No.708826

2014伊達誕【大遅刻】

あんまり英語を喋らない梵天丸さんと馬鹿丸出しな弁丸さんで伊達誕なお話です。
サナダテ≒弁梵です。
ちょびっとだけ佐→小十。
前書き必読です。
大遅刻だけど筆頭お誕生日おめでとうー!!!

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2014-08-15 04:58:23 投稿 / 全12ページ    総閲覧数:826   閲覧ユーザー数:826

 

前書き

 

このお話は大体戦国設定です。大体です。大体。

史実公式入り混じりの大混線です。

捏造伊達家。捏造真田家。

弁梵です。

弁ちゃんと梵ちゃんの年齢差は公式。

梵ちゃんとお竺に時宗くんの年齢差は史実。

なので何故かお竺や時宗くんよりも真田さんの方が年下です。

公式と史実のおいしいとこ取り。

微妙に佐→小十。この人達も年齢下がってます。でも言うほど出張ってない。

それでも大丈夫!と言う方は次ページよりどうそ。

 

タグが微妙に嘘っぱちでごめんなさい…orz

まるっと一週間遅れですが、政宗様に謹んで献上致します(*´∀`*)

 

 

予感 1

 

 

 

 梅雨が明けて空は高く青くなり、そこに浮かぶ雲は大きく白くその形を入道と擬えられる程に育て上げていた。折しも蝉は忙しく鳴き、日差しは強く、北の大地に僅かばかりに太陽の恵みを齎せる時節になっていた。

 いくら寒々しい北国とて、真夏の、それも盛夏ともなれば暑さは一入で、梵天丸は未だに着替えもせずにだらだらと自室の日陰で伸びきっていた。

 母屋に続く廊下では侍女や側役がばたばたと忙しそうに動きまわっており、時折お東の方―母である義姫―が注意を促す声なども混じり、益々夏の喧騒が深まる。

 ――またか。

 怠そうに片目を瞑り―もう片方は既に瞑りっ放しなので―、はあ、と盛大な溜め息を吐くと、梵天丸はごろんと壁に向かって寝返りを打った。

 毎年毎年この時季になると家内が忙しく姦しくなる。

 それは偏に己のためだとは分かっていても、それでもほんの一年前にも満たない頃に疱瘡を患ってからの自分にとって、この賑やかしさは歓迎したいものではなかった。

 暑くてもきっちりと襟を合わせて夏物を着込み、頭から顔面の半分を覆う白い布は外せない。どうしてだ、何故だと泣き喚き、傅役である―片倉―小十郎を途方に暮れさせ、見た事のない程苦しい顔をさせて、そして、一番辛い役目を押し付けた。

 その結果の白布を。

 未だ外せないでいるのだ。

 侍医は既に傷は塞がっており、寧ろ外気に当てて乾燥させ日光による消毒を促しているのに。

 それでも、頑なに蟠った己の性根の深い部分でこの白布は自分を守る寄す処になっていて――。

 未だ幼い年頃だと言われもするが、武家の嫡男として生まれた己にとって、既にもう齢は六つになるのだ。白布と小十郎に守られ、剣術も兵法も漢詩も算術も書も。全てひと通りこなし、きっと同じ年頃の子どもよりは遥かに自分は秀でていると自負はあっても。それでも未だあの東の渡りを素直に歩けない。

 一つ年下の竺丸―弟―の、幼子特有の甲高く、けれども耳障りの良い朗らかな声が聞こえ、そこに父の、母の、家臣たちの笑い声が混じっていようとも、自分は進んであの東へ渡っては行けない。

 柔らかく美しく愛されて育まれる竺丸に、愛しいと思う反面、己の醜さを痛感させられるようで――。

 そんな事を思いながらも、埒もないと諦めのように鼻で笑って梵天丸はのっそりと身を起こした。

 日の当たらぬ室の奥で壁に向かってこつんと額をぶつける。

 どうせ、こうしてここで一人途方に暮れていても、明日になれば大勢の家臣と従属する近隣諸国の代表がやってきて、煩わしくも儀礼的な儀式と宴を催すのだ。

 父の偉大さを痛感しながら、その横で鷹揚に頷き、人目を気にして、避けたくとも避けられぬ上段で。

 侮蔑とも憐れみとも卑下とも取れる、好奇の目に晒され、そして殊更慇懃に祝いなど述べられて。

 考えただけで気鬱だが、それでもそれは逃げられぬ事なのだと、矜持だけは人一倍強く高い梵天丸は腹を括る。

 酒の席になれば己は下がる事ができるし、一時の事ではないかと。

 いつの日かこの北の名家を名実共に受け継ぐために。未だ幼名のままではあるが、そう遠くない日には、伊達某と名を戴き、遡れば藤原氏に連なるこの家を、領土を、守り更に強大に鍛え上げていくのは己だと。

 ただ只管にその思いで。

 梵天丸はじんわりと汗に濡れる額を壁から離した。

 

 

 

予感 2

 

 

 

 決心にも似た幼い心を、その心には余りにも深く膨大な気鬱を誤魔化すように、一度二度と深く呼吸をして落ち着かせていた梵天丸の耳に、微かに幼い子どもの機嫌の良さそうな声が聞こえてくる。

「ふふ、お竺は今日も元気そうだなァ……」

 東の館とこの室とはさしたる距離はないので、よく竺丸と母の侍女たちがきゃあきゃあと騒ぐ声も聞こえるのが茶飯事だった。

 その声にふふと、もう一度笑った梵天丸は、竺丸を心底愛しいと思っていた。できることならばこんな風に偏屈な兄としてでなく、正々堂々とお前の兄はこの俺だと、あの幼子の前で振る舞いたいと思うぐらいには。

 次男とはいえ彼も立派な伊達の男なのだ。いつかは初陣に立つだろう。その時、一軍を率いて将となるのは間違いなく弟の竺丸なのだから。だからこそ、兄として威風堂々と彼に全てを教え、伝え、己が父や兄のように慕う小十郎から手解きを受けたように、竺丸に対して愛情を注いでやりたいと思うのだ。

 思うのだけれど。

 武家の娘として姫として育った母は、愛情深く梵天丸を見守ってくれていた。この忌々しい病を得るまでは。

 生死の境を彷徨った後、泣き腫らした母を見た時には、心からこの方の子で良かったと思ったのだけれど。

 けれども、己の命と引き換えにした右目が役に立たぬと判明してからは、彼女の愛情は全て竺丸へと向かい始めてしまったのだ。

 梵天丸はさもありなんと、幼心に思いこそすれ、容量のごくごく狭小なその器では、賢さ故に悟ったつもりのその気持ちも、溢れ出るまでには然程の時間もかからず。

 遠くなった母と子の心の距離は、こうして梵天丸の足を東の館に向かわせないと言う、物理的な距離としても如実に表れたのだった。

 その結果、梵天丸は己でも嫌気が差す程自分の性根が頑なである事も、竺丸に対して愛憎に近い感情を持ってしまう事も、全て全て、理解しつつもどうにも出来ない事へ苛立つうような、焦燥を感じるような、けれども一つしか違わぬ竺丸と己との差を見て気が沈むような。未だ幼い梵天丸には少々荷が勝ちすぎていた。

 そうして思い巡らせつつ、機嫌の良さそうな幼い声を聞くともなしに聞きながら、やけに騒々しいなと梵天丸はその賑やかしさを聞き咎めた。

 ひそっと細い眉を顰ませて、耳を欹てる。

 すると、まるで梵天丸が聞き耳を立てたのを感付いたかのように、今度は賑やかしさが静まる。何だ? と思い、瞑目して神経を集中させれば、普段通りの様子で、梵天丸は自分が神経過敏になっていたせいかと、余り考えずに片付けようとした。

 いつでも賑やかな東の渡りに気を取られるなんて、と梵天丸は僅かに己を叱咤して、さて今日はどいつもこいつも明日の準備に気忙しそうで、気晴らしに剣の稽古でもするかと立ち上がった所で相手になる者もいないだろうと、座したまま梵天丸は再び途方に暮れた。

 相変わらずその姿勢は一人物言わぬ壁に向かったままで。

 梵天丸は凡そ自覚はないようであるが、案外ぼんやりとしたところもあり、元の気性は苛烈とも思えるものだが、そこに病を得てからの引っ込み思案や頑なさだとかが取り付き、一人物思いに耽る事もあったりで、些か家臣や近しい者―特に小十郎など―は、「梵天丸様は賢いが少々間が抜けたところもある」と、口にはせずとも思われているのだ。それは彼の可愛らしさにも繋がるので、微笑ましいと思われてはいても、敢えて言う者もいないのだが。

 さて、そんな梵天丸が無自覚にも物思いに耽り、しょうがない余り気が進まないが本でも読むかと、気を取り直しそうなところに、すぱん! と大層威勢よく背後の障子が開かれた。

 何事かと思わず懐の小刀に手をやって振り向けば、見たことのない子どもが零れ落ちそうな目を更に見開いてぼけっと突っ立っていた。

 この屋敷で見かける自分以外の子どもと言えば、竺丸と同じく一つ下の従兄弟である時宗丸が遊びに来ている時ぐらいで、こんな子どもは見たこともないと、梵天丸は片目を見開いた。

 それからすぐに片目を眇めると、突っ立っている子どもの頭の天辺から足の爪先まで不躾に眺め遣り、ふんと鼻を鳴らした。

 見たところ時宗丸や竺丸よりも年下そうな子どもを、梵天丸はにべもなく見下したのだ。相手にする価値もないと。

 それでもその子どもは物怖じもせず、両手を開け放ったままの形で障子についたまま、にっこりと梵天丸に笑いかけた。

 普通ならばこの屋敷でこの姿を見て、凡そこんな風に何の衒いもなく笑いかける輩など、終ぞ見たこともないし、そもそもそんな風にしてくる者もいない。それが当たり前であり、次期当主に対する周りの扱いであった。

 まさかこの家で、己を知らぬ者など、と梵天丸はこの子どもの笑顔に受けた衝撃とその小さな胸に走った動揺を何とかひた隠し、「どこのガキか知らねェがここはテメェみたいなモンが来ていい場所じゃねェ」と手をかけたままだった短刀の柄を抜き、鞘に収めたままではあるが、その鋒をにこにこと笑う子どもに向けた。

 すると、子どもは、おお! と感嘆の声を上げ、「立派な短剣でしゅな!」と更に破顔した。「しゅな!」と発音されたそれに、梵天丸は柄にもなく吹き出してしまい、慌てて体裁を整える。

 きらきらと大きな瞳を輝かせてその子どもは恐れもせずに梵天丸が威嚇のために差し向けた短剣に近寄り、「しょれがしのは兄上のお下がりでごじゃる」と再び言葉の端々に幼さを滲ませて、ほら、とでも言うような気安い所作でぽんぽんと表現したらしっくり来るような腹から、なるほど、些か草臥れた感のある小刀を、うんしょと掛け声付きで引き抜き梵天丸に差し出した。

「きでんのは立派でごじゃるなあ」

 羨ましげに言いながら、その子どもはそろっと梵天丸の構える短刀の鞘に丸い指に笑窪のある手を乗せて、そっと撫でるようにした。

 幼さをふんだんに含ませたその言葉遣いと、ふくふくとした手に、梵天丸は父から譲り受けた大事な短剣だと言う事も忘れて、好きに触らせてしまっていた。いいなあ、いいなあ、と零す子どものその笑顔に囚われているなどと微塵も気付かずに。

 そもそもこんなにはしゃぎ立てる子どもが足音もなく近付く訳はなく、梵天丸は大袈裟に障子が開かれるまで物思いに耽り、気付かなかった自分にも呆れ返っていたのだけれど。

 それから、幼い声で羨望を一頻り述べた後、その子どもは短剣を握る梵天丸の手に、温かく柔らかい手を乗せてきた。

「きでんの手も、きれいでごじゃる」

 そっと腫れ物にでも触るように小さな指が梵天丸の手を撫でて、その感触に漸く梵天丸ははっとした。

 俺は何をぼーっとしていたんだと、俄に自分の頬が熱くなる思いで。

「テメェ! 気安く触ってんじゃねェ!」

 弟よりも小さな子どもに好き放題させていた自分への不甲斐なさと、何故か見惚れてしまった天真爛漫とでも言うような笑顔と、触れてきた一つの悪意もないその小さな手への、表現のしようがない気持ち。それから、それら全てをひっくるめて募った羞恥を誤魔化すように、振り払うように、梵天丸は殊更語気を荒らげた。

