No.64643

刃の時間

犬候さん

 この世界を、未だ数匹の亀と象が支えていた時代。
 霧は濃く、森は暗く、神秘と信仰と迷信は絶えず、ただ空だけはどこまでも高かった頃。
 忘れられた、彼らの物語。

 短編連作「死者物語」。

2009-03-22 07:16:46 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:762   閲覧ユーザー数:706

 

 私がここに売られてきてから、半年が経った。

 私は長い事――とはいっても、恐らくは三年かそのくらいの間――路上で暮らしていた。冷たい石畳の上で、数人の仲間と、たったひとりの妹と一緒に、苦しいながらも生きていた。

 けれど、ある寒い晩。妹を塒に残し、一人で食べ物を探しに行った私は、見知らぬ男に捕まり。そうして何人かの人間を経て、私は結局ここに流れ着いた。

 ここは悪くないところだった。屋根があって、壁があって、ベッドがあって。食べ物も三食、欠かさずに貰えた。塩スープとパン。たまに肉や牛乳が与えられることもあった。友達も出来た。

 私はこの半年、何不自由ない生活を送ることが出来た。

 それは全て、今日この日のため。

 

 今日、私ははじめて馬車というものに乗った。私が運ばれた先は、大きなお屋敷だった。多分貴族が所有する屋敷だろう。貴族に所有されているという点では、私も変わりないのだが――私はこんなに立派ではなかった。

私は暗い廊下を歩いて、円形の広間に通された。

 二階には客席があり、大勢の身なりの良い人間が、談笑したり食事をしたり、思い思いに楽しそうにしていた。私がその広間に入ってきたことに気づいて、幾らかの人間が私に注意を向けたようだったが、私の存在などまるで気にした風のない人間も多かった。要するに、私の生き死になどというのは、その程度の事なのだろう。

 今日から私は、剣闘奴隷として戦うことになる。私は子供で女だけれど、私と共に訓練を積んだ仲間は子供ばかりで、女も多かった。

 ここで戦わせられるのは子供だけらしい。

 さあ、これが初戦だ。この戦いに勝てば、私は晴れて剣闘士の仲間入りを果たすことが出来る。今日の相手は、私とは違う訓練所の人間らしかった。

 私にはただひとつだけ、心に決めたことがあった。もしも、もしも生き別れた妹とこの場で相対したのならば。そのときは、私が死のう。

 正面、私が入ってきたのと反対側にある扉が開き、対戦者が現れた。その姿を見て、私は幾らか安堵する。対戦者は女の子だった。歳も多分、私と同じくらいだろう。私も自分の訓練所の女のなかでは強い方だけれど、男が相手だと苦戦するかもしれなかった。

 対戦者がこちらに歩み寄ってくるのを見て、私も前に足を踏み出した。広間の中央で距離を置いて、私と対戦者は対峙する。

 対戦者の唇が微かに震えるのが見えた。

「……グレッダ」

 それは懐かしき友人。大切な友人。あの冷たい冷たい石畳の上で一緒に生きていた仲間。

 だけど。

「……だけど、あなたはわたしの妹ではなかったわ」

 だからここからは刃の時間。

 どうあったところで、あなたとはもう二度と、笑い合う事はない。

 さようなら、わたしの友達。

 


 
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