

 

「悪いね。オレは陽ちゃんみたいに優しくないからさ。弱くても手加減はしない」

 

 楽しげに声を上げて笑う龍星に、襲撃者たちは完全に呑まれた。声にならない戦慄が彼らを支配し一人、また一人と残った者たちは闇の中へ走り去り、その場にはリーダーと思しき男だけが取り残された。

 

「残りはアンタだけだね。手下と一緒にさっさと逃げればいいのに」

 

 龍星が笑いながら近付くと、男は喉の奥で小さく悲鳴を上げた。その様子に一瞬、龍星の気が緩む。

 その瞬間。ナイフを取り出した男は素早く横に跳躍し、暗がりにうずくまっていた月子の髪を掴み立ち上がらせた。彼女の喉元にぴたりと冷たい刃を当てるのを見て、龍星の顔色がさっと変わるのが分かる。

 

「そこまでだクソガキ。この女を死なせたくなかったら、お前がとっとと失せろ。振り返るな。行け!」

 

 龍星が行動を決めあぐねていると、男は手を緩めずナイフを少しだけ引いた。刃が残した赤い一筋からは血液が滴り落ち、彼は唇を噛んだ。

 月子の身を案じるのであれば、男の言う通りにするしかない。己の不覚を悔いながら、龍星は目の端に何かがよぎるのを見た。

 

「……わかったよ。オレはもう何もしない。だから高峰さんを放してくれよ。そうじゃないと……」

「そうじゃないと……何だ? 言ってみろ」

 

 男は嘲るように龍星を見た。不気味に歪める口の端から読み取れるのは、勝利を確信した者のどす黒い高揚だ。

 

「アンタがもし高峰さんを放さなかったら……陽ちゃんがキレると思うんだよね」

 

 その呟きが終わるよりも早く、男の前に躍り出る影があった。言葉の意味を理解する間もなく、男はナイフを持った腕を蹴り上げられ、顎に正拳が打ち込まれた。

 急所をしたたかに打たれ、男はよろめいて月子から手を離した。顎を押さえて膝をつくと、見上げた先には怒りに満ちた双眸の少年がいる。

 逆光で表情は窺えないものの、射るような視線からは、息の根を止めかねないほどの威圧感を覚える。臆している訳でもないのに、男は震えが止まらなかった。

 

「俺の連れに手を出すな」

 

 静かな怒気を孕む影は、そう言葉を発した。

 黒鈍色の髪に線の細い眼鏡。右手の甲に火傷の痕を見受け、それが研究所から《特定高位異能者》に指定されている御神渡陽なのだと男は気付いた。

 

「御神渡陽……。未来視《フォアサイト》の能力者か」

 

 チームメンバーがことごとく倒された今、男の状況は不利でしかなかった。一対三な上に能力者が二人では、万にひとつでも勝ち目はない。

 辺りを見回し逃れられそうな隙を見つけると、男は物陰に滑り込むようにその場から奔逸した。男が消え失せた路地からは悪態じみた叫びが聞こえたが、何を言っているかは定かではなかった。

 龍星が声を上げ男を追おうとしたが、陽に止められて渋々追撃を諦めた。男が消え失せた暗がりに目をやれば、ふらふらと崩れ落ちた月子が残されていた。

 

「大丈夫か、高峰。血が出てる」

 

 陽も屈み込むとハンカチを取り出し、彼女の血をそっと拭った。思ったよりも傷は浅く、傷口から新たな出血は見られなかった。

 

「ありがとう御神渡君。……ごめんね。二人を巻き込んでしまったみたい」

「さっきの奴らを知っているのか? あんな連中に目を付けられなんて、一体何があった」

 

 陽の言葉に月子は一瞬黙り込んだが、立ち上がると思いつめた表情で口を開いた。

 

「さっきの人たちは、私が育った施設の職員なの。一見普通の保護施設のように見えるけど、月に一人か二人、子供が行方不明になることが多かった。最初の頃は施設を嫌って脱走する子がいるんだと思ってたわ。でもそうじゃなかった」

「脱走じゃなかったのか。じゃあ誰かが連れ出してたのか?」

 

 陽の言葉に月子は頷いた。

 

「ええ。十一歳のとき、私は園長先生に呼び出されて園長室へ行ったの。そこには知らない男の人がいて、私を別の施設へ移送する話になっていたわ。いなくなった子たちもそこにいるんだって言ってた。でもそんな話全然聞いてないし、怖かったけど……ついていくしかなかったの。たとえ逃げ出しても、子供一人では生きていけなかったから」

「連中が子供たちを移送させていたのか? 施設と共謀して……」

「あの施設は普通じゃなかったわ。園内のテストでクラスを分けて、成績のいい上級クラスの子から次々といなくなった。あの人たちは子供を集めて何かをしようとしている」

 