 そうしてどうやら相手は怒っているらしいと気付いた子どもは、それでもきょとんとして、ぽてっと小首を傾げた。

「む? 姫御がそのような言葉じゅかいは、感心致しませぬじょ」

 大きな瞳の上にちょこんと乗っかる、あと何年か育てば凛々しくなりそうな眉を寄せて、憤慨の表情を作った子どもに、梵天丸は隻眼が点になりそうになった。

 この子どもの言葉をそっくりそのまま理解するのなら、この子どもには自分は女に見えていると言うことだろうか。

 そう思うと、俄に火照った頬が更に血の気を増すのが分かった。

 ぶるぶると細い肩は震え、秀麗な眉が最上限まで引き攣る。

 確かに、自分は気性も見た目も母である義姫に似ているのかも知れない。こんなに綺麗な子どもは見たことがない、美しい子だと、それはそれは大変持て囃されたのも、記憶に新しい。ただ、それはあの忌々しい病を得るまでだったが。

 父ですらゆくゆくは見目麗しい若武者になるだろうなどと、凡そ武人には必要のない事で喜びを表していたのだから。

 だから、梵天丸にも僅かには自覚はあったのだ。

 己の見てくれは些か不甲斐ないのではないか、と。

 それを、不躾にも声もかけずに乱入して来た年下の子どもにまで言われ、梵天丸の矜持は酷く傷ついた。

「竺丸殿の兄上は姉上だったか」

 と、意味の分からない理屈にうんうんと一人で納得している目の前の子どもに、梵天丸の生来の勝ち気な気性が燃え上がる。

「テメェ! ふざけんな! 竺丸に姉なんざいねェ!」

 喚く梵天丸に再び目の前の子どもはきょとんと小首を傾げた。

「ならばきでんはお客人か?」

 明後日の方向の答えを返す子どもに、梵天丸は堪らずその襟元を引っ掴んだ。

「テメェ、よく聞けよ。俺は竺丸の兄だ。その足りない頭によく刻み込んでおけ!」

 ぺっと唾棄するようにして子どもの胸ぐらを突き放すと、梵天丸は握り締めていた短剣を己の懐に仕舞い込んだ。

 梵天丸に胸ぐらを捕まれ、ぎゃんぎゃんと吠え立てられた子どもは、驚きの表情をしていたが、泣くでもなく、手放された瞬間には、にぱっと再び笑顔になり、ならばきでんが梵天丸殿か! と、それはそれは大変嬉しそうに話しかけたのだった。

「さようかあ、でもなあ、梵天丸殿は美しいなあ、竺丸殿が仰っていたよりもうんともっとずっとかわいらしいな」

 何をどう聞いたのか、えへっと照れたような顔でそう零す目の前の子どもは、片手にあのお古の短剣を握り締め、もう片方の手で、成長とともに多少ふくよかさの取れてきた梵天丸の頬をふよふよと撫で擦る。

「ふわ~! つるつるでごじゃる」

 ぽやーっと頬を染めた子どもは、梵天丸の柔らかな頬をひと撫でふた撫でとして、きゅっとあの大きな瞳を細めた。

「竺丸殿は兄上は気難しいと仰っておられたが、ふふ、梵天丸殿は美しい方でごじゃったな!」

 一人で喋り、好きなだけ梵天丸の頬をなぞり、ひと通り納得したのか、ふにゃんと細まった瞳を再び大きくさせて、ちゅぎは、しょれがしの短剣も見てくだしゃれ! と今までの流れをすっかり忘れ去ったかのような態度で、両手で梵天丸にあの古びた短剣を差し出して、その子どもはにこにことしだした。

 怒鳴り散らした挙句、気にも止めていないと言う風体のこの子どもの調子にすっかり乗せられて、梵天丸は草臥れて片膝立ちだった姿勢をどっかりと胡座にした。

 心内では、竺丸と何を話したんだとか、大体この子どもはどこのどいつなんだとか、こんなチビに何で好き放題させてるんだとか、本当に色々と思うのだけれど、けれども、小さな柔らかい手で自分の頬を撫でられて、梵天丸は再び頬を朱に染めるのがやっとだった。

 言葉も儘ならないこんな子どもに、世辞にもならないような言葉を投げかけられて、それがまた日頃梵天丸には凡そかけられない類の、声の、表情の、それを通して伝わる心情の、裏表のなさに――。

 悔しいのに、何だか何とも言えない気持ちにもなって。

 それでも梵天丸は梵天丸だった。

「テメェいい加減名乗れ」

 居丈高にそう言って梵天丸は胸を反らせた。

 その言葉にはっとしたような表情になった子どもは、捧げ持っていた短剣を下ろして自分の脇に避けると、慣れない仕草で胡座をかき、梵天丸に平伏した。

「しょ、しょれが、しょれが? 某は信濃の国上田が領主、しゃな、真田ましゃゆきが次男、弁丸と申しましゅ」

 所々どころか、全体の八割ぐらい辿々しいが、そう名乗った子どもに、梵天丸はふーん、と鷹揚に頷いた。

 真田って言ったら武田の家臣じゃねェかと思うが、この子どもには未だ関係ないだろうと。

「弁丸」

 梵天丸が声をかければ、にぱっとあの爛漫な笑顔を上げて、なんでごじゃろうか? と幼く答えてくる。

「何でお前がここにいる」

 梵天丸がそう尋ねれば、にこにこしたまま、「はい! お館様の、みょ? みょう? みょーだい? で父上と参りました!」と、そのあやふやな内容とそぐわない程きっぱりはっきり元気丸出しで答えが来て、梵天丸は俄に笑いが込み上げてくる。

 そして思わずぶふふ、と吹き出した梵天丸に、弁丸は疑問符を大量に頭上に掲げてその顔を見上げたが、その次の瞬間には大量の疑問符は瞬く間に消え去ってしまった。

 ふおおお! と意味不明な唸り声を上げて、弁丸はかーっと自分の頬が赤くなるのを自覚した。

 今まで上田の持城と父や兄に無理矢理ひっついて行く武田の館ぐらいしか出歩いた事のない弁丸は、自分と同じ年頃の子どもとは無縁で―兄は別として―、幼い時から傍にいる佐助という忍も年が上で、たまに城下で町の子どもと触れ合っても、楽しいと思いこそすれ、こんな気持ちになった事はないのだ。

 城下や、近隣の野山の村落で出会う子どもたちを見ても、こんな風には思わない。犬や猫や小鳥や、赤子や自分よりも小さな子に思うのとは全く違っているけれど、言葉にしたら同じこの気持ちを。

「かわいい!」

 思わずそう叫んで、弁丸は梵天丸に抱きついた。

 それに驚き目を白黒させたのは梵天丸の方だった。どう考えてもこの場合弁丸は梵天丸と同じ位置には並べない身分だし、かなりの無礼者だ。

 しかも事もあろうか、可愛いだなどと、凡そ武家の嫡男には不釣り合いな暴言を曰い、あまつさえ抱きつくというこの暴挙。

 かっと梵天丸の頬と矜持に火がついた。

「無礼者!」

 容赦なくぴしゃりと弁丸の狼藉を窘め、振り落とす。振り落とされ、幼子特有の身の軽さと柔らかさでころころと転げた弁丸を追いかけ、梵天丸はつかつかと歩み寄ると、その右手を振り上げた。

 びし! と厳しい音が響く。その後、二度三度とびし、びし、と打ち据える音が響き、尻もちをついて意味が分からないと言った顔の弁丸の頬が赤く染まってゆく。そうして、もう何度目か分からぬその苛烈な音に、ひいいいぃぃぃっく! と盛大にしゃくり上げる音が混じった。

 ぎゃああん! とも、うわあん! とも言い難い声音が室の中に響き渡る。ぎゃー! と大声で泣き始めた弁丸に、漸く自分が幼子にするには手厳しすぎる仕打ちを施したのだと悟った梵天丸は、じんじんする手を収めたが、まさに火がついたように泣き喚く弁丸にほとほと困り果てて、打ち据えて弁丸の頬と同じくらいに赤くなった右手を左手に隠してどうしようと、顔が青褪めるのを感じる。

 俄に困った気持ちで梵天丸が右往左往していれば、ととと、と軽い足音がして何事ですかと、見たことのない赤毛の従者らしき者が現れた。

 開け放たれたままの障子越しに控えたその少年に、梵天丸は誰でも何でもいいからこの煩い子どもをどうにかしてくれと言う気持ちで、目を向けた。

 そうすると、泣き喚いていた弁丸が、ぴょこんと起き上がり、「しゃしゅけえええ!」と障子越しの廊下で控えた少年に抱きついて、更に大声で泣き喚く。

 そのうちに余りの大声に聞き咎めたのか、傅役の小十郎まで現れて、何だこれはと言うような顔で梵天丸を見遣る。

 更に東の廊下からは侍女たちの声が聞こえて、あらあらまあまあ、と母まで現れる始末で、梵天丸は苦虫を何十匹も噛み潰したような顔で俯いたのだった。

 

 

 

予感 3

 

 

 

「そなたは、些か気性が激しすぎまする」

 ぴしゃっと言い置かれ、梵天丸は俯いていた顔を更に下げた。

 隣では未だに「しゃしゅけ、しゃしゅけ、」と少年の名らしきものを嗚咽の合間に混ぜながら赤毛の少年に縋りつく弁丸がいて、目の前で自分に説教をする母の隣には気の毒そうな顔の竺丸がいる。更に言えば己の背後には申し訳無さで出来上がっているのではないかと言うような様相の小十郎が控えていた。

 針の筵とは正にこの事だな、と梵天丸は上座から振りかかる小言に反省する振りで心内で舌を打った。

 あんのクソチビめ! あんなに大声で泣き喚くんじゃねェよ! 自分のした容赦無い仕打ちを棚に上げて、梵天丸は隣でひっくひっくとしゃくり上げる弁丸に鋭い視線を向けた。

「聞いているのですか、梵天丸!」

 こんなに小さな子にとか、もう少し情けの心をお持ちなさいだとか、一頻り高説を説き、それでも未だ言い足りぬのか、それとも梵天丸の内心を察したのか、厳しい声が母から上がる。

「明日はそなたの誕生日ぞ。それを祝いにきやったお方のご子息を、このように打ち据えるなど、……本当に、母は悲しゅうて仕方ない……」

「そなたは本当にこの母の心を分かってくれているのかえ? お竺はこんなにも心優しいというのに……のう、」

 母の横に控える竺丸に母は愛しそうに目を遣り、そっとその頭を一つ撫でた。

 気不味そうに、はあ、と相槌を打った竺丸が、目だけで「兄上申し訳ない」と伝えてきて、梵天丸は「構うな」とひっそりと笑ってやった。

 母の気持ちはよく分かる。母の言い分も最もだ。しかし、こうして叱られるたびに竺丸を引き合いに出しては、梵天丸には当主の自覚も資格もないと言外に告げられているようで……。それが梵天丸には居た堪れない。

 そうして、長々と母の説教を聞く素振りで、この後小十郎の小言かよと、梵天丸が眉を顰めていれば、母の侍女がそっと襖を開けて「殿のおなりでございます」と告げてきた。

 まさかこの期に及んで今度は父からも説教かと、この世の終わりのような気分になった梵天丸だったが、談笑しながら近付く父ともう一人聞き覚えのない声に、不思議に思いながらも姿勢を正した。

