No.709664

ボーダーライン

瑞原唯子さん

最初に好きになったのは隣の席の美少女だった。しかし、彼女と瓜二つの双子の兄に報復でキスされて以降、彼のことばかりが気になるようになり——。

2014-08-18 20:44:42 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:1614   閲覧ユーザー数:1612

ボーダーライン - きっかけ

 

 この春、山田は有栖川学園の中等部に入学した。

 有栖川学園は初等部、中等部、高等部、大学とそろっており、中等部の八割ほどは初等部からの内部進学である。山田は二割の方で、公立の小学校から受験で入学した外部生だった。初めのうちは内部進学生にいじめられるのではないかと身構えていたが、二週間ほど過ごして杞憂だとわかった。嫌みたらしく云う人がいないわけではない。だが、大半は区別なく普通に受け入れてくれていた。

 さっそく気になる女子もできた。

 席が隣になった橘澪だ。橘財閥の令嬢だと聞いているが、そうとは思えないくらい親しみやすい。いつも彼女の方から笑顔で挨拶をしてくれるし、山田が外部生だからか何かと気に掛けてくれているし、わからないことを聞けば親切に教えてくれる。明るく、優しく、快活で、そのうえルックスはアイドル並み——そんな子が自分に笑いかけてくれるのだから、気にならない方がおかしいだろう。ちなみに彼女の双子の兄も同じクラスだが、そちらの方は近寄りがたい雰囲気で、まだ一度も言葉を交わしたことはない。

 

「山田君、ずっと気になってたことがあるんだけどね」

 掃除の時間が終わって席へ戻ろうとしていた山田に、澪が横から声を掛けてきた。

「ん?」

「いつもネクタイ緩んでるけど、わざとなの?」

「ああ、これ……別にわざとじゃないけど」

 彼女に言われるまで緩んでいる自覚もなかった。ネクタイを締めるのにまだ慣れていないので、上手くできていないことが多いのかもしれない。触ってみると、確かに結び目の上が少し空いているように感じる。けれど、これくらい別に気にするほどのことでもないだろう。

 そう考えていると、不意にほっそりとした白い手が首もとに伸びてきた。

「えっ……?」

「じっとしててね」

 彼女はそう言い、山田の緩んだネクタイを直していく。

 意図的ではないのだろうが細い指先が何度も首回りに触れ、鼻先にいる彼女からほのかに甘い匂いがふわりと漂う——突然のことに思考が真っ白になり、山田は硬直して為すがままになっていた。

「できた!」

 彼女はパッと両手を離し、ぴょんと一歩下がって確認する。

「うん、やっぱりちゃんと結んである方がかっこいいよ」

「あ、ああ……これからそうする……」

 うろたえながらも、どうにか声を震わせないように答えた。語尾が小さく消え入ってしまったが、特に不審には思われていないようだ。彼女は長い黒髪をさらりと揺らしつつ、満面の笑みで頷いていた。

 

 もしかしたら——。

 ホームルーム中、横目で隣席の彼女をそっと見つめながら思う。彼女も自分に気があるのかもしれないと。何となくそうではないかと思っていたが、先ほどのネクタイの一件で確信に近いものを感じた。好きな男子以外にこんなことをするはずがない。

 彼女の方から、告白してくれるだろうか?

 告白をされたことはあるが自分からしたことはなく、どうすればいいのかよくわからない。照れくさいというのもある。何より、彼女の方から好きだと言ってほしい。しばらく逡巡して、やはり彼女が告白してくれるのを待つことに決めた。

 

 一週間が過ぎても、彼女からの告白はなかった。

 だんだん距離が縮まっている実感はあるが、決定的な言葉はない。両想いなら早く付き合って、堂々と手を繋いだり、抱きしめたり、デートしたり、キスしたりしたいのに。妄想ばかりが広がっていく。しかし——。

「山田君、日誌お願いしていい? わたし黒板消すから」

「わかった」

 悶々とした日々も今日で終わりかもしれない。放課後、日直のため彼女と二人きりになったのだ。こんな絶好の機会を逃すわけにはいかないだろう。どうにか彼女に告白してもらえるようにしたいと思う。

 そわそわしながら日誌を書いていく。

 彼女は黒板を消したあと、黒板消しをクリーナーにかけていた。豪快な駆動音が教室中に響いている。しばらくすると、彼女はチョークの粉を吸い込んだのか急に咳き込んだ。山田は慌てて駆けつけ、後ろからクリーナーのスイッチを切って声を掛ける。

「代わるよ」

「ん、大丈夫……」

 彼女はそう言ったが、山田はやはり代わろうと黒板消しに手を伸ばした。彼女の手から抜き取ろうとするが上手くいかず、少し前屈みになると、まるで後ろから抱き込んでいるような格好になった。振り向いた彼女と至近距離で目が合い息をのむ。少し潤んだ瞳がまるで誘っているように見え、思わず——引き寄せられるように軽く唇を重ねた。

 一瞬、彼女は何が起こったかわかっていないようだった。しかし、再び山田と目が合うとカッと一気に真っ赤になり——。

「キャーーーッ!!!」

 耳をつんざくような金切り声を上げて、山田を突き飛ばす。

 あの細腕のどこに、と思うほどの非常識な馬鹿力だった。いくつもの机をなぎ倒しながら体が吹っ飛んでいく。気付けば、机や椅子と絡まるように倒れていた。あちこち打ちつけたのか全身がズキズキする。そして——。

