No.731016

ふたりの約束

たけとりさん

 未完成だったSHT2014秋新刊「小林オペラとシャーロックがデートする話(仮)」が完成したので、タイトルを変えて全文UPしました。
 「ふたりはミルキィホームズ」最終回直後で、オペシャロです。なので、このシャーロックはアニメ版設定で書いています(ホームズがお祖父ちゃんで記憶無くしてないVer)。あとストネロ(というか石流ネロ)。
 ちなみにタイトルは「バスカッシュ!」のOPから。

2014-10-18 23:49:20 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:924   閲覧ユーザー数:915

「何故私に?」

「それが、その……他に相談できそうな人がいなくて」

 大きく眉を寄せ、やや俯き加減に視線をさまよわせる小林を一瞥すると、石流は蛇口を捻り、勢いよく水を出し始めた。

「何も私でなくても……そうですね、例えば二十里先生とか」

 そう口にし、しかしすぐさま顔を曇らせる。

「いえ、アレに相談する方が無謀でしたね」

 鍋についた洗剤の泡を洗い落としながら、深い溜め息を吐く。その言葉を否定すべきか肯定すべきか迷い、しかし石流に相談を持ちかけた時点でそれを肯定しているようなものだったので、小林は取り繕うように力なく笑った。

 二十里海は、脱ぎたがりのナルシストという一面さえ覗けば、決して悪い教員ではない。むしろ遠慮がちな他の職員に比べ、小林には同年代の気さくさで話しかけ、何かと世話を焼いてくれている。そのおかげで取っつきやすくはあったが、きらびやかな己の容姿を誇る奇抜な言動には、流石の小林も気後れしていた。むしろ、感情をあまり表に出さないものの、口数が少ない石流の方が落ち着ける感じがする。

「すみません……」

 カウンター越しに小林が頭を軽く下げると、石流は蛇口を捻って水を止めた。そして鍋を逆さにし、流しの上の棚へと置く。

 夕食が済んだ食堂には、小林以外には、翌日の仕込みの準備をする石流の姿があるだけだった。昼間は生徒達で賑わうテーブル席も今は電灯が消され、大きなガラス窓からは淡い月光が射し込み、染み一つ無いテーブルクロスを白く浮かび上がらせている。その中で唯一、厨房付近だけが煌々と照らされていた。鍋が煮立つ音や、パン生地をこねているであろう機械の音が、定期的に低く唸っている。

「いえ。私で宜しければ」

 別に迷惑ではないと言いたげに、石流は僅かに目元を緩めた。そして腰元のエプロンで濡れた掌を拭うと、小林にカウンターチェアを勧める。小林がそれに腰掛けると、銀色の巨大な冷蔵庫へと向かった。中から、液体が半分程詰まった細長い瓶を取り出し、カウンター前の作業場へと置く。そして棚からグラスを二つ取り出して並べると、それを手早く注いでいった。

 小林がその動きを目で追っていると、石流はグラスの一つを手に取り、ストローを添えて小林の前へと差し出しす。グラスからは、仄かに珈琲独特の香ばしさが漂っていた。どうやらカフェオレらしい。

「作り置きで申し訳ありませんが」

 どうぞ、とストローと共に置かれたグラスを、小林は軽く頭を下げながら受け取った。

「あ、有り難うございます」

 ストローの袋を破ってグラスに差し込み、小林はカフェオレに口をつけた。珈琲独特の苦みは抑え目で、牛乳の柔らかな口当たりと、仄かな甘さが口の中に広がっていく。

「美味しいです、すごく」

 ストローから唇を話すと、小林は目を瞬かせた。

「もしかして、豆から挽いて作ってるんですか?」

「気が向いた時にだけですが」

 やはり分かりますか、と石流は苦笑を浮かべている。彼の話によれば、学院がある丘の下の商店街で、良い豆を見つけた時にだけ、気まぐれに煎れるという事だった。

「カフェで出せるレベルですよ」

 率直な感想を口にすると、石流は僅かに眉を寄せてはいるものの、唇の端を軽く持ち上げている。

「それで、話とは」

 石流はストローを差さず、カフェオレを注いだ自分のグラスに直接口を付けた。背後の作業台に軽くもたれ掛かり、休憩がてら話を聞く体勢になっている。

 小林は申し訳ないと眉を寄せながら、グラスを両手で包み込んだ。そして、グラスの中身を見つめながら、戸惑いがちに口を開く。

「実は、明日、ある子……じゃなかった、女性と二人で出掛ける事になりまして」

「シャーロック・シェリンフォードですか」

 間髪入れず返された人名に、小林は両目を見開き、顔を上げた。

「ど、どうしてそれを……?!」

 これまでの己の言動にシャーロックだと特定されるような要素があっただろうかと、必死に頭を回転させる。だが石流は、どこか哀れみを含んだような瞳で小林を見返した。

「本人が、食堂で歌っていました」

「えっ」

「明日は小林先生とデートです、どこに行こうかな、どこに行こうかな、先生が決めてくれます……みたいなことを」

「あああああ、シャーロックぅぅぅ……!」

 流石に口調は再現されなかったものの、淡々と紡ぎ出された言葉に、小林はカウンターに突っ伏した。石流が耳にしたということは、おそらく食事が始まる直前の給仕中の出来事だったのだろう。

「ですので、教員と生徒の不純異性交遊の片棒を担ぐのは、ちょっと」

「ひ、酷い誤解です、それは!」

 軽く眉をひそめる石流に、小林は身を乗り出した。そして必死に弁明する。

「そ、そりゃぁシャーロックとは付き合っていますけど、メールや電話でやりとりするくらいで、その、まだまだそういうトコロまでは……っ」

 石流は、見定めるように無言で小林を見返している。小林は耳まで真っ赤になりながら、口をもごもごと動かした。

「そ、そういう事はシャーロックが卒業してからというか、僕がちゃんと探偵としてシャーロックを迎えに来られるようになってからというか、別にそういう関係になりたいわけじゃなくて、ええと……」

 段々と、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。小林があたふたしていると、石流は微かに苦笑を浮かべた。

「それで、二人で出掛ける事に何か問題でも?」

 話を戻し、先を促してくる。小林は椅子に腰掛け直すと、「順を追って説明します」と息を吐いた。

 そもそも小林が今回帰国したのは、IDOの命令である。何やら日本のヨコハマで、怪盗帝国以来の組織化された怪盗集団が現れた上に、探偵ライセンスを持っていない謎の探偵チームまで現れたらしい。その為、現状視察して報告せよ、とのことだった。故に、かつて偵都ヨコハマでミルキィホームズの指揮官だった小林に白羽の矢が当たったのだが、小林がヨコハマに着いた時には、幸か不幸か、ちょうど一連の事件が解決した直後だった。我ながら間が悪いと小林は思ったが、ミルキィホームズ達から話を聞いて大体の全貌を把握してからは、IDOの名目で自分が介入せずに済んで良かったかもしれないと、内心密かに思っている。

 結果、IDOへの報告に関しては、フェザーズの件をアンリエットと相談した上で作成し、既にメールで送信していた。

「というわけで、明後日の夕方の便で英国に戻るんですが、明日の予定が丸々空いたので、土曜だし、皆で出掛けることにしたんです」

 小林は一息吐くと、カフェオレに口を付けた。そしてストローから口を離し、軽く眉を寄せる。

「でも、ネロとエルキュールとコーデリアが、急に別の用事が入ったらしくて。それで、仕方ないというか、折角というか、二人で出掛ける事にしたんですが……」

 小林は、ばつが悪そうに頬を指先でかいた。

「実はその……僕、いわゆるデートというのは、初めてでして……」

「そうなんですか?」

 意外そうに、石流は切れ長の瞳を軽く見開いた。

「依頼で女性と二人きりというのはよくありましたが、こう……す、好きな子とどこかに出掛けるというのは、実は初めてで……」

 普通に学生生活を送っていれば、そういう事もあったかもしれない。だが十三歳の頃から探偵として第一線で活動していた小林には、そういった経験を得る機会がなかった。むしろそういった事に興味がなく、トイズを無くしてからは特に、他人事だと思っていた節もある。それなのにーー己の心を占めるのは、よりにもよって年下の教え子だったのだ。

 古人曰く、恋とはするものではなく、落ちるもの。

 小林はカフェオレの注がれたグラスを見つめながら、深い溜め息を吐いた。

「それで、石流さんならそういうことに詳しいらしいとネロから聞いたので、何かアドバイスを戴けないかな……と」

 縋るように小林が視線を上げると、石流は眉間に深く皺を寄せた。

「私は別に「そういう事」に詳しくはないですよ」

 謙遜よりも戸惑いの混じった声音に、小林は小さく首を傾げた。

「でも、エルキュールと一緒に美術館に出掛けた事があるんでしょう?」

 小林が何気なしに返した言葉に、石流は顔を強ばらせた。切れ長の瞳がより鋭さを増していくが、それは眼前の自分にではなく彼自身に向けられているかのようで、小林は怪訝に感じながら説明を続けた。