 恐怖に身を震わす月子を宥めるように陽は肩に手を置いた。ぴくりと肩がはね月子は陽を見上げたが、少しだけ安心した顔つきになっていた。

 

「確かにさっきの連中、ヒケンタイがどうとか、陽ちゃんと高峰さんが目的とか言ってたなあ。陽ちゃんの能力も知ってるみたいだったし、何かある」

 

 龍星がちらりと視線を動かした先を月子も見た。そこには目を伏せた陽の顔があったが、彼は何も言わなかった。

 

「陽ちゃんはさ。昔の火事が原因で、人の心の動きを少しだけ感知するんだ。驚きだよね!」

 

 あっけらかんと話す龍星に、月子は驚いた表情を見せた。およそ人に触れられたくないであろう部分を――――それも会って間もない人間に――――さらけ出すことを許しているのは、互いに信頼しているからなのだろうか。

 

「龍星。そんなこと別に言わなくていい」

「何言ってるのさ。こういう大事な話は最初にしておいたほうがいいって。変な人だと勘違いされたままになるよ」

「変なのはお前だけだ」

「ひどいなー」

 

 緊張感のない二人のやりとりに堪えきれず、月子はとうとう噴き出した。笑うなどいつ以来だろう。彼女は施設に預けられてから笑ったことなど無かったように感じた。自分の殻に閉じこもって誰にも頼らず、誰にも心を開かなかった。それは他人を信用していなかったからに他ならない。

 それでも今は、陽と龍星がいる。今日出会ったばかりなのに、この二人はそれを感じさせないほど気の置けない仲間のように思えた。

 

「ありがとう、御神渡君、林君。私のせいで危険な目に遭わせてしまったのに……」

 

 月子は陽の頬に走る傷を見て言葉を切った。ふと顔を伏せ、再び上げたときには、その瞳に強い決意が宿っていた。

 

「私が施設から連れて行かれた先は、《人類可学研究会》という研究所だったの。人間の限界能力を引き出すという名目で、毎日のように人体実験が繰り返されていた。……私は声が特徴的だと言われて、ずっとその研究をされたわ」

「声?」

「ええ。例えばこんな」

 

 誰もいない路地で、月子は小さく歌を口ずさみ始めた。透き通るような、柔らかく優しい声。そして白い指を伸ばし陽の頬にそっと触れると、傷を指先で辿った。

 切っ先が掠めただけの傷はもとから深くはなかったが、彼女が触れた瞬間、痕すら残らないほど塞がっていった。

 

「これが私の能力《レゾナンス》よ。歌で能力者との共鳴を引き起こして能力を倍化するのが役目だけど、音波振動によって細胞の活性を促して治癒も出来るの」

 

 月子の指が自らの喉にも触れると、先ほどまで残っていた傷はすでに跡形もなくなっていた。

 陽と龍星は目を見張ったが、傷を直ちに治すなどという奇跡を見せ付けられては信じる外はない。

 

「驚いたなー。こんなことが本当にあるなんて。でもこれほどすごい能力があるなら、研究所って奴らが追ってくるのもわかるな」

 

 龍星は感心しながら頷いた。

 

「陽ちゃんのことを知っていたのも、そういう研究をしようと思ったのかな。だから捕まえようとしたんだ」

 

 俯いて今にも泣き出しそうな顔をする月子を見て、陽はふと妹を思い出した。あの火事の日も――こんな表情を見た気がした。

 不意にひどい頭痛が襲い、陽は頭を抑えて膝をついた。思い出したくない記憶。それは奇しくも、妹と同じ顔と名前を持つ少女によって想起させられている。

 

「陽ちゃん……大丈夫? 顔色悪いけど」

 

 龍星の声で陽は我に返った。顔を上げれば月子も心配げな顔で彼を見ていた。

 

「大丈夫だ。ちょっと頭痛がしただけだから」

 

 陽は二人に笑いかけたが、龍星にはすっかり病人扱いをされるはめになった。

 辺りの安全を確認して月子を自宅まで送り届けると、彼らもまたそれぞれ帰宅することにした。最後の分かれ道まで来ると、それまで黙り込んでいた陽がふと口を開いた。

 

「あの子……似てるよな」

「高峰さんのこと?」

「……ああ」

 

 陽の言いたいことを察知したのか、龍星は真面目な表情で頷いた。

 

「似てると思う。けどさ、あんまり思い詰めない方がいいよ。八年前、月子ちゃんを助けられなかったのは陽ちゃんのせいじゃない」

 

 その言葉に陽は何も返さなかった。それでも空気を感じたのか、龍星は小さく呟いた。

 

「高峰さんを研究所の奴らから護りたいと思ってるでしょ。それ自体には賛成だけど、陽ちゃん自身も危ない目に遭うよ」

「わかってる。自己満足なのも理解してる。何かが変わる訳じゃないのも知ってる」

 