「いっ……!」

 立ち上がろうと右腕をつくと鋭い激痛が走った。何がどうなったのかわからないが、ちょっとぶつけたという感じの痛みではない。立つこともできず、脂汗を滲ませて低い声で呻きながら悶える。

「わ……私、先生呼んでくる!」

 澪は青ざめておろおろと狼狽えていたが、やがてそう言い置くと、長い黒髪をなびかせながら走っていった。

 

 担任の先生に連れて行かれた病院で診てもらうと、右腕を骨折していた。

 処置が終わり待合室の長椅子に澪と並んで座っている。が、二人の間はもうひとり座れそうなくらい離れていた。互いに目を合わせようともしない。澪がどう思っているのかはわからないが、山田はひたすら気まずさを感じていた。

 何があったのか担任に聞かれるが、山田にはとてもあんなことを答える勇気はない。澪も恥ずかしさゆえか口を閉ざしている。ただ、自分が突き飛ばしたということだけは、担任を呼びに行ったときに告げていたようだ。それだけわかれば十分ではないかと思うが、担任はあくまでもその原因をしつこく追及してきた。

「圭吾!」

 不意によく知った声が聞こえてビクリとする。

 振り向くと、母親が心配そうな顔をしながら小走りでこちらに向かってきていた。担任に軽く一礼してから山田の前でしゃがみ、白い三角巾で吊されたギプスの腕をまじまじと見つめる。

「全治一ヶ月だって?」

「医者はそう言ってた」

 山田はぶっきらぼうに答える。隣で、澪が膝にのせたこぶしを強く握りしめるのが見えた。黒髪が横顔を覆い隠しているため表情はわからないが、心なしか肩もこぶしも震えているような気がする。母親もちらりと彼女を見たが、困惑したような微妙な面持ちになるだけで、どうすべきか考えあぐねているようだった。

「橘の保護者です」

 ふと向かいからそんな声が聞こえて顔を上げると、長身の男性が立っていた。保護者といっても父親ではない。両親に代わりその役割を引き受けている人のようだ。入学式のときに澪がそんなことを言っていた覚えがある。あたふたと立ち上がって会釈した山田の母親に、彼は深々と頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。治療費はすべてこちらで持たせていただきます」

「いえ、お気になさらないでください。子供どうしの喧嘩でしょうし……」

 母親も事情を知らないので戸惑っているようだ。それを察してか、彼は長椅子に座っている山田と澪に視線を巡らせると、その正面へまわり目線の高さを合わせるように腰を屈めた。

「二人とも、何があったのか話してくれないか?」

 真面目だが威圧的ではない声音でそう尋ねてくる。当然ながら、彼女の保護者になどなおさら言えるはずもなく、山田はきまり悪さを感じながらふいと目を逸らす。彼女も口をつぐんだまま反対側に目を逸らしていた。

「何を聞いてもこうなんですよ」

 担任が途方に暮れたように溜息をついて言う。

 保護者の男性は表情を変えることなく体を起こした。そして、うつむいたままの澪を見下ろして手を差し出す。

「澪、ちょっとおいで」

 彼女はおずおずと顔を上げた。わずかに濡れた漆黒の瞳が不安げに揺らいでいる。しかしながら決意を固めたようにこくりと頷くと、差し出された手を取り腰を上げ、彼に手を引かれるまま廊下の奥へ消えていった。

 

 数分ほどして、保護者の男性がひとりで戻ってきた。

 その表情は先ほどまでとあまり変わっていなかったが、何か張りつめた空気を纏っているように感じられた。おまけに体の横では固くこぶしが握られている。おそらく、もう澪からすべて——。

「話を聞いてきました」

 感情を押し殺したような声がそう告げた。

 山田はビクリと肩を震わせると、背中を丸めてうつむき顔をこわばらせる。額には大粒の汗が浮かんできた。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるが、逃げたところでどうにもならないし、そもそも逃がしてくれるはずがない。次第に血の気が引いていくのがわかった。

「澪が言うには——放課後、一緒に日直の仕事をしているときに、彼に不意打ちでキスをされて、驚いて思わず突き飛ばしてしまった、ということらしいのですが」

 全部、知られてしまった。バラされてしまった——。

 山田は青ざめた。それでも彼がどんな表情をしているのか気になり、うつむけていた顔をおそるおそる上げていく。そこには凍てつくような鋭い視線があった。殺される、と本能的に身の危険を感じてしまうほどの。目を逸らしてもなお凄まじい怒気が伝わってきた。

「ちょっとあんた本当なの?!」

 狼狽した母親に胸ぐらを引っ掴んで詰問される。山田はだらだらと大量の汗を流しながら、何も答えず逃げるように顔をそむけた。しかし、そのわかりやすい態度は認めたも同然といえる。

「このバカッ! なんてことを!!」

 母親は山田を怒鳴りつけてバシッと頭を叩いた。そして、乱暴に押さえつけて頭を下げさせると、そのまま彼女自身も深く腰を折って許しを請う。

「本当に、本当に申し訳ありませんでしたっ!!」

「…………」

 澪は橘財閥の令嬢だ。彼女がどう思っているのかはわからないが、保護者がひどく怒っていることは伝わってくる。とても許してもらえるとは思えないくらいに。だとすれば、自分は、家族は、いったいどんな報いを受けるのだろうか。そう考えると急に怖くなってきた。