「あの、エルキュールやネロからのメールに、その時の話が書かれてたんです」

 ネロからは、二人が一緒に出かけてまるでデートみたいだと書かれていた事、エルキュールからは、和歌や源氏物語が描かれた絵巻を見に行った時の感想と、石流に世話になった事が綴られていたと説明すると、石流は睨み付けるような視線を足下へと落とした。しかしすぐに顔を上げ、きっぱりと否定した。

「違います。あれはデートなどではありません」

「ええ、それはまぁ……」

 ネロはメールでデートだとはやし立ててはいたが、エルキュールからのメールでは、ただ単に世話になった事実が添えられていただけだった。だから二人にそれ以上の関係はないだろうと推測していたが、人一倍人見知りだったエルキュールが、小林以外の男性と、ましてや二人きりで出かける事ができるようになっていたのは、かなり喜ばしい結果だろう。まるで父親か兄の目線ではあったが、自分も頑張ろうと温かな活力が沸いてくる。

 睨み付けるような石流の視線に小林は苦笑を返すと、カウンターチェアに座ったまま、ぺこりと頭を下げた。

「いつもあの子達がお世話になっているようで。有り難うござます」

「はぁ……」

 礼を述べる小林に勢いを削がれたのか、石流は困惑した面もちへと変わると、顔を背けた。

「生徒の面倒をみるのは、職員として当然のことですから」

 そして、手にしたグラスに口をつける。

 保護者同士のような会話に、小林は照れ笑いを浮かべた。

「それで、ネロが、石流さんが校内で一番モテてると話していたので、何か的確なアドバイスが戴けるかと思いまして……」

「そうですか」

 小林が話を戻すと、石流は再び床を睨み付けた。そして顔を上げ、僅かに眉を寄せる。

「デートなら、映画館や遊園地に行くのが鉄壁でしょう。シャーロックなら、みなとみらいの遊園地にでも連れていけば良いのでは」

「それが、その……それは前に一度やっているというか……」

 その辺りの事情をもごもごと小林が説明すると、石流は片眉を寄せた。

「でしたら、またそこでやり直せば良いのでは」

「その……あそこの絶叫マシーンは激しくて……」

 シャーロックに連れ回された事を思い出し、小林の頬が僅かにひきつった。

「それと、もしそこでまた事件に巻き込まれでもしたら、彼女にとって遊園地が、というか……そこが嫌な思い出の象徴になりそうで、そうなったら申し訳ないというか」

「そうですか」

 杞憂というか、やや後ろ向きな思考だった。だが石流は否定も肯定もせず、ただ軽く頷いている。そして手にしたグラスを口元へと運び、カフェオレで唇を濡らした。再び足下へと目を向け、しばらく考え込むように床を見つめている。やがて、その細い眉が軽く開かれた。

「それならば、水族館はどうですか」

 石流は顔を上げると、穏やかな眼差しを小林へと向けた。

「エノシマの入り口近くにあるでしょう? あそこなら電車で少しかかりますが、知り合いにも出くわさないでしょうし、二人で羽を伸ばすならちょうど良いのではないでしょうか」

 郊外へ足を伸ばすという提案に、小林は目を瞬かせた。

 ヨコハマからエノシマまで、電車で30分ばかり。十分日帰りできる距離である。

「確か、水族館から砂浜に出られたはずです。天気が良ければ富士山も見えるでしょう」

 石流は、金色の瞳を僅かに細めた。

「エノシマには猫も多いらしいですからね。シャーロックには丁度良いのではないでしょうか」

 そう告げて石流が唇の端を持ち上げると、小林は目を輝かせた。

 かつてエノシマのホテルに滞在した時、小林は、島内のあちこちで猫が寝そべっていたのを見た覚えがある。それに島の頂上にはシーキャンドルと呼ばれる展望台があった。そこからの見晴らしは素晴らしいだろうし、その麓は、花が咲き誇る庭園になっていた覚えがある。さらに島の反対側にまで足を伸ばせば小さな洞穴があったから、好奇心旺盛なシャーロックには、冒険みたいで楽しんでもらえるだろう。

「有り難うございます、石流さん!」

 郊外に足を伸ばすという発想は、自分一人で考え込んでいたら絶対に思い浮かばなかったに違いない。小林は、眼前の料理長に尊敬の眼差しを向けた。そして何度も礼を口にすると、石流は軽く眉を寄せ、苦笑いを浮かべている。

 小林は、グラスに残ったカフェオレを一気に飲み干した。

 エノシマに向かうには、フジサワ駅かカマクラ駅のどちらかで、エノデン電鉄に乗り換えなくてはならない。だが、他にも路線もあったような覚えがある。

 まずはどういうルートでエノシマに向かうか、確認した方が良いだろう。それから水族館のサイトを確認して、周辺の良さそうなお店をチェックする必要もある。

 これから取るべき行動を脳裏に組み立てながら、小林の胸は高鳴っていた。柄でもないと内心毒吐きつつも、妙にそわそわとして落ち着かない。

 シャーロックは喜んでくれるだろうか。いや、喜ばせてあげなくては。

 小林は何度も礼を口にすると、食堂を後にした。その後ろ姿を見つめ、彼の姿が完全に見えなくなったところで、石流がぽつりと低い声音を漏らす。

「あの小林オペラでも、浮かれる事はあるのだな……」

 そして、足下へと視線を向けた。

「もう出てきても大丈夫だぞ」

 すると、厨房のカウンター下から、のそのそとネロが起きあがってきた。石流の隣に立ち上がり、黒の制服姿を軽く両手で払っている。そして小さく息を吐き出すと、抗議の眼差しを石流へと向けた。

「なんだよ、せっかくボクが動物園ってメモ書きでアドバイスしてあげてるのにさぁ」

 ネロは胸元で腕を組み、細い眉を強く寄せた。だが石流は、それを冷ややかに見下ろしている。

「まさかとは思うが、三人であの二人を尾行するつもりなのか」

「え? そりゃぁ、まぁ……せっかくだし……?」

 歯切れの悪い少女の返事に、石流は大きく息を吐いた。

 みなとみらいの入り口にあるサクラギチョウ駅から、海辺ではなく山の方へと歩くと、山の斜面を利用した小さな動物園がある。すぐ側には市営図書館があり、学院にもほど近いので、二人がそこに向かえば色々と都合が良かったのだろう。だからこそ、石流はわざと遠方の水族館を小林に提案したのだが、それは敢えて口には出さない。

「お前達程度の尾行では、小林オペラにはすぐに見つかるぞ」

「えー、そんなことないでしょ。……たぶん」

 最初は自信満々だったものの、石流の言葉を完全に否定しきれず、ネロは目をそらせた。

「尾行するくらいなら、最初から五人で出掛ければ良かろう」

「そりゃそうだけどさぁ」

 ネロは両腕を頭の後ろで組むと、唇を尖らせた。

「久々に一緒に居られるんだから、二人きりにさせてあげたいじゃん?」

 だが、二人の様子を観察したいという好奇心も抑えきれないのだろう。ネロはそわそわとした面もちで、石流を見上げた。

「だからさ、僕と石流さん、エリーと根津で、カップルぽく偽装したら良くない?」

「馬鹿は休み休み言え」

 石流はネロの提案を一蹴すると、その額を指先で軽く小突いた。

「いたっ。何するんだよー!」

「さっさとここから出ろ。急に中に匿えとやって来るから、何事かと思えば……」

「えー、別にいいじゃんかー!」

 頬を膨らませるネロに、石流はあきれた眼差しを送った。子供じみているというよりも年相応な反応なのかもしれないが、彼女達の計画が実行されたらどういう結果になるかは目に見えている。

「アンリエット様と二十里先生に頼んで、お前達にはみっしりと補習を受けて貰う」

「えーっ、そんなぁ!」

 溜め息と共に吐き出された言葉に、ネロは盛大に抗議の声を挙げた。

「私は出歯亀する趣味はない。それに……」

 カフェオレを物欲しそうに見上げるネロを後目に、石流はグラスを一気に呷った。そして空になったグラスから口を離し、唇の端を大きく持ち上げる。

「馬に蹴られるのは御免だからな」

 

 

 * * * * * * * * * * * * * * * *

 