 火傷の痕が残る右手を握り締め、陽は目を伏せた。

 

「それでもこの力を得たのは……月子が誰かを護れと言っているように感じるんだ」

 

 すでに日も落ちた路地の空気は夏だというのに肌寒く、遠くでちらちらと明滅する花火の色彩を鮮やかに伝えた。

 母と妹を失ってからの八年間、陽の目には灰色の街並みしか映っていなかったに違いない。それが今、誰かを護りたいと思う気持ちが彼を動かしている。

 それは五歳の頃から陽と月子の兄妹を見てきた龍星が一番よく理解していた。兄弟のいない彼には二人はまばゆい存在でもあったからだ。

 

「しょうがないなあ。陽ちゃんだけじゃ危ないからオレも付き合うよ。絶対無茶だけはしないでね。陽ちゃんに何かあったら、亡くなった月子ちゃんに顔向け出来ないからさ」

「……ありがとう、龍星」

 

 素直に頷く陽にため息をつきながら、龍星は背を向けてまた明日、と手を振った。

 その姿を見送り、陽もまた帰路についた。誰もいない真っ暗なアパートも、この日ばかりは花火の照り返しで何故か明るく見える。

 家族が誰ひとりとしていない辛さも、失った悲しみも――――彼女の笑顔を思えば洗い流せそうな気がした。

 

 

 

 翌日、変わらない様子で月子は登校して来た。

 あれだけの大立ち回りすら夢だったのではないかと思えるほど、彼女は穏やかに陽や龍星と過ごした。二人は彼女を連れて校内を案内して回り、その様子は慣れないクラスメイトを気遣う仲の良い友人同士にしか見えない。彼らが昨晩、素性も知れぬ不気味な敵と戦ったなどと誰が思うだろうか。

 何事も無く授業が終わると、陽と龍星は昨日のように護衛を申し出たが、彼女は今日は大丈夫、寄るところがあるから、と微笑みながら手を振って教室を出ていった。

 

「大丈夫かな? 昨日の今日だし、オレはちょっと心配だな」

 

 真面目な表情で思案する龍星に、陽は笑って返した。

 

「本人が平気だって言うんだから大丈夫だろう。昨日あんなことがあったばかりだからなおさら、もう俺たちを巻き込みたくないのかも知れないしな」

 

 それはそうだけど、と龍星はふて腐れた視線を向ける。こういう顔をするときは、ろくでもない企みを抱えているのだ。

 

「高峰さんを尾行してみようよ」

「言うと思った……」

「だって心配じゃん。陽ちゃんは心配じゃないの? 昨日のような多人数で来られたら、一人じゃ絶対危ないって」

「それはそうだけど……出すぎた真似はよくない。そもそも気付かれたらどうするんだ」

「じゃあ気付かれなければいいよね! そうと決まれば善は急げ!」

 

 人の話を聞いていないのか、それとも聞かないふりをしているのか。一人で揚々と教室を駆け出す龍星に呆れながら、陽も仕方なくその後を追った。

 校門を抜け辺りを捜してみると、駅ビルとは反対方向の角を、月子らしい人影が曲がって行くのが見えた。

 駅から離れるに従ってひと気が少なくなるこの一帯で、人影は十年以上前に廃棄された廃工場が建つ空き地へ向かっている。

 

 入り組んだ古い街並みのお陰で、陽と龍星は身を隠す場所には困らなかった。当の月子は臆することなく黙々と歩き続け、辺りを窺うことすらない。周辺を歩きなれた様子に陽は違和感を覚えたが、言葉には出さずただ姿だけを追った。

 街はずれにある廃工場の入り口まで来ると、月子は周囲を警戒しながら内部へ足を踏み入れた。軋む鉄扉を押し開け、気付かれないよう二人も敷地へ入ると、息を潜めながら彼女の行く先を見守った。

 不意に月子の足が止まり、誰かと話す声が聞こえて来る。先客だろうか。そこにいるのは三十代半ばと思しき男だ。夏だというのに黒いコートに身を包んだその姿は、明らかに尋常ではない。

 

「誰だろあれ。高峰さんの親父さん……な訳ないか」

 

 小声で呟く龍星に陽も同意した。親子ならこんな場所で会う理由がない。そして特に親しげにも見えない上に、二人は口論をしていた。

 

「なあ陽ちゃん。あいつら何しゃべってるか聞こえる?」

「遠すぎて内容が分からないな。心の動きも掴めない。五メートルくらいまで近付かないと無理だ」

「五メートルかー。近すぎてバレちゃいそうだな」

 

 でもこのままにはしておけないし、と龍星は音を立てないよう物陰に隠れながら接近を試みた。その後姿を追いつつ、陽は口論をしている二人に目をやった。

 口論とはいっても、終始声を張り上げているのは月子だけだ。相手の男は宥めるように笑いながら言葉を選んでいる。

 あと十メートルと迫ったところで、男のコートが見覚えのあるものだと陽は気付いた。

 

