No.639725

超次元ゲイム学園 三時間目 (調査団と妖華)

ようやく書き終えました……。
時間がかかってしまい、本当に銀枠さんとリアおぜさんにはご迷惑をおかけしました。
この場をお借りして、謝罪いたします……。
さて、コラボの第三話です。
個人的に今回のコラボは、私にとって、ひとつの挑戦でした。

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2013-11-25 00:33:56 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:1702   閲覧ユーザー数:1535

雪村千怜(ゆきむらちさと)は夢を見ていた。

不思議な夢だ。

深い、暗い、水の底に、仰向けになって沈んでいく夢である。

否、その空間に()という概念が存在するのかどうかも、怪しかった。

さっきから、ずっと沈み続けているのに、まだ底にたどり着かない。そもそも、夢の初めから、水面すら見えなかった。ここがどんな場所なのか、海なのか湖なのか、はたまた何処か全く別の場所なのか、千怜には見当もつかなかった。

だが、夢の中でもはっきりと自我はあった。

それどころか、感覚に関しては、いつもよりも鋭くなっているようにも感じられた。

目の前には、闇が広がっていた。が、数メートル先の物を見ることが出来るぐらいの明るさは、常に確保されていた。

呼吸は一切苦しくない。息を吸い込めば吸い込むだけ、肺の中に空気が満たされていく感触が、はっきりとわかる。

それなのに、服の外から染み込んで肌にまとわりつく水の感触も、恐ろしいほどにリアルに感じられた。

身体は動かない。首や手足はおろか、まばたきのひとつさえする事ができなかった。

怖い、そう思った。

一方で、ずっとこのまま水の中に身を委ねていたいという思いもあった。

この思いは、なんだろう?

恐怖が私を包んでいる中で、私の内側から、ゆっくりと溢れ出てくるこの思いは。

好奇心ではなかった。

快感でもなかった。

愛しさでもなかった。

安心感――

ああ、そうだ。これは安心感なのかもしれない。

なら、こうしていよう。いつまでも。

そうすれば、私はずっと、こんな思いでいられるのかもしれない。

自分の身も、意識も、何もかもこの水の中に委ねてしまおう。

そんな思いが、千怜の頭の中をよぎっていた時――

ふと、目の前に何かが突然現れた。

何の前触れもなかった。気が付いたときには、もうそれ(・・)は、そこにいた。

薄暗くてよく見えないが、シルエットからして、それは人間のようだった。が、次の瞬間には、それが人間でない事が分かった。

それは、その人物が身に纏っているようにそこに存在している気配で、おのずと分かった。

不思議な()だった。圧倒的な神々しさのなかに、隠し切れない妖気のような物もあった。その全てが、水という媒介を通して、千怜の中に直接流れ込んでくるようであった。

――誰?

千怜には覚えのない影だった。

 ドレスのような物を身に纏っているのと、髪の長いことから察するに、おそらく女性であろうとは思った。

膝の辺りまで届こうかというような長い髪は、影だけを見ていても、優雅で艶かしいものがあった。

顔は分からない。辺りの闇が、その女性と思わしきものの顔を、覆い隠していた。

不意に、その影が、自分に向けて手を伸ばしてきた。

それはその姿勢のまま、徐々に自分に向かってきていた。

さっきまで少し遠目に感じられていたその影の手が、今は自分に触れそうになっていた。

あと少し、あと少しで届く――

そんな時、影の唇と思わしき部分が上下したのを、千怜は見た。

 

『帰るぞ――、皆待っている――』

 

 

 

 

 

 

ふと、目を覚ました。

寝ぼけた両目に、ぼんやりと二段ベッドの上の方のベッドフレームが映った。

部屋の奥からは、玉子の焼ける芳しい匂いと、何かを刻む軽快な音が聞こえてきた。

その音を聞いて、千怜はようやく瞼を擦りながら、仰向けていた体を左へ向けた。

身体を向けた先に、ちょうど窓があった。そこからは、雲ひとつない青空に燦々と輝く朝の日の光が、たっぷりと降り注いでいた。

――朝、か。

ベッドに手を突いて上半身を起こしながら、雪村千怜は心の中で呟いた。

大人びた雰囲気を醸し出している少女だった。

まだその身体は成長途中でありながら、着せる服によっては大人と間違える者もいるかもしれなかった。

癖のない艶やかな黒い髪が、ふくよかな胸の辺りまで流れ落ちている。

少し色が深めの水色の瞳が、半開きの瞼の間から覗いている。

化粧はしていないが、その鼻筋や、顔のライン、眉毛などは、化粧の必要がないほどきっちりと整っていた。

超次元ゲイム学園高等部のプラネテューヌ女子寮の寝室――

そこが、千怜が目を覚ました場所である。

学生寮と聞けば狭苦しいイメージを感じるが、ここは狭苦しさとは無縁の場所だった。

部屋に置いてあるのは、木製の二段ベッドがひとつ。それに、クローゼットとデスクがふたつずつ置いてあった。

これだけの物が置いてあるのにもかかわらず、部屋にはまだ、ある程度のゆとりがあった。配置にさえこだわらなければ、ベッドのもうひとつぐらいは、置けそうである。

さらに、ここに加えて、この部屋の奥にはもうひとつ、共同スペースであるリビングダイニングルームがあるのだ。

千怜から向かって左側のドアを開ければ、それがそうである。これだけのスペースで、ふたり部屋なのだ。

もはや学生寮と言うよりは、マンションの一室と呼んでも過言ではない広さを誇るこの部屋には、これだけの広さを取れる理由が、きちんと存在するのである。

そもそもは、この学園自体の規模が、桁外れに大きいのだ。

超次元ゲイム学園、それはこの"ゲイムギョウ界"最大の学舎(まなびや)である。

そもそもは、学園長イストワールの掲げた、性別や来歴、出身地や身分などの一切を問わず、未来を担う若者を慈しみ、その能力を最大限まで伸ばすという理想の元に設立された学園であるが、いまやその規模は計り知れないほどに膨れ上がっていた。

学園にはおよそ百を超える様々な種類の学科が存在しており、その多様性は他の教育施設の比ではなかった。

ごくありきたりな普通科や総合学科をはじめとして、音楽科にクリエイター科、さらにマイナーな科としては、国やギルドのインテリジェンスオフィサーの育成を目的としたエージェント科、元素転換技術を基として、未知なる物質の生成、または変換などの技術獲得を目的とした錬金術科、次世代の世界の統治者である女神を育成する女神候補科などなど、確固たる意思を持って入学した生徒をも別の道へと誘ってしまいそうな、ある意味本末転倒と言っても過言ではないほど、この学園の学科は充実している。

――そしてそれに比例するがごとく、この学園は増築と改装を重ねていった。

校舎の外見自体は、それほど変わってはいない。だがその内部となると話は別である。

一見すればそれほど巨大には見えない校舎は、ひとたび内部へと入り込めば、校舎内で(・・・・)捜索隊が派遣される騒ぎが起こるほどの異常な広さを誇っていた。

が、当の生徒達は、もうそんなことには慣れていた。それが人間の適応性である。

入った当初は圧倒され続けた学園の規模も、一年もすればそれが当たり前になっているのである。

だから高等部の二年生である千怜もまた、この部屋の広さに今更驚いたりはしなかった。

何のことはない、いつもの日常の風景である。

だが、今の千怜の心中は、決して穏やかではなかった。

――あれは何だったの?

千怜は思い出していた。

良くない夢を見ていた。

だが決して、悪夢と断定できるような、悲惨な夢ではなかった。

水の詰まった空間の底に、沈んでいく夢を見ていた。

それは、海だったかもしれないし、湖だったかもしれない。否、本当はそれ以外かもしれない。その辺りの記憶は、ひどく曖昧だった。

が、肌に水が触れる感触は、リアルだった。

服に水が染み込んでゆく感触も、水の中で目を見開いていた感触も、今でもすべてが手に取るように思い出せる。

夢は、それだけだっただろうか?