 朝陽に照らされて乾いた風が、小林の頬をすうっと撫でた。周囲の木々を揺らし、ざわざわと枝が揺れている。

 小林は、頭上を仰いだ。

 旧校舎と新校舎を繋ぐ渡り廊下が視界に入り、その先には青い空が広がっている。新校舎の壁が陽射しを反射して白く輝き、その眩しさに小林は目を細めた。そして視線を落とし、再び渡り廊下へと視線を落とす。

 今思えば、ここが二人の出会いの場所でもある。

 小林は所存なさげに頭をかくと、左腕を軽く持ち上げ、腕時計へと目を向けた。待ち合わせの時間には、まだ若干早い。

 シャーロックとは、イシカワチョウ駅に近いこの裏口で待ち合わせることになっていた。イシカワチョウ駅から電車でオオフナ駅まで向かい、そこから湘南モノレールに乗ってエノシマに向かう算段にしている。

 昨夜ネットで調べた道順や評判の店を脳裏に描き、シミュレーションしていると、背後から駆け寄る小さな足音が耳に届いた。そして馴染みある、妙に間延びした朗らかな声が響く。

「小林せんせー!」

 うきうきとしたシャーロックの声に小林は振り向き、大きく目を見開いた。

 シャーロックは、桜色のワンピースに、白の薄いカーディガンを羽織っていた。そして花柄模様のポシェットを、肩から斜めに掛けている。しかし髪はいつものようにリング状には結ばず、いつもの黄色いリボンを使って、後頭部で一括りにしていた。

「どうしたんだい、その髪型」

「えへへ、似合ってますか?」

 初めて見るシャーロックのポニーテール姿に小林が目を瞬かせると、シャーロックは満面の笑みをこぼした。

「コーデリアさんが結んでくれたんです!」

 そして、その場でくるりと回ってみせる。

「へぇ。とても良く似合ってるよ」

 小林が素直に感想を口にすると、シャーロックは照れ笑いを浮かべた。

「ところで先生、今日はどこに行くんですか?」

 話の流れで行き先は小林に一任されていたので、シャーロックにはまだ、どこに向かうか説明していない。小林がエノシマ水族館に向かう事を告げると、シャーロックは丸い目をさらに丸くし、青い瞳を輝かせた。

「私、水族館は初めてです!」

「そういえば……僕も初めてかも」

「そうなんですか?」

 小首を傾げるシャーロックに、小林は小さく頷いた。物心ついた頃から探偵として活動していたせいか、両親に連れていって貰ったとか、友達と一緒に行ったという思い出自体があまりない。

「動物園なら、神津と回ったことはあるんだけど」

 並んで裏口の階段を下りながら、小林は学生時代の思い出を口にした。

「二人で遊びに行ったんですか?」

「いや、確か学校行事だったと思うよ」

 遠足だったかなぁ、と、二人で他愛のない会話を続けていく。

 石段を下り、坂道を進んでやがてイシカワチョウ駅に辿り着くと、小林は二人分の切符を買った。そしてシャーロックへと手渡し、改札を抜けてホームへと上がっていく。

「先生、これオオフナ駅までですよ?」

 ホームに立つと、シャーロックは不思議そうに小首を傾げた。

「フジサワ駅かカマクラ駅じゃないんですか?」

「いや、オオフナ駅で良いんだ」

 小林が微笑を返すと、シャーロックは、切符に記された行き先と小林を交互に見比べていたが、すぐににぱっと満面の笑みを浮かべた。それ以上は深く訊ねず、不安な様子もない。それが信頼から来ているのだと感じ、小林は頬が熱くなるのを感じた。

 ーーデートだから、手を繋いだ方が良いのかな。

 ふとそんな考えが浮かび、いや、でも……と躊躇う。

「先生、どうかしたんですか?」

「い、いや、何でもないよ」

 不思議そうに見上げるシャーロックに、小林は慌てて誤魔化した。冷静に考えると、女の子と手を繋いで出掛けるといった経験すらない。これなら探偵業の傍ら、ちゃんとした学生時代を過ごすべきだった……と密かに頭を抱えていると、ホームに電車が滑り込んできた。

 二人で連れ立って、車内へと乗り込んだ。土曜の午前中ではあったが、乗客は少なく、小林とシャーロックは並んで腰を下ろす。

 シャーロックが語る学院の出来事に耳を傾けているうちに、オオフナ駅に到着した。二人で改札を出て、有名な観音像がある表側とは逆の方へと進んでいく。

 駅と併設されたショッピングモールを抜けた頃には、シャーロックも小林が向かう先に感づいたようだった。

「湘南モノレール?」

 遙か頭上の案内板に目を向け、シャーロックは好奇心に満ちた声音で尋ねた。

「先生、モノレールって何ですか?」

「あ、やっぱり乗ったことなかったんだね」

 小林は、予測が当たったことに安堵した。

「チバやタチカワ方面にはあるんだけど、結構珍しいかもしれないね」

「へぇ〜。先生は乗ったことあるんですか?」

「うん。大分昔に、数回しかないけれど」

 シャーロックの言葉に頷きながら、小林は足を進めた。

 古人曰く、百聞は一見にしかず。 

 あれこれ説明するより先に見て貰った方が良いだろうと考え、敢えて説明はしないで乗り場へと向かう。そして到着すると、終点までの切符を購入して、一緒に改札を抜けた。

 ホームにはそれなりに人が集まっている。間もなくモノレールが入ってくるのだろう。

 シャーロックは、線路がないホームを不思議そうに見渡していたが、ゴトゴトと小さな音を響かせてモノレールが滑り込んでくると、目を見開いた。

「電車がぶら下がってますー!」

 車体は電車と大差ないが、屋根の上にはぶら下がるような大きな取っ手が伸び、線路代わりのレールをしっかりと握っている。

 扉が開くと、他の乗客に続いて二人は乗り込んだ。

「ほら、シャーロック」

 小林は、空いているボックス席にシャーロックを手招きすると、進行方向を向いた席に彼女を座らせた。そして自分は、その向かい側に腰を下ろす。

「なんだかドキドキします!」

 声を潜めながらも、シャーロックは興奮した面もちで車内を見渡した。それが何だか微笑ましくて、小林も釣られたように笑みを浮かべる。

 やがて扉が閉まり、発進音が響くと、モノレールがゆるゆると進み始めた。座席に座っていても、足下がぶらぶらと揺れて心許ない感触がある。

「思ってたよりも速くてビックリです!」

 シャーロックは窓へと顔を寄せた。

 モノレールは住宅街に挟まれた山間を進んでいるが、真下は車道になっている。

「これに乗ったら、乗り換えなしでエノシマまで行けるんだ」

 モノレールを追い越している自動車を見下ろしながら、シャーロックは小林の説明に耳を傾けている。なんだか遠足みたいです、と笑うシャーロックに、小林もそうだね、と頷いた。

 そうして幾つかの駅を過ぎ、終着駅の一つ手前で、小林は窓辺を指さした。

「見ていてごらん、シャーロック」

 そろそろだからと告げると、モノレールは真っ暗なトンネルへと入った。やがて滑るように抜けると、住宅街が広がる山間の向こうに水平線が広がっている。きらきらと陽射しを反射している水面には、白い三角帆が幾つも浮いていた。

「うわぁ、海です〜!」

 突如開けた景色に、シャーロックは目を輝かせている。

 やがてアナウンスが終着駅であることを告げると、車体は滑るようにホームに止まった。終点の湘南エノシマ駅は乗車と降車でホームが分かれていて、降車ホーム側の扉だけが開けられる。小林とシャーロックは連れ立ってモノレールから降りると、地上へと続く長い階段を下りた。出口へと辿り着くと、乾いた風がふわりと頬を撫でていく。

 小林はシャーロックと並んで、エノシマへと続く道を進んだ。駅前から海辺へと続く道は観光客で溢れており、エノデンのエノシマ駅を過ぎると、さらに人口密度が上がっていく。

 シャーロックは、落ち着きなく周囲を見渡しながら足を進めていた。だが小柄なせいもあって、すれ違う人や追い越していく人とぶつかりそうになっている。危なっかしいな、と小林は彼女の手を取ろうとしてーー触れる寸前で止めてしまった。

 どうということのない仕草のはずなのに、いざ行動に出ようとすると、どう握ればよいのか意識してしまい、頭の中で思考がぐるぐると回っている。

 指を交互に絡ませるような、いわゆる恋人繋ぎはまだ早いだろうか。けれど一応付き合っているのだし、彼女も今日のコレがデートだと認識しているのだから……と考え、いやいやと首を振る。

 そもそも人前で自分と手を繋ぐことを、シャーロックはどう思っているのだろう。それがたまらなく不安で、もし自分と手を繋いで歩いているところを誰かに写真にでも撮られて、あの小林オペラが教え子に手を出した、という噂が流れてしまっては、シャーロックが困るだろう。けれどやましいことは何もないのだから、堂々としていれば良いのではないかとも考えてしまう。