 沈黙が続く。一向に彼からの返事はない。だが——。

「あの……もういいです……」

 ふいに遠くから弱々しい声が聞こえてきた。振り向くと、澪が少し離れたところで所在なさげに立ち、おずおずと遠慮がちにこちらを覗っていた。

「私も怪我させちゃったし、お互いさまってことで……ねっ?」

 そう言って小首を傾げると、緊迫した空気をやわらげるように微笑んでみせる。ぎこちなくもひたむきに。保護者の男性は息をのんで複雑な表情を浮かべた。

 

 その後、大人たちで話し合いがなされ、大事になることなく決着した。

 山田の治療費はすべて橘が負担してくれるという。母親はこちらに原因があるのでと断ろうとしたが、橘の方がどうしても引かなかったらしい。ただし、今日の出来事は決して口外しないようにと念を押された。山田を怪我させたことより、山田にキスされたことを知られたくないのだろう。できればなかったことにしたいとでも思ってそうな感じだ。

 澪自身は、どう思っているのだろう——。

 結局、その後も彼女と二人で話をすることはできなかった。気まずさゆえか、保護者の命令か、澪はずっと山田から距離をおいていたのだ。やがて、保護者に肩を抱かれて病院をあとにする彼女を無言で見送る。山田は言葉にならないもやもやした思いを胸に燻らせたまま、わずかに眉を寄せた。

ボーダーライン - 判らない

 

「おはよう、山田君」

「ん……ああ……」

 自席に座りながら声を掛けてきた澪に、隣の山田はビクリとして曖昧に返事をした。澪とはとても目を合わせられない。しかし、目を伏せるとギプスで固定された右腕が見え、嫌でもきのうの出来事が思い出される。もう話がついたことではあるが、それでもバツの悪さと気まずさが消えるわけではない。

「あの……」

 澪は机から身を乗り出し、小声で続ける。

「えっと、その……きのうはゴメンね。まだちゃんと謝ってなかったから」

 頬を染めてはにかみながら謝罪の気持ちを伝えてきた。山田としてはもう終わったつもりでいたが、考えてみれば自分は謝罪どころか事実をひた隠しにして逃げていただけである。彼女は勇気を出してあの場を取りなしてくれたというのに。

「俺も……ごめん……」

「うん、じゃあ仲直りだね」

 澪はほっと安堵の息をつきながらそう言うと、まだ少し頬を染めたまま、いつもと変わらない可憐な笑顔を見せた。山田もつられて笑顔になる。もう二人の間にわだかまりは感じられなかった。

 

 ただ、双子の兄が後ろから仄暗い目で眺めていたことに、山田は気付いていなかった。

 

「くっそ、片手はけっこう不便だな」

 右腕を怪我したことで、今まで意識せずにやっていたちょっとした動作も、片手では難しいのだとあらためて気付かされた。ズボンのファスナーを上げるのも一苦労である。今も、誰もいない放課後の男子トイレで、ひとり悪戦苦闘しているところだ。

 そのとき——。

 きれいな手がいきなり自分の手を払いのけ、力任せにファスナーを引き上げる。

「橘っ?!」

 山田は驚いて後方に飛び退き、その勢いでガラス窓に後頭部を打ちつけた。

 ここは男子トイレである。当然ながら、そこにいたのは澪ではなく双子の兄である遥の方だ。わかっていても、あまりにも似ているのでドキリとしてしまう。その可愛らしい面差しも、すらりとした背格好も、きれいな白い手も、澪とそっくりでまるで女の子のようだった。

「それ以上、怪我しないでよ」

「あ、ああ……」

 窓側に張り付いたまま放心状態で見とれていた山田に、遥は冷たい目を向ける。その表情は、決して澪が見せることのないものだ。山田はゾクリと身体の芯が震えるのを感じた。

「澪に変な期待するのはやめてくれる?」

「えっ?」

 前置きもなく突きつけられた彼の言葉を、山田は理解できなかった。変な期待というのはいったいどういう——不思議そうに見つめ返していると、遥は眉根を寄せ、若干声を低めて直接的な表現で言い換える。

「澪は君のことが好きなわけじゃない」

「そんなこと……おまえにわからないだろ」

「わかるよ。澪は誰に対してもああだから」

 彼の主張は理解したが、山田としては余計なお世話と言わざるを得ない。

「あんな顔で笑って、顔を赤らめて、顔を近づけてきて、あれで好きじゃなかったら何だってんだよ。キ……のことだって……別に怒ってはないみたいだし。突き飛ばしたのは単純に驚いたからで、嫌がってたわけじゃないだろ」

「へぇ……」

 遥は平坦な声でそう言うと、大きく一歩踏み出して間合いを詰めた。そして、外見からは想像もつかない馬鹿力で左手首を掴み、踵を上げ、互いの息が触れ合うほどに顔を近づける。その肌は雪のように白く、きめ細やかで、柔らかそうで——至近距離で見るとますます女の子のようだ。澪と同様の大きな漆黒の瞳が、瞬ぎもせず自分を見つめている。山田の顔はみるみる熱を帯びていった。

「そんなに顔を赤くしてどうしたの? 照れてるの? 僕のことが好きなの?」

「ちがっ……」

 上目遣いで不敵な笑みを浮かべる遥にあたふたし、思わず後ずさろうとするが、後ろは壁で一歩も下がることはできない。掴まれた手首を振り切ろうとしてもビクともしない。さらに遥はもう片方の手を山田の肩に掛けて、まるで寄りかかるかのように密着してくる。そして——。

「!!」

 あろうことか、彼自身の唇を、山田の唇にためらいもなく押し当ててきた。あたたかく、柔らかく、吸い付くような生々しい感触。あまりのことに頭が真っ白になり何も考えられない。