ああ、そういえば――

水の中に、影を見ていた。

それが誰なのかは、分からない。

髪が長かったのと、覚えている服装から考える限り、女性だろうと言うことまでは分かっていた。

でも、それが誰なのかは、皆目検討もつかなかった。

そういえば、昨日も一昨日も、同じ夢を見た気がした。

何で、こんな夢を、繰り返し見なければならないのか――

千怜はベッドに座ったまま、もやもやした頭を抱えながらそう思った。

だが、所詮は夢である。考えたところで、どうこうなる問題でもなかった。

千怜はさっさと考えるのをやめると、ベッドから起き上がった。

軽く背伸びをしながら、パジャマ姿のままで、左側奥の扉を押し開いた。

「おはよー、千怜」

リビングに入った千怜を出迎えたのは、まだ幼さの際立った声と、部屋の中央に置かれたテーブルの上の朝食から来る芳しい匂いだった。

十五畳ほどの部屋だった。

部屋の奥には広々としたシステムキッチンが。そして部屋の中央には、木製のテーブルとふたつの白い椅子が置いてある。

純白の革製のダブルソファーの真正面には、40インチほどの薄型テレビがあった。

部屋の隅には鉢が置かれており、そこからはパキラが、しっかりとした幹から青々とした大きな葉を茂らせていた。

シックな雰囲気で統一された空間は、ここが学生寮であることを忘れさせてしまいそうであった。

が、千怜の目は、そんなものには見向きもしなかった。彼女が見ているのは、自分に声をかけてきた少女だけだった。

その少女は、キッチンのコンロの前で台の上に乗りながら、左手にフライパンを握っていた。

少女は溶いた卵の入ったフライパンを火にかけると、右手に持った菜ばしで円を描くように、中の卵をかき混ぜた。じゅうじゅうと音を立てて卵が焼けていく。ちょうど半熟になるかならないかのところで、少女はフライパンを前に傾けて、卵をフライパンの端に寄せると、右手に作ったこぶしで柄の部分を軽くたたき始めた。どうやら作っているのは、オムレツらしい。

それを作っているのは、見るからに小柄な少女だった。

どう贔屓目に見ても、その身長は140㎝にも満たなかった。

外見だけで判断すれば、おおよそ小等部の三年あたりが妥当である。が、ここは高等部の学生寮である。少なくとも、この少女は高等部の一年以上と言う事になるが、とてもそうは思えなかった。着ているパジャマの袖にも、その上から身に着けているエプロンの裾にも、大分余りがある。

鮮やかな栗色の髪を、肩まで伸ばしている。小さな顔の中にある、丸く可愛らしい瞳も、髪と同じ色をしていた。

「おはようございます、副長」

抑揚の乏しい声で千怜が言った。

別に不機嫌なわけではない。彼女の口調はいつもこんな感じなのである。

「もう、別にここじゃあ、副長だなんて呼ばなくてもいいのに」

少女、エネット・ラドリー・オークレーは、千怜のほうへ振り返ると、明るい笑顔で答えた。

「副長は、副長ですから。何か手伝うことはありますか?」

千怜が尋ねる。

「じゃあ、えーっと、千怜はサラダ作ってくれない? パンはもうトースターに入れてあるから」

「わかりました。使う野菜に希望とかはありますか?」

「何でもいいよ。確か、レタスとトマトが野菜室にあったと思うから、後は適当にお願い」

「了解」

千怜は短く答えると、椅子にかけてあったエプロンを身に着け、キッチンに立った。

真っ先に冷蔵庫へ歩み寄ると、野菜室の中から真っ赤に色づいたトマトをひとつと、やや小ぶりのレタス、それに大きな玉葱を、無造作にまな板の上へ置いていった。

一通り材料が揃ったところで、千怜はキッチンの下にある収納スペースから、包丁を取り出した。それを右手で軽く握り締め、左手でトマトを押さえながら、慣れた手つきでトマトに包丁を入れた。

あっという間に、トマトは八等分になってしまっていた。千怜はそれをまな板の端に寄せると、今度は中ぶりのボウルに水を張って、まな板のそばに置いた。

千怜の左手が玉葱に伸びた。一旦包丁を置いて、両手で玉葱の皮をむく。一通りむき終わると、千怜は再び包丁を右手に握った。半分に切った玉葱を、包丁が小気味良いリズムでまな板を叩き、薄くスライスして行く。

玉葱をすべてスライスすると、千怜はそれを水を張ったボウルの中に入れ、軽く揉んだ。水が白く濁ってゆく。そのタイミングで、千怜は水を捨て、またボウルに水を張っては、玉葱を揉んだ。

玉葱は通常、生でサラダに加える。だが、そのままでは辛味が強すぎて、味が分からなくなる。そのため、玉葱の繊維に逆らうようにスライスして、水にさらすのである。こうすることで、玉葱の辛味が抑えられ、生でも食べられるようになるのだ。

最後に、千怜はキッチンの上の棚から、ガラス製の大きな深皿を取り出すと、まずそこにレタスをちぎって加えた。

その上に乗せたのは、水を切った玉葱である。さらにその上に、八等分にしたトマトを、放射状に乗せていく。

仕上げに、千怜は冷蔵庫の中から小さなタッパーを取り出すと、その中に入っているスイートコーンを、スプーンですくってサラダの上に振りかけた。

「副長、サラダはもうできました」

振り向きざまに千怜が言った。

「こっちもできたよー。さっ、朝ごはん朝ごはんっと」

エネットの嬉しそうな声が、千怜の耳に入ってきた。

千怜がエネットの方へ振り向くと、そこには黄金色に輝く、ふっくらとしたオムレツが、ふたつの皿にひとつずつ乗った状態で、白い湯気を天井に向けて立ち上らせていた。

 

 

 

  ◆◆◆

 

 

 

「楽しみだなぁ」

ケチャップをかけたオムレツをスプーンで口に運びながら、エネットがぶっきら棒に言った。

「なにがですか?」

「なにって、今日は始業式じゃん! 今日から私も高校生だし、クラスは何処かな? とか、新しい友達はできるかな? とか、ちょっと不安もあるけど、やっぱりそう言うのってわくわくしない?」

「そういうものですかね」

「そうだよ。千怜は違うの?」

「私は特には……」

そう言って千怜は、オレンジマーマレードを塗ったトーストをひと口かじった。

自慢できた事ではないが、千怜には友人と呼べる者は少なかった。

もともと内向的な性格の上に、この無口さである。友人を作りたくないわけではないが、作ってもどう接してよいのかわからないのである。去年のクラスメートを見渡せば、男女問わず、仲良く笑い話や恋の話に花を咲かせていたが、千怜はどうもあれが苦手で、話の輪に入ることができないまま、結局去年は新しい友人を作ることなく終わってしまったというのが、彼女の現実だった。

「だいたい千怜はおとなし過ぎるんだよ。私は千怜と話してて面白いと思うんだから、もっと積極的にならなくっちゃ!」

「多分、そんなこと思ってくれるのは、副長だけですよ」

「そんな事ないって! 試しにさ、今日の始業式の後のHR辺りで、誰かに声かけてみたら?」

「まあ、機会があれば。それより――」

千怜は視線をエネットから、壁にかかっている時計に移した。

心なしか、時計を見た後の千怜のトーストを食べる速度が上がっていた。

ようやくエネットもそれに気付いたのか、壁の時計に目を向けた。

「ちょ、あと十五分で入学式じゃん!」

エネットが血相を変えて千怜のほうを見た。

「すっかり話し込んでましたね。急がないと、初日から遅刻ですよ」

「あぁもう、せっかくの晴れの舞台だから、アイロンで髪整えようと思ったのに!」

慌しい声を上げながら、エネットは自分の皿の上においてあった食べかけのトーストを口にくわえると、椅子から立ち上がってクローゼットの方へと走った。

そこからハンガーに掛かっている制服をふたつ取り出すと、見るからにサイズが大きいほうを、千怜のほうへと投げ渡した。

ふたりは、食べかけのトーストを無理やり口の中に押し込むと、颯爽とパジャマを脱ぎ捨てて洗濯物カゴへ放り込み、制服に着替えた。

バッグは既に玄関に用意してあった。後は、そこまで走るだけである。

「じゃ、千怜。HR終わったら、いつもの場所で待ち合わせね」

制服のポケットからヘアピンを取り出し、左サイドの前髪につけながら、エネットが言った。

「わかりました。とりあえず、急ぎましょう。あと十分もありませんし」

ヘアゴムを口にくわえて、千怜が答えた。

そのまま千怜は背中に流れている後ろ髪を慣れた手つきでまとめ上げ、左手で作った毛束を押さえながら、ヘアゴムでその根元を縛った。

ものの一分と掛からずに、千怜の頭にはポニーテールが出来上がっていた。コームやワックスで整えてはいないが、元々髪質が良いせいか、髪はかなりまとまっており、この短時間で無造作に作ったとは思えない仕上がりになっていた。