 小林は、急に周囲の人間の視線が気になってきた。と同時に、自分を観察するかのような鋭い眼差しを感じ、小林は何気なさを装って道の端に寄り、足を止めて振り返った。

 石畳の道は車一台分の幅しかなく、駅へと向かう人、エノシマ方面へ向かう観光客で賑わっていた。そして道の両側には、普通の住宅に混じって、観光客目当ての店が点在している。

 小さな子供を連れたり、ベビーカーを押す家族連れの姿が目立ったが、道行く人の大半は男女の二人連れだった。派手な柄のシャツを着た青年と、夏を先取りしたような薄着の女性が、昼食をどこで食べようか相談しながら小林の横を通り過ぎていく。一方で、正面のワッフル屋の軒先では、身長差のあるカップルが腕を組み、何を買おうか物色していた。その楽しげな様子に、手を繋ぐだけでなく腕を組むという選択肢があることを小林に思い出せる。

 彼らのように腕を組んで歩く自分とシャーロックを想像したが、手を繋ぐより難易度が高く感じられ、小林は内心溜め息を吐いた。

「先生、どうかしたんですか?」

 シャーロックも足を止め、小首を傾げながら振り返っている。

「あ、いや。なんでもないよ」

 小林は慌てて笑みを返すと、シャーロックの隣へ大股で歩み寄った。

 見知った顔も、不審そうな人物も見当たらない。不安が杞憂であることを確認し、小林は安堵の息を漏らした。

 二人並んで道を進んでいくと、名物のしらすを出す飲食店が目立つようになった。それはお洒落なイタリア料理店だったり、昔ながらの和風の店構えだったりで、まだまだ昼食には早いものの、看板の前で足を止めている人も見受けられる。

 シャーロックがそれらに目移りしていると、前方から子供達が数人駆けてきた。鞄を肩から斜めにたすき掛けにして、慌てた面もちで駅へと向かっている。

 シャーロックは、慌てて道の端へと寄った。が、石畳に足を取られ、転びそうによろめく。

 小林は反射的に手を伸ばし、彼女の手を握って自分の方へと抱き寄せた。

「大丈夫かい、シャーロック」

「あ、はいっ」

 シャーロックが満面の笑みを浮かべ、小林を見上げている。

 小林が来た道を振り返ると、少年達は人の間を縫うように走っていた。余程慌てていたのか、先頭の少年が、先ほどワッフル屋前で見かけた身長差のあるカップルにぶつかりそうになっている。が、男の方が連れの黒髪の少女を胸元に抱き寄せ、事なきを得ていた。すれ違いざま、後に続く少年の一人が、ワッフル片手に帽子を目深に被った黒髪の少女に向かって「ごめんなさいっ」と、拝むように片手を上げている。

「ビックリしました〜」

 シャーロックは駆け去った少年達の後ろ姿を見送ると、ほう、と息を吐いた。

「そうだね」

 小林も頷き返し、彼女の肩から手を離した。そしてすれ違う人の多い左側に立ち、彼女の左手を握る。

「先生?」

 シャーロックは大きく目を瞬かせ、小林の顔を覗き込んだ。その表情で、自分が今無意識に何をしたのか気付き、小林は密かに慌てた。

「えっと、その……こ、転んだら危ないから」

 すぐに手を離すべきかとも一瞬考えたが、それも不自然な気がして、逆に強くシャーロックの手を握ってしまう。

「これなら転ばないし、人が多いから、はぐれないようにっていうか」

 彼女の掌は小さく、柔らかく、温かい。

 心臓をバクバクさせながら小林がシャーロックを見下ろすと、シャーロックは緊張した面もちで、小林をじっと見返していた。しかし嫌がっている気配はなく、その頬はうっすらと赤い。その表情は、普段と違って少しだけ大人びて見え、小林は息を呑んだ。そして彼女の青い瞳を見下ろし、唇を開く。

「えっと、そうじゃなくて……ほら、その、デートだから……?」

 しっかり告げるつもりがしどろもどろの口調になり、最後には疑問系になってしまう。しかし「デート」という単語が小林の口からこぼれると、シャーロックは恥ずかしそうに唇の両端を大きく持ち上げた。

「私も、先生と手を繋ぎたいです」

「そ、そう?」

「はい!」

 シャーロックは照れ笑いを浮かべると、小林の手をしっかりと握り返してくる。彼女の明確な意思表示に、小林も眦を広げた。そして二人で手を繋ぎ、細い路地を進んでいく。

 エノシマ弁財天への道筋を示す昔の石碑を通り過ぎると、徐々に道幅が広くなった。ふわりと前髪を揺らす風に、微かな潮の香りが混じってくる。

 そして昔ながらの射的屋の前を通り、大きなコンビニを過ぎると、土産物屋が並ぶ広場へと出た。眼前には広々とした車道と、その下をくぐり抜ける地下道が伸びている。そして左右に伸びた車道の奥には、緑に包まれたエノシマへと続く車道が交差し、両側には青く煌めく海面が広がっていた。そのエノシマの木々から突き出るように、蝋燭の形のような細長い鉄骨の建物が姿を見せている。

「わぁ、海です〜」

 シャーロックは小林の手をぎゅっと握り、感嘆の声をあげた。顔を輝かせて見上げてくる彼女に、小林もつられたように笑った。

 上空へと目を向けると、カラスよりも大きな鳥が真っ直ぐに翼を広げ、弧を描いている。

「先生、あれってカモメ……じゃないですよね?」

「あれはトンビかな」

 小林は手を繋いだままシャーロックを先導し、地下通路へと足を向けた。ちょうど道路の真下は円形の広場となっており、周辺の観光情報や道案内が壁に描かれている。小林は真っ直ぐに進むと、三叉路になっている広場の先で右へと曲がった。そして階段を上がると、先ほど見えた車道の対岸へと出る。

 観光客を想定して広めに取られた歩道を歩きながら、二人はゆっくりと進んだ。片瀬橋を渡り、しばらく道なりに歩いていくと、ようやく水族館が見えてくる。

「先生、行きましょう!」

 はやくはやく、と急かすシャーロックに、小林も思わず笑みをこぼした。

「慌てなくても、別に水族館は逃げたりしないよ」

 それでもシャーロックに引っ張られるように、徐々に足早になってくる。

 水族館の入り口に立つと、シャーロックは物珍しそうに建物を見渡した。

 エノシマ水族館は、巨大な正方形と長方形の箱を二つ並べ、その上に円形の屋根を乗せたような外観をしていた。しかし奥にある箱の方は、かなり横長い。一階には軽食が食べられるレストランと水族館のグッズを取り扱うショップが入っていて、そちらが出口になっていた。一方、入り口は手前の正方形の建物の方にあって、建物の外側に多くの券売機が並んでいる。混雑する時期は、ここに長蛇の列ができるのだろう。

 そして、正方形と建物と長方形の建物を繋ぐ通路が頭上にあった。どうやら正方形の建物に入ってすぐに二階へと上がり、長方形の建物の二階へと移動するらしい。さらにその通路の下からは、正面の砂浜へと抜けられるようになっていた。階段を数段下がっただけで砂浜に出て、数メートル先には、寄せては返す波間が広がっている。

 シャーロックは、目を輝かせた。

「後で砂浜にも行きましょう! ねっ、先生!」

「そうだね」

 小林も頷き返し、まずは券売機へと向かう。ボタンを操作して二枚買うと、絵柄が違う入場券が出てきた。一つは水槽の中に潜ったペンギンの写真で、もう一つは球形の水槽の中に、小さな白いクラゲが何十匹も浮いている。

 その二つを見比べ、小林は、ペンギンの方のチケットをシャーロックに手渡した。

 そして入り口に入って半券を切って貰うと、エスカレーターを上がっていく。

 二階は、足元まで大きなガラス窓がはめられた通路になっていた。正面の砂浜が一望でき、海岸線が遙か先まで続いている。そこに設置された案内図によると、よく晴れていれば富士山が見えるようだった。しかし今は青空が広がっているものの、下の方は白く薄い霞のようなものが広がり、山の輪郭すら浮かんでいない。

 「見えないね」と二人で会話を交わしながら、道順に沿って通路を進んだ。通路は屋内からすぐに野外へと出て、先ほど下から見上げた通路へと続いている。そこを渡って長方形の建物へと入ると、まずは潮だまりや浅瀬の生物が特集されている展示室だった。岩場を再現したような浅い水辺にヒトデが張り付き、水の中のイソギンチャクがゆらゆらと揺れている。