「入るぞ」

 短く告げてがらりと襖が開けられる。

「さ、入って下され」

 機嫌の良さそうな声で父が促せば、何やらあの弁丸を万倍も知的に逞しく、大人にした様子の男が、「これはこれは、皆様お揃いで」とやや気恥ずかしげに足を踏み入れた。

 めそめそとあの赤毛の少年にしがみついていた弁丸がその声を耳聡く拾って、「父上!」と破顔する。

 泣き腫らして真っ赤な瞼に鼻の頭。鼻水の跡までそのままに、ぎゅっとその男に抱きつくと、これ、弁丸、と窘めるような声がかかる。

 その様子を眺めた梵天丸の父が、ははは、と笑い「よく懐いておられる」と気にも留めない口振りで母の隣に腰を下ろした。

「は、我が子ながら未だ幼さの残りがございまして、お恥ずかしゅう……」

 そうやって、弁丸の頭を撫でた男が、輝宗―梵天丸の父―殿のところは、ご立派なご子息で羨ましい、と常套句とも言える言葉を放てば、いやいやまだまだ二人とも幼くて、と父も照れたように返す。

 それに気勢が削げたのか、母の小言も収まり、梵天丸にとっては計算外の助け舟になったと思い、ほっと小さく安堵の息を吐けば――。

「して、お前はまた泣いたのか」

 笑い含みに誰がどう見ても泣き面の弁丸を抱えた弁丸の父―昌幸―が我が子の顔を覗き込めば、ずびーっと盛大に鼻を啜った弁丸が、ごしごしとその着物の袂で顔を拭い、「泣いてなどおりましぇん!」と空元気の大声を張り上げた。

 きいんと、耳鳴りがしそうな程のその大声に、室の中にいる弁丸以外の全員が一瞬眉を顰めて耳を塞いだが、当の本人はけろっとしたもので、梵天丸殿と遊んでおりました、と気丈にもそう答えたのだ。

 それを聞いて心底意外な気持ちで梵天丸が弁丸を見遣れば、な! と初対面の時に見せたあのにこやかな笑顔で振り返ってきて、とことこと梵天丸に近寄ると、「しょれがし、梵天丸殿と仲良く致しとうごじゃる」とあれだけ打ち据えられたにも関わらず再び梵天丸にぎゅうと抱きついてきた。

 それに顔を青くさせたのは黙って控えていたあの赤毛の少年で、「ちょ、弁丸様!」と小声で窘めたが、輝宗は大層満足気に頷くと、「弟がもう一人だな」と朗らかに笑ったのだった。

 これでは誰も弁丸の無礼を無礼とも言えず、あの母でさえ、梵天丸にこんなに懐いてくれるなんて、良いお子じゃのう、と昌幸を褒めそやし、多少慌てた昌幸にも安堵を齎せ、弁丸は当然無罪放免な上に、梵天丸に対しての放埓を許されたも同然であり、背後に控える心配症の傅役にも内心で「これで漸く梵天丸様にも友が増えた」と僅かに安心感を与え、青褪めたあの赤毛の少年には、何卒よろしくお願い致しますと平服され、竺丸にも兄上の弟ならば私にも弟ですなと微笑まれてしまえば、どう考えても分が悪いのは梵天丸で、梵天丸は忌々しげに己の首根っこにしがみつく弁丸に対して、じろりとその隻眼で睨めつける事ぐらいしか出来ないのであった。

 助け舟かと思ったその時間は、梵天丸の思いも及ばない方向へと転がってしまい、首にしがみつく弁丸は無視して梵天丸は顔を上げた。

 そして、それを見計らったように父輝宗が言を放つ。

「伊達の嫡男としての矜持は良い。矜持は高くあれ、伊達家の当主として鷹揚にせよと、確かに儂は教えた。だがな、梵天丸。お主と然程年も変わらぬ、いや寧ろ竺丸よりも年下の子どもを相手に身分の上下など無きも等しきこと。詮無いことよと儂は思うぞ。なあ? 梵天丸」

 優しさの中に厳しさの光る双眸で見つめられ、梵天丸はぐっと詰まった。父の言う事は反論の余地もない程正しい。

 自分だって分かってはいるのだ。こんな齢四つ程度の子どもに、上座も下座も無いのだと言う事ぐらいは。けれども、この子どもには何故か振り回されてしまい、それが悔しい。そして、この子どもが先刻の出来事同様に、こうして己に懐くことが、嫌ではないのも、もどかしい。歯痒い。この気持ちをどう表現していいのか、どう例えればいいのか。

 梵天丸にはそれが分からない。あの何の衒いもない顔で笑いかけられて、裏も表もまるっきりないような風情で話しかけられ、接して来られては、困るのだ。面映ゆくて、――恥ずかしくて。

 今も伝わるその温々とした体温も、ふわふわと未だ幼いままの体つきから生まれる柔らかさも。その全てが梵天丸にとっては未知のものだった。

 あの手で、言葉で、笑顔で、梵天丸の全てを肯定してくるような、あの態度が。表情が。声音が。辿々しく幼い言葉で告げられる真実のみだと思わせる飾り気のない言葉に、梵天丸の頑なな性根が過剰に反応してしまうのだ。

 だからこそ、それら全てを処理しきれずに、どうしていいのか分からずに、梵天丸は必要以上にこの子どもに厳しく辛く当たってしまった。

 己の不甲斐なさと情けなさに梵天丸の頭が弱々しく垂れ下がる。

 それを見て、昌幸が口を開いた。

「元々を正せば、某の愚息のせいゆえ。幼いからと言って分も弁えず伊達家の屋敷内を闊歩した挙句、ご嫡男の私室にまで踏み込み、なおも無礼な真似を致したのは、弁丸の方でござる。これも偏に某の教育の至らなさゆえ……。叱るならば弁丸とその親である某をどうぞ、打ち据えられて下され」

 そう言って深々と輝宗に頭を下げた昌幸を、梵天丸の首に手を回したまま弁丸はじっと見つめていた。

「父上……、しょれがしのせいでお手打ちか……?」

 じわじわと、漸く喜色の戻った大きな双眸に再び涙の膜を張り詰めて、弁丸が心許なげに言葉を発する。

 それを見ていた梵天丸の母―お東―が袂で目元を拭いながら弁丸や、と殊更優しげに声をかけた。

 はいと、涙を堪えて震える声で返事をした弁丸に、近う寄れと手招いたお東は、手打ちになぞなるものですかと、弁丸を慈しむようにして抱き締めた。

「悪いのはそなたの頬をこんなにした梵天丸じゃ」

 痛々しげに腫れ上がった弁丸の頬を繊細そうな指先でそっと撫でたお東は、「昌幸殿も面を上げて下さいな」と声をかけた。

 畏まって「は」と一言発して頭を上げた昌幸に、輝宗が笑いかける。

「喧嘩両成敗じゃ。未だ道理も分からぬ弁丸に、同じように道理の通じぬ我が子じゃ。儂の顔に免じて許してやってはくれぬか」

 そう輝宗が告げれば、許すなどと滅相もない、と再び昌幸の頭が深々と下がる。

 そして、安心したように弁丸がお東に尋ねる。

「お方様、父上はお手打ちにならぬのか?」

 その幼い声にお東はにっこりと微笑んで頷く。

 それを見た弁丸も、ぱっと晴れやかな顔で、頭を下げる昌幸の隣へ並び、同じように姿勢を正し、深々と頭を下げた。

「ありがたき幸せでしゅ」

 ぺこんと幼く頭を下げた弁丸に、輝宗とお東は「中々律儀で潔い」「男気がある」「将来が楽しみだ」と口を揃えた。

 その様子を何も言えずにただ見ていただけの梵天丸も、何やら本当に胸が打ち震えるような気持ちになってしまって、この数年程は雨に濡れる以外に濡れた事などなかった左目がじわっと熱を帯びてくるような気がして、そそくさと俯いた。

 あの幼い子どもの誠実そうな面構えに、出来たはずなのに、告げ口もせず、何事もなかったかのように、誰にも何も言わせない気付かせない素振りで、自分を、「梵天丸殿と遊んでいた」と庇うような真似を―本人は意識などしていないだろうけれど―してみせたあの子どもに。自分のした事を深く恥じ入るような気持ちになる。

 そうして梵天丸が内省を深めていれば、さて、と輝宗の声が上がる。

「梵天丸、お主の方が弁丸よりも年上じゃ。分かるな? だからと言って何も全てを我慢しろと言うわけではない。だがな、」

 そこで一呼吸置くと、未だ己の父に倣い頭を下げたままの弁丸を呼び、輝宗は己の膝に抱き上げた。

「見ろ、梵天丸。この弁丸の顔を。これは間違いなくお主がしでかした仕打ちじゃ。弁丸をここまで酷く打ち据える程の事をお主にしたのか? 儂にはとてもではないがそうは思えん」

「分かるな?」

 父の言葉に梵天丸は重々承知だと深々と頷いた。

 そしてぐっと腹に力を籠めると、頭を下げたままの昌幸に向かって梵天丸は向き直ると深々と頭を下げた。

「ご子息に、手荒な真似を致して申し訳ありません」

 梵天丸の震える唇は、それでも、生涯初めてである謝辞を淀みなく伝えた。

 そしてすかさずに、己の父に向き直ると、失礼すると一言かけて父の眼前にしゃがみ込んだ。

「弁丸、俺を、許せ」

 簡素で素っ気ない、けれども梵天丸の矜持の高さや気性の烈しさからすれば、それでも精一杯の言葉を、赤く腫れ上がった弁丸の左頬を撫でて告げたのだった。

 梵天丸に撫でられて、無性に嬉しくて、きゅっとその大きな双眸を狭めた弁丸は、ぴょんと抱えられていた輝宗の膝から降りると、某こそ申し訳ごじゃらんと、再び平身低頭として梵天丸に頭を下げた。

「ははは、これで仲直りだな」

 その様子を見守っていた輝宗がその場の雰囲気をがらりと変える調子で笑い、昌幸殿ももうお手を上げて下されと、これでこの話は打ち切りとばかりに、あちらで酒でもなどと言いながら立ち上がった。

 それにつられるようにして、お東も立ち上がり、もう一度弁丸の頭を撫でると、梵をよろしく頼みますぞと、一瞬梵天丸が耳を疑うような事を告げて、お竺や、と口癖のようになっている言葉で竺丸を呼び付けて東の母屋に去って行ったのだった。

 

 

 

予感 4

 

 

 

 漸くその場の空気が穏やかになって、はーっと盛大な溜め息を吐いてどっかりと膝立てて座り込んだ梵天丸に、ごほん! と態とらしい咳払いが聞こえた。

 しまった忘れていた! とばかりに、一番面倒臭いのが残っていたと、盛大に顰めっ面をしてみせれば、「さて、それはどういうご心境ですかな」とゆらりと何やら不穏な空気を纏って今の今までずっと黙と徹していた小十郎が躙り寄ってくる。

「そのままで結構」

 思わずしゃんと胡座をかきそうになった梵天丸に、小十郎は小さく応えて、ですが、と言葉を繋いだ。

 余りの迫力にか、梵天丸の傍で座していた弁丸も意味も分からず梵天丸の隣に正座で並んで、神妙な顔をしだす。

 と、それにぶふっとこの場に似つかわしくない音を立てたのは、先程から梵天丸が訝しむあの赤毛の少年だった。

 じろりと小十郎がそれを見咎めれば、いや、すみません、どうぞ続けて続けてと、そそくさと手で押しやるような所作をして、ずずっと下がる。

「佐助! 邪魔をしゅるな!」

 今度は比較的まともな発音でその名を呼んだ弁丸は、今までとは打って変わって主然とした態度であの少年を窘めた。

「すみません」

 ちっともすまないと思っていない素振りでぺこっと頭を下げた少年は可笑しそうに微笑んで。

「おい、誰だアイツは」

 何だあの野郎と、梵天丸がそっと弁丸に耳打ちすれば、それが擽ったかったのか、うひひと変な笑い声を立てたので、まるっきり手加減して好き放題に跳ねている茶色い癖毛頭を小突けば、「あれは佐助でしゅ」と酷く不明瞭で明瞭な答えが返ってくる。

 名前は佐助と言うのだろうと言う事は先程からの顛末で言われずとも分かるが、梵天丸が聞きたいのは、「そうじゃなくて」と四百年程後になってから定番になりそうな身振りで荷物を横に退かすような仕草をしたくなる。

 それを見越したのか「あ、俺様佐助。猿飛佐助ってゆーの。弁丸様の傅役? みたいな? 本業は忍なんだけど~。あはは~。そんな感じで、ま、以降お見知り置きを~」と、この時代にしては軽すぎるのではないかと思う程軽い口調で赤毛の少年は曰った。