身支度の終わったふたりは、大急ぎで玄関へと急いだ。

雪村千怜と、エネット・ラドリー・オークレーは、せわしない入学式の朝を迎えていた。

 

 

 

 

 

 

千怜は腕を組んで壁にもたれながら、その場に直立していた。

エネットがまだ来ないのである。

左腕に巻いたリストコムに目をやると、HR終了予定時刻から、十五分ほど経っていた。

待っている場所は、中央棟一階の廊下だった。ちょうど南棟からの通路と中央棟の通路がぶつかって、T字の形をしているところである。

千怜の目の前には、ガラス張りのスライド式のドアを挟んで、中庭が広がっていた。

そこには、まだ葉の青さが十分でない木々の下に、色とりどりに咲く春の花々が、芳しい香りを放っていた。

心地よい春の陽気だった。

ふと見れば、中庭に置かれたいくつかのベンチには、既に何人かが腰を下ろして、食事をしたり、無駄話に花を咲かせていた。

この場所は、ふたりが待ち合わせる時に使う、定番の場所だった。

とくにこんな穏やかな天気のときは、ここで待ち合わせて、ふたり揃って昼ごはんを中庭で食べるのが、通例だった。

エネットは、まだ来ない。

おおかた、HRが長引いているのだろうと、千怜は思っていた。

二年生と違って、一年生のHRは、長い。学年が上がるだけの二年生と違って、一年生は中等部から高等部への移り変わりである。話す量が違うのは、当然のことだ。事実、千怜自身も去年のHRが長かったことは、記憶に新しい。とはいえ、彼女は終始居眠りをし続けていたため、教師の話などは、これっぽっちも頭の中には入っていなかったのだが。

エネットが来たのは、それからしばらくしてからのことだった。

千怜から見て右側から、栗色の髪をした周りよりもひと回りかふた回りほど小柄な少女が、人の間をすり抜けながら走ってきたので、それは容易に知れた。

「ごめんごめん、待たせちゃったよね?」

エネットが肩で息をしながら言った。

「いいえ、それほどは。それより、早く行かないと。副長のアレ(・・)、なくなりますよ?」

「そうだった! 急がないと!」

エネットは千怜の手を引いて、自分が来た方向と反対の方向へと走り出した。千怜もそれに釣られて走る。

ふたりが目指しているのは、購買だった。

この学園には、南棟の食堂のほかにも、飲食物の販売所として、中央棟に購買が設けられていた。品揃えや質こそ食堂には劣るが、手軽に食事を済ませたいときや、小腹が空いたとき、外で食事を食べたいときなどは、こちらのほうが人気があった。特にこんな天気の良い春の日和には、購買に多くの人が集まるのだ。

千怜が言っていたエネットのアレとは、彼女が決まって購買で購入する、一日50食限定のエビカツサンドのことである。

エネットは特に食に関してこだわりが強いほうではないが、それでも、購買のお気に入りのメニューぐらいはある。彼女がいつも購買で買う十八番は、エビカツサンドに紙パックに入ったレモンティー、それにその日の気分に合わせて、もうひとつ他のパンを買っていた。

レモンティーが売り切れるということは、まずあり得ない。いくつ仕入れているのか詳しく知っているわけではなかったが、実際彼女が購買の終了間際に、ふと無性にレモンティーが飲みたくなって訪れた時にも、いくつか余りがあったほどだった。

が、エビカツサンドは別だった。ただでさえ人気メニューであるにもかかわらず、業者の事情なのか、購買がそれを仕入れる数は、決まって50個だけであった。それも、毎日決まって、きっちり50個なのである。エネットは、それよりも多い日を見たことがなかったし、それよりも少ない日も、見たことがなかった。

購買には、待ち合わせ場所から走って、三十秒と掛からずに着いた。

すでに購買の注文口にはかなりの数の生徒が押しかけていた。

ざっと見積もって、四十人弱といったところだろうか。全員列は作っておらず、各々が注文口にまばらになって殺到していた。一番空いている部分を見ても、注文口にたどり着くまで、六人ほどの人の壁が出来ていた。

購買の形式は、注文口の下に設けられた棚に置かれている商品を、生徒が自ら取って、注文口の中に立っている担当者に渡して買い取るというものである。棚においてあるものは、原則常温保存が可能な食べ物、パンやおにぎりなどに限られていた。例外として、棚に無い商品、例えば筆記用具や制服のボタン、他にジュースやお茶などの飲料物は、口頭での注文となっている。その際は、担当者が注文口の中にある冷蔵庫から、あるいは奥においてあるダンボールの中から、商品を取ってくる仕組みとなっていた。

「うわぁ……エビカツサンド、残ってるかな?」

ごった返す人の波を少し離れたところで見つめていたエネットが、思わずぼそりと呟いた。

「この人数じゃ、少し厳しいかもしれませんね。それに――」

エネットの隣にいる千怜が、ふと口をつぐんだ。

左手首に巻いたリストコムが鳴り出したのである。

ざわざわと人の声がひしめく購買の前では、リストコムの音はそれほど目立たなかったが、それでもふたりにはきちんと聞き取ることが出来るぐらいの音量ではあった。

千怜はすぐにリストコムの画面に表示された、受信の文字をタップした。

ほんの少しの間をおいて、低い男の声が響いてきた。

「千怜、今どこにいる?」

それは、ふたりにとって聞きなれた声だった。

そしてその声を聞いた瞬間、千怜の眉間に皺が寄った。この声が聞こえるときは、大体ふたりにとって、面倒ごとを押し付けられる前触れでもあるからだ。

「中央棟一階の、購買の前です」

抑揚の無い、取り繕ったような敬語で、千怜は左手のリストコムに向かって答えた。

「どうせ、エネットも近くにいるんだろう。そのことを前提で話すぞ」

「何の用ですか?」

「ついさっき、ボトルメールでの緊急信号を、水林に設置してある仮設基地のコンピュータがキャッチした。位置は仮設基地から少し離れた場所の、水林の奥にある密林ゾーンだ。このまま要救助者に方向もわからず奥に進まれると、少々厄介なことになる。位置情報を転送するから、至急その場所に向かえ」

「まだお昼食べてないんですけれど」

「命令だ。従え」

「……了解」

千怜がそう言った途端、一方的にリストコムの通信が切れた。

その直後、リストコムの画面が変わった。

先程まで時刻表示がされていただけの画面に、送られてきた位置情報が、マップとなってリストコムの画面に表示されていた。

今の自分たちの位置は、青い点で表示されている。仮設基地の場所は黄色、そして、ボトルメールの緊急信号があったと予測されている位置は、赤い点で表示されていた。見る限り、距離はそこまで遠くない。この位置から向こうまでを一気に画面に表示しても、マップの縮尺の倍率はそう高くはなかったからだ。

「千怜、もしかして今のって……団長から?」

千怜の顔を下から覗き込みながらエネットが訊いた。顔には明らかに不安の色があった。

「ええ、団長からです」

「ってことはつまり――」

「そういうことですね」

これだけのやり取りで、エネットは全てを悟った。直後に彼女の口から漏れた盛大なため息が、それを物語っている。

ふたりはすぐに購買の注文口から離れると、元来た道へ足を進めた。見るからに先ほどよりも足取りは重いが、それでもかなりの早足で廊下を進んでいた。

要救助者は、今この時も恐怖に怯えている。そう考えると、自然とふたりの足取りは速くなっていった。一分一秒でも、要救助者の下へ駆けつける。今のふたりの頭には、もうこれだけしか存在しなかった。