 大勢の人に混じり、水槽を眺めながら進んでいくと、通路が急に薄暗くなった。照明は最小限に抑えられ、夜道を歩いているかのような雰囲気となる。

 シャーロックが、触れていた小林の掌をぎゅっと握った。それに応えるように小林もそっと握り返すと、シャーロックが小林を見上げ、えへへとはにかんでいる。その笑顔を見つめていると、デートしているんだな……という実感が、小林の胸中に沸き上がってくる。

 小林はそわそわしつつも、シャーロックの歩調に合わせて足を進めた。自分の頬が妙に熱く感じられ、小林は空いている片手で口元をそっと押さえる。

 おそらく今の自分は、知り合いに見られたら凄く恥ずかしい顔になっているに違いない。しかしこの薄暗さなら、隣のシャーロックにも分からないはずだと安堵する。

 人の流れに乗って角を曲がると、水面ぎりぎりをゆらゆらと泳ぐエイの姿が目に入った。水面との境がちょうど目の高さにあるが、水槽の下の方へ目を移すと、底が見えない。かなり大きな水槽のようだと感じながら緩やかな下り道を進むと、広々とした空間に出た。

 通路は緩やかなカーブを描き、下り道に沿って水槽が何個も並んでいる。しかしその反対側は吹き抜けになっており、巨大な水槽が設置されていた。学院の二階まで入る程の高さがあり、水槽の上部には、巨大なエイやウミガメ、小型のサメが悠々と泳いでいる。そして下の方では、多数の鰯が銀色の固まりとなり、蒼く輝く水中でくるくると旋回していた。

「すごい……」

 初めて見る光景に、小林は目を丸くした。

 水槽の前では、子供たちがガラス戸に手を突き、目を輝かせて巨大な水槽を見上げている。呆然と柵の前で見下ろしていると、シャーロックに手を引かれた。それに誘導されるように、小林はスロープを下って、水槽の近くへと寄る。

 青く照らされた巨大な水槽には、大小様々な魚が泳いていた。水槽の中は海中の様子が再現され、突き出た大岩の下部は、苔のような海草で覆われている。底にはベージュ色の砂が敷き詰められており、奥の岩場では、蛇のようにくねくねと蠢く褐色の紐のようなものが見えた。おそらくウツボだろう。

 水面の方を見上げると、上部の対岸辺りに水槽を覗く人々の上半身が見え、先程覗いていたのはこの水槽の上部だったのだと気付かされる。

 透明な板の前では、大きなフグがぷかぷかと漂っていた。その上を、ひとかたまりになった鰺がすっと通り過ぎていく。

 圧倒的な蒼の煌めき。

 それはシャーロックの瞳にも似ていて、でも彼女の青は海よりも空の青だ……と隣へ顔を向けると、シャーロックの青い眼差しとぶつかった。

「な、なんだい?」

 じっと見られていた事に気付き、気恥ずかしさに小林が密かに慌てていると、シャーロックはにぱっと笑い返した。

「先生が、すっごくキラキラした目をしてたので、見てましたー」

「そ、そうかな?」

「そうですよー」

 朗らかな声音で、シャーロックが声を潜める。

「いつもは大人っぽい先生が、ちょっと子供っぽかいかなーって」

 冗談めかして告げるシャーロックに、小林は苦笑いを浮かべた。

「そ、そうなんだ……?」

「先生の意外な一面が見られて、楽しいです!」

 囁くような声音で、シャーロックは大きく頷いた。そのきりりとした笑顔が妙に大人びて見え、小林は見入ってしまう。

 きっとこの少女は、やがて自分の横に並び立つどころか、さらなる高みへと飛び立つだろう。その時、自分は彼女にふさわしい男にーー探偵になれているだろうか。

 そんな取り留めのない思考が、脳裏をよぎっていく。

 無言で見下ろす小林を、シャーロックは不思議そうに見上げていた。が、そのまま視線を移さない小林に困惑した面もちを浮かべ、わたわたと焦った表情へと変わる。

「あの、先生……?」

 そんなに見られると恥ずかしいですぅ……と狼狽える彼女の声でようやく我に返り、小林は慌てて顔を背けた。

「え、えっと。あっちに大きなサメの水槽があるみたいだから、そっちにも行ってみようか」

 取り繕うように咳払いし、シャーロックの手をゆっくりと引くと、「はいですー」とトコトコとついてくる。

 巨大なサメが泳ぐ水槽や足が長いカニの水槽、熱帯魚でカラフルな水槽を過ぎると、一段と暗いエリアへと出た。周囲の水槽にはカラフルなクラゲがぷかぷかと浮かんでいる。どうやらクラゲを中心に集めたエリアらしい。

 エリアの反対側は広場になっており、天井がプロネタリウムのように淡く照らされている。その中央には、ボール形の水槽が置かれていた。中には、小さくて白いクラゲが無数に漂っている。

「うわぁ、すごくキレイです〜」

 目を輝かせるシャーロックに、小林も頷いた。入場券にあった写真はここのものだったのだと、一人納得する。

 水槽の前では、一緒に写真を撮るカップルも多かった。それを見つめるシャーロックの横顔がなんだかうらやましそうで、小林は思わず口を出してしまう。

「シャーロックもツーショットが撮りたいのかい?」

「えっ、いいんですか?!」

 シャーロックは声を弾ませた。瞳をきらきらとさせ、嬉しそうに小林を見上げている。小林は頬をかきながら、視線を揺らした。

「ほら、せっかくだし……」

「有り難うございます〜!」

 シャーロックは、肩から下げた鞄からいそいそとPDAを取り出した。

「ネロに教えて貰ったんです〜。ここをこうすると、自分撮りができるって」

 そしてPDAを構え、いそいそと小林に体を密着させる。

「先生、ほら、笑って笑って」

 シャーロックに促されるまま、小林も笑みを浮かべようとした。が、二人並んで写真を撮るのは妙に気恥ずかく、結局照れ笑いのような感じになってしまう。

 一方シャーロックは、PDAを両手に抱え、背後のクラゲのボールと自分たちが綺麗に納めようと奮戦していた。が、巧くいかないようで、悪戦苦闘している。おそらく身長差があるせいだろう。

「貸してごらん、シャーロック」

 小林はシャーロックからPDAを受け取ると、代わりにボタンを操作した。何度か撮影して彼女に返すと、満面の笑みと共に礼を告げられる。

「さすが先生です〜」

 よく分からない感心のされ方に、小林は苦笑を浮かべた。そしてボール型の水槽から離れ、壁際に寄ってからシャーロックの手元のPDAを覗き込んだ。

 何枚かはぶれていたが、蒼く輝く球体の前で肩を並べる二人が綺麗に写っている。小林は、PDAを操作していたせいか僅かに眉を寄せ、唇の両端を持ち上げただけの笑みになっていたが、その隣ではシャーロックがカメラ目線でにこにこと笑っている。

「ねぇ、シャーロック」

「なんですか?」

「あ、後でその写真、僕のPDAにも送って貰っても良いかな……?」

「もちろんですー!」

 シャーロックは手早くPDAを操作すると、小林のメールアドレスを呼び出し、ぶれていない写真を数枚添付して送信ボタンを押している。やがてピコンという小さな音と共に、「送信が終了しました」というメッセージが表示された。

「出来ましたー!」

「ありがとう」

 まさかその場で行動するとは思わず、小林は胸元から自分のPDAを取り出した。手早く操作すると、メールが到着した旨を知らせるテロップが表示されている。そのままメールソフトを機動させて確認すると、シャーロックからのメールが確かに届いていた。

 件名は、「小林先生へ」。

 そしてそれをクリックして本文を表示させると、クラゲの水槽前で撮影した写真が数枚並んでいる。そしてその一番下には「大好き」という文字と、大きなハートの絵文字が添えられていた。

 小林は、一気に頬が熱くなるのを感じた。

 いつの間に文字を打ち込んだのだろうという驚きだけでなく、あまりにも不意打ちすぎて、どう返せば良いのかわからない。

 小林は震える指先を必死に制御してPDAを再び胸元にしまうと、おそるおそるシャーロックへと視線を戻した。シャーロックは、いたずらを仕掛けた子供のようにはにかんでいたが、視線が合うと、急に恥ずかしそうに目を伏せている。

「あ……あのね、シャーロック」

 震えそうになる声音を懸命に押さえながら小林が囁くと、思っていたよりも低い声音となり、シャーロックはびくりと肩を震わせた。

 怒られると思ったのかもしれない。

 そう思うと、後頭部で結ばれたリボンも、心なしかしょんぼりと垂れているようにも見えてくる。

 小林は「かなわないなぁ」と苦笑いを浮かべると、彼女の耳元にそっと唇を寄せ、右手で口元を隠した。そして周囲に漏れないよう、聞こえるか聞こえないかの微かな声で、柔らかに告げる。