 むかむかと意味もなく腹立たしい喋り方だと思い、梵天丸が歯軋りしていれば、猿飛、少し黙れと、低く唸るような声がして、梵天丸と弁丸は思わずお互いに抱き締め合った。

 びびびっと背筋に雷が走るようなその唸り声に、お互い意図せずに寄り添う。

 ちらりとその声の方を見れば、小十郎が落ちてきそうな前髪を右手で押さえているところだった。

「これはヤベェぞ。お前大人しくしとけ」

 この状態の小十郎の手厳しさを、面倒臭さを隅々まで理解している梵天丸は握り合った手の持ち主に、そっと忠告した。が、答えたのは余りにも空気を読まない溌剌とした声音だった。

「はい!」ときらきらの笑顔で答えた弁丸は、先程から梵天丸の態度が出会った当初よりも親しげで、嬉しくて浮き足立っていた。言われた言葉の理解すら追いつかず、梵天丸に言われた事にはその元来の性格を遺憾なく発揮して、殊更素直に是の答えを、これまた生来の気質のままに、元気一杯はっきりと答えてしまったのだ。

 ちっ! と盛大に舌打ちした梵天丸に、なあに? とでも言いたげな様子で弁丸が首を傾げれば、お前本当に馬鹿……と、梵天丸が肩を落とす。

 それに対して、ええ、なぜでごじゃるか、どうしてでしゅか、と懸命に縋る弁丸に、佐助と名乗った赤毛の少年は再び吹き出し、落ちてきそうな前髪をきりきりする胃痛を堪えながら撫で付けていた小十郎でさえも、ふ、と笑ってしまって――。

「まあもう、お二方ともそれぞれの父上から有難い教訓を得た事ですし、お分かりになったでしょう」

 本来ならばこの十倍は続く小十郎の小言が、たった一言で済んだ事に梵天丸は目を丸くした。

 何時もならば足が痺れて立てなくなるまでは、続くのに、と。

「殿も、お方様も、真田殿も、あのように仰られるのはお二人を思えばこそです。今後は梵天丸様はもう少しお優しくなられ、また、弁丸様は礼儀を重んじる方になられると、そう、小十郎は信じておりますれば。お二人がそのように育って頂ければ。これ以上嬉しい事はございません」

 短くも、幼い二人が時間の経過と共に忘れてしまいそうだった事を再び引き合いに出して、小十郎は釘を刺し、二人の反省を促す事も忘れはしなかった。そこには深い親愛と信頼と期待を籠めた声音が響いており、幼い二人の小さな胸にいつまでも残るようだった。

 そして、小十郎にしては珍しく幼い二人を安心させたかったのか、にっこりと微笑み、そろそろ八つ時ですなと、暗にお小言は終わりだと教えてくれる。

 それを見てえっ、えっ、と不可思議な声を上げて狼狽えたのが佐助だった。普段はその生業の性からか、顔色一つ変えなければ表情一つ変えない事も造作も無い彼にしてみれば、それはそれは大変珍しいぐらいに素で動揺も露わにしていて、普段そんな佐助など見た事もない弁丸を大層驚かせた。

「佐助! お主顔が変だじょ!」

 そんな事は言われなくても分かってるんですよと、佐助が頬を薄紅に染めて弁丸に抗議すれば、にゃはは! と弁丸は無邪気に笑い声を上げる。

 そして、弁丸に笑われている事などお構いなしと言った風情で、佐助が言を放った。

「あの、あなた、お名前何て言うの」

 そろっと近寄ってきた佐助に、先程子どもたちに見せた笑顔なぞ一寸とてありませんでしたとでも言いたげに、表情を強ばらせたのは、小十郎だった。

「ねえ、教えて」

 頬を染めて吊り気味の、しかし蠱惑的な赤茶色の目で見上げられて、小十郎は些か困った風に漆黒の、ともすれば凶悪にさえ見える切れ長の目を逸らせた。

「俺様、さっき、言ったでしょ。佐助。佐助って呼んで」

 小十郎があからさまに困惑していても、お構いなしにその瞳を追いかけて、己の名前を聞いてくるこの佐助と言う少年に、僅かに年上である小十郎は頬が熱くなる思いで、鬱陶しい! と佐助の胸を押し返した。

「そんなに近寄らなくても聞こえるし、知っている」

 はあ、と何故だか分からないけれど詰めていた息を吐き出して、小十郎はきっと少年を睨んだ。

「あーいいねー。その顔。凄いいい。んで、名前は?」

 平坦な抑揚でそう言うと、佐助は再び小十郎に名前を尋ねた。

 何がいいのかさっぱり分からないが、小十郎はこの得体の知れない緊張感と同じように得体の知れない少年から離れたくて、簡潔に名前を名乗った。

「片倉小十郎だ」

 左頬の傷もいいね~。今気付いたケド。凄いいい。何度目か分からない「凄いいい」を飄々と口にした後佐助は「片倉さん? 小十郎さん? どっちでもいい?」と嬉しそうな様子で教えてもらったばかりの相手の名前を反芻した。

「どっちでもいい。何でもいいが、呼ぶな」

 小十郎も何がどうしてこうなったんだと、追いつかぬ頭で返事をしてしまい、聞いている子どもたちですら、「小十郎、それ何言ってるか分かンねェよ。日本語でOK.だぞ」などと突っ込まれる始末で、かーっと頬に熱が集まる。

 そこへ来て弁丸は「おっけーとはなんでごじゃるか」と生来の好奇心の強さを発揮してくるので、もうそこは混沌とし始めてきて――。

「お前、おっけーじゃねェよ。Okayだよ」と、梵天丸が弁丸に兄貴風を吹かせれば、「おう? おうけぇい?」などとこちらも全く馬鹿丸出しで弁丸が縺れる言葉と格闘して、そのたびに違うそうじゃねェと梵天丸がこれ見よがしに流暢に南蛮語を発音すれば、弁丸も負けじと、おぅ? おぉぅ? おぉぅけぇい? などと言いながら出来もしない言葉の発音を試みたりして。

 その様子に梵天丸が吹き出して馬鹿笑いすれば、その笑顔が大好きな弁丸も自分が笑われているなどとは露程も思わず、一緒になって笑い出す始末で。

 どうしてこうなったと、そればかりが小十郎の脳内を巡るが、その原因を作ったあの赤毛の小僧、もとい、少年を睨んでみても、片倉さんかーなどと夢見るような瞳で遠くを見据えて己の名を繰り返していて。

「猿飛、」

 子どもたちの暴走を止めねばと、本当に不本意ながら小十郎が佐助に声をかければ、ん? なあに? と、きっと多分そんな風にされれば大抵の男も女も靡くだろう笑顔で返されてしまい、小十郎は一瞬うっと詰まってたじろいだが、そこはそれで、元来生真面目な上に梵天丸至上主義なので、とにかく今はこの事態を収束せねばと、そんな風にする必要は無いのは重々承知の上で、敢えてきりきりと己の眦を吊り上げた。

「オメェんとこの弁丸様(くそがき)を何とかしろ!」

 あ、ちょっと、今、心の声も聞こえちゃいましたよ~? と佐助にうふふと笑いながら、まあそう言いたくなる気持ちも分かるけどねーと至って普通に返されて、小十郎は些か拍子抜けしてしまった。

「と、とにかく、ここは客間だ。梵天丸様の方へ渡る」

 そう告げた小十郎は、梵天丸様、とやや強い調子で呼びかけた。

 それに気付いた梵天丸が、何だ、と笑い声に紛れて返せば、ここはもう用がございませんでしょう、そろそろ八つ時ですしご自分のお部屋へ、と小十郎は元来の真面目さで慇懃に告げる。

「そうか」

 と、これまた様式美のように鷹揚に頷いた梵天丸も、だがしかし小十郎に逆らうような素振りは見せず、分かったと言うなり弁丸に告げた。

「俺ァ帰んぞ」

 その言葉を聞いてげらげら笑い転げていた弁丸がぴたっと笑うのを止める。

「え? どこへでごじゃるか」

 急速に悲しみに覆われてゆく弁丸の顔に、何とも言えない気持ちになって、梵天丸は一度大きく息を吐いた。

「馬鹿だな。ここは俺んちだぞ。帰るつったら自分の部屋だろが」

 そして立て続けに言うのだ。

「お前もウチのどっかに部屋用意されてんだろ? 親父さんと。そこに帰んな」

 そう聞いて一瞬安堵の表情を浮かべた弁丸だったが、梵天丸の二言目には再び顔面崩壊の危機に見舞われた。

「う? うん? 多分、しょれがしたちの荷物が置いてある部屋だと思いましゅるが……」

 梵天丸に言われて、今にも崩壊しそうな涙腺を堪えて弁丸は素直に答える。

「んじゃ佐助もいんだし、場所ぐらい分かんだろ」

 じゃあな、と踵を返して歩き始めた梵天丸に、ぼすん! とかなりの衝撃が加わる。そのまま前のめりに蹴躓いて、梵天丸は固い廊下の床に強かに膝を打ち付けて、テメェ! と振り返った。

「いーやーだーあああああああ! 梵天丸殿おおおお!」

「いやでごじゃるうううううう! もっと一緒にいとうごじゃるうううう!」

 躓いた格好の梵天丸の背中の辺りにがしっとしがみついて、まるで朝から忙しなく溢れる蝉時雨を彷彿とさせるその喚き声と格好に、俄に沸点に達した怒りも削げるようで。

 そうして、梵天丸はちっと舌打ちすると、テメェ本当にふざけんなよ、と唸り、こっち来いと弁丸に手を差し出した。

 今にも泣きそうな顔で梵天丸にしがみついていた弁丸は、あの美しい手が目の前に差し出されて、一瞬きょとんとした後、すぐにぱっと破顔して、てへへと笑いながらその手を取ったのだった。

 

 

 

予感 5

 

 

 

「梵天丸殿のお部屋でごじゃるか」

 暫くして弁丸はうきうきと言った調子で廊下を渡り、梵天丸にしてみれば先程己にしがみつく弁丸を単純に立たせるためだけに差し出した手は、ここへ来ても解かれず、予想外の展開にやや困ったような表情であった。

 渡り廊下の途中で頼みの小十郎は何か八つになる物をと言いながら厨の方へ向かってしまい、佐助も何を思っていたのか「あ、俺様もお手伝いしまーす」などと惚けた台詞と共に小十郎の後を追い、結局ここまで来てしまった。しかも何故だか途中から、あ、しょれがしここ分かり申す! と威勢の良い声を上げて梵天丸の手を弁丸が引いて歩くという、伊達家中では有り得ない前代未聞の珍事を繰り広げられて、通りすがる家臣や侍女たちに微笑ましい光景だと言いたげにされてしまえば、怒鳴り散らす事も出来ないし、かと言って先刻の今で弁丸にきつく当たる事も当然できはしない。

 お陰で意味もなく頬が火照るのを薄物で擦り隠し隠しここまでやって来たのだ。

 ふんふんと童歌なのか何なのか、鼻歌交じりの弁丸は頗るご機嫌で、梵天丸殿のお部屋はあそこでしゅな! と繋いでいない方の手指を差し向けた。

「あー、うん」

 と、梵天丸が素っ気ないにも程がある相槌で返しても、弁丸は気にした様子もなく、もうしゅぐですじょと、幼い発音で随分一端の口振りで梵天丸を案内する。

 これでは最早どちらが家人で客人なのか分からない。

 そんな事を思いながら歩いていれば、もう自室は目の前で。

 先程弁丸をこれでもかと打ち据えた己の部屋へ入るのを、一瞬戸惑う気持ちもあったが、この屋敷で自由に寛げるのはここしか無いのだ。

 そう思えば躊躇の気持ちよりも、早く人目を避けて自由になりたいという欲求の方が勝った。

 先刻の騒動で母に見つかり母屋に連れ出される時、手前上ぴしりと閉めた障子を、再び弁丸はここへ訪った時と同じようにすぱん! と開け放ち、どうじょ、と梵天丸を通した。

「……」

 ここまでされては最早何も言葉などなく、梵天丸は言われるがままに自室に入り、何時も座っている壁際にどっかりと腰を下ろした。

 そうしてまるで自室のようにして案内したくせに、もじもじと敷居の手前で足の爪先を擦り合わせている弁丸に目が行く。

「?」

 何やってんだと不思議に思い目だけを向ければ、「しょれがしも、入ってよかろうか」と彼なりに先程の大人たちから頂いた説教が効いたと見えて、遠慮らしきものを表した。

 その態度に梵天丸はふっと皮肉げに笑って、今更何言ってんだと、犬の子でも呼ぶようにちょいちょいと手招いてやれば、ぴかっと輝くような顔で嬉しげに弁丸はとことこと歩み寄ってくる。