「ま、これが私たちの仕事だもん。しょうがないよね」

口では仕方なさそうに言いながらも、エネットの顔には、はつらつとした笑顔があった。

「では、行きますか」

千怜の言葉を合図に、ふたりは人の間を縫って走り出した。

その後ろ姿は、廊下の突き当たりの曲がり角へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

来た道を、引き返しているはずだった。

否、この密林の中、道と呼べるものはなかった。足元にあるのは整備された道ではなく、伸び放題になっているシダ植物と、地面に絡んだ太い木の根だけである。頼りになるのは、ここにきた時の記憶だけ。しかも、パニック状態に陥った時にほんの少しだけ見渡した、周りの景色だけだった。

密林の中を彷徨っているのは、制服姿のひとりの少女だった。歳は、せいぜい十三、四歳ぐらいだろうか。セミロングの色の薄い茶髪に、大きな黒い瞳が印象的だった。その黒い瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。

 

 

少女は、中等部の二年生だった。元々この立ち入り禁止区域には、もうひとりの同級生とのふたりで来ていた。

最初にこの立ち入り禁止区域に行こうと誘ったのは、この少女だった。彼女とその同級生は共に自然科学部の部員で、最初はほんの入り口の草原で、野草の採集をする予定であった。

立ち入り禁止区域とは、その名の通り、この学校が定めている危険区域である。

事の発端は、学園のあまりに度が過ぎる広さにあった。計り知れない規模にまで膨らんでしまった学園には、人の手がほとんど加わっていない、もしくは学園の教師ですら、目の届かない区域までができてしまったために、学園内での遭難者が後を絶たないという自体が起きてしまった。

そこで、学園は一定の区域を立ち入り禁止区域と定め、許可なくそこへ入ることを禁じた。

もし、無許可でそこへ立ち入って、自分の生命が危ぶまれることになれば、それは自己責任。個々の判断で防衛せよ、と言うのである。

だが、それはあくまで無許可では立ち入り禁止ということであって、ようするに許可さえ取れればいいのである。

ひと口に立ち入り禁止区域といっても、その危険性は場所によって様々である。手軽なところでは、訓練用の機器が多数設置してあるところもある。当然、そういった所に行く許可を取るのは、中等部の二年生であれば、容易い事だった。

ふたりは、クエストという建前で、立ち入り禁止区域の中でも特に危険の少ない、草原エリアに行った。

その場所ならば、何度か課外授業でも立ち入ったことがあったし、先輩たちに連れられて行ったりした事もあった。おまけに季節は春。野外活動をするには絶好の季節でもあった。

そして何より、そこは生息しているモンスターが少ないうえに、その強さも高が知れていた。ふたりの持っている護身用でも、十分に対処できるし、万が一身の危険を感じても、すぐに引き返せばよいと考えていた。

だが、この余裕が、後になって裏目に出た。

草原の野草をあらかた物色すると、ふたりにはついつい欲が出てしまった。もっと珍しい物をと、ふたりの足は自然と草原の奥、水林エリアに向かっていた。

ふたりにとってそこは、初めて訪れた場所だった。目に付く野草も、今までは図鑑や部室の標本で見たり、先輩の話でしか聞いたことのないような野草が、いくつもあった。

胸の鼓動が高鳴った。一瞬、自分たちが規則を破って別のエリアへと歩みを進めたことすら、どうでもよく感じた。

こうなると、当然目の前の野草のこと以外が、盲目になる。

最初はふたり一緒になって採集していたのが、地面に生えている野草を目で追い続けるうちに、いつの間にかひとりになっていた。いつからはぐれてしまったのか、皆目見当もつかなかった。

先ほどの草原エリアと違って、水林エリアには多少背の高い木が多く乱立していた。そのため、周りを見渡したときに目に入る距離が、草原と水林とでは、かなりの違いがあった。このときすでに、少女がいくら見渡せども、同級生の姿はどこにもなかった。

急に、不安が押し寄せた。

同級生とはぐれてしまった。どれだけ奥に入ったのか分からないが、ここは水林エリアの中。全く鍛えていない自分ひとりで、どうにかなる場所なのだろうか。一応緊急時に学園に救難信号を送ることができるボトルメールと、護身用程度の装備はあるが、できればそれは使いたくない。

引き返そうにも、考えてみれば地面の野草を見つめていたため、帰り道が朧気にしかわからない。

それに同級生を探さなければと思うが、どこに行ってしまったのか、皆目見当もつかない。

そんなことを考えながら、大したあてもなく、来た方向であろう方角に向けて歩みを進めたとき――

ふと、少女の足に何かが当たった。

弾力があり、そしてなにより、生臭いなにか。

下を向いてみると、目に入ったのは、下生えの中にある大きな灰色の塊だった。

「ひっ!」

思わず少女が小さく悲鳴を上げた。

地面に横たわっているのは、カモシカの死体だった。

それも、まだ腐敗の進んでいない、新しい死体だ。

灰色の、黒が濃い首の辺りに、深々と噛み傷が残っている。首の肉が削がれ、赤黒い肉の断面から白い骨が見えている。おそらくこれが、致命傷となったのだろう。

だが、少女の意識は、それよりもさらに少し下。カモシカの腹の辺りに向いていた。

――なにか、いる

それは、白くて丸い塊だった。

前足は見えない。その丸い胴体の下にあるのだろうが、それに比べて前足が短すぎるのだ。

そのカモシカよりもふた回りほど小さいその生き物は、カモシカの腹に顔を突っ込んで、内臓を貪っていた。

ぴちゃ、

ぐちゃ、

と、その生き物が顔を突っ込むたびに、いやな音が水林に響いた。

少女はその場から後ずさった。こんなところ、一秒と長く居たくなかった。今すぐこの場から、絶叫を上げて走り出したかった。

が、走れない。脳が走り出せと指令を送っているのに、体が思うように動かない。完全に腰が抜けていた。

ふいに、その生き物が食事をやめて、カモシカの腹に突っ込んでいた顔を、少女のほうに向けた。

少女は戦慄した。

まず目に入ったのは、頭の後ろからぴんと伸びた、長い耳である。それに、小さな鼻の辺りから伸びた、数本の長い髭。

そう、カモシカを殺し、捕食していたのは、ウサギだったのだ。

だがそれは、ウサギであってウサギではなかった。

ぎょろりと大きく血走った眼は、まるで草食動物を狩る肉食獣のように、妖しく光っていた。

血に汚れた口は、首と顔の付け根辺りまで伸びている。そこに並んでいる歯は、草食動物の臼歯ではない。それは紛れもなく、肉食獣の犬歯。肉を引き裂くために進化した牙である。

体はウサギ、顔は肉食獣――

そんなわけの分からない生物は、今、確実に少女を、新たな標的として捉えていた。

殺戮者の狂った瞳が少女を捉え、血まみれの口からちろちろと舌を出し、少女に近寄っていく。

「いや……来ないで……」

目蓋に涙を溜め込んで、少女が後ずさった。その両手には、たった今、肩に提げていたショルダーバッグから取り出した、護身用の散弾銃が握られていた。

ソードオフ・ショットガンと呼ばれる、銃身を切り詰めた、単発式の小型の散弾銃である。

目の前の白い獣に向けられた銃口は、しかし狙いを定めるには至らなかった。

おぼつかない手つきで散弾銃を構えている少女の両腕が、痙攣を起こしたように震えているのである。

少女のこめかみの血管が、心臓の鼓動を受けて、ずきずきと脈打つ。

引き金に、細くて小さな人差し指がかかる。

ウサギの姿をした肉食獣が近づく。

一歩――

また一歩――、

三歩目を待たずに、白い獣が少女に跳びかかった。ウサギ特有の、後ろ足のばねを生かした素早い奇襲だ。

 

しゃああああっ!!

