No.719402

Andante - アンダンテ -

瑞原唯子さん

彼女から寄せられる好意を煩わしいとしか思わなかった。彼女の想いに応えるつもりはなかった。なのに、いつしか少しずつ距離が縮まっていて——。

2014-09-19 20:20:57 投稿 / 全10ページ    総閲覧数:580   閲覧ユーザー数:580

Andante - 彼女へのお礼

 

 娘同然に面倒を見てきた澪が結婚して、一週間が過ぎた。

 悠人はノートパソコンのキーボードを叩いていた手を止めて、眉間を押さえる。仕事のことも、家のことも、澪のことも、ここしばらくは寝る間もないくらいに忙しかったが、それもようやく少し落ち着いてきたところである。ちらりと時計に目を向けると夜の十時をまわっていた。

 すっかり冷めたコーヒーを口に運ぶ。

 悠人は澪の保護者代わりという立場でありながら、彼女のことが好きだった。結婚したいとも思っていた。彼女の祖父であり悠人が秘書として仕える橘財閥会長も、悠人と澪の結婚を望んでくれていた。だが、彼女が選んだのは別の男だったのだ。

 ありていに言えば失恋だ。彼女の年齢と自分の立場を気にして高校卒業まで待とうと思っていたのだが、その間に知らない男に持って行かれてしまった感じである。いくら後悔してもしたりない。今も完全にはふっきれていないものの、保護者として末永い幸せを願う気持ちも嘘ではない。彼女は高校卒業までこの屋敷にいることになっているので、あと一年弱ほど、悔いのないよう保護者としての役割を全うしようと考えている。

 澪は結婚前、十七年ものあいだ父親だと思っていた人に乱暴されるという残酷な目に遭った。発見したときの衝撃的な光景はいまでも脳裏に強く焼き付いている。その乱暴していた男というのが自分の親友なのだからなおさらだ。それでも澪本人の受けた衝撃とは比べものにならないだろう。

 そのとき、日比野涼風という女性に澪のことを頼んだ。さほど親しいわけではないが、ほかに女性の知人がいないので選択の余地はなかった。ただ、澪とも顔見知りなのでちょうどよかったのかもしれない。何があったのかまでは話せなかったが、それでも彼女は二つ返事で引き受けてくれた。澪の避難先まで衣服を見繕って届けたり、ケーキ持参で様子を見に行ったり、話し相手にもなってくれていたようだ。

 彼女と出会ったきっかけはとある絵画だった。二十数年前、まだ彼女が小学生になる前の話である——日比野夏彦という著名な抽象画家だった父親が亡くなり、悪どい画商に遺作を奪われたが、それを彼女のもとへ取り戻したのが悠人なのだ。日比野夏彦の遺作ということで美術的価値は言うまでもないが、娘の彼女にとってはかけがえのない形見でもあるだろう。

 それきり二十年以上ずっと没交渉だったが、半年ほど前に彼女が訪ねてきて再会した。仕事の依頼が目的だというのは本当だったと思うが、悠人に会いたい気持ちも少なからずあったようだ。初めて会った子供のころに悠人を好きになり、再会してあらためて好きになったと告白された。だが、悠人の方は澪と結婚するつもりでいたので、彼女の好意を煩わしいとしか思えず、誘いはすべて断っていた。つまり、今のところは単なる仕事上の知人でしかない。

 そんな彼女に図々しくもプライベートなことを頼んだのだから、礼をしなければならないだろう。決して忘れていたわけではないのだが、忙しい日々が続いてこれまで放置していた。今さらではあるが、再びコーヒーに口をつけてから充電中の携帯電話に手を伸ばした。

 

「先日のお礼をさせてください」

 電話でそう告げると、彼女は予想外だったらしく少し驚いているようだった。あれから一ヶ月以上も連絡していなかったのだから無理もない。もしかすると礼を失する悠人に失望していたのかもしれない。しかし、彼女の声はすぐに嬉しさのあふれた弾んだものに変わる。

『どんなお礼をしてくださるの?』

「希望があればお聞きしますが」

『そうね……あ、悠人さんとお食事がしたいわ』

 彼女の希望が常識的なものだったことに安堵する。自分と食事をしてもたいして面白くはないだろうが、彼女が望むのであればそのくらいは付き合うつもりだ。

「食事や店について希望はありますか?」

『すべて悠人さんにおまかせします』

「わかりました」

 そう答えたものの、どういう店を選べばいいのか悠人にはよくわからない。今まで女性を食事に連れて行くような機会はほとんどなかったのだ。お礼ということなので彼女に喜んでもらえなければ意味がない。気は進まないが、ドイツに転勤した親友の大地に助けを求めることにした。

 

 約束の日、彼女の自宅マンションまで迎えに行き、予約したレストランにタクシーで向かった。

 悠人はいつもと変わらないビジネススーツだが、涼風は膝丈のワンピースにジャケットという、仕事のときよりも柔らかい格好をしている。といってもカジュアルすぎることはなく、シンプルながら上質さを感じさせる優美なもので、格調高く落ち着いた雰囲気の店にふさわしい装いだった。

 二人は個室に通され、あらかじめ頼んでおいたシャンパンで乾杯をした。

 彼女は上品に一口つけると、満足そうに吐息を落としてにっこりと微笑んだ。飲めることは知っているのでシャンパンを用意したが、底無しではないので、飲ませすぎないよう気をつけなければならない。以前、ブランデーをハイペースであおって酔いつぶれたことがあるのだ。

「悠人さんってこういうところでデートするのね」

「しませんよ。ここへ来たのは今日が初めてです」

「あら、そうなの?」

 彼女は意外だと言わんばかりに大きな目をぱちくりとさせた。しかし、すぐにアプリコット色の唇にほんのりと笑みをのせる。

「じゃあ、デートはどんなところで?」

「恋人なんて長らくいませんから」

「どのくらいおひとりなんです?」

 まるで取り調べのように次々と不躾な質問が繰り出される。不愉快とまではいかないが微妙な心持ちになった。それでもあえて隠すほどのことではないと思い、正直に答える。

「付き合っていたのは高校生のときだけです」

「え、意外……悠人さんみたいな素敵な人が……」

「そういうことを言うのは日比野さんくらいです」

「言わなくても思っている人は多いはずよ」

 彼女の場合、社交辞令でなく本気でそう考えてそうなのでタチが悪い。

「悠人さんが気付いてないだけで、女性社員とかに裏できゃーきゃー騒がれてると思うわ。そういう輪には加わらないけど、密かに想い続けている子も何人かいるんじゃないかしら」

「どちらもないですね」

 そっけなくあしらってシャンパンを流し込んだところで、前菜が運ばれてきた。その繊細な仕事ぶりは一目で窺える。口に運んでみると味も申し分ない。さすが大地が勧めるだけのことはあると素直に感心する。目の前の彼女も微笑をたたえて美味しそうに食べていた。しかし、ふと思い出したように怪訝な面持ちで言葉を継ぐ。

「ねえ、悠人さんは自己評価が低すぎると思うわ」

「私は会長の愛人だと一部で噂になっているんです」

「……えっ?!!」

 彼女は目を見開いて唖然としていた。その様子を見て悠人はくすっと笑う。

「もちろん事実ではありませんよ」

「そうよね、そんなわけないわよね」

 彼女はあからさまにほっとした様子で苦笑を浮かべ、シャンパンをあおった。顔が火照っているのはアルコールのせいだけではないはずだ。一瞬、信じてしまっただろうことは想像に難くない。

「でも、都合がいいのであえて否定はしていません」

「都合がいいって……?」

「会長は女性嫌いなんです」

「でも、結婚されてましたよね?」

「夫婦仲はとても良かったですよ」

 橘会長の妻はすでに病気で亡くなっているが、羨ましいくらい仲の良い夫婦だった。橘会長が多忙だったため一緒にいる時間は少なかったが、不満を漏らすことなく常に互いを思いやっていた。

「男色家という意味ではなく、色目を使って近づいてくる女性が嫌いだということです。実際、過去にひどい目に遭わされていますからね。色仕掛けを相手にしなかったら、嘘の証拠をでっち上げて脅したり、セクハラだと騒ぎ立てたり」

 もっとも橘会長がそんなことに屈するわけはない。彼を陥れようなどよほどの馬鹿か命知らずである。その女性ひとりくらい赤子の手を捻るようなものだ。ただ、こんなことに煩わされるのは二度と御免だと憤慨して、身近なところから女性を排除するようになったのである。

「会長さんほどの人ならそういうこともあるわよね」

 彼女は理解を示すようにそう言いながらも、微妙な面持ちになる。

「でも悠人さんはそれでいいの? 愛人扱いだなんて」

「私もそういう意味では女性嫌いですから」

 悠人にもときどき色目を使ってくる女性はいる。目的は悠人自身でなく橘財閥だ。会長にもっとも近いとされる悠人に近づき、何かしらの情報を得るつもりなのだろう。単純に金目当てということもありそうだ。しかしながらそんなものに引っ掛かるほど愚かではないし、そもそも心を許していない相手には食指が動かない。たとえ絶世の美女が悩ましげに触れてきたとしても。

 彼女はフォークを置き、きまり悪そうに眉を下げて小首を傾げた。

「私のことも迷惑だと思ってます?」

「そうですね、初めは……」

 悠人は顔を上げ、少し表情のこわばった彼女を見つめて言葉を継ぐ。

「でも、今はあなたと知り合いになれて良かったと思っています。先日もあなたがいなければ途方に暮れていたかもしれません。澪もとても感謝していると言っていましたし、あなたのことを姉のように慕っているようです。よろしければ、これからも澪と仲良くしてやってください」

「ええ、それはもちろん」

 彼女は満面の笑みを見せながら、明るくそう答えた。

 しかし、下を向いてフォークを手にしたその一瞬、表情がふっと寂しげに翳ったような気がした。一瞬だったので本当にそうだったかは自信がないし、たとえそうだったとしても理由がわからない。気にはなったが、笑顔に戻った彼女にはもう尋ねることができなかった。

 

 その後も、会話は思いのほか弾んだ。

 互いの近況や仕事のこと、様々なニュース、スポーツなど話題は多岐にわたり、悠人にとってもそれなりに楽しいひとときとなった。まぎれもなく彼女のおかげである。本来はもてなす側である悠人のやるべきことなのだろうが、残念ながら会話を弾ませるような技量は持ち合わせていなかった。

 出された料理はどれも素晴らしかった。彼女にも手放しに喜んでもらえたようで胸をなでおろす。料理人の確かな腕と丁寧な仕事ぶりは素人目にもわかった。見た目も、味も、食感も、すべてが調和しつつそれぞれの良さを引き立てている。もちろんデザートのケーキやアイスクリームにも手抜かりはない。むしろ、最も力を入れているのではないかと思ったくらいだ。

 彼女は食後のコーヒーを口に運び、一息ついて微笑んだ。

「ね、悠人さん」

「何でしょうか」

「このあたりで、実はホテルを取ってあるんだ、とかいう展開になりません?」

「なりませんね」

「なぁんだ、残念」

 芝居がかったわざとらしい抑揚をつけてそう言い、肩をすくめて愉快そうにくすくすと笑う。彼女も本気で言っているわけではないのだろう。シャンパン三杯しか飲んでいないはずだが、少し酔いがまわっているのかもしれない。頬にほんのりと赤みがさしており、普段以上に饒舌になっている気がする。しかし、言葉も手元もしっかりしているので、もう少しくらいなら大丈夫だろうと思う。

「ホテルはないですが、バーであと少し飲みますか?」

「本当? ぜひお願いします!」

 酔いのせいか感情表現が率直になっているようだ。今も両手を組み合わせて無邪気に喜んでいる。仕事をしているときの凛とした態度とのギャップに、我知らずふっと笑みがこぼれた。

 

「悠人さん、こういうところによく来るの?」

「いえ、普段はほとんど飲みませんし」

 彼女を連れてきたのは、先ほどのレストランから徒歩数分のこじんまりとしたバーだ。過去に一度だけ大地に連れて来られたことがあるが、彼がひとり静かに飲みたいときの行きつけらしい。せまくて薄暗いながらも、カウンターやバーテンダーは正統派を感じさせ、そういうところが彼のお気に入りだったのだろう。

 悠人たちはカウンター席に並んで座っている。そこには二人だけで、あとは小さなテーブル席に数人いるだけだ。彼らの話し声も聞こえてくるが、落ち着いて会話を楽しんでいるような感じで、場の雰囲気を壊すようなものではない。

「こういうお店、悠人さんによく似合うわね」

 彼女はカクテルグラスの脚に手を掛けてそう言うと、にっこりと微笑みかけてきた。あたりが薄暗いので顔が紅潮しているかどうかはわからないが、何となくふわふわした雰囲気なのは伝わってくる。