「犬みてェ」

 その様子を率直に梵天丸が口にして笑えば、弁丸は何を思ったか、しょれがしも犬だいしゅきでごじゃると、再び梵天丸を笑わせる。

 面倒臭い相手だと思ったが、この子どもは中々に梵天丸を楽しませる。そう思えば、最初の無礼も何だか本当に許せてしまいそうで、更に言えば、先程の自分の謝辞も弁丸のこの素直さの前では建前だけの言葉のようにすら感じる。

 ぽつんと梵天丸の前に立っている弁丸に、こっちへ来いと更に促して、己の真正面に呼びつけた梵天丸は、さっきは悪かったな。Sorry. と彼にしてみれば前代未聞の同一人物に二度も謝ると言う奇跡のような事をしたのだった。

 既にもう弁丸にとっては過去の出来事のようで、ふえ? と間抜けな返事をしてこてんと首を傾げるのを見て、梵天丸は微笑ましくなってしまう。

 ――父の言う通り過ぎて。

 本当に弁丸は年端もいかぬ子どもで、凡そ道理など言っても無駄だし通じもしない。そんな相手にあんなに苛烈に振る舞ってしまった己に自己嫌悪すら覚えて――。

「弁丸」

 呼びつければ素直にはいと返事をするこの子どもに、竺丸や時宗丸には感じない親密さを得る。弟もあの生意気な従兄弟も、どちらも可愛いし好きだ。身内として親愛の情が溢れそうな程に。それでも、この年端もいかぬ真っ直ぐな子どもには、そうではない“愛しさ”を感じるのだ。

 弟のようでそうではない。

 叱られればすっぱりと潔く謝れる清廉さと、今の今まで一度として梵天丸の見た目の歪さを気にした風もないところ。本当ならば聞きたくて聞きたくてしょうがないだろうと思うのに。そして握る手の温かさ、柔らかさ、己を連れ歩いた時に感じた存外な力強さ。

 口を開けば些か優秀とは言い難いが、その言の葉には裏も表もなく、率直で純真で朴訥としていて。全てが梵天丸にとっては初めてで珍しかった。

 全て、この小さな子どもが、今日、植えつけた感覚だった。

 そこまで考えて、梵天丸は些か乱れた弁丸の衣装に気付いて、きゅっと直してやった。自分が物思いに耽って考えに囚われている間、この姦しい子どもはじっと動きもせずただ只管に梵天丸だけを見つめてそこに立っていた。微笑みすら浮かべて。

「ありがとうございましゅる」

 手慰みに、自分の思考を誤魔化すようにしてただ目についた弁丸のぽこんと出た子どもらしい腹の辺りの、その乱れを直してやっただけなのに――。

 こうして律儀に礼を述べるのは、あの父を見て分かるように、愛されて育ったのだろうと、今更ながらに思う。一瞥して己より年下の子どもだと、持ち物も着ている物も己よりも随分粗末で、更に名乗らせてみれば家格も下のしかも次男坊。ただそれだけでこの子どもを判断して、相手にする価値もないと見下し、あれ程好意も顕に己に懐いたものを無碍にした。

 どんな人間でも考えなくとも分かる程手酷く打ちのめし、大声で泣き喚くのを、慰めるどころか煩いと感じたのだ。己は。

 どれだけ自分は性根が捻じ曲がっているのかと、梵天丸は情けないような悲しいような気持ちになる。

 そして、やはり、こんな気持ちを己に芽生えさせたこの小さな子どもに、慈しみたいような、息苦しいような、不思議な気持ちになるのだ。

「弁」

 本当に犬の子のように短く呼んでも、弁丸は寸分違わずはいと返事した。再び梵天丸が黙考の時を迎えても、黙って梵天丸の考えるのを邪魔せずに、大人しくそこに立っていて、こうして呼べば間違いなく己だけを見据えて返事を寄越す。

 そんな弁丸が殊更可愛く思えてくる。己は何て現金なのだと思うけれど、それでも弁丸が可愛くなってしまう。

「弁丸」

 もう一度その気持ちで呼べば、自分でも驚く程その声は穏やかで、薄気味悪くすらある。

 しかし、その声音の変化に喜びを表したのは他でもない呼ばれた本人だった。

 弁丸がふにゃんと嬉しげに笑うと、大きな茶色い瞳がとろんとして、まるでべっこう飴のようだと梵天丸は思った。

「梵天丸殿」

 名前を闇雲に呼ぶだけの己に、弁丸も同じくきっと意味もなくその幼い声に乗せたのだろう。そして、ぽやぽやと笑顔を零しながら、再びもじもじとしだす。

「何だ、厠か」

 自分をこんな気持ちにさせておいても、まだまだ幼いその仕草に、梵天丸は笑った。この右目が使い物にならなくなってから、初めて、皮肉でも嘲笑でも自虐でも卑下でもなく。ただ、純粋に。こんな風に笑ったのなんて、いつ以来だろうかと、本人ですら思い出せない。

 そうして、その笑顔に弁丸が寸分の狂いもなく喜色満面の反応を返す。

「やはり、梵天丸殿は笑った方がようごじゃる」

 にこやかにそう告げる弁丸は、甚だ年下とは思えない程の言葉で梵天丸の暗く淀んだ心の奥底の誰にも見せた事もなければ、自分ですら触れた事もない場所を擽ってくる。

 先刻の梵天丸が動揺し、弁丸に酷い仕打ちをしたのだって、言えば、この幼子とは思えぬ言葉の数々が原因でもあるのだ。

 けれども、今となってはさもありなんと梵天丸は思う。

 こんな風に思いもしていなかった言葉を、心のままに目の前で紡がれては、固く閉じ籠もった心を無遠慮に優しく撫で上げられているようで……。

 幼い口調と言葉が、それを気付かせるのを遅らせたけれど。

 そうして、自分は馬鹿かと思うのに、弁丸に言われた言葉は、簡単に梵天丸の頬に血の色を上らせるのだ。

「にゃはは。梵天丸殿はそのまま笑っていたら、うんとずっとかわいらしゅうごじゃる」

「ほっぺも、まっかで」

 ぷに、と何の裏心もないその無垢な言葉と共に、丸い指先が梵天丸の頬を突付く。

「ふわふわ、つるつるでごじゃる」

 楽しげに梵天丸の頬を指先で味わった弁丸は、再びもじもじとしだした。

「ほら、我慢すんなって。厠だろ」

 弁丸にされる事が、言葉が、面映ゆくて仕方がなくて。

 梵天丸は再び素っ気なく言葉を発した。

 それに対して弁丸はきゅっと、あの、後十年もしたら凛とした風情になりそうな眉を顰めて、違いましゅる! と僅かに語気を強めて反論した。

 ぷくっとただでさえ丸い頬が真ん丸に膨れて、梵天丸は笑わずにはいられなかった。

「Cuteな顔しやがってこの野郎」

 先程の仕返しとばかりに、その膨れた頬を指で突付いてやれば、ぷっと尖った弁丸の唇から息が漏れて、鞠が萎むように弁丸の頬も元に戻る。

 それを見て再び梵天丸は笑う。こんなに笑うのは何時ぶりだろうと、考えることすら面倒臭くなる程、笑った。

「じゃあ、何なんだよ」

 笑いながら梵天丸が弁丸に問いかければ――。

 無言で両腕を梵天丸に差し出したのは弁丸だった。

「?」

 訳が分からず梵天丸が首を傾げれば、弁丸はむっと口を尖らせて、やや上目遣いで梵天丸を見据えた。

「分かんねェよ。何だよ」

 今までの弁丸にしては、随分とやさぐれた雰囲気のその態度に、梵天丸は少し姿勢を正して聞き直した。

 すると。

「…………抱っこ」

 極々小さな声で、甘えた言葉がころりと弁丸の口から転がり出た。

 その言葉に思わずぶふっと吹き出しそうになった梵天丸だが、これは、この幼いなりに男としての矜持はしっかりと持ち合わせていそうな弁丸を傷つけるかと判断して、吹き出してしまったのはおまけだとでも言いたげに、残りの笑いは引っ込めて。

「しゃーねェなァ。……ほら」

 お竺にだってこの歳になってからは抱っこなぞした事ねェぞと思いながらも、梵天丸は弁丸の突き出した両腕を自分へ向けて引っ張ったのだった――。

 

 

 

予感 6

 

 

 

 けれどもしかしそれは。

「ぼんてんまるどのお、」

 随分甘えた声音と口調で弁丸が起こした行動に、寧ろ抱っこされているのは自分の方なのでは? と梵天丸は思った。

 膝に乗せてやろうと僅かにあのふくふくとした腕を引っ張れば、許しが出たと判断したのか、弁丸の方がぎゅうと抱きついて来て、梵天丸を抱き締めたのだ。

 逆じゃねェのかと、内心で梵天丸は思ったが、いかんせん身長差という物を考えていないのか、己の胡座の間に突っ立ち、弁丸はぎゅうぎゅうと梵天丸の首根っこにしがみつき、これでもかと言う程抱き締めてくるのだ。

 瞬間、驚きはしたが、嫌な気分にもなれず、梵天丸は弁丸の気の済むようにさせた。

「俺って案外心が広いんじゃねェか」

 などと梵天丸がとんだ勘違いを起こしたのは、ここだけの話にしておくが。

 

 

 ふんふんと子犬のように鼻を鳴らして梵天丸にしがみつく弁丸は、本物の犬の子のようで、更に言えばその鼻息が擽ったくて、梵天丸は再びくつくつと喉が震えるのを抑えられなかった。

「ふにゃ~。梵天丸殿、いいにおい……」

 ふにゃふにゃと己に甘えて縋る弁丸に、匂いってと、コイツ本当に犬なんじゃねェかと思い始めた頃、開け放った障子に人影が現れた。

「梵天丸様、入ってもよろしいか」

 相変わらず堅苦しい口調で小十郎が言葉をかければ、入ってくるなも何も、障子はこの弁丸が開け放ったままだし、こんな格好のままで、動けるわけもなく、しかしそれを小十郎に見られるのは余りにも恥ずかしい。

 けれども、自分に甘えて縋る弁丸を今更剥がすのも忍びなくて……。

 結局梵天丸はいつも通りに入れとだけ口にしたのだった。

 そして気付く。

 敷居を跨ぐ小十郎の肩が震えている事に。

「随分、殿とお方様の小言が身に沁みたようでございますな」

 笑いを堪える声音で小十郎が茶の支度を整えながら漏らせば、開き直った梵天丸も、まァな、と素っ気なく返す。笑いたくば笑えと、今の梵天丸はそんな心境なのだ。

 だって、仮令小十郎に笑われても、こうして懐く子どもを無碍にする事など、もう到底自分には出来そうもないのだから。

 だから、小十郎に続いて入ってきたあの赤毛の少年―佐助―が、若様随分丸くなられましたねと、盛大に吹き出したのにも、帯に差してあった扇を投げつけただけで許してやったのだ。