 

と、犬歯をむき出しにした口から息を漏らして、少女の喉元を獣の顎が襲う。

少女はほとんど反射的に、引き金に添えた人差し指に力をこめた。

獣の咆哮に近い散弾銃の銃声が、同時にあげた少女の悲鳴をかき消した。

如何せん、少女の腕では散弾銃を支えることは不可能だった。銃口が大きく跳ね上がってしまった。

が、今回はそれが逆に良かった。

地面に向けていた銃口は、そこから跳ね上がって、ちょうど喉元目掛けて跳び上がった白い獣に向けて火を吹いた。

散弾銃から放たれた、計十二発の弾丸のうち四発が、少女を襲った白い獣の頭を撃ち抜いた。

頭部を失った獣は、短い首から鮮血を辺りに撒き散らし、撃たれた場所から数メートル後方の地面に落ちた。

白い獣は自らの血でその身体を赤く染め上げると、びくびくと痙攣した後、沈黙した。

少女は放心状態だった。

銃を撃った反動で尻餅を突き、その場から立ち上がることができなかった。

まだ、こめかみがうるさく脈打っている。呼吸が整わない。

ふと見ると、先ほど自分を襲ったウサギのような獣の身体が、徐々に光を帯び、粒子となって昇華してゆくのが見えた。

普通の生物には見られない、モンスター特有の現象である。

まだ整理のつかない頭で、ああ、あれはモンスターだったのかと思った時――

ヒューイ

と、この水林のどこからか、獣の声が響いた。

カーーカカッ

クエエエッ

オ~~~ウ

シュイッシュイ

ギュエェイ、グエッ

それに釣られるように、他の獣たちが一斉に鳴き出した。

次第にその声が、騒がしく、そして近づいてくるのが分かった。

それを耳にした瞬間、自分の身体を流れる血液が一気に熱を失っていくのを、少女は感じた。

うるさく脈打っていたこめかみが、途端にその刻みを止めた。もしかしたら、心臓が止まってしまったのではないかと錯覚してしまうほどの恐怖を、今少女は感じていた。

最悪の事態だった。

先ほど撃った散弾銃の銃声が、水林に潜むモンスターたちを呼び寄せているのだ。

普通、森に住む野生の獣なら、銃声を聞きつけた瞬間、その場から立ち去る。というよりは、人の気配を感じれば、熊であろうと猪であろうと、向こうの方から人間から遠ざかる。それが自分の身を守る最善の方法だと、本能的に知っているからである。

だが、モンスターは別だ。モンスターは逆に、人間の気配を感じれば、向こうからこちらへとやって来るのだ。

目的は単純明快。ふたつに絞られる。

すなわち、捕食か殺戮。

それが、モンスターと野生の獣の違いのひとつでもある。

声は四方八方から聞こえてくる。その声には確かな色があった。

モンスターは少女を狙っているのである。声は重く、そして徐々に近づいてきている。

少女は、手に持っていた散弾銃をその場に投げ捨てると、不恰好にその場から立ち上がり、一目散に走り出した。

元々自分が持っていても、あまり意味のない、いわば気休めのような護身用だ。あんな偶然は、二度とは無いだろう。それを捨てて身軽になれるのならば、そちらのほうが数段良い。

訳もわからずに、ただ全力で走った。

ペース配分など考えている暇は無い。

止まれば、死。

ただ走る。足元の木の根や岩を避けながら、ひたすらに走る。

ほとんど無呼吸に近い状態で走っていた。もう獣の声すら頭に入らない。走り続けられる間は、走らなければならない。

しかし、少女は気付いていなかった。

自分は恐怖に駆られるうちに、無意識のうちに、人の生存本能が呼び起こす方向。すなわち、自分の背後に向けて、走っていることに。

そう、水林よりも遥かに奥の、密林に向けて――

 

 

 

  ◆◆◆

 

 

 

そうして、少女は今、密林の中を彷徨っていた。

何とかモンスターは撒いたらしいが、状況は悪くなる一方だった。

同級生とは結局、はぐれたまま。こうなってはもう、自力で再開するのは不可能に近かった。

おまけに今自分がいるのは、水林エリアよりもさらに奥の密林エリア。ふと周りを見渡せば、複雑に絡んだ木の根に、倒木、それに木の

枝から枝へと伸びている蔓が、行く手を阻む。学園までどれほどの距離があるのかは、疲れきった身体には、考えるのもだるかった。

こうなっては、もう四の五の言ってはいられなかった。

少女は先ほど、多少の罰は覚悟の上で、緊急用のボトルメールを使っていた。

電波の届かない危険区域では、救難信号は電子機器を使った通信ではなく、魔力を用いたボトルメールを使う。

まず瓶の形をした特殊な装置のなかに、手紙を書いて入れる。あとは蓋をした後に、魔力をこめて送信すればいいだけである。魔力といってもごくわずかなもので、ほんの少し精神を集中すれば、誰にでも使うことができるのが、このボトルメールの強みである。

少女がこのボトルメールを使ってから、すでに四十分ほど経っていた。

額には汗が浮かんでいた。疲れと同時に、不安や恐怖といったものから来る汗も含まれていた。

――大丈夫、きっと助けは来るわ

不安に押しつぶされそうな心に、自らそう呟きかける。

すると、少女が歩いている前方のほうに、何やら大きい影が立ち上がった。

――助け!?

そう思ったのもつかの間、その期待は恐怖に塗り替えられることになった。

影の数が、増えたのである。

ひとつがふたつ――

ふたつがみっつ――

みっつがよっつ――

それはどれも、密林の茂みや木の陰から現れた。

ぞっとするものが、少女の背筋を走りぬけた。

木陰に影の瞳孔が黄色く光ったのだ。

影は獣の姿勢で少女を見つめたまま、ゆっくりと少女との距離を詰めて来た。

少女が獣の臭いを嗅ぐのと、その正体を知るのとが、ほとんど同時だった。

――フェンリル

少女はふと思い出したそのモンスターの名を、心の中で呟いた。

ぐう、と一頭のフェンリルがその場で唸った。腹の底に響く、重い音である。

すると、それが合図であったかのように、残りの三頭が一斉に天を見上げた。

 

あおぉ~~~~うぅぅぅ……

ひゅろお~~~~っ……

おお~~~~うううぅぅっ……

きゃおおうう~~~~~~っ……

うろおおお~~~~~うぅぅ……

 

垂直に立ったフェンリルの喉から、清らかで力強い獣の声が滑り出た。

フェンリル達が遠吠えを始めたのである。

その声を聴いた瞬間、少女は恐怖でその場に崩れ落ちそうになった。

それは、声に臆したのではない。その数に、聴こえてくる方向に恐怖したのだ。

今聴こえるフェンリルの遠吠えは五つである。そして、目の前には自分を見据える一頭のフェンリルに、天を仰ぐフェンリルが三頭。

――あとふたつは、どこから?