 やがて、そっと唇が離れた。

 掴まれていた手首も解放され、山田はガクガクと膝を震わせて崩れるようにへたり込んだ。そこがトイレであることなど考える余裕もなかった。倒れかかった上体を支えるように左手を床につく。その手首にはくっきりと指のあとが残っていた。

「少しはわかった? 勝手に好きだと決めつけられて、無理やりキスされるのがどんな気持ちか」

 頭上から降ってきたその声に、山田はおそるおそる青白い顔を上げる。自分をじっと見下ろす遥のまなざしは、蔑みに満ちた冷淡なもので、その威圧感に全身から汗が噴き出すのを感じた。おそらくこれは報復であり警告だ。澪に近づくことは許さないという強烈なまでの意志を感じる。それだけのために、同性である自分にキスまでしてきたのだから——。

 遥は素気なく背を向けて去っていく。だが、出入り口の前で立ち止まると、扉に片手をかけたまま振り返った。

「何か不便があったら、澪じゃなく僕に言ってよ。何でもしてあげるから」

 そう言って、まるで挑むようにニッと笑う。

 自分に向けられたその艶然とした表情に、山田は身震いとすると同時に、自然と鼓動が高鳴っていくのを感じた。またしても顔が紅潮していく。しかし、遥はそのことに言及しようともせず、無愛想に男子トイレをあとにした。

 

「わから……ねぇよ……」

 一人残された山田は、トイレの堅い床に座り込んだままぼそりとつぶやく。いつまでも顔が火照って冷めないことが、何とも歯がゆくもどかしかった。

ボーダーライン - 妹のため

 

「おはよう」

「おはよう……って、え?」

 山田は自席に座りながら無意識に挨拶を返し、直後に驚いて振り向く。声を掛けてきたのは遥だった。今まで彼に挨拶されたことは皆無である。しかもあんなことがあったばかりなのに——考え込んでいると、彼は当然のように山田の隣に腰を下ろした。しかしながらそこは澪の席のはずだ。

「先生に頼んで、澪と席を替えてもらった」

 怪訝な顔をした山田に答えるように、遥はさらりと言う。

 後ろを振り返ると、きのうまで遥が使っていた最後列の席には澪が座り、集まっている友人たちと楽しそうに話をしていた。席を替えたというのはどうやら本当のようだ。おそらく妹を守りたいという気持ちからだろう。それは理解できるが、行動は何かと度を過ぎていると言わざるを得ない。

 きのうのことも——。

 つい詳細に思い出してしまい顔がカッと熱くなった。無意識のまま自分の口もとに手を伸ばし、唇に触れた瞬間、鮮明にあのときの感触がよみがえる。これまでの経験がすべて上書きされてしまったかのように、強烈な記憶となって焼き付いていた。

「ねぇ、聞いてる?」

「ひっ……!」

 ぼんやりしていると、遥が隣から少し怒ったような顔で覗き込んできた。そのあまりの近さに驚き、思わずのけぞり椅子ごと倒れそうになったが、遥がとっさに受け止めて元に戻してくれた。

「自分が怪我人だって自覚あるわけ?」

 呆れたように言われたが、別に好きでのけぞったわけではない。いったい誰のせいなのかと言いたくなる。しかし彼に受け止めてもらわなければ、手をつくこともできずに転倒していたのは事実だ。下手をすれば、別のところも骨折していたかもしれない。

「悪かったな……ありがとう……」

「その腕が治るまで僕が面倒を見るから」

「はっ?」

「何でもしてあげるって、言ったよね?」

 遥はそう言い、艶のある薄い唇をゆるやかな弧の形にして、意味ありげにうっすらと笑みを浮かべる。その言葉に、その表情に、その唇に、山田はゾクリと背筋が震えるのを感じた。

 

「今日のノートのコピー」

「悪いな、橘」

 放課後になるとすぐに、遥は職員室でノートのコピーを取ってきた。今日の授業で彼が書いたものである。差し出されたその束を受け取ろうとしたが、彼はなぜかしっかりと持ったまま手を離さなかった。

「橘じゃなくて、遥」

「えっ?」

「ややこしいから遥って呼んで」

 クラスに橘が二人いるので、確かにややこしいといえばややこしい。彼が友人たちに遥と呼ばれているのは知っているが、その名前を意識したのは初めてである。顔や外見だけでなく名前も女の子みたいだな、と彼に知られたら機嫌を損ないそうなことを密かに思う。

「じゃあさ、俺のことも下の名前で呼んでくれよ」

 山田という姓はクラスで自分ひとりだけなので、下の名前で呼ばせる必然性はない。彼のことを名前で呼ぶのなら、自分のことも名前で呼んでほしい、ただ単純にそう思っただけである。一瞬、彼は何か思案していたようだが、すぐに無表情を保ったまま口を開く。

「名前は何?」

「圭吾」

「わかった、圭吾だね」

 確認するように復唱すると、机の横にかけてあった山田の学生鞄を取り、いったん手渡したコピーをその中にしまう。片手の不自由な山田にとっては、そんな些細なことでもありがたい。しかし、彼はしまい終えたその鞄を脇に抱えると、もう一方の手で自分の鞄を手に取って言う。

「じゃ、帰るよ」

「ちょっ……」

 二つの鞄を手にしてスタスタと歩き出した彼を見て、山田は慌てて立ち上がり、そのあとを小走りで追いかけていく。

「自分の鞄くらい自分で持つって」

「遠慮しなくていいから」

「自分で持たないと落ち着かないんだよ」

「そう?」

 必死に訴えると、遥はどうにか山田の学生鞄を返してくれた。ほっとして左手に提げる。いくら何でも鞄持ちまではやりすぎだ。両手が使えないのならまだしも、片手は何の問題もなく使えるのだから。