 悠人は息をつき、手元のギムレットに視線を落とした。

「日比野さんは私を買いかぶっているようですが、仕事ばかりのつまらない人間です」

「仕事に一生懸命な人って素敵だと思うわ」

 彼女は目を細めてそう言い、グラスを顔の前に持ち上げて透明なカクテルが揺れるのを見つめる。

「私、チャラチャラした人は好きじゃないの。不器用でも誠実な人が好き」

「誠実……といえるような人間ではありません。ただ無様なだけです」

「本当に不誠実な人は、そんなことを思いもしないんじゃないかしら」

「私のずるさを知らないだけだ」

 思わずむきになって言い返してしまった。酔っているのだろうかと額を押さえてうつむいたものの、飲んでいないときにも似たような会話をしたことを思い出す。あのときはだいぶ落ち込んでいたとはいえ、彼女に対して随分と失礼なことを頼んだりもした。どうも彼女といると調子が狂う。溜息をついて隣を覗うと、酔いはどこへ行ったのか彼女はひどく真面目な顔をして前を向いていた。

「それでも悠人さんは誠実な人だと思うの。誰しも少しくらいのずるさは持っているものだし、それを自覚しているだけまともなんじゃないかしら。私は自分の目を信じているわ。悠人さんは信じてくれていないみたいだけど」

 そう言って頬杖をつきながらこちらに横目を流すと、いたずらっぽく肩をすくめる。

 もともと年齢よりも幼く見える顔立ちのためか、そういう仕草をしてもあまり色っぽくは見えない。どちらかといえば可愛らしい感じだ。その中で、ゆるく弧を描いた唇だけが、カクテルに濡れてほのかに甘い艶めきを放っていた。

 

「そろそろ帰りましょうか。送ります」

 悠人は腕時計に目を落としてそう言った。

 このバーに入ってからすでに一時間が過ぎている。二人ともゆっくり飲んでいたのでまだ一杯だけだが、あまりアルコールに強くない彼女に配慮し、このくらいで切り上げた方がいいだろうと考えたのだ。しかし、彼女は不満そうに口をとがらせる。

「もう帰るの?」

「あしたの朝、後悔することになりますよ」

「悠人さんとなら何があっても後悔しないわ」

「朝まではいられないので帰りましょう」

「もう……」

 悠人の言いたいことが伝わっているのかは疑問だが、渋々ながら聞き入れてくれたようだ。グラスの底にわずかに残っていたカクテルをきれいに飲み干し、小さく一息つくと、隣の悠人を見つめて物憂げな儚い微笑を浮かべた。

 

 タクシーを拾い、彼女のマンションへ向かった。

 やはり酔っていたらしく、彼女はタクシーが動き出してまもなくうとうとし始めた。角を曲がったときに悠人の肩にこてんと寄りかかる。すぅ、すぅ、と規則的に寝息を立てているのが伝わってきた。押し返すのも冷たいような気がして、とりあえずそのまま寄りかからせておくことにした。

 起こしても目を覚まさなかったらどうしようかと思ったが、マンション近くになると自ら目を覚ましてくれた。寝ぼけながらもまっすぐに座り直す。十五分ほどではあるが睡眠をとったおかげか、しばらくすると幾分かすっきりした顔になってきた。

 やがてマンションに着き、彼女を部屋の前まで送り届けようとしたものの、オートロックなので心配ないと断られてしまった。遠慮なのか警戒なのか本心はわからない。どうしようか悩んだが、受け答えがしっかりしているので大丈夫だろうと判断し、彼女の意思を尊重してひとりで帰すことにした。

「今日はごちそうさまでした。悠人さんと過ごせてとても楽しかったです」

「あまり気の利いたことはできませんでしたが、楽しんでいただけたのなら何よりです」

 そう言葉を交わしたあと彼女はタクシーを降りる。が、ふと何かを思い出したように開いた扉に手を掛け、腰を屈めながら中の悠人を覗き込んできた。肩より少し短い黒髪がさらりと頬にかかる。

「今度は私の方から誘っても構いません?」

「……それは……構いませんが……」

「慰めてあげるって約束しましたよね」

 面食らう悠人に、彼女は臆することなくにっこりと微笑みかける。

「おやすみなさい」

「……おやすみ」

 彼女が離れると、タクシーは扉を閉めてゆっくりと走り出した。

 悠人は後部座席に身を預けてぼんやりと思考を巡らせた。彼女に慰めてもらうなどという約束をした覚えはないが、憂さ晴らしに付き合ってあげるとなら言われたことがある。もっとも、これも彼女が一方的に言っただけで約束を交わしたわけではない。

 嫌なら断ればいい。

 シンプルに考えるならそれだけのことだが、嫌だと思えないので困っていた。彼女の気持ちに応えるつもりはないのに、プライベートな付き合いをするのも気が引ける。期待を持たせるだけというのは残酷ではないだろうか。しかし、彼女がどう考えているかもわからないのに、そんな理由で断るというのも傲慢なように思う。

 答えを出すには、悠人はあまりにも経験が少なすぎた。

 細めた目を窓の外に向けて、夜に浮かんだ光の景色が流れていくのを眺める。久しぶりのアルコールだったので自分も少し酔っているのかもしれない。まともに働かない頭を自覚して嘆息すると、今は思考を放棄し、このやっかいな難問を先送りすることに決めた。

Andante - 彼女からの誘い

 

『悠人さん、今度の土曜の夜ってお時間あります?』

 涼風から電話で誘いがあったのは、前回食事に出かけてから二週間が過ぎたころだった。

 その時点で、悠人は彼女の誘いをどうするべきかまだ決めかねていた。いくら考えても堂々巡りになるばかりで結論を出せず、しかし音沙汰がなかったので社交辞令ではないかと思い始め、もう気にするのをやめようと決めた矢先の連絡だったのだ。

 そんな不意打ち同然の状況でうまく対処できるはずもなく、結局、彼女に流されるように会う約束をしてしまった。話し終えた携帯電話の通話を切って片手で畳み、溜息を落とす。

 まあ、一回くらいはいいだろう——。

 一回であればそれほど期待させることもないはずだ。今後どうするのかという問題を先送りにしたまま、自分自身にそう言い訳する。心の片隅でかすかに浮き立つ気持ちから目をそむけながら。

 

 今回は、駅で待ち合わせをすることになった。

 悠人は待ち合わせのときはいつも十分前までに着くよう行動している。今日も十分前に着いたが、そのときにはすでに彼女が改札を見つめながら立っていた。仕事帰りなのか、スタイリッシュな黒いスーツを身につけ、肩からは大きな黒い鞄をさげている。そういえば彼女の画廊はここから歩いて行けるところだ。

 悠人が近づくと、彼女は気配を感じたように振り向いた。すぐに小走りで駆けつけてきて微笑む。

「来てくださってありがとうございます」

「約束は守りますよ。ずいぶん早く来ていたんですね」

「悠人さんをお待たせするわけにはいきませんから」

 彼女はいたずらっぽく目をくりっとさせて肩をすくめた。これまでも二人きりのときに何度か目にした顔だ。いかにも仕事のできる女性といった格好とは裏腹に、こういう表情をしているとまるで少女のように見える。

「行きましょうか」

 無言の悠人にそう声をかけ、彼女は肩よりすこし短い黒髪をなびかせて軽やかに歩き出した。

 

 彼女が予約していたのは、駅近くのビルに入っているダイニングバーだった。

 前回のレストランと比べるとかなりカジュアルではあるが、雰囲気はわりと落ち着いていた。あちらこちらから楽しげな話し声は聞こえるものの、宴会のように臆面もなく騒いでいる輩はいない。男女二人組、あるいは女性数人のグループが多いようだ。

 店員に案内されたのはいちばん奥の窓際にある席だった。ガラス窓に面したカウンターテーブルに向かい、二人掛けの長椅子に並んで座るようになっている。隣席とはこころもち離れているため窮屈さはなく、話が筒抜けになる心配もなさそうだ。正面は一面ガラス窓になっており、その向こうにはきらびやかな都会の夜景が広がっていた。

 もはや完全にカップルのための席といった感じで、そこはかとない気恥ずかしさを覚えたものの、店員に促されるまま素知らぬ顔をして席に着いた。彼女も隣に座る。すぐに別の店員がおしぼりと水とメニューを持ってきた。

「悠人さんは何を飲みます?」

「……生ビールで」

 彼女がドリンクメニューをテーブルに開きながら尋ねてきたが、何ページにもわたるメニューを吟味して選ぶのは面倒で、ほとんど見ることなく答えた。彼女の方は「どうしようかな」と楽しそうに独りごちながら、カクテルメニューを軽く眺めたあと、ワインリストをじっと食い入るように見つめる。そして店員を呼び、舌を噛みそうな銘柄の白ワインと生ビールを注文した。

「食べたいものはあります?」

 今度はそう尋ねながら料理のメニューを広げた。

 カルパッチョ、カプレーゼ、バーニャカウダ、パスタ、ピザ、リゾットなどイタリアンなものが多いようだ。そういえば、さきほどこの席まで案内されるときに、石窯でピザを焼いているのが見えた。それなりに本格的な店なのだろう。

「日比野さんにおまかせします」

「じゃあ、いくつか適当に頼みますね」

 彼女はそう言って真剣にメニューを見つめて考え始めた。おなかが空いているか、好き嫌いはあるかなど、ときどき悠人に尋ねながら選んでいく。やがて男性店員がドリンクを運んでくると、彼を引きとめて三品ほど注文した。

「それじゃあ……乾杯」

 彼女の音頭で、隣り合った二人は軽くグラスを合わせる。

 悠人は冷たいビールを渇いた喉に流し込むと、グラスを置いてあらためてまわりを眺めた。テーブル席の方には女性だけのグループも少なくはないが、夜景の見える窓際の席は目につく限りすべて男女二人組である。そのほとんどがおそらく恋人どうしだろう。

「日比野さんはよくこの店へ来るのですか?」

「ええ、月に4、5回くらいは来てるかしら」

 彼女はワイングラスの脚に指先を掛けたまま、遠くを見つめて微笑む。

「仕事が遅くなって自炊するのも面倒なときは、よくここで食事をして帰るんです。いつもは向こうのカウンターでひとりよ。夜景の見える窓際の席なんて今日が初めて。少し憧れていたけど、一緒に行ってくれる彼氏はいなかったから」

「…………」

 悠人はどう反応すればいいかわからず、黙ったままビールに口をつけた。

 恋人とここへ来ているのではないかと思ったが、そうではなかったらしい。どのくらいのあいだ恋人がいないのだろうか。前回彼女から訊かれたことなので、彼女に訊いても構わないように思うが、興味を持っていると誤解されても困るのでやめておく。

「だから、今日は本当に嬉しくて嬉しくて仕方がないの。好きな人とここに座ることができたんだもの。でも悠人さんを慰めないといけないのに、自分が舞い上がってちゃダメよね」

「構いませんよ。そもそも慰めてもらうつもりはありませんから」

 慰めるという話自体、彼女が勝手に言い出したことで悠人が頼んだわけではない。

 しかし、彼女は不思議そうに目をぱちくりさせながら覗き込んできた。

「じゃあ、どうして誘いを受けてくださったの?」

「…………」

「断りづらかったから仕方なく?」

「その、まあ気晴らしにはなりますし」

 見事に図星を指され、若干の焦りを感じながらごまかすように答える。さすがに気を悪くしたのではないかと思ったが、少なくとも深く追及するつもりはないようだ。彼女はニコッと小さく笑い、気晴らしになるのでしたらよかったです、と穏やかに応じてワイングラスを手にとった。

 

 とりとめのない話をするうちに料理が運ばれてきた。まずはシーザーサラダである。かなり分量のあるそれを小皿に取り分けつつ食べていると、カルボナーラとマルゲリータも続けて運ばれてきた。やはりどちらも二人で分け合いながら食べていく。彼女が行きつけにしているだけあって、味はいずれも満足のいくものだった。

 意外にも、彼女はよく食べる。

 最初に注文したものが残り少なくなってくると、当然のように追加注文した。そういえば前回のコース料理も残さずきれいに食べていたことを思い出す。少食でもない男性の悠人が腹一杯になったくらいなので、女性にはいささか量が多かったのではないかと思うが、彼女は少しも苦しげな素振りを見せていなかった。

 華奢で小柄な体なのによくそんなに、と不思議に思いながら何気なく横目を流すと、意図せず豊かな胸が視界にとびこんできた。ジャケットの上からでもわかるくらいにボリュームがあり、シャツも窮屈そうである。その視線を感じたのか彼女が手を止めて振り向く。悠人は何事もなかったように大皿のピザに手を伸ばし、口に運んだ。

 

「そういえば、澪ちゃんから聞いたんだけど……」

 会話が途切れたあと、彼女は少し言いにくそうにしながら切り出した。悠人が飲みかけていた二杯目のビールを置いて横目を流すと、彼女の方もちらりと視線をよこして言葉を継ぐ。

「澪ちゃんの結婚式でエスコートするって」

「ああ……、澪が望んでくれるならですが」

 父親の大地にはドイツから帰ってこられない事情がある。そもそも澪の尊厳を踏みにじるようなむごいことをしたのだから、結婚式で父親面をする資格はない。それゆえ、悠人が保護者代わりにエスコート役を申し出たのである。