その問いの答えを、少女はすでに出していた。

背後だ。

あとふたつの声は、自分の背後から、聴こえてくるのである。

自分の背後から、フェンリルの獣の呼気が、風に乗って漂ってくるのが分かる。

少女は動かない。後ろを振り向こうともしなかった。

フェンリルたちが遠吠えを止め、少女に向かってゆっくりと歩み寄った。

遠吠えの時には感じられなかった、獲物を押し殺す肉食獣の凶暴な殺気が、びりびりと肌を鳴らす。

それは近づいてくる炎のように、圧力を増し、濃さを増してゆく。

少女は動けなかった。

たまらない恐怖が、少女を包んでいた。

かろうじて震えながらも立っていた足が、ついにその場に崩れ落ちた。

――ああ、私、もう死ぬんだ。

少女の目に熱いものがこみ上げ、それが目から溢れた。

止め処なく溢れる涙は、いっこうに止まらなかった。

身体が震えていた。

どうしてこんなことになってしまったのか。

本当なら、自分は草原エリアで野草の採集を済ませて、さっさと引き上げるはずだったのに。

今から、自分は死ぬのである。

それも、無意味かつ最低の死である。

自分の周りを取り囲むモンスターに、肉を引きちぎられ、内臓を貪られ、骨をしゃぶられ、想像もつかない苦痛のなかで、じっくりと命を奪われるのだ。

想像するだけで、全身の毛が逆立った。

嫌だ、死にたくない! と叫ぶ自分がいる。

一方で、もうどうしようもない。とあきらめている自分もいた。

心の中の葛藤は、前者の声のほうが、圧倒的に大きかった。

しかし、事実もうどうしようもないのである。

走って逃げようにも、足は疲労と恐怖で、いくらその場から立って走ろうと思っても、力なく震えるばかりだった。

仮にその場から立ち上がって走れたとしても、自分を囲むモンスターたちの包囲網を潜り抜けて、かつ追いつかれない速度を保って走るのは、到底無理な話だった。

どうしようもなかった。

涙でぼやける視線をゆっくりと地面に落とし、両手で目を覆った。

見るのが怖かった。いっそ何も見えないほうが少しは何かが和らぐと、そう直感的に思った。

モンスターが、重い唸りを上げた。その唸りが、だんだん大きくなっていくのが分かった。

いつ襲ってくるかも分からない痛みに、ただただ怯えていた。

――と。

少女はあることに気付いた。

獣の唸りは大きくなっているが、それが一向に近づいてこないのである。

明らかにそれは、自分のせいではない。それはまるで、何かを警戒しているようだった。

それとは別に、獣の唸りとは別のよく似た音が、自分に近づいてきているのが分かった。

そして、それに気付いた瞬間、涙で濡れた少女の頬に、何かが吹き付けてきた。

風だ。それも、最初のは春特有の凛とした空気を含んだ風だったが、今吹き付けているそれは、生暖かく、それに少々鼻につくような臭いがした。

少女は目を覆っていた両手を離し、ゆっくりと顔を上げた。

「もう大丈夫だよ、安心して」

少女の目の前から、さっきまでいるはずのなかった、人間の声が聞こえてきた。

それはとても暖かで、心身ともに恐怖に怯えていた少女の心に、優しく響いた。

その響きを実感する前に、少女の意識は、眠りに着くように穏やかに、闇の中に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

調査団という組織が、この学園には存在する。

それは、増築のたびに膨張を続ける立ち入り禁止区域と、生徒達の安全欲求の生み出したものである。

立ち入り禁止区域における生徒の死亡者の数は、年々増加傾向にある。いくら学園が措置を取ろうとも、その数の増加を食い止めることは不可能だった。腕試しのために立ち入り禁止区域に入り込み、行方不明になる者がいるのはともかく、問題なのは課外授業やクエストの途中で道に迷い、そのまま帰らぬ者となってしまう生徒も、多数いたことであった。

学園側は次々に新しい対策を取って行ったが、それももはや限界まで来ていた。

そんな時、学園に変わって、生徒がこの問題に有志を募って立ち向かおうという動きがあった。

これが調査団の始まりだった。

設立当初、団員はわずか数名。掲げていた目標は、危険区域におけるいまだ全貌が明らかにされていない区域の調査と、それを測量し、地図に示すことであった。

この志に賛同する生徒はみるみるうちに膨れ上がり、最初は数名であった団員が、今となっては二百人を超す大所帯となっていた。

それに伴い、始めは非公式サークルであった調査団は、今では学園側が資金や物資を提供する、公認サークルとして活動している。

しかし、その志は設立当初となんら変わることはなかった。

変わったといえば、設立当初と比べて団員が増え、学園から資金が提供されるようになったため、現在ではそれに加えて危険区域における遭難者や要救助者の救出と、要救助者が使用するボトルメールの魔力を増幅させ、その位置情報を学園に伝える中継ポイントの役割を果たす仮設基地の建設なども、主な活動の内容となっている。

そしてもうひとつ、調査団では団員総数が増えるとともに、団員をそれぞれの得意とする分野別に班ごとに振り分け、各々が自らの能力を最大限に引き出して活動できるように取り計らっている。

危険区域における調査では、この班が主に行動のひとつの単位となっており、団員は各班長の指示で活動を行っている。

大まかに言えば、調査団全体に指示を出すのは団長であるが、班ごとの内部で臨機応変に細かな指示を出すのは、その班の班長の役割なのである。

そして今現在、調査団にはふたりの女性の班長が存在している。

調査団第一班班長、雪村千怜――

調査団副団長及び第二班班長、エネット・ラドリー・オークレー―――

それが、ふたりの女性班長の名であった。

 

 

 

  ◆◆◆

 

 

 

「この子、安心して気を失っちゃったみたい」

その場に崩れ落ちそうになった少女の身体を、自身のより小さな身体で支えながら、エネットが言った。

「まぁ、この状況を考えれば、無理もないことでしょう」

かぶっていたヘルメットを脱ぎながら、千怜が答えた。

千怜はバイクに跨っていた。

跨っているのは、悪路や林道を走行するのに特化した、中型のオフロードバイクだ。

他のバイクに比べて、長く柔らかいサスペンションの下に付いているブロックタイヤが、木の根や下生えだらけの地面を、しっかりと噛み締めている。

単気筒のエンジンは、いまだに熱い唸りを上げていた。低く重いその音は、目の前のフェンリルが上げる獣の唸りにも似ている。

ふたりはさっきまでの制服姿ではなかった。

真っ白なワイシャツの上に、黒いミリタリージャケットを羽織っている。鉄よりも強度の高い、アラミド繊維でできた特注品である。ミリタリージャケットには、右側の袖の部分に、盾の中に佇むグリフォンの刺繍が施されている。それにボトムは黒のスラックスと、屋内でも野外でも問題なく動ける服装をしていた。

このバイクと服装も、調査団が団員に支給する備品のひとつである。

「この子はひとまず、ここで休んでもらってと――」

エネットは少女の両肘の下から腕を通し、半分引きずるような形で少女を近くの木にもたれかけさせた。

エネットはその場に屈むと、右手を伸ばして少女の右胸の辺りに当てた。

心臓の鼓動と、呼吸の確認をしているのである。

鼓動は正常だった。呼吸も、ゆっくりとしていて、深い。

恐らくは、ここに至るまでの疲れと張り詰めていた緊張感からの開放で、気を失ってしまったのだろう。

少女の様子は、深い眠りに着いたように安らかだった。

――よかった。

ひとまず、目の前の少女が無事なことに、エネットは胸を撫で下ろした。

あと一歩到着が遅ければ、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。

そう思うと、間に合ってよかったとも思うが、もっと早く着いていれば、こんな怖い思いをさせずに済んだのに。と、少し心を刺す何かがあった。

だが、結果的に少女は無傷で保護できたのだ。あとはここから離れるだけである。

「さて、このフェンリルさん達は、黙って帰してくれそうもないよね」

立ち上がりながら、エネットは前方のフェンリルに視線を送った。

茂みの中にその姿を確認できるのは、二頭だった。距離は十五メートルほど離れている。

そのいずれもが、エネットの姿を、血走った肉食獣の瞳に捉えていた。巨大な灰色の体躯は、ぴくりとも動かない。ただ、エネットのことを睨んでいる。己の中にある力を、一気に解放するそのときまで、じわじわと溜め込んでいるようにも思えた。

ぐう、と片方のフェンリルが唸った。硬く閉ざされた顎からは、白い犬歯が見えている。

気の弱い者なら、震え上がってしまいそうな光景だった。

しかし、エネットの表情に、脅えの色はまったくない。むしろ、妙にリラックスしているようにも感じられた。

「副長、そっちはお願いします。私は、こっちの四頭を片付けます」

背後から千怜の声が聞こえる。声は相変わらず、抑揚が乏しい。

「うん、気をつけてね」

「副長も。さっさと片付けて、購買へ戻りましょう」

「そうだね。エビカツサンド、残ってるかな……」

エネットが、静かにつぶやいた。

口では緊張感のない事を言っているが、その身体と精神は、すでに臨戦態勢に入っていた。

エネットは左足を半歩後ろへ引いて、浅く腰を落とした。

両目はまっすぐ二頭のフェンリルに向いている。混じり気のない、純粋な瞳だ。

肩の下にあった両手が、ジャケットのポケットに伸びた。その中にあるものを手に触れる感触で確かめると、しっかりと握り締めて外へ引き抜いた。

エネットの両手に握られているのは、剣の柄だった。握る部分に皮が巻かれているそれは、エネットの小さな手が握るのにちょうど良い程度の大きさに作られていた。だが肝心の刃の部分は、どこにも見当たらなかった。