「僕もだよ」

 すると、シャーロックは足元を見下ろしたまま、顔がみるみると赤く染まっていく。何故かもの凄く恥ずかしい事をしたような気がして、小林は小さく咳払いをした。

「つ、次の部屋に行こうか」

 シャーロックの手を引き、壁際から出入り口へとゆっくりと足を進めていく。

 そのクラゲの展示室の出入り口で、見覚えのある顔とすれ違ったような気がして、小林は振り返った。部屋を見渡すと、カラフルなクラゲの水槽前で足を留めている黒縁眼鏡の青年と、帽子を目深に被った黒髪の少女が目に入る。

 ワッフル屋の前で見かけた、身長差のあるカップルだった。どうやら彼らも、小林達と同じように水族館が目的だったらしい。

 少女の方は興奮した面もちで、碧の眼差しをボール状の水槽へと注いでいた。指で指し、傍らの青年に向かって何か囁いている。

 だがその横顔が譲崎ネロを彷彿とさせて、小林は眉を寄せた。彼女がここにいるわけはないし、何しろ彼女の髪の色は亜麻色だ。ましてや見知らぬ青年と一緒なのだから、彼女のわけがない。

 そう結論づけ、小林は恋人らしき隣の青年へと視線を移した。ストライプ柄のシャツを身につけ、少し長めの黒髪が肩に届いていたが、さらさらとしていて不潔感は全くない。肩には少し大きめの白いトートバックを掛けているが、特に模様もないそれは、連れの少女のものではないかと思わせた。

 どこにでもいる大学生ぽい雰囲気だったが、黒縁眼鏡の奥から時折覗く金色の柔らかな瞳は、どこかで見覚えがある。しかしそれが誰なのか、とっさに出てこない。どこで会ったことがあるのだろう……と密かに記憶を辿っていると、「先生、こっちです〜」とシャーロックに強く腕を引かれ、中断された。

 腕を引かれるままエレベーターで上の階に上がると、真っ暗だった下とは違い、天井や壁のガラス戸から明るい陽射しが注いでいる。そのまま順路に従って通路を進むと、やがて広場へと出た。段差がついたホールのようになっており、その周囲には柵が巡らされている。そしてガラス戸の向こうには、多くのペンギンがトコトコと歩いたり、プールに潜って泳いだりしていた。

「わぁ、ペンギンがいっぱいいます〜!」

 シャーロックは、周囲の子供たちと一緒になってガラス戸手前の柵を握り、食い入るように見つめている。

「可愛いです〜!」

 頬を緩めるシャーロックの横顔を見下ろしながら、小林は水槽を見つめた。水槽の中に岩場が再現され、ペンギンはそこを歩いたり、水辺に飛び込めるようになっている。そして水辺は深いプールになっており、階段状になっているホールからは、ペンギンが水中で泳ぎ回っている様子が観察できるようになっていた。

 ペンギンは特に子供に人気がある為か、これまでの水槽の中で一番混雑している。小林は前へ前へと押し掛ける子供達に場所を譲って、後方の壁際へと寄った。そして周囲の掲示を見渡すと、水槽にいるペンギンの説明だけでなく、飼育員による餌やりを何時に行うといった告知もされている。

 小林は、ペンギンの餌やりショーの告知で目を留めた。そこにはイルカショーの案内も併記されており、腕時計で確認すると、十五分後に始まるようだった。一方で、ペンギンの餌やりはちょうど十分前に終わったらしく、次は二時間後となっている。

「シャーロック」

 小林は、シャーロックを手招きした。その声と所作に気付いたシャーロックは、柵前を抜け、小首を傾げながら小林の元へと寄ってくる。

「もうすぐイルカショーをやるみたいだけど、見に行ってみるかい?」

 小林の言葉に、シャーロックは顔を輝かせた。

「この通路の先に、イルカのプールがあるみたいなんだけど」

「行きます〜! 見たいです!」

 

 大きく頷くシャーロックに笑みを返すと、小林はシャーロックの手を引いて、通路の先へと進んだ。その先の扉を抜けると、渡り廊下へと出る。海に面した廊下は二階にあり、見下ろすと、下にはウミガメが泳ぐプールが見えた。途中で階下に降りる階段はあったが、そのまま渡り廊下を真っ直ぐに進むと、水族館名物のパンを売る売店に突き当たった。そしてその後ろには、階段状になった半円状のホールが広がっている。直接外の潮風が吹き抜けてはいたが、天井には、雨と強い陽射しを遮るような屋根がついていた。ホールの一番下の中央には、円形のプールがあり、側面は透明なガラス張りになっていて、悠々と泳ぐイルカの姿が見られるようになっている。

 プール近くの席はかなり空きがあったが、水が掛かるとの注意書きがあるせいか、そこに座ろうと近寄る人はあまりいなかった。小林はホールを見渡し、なるべく前方で水が掛からなさそうな席を探すと、シャーロックの手を引いてそこへと移動した。周囲は家族連れよりもカップルが多かったが、気にしないでそこに腰を下ろす。

 暫く待っていると、やがて楽しげな音楽と共に係員の女性が登場し、ショーが始まった。

 ショーは、宙にぶら下げたくす玉をジャンプして割ったり、大きな輪をジャンプしてくぐるといったものだった。

しかし、踊るように数頭のイルカが水面から揃って顔を覗かせたり、二匹同時に同じ高さでジャンプする様は美しく、見ていて楽しい。

 初めて間近で見るイルカの曲芸に感心しながら、小林はそっと隣のシャーロックを伺った。シャーロックは瞳をきらきらと輝かせ、芸が終わる度に懸命に拍手を送っている。

 小林の視線に気付いたシャーロックが、にぱっと笑みを返した。

「すごいですよねー」

「そうだね」

 二人で笑い合い、再びプールへと視線を戻す。

 ショー字体は三十分程度のものであったが、ショーが終わっても、シャーロックは興奮冷めやらぬ様子で、イルカが泳ぐプールを見下ろしている。

 ショーの感想を口にしながら二人は腰を上げ、一階へ出る通路へと進んだ。そして、ショーの合間に紹介された地下の展示室へと足を向けた。そこではショーを行っていたプールの下半分が見学できるようになっており、イルカも見学人を意識しているのか、ガラス戸の前でくるくると横向きに回転したり、子供達に見せつけるようにすいすいと周回している。

 ガラス戸の前でイルカの様子を暫く見学してから、二人は地下にある他の展示室へと足を向けた。

 薄暗い照明の中を進むと、少し手狭なホールの中に、深海を探索していた有人潜水調査船の実物が展示されている。どこの海でどのような調査を行い、何を持ち帰ってきたか等が地図や年表などで展示されており、ホルマリン漬けになったそれらや機体を、間近で見学できるようになっていた。

 食い入るようにそれらの説明を読みふけっていると、右手に柔らかな感触が触れ、小林は我に返った。目を向けると、深海をイメージしたように照明が落とされた展示室の中で、シャーロックがはにかんで小林を見上げている。

「やっぱり先生も、こういうメカメカしたのが好きなんですか?」

「メカメカ?」

 シャーロックの独特な言い回しに、小林は思わず吹き出した。

「だってクラスメイトの根津君も、こういう機械っぽいのが載った雑誌とか、よく読んでるんですよ」

「うーん、男子なら、一度は興味持つんじゃないかなぁ?

 電車とか、船とか車とか」

 そう言葉を続けると、シャーロックは「なるほど」と大きく頷いている。

 想定していたよりも水族館を満喫している自分に気付き、小林は思わず苦笑いを浮かべた。そして重ねられた彼女の掌をそっと握り返し、再び順路を進んでいく。

 地上階へと戻り、再び二階に上がってエスカレーターを降りたところに、出口があった。そしてその先にはミュージアムショップがある。

 二人はゲートをくぐると、ミュージアムショップへと足を踏み入れた。広々とした店内には、水族館のロゴが入ったクッキーやエノシマ名物のタコ煎餅だけでなく、この水族館が売りにしているクラゲを可愛くアレンジしたグッズが並んでいる。

「皆へのお土産、どれにしましょう?」

 シャーロックはそれらを一つ一つをじっくり眺めながら、肩越しに小林を振り返った。

「お菓子にしたら、お茶受けにできるから、ネロだけでなく、エルキュールやコーデリアも喜びそう……かな?」

 小林は彼女の後に続きながら、周囲を見渡した。

 ミュージアムショップの人通りが多いところに配置された菓子売場には、リアルな魚介が描かれた缶に入ったチョコ菓子や、デフォルメされたクラゲが描かれたクッキー、クラゲのシルエットと水玉がデザインされたスポンジケーキなど、様々な商品が所狭しと積まれている。