「そのことで、澪があなたに相談を?」

「ええ……本当に悠人さんにお願いしていいのか悩んでいました。澪ちゃんとしてはすごく嬉しい申し出なんだけど、その、悠人さんにつらい思いをさせてしまうんじゃないかって……」

 彼女は言葉を濁すが、澪に結婚を断られたことへの言及だとすぐにわかった。

「少しもつらくないといえば嘘になりますが、心配するほどのことではありません。私としてはできるならこの手で澪を送り出してやりたい。それが私自身のけじめでもありますし、矜持でもあります。澪にもそういう話はしたはずなんですけどね……わかりました。もう一度きちんと腰を据えて話し合ってみます」

 悠人はテーブルの上で両手を組み合わせながら、真面目に答えた。

「まだふっきれてはいないんですよね?」

「まあ、五年以上も想ってきたわけですから」

「悠人さんってやっぱり紳士だと思うわ」

 いったい何をもって紳士と評しているのかわからない。五年以上も一途に想い続けてきたことだろうか。それとも、五年以上も手を出さなかったことだろうか、彼女の過剰評価は今に始まったことではないが、さすがに言い過ぎではないかとむず痒くなる。

「あなたにあんなことを頼んだ私を紳士だなんて、ありえないでしょう」

 思わず反抗的に言い返したが、彼女はフォークを持つ手を止めてきょとんとした。

「あんなこと?」

「……忘れているのならいいです」

「あ、もしかして一晩だけって話?」

「すみません、あのときはどうかしていました」

 どうしてこんなことを蒸し返してしまったのだろう。悠人は思いきり後悔しながら、いたたまれなさにうつむいて言い訳を口にする。けれど実際にどうかしていたとしか考えられない。澪のことをふっきるために一晩だけ付き合ってほしいと頼むなんて。断ってくれた彼女には言いようもないくらい感謝している。そんな理由で抱かれるのは嫌だと一蹴されて目が覚めたのだ。

「本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、悠人さんが弱い一面をさらしてくれたみたいで、私はちょっと嬉しかったの。だからお気になさらないでくださいね。それに、一晩だけってあらかじめ正直に言っておくのは、十分に紳士的だと思うわ」

 彼女は冗談めかしてクスッと笑った。しかし、ふいに顔を曇らせて覗き込んでくる。

「もしかして、ほかの人にもお願いしました?」

「日比野さんにしか頼んでいませんよ」

 誰にでもそういうことを頼む人間だと思われたのなら心外だが、それだけのことを彼女にしたのだから仕方がない。しかし、実際には女性の知人からしてほとんどいないのだ。澪の世話を頼むときも、彼女だけしか思い浮かばなかったくらいである。

「ね、もしね……」

 消え入りそうな儚げな声が聞こえて振り向くと、彼女はワイングラスの脚に手をかけてうつむいていた。その横顔はひどく張りつめているように見える。無言で続きを待っていると、彼女は意を決したように小さく息を吸いこんで口を開く。

「もしどうしてもってときは、私を頼ってほしいの」

「そんなことには二度となりませんから」

「未来のことなんて誰にもわからないじゃない」

「……まあ、そうですが」

 もう澪のことは冷静に受け止めているし、万が一にもないことだと思っているが、そういう答えでは納得してくれないようだ。もしこうだったらという仮定の話をしているのだから、その前提を否定するのは、ごまかしと捉えられても仕方がないかもしれない。それならば——。

「ないとは思いますが、もしそのときは日比野さんにお願いします」

「よかった」

 彼女はワインに目を落としたまま、ほっと安堵の息をついた。

 その姿を横目で見ながら、悠人は絶対にそんなことがないようにしなければと、今さらながらあらためて気を引きしめなおした。過ちは二度と繰り返さない。自分さえ気持ちをしっかり持っていれば大丈夫なのだから。

 

「今日は私にごちそうさせてください」

 支払いの段になって彼女はそう言い出した。

 悠人としては一回りも年下の女性におごらせるわけにはいかないと思ったが、彼女はどうしても譲らなかった。せめて割り勘でと言っても首を縦に振らない。自分のわがままで来てもらったのだから、自分に出させてほしい——それが彼女の言い分だった。

「じゃあ、次は悠人さんがごちそうしてください。それならいいでしょう?」

「……わかりました」

 いつまでも押し問答をしていても仕方がない。悠人は渋々ながらその提案を受け入れ、この場の支払いを彼女に任せることにした。

 

「何か、うまくはめられた気がするな」

「何のこと?」

 店を出たところで悠人がつぶやくと、彼女はとぼけるようにそう言って満面の笑みを浮かべる。

 結局、またしても彼女と食事をしなければならなくなった。計画的な罠なのか思いつきなのかはわからないが、結果的に彼女の望む状況になっていることは間違いない。案外策士なのかもしれないな、と隣でニコニコと嬉しそうにしている彼女を見下ろし、軽く溜息をつく。

 エレベータで一階まで降りてビルを出る。まだ終電までかなりの時間があるため、駅前通りはうるさいくらいに賑わっている。土曜ということもあり、スーツを着ている会社員らしき人間より、カジュアルな装いの若者が多いようだ。合コン後と思われる男女のグループも目についた。

「悠人さんはタクシー?」

「ええ」

「私は電車なので、今日はここでお別れですね」

 彼女は待ち合わせをした駅の方を指さし、にこっと笑う。

 しかしながら悠人としては今日もタクシーで送るつもりでいた。前回ほどは飲んでいないのでひとりで帰れるかもしれないが、まだ混雑する時間帯ということを考えると、酔って警戒心の薄れた彼女を電車に乗せる気にはなれない。

「ついでなのでタクシーに乗っていってください。マンションまで送ります」

「え、でもだいぶ遠回りになりますよね?」

「たいしたことはありません。せめてこのくらいはさせてください」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 彼女は暫し逡巡したあと、はにかむような笑顔を見せてそう言った。

 駅前のタクシー乗り場まで彼女を促しつつ並んで歩く。互いの腕がときどき触れるくらいの近さで。それは彼女のせいなのか自分のせいなのか——一瞬、悠人の頭にそんな疑問がよぎったものの、すぐに思考を閉じて考えないようにした。

Andante - 永遠に友人

 

 二週間後、悠人は約束どおり涼風を食事に誘った。

 しかし、それで終わりにはならなかった。しばらくのちに再び彼女から食事に誘われ、そこでも奢られてしまったため、またしても彼女を食事に誘うことになる。この繰り返しで、二週間ごとに交互に誘い合うという状態が続いていた。

 飲みに行くこともあれば、純粋に食事だけのときもある。

 彼女の策略にまんまとはまっているという自覚はあるが、特に不快には感じていなかった。むしろ楽しみなくらいである。次はどこに連れて行こうか、どこに連れて行かれるのか——そんな些細なことに思いをめぐらせるだけで、無意識に心が浮き立ってくるのだ。

 しかし、こんなことをいつまでも続けるわけにはいかないし、続くはずもない。悠人には彼女の想いに応える気などないのだから。そう思いつつも自分から終わらせる勇気はなかった。いつか来るであろう終焉をうっすらと覚悟しつつ、ただなすがまま現状に流されていた。

 

『今度の金曜日、できれば日中にお時間いただけます?』

 彼女からそう電話があったのは、夏が過ぎ、秋に変わりゆく季節のころだった。

 しかし、先週末に彼女から誘われて食事をしたばかりであり、本来なら次は来週、それも悠人の方が誘うはずなのにと訝しく思う。おまけに日中というのが解せない。あのお礼のとき以来、時間の早い遅いはあれど会うのはすべて夜だったのに。

 暗黙の了解が崩れたのは、終焉の予兆かもしれない。

 そんなことを考えながらも、素知らぬふりをして金曜の午後に時間を取ることを約束した。何をするつもりなのかはあえて尋ねていない。どうも秘密にしたがっているような口ぶりだったので、その意思を尊重したのである。それでもまあ大丈夫だろうと楽観していられるくらいには、彼女を信用していた。

 

 待ち合わせ場所は、彼女のマンションからも画廊からも離れたところにある地下鉄の駅だった。

 悠人はタクシーで1番出口に乗り付けた。きっちりとスーツを着込んだその上から、いまだ夏を思わせる灼けつくような日射しが降りそそぐ。またたく間にじわりと汗がにじんだ。逃げ込むように、若干ひんやりとした薄暗い階段を駆け降りていく。

 改札前には、すでに彼女が待っていた。仕事用の黒いスーツを身につけ、大きな鞄を肩から提げている。乗降客がすくない駅なのか、平日昼間という時間ゆえか、あたりにはちらほらとしか人がいない。そのため彼女もすぐこちらに気付き、顔をかがやかせて駆け寄ってきた。

「平日の日中にご無理を言って申し訳ありませんでした」

「いえ……それで、今日はどういったご用件でしょう?」

「美術館です」

 単刀直入に尋ねたが、彼女はにっこりと思わせぶりに微笑んでそれだけしか答えない。

 その美術館に彼女の見たい絵画があるのだろうか。あるいは悠人に見せたい絵画があるのだろうか。気にはなるが、どうせまもなく明らかになるのだからと思い、それ以上は追及せず促されるまま歩き出した。

 

 彼女に連れてこられたのは、駅から直結したビルの九階に入っている美術館だった。ただ、閉められた扉には休館という札がかかっている。知らずに来てしまったのだろうかと思ったが、彼女はあたりまえのように通用口の方にまわった。

「すみません、お忙しいのにわがままを言って」

「いえ、もう展示はほぼ終わっていますので」

 付近にいたスーツ姿の男性ににこやかに声をかけ、悠人を誘導しつつ中へと進む。

 さきほどの会話から察するに、新たな展示の準備をするために休館としているのだろう。周囲を見回すと、あたたかな薄明かりの中にさまざまな絵が展示されていた。ところどころに関係者らしき人物も見受けられる。どうやら照明の明るさや解説プレートの位置など、細かいところを最終調整しているようだ。

 彼女の足が、とある絵画の前で止まった。

 その凛とした横顔から視線をたどり、悠人は息をのんだ。そこに展示されていたものは——。

「悠人さんに取り戻していただいた、父の遺作です」

「ああ……」

 目にしたことは数えるほどしかないが、忘れてはいなかった。

 正直いって絵画に関する知識はあまり持ち合わせておらず、良し悪しなどわかりようもないが、それでもこの絵のことは感覚的に気に入っていた。いきいきとした生気があふれているようで、見ているだけで気持ちが高揚してくるのだ。

「Andante(アンダンテ)、というタイトルがついていました」

 そう言われて、得心がいく。

 人物の足元に描かれているのは螺旋階段だと思っていたが、鍵盤でもあったのだろう。まるで音楽と人生を重ね合わせているかのようである。気持ちが高揚するのは、この絵から無意識に音楽のリズムを感じ取っていたからだろうか。日比野夏彦の抽象画にはダークなものも少なくないと聞いているが、死の間際に描いたこの絵がこれほど生命力に満ち満ちているのは、幼い娘へ希望を遺したかったからかもしれない。

「悠人さんに取り戻していただいてから昨年公表するまで、画廊にも出さずに、誰にも見せずに、私はこの絵をずっとひとりじめにしていました。ですが昨年公表してからいくつか依頼があって……かけがえのない大切な絵ですけど、大切な絵だからこそ、みなさんに見てもらおうと決心したんです。日比野夏彦の娘として、美術に携わる人間として」

 彼女はまっすぐ絵画に目を向けたまま、淡々と語る。

 父親のパートナーであるはずの画商に奪われた経験から、人目にさらすことに慎重になっていたのかもしれない。美術関係の仕事を始めても、自分の画廊を持つようになっても、いっさいほかの人に見せなかったくらいだから、彼女の中ではとても大きな決心だったのだろう。

「それで、私に展示されているところを見せようと?」

「ええ、悠人さんにこの展示を見ていただいて、感謝の気持ちを伝えたかったんです。私が美術を学ぶようになったきっかけは、父のこの絵をもっと理解したいと思ったから。そして怪盗ファントムに近づきたかったから。おかげで未熟ながら美術の世界に携わるようになり、やりがいのある仕事をいただけるようになりました。この特別展も少しお手伝いしているんです。悠人さんと出会っていなかったら、悠人さんがこの絵を取り戻してくれなかったら、今の私はありませんでした。こうやって父の絵を送り出すこともできなかった。ですから……」

 そこで言葉を切り、彼女はゆっくりと振り向いた。悠人の表情はすこし硬くなる。

「感謝なら橘会長にしてください。私は命じられるまま動いただけですから」

「もちろん橘会長にも感謝しています。それでも私の恩人は悠人さんなの」

 この絵画を取り戻そうと決めたのは橘剛三だ。そして計画を立てたのはほかの仲間である。悠人は何人かいる実行メンバーのひとりにすぎない。なのに、彼女へ返しにいったのが悠人だけだったため、悠人ひとりの仕事だと誤解されてしまったのだ。

 一年近く前、彼女が訪ねてきて再会したときに一通り説明したが、長年にわたる思いまでは簡単に覆らないのだろう。当時下手な優しさを見せてしまったことも影響しているようだ。彼女がどう認識していようと気にする必要はないのだが、手柄をひとりじめしたようで何となくきまりが悪い。