「あの男……昨日の連中の仲間じゃないか?」

 

 陽の言葉に龍星も男をまじまじと眺めた。コートの下にあるのは、確かに昨晩の襲撃者と同じ制服だ。辺りを見回しても仲間がいる気配はなく、男が一人でここへ来て月子を呼び出したのだろうと推測出来た。

 

「高峰を助けなければ」

「え? ちょ、ちょっと陽ちゃん!」

 

 いきなり飛び出した陽を追って、龍星も物陰から駆け出した。二人の気配に気付いたのか、男はやおら振り返り、にんまりと笑った。

 

「おや。職務放棄かと思いきや、きちんとこなしてるじゃないですか。やはりお前は真面目な子だよ月子」

 

 微笑を湛える男とは対照的に、月子は青ざめた顔を二人に向けた。

 

「どうして……。どうして来ちゃったの。二人を危ない目に遭わせたくないのに」

 

 涙声で呟く月子を尻目に、男は言葉を押し殺して笑った。

 

「君たち、意味が解らないって顔をしていますね。ご理解いただくためにも私が説明しましょうか?」

 

 男が何かを呟き握り締めた拳を開くと、そこにはコンバットナイフが現れていた。懐やベルトから引き抜いた訳でもないのに、抜き身のナイフが突然手中にあるのだ。

 驚く陽と龍星を気にも留めず、男は言葉を続けた。

 

「私の名は十六夜灯明。《人類可学研究所》の所長にして研究者。異能力者にして信奉者。そして異能力者たちを教え導く存在でもある」

「……昨日の奴らの親玉か」

「そう。君は察しが鋭くていいですね、御神渡君。やはりその能力……未来を覗き視る力《フォアサイト》と共に、我が研究所に欲しい逸材だ」

 

 十六夜と名乗った男は掌でナイフを弄びながら楽しげに微笑んだ。まるで商談でもしているかのような言葉運びに、陽はいらついた。

 

「アンタに手を貸すつもりなんてない。高峰を置いてさっさと消えてくれ」

「そうもいきません。彼女は我が研究所が誇る、唯一最高ともいえる異能力感応装置なんです。能力者を探し出し、共鳴して取り込む力に長けている。彼女の協力なしでは、我々の研究は進展しない。月子の魅力に囚われた君なら理解出来るでしょう?」

「……高峰は装置じゃない、人間だ。それにアンタが言ってるのは『協力』じゃない、『強制』だ!」

「これはまた、なかなか手厳しい」

 

 十六夜はナイフを弄ぶのをやめて、右手に握り直した。左腕で月子を引き寄せ、その切っ先を彼女の喉に当てる。

 

「では力ずくで奪ってみては如何ですか。……さあ歌え、月子。私のために」

 

 嫌だというように開いた月子の口からは、絶叫にも似た音が発せられる。苦しそうに喉を震わせるその姿は、命を搾り出しているようにすら見えた。自らの意思とは相反して共鳴装置として酷使される彼女が、いつしか涙を流しているのが彼らの目に映った。

 

「高峰さん……泣いてる」

「……ああ」

「陽ちゃん、どうする? こんなの可哀想だよ」

「決まってる。高峰を助けよう。十六夜の意識は俺の方に向いてるようだから、何とか高峰を引き離してみる。いけそうだったら、高峰を連れて先に外へ行っててくれ」

「わかった。状況を見て判断するよ。無理したら許さないからね」

 

 龍星はその場から静かに離れると、近くの暗闇へと紛れ込んだ。恐らく十六夜と月子の背面側に回り込むつもりなのだろうが、それを悟られないためにも目で追う訳にはいかなかった。

 陽が十六夜に目をやれば、彼は不敵な笑みを湛えたまま右手のナイフを床へ落とした。冷たいコンクリートは澄んだ金属音を立て、構内に木霊を返した。

 

「君がやろうとしていることは分かっていますよ。《フォアサイト》の有効圏内である、半径五メートルまで私に近付くつもりだ。だがそれでは私が不利になるのでね」

 

 能力の射程距離を看破され、陽は焦ったがおくびにも出さず押し黙った。

 十六夜も能力者だと自ら豪語していたが、陽はその能力すら分からない。それに対して相手は全てを調べ上げているように見えた。少なくとも昨夜逃げ帰った部下の報告で、ある程度の情報を得ているのは間違いない。

 

「見せてあげましょう。我が言霊の力――――《リベレイション》を」

 

 不気味に笑う十六夜を見て、陽は身構えた。十六夜は何も持たない右手を再び握り締め、拳を天にかざして呼ばわった。

 

「聞け、我が言の葉の銘。命たる主が名する者、あまねく現身あいまみえ、いにしえの底より顕現すべし。いでよ《雷切》!」

 