 自分と梵天丸の傅役二人がいても、それをまるっと無視するようにしていつまでも梵天丸に甘えていた弁丸だが、おい、と梵天丸に声をかけられて漸くその顔を上げた。

「いつまでも突っ立ってんな」

 言われて、自分はこの部屋に来てから一度も座していなく、記憶のある限りではずっと梵天丸の首に縋り付いていたのを、弁丸は今更気付いた。

 えへへと照れ笑いで誤魔化して、弁丸は梵天丸に聞いた。

「どこに座ってもようごじゃろうか?」

 そう聞かれた梵天丸は、好きにしろとやはり味も素っ気もない答えを返す。

 そして僅かに後悔したのだった。

「じゃあ、ここ!」

 そう威勢よく声を張った弁丸がその場にちょこんとしゃがみ込んだから。

 その場とは正にその場で、胡座をかく梵天丸の足の間にいた弁丸なのだから、その場にしゃがみ込めば寸分違わずそこは梵天丸の膝の上なのだ。

「あらあら弁丸様、赤ちゃんみたいですよ」

 と、佐助が笑いながら嗜めれば、しょれがしは赤ちゃんではごじゃらん! と頬を膨らますが、どう見てもこれでは里心のついた子どもが懐いた人間に甘えているとしか思えない構図で。

 僅かに眉を潜めた小十郎が、佐助を責めるような視線で見遣った後に、梵天丸様、その子どもをこちらへ、と声をかけたが、梵天丸は構いやしねェと一蹴した。

 それを聞いて弁丸は、ほらな! と鼻を膨らませた。何がほらな、なのか弁丸以外の三人にはさっぱり分からないのだが。

「しょれがしの梵天丸殿は優しくて心が広いのだ。だから、このままでいいのでごじゃる」

 湯呑みに口をつけていた梵天丸はその言葉にぶっと中身を吹き出すところだったが、寸でのところでそれは回避した。何てませた事を言い出すのかと。しかもきっと本人は無意識に。

 茶の熱さのせいではなく、頬が火照るような気持ちで、梵天丸がそれを誤魔化すように「ナマ言ってんじゃねェ」と摘める高さもないような小さな弁丸の鼻をきゅっと摘んでやれば、意味が分かっていないのか勘違いしているのか、きゃっきゃと喜び、控えめに人二人分程空けて小十郎と佐助が座っている床板の、自分なりの境界線を見定めた弁丸は、佐助と、小十郎殿はここからこっちに来ちゃだめ、と笑窪のある手指でぴーっと横に線を描くようにしてみせた。それから、何事もなかったかのように再び梵天丸の膝に陣取った弁丸は、目の前に置かれた自分の城では見たこともない菓子類に目を輝かせた。

 北国とはいえ伊達はそれなりに大きな領土持ちであり、交易も盛んに行っている。都から遠いとはいえども、客人に不自由はさせぬ程度には潤沢な品揃えが出来ることを、梵天丸も小十郎も誇りにしていた。

 そして、あれも、これもと、強請られるままに梵天丸は弁丸に菓子を与え、目の前に差し出してやる。

 そうやっている梵天丸を眺める小十郎は、人知れず胸が熱くなる思いでいた。あれだけ頑なだった梵天丸が、今やこんなにも柔らかな雰囲気で時には笑顔さえ見せているのだ。多少煩いような鬱陶しいような気もするが、確かに弁丸は梵天丸を変える良い切っ掛けになっているようだと、この姦しさと有り余る元気さには片目を瞑ってやろうと思う。ただ、あの傅役らしき胡散臭い忍は除いて、と。

 そして、そんな風に思われているとは露知らずな佐助は、弁丸の引いた目に見えぬ境界線を意識しつつも甲斐甲斐しくまだまだ手のかかる幼子の世話を焼いていて、梵天丸からも小十郎からも内心評判は良くなかったが、俄に株を上げていた。ああほらほら、こぼさないで、あ、口の端が汚れてる、そんなに食べたら夕餉が食べられなくなりますよ、等々とまるで母親のように口喧しいが、それがきっとこの主従の間では普通と見えて、案外弁丸も素直に佐助に従っていて、寡黙できっちりと線引のされている伊達の主従を微笑ましい気持ちにさせるのだった。

 

 

 

予感 7

 

 

 

「では、失礼致します。何かあればすぐにお呼び下さい」

 小十郎の静かな声と共に、彼の日頃の癖ですっと障子を閉められて、僅かに室の中が薄暗くなる。これから日は中天に差し掛かる頃だが、夏の日差しは明るいが、その位置は高く、室の奥まで入って来ないからだ。

 腹の膨れた弁丸を一度膝から下ろして、梵天丸は障子をもう一度開けた。弁丸がやったようにすぱんと開け放つのではなく、風が通り抜ける程度に。

「これでちっとはましだろ」

 じめじめとした梅雨と違い、盛夏に風さえ吹けば、それなりに涼は得られる。梵天丸は、はしゃぎ通しの弁丸の不思議な形に栗色の癖毛をちょろっと伸ばしてある襟足の辺りに、先程から汗染みを見つけていたのだ。

 最も、最初からあれだけ障子を開け放った状態でも、これだけ汗をかくのだから、今更この程度の風通しをした所で変わりはしないだろうが。

 それでも陽が中天を過ぎ、午後になれば幾らか風は涼味を増し、過ごしやすくなるだろうと梵天丸は思った。

 いつまでも自分にへばり付いていたせいで、弁丸が汗をかいているのだろうとも分かっていたので、今度は少し離れて座れば、ああ! と頓狂な声を上げて弁丸がむすっと膨れる。

「こっち、梵天丸殿、ここ」

 ぺしぺしと自分の隣を叩く弁丸にやれやれと思いながらも、「あんま近くにいると暑いだろ」と、梵天丸は言う。けれど、全くもって暑いなどと自覚のない弁丸は納得がいかない。何せ弁丸は常日頃から暑くて熱いのだ。上田といえばこの奥州程ではないにしても、雪国である。そこで火鉢要らずとまで言われる程、弁丸はとにかく体温が高かった。

「しょれがし暑くはごじゃらん」

 ぷんぷんと膨れっ面で梵天丸を呼び寄せることを早々に諦めた弁丸は、とっとっとと然程の距離でもない床板を踏み鳴らして、自ら梵天丸の傍に寄った。

「あー、確かに。お前ちっと熱いよな」

「子どもの体温だからかと思ってたけど、何だお前、ちっと違うな」

 近寄ってきた弁丸がぎゅうと今度は断りも入れずに抱きついてくるのを、片腕で抱き返してやりながら梵天丸は独り言のように呟いた。

「うむ。しょれがし、剣術の稽古では炎を操りましゅる」

 梵天丸に抱き返されて嬉しいのか、にぱっと笑顔を向けてそう答えた弁丸に、ああそうか、と梵天丸は頷いた。

 雷を纏って稽古をする己とは、なるほど、暑さの感じ方も違うのか、と。

 梵天丸は元々体温が低いのか、どうしたってこの暑さは苦手なのだが、しかし何故だか、こうして弁丸にくっついていられるのは、それ程嫌ではないのだ。確かに暑いのに。けれども、厭うような暑さではなくて。

「でも、暑ィんだけどな」

 自分で下した判断に、は、と鼻白んで笑えば、弁丸がもぞもぞと梵天丸の首に腕を回しながらその首の持ち主の太腿の辺りに座り込んでくる。

「んん~」

 つい今しがたまでのはきはきとした物言いではなく、明らかに不明瞭な声音で唸ると、すりっと梵天丸の首元辺りに弁丸の丸い額が擦り寄ってきて、そして、そのまま、くーと小さな寝息が聞こえた。

「え、ちょ、おい、」

 まるで絡繰りの螺子が切れるように、急にぷっつりと動かなくなった弁丸に、可笑しいような腹立たしいような。それでもやっぱり可笑しさが込み上げてきて。梵天丸は、ふふと、声に出さずに笑った。

「子どもってこんなかァ?」

 呆れ半分溜め息混じりに梵天丸が呟いた声は、拾う者もなく。ただ一陣の風が吸い上げて攫っていったのだった――。

 

 

 

予感 8

 

 

 

「梵天丸様、おいででしょうか」

「梵天丸様。若、若君」

 二度目の呼びかけにも応えはなく、不思議に思った小十郎が、とん、と障子の桟を叩けば、漸く気付いたのか、「なんだ」とやや幼さの強調された語調で梵天丸の声が聞こえた。

「夕餉の支度が整いましてございます」

 律儀に答えた小十郎に、そうかと答えた梵天丸は、もぞもぞと起き上がった。

 知らぬ間に眠っていたらしい。

 暫く弁丸の寝顔を眺めていたのは覚えているが、その後の記憶が全くないのだから、大して時間も置かずに弁丸同様自分も昼寝をしてしまったのだろう。

 ふわあ、と喉奥まで見えそうな欠伸をして、うーっと伸び上がり、一つ目をごしごしと擦ってから、梵天丸は自分の隣に転がる子どもに向き直った。

「弁丸、おい」

 隣で梵天丸に足まで絡めて眠っている弁丸に梵天丸は声をかけた。

「おい、起きろ」

 ぎゅうと梵天丸の薄物の袖を握る小さな手に、柄にもなくほっとしたような気持ちになって、梵天丸は一人頬染めたが、すぐ傍には小十郎が夕餉の呼び出しに控えていて、早く弁丸を起こさねばと思う。

「おい、いい加減にしろ! 弁丸」

 僅かに語気を強めてその未だ丸く薄い肩をゆさゆさと揺さぶれば、むにゃむにゃと微かに呻き弁丸の丸い双眸が半分程瞼の隙間から見えた。

「起きたか?」

 半分だけでも十分大きさのあるその瞳を覗き込んで梵天丸が伺えば、目の前に梵天丸がいることに安堵したような表情をした弁丸が、酷く嬉しそうに梵天丸の首に腕を回してきて。

「おふぁよごじゃましゅ」

 起き抜けの更に滑舌の悪くなった言葉が、溶けるように甘い響きで梵天丸の耳を擽った。

 瞬間、その声音を拾った耳が、火がついたようになって、そのまま少しの暇も与えずに梵天丸の白さ際立つ頬を夏の夕暮れと同じ色に染め上げた。

 ぎゅうっと力任せに抱きついた弁丸は、寝惚けているのか、それともそういう習慣や風習が彼の国許ではあるのか、すりっと一人頬染め狼狽える梵天丸のその頬へ己の頬を寄せて、梵天丸殿、しゅき、と小さく呟くと、そのままちゅうと、茜色に染まる柔らかな頬を吸ったのだ。

「ッ……!」

 余りの驚きに声も出せず、梵天丸はぎゅっと一つしかない目を瞑った。弁丸の小さな柔らかい唇が、己への好意を告げて、火照る頬に触れて鳥の囀るような音をさせたと、それは分かるのに、思考が追いつかない。

 好きで憧れる南蛮の書物で読んだ、かの国の人々の挨拶と同じようで、それは、紛れも無く口吻だと。

 分かるけれども、解らない。

 どうして、何故、と巡るだけで。

 そうして、暫くの間動けもせずに梵天丸が弁丸を首にぶら下げたまま固まっていれば、再びすよすよと気持ちよさげな吐息が聞こえて。

 ずるっと弁丸の腕が外れて、ぽてっと床に落ちる。

 それを見た梵天丸の中で、ふつふつと言い表せない何かが滾る。恥ずかしいのか悔しいのか苦しいのか、――嬉しいのか。

 筆舌に尽くし難い気持ちを、まるっきり安心しきって眠り続けるこの子どもに、ぶつけることも出来なくて。

 けれども、梵天丸とてやはり子どもなのだ。このやりきれなさを、遣る瀬なさを、どうしたらいいのか分からない。

 隻眼を刮目させ、畜生と低く唸ると、梵天丸は己の中で煮え滾る何かに突き動かされるようにして、弁丸の頭を叩いたのだった。

「畜生! テメェいい加減にしろよ!」

 弁丸の眠る真上で、本日一番の大声で怒鳴りつけながら――。

 

 

 

予感 9

 

 

 

 食事をする部屋で弁丸は未だめそめそしていた。

 いい気持ちで寝ていたところを、鬼の形相の梵天丸に、文字通り叩き起こされたからだ。

 しかも運の悪いことに寝起きだったせいもあり、余りの迫力に怖気づき、弁丸は粗相をした。

 梵天丸の怒鳴り声を聞きつけた佐助によって、何とかその世話はしてもらったので、今は一先ずこざっぱりとはしているが、梵天丸の前で漏らしたと言う事が酷く弁丸を傷つけていた。しかも、それを目の前で見ていた梵天丸に鼻でせせら笑われて「何だやっぱり赤ん坊だな」と切って捨てられたのだ。