「日比野さん、あなたがそう思うのは自由ですが」

「涼風」

「え?」

「今後はできれば涼風と呼んでくださいませんか?」

「…………」

 突然のことに面食らい無言で立ちつくしていると、彼女はハッとして、あたふたと右手を横に振りながら弁解する。

「別に彼女面したいわけじゃないの。ただ、友人くらいにはなれたらいいなって」

「友人……」

 その言葉に、なぜだかわからないが後頭部をガツンと殴られたような衝撃を受けた。恋人として付き合ってほしいと言われたら、もう会うことをやめなければならないと思っていたが、友人になりたいと言われるなどまったくの想定外である。

 友人になったからといって特に何かが変わることはないだろう。せいぜい食事に誘うのに理由づけが必要なくなるくらいだ。そう冷静に考えてもなお頷くことに抵抗を覚える。もしかすると、名前のない曖昧な関係に居心地の良さを感じていたのかもしれない。

 絶句したままの悠人に、彼女は不安そうな面持ちで言いつのる。

「涼風と呼ぶのがお嫌でしたら無理にとは言いませんので……その、ふたりで食事に行ってお話しすることだけは、今までどおり続けさせてもらえませんか? 悠人さんに彼女ができたらさすがに良くないと思いますので、それまでのあいだで構いません」

 悠人とは違い、彼女は名前のない曖昧な関係に不安を感じていたのだろう。いつ途切れるかわからないこの繋がりを、少しでも確かなものにしようと必死になっている。いじらしいほどに。

「あなたに恋人ができた場合はどうなるんですか?」

「……やはり終わりにしないといけませんよね」

 彼女は困惑したように微妙に顔をゆがめて答えると、ないとは思いますけど、と視線を落としてひとりごとのように言いそえる。

 しかし、どちらかといえばないのは悠人の方である。もともと恋人がほしいなどと願う気持ちはほとんどない。あるのは好きなひとを手に入れたいという欲求だけだ。そして、そう簡単に誰かを好きになれるほど素直な性質ではないし、好きになったとしても相手には受け入れてもらえないだろう。

「もし、どちらにも恋人ができなかったら?」

「永遠に友人でいられますね」

 そう答えたあと、彼女はくすっと笑って肩をすくめた。

 悠人は微妙な面持ちになり逡巡する。

「……まあ構わないでしょう。では、今後は友人ということで……涼風」

 名を呼ぶと、彼女の目がこぼれ落ちそうなくらい大きく見開かれた。そしてほのかに頬を染めながら柔らかくふわりと微笑む。いままで目にしたこともないくらい幸せそうに。

 これで、良かったのか——。

 友人となっても本当に何も変わらないのか自信がなくなってきた。早まったかもしれないという淡い後悔がじわりと湧き上がる。もし彼女にこれまで以上の期待を抱かせることになったとしても、自分には応えることなど出来はしないのに。

 悠人は口を引きむすんだまますべての始まりである絵画を見やり、わずかに目を細めた。

Andante - 無意識下の本音

 

「おまえ、日比野の娘とはどうなっておるのだ」

 悠人は橘剛三の書斎でスケジュール調整をしたあと、出し抜けにそう尋ねられた。

 日比野涼風と会うので時間をいただきたいと、彼には都度正直に告げているので、ほぼ二週間ごとに会っていることは知られている。関係を邪推されるのも無理からぬことかもしれない。

「彼女は友人です」

 ためらわずにそう答えることができたのは、彼女がこの関係に名前をつけてくれたからだ。それがなければ、ただ曖昧に言葉を濁すしかなかっただろう。友人になりたいと勇気を出して言ってくれた彼女に、このとき初めて感謝した。

 しかし剛三は執務机で手を組み合わせたまま、フンと鼻先で笑った。

「……おかしいですか」

「おまえに大地以外の友人がいたとはな。それも女とは」

「彼女に友人になりたいと言われたので了承したまでです」

 そんな言い訳めいたことを口にしたのは、思わぬことを指摘されて少なからず動揺したからだろう。確かに、中学生のころからずっと大地以外に友人はいなかった。彼だけでいいと思っていた。なのに、なりゆきとはいえそこに涼風が加わってしまうとは。

 剛三は何もかも見透かすような目でじっと見つめる。

「おまえは好きでもない相手を決して友人などと呼ばんし、食事に出かけたりもしない。気のない相手にどれほど冷淡な態度をとるか知っておる。たとえ誘われたとしてもほいほいついていかんだろう。相手が女であればなおさらだ」

「……何が言いたいのでしょう」

「思ったことを言ったまでだ」

 悠人は思いきり眉をひそめて表情をけわしくしたが、剛三はしれっと受け流した。彼がとぼけるのならば自分もとぼけるまでだ。さきほどの話はなかったことにしてしまおうと心に決める。

「今夜、彼女と食事の約束があります」

「楽しんでこい。朝まででも構わんぞ」

「今日のうちには帰ります」

 いまいましく思いながらも努めて冷静にそう答え、一礼して書斎をあとにした。

 どうやら剛三が面白がっていることは間違いない。悪気があるわけではなく、単に下世話な興味を持っているだけだろう。もしかしたらお節介のつもりなのかもしれない。彼の考えるようなことは何もないのに——悠人は奥歯をかみしめ、自室のドアノブに手を掛けて静かにまわし開けた。

 

「お待たせしました!」

 夜の帷が降りかかった駅前で待つ悠人のもとに、涼風は息をきらせて駆けつけてきた。

「すみません、打ち合わせが長引いてしまって」

「約束の時間ちょうどだよ」

 悠人はくすりと笑いながら腕時計を掲げてみせた。

 涼風はたいてい悠人よりも先に来ている。悠人がいつも待ち合わせ時間の十分前に来ているので、それより早く着くようにしているのだろう。まれに悠人より遅くなることはあるが、今回のように仕事が長引いたときだけだ。

「今日はどこに?」

「しゃぶしゃぶのお店よ。そろそろ鍋の季節じゃないかと思って」

 涼風はそう言ってニコッと微笑む。

 秋も深まり、そろそろ冬のコートが必要になろうかという時季になっていた。鍋などいつ以来だろうかと考えてしまうくらい久々で、もちろん涼風と食べるのは初めてだ。そうだな、と何気ない調子をよそおいながらも、その口もとは自然とほころんでいた。

 

 涼風は友人になってからもあまり変わらなかった。むしろ控えめになったくらいである。

 以前よりも親しくなっているような気はするが、男女の友人としての線はきっちりと引いているのだ。悠人のことが好きだとは口にしなくなったし、色仕掛けで迫ってくるようなこともないし、性的な関係にかかわることは冗談でも言わなくなった。互いの家の前まで行っても部屋に上がることはない。

 だからこそ、悠人も気を許せるようになってきたのだろう。

 彼女といると素直に楽しいと思えるし、安心もできる。おかげで口調もだいぶ砕けてきた自覚がある。下の名前で呼ぶことにも抵抗がなくなっていた。もう名実ともに友人といってもいいだろう。だが、あくまでもそれだけの関係だ。剛三の望むようなことには決してならないし、なるべきではない——。

 かすかに覚えた違和感を、悠人は意識の奥底に沈めて歩き続けた。

 

「おいしかったですね」

「ああ」

 食事を終えて外に出ると、すっかり闇夜に包まれて冷え込みが厳しくなっていた。凍てつきそうな北風がふいに頬をかすめて熱を奪っていく。しかし、鍋であたたまった体はそれほど簡単に冷えはしない。となりに並んだ涼風の頬もまだ火照っているように見えた。

 悠人はすこし考えてから言葉を継ぐ。

「涼風、今日は飲みたい気分なんだ。もうすこし付き合ってほしい」

「もちろんよ。さっきは何も飲みませんでしたものね」

 さきほどはしゃぶしゃぶを堪能するために、あえてアルコールを頼まなかった。

 しかし、悠人の飲みたい気分はおそらくそれとは関係なく、剛三の無遠慮な追及が胸にわだかまっているせいだろう。もちろんそんなことを彼女に話すつもりはないし、話せるはずもない。ただ、もうすこしそばにいて付き合ってくれさえすればいい——そんな身勝手なことを思いながら、以前、彼女と訪れたことのあるバーへと足を向けた。

 

「…………?!」

 ぼんやりと目が覚め、あわてて周囲を見まわしひどく混乱する。

 悠人が横たわっていたのは自室のベッドの上だった。ジャケットの前はだらしなくはだけており、ネクタイは緩められ、シャツのボタンも三つほど外されている。布団はかぶっていなかったが、部屋には暖房がはいっているため十分にあたたかい。

 目につく範囲では悠人のほかに誰もいないようだ。もちろん涼風も——そのことに体中の力が抜けるほど安堵し、同時にうっすらと記憶がよみがえってきた。

 

 飲みたい気分というより、酔いたい気分だったのかもしれない。

 涼風とともにバーに入り、そこで結構なハイペースでウィスキーやバーボンをあおった。普段は飲まないもののアルコールにはわりと強い方で、ちびちび飲んでいたのではあまり酔えないのだ。おかげで望みどおり酔いがまわったが、まさか記憶が飛ぶなどとは思いもしなかった。

 酔っても顔が赤くならない体質のため、一緒にいた涼風もなかなか異変に気付けなかったのだろう。特に止められたり注意されたりはしなかったように思う。いささか饒舌になった悠人の話に夢中だったせいかもしれない。しかしながら内容についてはほとんど覚えていない。どうやってここまで帰ってきたのかもまるで記憶にない。泥酔しながらも自分で帰ってきたのだろうか。あるいは、涼風に迷惑をかけてしまったのだろうか——。

 

 腕時計に目を向けると、午前一時になろうかというところだった。

 今から涼風に電話をするのはさすがに気が引ける。ジャケットの内ポケットに入っている携帯電話を意識しながら、泥のように重たい体を起こして立ち上がり、無造作に前髪をかき上げて気怠い吐息を落とす。

 ふと、机に置かれたミネラルウォーターのペットボトルが目についた。中身はすこし減っている。もともと冷蔵庫に入れてあったものだと思うが、帰ってきてから自分で開けて飲んだのだろうか。思い出せない記憶をしかめ面でたどりながら、ペットボトルの水を渇いた喉に流し込む。まださほどぬるくなっていなかった。

 ブルブルブル——。

 ジャケットの内ポケットで携帯電話が震えだしてビクリとした。キャップを開けたままペットボトルを机に戻し、携帯電話を確認すると、ディスプレイには涼風の名前が表示されていた。全身から冷や汗がふきだすのを感じつつ、通話ボタンを押す。

「……はい」

『悠人さん? 起きてたの?』

 すこし驚いたような涼風の声が鼓膜をゆらした。悠人は緊張したまま答える。

「さっき目が覚めたところだ」

『それなら良かったです。こんな時間に電話なんて非常識だとは思ったんですけど、心配だから留守電にメッセージだけでも入れておこうと思ったの。でも、大丈夫そうな感じなので安心しました』

 その声に安堵がにじむ。怒っているということはなさそうだが、それは彼女が寛大なだけかもしれない。

「すまない……実は、あまり記憶がなくて……」

『ごめんなさい、まさか悠人さんが酔うなんて思わなくて』

「いや、君は悪くない……僕はどのくらい迷惑をかけた?」

『そんなには。話しているうちにうつらうつらしてきたので、タクシーでご自宅まで送り届けただけです。そこからは執事の方と遥くんにお願いしました』

「そうか……」

 涼風は何でもないかのように言うが、酔って正体をなくした悠人をタクシーに乗せるだけでも大変だっただろう。体格に差があるのでなおさらだ。執事の櫻井と遥にも迷惑をかけたようなので、あとで彼らにも詫びなければならない。

「すまなかった。この埋め合わせはするよ」

『気にしないで。貴重な話も聞けましたし』

「……貴重な話?」

『えっ、もしかしてそれも覚えてません?』

「ああ……何の話か教えてくれないか」

 何となく嫌な予感がするが、だからこそなおさら気になって仕方がなかった。杞憂であればそれでいい。だがここで聞かなければきっと後悔するだろう。じっと息を詰めて返答を待っていると、電話の向こうで彼女のためらう気配がした。

『その、言いにくいんですけども』

「気遣いはいいから言ってほしい」

『ん……誤解しないでくださいね。私が聞き出したわけじゃなくて、悠人さん自ら語り始めたんです。酔っていたからだと思いますけど、すこし自嘲ぎみに……過去の恋愛の話を……』

 一瞬で酔いが醒めた気がした。血の気がひいて背筋に冷たいものが走る。

「それは……どんな……?」

『えっと、悠人さんが好きになった人のこととか』

「君は、それが誰なのかもうわかっているのか?」

『……ええ、みんな橘の方だったのね』

 決定的だった。

 澪のことだけは隠していなかったが、それ以前のことはずっと胸に秘めてきたのに、どうして軽々しく涼風に話してしまったのだろう。酔っていたとはいえ信じがたいことである。先日、ドイツにいる大地にだけはすべてを打ち明けたが、とっくに見透かされているとわかっていたからできたのだ。