 その中から、小林はクラゲのシルエットがデザインされたスポンジケーキの箱を指さした。

「これとかどうかな? 中にクリームが入ってて美味しそうだと思うんだけど」

 箱が積まれた売場の中央には、それぞれの商品の中身がどういうものか、見本が置かれている。シャーロックは数歩戻って小林の横に並ぶと、それを凝視した。「八個入りだからちょうど良いんじゃない?」と小林が口にすると、シャーロックは軽く眉を寄せている。

「先生は食べないんですか?」

「え、僕らの分も勘定に入ってるのかい?」

「あっ、そっか」

 小林が眉を広げると、シャーロックは目を瞬かせた。

「じゃぁ、ネロとエリーさんとコーデリアさんで二個ずつにして、余った二個を先生と私で食べましょう!」

 そして八個入りの箱を手に取り、さらにその横にあった二個入りの小箱を上に載せる。

「その小さいのは?」

「アンリエットさんへのお土産です〜!」

 小林が尋ねると、シャーロックはえへへ、と笑みを浮かべた。そのままレジへ向かい、二人で会計して水族館を出る。

 土産の入った紙袋を小林が持つと、シャーロックは出口から右手へと進み、くるりと振り返った。

「先生、海辺に行ってみませんか?」

 ふわりとスカートが翻り、ポニーテールにした長い髪も一緒に大きく揺れている。

「いいよ」

 小林が笑みを返すと、シャーロックは顔を輝かせた。そいして再び身を翻し、軽やかに砂浜へと駆けだしていく。

 小林はゆっくりと後を追った。

 入場時に上を通った通路をくぐり、煉瓦作りの広場から短い階段を下りて、砂浜へと出る。

 天を仰ぐと、上空は青く澄んでいるものの、視線を下げるにつれ、白雲が薄く広がっていた。それでも海岸沿いの工業地帯や住宅街とおぼしき街並みを望むことはできる。

 階段近くには背の低い草が点在していたが、海辺へと近づくにつれ、乾いた砂に呑み込まれて目に付かなくなっていった。夏場であれば、この砂浜一帯に海の家が立ち並ぶのだろう。外に面していた水族館の渡り廊下では微かにしか聞こえなかった潮騒が、今ははっきりと耳に届いてくる。

「せんせー、こっちです」

 シャーロックの呼び声に、小林は顔を上げた。見ると、波間の少し手前で両手を大きく振っている。

 小林は、シャーロックへと歩み寄った。そしてその横に立ち、二人で海を眺める。

「水族館、楽しかったです!」

「そう? なら良かった」

 満面の笑みを浮かべるシャーロックに、小林は安堵の息を漏らした。

 そして、波間に近い方に小林が立ち、水族館とは反対の方向、エノシマ方面へと足を進めていく。

「また二人で遊びに行きましょうね!」

「そうだね」

 小林はシャーロックの言葉に流されるように頷いて、「ん? 二人?」と目を瞬かせた。

「皆と一緒も良いけど、また二人で来たいなって」

 シャーロックはワンピースの裾を指先でいじり、もじもじと顔を伏せるている。

 沸き上がる衝動のまま、小林はシャーロックを抱きしめた。

「せ、先生?」

「そうだね。また二人で来よう」

 そして右手は背に回したまま、左手でシャーロックの頭を軽く撫でる。

「せんせー!」

 無邪気な笑みを浮かべて、シャーロックは小林に抱きついたーーつもりだったのだろう。だがそれは、助走なしのタックルに似ていた。抱き合ったまま盛大にシャーロックに突き飛ばされる格好となり、小林の両脚は地面を離れ、シャーロックを抱きしめたまま地面へと転がり、尻餅をついた。

 ばしゃり、と大きな水飛沫があがる。

「せんせぇ?!」

 胸の上で、シャーロックが素っ頓狂な声をあげた。

 小林が背と臀部に響く鈍い痛みに顔を歪めながら上半身を起こすと、背と下半身に濡れた感触がある。砂浜に手をつくと、冷たい砂の感触があった。どうやらシャーロックを受け止めきれず、波間近くまで転がり、倒れてしまったらしい。

「わー、ビショビショですっ」

「大丈夫かい、シャーロック?」

「私は大丈夫ですけど、先生が……」

 小林は、胸元で見下ろすシャーロックを確認した。シャーロックは靴や足下が濡れた砂で少し汚れた程度で、服は無事そうだった。一方小林の方はというと、背中とズボンが盛大に濡れ、泥が付いている。

「はは、参ったな」

 小林は、真冬でなくて良かったと胸を撫で下ろした。飛ばされる途中で手を離したせいか、土産袋は砂浜に転がって無事である。

 ここまでの瞬発力は、怪盗帝国とやりあう中で身につけたものなのだろう。教え子であり恋人でもある彼女の成長ぶりを物理的に体感することになり、小林は苦笑を浮かべた。

 ごめんなさい、と瞳を潤ませるシャーロックに、小林は大丈夫だから、と笑みを返し、ゆっくりと立ち上がった。そして下半身の泥を払っていると、遠くから聞き覚えのある声が響いてくる。

「もう、シャロ! なにやってんのさ!」

「あ、ネロ」

「え?」

 目を向けると、ワッフル屋前で見かけた身長差のあるカップルが、小林達の方へと駆け寄ってくる。帽子を目深に被った黒髪の少女を正面から見据えて、小林はようやく、何故見覚えがあったのか納得した。黒髪のせいで分かりにくいが、声はまごうことなきネロである。

「そんなトコに突っ立ってないでさ、はやくこっちにおいでよ」

「え? あ、うん」

 ネロが階段辺りを指さし、小林はシャーロックの手を引いて、そちらへと足を向けた。ネロは転がっていた土産袋を掴み、シャーロックの隣りに並んでいる。

 小林はゆっくりと足を進めながら、肩越しにネロを見つめた。

 黒髪はウィッグなのだろう。とすると、ネロと一緒に青年は誰なのか。

 小林が顔を戻すと、ネロが指さした階段付近で、連れの青年がトートバック片手に佇んでいた。青年は両腕を組んでいたが、三人が近寄ってくると、黒縁の眼鏡を外して胸ポケットへと仕舞った。そして小林へと目を向ける。

「……石流さん?!」

 思わず、小林は声をあげた。

 眼鏡をつけていた時には穏和に見えた眼差しには、見慣れた鋭さが戻っている。いつも頭上で結んだ髪を解き、眼鏡を掛けただけで別人のように雰囲気が一変していた事に、小林は正直驚いた。と同時に、妙にこの二人が目についていた事に納得した。おそらく、無意識に元の二人の姿を重ね、認識していたのだろう。

「どうして」

「アンリエット様のご命令でしたので」

 小林が尋ねると、石流は眉を寄せた。

「命令?」

「巻き込まれたというか……」

 石流は深く溜め息を吐き、子犬のように傍らに寄ってきたネロの額を、軽く小突いている。

 他にも色々訊きたい事があったが、とりあえずそれらは呑み込み、小林は隣の少女へと顔を向けた。

「そういえば、シャーロックは全然驚いてないよね?」

「だって、ずっと後ろにいたじゃないですか」

 小林の問いに、シャーロックは不思議そうに小首を傾げた。

「ずっと?」

「ええと確か……エノデン駅の踏切を越えた辺りから?」

 走ってきた地元の男の子とぶつかりそうになりましたよね、とシャーロックは言葉を続けた。

 つまりあの辺りからこの二人に尾行されていて、しかしシャーロックはずっと気付いていたということになる。

 小林の顔からすっと血の気が引いた。

 それはつまり、ここまでの道のりをずっと観察されていたという事に他ならない。

 しかしシャーロックは気にした風もなく、えへんと胸をそらせている。

「だって、ネロの知り合いの大人って、小林先生と二十里先生と石流さんくらいしかいないじゃないですか。で、小林先生はここにいるし、ネロがあそこまでべたべたしてるってことは、二十里先生じゃなくて石流さんかなーって」