「じゃあな」

 校門を出たところで別れを告げた。これまでに何度も帰るところを見ていたので、遥の家が逆方向であることは知っている。もっとも、山田が見ていたのは遥ではなく澪の方だが。当然ながら兄妹なので同じ家に住んでおり、どちらかに日直などの用事があるとき以外は、たいてい友人たちも含めて一緒に帰っているようだった。

 しかし、遥は山田の家の方へ足を進めた。

「おい、たち……遥、おまえの家はあっちじゃないのか?」

「圭吾を家まで送るんだよ」

「いやいやいや、骨折したのは脚じゃなくて腕だからな?」

「送る必要はないだろうけど、僕が送りたいから」

 前を歩いていた遥はそう答えて振り返ると、ちょこんと小首を傾げる。

「駄目?」

「あ、いや……」

 澪とまったく同じ顔で可愛らしくそう尋ねられては、何も言えなくなる。男であることはわかっているはずなのに。そして、度が過ぎた世話焼きを不気味に感じているのに。何か企んでいるのだろうか——その場に立ちつくしたまま眉を寄せて考え込んでいると、彼に手首を引っぱられた。

「帰るよ」

「……ああ」

 結局、問いただすことも断ることもできず、彼と並んで自宅まで帰ることになった。

 

 それから一週間。

 学校にいる間だけではあるが、遥はどこへ行くにも何をするにも山田に付き添った。ノートのコピーも毎日欠かすことなく渡してくれる。帰りも反対方向なのに家の前までついてきてくれる。恥ずかしいが給食を食べるのも手伝ってくれたりした。

 ただ、いまだにあまり打ち解けたとはいえない状況だ。彼から雑談を話しかけてくれることはないし、こちらから話しかけても反応はそっけない。それでも今ではだいぶ慣れて、気まずいと感じることは少なくなっていた。むしろ心地良いとさえ感じるようになっていた。

 

「今日もそいつと帰るのか?」

 放課後、日直で残っていたクラスメイトの富田が、席に座っていた山田を顎でしゃくりながら、ノートのコピーをとって戻ってきた遥に尋ねた。富田は遥たちといつも一緒に帰っていた友人のひとりだ。遥は無表情のまま山田にノートのコピーを手渡しつつ答える。

「腕が治るまではそうするつもり」

「何もおまえがそこまでしなくてもな」

「やりたくてやってるだけだから」

「澪が怪我させた責任からだろ?」

 山田はビクリとする。

 この骨折が澪によるものだということは言わない約束になっていた。澪の側も、山田の側も、知られたくないという互いの利害が一致したためだ。遥はきょうだいなので知っていて当然だと思ったが、なぜ富田まで知っているのだろうか。

「詳しいことは聞いてないけど、わざとじゃなくて事故だって言ってたし、家まで送る必要はない気がするんだよなぁ」

 どうやら骨折に至った経緯までは知らないようで、密かにほっとしていると——。

「おまえもそう思うだろ?」

 ふいに富田に話を振られた。

 家まで送る必要があるかと言われればまったくない。山田自身も最初は断ろうとしていたくらいだ。なのに、なぜだかそう答えることができなかった。せめて何か言葉を返さなければと焦るものの、頭が真っ白になってしまい何も思いつかない。しかし——。

「余計なお世話だよ」

 遥が溜息まじりにそう言い捨てた。そして、机に置いてあった山田の鞄を掴むと、行くよと声を掛けてすたすたと歩いていく。山田はコピーの紙束だけを持って立ち上がり、小走りでそのあとを追いかけていった。教室を出て行く間際にちらりと後ろを見やると、富田は黒板消しを持ったままきょとんと立ちつくしていた。

 

「帰るよ、圭吾」

「おう」

 骨折をしてから三週間が過ぎた。

 遥はずっと変わることなく山田の世話を焼いてくれていた。帰りも家の前まで送ってくれる。途中で本屋やCD店に寄っても嫌がらずについてきてくれた。相変わらず会話はあまり盛り上がらないものの、時折ふっと笑みを浮かべてくれることもあり、ずいぶんと距離が縮まったように感じていた。

 けれど、この時間も今日が最後になるかもしれない。

「……遥」

「何?」

 隣を並んで歩いていた彼は、少し顔を上げて漆黒の瞳でじっと見つめてきた。この仕草にはいつもドキリとさせられる。次第に顔が熱を帯びていくのを感じながら、微妙に視線を外して言葉を継ぐ。

「あのな、俺、あしたギプス外せるかもしれない」

 明日、病院で検査をして問題がなければギプスを外すことになっている。途中経過も順調だったのでほぼ大丈夫だろうということだ。

「そう、よかったね」

「ありがとうな」

 山田は多少の照れくささを感じながらも、率直に礼を述べる。

「今まで遥がいてくれたおかげで本当に助かった。おまえのノートすごくきれいで見やすかったし。あ、ノートだけじゃなくて……えっと……」

 上手くまとまらず言いよどむが、遥は意を汲み取ってくれたように小さく微笑んだ。彼のこんな顔を知っている人は少ないんだろうな、と思うと無意識のうちに優越感が湧き上がってくる。