 最初に好きになったのが男性で、次に好きになったのが彼の婚約者で、その次に好きになったのは二人の娘——しかも自分が保護者同然に面倒を見てきた子だ。客観的にみれば、頭がおかしいと思われても仕方がない。気持ち悪いといわれても反論の余地はない。携帯電話を持つ手に力がこもる。

「引いただろう」

『すこしも驚かなかったといえば嘘になるけど、引いてはいないわ』

「…………」

『また食事に行きましょう。悠人さんさえ嫌じゃなければ、飲みにも』

 何も気負ったところのない、普段どおりの声が電話を通して伝わってくる。

 それでも素直に受け取っていいものかどうかわからない。口では何とでも言える。すこしでも蔑む気持ちがあればいつか掌返しをされるだろう——そんな捻くれたことを考えながらも、こころは不思議と凪いだ海のように穏やかになっていた。それを自覚すると胸がじわりとあたたかくなる。

「涼風……その、ありがとう」

『どういたしまして』

 彼女はくすっと笑って応じた。電話なのでもちろん声しか聞こえないが、そのときの彼女の表情が目に浮かぶかのようだった。

 

 おやすみと言い合って電話を切ったあと、悠人はベッドに腰を下ろしてそのまま後ろに倒れ込んだ。固めのスプリングで体が揺れるのを感じつつ、なじみのある天井を見つめて吐息を落とし、目を閉じる。

 会いたい——。

 自然と湧き上がったその気持ちを胸にいだきながら、悠人は再び眠りに落ちていった。

Andante - 脆い土台の上に

 

「涼風……」

 悠人は熱をおびた声を落とし、ベッドに仰向けになった彼女の横に手をついて真上から覗きこむ。薄暗い部屋の中で、その潤んだ漆黒の瞳は窓からの月明かりを受けてきらりと輝き、可憐な薔薇色のくちびるは物言いたげに半開きになっている。

 大きく骨張った手ですべらかな頬を包み、親指でやわらかいくちびるをなぞると、彼女の体がぴくりと震えた。その様子を目にしてふっと笑みをこぼす。

 緊張をほぐすように、頬、額、耳、首筋などに軽く口づけを落としながら、白いバスローブの上から体のラインをなぞるように手を這わしていく。そして体の力が抜けてきたのを感じると、誘うように薄く開かれたくちびるに舌を割り込ませ、夢中でむさぼるように絡ませ合った。

 口づけを解くと、二人のあいだに透明な糸が伸びて切れた。

 ほんのりと頬が上気したしどけない涼風と目を合わせたまま、ゆっくりと体を起こし、バスローブの帯を解いてそっと合わせ目を割りひらいた。雪のように白くなめらかな肌、やわらかそうな豊満な胸があらわになる。彼女はますます顔を赤くほてらせながら、恥ずかしそうに横を向いた。

「……あっ……ぁ」

 手に余るほどの乳房を優しく揉みこみつつ、ささやかに色づいた先端に指で刺激を与える。小さなくちびるからこぼれるかぼそい声を聞きながら、もう片方の先端を口に含んでねぶり、やわらかな素肌を楽しむように空いた手をすべらせていく。合わせられた内股に指先がかかると彼女の腰がびくりと揺れた。

 快感と羞恥の入りまじった表情に、ますます煽られる。

 もっと、もっと乱れろ——。

 さきほどよりも幾分か荒々しく胸を揉みしだき、内股に中指を置いたまま、首や胸元にくちびるを這わせて幾度かきつく吸い上げる。赤く浮かび上がった痕に満足すると、今度は時間をかけて焦らすように体中をなぶっていく。秘められた場所もすべて——甘い啼き声を上げて白い体をくねらせる彼女の姿に、さらに興奮が高まっていった。

「ゆう、と、さん……」

 涼風は涙をにじませながら、期待と不安のないまぜになった目で見つめてきた。彼女が何を望んでいるのかはわかっている。悠人は自分のバスローブを素早く脱ぎすてると、彼女の膝裏に手をかけて押し上げながら左右に開き、そして——。

 

 ジリリリリリリリ——。

 聞きなれた目覚まし時計の音で、現実に引き戻された。

 叩きつけるようにボタンを押してけたたましい音を止めると、溜息をつきながら体を起こした。ベッドに座りこんだまま無造作に前髪をかき上げてうつむく。

 またか——。

 この類の夢を見るのは三度目だ。

 大人になった涼風と再会して間もないころ、酔った彼女を介抱するときに裸を見たことがあるので、無駄に妄想がはかどっている気がする。もっともその当時は彼女にまったく興味がなかったため、きれいな体をしているなと冷静に思っただけで、劣情が刺激されるなどということは一切なかった。

 こんな夢を見てしまったことに、最初は予想もしなかったので愕然としたものの、今はもう好きなのだから仕方がないと開き直っている。たかが夢や妄想で罪悪感を覚えるほど清純な人間ではない。過去にはまだ幼い美咲や澪を何度も脳内で犯してきたのだ。それに比べれば成年女性なのだからよほどましだといえる。

 これが、涼風が紳士と評した男の正体である。

 とても彼女に好きになってもらえるような人間ではない。そのことに胸の痛みを覚えるのは、彼女のことを友人として以上に好きになってしまったからだ。それを自覚したのは酔って記憶をなくしたあのときだが、実際いつから好きになっていたのかはよくわからない。いや、いつからとはっきり言えるものではないだろう。

 涼風の一途な告白をさんざん拒絶しておきながら、今さら何だと自分でも思う。

 もしかすると、彼女の方はもうただの友人としか思っていないのかもしれない。彼女が好きになったのは幼い日の記憶がつくりあげた幻影である。仮面をかぶっていない現実の悠人と何度も会い、みっともない部分も知ったのだから、幻影などとっくに消え失せていても不思議ではない。そう考えれば一線を引いた態度にも合点がいく。

 だが、少なくとも友人としてはまだ愛想を尽かされていないはずだ。それなら友人のままでいい。彼女に想いを告げさえしなければ、下手な希望を持ちさえしなければ、いつまでもこの関係を続けていられるのだから。

 

「おまえ、今日は日比野の娘と約束があるんだったな」

 今夜、剛三が旧知の財界人を集めて会食をすることになったが、それが決まったとき悠人には涼風との先約があった。もちろん事前に剛三の許可はとってあり、秘書はほかにもいるので問題ない。それでも剛三につきそうのは基本的に悠人の役目なので、申し訳なくは思っている。

「ご迷惑をおかけします」

「迷惑などと思っておらんよ」

 剛三は執務机で書類に目を落としたまま軽く返事をすると、正面に立つ悠人を見上げて言葉を継ぐ。

「あの娘とはまだ『友人』なのか?」

「……友人です。これからもずっと」

 悠人は感情を抑え、抑揚のない声でそう答えた。

 しかし、剛三に無言で探るように瞳の奥を見つめられると、すべてを見透されてしまいそうな恐怖心がわきあがる。得意なはずのポーカーフェイスを保てているのか自信がない。耐えきれず、小さく一礼して逃げるように会長室をあとにした。

 

 夜になり、職場からほど近い待ち合わせ場所の駅に向かう。

 二週間は長い——涼風への想いを自覚してからそう感じるようになった。だが、急に頻繁に誘うようになったら彼女に怪しまれてしまうだろう。だからこのペースを崩すわけにはいかない。あくまで何もかも今までどおりでなければならないのだ。

 大勢の人が行き交う改札の方へ足を進めながら、涼風の姿を探す。すぐに柱を背にしている彼女が遠目に見えた。今日は仕事帰りでないらしく、ダブルボタンの白いコートに黒のブーツ、手にはハンドバッグという出で立ちだ。そして、どういうわけかスーツを着た同年代くらいの男性と談笑していた。

 誰だ——?

 悠人は思わずその場に足を止め、眉をひそめた。

 いわゆるナンパにしては互いに気安すぎる雰囲気である。知り合いなのだろうか。背丈は悠人より低いものの成人男性の平均くらいはありそうだ。短髪で清潔感のある身なりをしており、笑顔もチャラチャラした感じではなくさわやかで、男性からも女性からも好かれそうな好青年に見えた。陰気な悠人とは真逆といってもいい。

「悠人さん!」

 涼風がふとこちらに気付いて大きく手を振ってきた。悠人は止まっていた足を進める。その間に、涼風と男性は再び親しげに言葉を交わしていた。「じゃあ、またな」「うん」——彼はにこやかに軽く手をあげて改札へ向かい、人混みに飲まれていった。

 悠人は彼の消えた方を目で追いながら尋ねる。

「……誰?」

「高校のときの同級生で……その、元カレです。卒業してから一度も連絡をとってなかったのに、こんなところでばったり会ってびっくりしちゃった。この近くの商社に勤めているんですって」

 涼風は気恥ずかしそうに頬を染めてそう答え、肩をすくめる。

 元カレ——この駅を待ち合わせ場所に選んだ自分を呪いたくなった。元カレというからには別れているのだろうが、彼女を見るとまんざらでもないように見えるし、彼の方もとても楽しそうに笑顔で話をしていた。

「どうして別れたのか、聞いても?」

「えっ、別にこれといって理由は……受験に専念したいってのもありましたし……」

 涼風は曖昧に目を泳がせながら、歯切れ悪く答える。

 つまり、互いに嫌いになって別れたわけではないということだ。久々の再会で焼けぼっくいに火がつくというのは、そうめずらしい話でもない。もしかするとすでに——彼が「またな」と言っていたことから考えると、会う約束をしたことは間違いないだろう。

 行くな、などと言えるはずがない。自分はただの友人なのだから。

 二人がしゃべっているところは似合いの恋人どうしに見えた。ともに聡明でさわやかな美男美女といった印象で、二人の間には親しげな雰囲気が流れている。同級生なので年齢的にも釣り合っている。ひとまわり以上も年の離れた自分とは違って——。

「悠人さん、行きましょう?」

「ああ」

 沈鬱な思考にひたっていたところで彼女に声をかけられて我にかえる。足を進めようとしたそのとき、彼女の白いコートが一部うっすらと黒くなっているのを見つけた。寄りかかっていた柱のせいかもしれない。

「涼風、肩のところが少し汚れてる」

「えっ、どこ??」

 彼女はきょろきょろして探すが、背中側なので自分で簡単に見える場所ではない。悠人が何度か軽くはたくと、目を凝らして見ないとわからないくらいにはなった。

「落ちたよ」

「ありがとう」

 彼女が屈託のない笑みを浮かべると、悠人はその肩に手を添えて目的の駅ビルへと歩き出す。

 もちろん手を繋ぐことも腕を組むこともない。こんなに近くにいても、理由がなければ触れることさえかなわない。それが悠人と涼風の距離である。そして、それを最初に望んだのは他ならぬ悠人自身だった。後悔がないとはいえないが、このままの関係を続けられるならそれで構わないと思っていた。

 だが、もし涼風と彼が付き合うようになったら——。

 彼女との友人関係は解消しなければならなくなる。こんなふうに一緒に出かけることもできなくなる。そういう約束だった。ふたりの関係はとても脆い土台の上に成り立っているのだ。そんなことも忘れ、永遠に続けられるとあたりまえのように考えていたなんて。

 悠人はいつもどおりの冷静な顔で歩きながら、ひそかに奥歯をかみしめた。

Andante - クリスマスイヴ

 

「おまえ、日比野の娘とはまだ友人なのか」

「友人です」

 悠人は眉ひとつ動かさずに答えた。

 剛三が飽きもせずたびたび思い出したように尋ねてくるが、返事はいつも同じである。もちろん嘘偽りのない真実だ。彼の期待するような展開になることは今後もないだろう。それどころか、いつまで友人でいられるのかもわからないというのに——。

 今のところ、涼風からそういう話はまったく出ていない。例の元カレとどうなっているのか気になるが、あれきり話題にも上らず、こちらからわざわざ尋ねるような勇気もない。そろそろ切り出されるのではないかと不安に思いながらも、そんなことはおくびにも出さずに会いつづけていた。

 無表情のまま思考をめぐらせていた悠人に、剛三が静かに言う。

「24日、25日は休みをやる」

「……どういうことでしょうか」

 悠人の方から休暇を申請したことはあっても、剛三の方から与えられたのは初めてである。しかも二日も。思いきり眉根を寄せながら訝しんでいると、彼はニヤリと口の端を上げて、二つ折りにされた紙をすっと差し出してきた。何となく嫌な予感がしたが、立場上無視するわけにもいかずに受け取る。ぺらりと開いて中を確認すると——。

「……何ですかこれ」

「クリスマスプレゼントだと思ってくれ」

 紙を持つ手に我知らず力がこもった。奥歯を食いしばり、破り捨てたい衝動をこらえる。

「私には必要のないものです」

「どう使うかはおまえの自由だ」

「…………」

 まるで心の奥底を素手でかきまぜられたかのようだった。うつむいたままくちびるを固く引きむすんでいると、正面で溜息をつく気配がした。

「なあ、悠人」

「……はい」

「これでも私なりに責任を感じているのだよ。さんざんおまえを焚きつけておきながら、結局、澪と結婚させてやれなかったからな。それゆえ、今度こそはうまくいってほしいと願っておる」