「べ、別にべたべたしてないよ?」

 シャーロックの指摘に、ネロが頬を膨らまして反論している。

「えー? だって、いつも食堂でおやつをねだる時ってあんな感じじゃないですかぁ」

「してないったらしてないー!」

 言い合う二人を目にしながら、小林は頭を抱えた。

「……君たち、いつもそんな事をしてるのかい?」

「い、いつもじゃないよ……?」

「いや、割といつもだ。むしろ毎日だ」

 目をそらせて答えるネロに、石流が淡々と口を挟む。

「でも、どうしてシャーロックは黙っていたんだい?」

「だって、私みたいにネロが石流さんとデートしてるのなら、邪魔しちゃ悪いかなって思ったんです」

 シャーロックの何気ない返答に、ネロが噛みついた。

「ちょっとシャロ、何言ってんのさ?! デートなわけないじゃん」

「え? 違うんですか?」

「違うってば! なんで僕が石流さんとデートしないといけないのさ!?」

 ひどい言われようだったが、石流は眉間に皺を寄せたまま、唇を固く結んでいる。

 ネロの言葉に、シャーロックは大きく目を瞬かせた。

「じゃぁ、何してたんですか〜?」

「えっ、そ、それは……その……」

 小首を傾げるシャーロックに、ネロは口ごもった。

「だいたいどうしてそんな、変装みたいな事をしてるんだい?」

 小林が優しく問いかけると、ネロは気まずそうに俯き、視線をさまよわせている。

「尾行実習の補習みたいなものだ」

 石流が、深い溜め息と共に口を挟んだ。

 そして彼の説明によれば、エルキュール、コーデリアも別の場所で実習補習中なのだという。

 彼女たちミルキィホームズは、基本は学業優先であるものの、事件や依頼によっては授業を欠席することもあるらしい。最近は特にカラー・ザ・ファントム関連の事件で欠席しがちだったという事で、今日はその為の補習ということだった。石流はその監督役として、今回ネロに同行しているという。

 小林は、彼女達が申し訳なさそうに、昨日急に用事が入ったと説明していた様を思い出した。こういう事だったのかと納得し、僅かばかり気の毒になる。

「あれ? じゃぁ、どうしてシャーロックには補習がなかったんだい?」

「それは、その、生徒会長が……」

 ネロがぼそぼそと口を開いた。

 どうやらシャーロックには抜き打ちテストだったらしく、尾行するネロと石流に気付けばOK、逆にネロはシャーロックに気付かれなければOKというルールだったらしい。

「で、小林とシャロに見つからないように今日の様子をレポートしてこいって……」

「え、じゃぁ今、私たちの前に出てきたらダメなんじゃ?」

 シャーロックが目をぱちくりと瞬かせると、ネロは呆れたような眼差しを返した。

「シャロと小林がずぶ濡れになって困ってるのに、関係ないじゃん」

 そして、「その為の着替えもちゃんと用意してるんだし」と、石流が持つトートバックを指し示している。

「アンリエット様のご指示です」

 石流は補足するように口を開いた。

「たぶん、あの二人は海辺で転けるか落ちるかしてすぶ濡れになるだろうから、ということでしたので」

 石流によると、学校指定のジャージを二人分用意しているということだった。小林が、広げられたバックの中を覗き込むと、生徒用の赤と、教員用のブラウン色のジャージが入っている。

「流石ボクの生徒会長だよね! ここまでお見通しだなんてスゴいなぁ」

「シャーロックがそそっかしいだけだろう」

 感心するネロの隣で、石流は軽く溜め息を吐いている。

「はは、すみません……」

 小林が軽く頭を下げると、石流はすまなさそうに眉を寄せた。

「申し訳ありませんが、下着はコンビニで買っていただく事になります」

「いえ。濡れてるのはズボンだけですし、多分大丈夫だと思います」

 まさか知らないところで生徒会長の世話になっていたとは思わず、小林は頬をかいた。とりあえずエノシマの入り口にあったコンビニか水族館のトイレを借りて、そこで着替えた方が良いだろう。

「それで、これからどうされますか」

 石流に改まって尋ねられ、小林は目を瞬かせた。

「我々は濡れた服を回収して、これから学院に戻りますが」

 今から洗濯すれば、乾かして今夜中に部屋に届けられると言う。石流の傍らでその説明を聞いていたネロは、ぷうっと頬を膨らませた。

「やだやだ、せっかくエノシマまで来たんだし、しらすピザ食べたい、しらす丼が食べたい〜!」

 小学生のように石流の背中を叩き、じたばたと抗議しているが、石流はそれを受け流し、小林へと向き直ったまま微動だにしない。

 小林が腕時計を確認すると、昼食にはまだ若干早い頃合いだった。だが、水族館からエノシマの店なり先程の道なりにあった店に移動するには、ちょうど良いだろう。

 しかし、門限まではまだまだ余裕があるものの、午後からはジャージ姿になる事を考えると、このままシャーロックとエノシマ巡りをするのもどうかと考えてしまう。

 小林が眉を寄せて思案していると、シャーロックが小林の服の裾を引いた。顔を向けると、シャーロックが大きな瞳で小林を見上げている。

「先生、私達もお昼を食べたら帰りましょうか」

「え、いいのかい?」

 シャーロックの提案に、小林は目を丸くした。

「午前中は先生を独占できたので、午後は皆で遊びたいです〜!」

 だからネロも石流さんも一緒にお昼を食べて一緒に帰りましょう、と提案している。

 石流は僅かに目を見開いたが、「それで二人が良いのなら」と頷いた。その言葉に、ネロが「やったー、しらすピザ、しらす丼〜」と小躍りしている。

 小林は、参ったなぁと頭をかいた。

 ネロと一緒にはしゃぐシャーロックを見つめ、気を使わせてしまった事がただただ申し訳なく思ってしまう。

 しかしそれとは別に、問題がもう一つ。

「あの、石流さん」

 小林は、二人から少し離れた位置に佇む石流に、そっと耳打ちした。

「何でしょう」

「あの、まさかとは思うのですが、その……」

 ネロは「二人の様子をレポートする」と説明していた。つまりその為にはじっくりと観察しなければならないし、隠し撮りをしている可能性が高い。

 小林の表情と口調から察したのか、石流は昨夜のように哀れみの色を浮かべた。

「アンリエット様のご命令でしたので」

「まさか、全部……?」

 見てたんですか、とは口に出さずに尋ねると、石流は小林からすっと顔を背けた。

「見てたんですね……?」

 確認するように小林が問いを重ねたが、石流が眼をそらせたまま無表情を保っている。

 小林は頭を抱えたくなった。石流の事だから、決して他言はしないだろう。だが彼の主に問われれば、事細かに報告するはずだ。

「とりあえず、まずは着替えてこられては」

 顔を背けたままバックを胸元に押しつけられ、小林はひとまず引き下がった。着替えてくる事をシャーロック達に伝え、水族館の出口からミュージアムショップへと戻り、ゲート近くにあったトイレへと入る。そこで手早く着替え、待っている三人の元へ戻ろうとしたが、ミュージアムショップの中ほどで足を止めた。レジに並んでいる時に目に入った物のある場所へと、足を運ぶ。

 それは壁の一角にぶら下げられた土産用のストラップで、ガラス玉のストラップだった。付け根の部分には青や緑など様々な色のビーズで装飾され、ビーズと同じ色の紐がついている。そしてガラス玉と並ぶように、イルカの飾りがぶら下がっていた。紐の部分についた宣伝文によると、電灯の光を吸収して、真っ暗な場所では光るらしい。

 小林は暫し考えた末、ピンク色のストラップを二本手に取り、レジへと持っていった。手早く会計し、シールだけ張ってもらってショップを出る。

 小林が周囲を見渡すと、三人は、入り口近くの柱付近に佇んでいた。出口から小走りで駆け寄る小林に気付くと、シャーロックは大きく右手を振っている。その隣りでネロも一緒になって両手を振っていたが、「先に行ってるね」と告げ、石流と並んで先に歩き始めた。

 どうやら気を利かせてくれたらしい。

 小林はシャーロックと並ぶと、先を行く二人から少し離れた距離を確保しつつ、ゆっくりと歩き始めた。シャーロックも、その隣をとことことついてくる。

「先生、また二人で出かけましょうね!」

 約束ですよ、と照れ笑いを浮かべると、シャーロックは歩きながら右の小指を差し出した。

 小林も「そうだね」と頷こうとして、僅かに顔を曇らせる。

 それが果たされるのがいつになるのか、正直分からなかった。もういっそのこと、里帰りするように、気にしないで彼女達の元へ顔を見せるのもありなのかもしれないと思う事はある。けれど、立ち直るきっかけをくれた彼女達には、胸を張って再会したかった。今回はイレギュラーだったが、次ことは、きっと。

 小林は意を決すると、シャーロックの小さな小指に、小さなガラス玉のストラップを指輪のように掛けた。 

「先生、これは?」

 シャーロックは、ほぇ、と小首を傾げている。

「お詫びというか、今日の記念というか……」

 しどろもどろに告げながら、小林はもう一つのストラップを、自分の右の小指にかけてみせた。お揃いだと気付いたシャーロックが、大きな瞳をさらに丸くしている。

「次の約束の印、かな?」

 小林は柔らかな笑みを浮かべると、己の右の小指をシャーロックの小指に交差させ、小さく頷いた。

 

 

<了>


 
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