 しかし、これからはいつも一緒というわけにはいかない。

 骨折が治ってしまえば、彼がこうやって自分に付き添う意味はなくなる。だとしても、彼との関係は断ち切りたくなかった。ときどきはこうやって一緒に帰りたいし、話をしたいし、笑顔を見せてほしいと願っている。彼も同じ気持ちだと信じたい。

「なあ、今日ウチに寄っていかないか?」

「僕は帰るよ」

 家の近くまで来たところで勇気を出して誘ってみたが、あっさりと断られた。寄っていたら遅くなると思ったのだろうか。財閥の息子なので門限が厳しいのかもしれない。

「いつか、休日でもいいから来てくれよな」

「そうだね」

 彼は愛想のない声で答える。本当にそう思っているのかは今ひとつ定かでないが、しつこく追及するのも憚られ、彼の横顔を見つめながら来てくれるよう祈るしかなかった。

 

 月曜日——。

 山田はいつもより幾分か早めに学校へ行き、席についた。その腕にギプスはない。土曜日に病院で無事にギプスが外されたのだ。感覚はまだ完全には戻っていないが、もう字も書けるし、ほとんどのことは自分ひとりでできる。これでもう遥の助けは必要なくなった。

「おはよう、圭吾」

「ああ……おはよう……」

 あとから登校してきた遥にいつものように挨拶され、少し緊張しながら挨拶を返す。ギプスが取れたことを報告しなければと思ったが、なぜか口が固まったように動かなかった。しかし、当然ながら遥は言わずとも気付いたようで、席に着くことなく横から山田を覗き込んできた。

「腕、大丈夫?」

「もう何ともない」

「そう、よかった」

 遥はそれだけ言うと、鞄を置いて澪たちの集まっているところに向かった。

「あ……」

 山田はその後ろ姿を目で追いながら情けない声を漏らしただけで、それ以上は何も言えなかった。自分には引き留める権利などない。久しぶりに昔からの友人たちの輪に入り、話をしている彼は、とても自然に馴染んでいるように見えた。

 

 その日以降、遥の態度は骨折以前のものに戻ってしまった。

 まるで、あの三週間が存在しなかったかのように。

 夢でも見ていたのかと思うくらいに。

 一緒に帰ることはもちろん、名前を呼ばれることも、話をすることも、目を合わせることすらなくなった。意識的に無視しているというよりは、意識さえしていないといった感じだ。何の接点もないただのクラスメイトに逆戻りである。数日後の席替えで席も遠くに離れてしまった。

 すっかり忘れていたが、遥が山田の世話を焼いていたのは妹のためだったはずだ。山田がまだ彼女を諦めていないとわかったので、責任を感じている彼女の代わりに世話を買って出たのだろう。どこへ行くにもついてきたのは、もしかすると彼女に近づかせないためだったのかもしれない。

 しかし、たとえきっかけはそうであったとしても、三週間も一緒にいて少しは仲良くなれたと思っていた。笑顔だって見せてくれていた。なのに——彼が何を考えているのまるでわからない。自分から声を掛ければ良かったのかもしれないが、気のせいか冷ややかな拒絶を感じて、その勇気が持てなかった。

 もちろん他に友達がいないわけではない。けれど、誰といても無意識に遥を目で追っていた。自分でも少し異常だと思うくらいに。どうして彼にこれほどまで執着するのか、彼に何を求めているのか、よくわからなくて微妙な心持ちになる。それでも渇望が薄れることはなかった。

 しかし、結局ほとんど喋ることも叶わないまま、二年生になって別々のクラスになった。

ボーダーライン - 砕けた心(最終話)

 

 山田は高校二年生になっていた。

 遥とは中学二年でクラスが分かれて以来、一度も同じクラスにならず、一度も口をきいたことがない。それでも学校が同じだと嫌でも存在を意識させられてしまう。大財閥の息子でなおかつ常時学年トップという目立つ人物であればなおさらだ。

 そのせいかどうかはわからないが、四年以上も経つのにいまだに彼とのことを引きずっていた。忘れようとしても忘れられない。過去の思い出にもできていない。あれから何人かの女子に告白されて付き合ったが、どうしてもあの三週間と比べてつまらなく感じてしまい、いつも長続きしなかった。異常だと自覚しているがどうしようもない。他人の気持ちどころか、自分の気持ちでさえ思うようにはならないのだから。

 

「だから、駆け落ちじゃないってば!」

 廊下を歩いていると、教室の方から大きな声が聞こえてふと足を止める。

 橘の声だ。といっても山田が気にしている遥ではなく、その妹の方である。彼女は先日まで一ヶ月ほど誘拐監禁されていたらしいが、犯人がモデルばりのイケメンだったせいか、本当は駆け落ちではないかとまことしやかに囁かれているのだ。彼女本人は訊かれるたびに否定しているようだが、いったん立った噂はそう簡単に消えないだろう。

 何にせよ、元気そうで良かった。

 彼女ともクラスが分かれたきり一度も話をしていないが、それでも好きだった子が不幸になるのは見たくない。思ったよりも声に覇気があることに安堵しつつ、半分ほど開いた扉からちらりと中に目を向ける。人がまばらになった放課後の教室で、席に着いている澪のまわりにいつもの友人たちが集まっているのが見えた。もちろん遥もそこにいる。

「澪ちゃんは彼氏一筋だもんね」

 野並が嬉しそうにニコニコしながら言う。

 へぇ、彼氏がいるのか——山田はそう思うだけでショックは受けていなかった。彼女への想いはもうとっくに過去のものになっている。あれだけ可愛いのだから彼氏がいても不思議ではない。ただ、相手は誰なのだろうと少し気になって聞き耳を立てた。