 意外な話に驚いて顔を上げる。

 剛三は自分の都合しか考えていないと思っていた。悠人の気持ちを利用しているだけだと思っていた。まさか彼なりに気に病んでくれていたとは——しかし、剛三のせいではない。何度となく焚きつけられたのは事実だが、あくまで自分の意思で行動したつもりである。そして彼女に選ばれなかったのは悠人自身の責任だ。

「剛三さんには関係ありません。放っておいてください」

「おまえが臆病になるのもわからないではない。だが、好きな気持ちを隠してずるずると友人関係を続けるなど、不毛でしかないと思うがな。立場や年齢といった何かネックになることがあるのならともかく、今回はそういうわけでもないのだろう?」

 諭すようにそう言われたが、何も答えたくなかったし反応を探られたくもなかった。素知らぬ態度をよそおい、いつもより丁寧に一礼して書斎をあとにする。彼からもらった紙を、右手の中でぐしゃりと握りつぶしながら——。

 

 悠人は自室に戻ると、ベッドの上に腰掛けてそのままパタンと仰向けに倒れた。上半身が硬いスプリングで小さく揺れる。そして、見慣れた天井を眺めながら深く息をつき、幾分か冷えてきた頭で思案をめぐらせた。

 剛三の言うことは間違っていない。

 不毛でしかないというのはいささか言い過ぎだと思うが、終わりを待つだけという意味では確かにそういえるだろう。臆病風に吹かれて涼風に恋人ができるのをただじっと待っているくらいなら、すこしでも可能性のある今のうちに想いを告げた方が良いのではないか。たとえ、この友人関係に終止符を打つことになるとしても——。

 悠人はベッドに寝転がったまま、ずっと右手に握りしめていたくしゃくしゃの紙を開いた。そこには剛三直筆の文字が並んでいる。余計なお世話にもほどがあるが、悠人のためにここまでしてくれたのだと思うとすこし感慨深い。しばらく無言で見つめたあと、内ポケットから二つ折りの携帯電話を取り出して上体を起こした。

 

「悠人さん!」

 待ち合わせ場所の駅西口に向かうと、涼風が人混みの中から目ざとく悠人の姿を見つけて駆けつけてきた。吐く息は白い。仕事帰りではないようで、ベロア地と思われるワインレッドのフレアワンピースに、襟にファーのついた雪のように白いコートを羽織っていた。彼女にしてはめずらしくイヤリングとネックレスを身につけている。そろいのものらしく、それぞれに淡いピンク色の小さな宝石が輝いていた。

 通りを歩きながら、涼風はきょろきょろとあたりを見まわして言う。

「クリスマスなのでいつもより人が多いですね」

「ああ」

 街路樹も、ビルも、店舗も、無数のイルミネーションで飾り付けられており、街へ出れば否応なくクリスマス時季であることを思い知らされる。そして、クリスマスイヴの今夜は人々も浮かれているように見える。ケーキやチキンの箱を持っている通行人もちらほらと目につき、恋人どうしと思われる幸せそうな二人組もそこかしこにいる。

 自分たちはどう見えているのだろうか——。

 そんなことを気にするなど女々しいにもほどがある。自分自身であきれつつも、せめて不釣り合いに見えないことを願ってしまう。

「予約した店ってどこなんです?」

「そのホテルのレストランだ」

 涼風に尋ねられ、前方に見えている三連の高層ビルを指さして答えた。グレードの高さで有名な外資系ホテルである。涼風もそのことを知っていたのか、あるいは洗練された外観で察したのか、驚いたように目をぱちくりとさせた。

「クリスマスなのによく予約できましたね」

「知人から予約を譲られただけなので」

「あっ、だから急に誘ってくれたんですね」

 普通に考えれば、クリスマスの数日前にこんなホテルのレストランなど予約できるはずがない。前々から計画していたと誤解されるのも嫌なので言いわけめいたことを口にしたが、まるきり嘘でもないだろう。涼風は素直に納得したらしく、それ以上は追及せずにクスッと小さな笑みを浮かべた。

 

 吹き抜けかと思うほどの高い天井は、開放感のある壮大で贅沢な空間を作り出していた。おまけに窓側は全面ガラス張りである。52階からの夜景はまるで映画のようで現実味がない。光を散りばめたような高層ビル群がやけに遠く、グラデーションを描いた濃紺色の空がやけに近く感じる。

 悠人たちが案内されたのは、窓際のいちばん奥まったところに用意されたテーブル席だった。ここだけ孤立したかのように隣のテーブルと距離がある。普通にしゃべっているかぎり、ほかの客に会話の内容を聞かれることはないだろう。

 剛三がコース料理を予約していたことはメモで知っていたが、ドリンクについてもぬかりなく手配していたようで、シャンパンがボトルで用意されていた。それも、アルコールに詳しくない悠人ですら知っている有名なヴィンテージだ。

 そのシャンパンをフルートグラスに注いでもらい、涼風と乾杯する。

 味については値段ほどの価値があるのか正直よくわからなかったが、クリーミィとさえ感じる泡のきめ細かさとなめらかさには感動を覚えた。彼女も目をぱちくりさせながら「おいしい」と興奮ぎみに声を上げていた。悠人とは違い、口当たりだけでなく味そのものも気に入ったようだ。

 コース料理はクリスマスだからか通常とは違う特別なものらしい。とはいえ、通常のものを知らないので何が違うのかはよくわからない。ただ、色彩や装飾にクリスマスらしさを出そうという工夫は感じられた。もちろん取ってつけたようなものではなく、料理とうまく調和している上品で繊細なアレンジである。

 シャンパンも、料理も、涼風はいつも以上に楽しんでいる様子だった。そして、そんな彼女を見られたことが何よりも嬉しかった。それだけでここに誘った甲斐があったといえる。たとえ、このあと苦い結末が待ち受けているのだとしても——。

 

 楽しい時間はあっというまに過ぎていく。

 きれいに飾り付けられたデザートを食べ終わり、食後のコーヒーを口に運ぶと、本来の目的を意識して緊張が高まってきた。コーヒーカップをゆっくりとソーサに戻し、テーブルの上で重ねた両手を見つめながら話を切り出す。

「急な誘いで申し訳なかった」

「いえ、予定がなかったから誘ってくれて本当にうれしかったわ。こんな高級ホテルのレストランなんてめったに来られないもの。予約を譲ってくれたお知り合いの方に感謝しなくちゃ」

 涼風は肩をすくめてニコッと笑う。

 これが橘剛三のお膳立てだと知ったら彼女はどう思うだろう。騙しているようで罪悪感を覚えるが、今はまだ本当のことを話すわけにはいかない。悠人は曖昧に微笑み返した。

「断られるんじゃないかと思ってたよ」

「どうして?」

「クリスマスイヴだからな」

「私、彼氏とかいないんですけど」

 涼風は冗談めかした口調でそう笑い飛ばしたが、悠人のこころは晴れない。脳裏にとある人物の姿がちらついている。

「……元カレは?」

「えっ、別に会う予定なんかないですけど」

「再会したとき会う約束をしてなかったか?」

「してないわよ?」

「別れ際に『また』って言っていただろう」

「そうだったかしら」

 不思議そうな顔をしながら、彼女は記憶をたどるように小首を傾げた。

「言ったとしたら同窓会でってことだと思うわ。私、引っ越したきり高校の同級生とは連絡をとってなかったから、行方がわからなくて同窓会の案内も出せなかったんですって。だからあのとき連絡先は教えたけど、同窓会の案内のハガキが来ただけで、個人的な連絡なんて来てないわよ」

 思わずむきになった悠人に不快感を示すことなく丁寧にそう説明すると、口もとに手を添えてくすっと笑う。

「悠人さんがこんなことを気にするなんてビックリしたわ」

「君に恋人ができたら、友人関係を解消する約束だからな」

 そっけなく応じながらも、希望がついえていなかったことがわかりひそかに安堵する。ただ、涼風がどう思っているかわからないので気を抜くのはまだ早い。伏せた目を上げると、正面の彼女がにっこりと人懐こく微笑みかけてきた。

「これからも友人でいてくださいね」

「ああ……いや、それは……」

 何と答えればいいかわからずしどろもどろに言いよどむと、コーヒーに手を伸ばして一息つく。それでも気持ちは落ち着かない。どう話を展開させるか思案して自然と表情が硬くなる。その反応を目にして、涼風は何かに思い至ったようにふいと眉を寄せた。

「悠人さん、もしかして彼女ができたの?」

「いや、まだ……近いうちにそうなればいいとは思っているが」

「そうだったのね。友人としてうまくいくことを願っているわ」

 悠人の心臓は壊れそうなほどドクドクと脈打っているのに、涼風は微笑を浮かべてすこし寂しそうにするだけだった。友人として会えなくなるのは残念だが、それ以上ではないということだろうか。急速に希望がしぼんでいくのを感じる。だとしてもここまできて怯むわけにはいかない。

「その友人という話だが……」

「彼女ができるまでっていうお約束でしたよね」

「ああ……そうなんだが……」

「それまでは友人でいてもいいんでしょう?」

「いや、君との友人関係は今日で終わりにしたい」

「……あの、理由をお聞きしても?」

 揺れる彼女の双眸をまっすぐに見つめ、背筋を伸ばす。つられるように涼風の背筋も伸びた。

「涼風」

「はい」

 二人のあいだの空気は否応なく張りつめていく。

 悠人は早鐘のような鼓動を感じながらも、目をそらさず凛然と告げる。

「君が好きだ。友人ではなく恋人として付き合ってほしい」

「…………」

 まるで時が止まったかのように、涼風は姿勢を正したまま表情も変えずに凍りついた。しかし、事を理解するにつれて大きく目をみはり、薄紅色の小さなくちびるを震わせ始める。見開いた目からは真珠のような涙がぽろぽろと零れ落ちた。

「ゆ……悠人さん、ひどい……」

「えっ?」

 彼女は口もとを指先で覆い、止めどなく涙をあふれさせながらうつむいた。

「悠人さんに恋人ができるだけでもショックだったのに、友人をやめたいとまで言われて、もう私のことは邪魔だとしか思われてないのかなって……もう二度と会えなくなるんだろうなって……うぅっ……」

「すまない……緊張していて……」

 涼風に言われて、ようやく配慮が足りなかったことに気がついた。自分の不甲斐なさにギリと奥歯を噛みしめる。どうすれば彼女の涙を止められるのかもわからない。好きなのに泣かせることしかできないなんて。こんなことになるくらいなら告げなければよかった。不毛でも涼風に恋人ができるまで友人でいればよかった。悠人は冷静さを失ったまま泥沼の自己嫌悪に陥る。しかし——涼風は心を落ち着けるように深く呼吸をすると、頬を濡らしたまま顔を上げてふわりと微笑んだ。

「悠人さん、昔からずっと好きです」

 心にしみいるその声に、言葉に、悠人はハッと息をのんだ。

 涼風の気持ちは今も変わっていなかった。みっともない本当の姿をさらしたにもかかわらず、幻滅することなく受け入れてくれたということだ。心変わりしたと勝手に思い込んだことを申し訳なく思う。彼女の一途さを疑ったというよりも、自分に自信が持てなかったことが原因だろう。こんな自分を本当に好きでいてくれるのか、情けないがまだ自信がない。

「恋人として、付き合ってくれるのか?」

「私を悠人さんの恋人にしてください」

「……君を大切にする」

 胸が熱くなるのを感じながら真摯にそう答えると、涼風は瞳を潤ませたまま屈託のない笑顔でうなずいた。その拍子に涙がこぼれて星のようにきらりと光る。どこまでも広がる濃紺色の夜空を背にして——。それは、悠人がいままで見た中でいちばんきれいな涙だった。

Andante - すべてさらして

 

「なにこれすごい、ホテルじゃないみたい!」

 涼風はリビングに入るなりぐるりと見まわしながら感嘆の声を上げた。そして小走りでベッドルームやバスルームを覗きに行き、「すごい」「広い」「きれい」などと子供のようにはしゃいでいる。

 その反応を離れたところから眺めながら、悠人はくすっと微笑んだ。

 

 ここは、レストランのあったホテルのスイートルームである。

 涼風は微笑ましいくらい素直に感動しているが、最高級の部類ではなく、スイートルームとしてはごく一般的なものだ。リビング、ベッドルーム、バスルームで構成されており、いずれもゆったりとした空間に、質の良さそうな設備が配置してある。贅沢といえば贅沢だが、VIP向けの部屋ほど豪奢に飾り立てられてはいない。

 

 本当は、ここまで連れてくるつもりはなかった。

 レストランで想いを告げたあと、実は剛三のお膳立てだったことを正直に話し、彼からもらったメモを涼風に見せた。どういう反応を示されるのか不安だったが、彼女は目を丸くしたあとクスクスと笑って言った。会長さんに大事にされていますね、と——。

 しかし、その紙にスイートルームを予約した旨が書いてあることを失念していた。

 涼風にここに泊まるのかと訊かれて頭が真っ白になった。君はどうしたい? と尋ね返したら、スイートルームなんて行ったことがないから見てみたい、せっかくなので泊まりましょう、と無邪気に返されてそうせざるを得なくなったのだ。