 耳をつんざく轟音と共に十六夜が拳を開くと、そこには輝く宝刀が顕現していた。手品かこけおどしと常人は捉えるだろうが、陽はこれこそが十六夜の能力なのだろうと確信した。

 十六夜は掌に顕現した《雷切》を満足げに眺めると、腕の中で歌い続ける月子へ目を向けた。

 

「やはり月子の共鳴能力は群を抜いている。共鳴なしでは、誰もが知り得るナイフや拳銃程度の武器しか顕現させられない。だが能力を大幅に引き上げる共鳴《リンケージ》さえあれば、こうして意識の海から伝説の宝刀を呼び覚ますことすら可能なのです。どうです、素晴らしいでしょう。これが立花道雪が雷神を斬ったという《雷切》ですよ」

「意識の海……? それがアンタの能力か。何も無いところから武器を出すなんて、今どき手品師でもやらないね」

「面白い能力でしょう。不思議なもので、名前をつけ認識さえさせれば、核弾頭からプラスチック爆弾まで何でも具現化出来るのです」

「欲しい物を何でも取り揃えるなんて、まるでコンビニだな。俺を殺したければ銃でも出せばいいのに、これ見よがしに刀とは恐れ入る」

「別に君を殺したい訳じゃない。それに銃器は扱い慣れないもので、精度に問題があってね。命中させられずに懐に入られたら、たまったものじゃないですから」

 

 鞘を抜き放ち刀を構えると、十六夜は月子を突き飛ばすように放り出した。肉体に過剰な負荷があったのか歌は途切れ、床に倒れると月子はそのまま気を失った。

 

「君は幼少から古武道の修練を積んでいるそうですが、真剣と徒手ではどちらが強いでしょうね? 試してみませんか」

 

 楽しげに笑いながら刀を薙ぐ十六夜を避け、陽は一度距離を取った。十六夜の振るう刀のリーチは約二メートルほどだが、陽の射程を加味しているのか、五メートル圏内にすら入れようとはしない。大きく振れば振るうほど隙も大きくなるものだが、修練を重ねた刀捌きはそれすら見出させない流麗さだ。

 接近さえ出来れば刃の軌跡や陽動行為、攻撃目標などを判別出来るが、今はただ動体視力でそれを測る以外にない。予備動作から重心の移動、柄の握り方。それだけでもある程度の攻撃予測は可能だが、全てを避け切れる訳でもなく、また攻撃を加えるすべもない。

 振り下ろされる切っ先を、横への跳躍で避けては体勢を立て直す。見ただけで業物と判る刃は重く、それを軽々と振り回す十六夜には近付くことすら難を極める。陽の体には徐々に刀傷が増え、赤黒い染みがシャツへと広がっていった。

 

「逃げてばかりでは何も出来ませんよ。それとも我が軍門に降りますか? 君の能力なら特別枠を用意してもいい。月子と同じように装置として活用してあげましょう」

「ふざけるな! 俺たちは物でも人形でもない!」

「勿論理解していますよ。人形などと生ぬるい。能力者はこれからの未来を担う兵器となり得る、選ばれた存在なのですから」

 

 薄ら笑いを浮かべながらなおも振りかぶる十六夜に、陽は必死で思考を巡らせた。物体の具現化だけが十六夜の能力だとしても、冴え渡る剣技が接近を阻んでいる。だが懐にさえ入ってしまえば、勝機は陽にあるはずだ。

 どのみち退路の無いこの戦いでは、一瞬の迷いが命取りになる。驚くほど鋭い切っ先は、傷を増やし体力を奪っていく。十六夜の隙を探そうにも、すでに時間もあまり残っていなかった。

 

 刃を紙一重でかわしながら、陽は横目で月子の姿を追った。彼女は未だ気を失っているが、龍星が傍まで辿り着き、抱え起こしているのが見える。

 月子の無事な様子に、彼は人知れず安堵した。彼女さえ助かればいい。後のことは龍星が上手くやってくれるだろう。そのためにも、十六夜に対してある程度ダメージを与えなくてはならない。二人が無事に廃工場を脱出したとしても、十六夜に追いつかれては意味が無いからだ。

 

 ただ一瞬だけでもいい。十六夜の懐に入ることが出来れば。

 きらめく軌跡は仄暗い構内でわずかな夕陽を浴び、網膜に幻影を映し出す。目を閉じれば刃の道筋は持ち主の癖をなぞり、たったひとつの虚点を浮かび上がらせた。

 

 ――――左下に斬り降ろして……返しで右上へ。その瞬間左側が空く。

 

 静かに目を開くと、陽は一か八かの賭けに出た。

 仕合はいつでも手の読み合いだ。これまで彼に敵う者は誰も無く、心の動きを探れば楽に勝てることが多かった。その能力を封じられた今、危険を冒してでも懐に飛び込む必要がある。例えこの虚点が十六夜の作り出した罠であったとしても、その一点に賭けるしかなかった。