否、刃はある。それは、エネットの両側の腰に付いている、箱状の鞘の中に収められていた。

金属製の太い鞘だ。横幅は十センチ以上ありそうだった。加えて、その高さも通常のものと比べて二倍以上ある。一見すれば重くて動きずらそうな装備だが、エネットはそれを全く苦にしている様子はなかった。

両手に握った柄の先が、鞘の差し入れ口に向かった。柄と鞘の間から、何かがはまった様な音がした。

その音を確認すると、エネットは軽く腰を折りたたみ、そこから胸を張る勢いに任せて刃を抜いた。

先ほどまで何もなかった柄の先には、しっかりと刃が生えていた。

白く薄い刃だ。金属ではない。セラミック製の刃である。とてつもなく薄いその刃は、しかししっかりと日本刀に似た反りと片刃の造りが見受けられる。

だがその刃は、反りがあるからといって、日本刀に近いとは言い難い。むしろカッターナイフの類に近いと言える代物だった。

エネットはしっかりと剣を握りなおすと、姿勢をそのままに目を閉じた。

フェンリル達は、いまだにぴくりとも動かない。エネットを警戒しているのか、それとも力を溜め込んでいるのか、ただ重い唸り声を上げるだけであった。

張り詰めた空気が、両者を包み込んでいた。ちょっとした衝撃で、たちまち決壊してしまいそうな、危うい空気である。

エネットもまた、目を閉じたまま動かないでいた。だがそれは、決して何もしていないわけではなかった。

エネットは()を練り上げていた。目を閉じ、精神を集中させ、少しずつその出力を上げているのである。

身体の奥底から、熱いものがこみ上げてくるのがわかる。それは徐々に身体の奥のほうから、熱が伝わるように表面へと昇り、自らの肌を突き抜けて外気に溶け込んでゆく。

張り詰めた空気の中に、エネットの気が混ざっていった。それが大気を伝い、二頭のフェンリルの元へと届いた。

それが、決壊の瞬間だった。

 

おごえっ!!

 

と喉を鳴らして、二頭のフェンリルが同時に並んで走り出した。

長く強靭な四肢で、木の根だらけの地面を悠々と疾走していく。

速度は徐々に増してゆき、あっという間にエネットとフェンリルの距離は、五メートルをきっていた。

瞬間、エネットが目を見開いた。

同時に剣を握り締めた左腕を振りかぶり、そのまま下へ振り下ろした。

早春の空気の中を、ひゅんと音を立てて何かがフェンリルに向かって走り抜けた。

ぎゃん、

と左側のフェンリルが声を上げた。

そのまま左側のフェンリルは失速し、地面に転がって狂おしくもがき始めた。

もがくフェンリルの長い鼻の部分に、白い何かが生えている。

セラミックの刃である。

エネットが剣を振り下ろしたとき、空中に放たれた刃は、吸い込まれるように左側のフェンリルに向かい、その切っ先を鼻に潜り込ませたのだ。

エネットの動作は、それだけでは終わらない。

半歩後ろへ引いておいた左足で、地面を強く蹴った。もう一頭のフェンリルの動きに合わせ、エネットもまた前へ出る。

速い。フェンリルも速いが、エネットの動きもまた、常人の成せるものではなかった。

両者は一瞬で、目と鼻の先の距離まで接近していた。

フェンリルが太い木の根を蹴ってエネットに跳び掛った。人間の骨という骨をいとも簡単に砕いてしまいそうな大きな牙が、大きく開けた口の中に、ぎらりと光る。

それに合わせて、エネットは左へ跳んだ。

前へ出る勢いそのままに、エネットの身体がフェンリルの右横を走りぬけた。

フェンリルの大きく開いた口めがけて、右手に持つ剣を、思い切り水平に薙いだ。

セラミックの刃がフェンリルの右頬を捕らえ、深く潜り込んだ。

鮮血が辺りに飛んだ。フェンリルの口元から右頬にかけての肉を、エネットの刃が断ち切ったのだ。

エネットは止まらず、着地と同時に前へと走り出した。

それを追う影が、ひとつ。右頬の肉を割かれた、あのフェンリルである。

フェンリルはエネットを捕らえそこなうと、自らの肉を削がれながらも、エネットに跳びかかったさらに先にあった木の幹に跳びつき、前足を揃えて垂直に幹に当て、次の瞬間には後ろ足で幹を蹴った。

あっという間に、フェンリルは前を行くエネットを追う形になっていた。

エネットが走る。それをフェンリルが追う。

速い。

先ほどにも増して、速い。

が、体長や身体の造りの分、フェンリルのほうがエネットよりも速かった。

距離が徐々に縮まってゆく。その差はすでに、一メートルを切ろうとしていた。

ふと、エネットの目の前に、大木の幹が映った。

このまま走れば、あの木にぶつかってしまう。かと言って、今方向を変えようと少しでも隙を見せれば、たちまち後ろから追ってくるフェンリルの牙の餌食となってしまう。

万事休すかと思われるこの状況に、エネットの顔には、確かな笑みが浮かんでいた。

エネットは速度を落とすことなく、そのまま大木に向かって走り抜くと、大木の少し手前で思い切り地面を蹴った。

小柄なエネットの身体が、大木の幹に吸い込まれるように跳び上がった。

幹にぶつかる寸前に、地面を蹴ったほうと反対の足が、幹の表面を斜め下に蹴った。

エネットの身体が宙に舞った。空中で身を翻しながら、刃の無くなった左手の柄の先を、鞘の差込口に押し込んだ。

もう一度、柄を鞘から引き抜いたとき、そこには以前と変わらぬセラミック製の刃が、ぎらりと陽の光を反射していた。

後を追っていたフェンリルは、エネットの身体の真下を通過しようとしていた。

そこにエネットの身体が、重力にしたがって落下した。

「ふっ!」

身体をねじったエネットの口から、鋭い呼気が漏れた。

エネットは落下する速度に合わせて、両手に握った剣の刃の向きを揃え、真下のフェンリルにめがけて振り抜いた。

刃は見事にフェンリルの肩甲骨の下に潜り込んだ。

潜り込み、肉ごと脊髄を抉った。

エネットは受身を取って落下の衝撃を殺すと、そのまま下生えの地面を横に転がった。

剣を握り締めたままの両手で地面を押し、素早くその場で体勢を立て直す。

フェンリルは一度大きく、びくんと痙攣したと思うと、そのまま動かなくなった。

傷口から鮮血が溢れ、地面に広がっては染み込んでゆく。

仕留めたと思ったのもつかの間、エネットは首筋に、何やら冷たいものが走るのを感じた。

それに続くように、自らの右側から、下生えの地面を踏みしめてくる音が聞こえた。

音のテンポからして、かなり速い。それも、こちらに近づいてきている。

もう一頭の方!?