 悠人としては目的を果たしてもう終わった気になっていた。彼女の返事がどうあれレストランまでのつもりだった。いくらなんでもいきなりホテルに誘うなど性急すぎる——という考えは古くさいのだろうか。

 決して嫌なわけではない。何度となく夢に見るくらい渇望していたのだから、涼風にその気があるのなら断る理由はない。ただ、彼女がどう考えているのか今ひとつ判然としないのだ。もしかすると、本当にただスイートルームを見たかっただけなのかもしれない。彼女のはしゃいだ様子を見ているとそんな気がしてくる。

 それならそれで構わない。待つことには慣れている。

 いずれにせよ、彼女の気持ちを確かめないことには始まらない。そしてそれが一番の難関である。こんなことを単刀直入に切り出す勇気はないし、不自然にならず遠回しに尋ねる技量もない。いったいどうすればいいのだろうか——。

 

「こんな日が来るなんて、思わなかった」

 涼風はひとしきりスイートルームを見てまわったあと、窓からの夜景を眺めながらガラスに手を置き、ぽつりとつぶやいた。

「とっくにあきらめていたもの。私が好意を口にしても迷惑がられてばかりだったし……だから、悠人さんに拒絶されないようにするには、もうこの気持ちを封印するしかないなって。友人としてでもいいから一緒にいたかったの。なのに、まさか悠人さんの恋人にしてもらえるなんて……」

 硬い面持ちで振り返り、都心のきらびやかな夜景を背にして悠人を見つめる。

「本当に信じていいのよね?」

「信じてくれないと困る」

 悠人は真顔でそう答えた。いまだ不安そうにしている彼女のもとへ足を進めて、間近で見つめ合うと、小柄な体を懐に引き込んで優しく抱きしめる。彼女がそっと身を預けてくるのがわかって頬がゆるんだ。そのやわらかな感触とぬくもりに、まぎれもない現実であることを実感する。

 もぞ、と涼風が身じろぎをして顔を上げた。すこし頬の染まったほわりとした表情を見て、誘われるようにくちびるを重ねる。驚くほどやわらかくて甘い。脳天まで痺れが走るのを感じた。夢中になり、角度を変えながら次第に口づけを深くしていく。しかし——。

 意外と、慣れていない?

 嫌がっているわけではないと思うが、どうも反応がぎこちないような気がする。体もすこしこわばっている。行為に慣れていないのではなく、緊張しているせいかもしれない。そっと口づけを解いて見つめると、彼女はみるみるうちに顔を真っ赤にして目を泳がせた。

「あの、先にシャワーを使っても?」

「ああ……」

 涼風はハンドバッグを手にとり、赤面して下を向いたままパタパタと小走りで駆けていく。

 さきほど悩んでいたのが嘘のような急展開である。もしや自分の行為で焦らせてしまったのだろうか——悠人はふいと眉を寄せると、涼風、と遠ざかる背中に向かって声をかける。リビングを出ようとしていた彼女はびくりと足を止め、振り向いた。

「無理しなくていい。心の準備ができていないのなら何もしない」

「無理なんてしていないわ。すこしドキドキしているだけ」

 涼風は胸元に手をあててぎこちない微笑を浮かべると、今度は落ち着いた足取りでリビングをあとにする。すぐに、パタンと静かに扉の閉まる音が聞こえてきた。

 

 悠人は一人掛けの白いソファに腰を下ろし、背もたれに身を預けて息をついた。

 緊張しているのは悠人も同じである。もしかすると涼風より緊張しているかもしれない。なにせこういったことは二十数年ぶりなのだ。おまけに経験人数もひとりだけである。回数だけは無駄にこなしているものの、いつも自分本位であまり相手を思いやった覚えはない。

 おそらく涼風の方が経験豊富なのではないかと思う。実際、高校生のときに恋人がいたことはわかっている。彼女さえその気になればいくらでも作れただろう。それを咎める気持ちはない。ただ、自分が下手をして幻滅されるのが怖いのだ。

 今さらどうにもならないことに考えをめぐらせていると、ますます緊張して鼓動が速くなってきた。ネクタイをゆるめ、ゆっくりと呼吸をし、嵌め殺しのガラス窓に目を向けて夜景を眺める。それでも一向に鼓動は鎮まらなかった。

 

「悠人さん」

 ソファに座ったまま身じろぎもせず待っていると、涼風がちらりと遠慮がちに顔を覗かせた。体は隠れてほとんど見えないが、ホテルの白いバスローブを身につけているようだ。ほんのりと顔が上気しているのは、湯につかったからだろうか。

「寝室で待ってますね」

「ああ……」

 薄明かりのついたベッドルームに彼女がそそくさと戻ったあと、悠人は肘掛けに手をついて立ち上がる。そして、ベッドに腰掛けてうつむいた後ろ姿を横目で見ながら、無言でベッドルームを抜けてバスルームへと足を進めた。

 

 あまり待たせないよう素早くシャワーを浴び、白いバスローブを身につけた。

 緊張と期待と不安と興奮がないまぜになり濁流のようになっている。それでも平静をよそおうしかない。何度か大きく深呼吸をしてから、いつもの無感情な顔をとりつくろいバスルームを出る。しかし——。

「…………?!」

 そこにあったあまりにもわけのわからない光景に、一瞬で仮面が崩れ去った。

 バスローブを着た涼風が、なぜか悠人に向かって土下座をしていたのである。唖然として声もなくその場に凍りつく。彼女にこんなことをされる心当たりはない。悠人がシャワーを浴びているほんの数分のあいだに、いったい何があったというのだろうか。

「黙っておこうかと思ってたんですけど、すこし怖くなって」

「えっ?」

 額を絨毯につけたままおずおずと切り出された言葉も、やはり要領を得ない。もやもやしながら彼女を見下ろしていると、伏せた姿勢のまま顔だけがすこし上がった。ちらりと悠人を窺い見たあと、硬い面持ちでうつむきぎみに視線をそらして言葉を継ぐ。

「私、実はそういった経験がなくて……その、は……初めてなんです……」

「……え、それは男性経験ということ?」

 思わず聞き返すと、涼風は姿勢を崩さず頷いた。悠人はますます混乱する。

「君には彼氏がいたんじゃなかったのか? あの元カレは?」

「彼とは……その、途中まで……?」

 途中? 途中ってなんだ?!

 胸の内で盛大に突っ込む。いったいどういう状況なのか気になって仕方ないが、詳しく訊くわけにもいかない。今はそこに興味を示している場合ではないのだ。どうにか理性を総動員して冷静になろうとする。そのあいだにも彼女の話は淡々と続けられた。

「その後も何人かお付き合いしたひとはいましたけど、そこまで至らなかったというか、許さなかったというか……だからあまり長続きしたことがなくて……私、身持ちが堅いって言いましたよね?」

 涼風は顔を上げ、上目遣いで小首を傾げる。

 確かに再会してまもない頃にそんな話をしていた記憶はある。だが、付き合ってもいない相手と寝ないという意味だと思っていた。失礼かもしれないがそんなに堅いタイプには見えなかった。そう思われても仕方のない言動を彼女はしていたのだ。はぁ、と大きく溜息を落としてうなだれつつ額を押さえる。

「君は、処女なのに一晩だけなんて言っていたのか」

「そ、それは酔っていたし……悠人さんだから……」

 涼風は顔を赤らめ、消え入りそうに口ごもりながら言い訳する。

 ほかの人にはさすがに一晩だけなどとは言わなかったのだろうが、意識的にせよ無意識にせよ、思わせぶりな態度をとってきたのではないかと想像はつく。実際、仕事関係の相手にそういう態度をとることもあると彼女自身が口にしていた。男というものを甘く見ているのかもしれない。それでよく今まで無事だったものだと思う。

「わかった」

 とりあえず説教は後回しにしてそう言うと、彼女の前にしゃがんで目を合わせる。

「さっきも言ったが無理強いするつもりはない。今日は何もしないから」

 正直、残念だという気持ちはある。なにせ好きな女が湯上がりバスローブ姿で目の前にいるのだ。前傾姿勢で強調されたやわらかそうな胸も、おどおどした不安そうな上目遣いも、半開きになった可憐なくちびるも、これでもかというくらい悠人を煽り立てる。しかし、今は彼女を安心させることだけを考えなければならない。土下座をするほど怖じ気づいているのだから——。

「そうじゃなくて!」

「…………?」

 焦ったように声を上げた涼風に驚き、目を瞬かせる。

 彼女は身をすくめておずおずと言葉を継いだ。

「えっと、その、やめてもらいたかったわけじゃなくて……ご面倒をおかけしますがよろしくお願いします、って……」

 脳天まで何かが突き抜けたように感じた。

 無言で涼風を横抱きにしてキングサイズのベッドに向かい、その中央に下ろすと、体を起こそうとする彼女の両肩を押さえつける。抵抗はなかった。真上からまっすぐにその双眸を見つめると、彼女は目を潤ませ、ぶわっと火を噴きそうなほど顔を真っ赤にした。

「はっ、恥を忍んで告白したんですから……優しくしてくださいね?」

 おびえた仔ウサギのように瞳をうるうるさせながら頼んでも、逆効果でしかない。もちろん彼女はつゆほどもわかっていないのだろうが。

「善処するつもりだが、自信はない」

「そんなっ……!」

 君は知らないだろう。僕がどれほど昂ぶっているかなど——。

 うろたえる彼女を見て口もとが上がる。多分、思いのほか嬉しかったのだ。涼風がまだ誰のものでもなかったことが、そして自分だけのものにできることが。もう彼女を逃がすつもりは微塵もない。すぐにでも貪りたい衝動に駆られる。それでも初めての彼女を怖がらせたくない一心で、かろうじて理性をつなぎ止めていた。

 そっと頭をなでる。

 くせのない黒髪は、ひんやりとして絹のようになめらかな手触りだ。対照的に頬はほんのりとあたたかくてやわらかい。ふっと表情をゆるめると、ゆっくりと覆いかぶさるように顔を近づけ、目を閉じた彼女にくちびるを重ねる。そして——。

 

 夢なんかより、現実の方がはるかに良かった。

 ベッドに座る悠人は、隣で眠る涼風を見下ろして目を細め、指の背でかすめるように頬をなでる。そのかすかな刺激に彼女は身じろぎし、まぶたを震わせながら目を開いていく。

「……ゆ……と、さん?」

「おはよう」

「……お、はよう……ございます」

 まだ夢うつつの様子でそう応じると、もぞもぞと首をめぐらせてデジタル時計を確認する。まだ六時過ぎだということに安堵したのかほっと小さく息をついた。少し乱れたバスローブから白いうなじが覗いている。

「体は大丈夫?」

「ええ、まあ……何か体中がギシギシしますけど……」

「運動不足だな。普段から柔軟くらいはした方がいい」

 冷静にそう指摘すると、涼風は横になったまま恨めしげに悠人を見上げ、上掛けを顔半分あたりまで引き上げた。そのかわいらしさに思わず笑みがこぼれる。

「ひとりで支度できそう?」

「大丈夫です」

「なら、朝食のあと出かけよう」

 朝食はルームサービスを頼むつもりである。せっかく涼風が楽しみにしていたスイートルームなのだから、寝るだけでなくもうすこし堪能させてやりたい。彼女の体のことを考えてもその方がいいだろう。

「出かけるって、どこへ?」

 涼風はもぞりと顔を出して尋ねる。

「指輪を買いに」

「えっ?」

「結婚しよう」

「はい?」

「結婚しよう」

 二度言っても信じられないのか、彼女はこぼれんばかりに目を見開いて唖然とした。もちろん悠人としては大真面目である。唐突だったので驚くのは無理ないかもしれないが、信じてもらうしかない。

「……あの、早すぎません?」

「随分、待たせたと思ったが」

「そ、れは……」

 すこし意地悪くとぼけたように言い返すと、涼風は答えに詰まる。

 本当はわかっていないわけではなかった。涼風は昔からずっと好きでいてくれたし、友人としては半年ほど付き合いがあるが、恋人としての付き合いはきのうからである。まだ一日も経っていない。一般的な基準で考えれば、さすがに早すぎるだろうという自覚はある。

「戸惑う気持ちはわかるけど、僕は本気だから」

「もしかして、責任をとろうとか思ってます?」

「君を手放したくないだけだよ」

 そう言って、にっこりと満面の笑みを浮かべた。手放したくないというよりは、逃げられないようにしたい。婚約して、結婚して、縛り付けてしまわないと安心できない。さすがにそこまで暴露するつもりはないが、要するに責任などではなく悠人のわがままということだ。

 涼風はぎゅっと上掛けを掴み、頬を染めた。

「……後悔しても知りませんよ?」

「それは、イエスということでいいんだな?」

 その念押しに、恥ずかしそうに首肯して「よろしくお願いします」と言う。

 悠人は我知らず安堵の息をついた。彼女なら受け入れてくれるのではないかと思っていたが、それでも実際に確認するまでは不安だった。今は承諾してくれたことに心から感謝している。これから先、ずっと君を大切にするから——その誓いを胸に、ベッドに手をつきながら身を屈めて口づけを落とした。