 

「護りたい奴を護る。それだけだ!」

 

 流れ落ちる血液を気にも留めず、陽は十六夜の左下側へ滑り込んだ。先ほど十六夜が投げ捨てたナイフを拾い上げ、咄嗟に左手へと持ち替える。

 陽が行動に出たのを知って、十六夜は口角を歪めた。そうでなくては面白くは無い。そして、これまで徒手にこだわっていた相手がなりふり構わず武器を扱う様が、彼にとっては悦楽に等しく心地よかった。

 

 生きるために戦う。生きるために殺す。それは本能であり本質だ。地球上のいかなる生命体でも持ち得る当然の帰結だ。少なくとも、力の信奉者である十六夜はそう考えていた。

 殺せ殺せと鳴り響く脳内の高揚が、十六夜の理性を剥ぎ取った。どうせ相手は高校生だ。何も出来はしまい。徒手での格闘に慣れた者が、ナイフの扱い方など知るよしもない。そういった傲慢が十六夜に隙を与えた。

 

 陽を目掛けて振り下ろす刀が、鈍く不快な音を立てる。

 十六夜は刃が骨に食い込んだのだと思い込み、楽しげに引きつった声を漏らした。腕を一本くらい落としたところで、大した問題ではない。異能力者を蒐集し扱うことだけが、今や彼の生きる理由だった。

 揚々と刀を返した瞬間、十六夜の目に驚くべきものが映った。そこには腕を落とされた少年などいない。確かにあった手ごたえは、腕の上に構えられていたナイフに当たった感触だったのだ。

 

「貴様っ……」

 

 すでに懐に入られていることさえ忘れ、十六夜は怒りに我を忘れた。

 雷切を振りかぶり叩き下ろすと、切っ先は激しく床を打ち据えた。鳴り響く金属音に聴覚を撹乱され、彼は必死に目視で陽の姿を追った。

 

「――――振り向いて、構え直す。一度薙いでから両手で握り、左下へ」

 

 どこからともなく聞こえる陽の声に驚き、十六夜は振り向いた。雷切を構え直すと牽制のために真横へ薙ぎ、左手を添える。

 

「どこだ。出て来い!」

 

 余裕も何もかもを奪われた十六夜は、夜叉の形相で辺りを見回した。しかし何も捉えることが出来ず、じりじりと焼けるような焦りだけが彼を満たしていく。

 

「見つけられる訳がないさ。俺は常にアンタの死角にいるんだから」

 

 闇雲に刃を振り回すも、辺りには陽の言葉だけが淡々と響く。こうなっては十六夜は敗北したも同然だった。陽がとどめを刺そうとしないのは、恐らく仲間が逃げる時間を稼いでいるのだろう。

 

「時間稼ぎなどしても無駄だぞ。廃工場の周囲には、私の部下たちが待ち構えている。蟻一匹逃れられはしない」

 

 こみ上げる哄笑を飲み込むと、十六夜は次々に物質の具現化を始めた。堆く積まれるそれは、多種多様に渡る爆発物の山だ。コンクリートの床へ無造作に置かれた爆薬は、廃工場を丸ごと吹き飛ばすだけの量がある。

 

「残念だよ御神渡君。私の負けだ。だが私もタダで負けはしない。全て吹き飛ばしてフィナーレといこうじゃないか。案ずることはない。幸いここは化学工場跡なのだから、事故として処理されるはずだ」

「冗談じゃない。アンタと心中なんてまっぴらだね。死ぬ気なら勝手に死んでくれ」

 

 陽を逃がすまいと雷切を振るい続ける十六夜の目は、すでに正気すら失っている。

 言霊によって物体の顕現を成す能力とはいえ、最初から爆薬や銃を使っていれば、人ひとり捕えるなど造作も無いことだろう。そうしなかったのは、自らの剣技に絶対の信頼と矜持があったからだ。それを散々に打ち砕かれた後に残るのは――――狂気という名の残骸だ。

 

 どうにかしてここから離れなければ。それよりも二人は上手く逃げられただろうか。状況を確認しながらも、陽の頭は月子と龍星のことでいっぱいだった。

 不意に切っ先が鼻先を掠め、陽は十六夜に捕捉されたことに気付いた。最早一刻の猶予もない。

 計算とは程遠い粗放な一閃をかわしながら、陽は再び十六夜の懐へと飛び込んだ。陽が仲間のもとへ戻ると思い込み、完全に読み違えた十六夜は立て直すことも出来ずに脚を払われ、みぞおちに強烈な肘打ちを食らった。

 

「悪いけど俺は抜けさせてもらう。高峰に手荒な真似をするようなら、もう一度叩きのめす。アンタやアンタの部下が何回来ようとも、何度でもやってやる」

 