「澪の場合はあれだよね、擦り込みみたいな? 何もかも初めてだからさ」

 鳴海が含みのある物言いでからかう。

 こんな言い方をされてはさぞかし面白くないだろう。澪だけでなく彼氏も馬鹿にされたようなものである。案の定、彼女はムッとして小さな口をとがらせていた。ふいに視線を斜めに落としてぼそりとつぶやく。

「……キスは初めてじゃなかったよ」

「はぁっ?!」

 鳴海は大きく驚愕し、机に手をついてガバリと身を乗り出した。

「ちょっと何それ初耳! いつ? 誰と?!」

「したっていうかされたんだけど……」

 澪は逃げるように身をのけぞらせながら、困惑ぎみに答える。

 それを聞いて山田はギクリとした。彼女が言っているのは間違いなく自分とのことだ。中学一年生のときに隙を突いて口づけし、直後に全力で突き飛ばされて机ごと倒れ込み、右手を骨折したあのときの——まさか、今ここで暴露するつもりなのだろうか。じわりと冷や汗が滲んでくる。

「それ誰だよ! ぶっとばす!!」

「もう終わったことだし言わないよ」

 富田はこぶしを握りしめて熱く憤慨していたが、澪はさらりと受け流した。しかし鳴海は追及をやめようとしない。

「もしかしてあの保護者?」

「……師匠は違うよ」

「じゃあ同じ学校のヤツ?」

「だから言わないってば」

「綾乃、しつこいよ」

 どうにか澪から答えを引き出そうとする鳴海を、遥が隣から窘める。それでも彼女は素直に引き下がらなかった。意味ありげに横目を流しつつ口もとを上げる。

「遥、あんたいいかげん妹離れしたら? このまま澪の世話ばっか焼いてたんじゃ、一生誰ともキスできないんじゃない?」

「余計なお世話。キスくらいしたことあるし」

「……えっ、えええええ?!!」

 鳴海だけでなく、その場にいた全員が目を丸くして遥を見た。澪のとき以上の猛烈な追及が始まるが、彼は素知らぬ顔で無視するだけである。そのうち鳴海が出任せではないかと疑い始めた。しかし、山田にはそれがまぎれもない事実だとわかっている——相手は自分なのだから。心臓がドクドクと激しい鼓動を打つのを感じながら、硬直して立ちつくす。

「そろそろ師匠が迎えに来る時間だよ、行こう」

 遥がちらりと腕時計を見て声を掛けると、澪は頷いて立ち上がった。その表情は怪訝に曇ったままである。遥のキスの相手が、経緯が、気になって仕方ないのだろう。鳴海、野並、富田も奥歯に物がつまったような顔をしていたが、もう無駄だと悟ったのか問い詰めることなく口をつぐんでいた。

「あっ……」

 半開きの扉からぼんやりと眺めていたら、こちらに向かって歩き出した遥と目が合い、思わず小さな声をもらす。彼は少し驚いたように目を大きくしたが、すぐにもとの無表情に戻って澪に振り返る。

「用事ができたから先に帰って」

「えっ、用事?」

 それには答えることなく小走りでこちらに駆けてくると、とっさに扉の陰に隠れた山田を見つけ、何も言わず手首を鷲掴みにして強引に廊下を走り出す。山田はわけもわからず、ただ遥に引っ張られるまま足を進めるだけだった。相変わらず白くて細くてきれいな手だなと思いながら——。

 

 気付けば、技術実習室の前にいた。

 この先は行き止まりになっており、放課後にこんなところまで来る生徒も先生もめったにいない。しんと静まりかえった中に、少し息の乱れた山田と、息ひとつ乱していない遥だけが立っていた。

 ずっと握られたままだった手首が解放される。

 そのごく近い距離のまま、遥は感情の読めない瞳でじっと見つめてきた。中学一年生のときよりも身長差が大きくなっていることを実感する。彼もあのときより背は伸びているはずだが、むしろ小さくなっているように錯覚しそうだった。顔は昔よりも幼さが抜けていっそうきれいになった。男子に言うのはおかしいかもしれないが、それ以外に形容しようがない。白いなめらかな肌も、大きな漆黒の瞳も、形のいい薄い唇も……唇……ドクドクと心臓が痛いくらいに暴れ出す。頬は上気して熱い。

「話、聞いてたよね?」

「え……あ、いや、盗み聞きじゃなく通りかかっただけで……」

「あれ以上は言わないし、名前を出すつもりもない」

 遥はあたふたした山田の言い訳を遮り、毅然とそう告げると、わずかに表情を硬くして言葉を継ぐ。

「だから、澪とのことは黙っていてほしい。約束を破っておきながら勝手だけど」

「いや、むしろバラされて困るのは俺の方だし、頼まれなくても言うつもりなんてない」

「そう、よかった」

 その声から安堵が伝わってきた。

 山田が澪に不意打ちでキスをしたことも、澪が山田を突き飛ばして骨折させたことも、双方の合意で誰にも話さない取り決めになっていた。山田としては名前が出ていないので約束を破られたとは思っていないし、たとえそうなるのだとしても自分から吹聴するメリットは何もない。少なくとも、女子から冷たい目で見られることは間違いないのだから。

「僕のことは好きにして構わないから」

「好き、に……?」

「言いふらしてもいいよってこと」

 一瞬、あらぬ勘違いをしそうになってドキリとしたが、遥が男子トイレでキスしてきた件についてのようだ。まぎらわしい言い方しやがって——と内心で悪態をつきつつ、ほっとしたような残念なような微妙な心持ちになる。