 これでは夢は日の本一の兵でござると内外に豪語している己の矜持はずたぼろだ。

 何が何でも梵天丸の前で面目を保ちたかった弁丸だが、邂逅して一日と経たずしてその面目は丸潰れになったのだった。

 叩かれたのも怒鳴られたのも、然程弁丸にとって問題ではない。只々偏に梵天丸の前で醜態を晒した己が悔しいのだ。

 ――男としての沽券に関わるのだから。

 何せ相手はなんて可愛らしい姫御と一目見た時からすっかり夢中になった相手なのだから。

 残念ながら真相は姫御前などではなく、なんとも勇ましい立派な殿御だったのだけれど。

 それでも今までには見たこともないような、花の顔に自分と違い素直に伸びるあのつやつやとした黒髪も、光の加減で不思議な色に見える縦長の瞳も。分かり合えればとんでもなく人情味豊かで情の深いところと、時折見せる笑んだ表情や、さっと朱に染まるあの柔らかい頬など。自分が強請れば文句を言いながらでも結局優しいところ。口数の少なそうで多い所も、あの乱暴な口調も。全部全部全部。本当に全部可愛い。だから、残念と思ったのもほんの極僅か一瞬で、今となってはもうとにかくどこをどう取って見ても、逆らえない程弁丸は梵天丸に夢中なのだから。

 よくは分からないが元服したら父上に頼んで上田に嫁入りしてもらおうとか、それとも梵天丸の方が嫡男で自分は次男なのだから自分が伊達家に婿入りすればよいかとか、お花畑全開で明後日の方向に幸せな想像―妄想―を膨らませていたぐらいなのだから。

 それなのに、それなのに、と。

 ただでさえ二つも年が上の梵天丸にはあらゆる面で―当面は―勝てそうもないのに。

 上田に戻ったら今まで以上に鍛錬して強くなり、何が何でも梵天丸を頂きたいと、握り締めた箸に向かって新たな誓いを立てる。

 そんな弁丸の心梵天丸知らずで、「未だ気にしてんのか」とにべもない。俺ァ気にしてねェよと口振りは平坦だが、明らかに目が笑っている。揶揄いたくて仕方がないと言った態度だ。

 それを見咎めた小十郎が「梵天丸様」と小さく窘めるが、いいじゃねェかと梵天丸の方も譲らない。

 何故、どうしてこんなにも、この人は頑なに自分を論って笑おうとするのか、弁丸には理解できなかった。

 梵天丸に施した余りにも心深く刻まれる出来事を、弁丸は己がしたなどとは夢にも思っていないのだから。

 只々梵天丸の優しい声がして、目を開ければそこに面映そうなあの可愛い顔があって、嬉しくて。だから、沢山沢山伝えたいと思っていた言葉を紡いだ。

「梵天丸殿、好き」と。

 そうして、思うままに抱き寄せて頬を寄せた時にふわりと香った梵天丸の匂いに誘われて、もっとと寄せたその先に、ふかふかと蒸かしたての饅頭のような感触があって、気持ちよくて美味しそうで、つい、思わず、ぱくりとしてしまった。

 それは今までに食べたどんな大好物の甘味よりも甘やかで美味しくて――。そう。そう言うただ只管に幸せな夢を見ていただけなのだから。

 そして気持ちよく微睡んでいるところへ超特大の雷が落ちてきたのだ。

 それは仮令弁丸でなくとも、あの迫力あの声音あの形相で寝起きを襲撃されれば、誰だって、粗相の一つや二つ……致すでござろう、と弁丸の心の中の葛藤と自問自答は尻窄みになる。

 ぐしぐしと涙で滲みそうになる視界を着替えた小袖で拭っては美味しい筈の夕餉の味がちっともしなくて、弁丸は再び潤む視界に箸を止めた。何時もならば美味しい美味しいとがつがつ食べる勢いなのに。

 そんな様子を見かねて、さすがに佐助も己の幼い主が不憫になってくる。

「若様、あの、お願い。もう少し……弁丸様に容赦してあげて下さい」

 俺様などと自分自身を呼ばう割に、やたらに腰低く佐助に頭を下げられて、梵天丸は白々とした気分でふんと鼻を鳴らした。

 どいつもこいつも俺の気持ちなんて分かりゃしねェ癖に! と。

 むかむかふつふつと、収まらぬ梵天丸の腹の内側はこうだ。

 ふざけんな! 俺のあの気持はどうなるんだよ! あんだけ動揺してみっともなくて、こっ恥ずかしくて。この小便垂れのクソチビにあんな思いまでさせられて! 俺のPrideはどうすんだよ! と。

 梵天丸は声に出さずに心内で地団駄を踏んでいた。

 口汚く挙げ連ねているが、平坦に言えば「俺の純情を返せ」だ。

 それでも、こうして共に食事をして、弁丸の様子を伺っているのだから。

 当然憤懣やる方ない梵天丸はその勢いのままに食事をしたので、味わうどころか消化に悪いだろう早さで食べ終わっており、片や同じく味など分からずも、今度はいつ食事が終わるのかと言った風情で、どちらも丹精込めて調理した者には大変失礼な子どもたちであるのだが。

 そうして、立場上で言えばいつだって自室に下がっても文句は言われないのを、こうして辛抱強く待ってやっているのだし、そもそもこうして弁丸だけを自分の客として特別に扱っている時点で察しろよ! と強く思うのだけど。

 父も母もああいう性格なので、梵天丸が弁丸と食事をすると言えば、そうかそうかと二つ返事で、二人は本当に打ち解けあい仲良くなったのだ、よかったよかったと言った状態で、弁丸の父に至っては、仲良くして頂けてよかったなと、その頬を緩めたのだ。

 だからこうして気兼ねなく膳を囲める室まで用意してやったと言うのに、このクソチビはいつまでもべそべそめそめそと! と、自他共に認められる程堪忍袋の緒の短さについて定評のある梵天丸は、ここへ来て次第にその緒が大分短くなってきていることに自覚を得た。

 ぐるると山奥に潜む獰猛な獣のような唸り声を上げて、じろりと眼前の弁丸を見遣れば、未だ大きな目を零れ落ちそうにさせながら、ぐすぐすと鼻を啜っていて、「あれ? どうして俺こんな奴に愛しいなんて気持ちになっちゃったんだっけ」と、つい先程までは自分の心をこれでもかと占領していた甘酸っぱいような息苦しいような切ないような、未だ名前は分からない感情が、すとんと抜け落ちていくような感覚になる。

 それでも、べそをかく弁丸を見れば、抜け落ち損なった感情が全力で稼働していて、地団駄を踏みまくった気持ちとは裏腹に、早く泣き止めよと思ってしまうのだ。

 お前だって笑っている方が全然いいんだから、と。

 あの笑顔がお前らしいんだ、いい顔なんだ。笑ってるお前が、“  ”なんだ、と。

 思ってぶわっと梵天丸の顔が朱に染まる。

 子どもたちの様子見以外にも、それぞれ仕事のある傅役は、先程から席を外しており、その変化に気が付く者はいないのが、梵天丸にとっての唯一の救いだった。

 筈なのだけれど。

「あ、」

 何を思ったか、目聡く梵天丸の変化に気付いた弁丸が、小さく声を上げた。

 その口はその発声のままにぽかんと開けられていて、大層間抜けである。

 冷めたと思っていた梵天丸の感情が急激にどっと盛り返してくる。抜け落ちたと思ったあの感情は、一寸も抜け落ちてなどいなくて、その間抜けな顔を見て笑いが込み上げてくればくる程、どんどん嵩増すようで。

 そうだよ。仮令そんな風に間抜け面でも、泣いているよりずっといい。お前らしくて。

 そんな風に思ってしまう自分にも殊更笑えてくる。

 こうなっては最早問うに落ちずと言うべきか。

 言葉になどせずとも、梵天丸は自分の気持ちを認めるしかなくて。それでも頑なな部分が顔を覗かせては「お前はそんなに軽い男なのか」と問い質す。けれども、人を好きになるのに時間は関係ないだろうと、もう一人の自分が自信満々に跳ね返すのを見て、梵天丸もそうだそうだと同意する。

 阿呆らしいと思うけれど、これは紛れも無く“好き”と言う感情。

 恐ろしいことにこの間抜けで馬鹿で大声で、ちょっと厳しくすれば泣き出す上に、案外図太くて、寝起きに粗相はするし、食い意地は張ってるし、しかも二つも年下で、……けれど底抜けに明るくて、さり気なく相手を傷つけぬように庇うような真似までする上に、天真爛漫をそのまま表したような笑顔は眩しくて。素直過ぎる程素直に紡がれる言葉は痛い程梵天丸の心の奥深くを溶かす。そんなこの子どものことが、好き、なのだ。

 竺丸や時宗丸に感じるような親愛でもなく、小十郎に寄せる思慕でもない。

 似ているようで全く違うその気持ちを、今は未だ名前は知らないけれど。けれど、はっきりと分かるのは、自分はこの子どもが好きだと言う事。竺丸や時宗丸と、弁丸がしたように、あんな風に寄り添って抱き締められたいかと言えばそうは思わないし、では抱き締めたいかと言われればそれも思わない。

 親愛とも友愛ともとても良く似ているけれど、やはり別なのだ。この気持ちは、感情は。

 べそべそと泣き腫らしながらも結局完食した弁丸に、やっぱりコイツ食い意地張ってるなと思いながらも、決して嫌ではないのだから。

 寧ろ食べ物を粗末にしなくて偉いぞと褒めてすらやりたい。

 じわっと滲む声で、それでも、ご馳走様ときちんと手を合わせたこの子どもの頭を撫でてやりたい。

 けれどそんな感情はこのクソチビにしか湧かないのだ。だから、きっと、今までには知らなかった“好き”なんだろう。

 ぽかんと「あ」の形に開いたままの弁丸の口元に、米粒を見つけて、梵天丸は間抜けに拍車がかかったと笑った。

 それから、すいと乗り出して、弁丸の口元へ指を運ぶ。

「残すんじゃねェ。もっと大事に食え」

 小言じみた言葉を一つ付け足して、ぱくんとそれを自分の口に納めれば。

 はひ! と今まで聞いたことのない発音が弁丸の口から飛び出て、顔面から湯気でも出そうな程逆上せあがった弁丸に一頻り大笑いして。

「腹いっぱいになったか」と聞けば、壊れた絡繰りのようにこくんこくんと何度も縦に首を振るのが、~~~~クッソ! 凄ェ可愛くて。

 むかつく程弁丸に可愛さを感じ、愛しさに胸を掻き毟りたいような気持ちで、梵天丸は。

「機嫌直ったか」とこんな心内など微塵も見せずにそれはそれはもう、淡々と告げたのだった。

 その言葉に「はい」と今度はきちんと返事をした弁丸に、梵天丸は「よし」と一言で済ませて。

「残さなかったの偉いぞ」

 と、先程思ったことを素直に実行した。

 ぽふぽふと弁丸の癖毛を何度か軽く撫でてやれば、潤んで滲んだ大きな茶色い瞳がきゅっと狭まる。

 そうして、そんな筈はないのだけれど、随分久しぶりに見るような形で、くっと弁丸の口角が上がり、あの夏の日差しのような笑顔を示した。

「すき」

 何の脈絡もなく弁丸は意識もしていないと言う感じでそう言うと、ふわっと盛大に微笑んできて、再び梵天丸の心臓の鐘を激しく揺さぶり滅茶苦茶に打ち鳴らす。

 このクソガキが、と思っても、このクソガキでなければ、梵天丸の心臓を、感情を、気持ちを、思考を、ここまで揺すれないのだ。

 振り回されて揺さぶられて、酔ったようになった胸に閊えたものを、吐き出してしまった、そのたった一つが、「すき」なのだから、しょうがない。

 ぽんぽんと先程とは打って変わって優しげな手つきで、ちっとも底意地の悪そうじゃない笑顔で自分の頭を撫でてくれる梵天丸の、その小さな花弁のような唇から零れた音を、弁丸はきっと多分この先もっともっと研ぎ澄まされて梵天丸を追い込むだろう生まれ持った野生の勘のようなもので拾い上げて、ぎゅうっと自分の小さな小さな胸が引き攣るのを感じた。