 半ば気を失いかけている十六夜は言葉も発せず、無様な姿で床に転がっているだけだった。能力者が正体もなくしているというのに爆薬の山は消えず、未だそこに積み重なっている。

 あまりにも危険で無防備な状態に気付いて、陽はふらふらと入り口へ歩き出した。流した血液はあまりにも多く、ともすれば意識が途切れそうになる。

 陽は震える手で携帯を取り出すと、龍星に掛けた。すぐに応答した龍星の声は落ち着いてはいたが、状況が芳しくないのは雰囲気で分かる。出入り口が十六夜の部下で固められているのだろう。前門の敵に後門の爆薬では、いかに陽といえども打つ手が無かった。

 

「大丈夫か、龍星。こっちは片付いたからすぐそっちへ行く。十六夜の部下がたくさんいるって聞いたけど、どうなってる?」

『すごい人数が集まってるよ。先遣部隊の奴らを倒したけど、表にたくさん残ってる』

「そうか……。こっちも十六夜を倒したんだが、爆薬を仕掛けられて奥には戻れないんだ」

『爆薬っ? とんでもねーオッサンだな……』

 

 絶句する龍星の横で月子の声が聞こえて来た。携帯を渡したのか、声はより鮮明になる。

 

『もしもし、御神渡君? 高峰です。今回のことは本当にごめんなさい。でも……ありがとう。嬉しかった』

 

 月子は一度黙り込んだが、すぐに切羽詰った口調で言葉を続けた。

 

『あのね……爆薬のことなんだけど、爆発する可能性がとても高いの。十六夜先生はそういう人だから、何もかも全て巻き込んで、爆破するつもりだと思う』

「……そうか。どうにか抜け道でも探さないとまずいな」

『私に考えがあるわ。林君と一緒にそっちへ行くね。無理しないで待ってて』

 

 それだけ聞こえると通話は途切れた。確かに陽の体力は限界に近く、おぼつかない足では爆心地から数十メートル離れただけに過ぎない。

 

「ちょっと無理したかもな。龍星に見られたら蹴り殺されかねないな……これは」

 

 白いシャツは血まみれで、理由を知らない者が見れば、通り魔にでも襲われたと勘違いするほどだ。それほどに手ごわい相手だった。そもそも素手で真剣に挑んだのだから、むしろよく勝てたものだといえる。

 大きな主柱の陰で座り込んでいると、月子と龍星が慌てて駆けて来るのが遠目でもわかった。陽の姿を目にした二人の顔は蒼白で、それだけ彼が重傷に見えるのだろう。

 

「大丈夫? すげー血まみれじゃん。陽ちゃんをここまで追い込むなんて、恐ろしい奴だな」

「体はまだ動くからいける。けど、奥に爆薬が残ったままだし、表は兵隊がいっぱいなんだろ? どうしたもんかな」

「その件だけど……私に任せて。爆風や熱と、それに伴う飛来物……衝撃波を打ち消せるなら、何とかなるよね?」

 

 神妙な面持ちで膝をつく月子を見返して、陽は静かに口を開いた。

 

「何をするつもりか分からないけど、危ない真似はやめてくれ。必ず助けてみせる。だから……」

 

 続くはずの言葉が、月子の手によって遮られた。白くたおやかな手はそっと陽の頬に触れ、彼女が小さく歌を口ずさんでいるのが聞こえる。

 

「……私ね、先生の命令で御神渡君を連れ去るためにこの街へ来たの。二人をずっと騙してたんだ。でも怪我をしてまで戦う姿を見ていたら……自分のしていることが正しいとは思えなくなった。だから命令に背いてでも、二人は私が守ろうって決めたの」

 

 月子が触れた箇所はすでに治癒が始まり、傷痕も分からないまでに回復している。

 

「私の歌は衝撃波と同じ波形をしているの。衝撃波同士がぶつかった瞬間の力場を利用すれば、音波の障壁を作れるかも知れない。もし上手くいかなかったら……」

「全員死亡、といったところか」

 

 陽は月子の目を見た。澄んだ瞳は深い苦悩を湛えながらもなお、輝きを失ってはいない。

 

「高峰があいつらの仲間なんだろうということは、何となく気付いてた。そうでなければ一人で行動したりはしないし、もっと慎重になるはずだ。だからこれは俺が自分で選んだ結果なんだよ。放っておけなかった。……それだけなんだ」

 

 その言葉に月子の目からは一筋の涙がこぼれた。

 

「まずは皆で生き残ろう。話はそれからだ」

「……はい」

 

 月子はそっと涙を拭うと立ち上がり、再び歌を口にした。歌が始まって間もなく奥から轟音が木霊し、地響きにも似た激しい揺れが床を襲った。

 

「あちゃー爆発したのかな?」

 