 涼風はすこし驚いていたが、悠人を見上げてはにかむと幸せそうにふわりと微笑んだ。

Andante - 雨上がりの虹

 

「ご婚約おめでとうございます!」

 一面のガラス窓から光が降りそそぐ橘の応接室で、悠人と涼風がそろって婚約の報告をすると、向かいに座る澪は間髪を入れずに声をはずませた。その隣の遥も驚きもせずに微笑んでいる。まるで、二人ともすでにどこかから聞き及んでいたかのように——。

 

 涼風とホテルのスイートルームに泊まったあの日、本当に婚約指輪を買い、その足で剛三のところまで報告しに行った。さすがの彼もこの展開は予想していなかったらしく、半ばあきれたように驚いていたが、それでも「よかったな」とあたたかく祝福してくれた。

 年が明けてから、悠人の両親にも報告した。

 父親はあまり表情には出していなかったものの、この事態を意外に思っている様子は見てとれた。あれほど執着していた澪に振られてから一年も経っていないことも、お膳立てがなければ何もできない情けない人間であることも、すべて知られているのだ。婚約したなどにわかに信じられるものではない。悠人自身でさえ信じがたいくらいなのだから。

 私には関係のないことだ、好きにしろ——父親が口にした言葉はそれだけだった。すでに勘当されたも同然なのだから仕方ないだろう。反対されなかっただけ良かったのかもしれない。もちろん、反対されたところで従うつもりは微塵もないが。

 ただ、涼風には申し訳ないことをしたと思う。父親との関係が良好でないことはあらかじめ伝えてあり、おそらく歓迎されないだろうとも言っておいたが、やはり目の前でそういう態度をとられるのはつらいはずだ。いくら気にしていないように見えたとしても。

 しかしながら母親の方はとても喜んでくれた。今まで結婚しろと言われたことはほとんどなかったが、このまま一生独身に違いないと、ひそかに悠人の先行きを心配していたらしい。ようやく肩の荷が下りたと言っていた。涼風のことも「かわいらしいお嬢さん」と気に入ってくれたようだ。

 保護者代わりとして面倒を見てきた澪と遥には、澪の結婚式が終わるまで黙っておくことにした。涼風の希望である。澪がよけいなことに気をまわさなくていいようにという配慮らしいが、悠人としてはそこまでする必要はないと感じていた。しかし、それで涼風の気がすむのならと希望どおりにしたのである。

 桜吹雪の舞う澪の結婚式が終わり、あじさいの咲く季節になったころ、ようやく二人を呼んで報告したのだが——。

 

「もしかして、知ってた?」

「バレバレでしたよ」

 尋ねると、澪はいたずらっぽい口調でからかうようにそう答えた。つまり誰かから話を聞いたわけではなく、態度でわかったということだろうか。思わず、隣の涼風と疑問の浮かんだ目を見合わせる。

「私の結婚式で涼風さんが倒れたとき、あせって『涼風』って呼んでましたよね。いつもは『日比野さん』だったのに。他人のことで必死になってるのもめずらしいし、ふたりの会話もやけに親密そうだったし、付き合ってるんじゃないかなって思ったの」

 澪は得意気にそう言ってエヘッと笑う。

 あまりよく覚えていないが、言われてみればそうだったかもしれない。あのときは遅れてきた涼風が着くなり倒れて、それを見た悠人は頭の中が真っ白になった。それでもどうにか平静をよそおったつもりだったが、よそおいきれていなかったのだろう。

 医師の診断では貧血と過労ということだった。涼風はもともと貧血ぎみで、忙しくなると悪化する傾向があるらしい。仕事が立て込んでいたことはわかっていたのに、それでも悠人との時間を作ってくれる彼女に甘えていた。無理をさせてしまったのは悠人にも責任がある。

「僕はもっと前からあやしいと思ってたけどね」

 ふいに遥が涼しい顔で切り出した。無意識に眉を寄せた悠人を見て、ふっと笑う。

「師匠、日比野さんとお酒を飲んでぐでんぐでんに酔ってたことがあったけど」

「いや、そのときはまだ……」

「心を許してない相手とだったら酔いつぶれるまで飲まないよね。師匠は警戒心が強いからそのへんはちゃんとしてるはずだし。だから、少なくとも日比野さんのことを信頼してたってことでしょ? 師匠が誰かを信頼するってめずらしいんじゃない?」

 指摘がいちいち鋭くて心臓に悪い。微妙な面持ちで固まっていると、遥はさらに畳みかけてくる。

「今年に入ってからどこかに泊まってくることが多くなったよね。しかも妙に浮かれてる感じだし、私服のときもあるし。じいさんに訊いたら仕事じゃなさそうな口ぶりだった」

 ちらりと隣に目を向けると、涼風が小さく身をすくめながらほんのりと頬を染めていた。遥もわかって言っているのだろうが、彼女のマンションへ行っていたのだ。剛三にも婚約のことは内緒にしてほしいと頼んでいたので、行き先を言わないでくれたようだが、察しのついていた遥には悟られてしまったのだろう。

「まあ、確信したのは澪の結婚式だけどね」

「…………」

 別にどうしても隠したかったわけではないので構わないが、さすがにここまで見透かされていたかと思うと恥ずかしくなる。涼風とともにきまりの悪そうな顔になり目を伏せる。しかし、遥はそんな二人を見てふっと笑みを浮かべた。

「お似合いだと思うよ。師匠には幸せになってほしかったから良かった」

「ありがとう……」

 遥にあたたかい言葉をかけてもらうなど意外で、何かくすぐったい。思えば彼にも随分と心配をかけた気がする。なにせ保護者が妹に結婚を迫るという事態になっていたのだ。それでもあまり口出しせず一歩引いたところから見ている感じだったが、澪にふられてからは何かと理由をつけて悠人のもとを訪れてくれていた。

 一方、澪は両手を組み合わせてはしゃいだ声を上げる。

「私も涼風さんに初めて会ったときから師匠とお似合いだと思ってました」

「澪は自分を解放してもらいたいから日比野さんを押しつけようとしてただけだよね」

「そんなことっ……なかったとは言わないけど、お似合いって思ったのも本当だもん」

 遥がさらりと辛辣な指摘をして、澪が口をとがらせる。こういった口論はいつものことなので心配する必要はない。たいていその場限りで本気の喧嘩に発展することはないのだ。ただ——悠人は表情を硬くし、うつむいて膝の上で両手を組み合わせる。

「すまなかった」

「えっ?」

「……いや」

 やはり今さら蒸し返すことではないと思い、言葉を飲み込む。

 澪に結婚を迫ったことに対していまだ罪悪感が消えないのは、かなり強引で卑怯なまねをした自覚があるからだ。剛三に焚きつけられて強気になっていたのだろう。彼氏から取り返したかったというのもあったと思う。そして、手に入れられなかった大地と美咲の代替として、娘である澪に執着していた——大地にはそう指摘されたが、実際のところどうだったのかは今でもよくわからない。そういう部分も無意識ながらあったのかもしれない。

「そういえば、お父さまには報告しました?」

「ん、ああ……このまえ出張のついでにな」

 ちょうど大地のことを考えていたときに彼のことを切り出され、内心ドキリとする。

「何か言ってました?」

「やればできるじゃないか、とか」

「なんか相変わらずみたいですね」

 あきれたようなほっとしたような口調でそう言い、澪は肩をすくめる。

 大地に報告したところ、最初は何かの冗談だと思っていたようだが、本当だとわかると急にしたり顔になった。澪に執着せず普通の恋愛をするよう悠人に勧めていたからだ。悠人としては大きなお世話としか思っていなかったのに、結果的にそのとおりになってしまい、もちろん後悔はしていないが若干腹立たしくはある。

 隣では涼風がくすりと笑っている。彼女には澪に話していないことも知られているので、少々バツが悪い。きっと彼女にはわかっているのだろう。そんな大地の態度に腹立たしさを感じる一方で、どこか嬉しく、そしてすこし寂しく思っていることに。

 黙って話を聞きながら紅茶を飲んでいた遥が、ティーカップを戻して口をひらく。

「結婚はいつなの?」

「12月上旬の予定だ」

 婚約したのが昨年のクリスマスなので、およそ一年後である。悠人としては籍だけでも早々に入れてしまいたかったが、剛三に止められた。足元をすくわれないためにも、足元を盤石に固めるためにも、根回しや準備が必要だという。悠人個人にとってはどうでもいいことだが、大地の代わりに橘財閥を守る役目を引き受けた以上、逆らうわけにはいかない。

「式にはぜひ来てね」

「もちろんです!」

 涼風がにっこり微笑んで声をかけると、澪は声をはずませて即答し、隣の遥も迷うことなく頷いた。

 悠人も、涼風も、本当は澪の結婚式のようなアットホームなものを望んでいたが、立場上そういうわけにもいかなくなった。お披露目のためにそれなりに盛大な披露宴をすることになるだろう。

 すでに涼風を婚約者としてパーティに同伴するなど、彼女にはこちらの事情で面倒をかけているが、文句もいわず協力してくれている。ありがたいというより申し訳ない気持ちの方が強い。もし彼女がこころない誰かに傷つけられるようなことがあれば、何をおいても全力で守ろうと決めている。たとえ、世話になった剛三に背を向けることになるとしても——。

 

「じゃあ、僕は涼風を送っていくから」

「おじゃましました……あら、澪ちゃんは?」

 応接間でひとしきり話をしたあと、四人で玄関まで降りてきたつもりだったが、いつのまにか澪がいなくなっていた。遥ならともかく澪が何も言わずにというのはめずらしい。

「もうすぐ来ると思うから、ちょっと待ってて」

 遥がそう答えた直後、軽やかな足音を立てて大階段から澪が駆け降りてきた。その腕いっぱいに抱えられていたものは——。

「私と遥から婚約のお祝いです」

「あらためておめでとう」

 二人は口々にそう言いながら、真紅のバラを中心とした大きな花束を涼風に手渡した。

 涼風は目をぱちくりとさせて花束を見つめたあと、不思議そうに隣の悠人を見上げたが、もちろん悠人も知らなかったので驚いている。婚約の報告をするなど、澪にも遥にもひとことも言ってなかったのに——。

「これあらかじめ用意してたの?」

「婚約の話かなって思ったから」

 澪はそう答えると、ねっ、と隣の遥に同意を求めて互いにくすりと笑い合う。遥の表情からすると、無理やり巻き込まれたわけではなさそうだ。悠人は腰に手をあてて軽く吐息を落とす。

「違ったらと考えなかったの?」

「そのときはそのときです」

 確かに澪はそういう考えなしなタイプだが、遥まで同調していたことが驚きである。無謀な彼女をたしなめる役割だと思っていたのに。逆にいえばそれだけ確信があったということかもしれない。

「澪ちゃんも、遥くんも……本当にありがとう。すごく嬉しい」

 涼風は花束に埋もれながら、ほんのりと頬を染めてとびきりの笑顔を見せた。

 

 外に出ると、通り雨が降ったらしく地面がすこし濡れていた。白い雲のあいだから太陽が顔を出し、草花や木々に落ちた雨の雫がきらめいている。そして、水色の空にはうっすらと七色の虹が架かっていた。

「車をとってくるから、ここで待ってて」

 裏門のところでそう言って振り向くと、涼風は澪たちにもらった花束を見つめて瞳を潤ませていた。きゅっと口を引きむすび、涙が零れないようこらえているように見える。

「どうしたんだ?」

「いえ、こんなに歓迎されるなんて、思わなかったから……」

 そう言うと同時にぽろぽろと雫がこぼれ、赤い花弁に落ちてはじける。

 嬉しいというより安堵の方が大きいのかもしれない。何でもないふりをしていたが、この件でひどく緊張していることはわかっていた。誰だって親しくしている人に反対されるとつらい。冷静に考えれば、遥はともかく澪が反対するはずはないとわかりそうなものだが、不安にとらわれるととかく負の思考に陥るものだ。

「ごめんなさい」

「構わないよ」

 ふっと笑みを浮かべ、両手がふさがっている彼女の目元をハンカチでぬぐう。

 涼風が泣いているところを見るのは、初めて出会った子供のころを除けば二度目である。どちらも張りつめていた糸がぷつりと切れたときだ。つらいことには堪えられても、その緊張が途切れたときはうまく取り繕えないのだろう。

「二人きりのときは遠慮しなくていいから。泣きたいだけ泣けばいい」

「……ありがとう、悠人さん」

 涼風はそう言うと、長い睫毛を濡らしたまま小さくはにかんだ。

 きっとこれからも彼女の涙を目にすることはあるだろう。それがどんな涙であっても受け止めるつもりでいる。だが、できるだけ悲しい涙は流さずにすむよう守っていきたい。彼女の瞳から零れるのはきれいな涙だけであってほしい——そんなことを願いながら、彼女の背中に手をまわして優しく微笑みかけた。

http://celest.serio.jp/celest/novel_tokyo.html

 


 
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