 父上にも母上にも兄上にも、敬愛して止まないお館様にも、“好き”と言われるし自らも言うけれど。

 けれども、今、梵天丸から齎された“すき”は全然違うと、弁丸は理解もできないけれど、思う。

 そして、弁丸が伝えた事のある人全てに対して使う“すき”と、梵天丸に伝える“すき”は、全く違うと言う事も。

 まるで理解は出来ないけれど、もっともっと己の本性とでも言うべき今は未だ小さいけれど、紅く燃え滾る炎が宿る場所。臓腑の奥の奥の、もっと奥深い場所で。考え無くても分かるような、そんな感じで。

 弁丸は二人を隔てる膳が邪魔で、立ち上がって梵天丸のところへ行く。

 そのまま笑顔のままで。

 それから、あの夢で見た白くていい匂いでふわふわしたものは、ここにあったのかと思う気持ちで。

「すき」

「だいしゅき」

 もっと言葉が上手になればいいのにと思うけれど、それでも今の弁丸の精一杯で伝える。

「梵天丸殿、だいしゅき」

 ぎゅうと既に癖のようになってきた感のある抱きつきで、座る梵天丸に甘えれば、きゅっと同じくらいの力で抱き締め返されて、再びあの言葉。「すき」と転げた梵天丸の言葉に、弁丸は幸せに笑った。

「もう意地悪致さぬか?」

 笑いながら弁丸が梵天丸を覗き込めば、「それは分からねェ」と一つ目が楽しそうに眇められて。

「では、某がもっと精進致せば大丈夫か」

 弁丸がなおも問いかければ。

「お。お前言葉がしっかりしてきたじゃねェか」

 良かったなと梵天丸にぽふぽふと撫でられれば、何だかもうお漏らしなんてどうでもいい事のように思えてくるから不思議だ。

「しゃっ、しゃようでごじゃるか!」

 梵天丸に言葉がしっかりしたと褒められて嬉しくて、でも未だ本当はあやふやで、「まぐれかよ」と笑われても。

 それでも嬉しいのだから不思議だ。

 元来負けん気が強くて負けず嫌いの弁丸は、兄や、時折遊ぶ子どもたちに揶揄われたり小馬鹿にされれば、猛然と食って掛かる性質なのだから。

 それなのに、この梵天丸だけに至っては、それさえ嬉しくなるのだから、しょうがない。

 すきって、嬉しい気持ちでござるなと、梵天丸の見えている方の頬にすりっと擦り寄れば、至極簡単に「そうだな」と返されて。何の感慨も抑揚もない簡素な言葉。だけど、それがいい。それが、この、梵天丸らしくていいと思う。

 なんて、そんな風に難しくは考えられないのが実情だけれど。

 何はともあれ梵天丸が梵天丸でさえいれば、弁丸にとってそれが全てなのだから。

 彼が彼であるだけで、弁丸はそれが嬉しい。そこが好き。

 嬉しさの余りはしゃいだ弁丸の踵が梵天丸の膳に当ってがちゃんと音を鳴らす。

「おいおい。そりゃ拙いぜ」

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、大人びた梵天丸がそこは気が付いて。

「戻るか」

 今度は「俺は帰る」じゃなかったと、また、それだけで弁丸は嬉しくなる。

 寝起きの粗相で悔しくて情けなくて着替えた後にここまで来る間だってずっと泣いていた自分に、でも、結局突き放しもしなければ置いて行きもしなくて、ずっと、こうして一緒にいてくれた梵天丸にどんどん“すき”が積もっていく。

 一緒に同じ部屋に戻ることが嬉しくて。

 弁丸はぴょんぴょんと跳ねて歩いた。

 お前いい加減落ち着けと、梵天丸に何度か注意されたけれど、嬉しくて楽しくて、足が全然止まってくれない。

 それが分かって欲しくて、弁丸は。

 嬉しい楽しいと何度も繰り返したのだった――。

 

 

 

予感 10

 

 

 

 そんな弁丸を見て、そうか、と一言放って笑った梵天丸は、じゃあもっと喜ばせてやるぜと、やけに格好いい顔でにやりと笑うと、跳ねて歩く弁丸をぎゅっと抱き上げた。

 ふおおお! と初対面の時に上げたのとそっくりな雄叫びを上げた弁丸がこれ以上ない程に満面の笑みを零した。

 ぎゅうっとその勢いのままに梵天丸の首に腕を絡めれば、今までよりもうんとずっとぐっと美しくて格好よくて頗る可愛らしい顔が間近で。

 弁丸は思わずその頬に頬擦りした。

 すきすきと繰り返しながら。

 それから、どうしても、あの夢が夢ではないようで。

 自分の中に降り積もる“すき”の気持ちの勢いのままに、ちゅうと梵天丸の頬に吸い付けば、ぶわっと音がしそうな程瞬く間に梵天丸の頬が真っ赤になって、それも嬉しくて、「やっぱりあの夢は梵天丸殿でござった」とにぱっと笑えば、テメェ! 二度も俺に何しやがる! と思わぬ事実まで知る結果になった。

 喧々囂々ともきゃっきゃうふふとも取れる遣り取りをしながら、二人で梵天丸の私室に戻れば、あの生真面目な己の傅役とどうにも捉え処のない弁丸の傅役に、何だかすっかり見透かされていると言うか、見抜かれていると言うか、見越されていると言うかで。

 ちゃっかりしっかりきっちりと梵天丸の寝室に薄掛けの布団の一式が二つ、水差しには湯呑みが二つ、おねしょ対策の着替えが一つ、団扇が二つ、一つの蚊帳の中に納まっていて、梵天丸は一人赤面してむすっと唇を尖らせた。

 そんな梵天丸に抱っこされたままの弁丸には、その表情はありありと伝わって。梵天丸の頬に寄せていた己の唇を、ちっとも何にも考えずに当たり前みたいにして、弁丸はそのつんと尖った唇に寄せた。

 だって、真っ赤になってつんと唇を尖らせた表情は余りにも可愛くて、それにそうして突き出した唇は、ほっぺよりもっとずっと、ちゅうとしやすくて。

 けれど、それに過剰過ぎる程過剰に反応したのは梵天丸だった。

 きっ、キッ、Kiss……! 最早自慢の南蛮語も吃る始末で、梵天丸が心密かに目指す武将のあり方である“Cool”とは程遠い有り様だった。

「にゃはー。梵天丸殿のお口はふわふわでぷにぷにでごじゃるなあ」

 そんな梵天丸の動揺など意にも介さず、弁丸はお惚け感満載で、ふに、ふに、と何度も何度も梵天丸の唇に己のそれを寄せた。

 口吻と言うには余りに幼い。ただ、薄い皮膚と皮膚をそっと触れ合わせるだけのそれが、でも。

 梵天丸には泣きそうな程特別で意味のあるものになる。

 時刻を告げる鐘が鳴ったのだ。

 折しも丁度子の刻に。

 あ、と小さく漏らした弁丸が、何をか言わんやと思案顔になる。

「今日でござろう?」

 全く言葉足らずにも程があるけれど、それは的確に梵天丸の急所を貫いていて。

「ああ」

 応えた梵天丸の喉が熱く震える。

 まるでお伽噺の世界のようだと、梵天丸は鼻につんと抜ける痛みを堪えて弁丸を抱え直した。

「梵天丸殿、お誕生日おめでとうごじゃ、ござります、りゅっ」

 言い直したくせに最後の最後で噛みやがったと梵天丸は笑いを堪える。

 むう、と悔しいのか恥ずかしいのか、多分その両方で、弁丸の唇が尖る。

 けれども、それでもけろっとしているのが弁丸の弁丸たる所以だ。この前向きさには何も敵わないと思う。

 その証拠に。

「一番にお祝いできましたぞ!」

 自分の誕生日な訳でもないのに、やけに嬉しそうに弾んだ声音で、にゃはっと笑うのだから。

「そうだな。ありがとよ」

 こんな子ども相手に、自分も子どもで。好きも嫌いもないと思うけれど。けれども、やっぱり、好きな相手からの祝いの言葉は嬉しくて。格別で。

「PresentはFirst Kissだな」

 梵天丸がそう告げれば、ほえ? と、ちんぷんかんぷんだと言いたげな顔で首を傾げる弁丸が可愛くて、愛しくて。

「初めてって事だ」

 と、簡潔に梵天丸が伝えれば、そうかと納得顔のしたり顔で、弁丸がまたもやとんでもない事を言い出した。

「梵天丸殿は、某のお嫁さんになったのでござろう?」

 こんな時ばかり流暢に喋りやがってとか、おい何で俺が嫁なんだとか、臍を噛む思いでぴかぴかと輝く笑顔の弁丸を見れば、どこで知ったのか教わったのか、好きな人としか、ちゅってしたらだめなのでごじゃると、真っ赤になって言い募るので。

 色々思うことはあるものの、一先ずと梵天丸が弁丸の言い分を聞けば。

 はじめては、好き合った同士で、それは結婚をするのだと言う。しかも、一生。ずっと。

 笑いそうになりながらも、真剣に言い募る弁丸に、無碍にすることも出来なくて。あーじゃあ今日は結婚しとこうぜと適当に返せば。

 だめだめずっとずっとでござると、再び梵天丸の唇に弁丸は己の唇を擦り付けて、ぱっと離れる。それからもう一度、ちゅっと押し付けて。

「だから、もう、梵天丸殿はしょれがし以外の誰ともちゅうってしたらだめですじょ!」

 めっ! と梵天丸の両頬をあの小さな紅葉の手で挟むように押さえつけ、真剣な吸い込まれそうな大きな瞳で梵天丸の一つ目をしっかりと見つめて付け加えて。

 怒られもしなかった事など露程も疑問に思わず、単純明快な本能のままに、弁丸は梵天丸に己の独占欲を押し付けた。

 その行動と言葉に、梵天丸が一瞬にして動けなくなったのにも気付かずに。

「ならしっかり捕まえとけよ」

 漸く解けた弁丸の呪縛から、震えていると気付かれないようにして絞り出した言葉。本音の、願望の、――言葉。

「うむ! 任せてくだしゃれ! 来年の夏も再来年の夏も、もっともっとずっと先の夏も、全部全部某が、お祝いしてあげましゅぞ!」

 月に照らされてぴかぴかと輝く、弁丸の大きな双眸とその笑顔に、梵天丸は震える胸の中で、ああ、と了承とも諦観とも感嘆とも取れるような吐息を吐いた。

 なんて馬鹿でなんて正直。直情的で飾り気の一つもない。けれど、なんて、こんなにも、無意識で、人を甘やかす子どもなんだろう、と。

 本人は無意識で無自覚で、聞けば馬鹿みたいな言葉なのに。なのに、こんなに泣きたくなる程己の気持ちを揺さぶるのは、どうしてなんだろう。お互いに年端もいかぬ子どもであるにも関わらず、どうして、こう、強烈に己の深い部分を真っ直ぐに抉って来るのだろう。それが、ちっとも痛くないなんて。余りにも、優しすぎて。

 ――本気で“甘やかされている”と思えてしまうのだから。

 弁丸の幼さにかこつけて、自分が年上風を吹かせて甘やかしているつもりでも、もっとずっと根深い奥深い所で、自分は弁丸に甘やかされているのだと、唐突に理解する。

 年下の、未だ赤ん坊と幼子の間を行ったり来たりしているようなこんな子どもに、梵天丸は何故かとても重要な部分で勝てないような気がした。もしかしたら、今のこのあらゆる差や個人間での立ち位置が、いつか逆転する日が来るのかもとすら、思うのだ。

 いや、きっと、それは来るのだろう。

 だって、今既にその予兆はあるのだから。

 こうして弁丸に見つめられて幼い言葉で言い募られて、頬を、唇を、拙い仕草でなぞられるだけで、こんなにも、……自分はあの子どもを意識してしまうのだから。

 

 

 

 

 

 だから、それはきっと近い未来に起こるだろう、確信めいた――予感。

 

 

 

 

Happy Birthday! My Dear Sweetheart MASAMUNE-Dono.

 

 

 
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