 こんなときまで呑気なものだと陽は呆れたが、言葉とは裏腹に龍星の青ざめた表情はそのままだ。

 

「高峰を信じる。何か出来ることがあれば言ってくれ」

「じゃあ手を……繋いでもいいですか」

 

 陽は立ち上がると静かに伸ばされる月子の手を取り、しっかりと握り締めた。恐怖に震えていた手は、失われた力を取り戻したかのように握り返す。

 

「私の能力は、他の能力者に共鳴してその力を倍化させる。でも自分自身の能力を共鳴させる方法が分からないから……どうか私に力を分けて下さい」

 

 不安に押し潰されそうなその手を握り、陽は念じた。全てを呑み込む赤黒い熱と瓦礫がすぐそこに迫っている。月子が放つ声紋のインパルスが三人を覆い、爆発の衝撃波と融合して巨大な力場を形成した。

 爆発の衝撃波に突き抜けられたらお終いだ。繋がれた手は暖かく、鼓動を感じる気さえする。月子の言う共鳴が陽にはよくわからなかったが、今は彼女を信じるしかない。

 轟音は幾度も鳴り響き、視界はがたがたと揺れる。そのたびに力場は衝撃を受け止めて、悲鳴のような軋みを上げた。やがて最後の爆発と共に天井が崩れ落ち、コンクリートの柱が次々に倒壊していくのが見えた。

 

「陽ちゃん! 崩れて来た!」

 

 龍星の悲鳴に振り仰げば、濛々と立ち込める黒煙の中、支え切れなくなった天井がゆっくりと瓦解するのが見える。まるで現実味のない映像に陽も息を呑んだが、手だけは離さず握り締める。

 彼らが身を寄せている主柱は頑丈な鉄骨が入っているのか、ぐらぐらと揺れながらも必死に天井を支え続けた。次第に轟音も収まり視界が開けると、廃工場があった場所は外郭以外何もかも消え失せ、ただ瓦礫の山だけが残されていた。

 不意に歌が途切れ、月子の体がぐらりと揺れた。倒れかけた彼女を支え、陽は手を握り締めたまま顔を覗き込んだ。

 

「高峰、大丈夫か? 三人とも生き残った。……君のお陰だ」

 

 陽の呼びかけに月子はようやく目を開けた。疲れきった表情に微笑みを湛え、彼女はゆっくりと口を開く。

 

「ありがとう……御神渡君。あなたがいてくれたから、最後まで障壁を維持出来た。御神渡君は人の心を読む能力だって言ってたけど、逆に私の中へ御神渡君の意識が流れ込んで来てたよ。不思議だね。でも私、それでがんばれたんだ。……この人を死なせちゃいけないって」

 

 嬉しそうに笑う月子に、陽はもう一度手を握り締め、ありがとうと呟いた。

 崩落した天井からはうっすらと月明かりが漏れ、すでに日が没していることを告げている。時計を見ればとうに夜の七時を回っていた。

 

「もーこんな時に二人の世界作ってる場合じゃないって。表の奴らがどうなったかわからないけど、今のうちに帰ろう? もう門限過ぎちゃったよ……」

 

 恐怖で半泣きになっている龍星を見て、二人は気恥ずかしげに手を離した。

 

「そうだな。早く帰らないと。龍星のじいちゃん、滅茶苦茶怖いし……」

「そうだよ! 百発殴られるだけじゃ済まないって! 昨日の今日でこれじゃあ、朝まで逆さ吊りかも」

「さ、逆さ吊り?」

 

 思いも寄らない言葉に月子は絶句し、目を丸くする。

 

「門限とお金に関しては厳しいんだ、うちのじいちゃん……。とりあえず高峰さんを送っていこうか」

「そうしよう。これで研究所とやらが壊滅したのかはわからないけど、今日のところは帰ろう。高峰も、もう奴らのところには戻れないんだろうし」

「命令違反をしちゃったら、逆に制裁とか受けそうだよね。高峰さん勇気あるな。戻れる場所がないって、不安じゃない?」

 

 呑気な龍星の問いかけに目を伏せながら、月子は小さく笑って答えた。

 

「不安だけど、研究所が大きくなるにつれて、十六夜先生はおかしくなっていったから……優しい園長先生じゃなくなった頃から、私の居場所はどこにも無かったよ」

「……だったら、この街にずっといたらいい。その方が……俺は嬉しいかな」

 

 不意に見つめ合う二人の空気に、悲しげな龍星のすすり泣きが響く。

 

「あーもう、そういうのまた今度で! 早く帰ろう! オレの方が恐怖で頭がおかしくなりそうだよ」

「そうだな。帰ろう。……皆待ってる」

 

 澄んだ夜空を見上げれば、遠い星々が瞬いているのが見える。

 遠くで打ち上げらえた花火の音が響いて、赤や緑に染まる天空を彼らは懐かしそうに眺めた。


 
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