「そんなことするわけないだろう」

「そう、ありがとう……じゃあね」

「待て!」

 あっさり身を翻して帰ろうとする遥の腕をとっさに掴み、引き留めた。遥はほんの少し驚いたような顔を見せたが、すぐに元の無表情に戻り、大きな漆黒の瞳でじっと山田を見つめて言う。

「何?」

 冷ややかに尋ねられたが、特に何か用事があるというわけではない。ただ、あの日から密かに渇望してきた二人きりの時間を、こんなに呆気なく終わらせたくはなかった。

「……なっ、名前」

「えっ?」

「名前、呼んでくれよ。昔みたいに……」

 さすがに真顔でこんなことを懇願されては困惑するだろう。そう思ったが撤回する気にはなれなかった。案の定、遥はわずかに眉をひそめて怪訝な面持ちになった。しかし——。

「……圭吾」

 彼の唇が、静かに自分の名前を紡ぐ。

 それだけで体中の血が沸き立った。全身に電流が駆け抜けた。遥以外の誰にも感じたことのない感覚である。今までずっと戸惑い、悩み、葛藤してきたが認めざるを得ない。同性にこんな感情を持つことは異常なのだろうが、自分は、遥のことを——。

「ずっと、忘れようとしても忘れられなかった。何でだよ……俺はあの三週間で仲良くなれたと思ってたのに、治ったら急にそっけなくなって……俺は……おまえのことを……」

「僕はただ責任を果たしただけだよ。誤解させたのなら申し訳ないけど」

 微塵も興味がないとばかりに冷ややかに門前払いされ、カッと頭に血が上った。両肩に手を掛けて乱暴に背後の扉に押さえつける。ガシャンと派手な音があたりに響いた。肩に掛ける手に力を込めながら、睨むように、縋るように、感情の読めない漆黒の瞳を見つめる。

「少しくらい、楽しいとか嬉しいとか思っただろう?」

「どうして? 僕は面倒だとしか思ってなかったよ」

「じゃあ、何で……っ!」

 何であんな気を許したような笑顔を見せたりしたんだ。そもそもあんなキスをするから忘れられなくなるんだ——そう言いたかったが口には出せなかった。グッと言葉を詰まらせて奥歯を噛みしめる。

 それでも、遥は目を逸らさなかった。

 まるで責められているかのように感じると同時に、劣情が刺激される。吐息がかかるくらいの至近距離で見つめられて気がおかしくなりそうだ。心臓はうるさいくらいに暴れている。なのに、彼は無表情を崩すことなく平然としているのが腹立たしい。

 おまえも、忘れられなくしてやる——。

 肩に置いていた両手で、今度は顔を両側から固定するように包み込んだ。頭と顔の小ささと肌のなめらかさをあらためて実感しつつ、少し身を屈めて口づける。単に触れ合わせるだけのものではなく、吐息ごと奪い去るかのような激しいものだ。さすがに驚いたのかビクリと身を引こうとして扉がガシャンと音を立てたが、逃がしはしない。彼の頭を押さえる手に力をこめながら、ますます深く、無理やり舌をねじこみ絡め合わせていく。どうしようもなく甘くてたまらない。舌を絡めるほどに、唾液を味わうほどに、ますます渇望が大きくなっていった。

 彼がこういうキスに慣れていないことはすぐにわかった。もしかすると初めてなのかもしれない。そう思うだけで頭がどうにかなりそうなほど高揚してしまう。もっと、もっと、衝撃を受けて一生忘れられなくなればいい。俺のことを意識せざるを得なくなればいい——。

 そのうち遥が肩に掛けていた鞄を廊下の床に滑り落とし、苦しげに腕を掴んできたので、山田は我にかえりようやく唇を離した。途端に彼は大きく息を吸い込んだ。その目は心なしか潤み、頬はほんのりと上気し、得も言われぬ色香をまとっているように見える。しかし。

「気が済んだ?」

 彼は濡れた口もとを手の甲で拭い、醒めた声でそう言うと、冷ややかに山田を見上げて畳みかける。

「相手の気持ちを無視して衝動的に行動するところ、相変わらずだね。あらためた方がいいよ」

 山田は血の気が引いた。呆然として何も言葉を返すことができずにいると、遥は落ちた鞄を肩にかけ直して山田の前からひょいと抜け出し、何事もなかったかのように平然と歩き去っていく。

「待ってくれ!」

 狼狽したまま、遠ざかる彼の背中に声を投げた。その足が止まったのを見て言葉を継ぐ。

「悪かった、どうしても俺のことを意識してほしくてつい……反省してる……」

「僕は、相手を尊重しないひとを好きにはならない。女でも、男でも」

 返ってきたのは遠回しの拒絶。

 ちらとも振り返ることもなく去っていく背中を見つめながら、山田は呆然と立ちつくした。追いかけたい気持ちはあるものの、足が縫い付けられたように動かない。やがて角を曲がり視界から姿が消えると、全身から力が抜けてその場に崩れ落ちた。

 目の奥が熱くなり、視界がぼやける。

 取り返しのつかないことをしたのだと思い知り、山田は膝を引き寄せ、そこに顔を埋めて大きく頭を抱え込んだ。無造作に髪をくしゃりと掴む。そのまま奥歯を食いしばりぎゅっと目をつむると、一粒の涙がこぼれ、白く冷たい廊下の床に落ちて砕け散った。

 


 
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