そう思う前に、エネットは音の方向に向き直って剣を構えた。

そこでエネットが見たのは、頭のないフェンリルだった。

頭から上の部分がごっそりなくなっていて、首の断面からは赤黒い肉の中央から、白く太い骨が見えていた。

フェンリルは身をよじって赤い飛沫を撒き散らしながらも、頭のないままバランスと速度を保って、三歩前へと進んだ。

四歩目を踏み出したとき、フェンリルの身体は初めて地に伏した。

伏してなお、足を動かしていた。その動きも、しばらくすると止まった。

エネットは、フェンリルから目を離した。その視線は、フェンリルのさらにその奥に向いていた。

そこには、太刀を片手に持った千怜が立っていた。

その前方の地面に、何かが転がっている。

灰色の、大きくて長い何かが。

切り落とされたフェンリルの頭である。

無表情でそれを見つめる千怜のジャケットの上には、ぽつぽつと赤い斑点ができていた。

「暇だったので、こっちのは貰いました」

太刀に付いた血を払いながら、千怜が言った。

「さっすが千怜! この手のことに関しては調査団一だもんね」

鞘に刃を収めたエネットが、興奮気味に千怜に向って言った。

見ると、すでに先ほどまでふたりがいた場所には、四頭の別のフェンリルが転がっていた。

そして、そのいずれもが急所、すなわち中枢神経系の付近を鋭利な刃物で抉られていた。

フェンリルたちの身体に、それ以外に刀傷はひとつもない。すなわち、千怜は最初の一撃全てを、正確無比にそこへ叩き込んだのである。

調査団では普通、危険区域では五つの班分けで行動する。

その役割は班によって様々だが、中でも千怜が班長を務める第一班は、索敵や迎撃を主な任務としていた。

それゆえに、第一班には必然的に、調査団でも指折りの戦闘のエキスパート達が集まる。

その中でも第一班の班長を務めることができるのは、自他共に認める、調査団最強の団員でなければならない。

そしてエネットの記憶が正しければ、千怜はエネットが調査団に入って以来、一度たりとも他の団員にその座を譲ったことはないのである。

「さて、用はもう済んだことですし、帰りましょうか」

千怜は太刀を背中に背負っている鞘の中に収めると、バイクの方へと歩き出した。

「うん、帰ろっか」

エネットがその後を小走りで追った。

その後ろでは、フェンリルの身体が光の粒子に変わり、天に向かって舞い上がっていた。

 

 

 

 

 

 

部屋には、三人の人影があった。

授業で使う教室よりも、少し狭い程度の広さの部屋だ。

団長室である。

黒いふたつのダブルソファをはさんで、木製のテーブルが置かれている。

その奥には、デスクとオフィスチェアがある。どちらも黒の色調で統一されている。

窓にはレースのカーテンとその上に分厚い生地のカーテンが、重ねて掛けられている。

他に、部屋には木製の本棚と、50インチはあろうかと言う大きな薄型テレビ、そしてそのテレビと同じぐらいの大きさを誇る地図が壁に掛けられていた。

地図は、この学園の危険区域を記したものである。だが、余白が多い。地図として描かれているのは、壁に掛けてあるものの全体の半分ほどしかなかった。

調査団は学園公認のサークルであるため、学園側から部室や活動に使うための空間などを、いくつか提供されている。

この部屋も、その内のひとつである。

調査団の保有する部室の中では一番狭いが、元は応接室であった場所を改装して使用しているため、格調だけは一人前だ。

デスクの前に、ふたりの少女が立っていた。

千怜とエネットである。

そのふたりと、デスクを挟んでオフィスチェアに腰掛けて向かい合っている、ふたりと同じ服装をした男がひとり。

目つきの悪い男である。

黒く鋭い双眸をしている。その目には、妙な威圧感がある。意識しているわけではなく、自然とそうなってしまうのである。

金色の天然パーマの髪が、頭の上でウェーブしている。

あまり櫛で梳かしたりはしていないらしい。ゆるくウェーブした髪は、ほとんど無造作に近い状態だった。

身長は、並の人間よりも少し背が高い程度だった。今は椅子に座っているため、それもほとんどわからない。

「遅かったな」

低い声で男、氷室がふたりに向けて言った。

「多少戦闘があった上に、帰りはバイク一台に三人乗りよ。少しは遅くなるに決まってるわ」

不機嫌そうに千怜が言う。

実際、あの後の帰りは、迅速にとは行かなかった。

なにせ、ただでさえ木々が生い茂り、地面は木の根と倒木と雑草だらけという密林の悪路を、三人乗りで走行するのである。

いくら悪路の走行に長けたオフロードバイクといえど、簡単なことではない。

結局、帰りは行きの倍近くの時間が掛かってしまった。

氷室は、ふんと鼻で息をすると

「まあいい。要救助者はどうなった?」

と聞いた。

「一応、軽い擦り傷とかはしてたけど、あとは異常なし。勝手に申請していた危険区域よりも奥に行っちゃったから、少しは処罰が下るかもしれないけど、まあ悪くて厳重注意のお説教ぐらいじゃないかな?」

見るからに機嫌を悪化させてゆく千怜に代わって、エネットが答えた。

氷室はただ、「そうか」と言うと、ふたりから視線をはずした。

そのままデスクの上に無造作においてある書類に手を伸ばすと、それに目を通し始めた。

恐ろしく無愛想な男である。

「もう行っていいぞ」

思い返したように氷室が言った。

視線は書類に向いたままである。

千怜は小さくため息を吐くと、即座に身体を反転させ、出入り口のドアに向けて歩き出した。

足取りが速い。この部屋に、一秒でも長く居たくないと言いたいような様子だった。

「そ、の、ま、え、に、団長に言いたいことがあるんだけどなー」

デスクに両手を突いて、小さな身体を氷室の前に突き出しながら、エネットが言った。

顔には無邪気な笑顔が浮かんでいる。

エネットの言葉に釣られて、部屋を出て行こうとしていた千怜の足が止まった。

千怜は顔だけをエネットの方へ向けると、ドアの前で立ち尽くした。

「なんだ」

視線を書類からエネットに移して氷室が言った。

その言葉を待っていましたと言わんばかりに、エネットは右手を氷室の前に突き出し、手を開いて言った。

「お昼ご飯、ちょーだい!」

「失せろ」

そう吐き捨てて、氷室は再び書類に目を移した。

「え~、なんで~」

エネットは口をすぼめてデスクの上に身体を乗り上げた。

「何でも糞もねえだろうが。何でお前に昼飯やらなきゃいけねえんだ」

「そりゃあ、購買のエビカツサンドを犠牲にして、臨時の任務をこなしたんだから、ご褒美ぐらいあってもいいでしょ?」

「調査団に入った以上の義務だ。褒美なんかあるわけねえだろ」

「お腹空いたの! お昼もまだのまま任務をこなして、その上ご褒美も貰えない。ああ、きっと私はもうすぐ、薬じゃ治らない不治の病、腹ペコで死んじゃうんだ。団長がお昼をくれないばっかりに。ああ、なんて可哀想な私……」

よよよ、とわざとらしく言いながら、エネットはこれまたわざとらしく、ポケットから取り出したハンカチを目に当ててみせた。

同情を誘うつもりなのか、はたまた鬱陶しく見せたいだけなのか、少なくとも千怜にはエネットの行動の趣旨が分からなかった。

氷室は軽く舌打ちをすると、デスクの右側一番下の引き出しを開けた。

このデスクにある引き出しの内で、一番大きな引き出しであった。

氷室はその中から紙袋を取り出すと、無言でエネットに向けて突き出した。

「なーんだ、やっぱりあんなこと言っておいても、ちゃんとくれるんじゃん!」

エネットはハンカチをポケットにしまうと、はつらつとした笑顔を見せた。

当然ながら、泣いていた跡はどこにも見られない。

見え見えの嘘をあっけなくばらしたことも気にせずに、エネットは紙袋の口に手をかけた。

「さーてさてさて、今日のお昼はな~にっかな~?」

鼻歌を歌いながら、エネットは紙袋を一気に広げ、中を覗き込んだ。

「うがあああああっ!!」

と同時に、エネットは女の声とは思えないほど、野太い大声をあげた。

紙袋が一気に宙を舞った。

エネットが紙袋の口をつかんだ両手で、そのまま紙袋を真上に放り投げたのである。

宙に舞い上がった紙袋は、空中で二転三転し、ひらひらと地面に落ちていく。

その途中で、紙袋の口から何かがひとつ落ちた。

細長く、茶色いものだ。

黙ったまま立ち尽くしていた千怜がそれに近づき、無造作に拾い上げた。

手に握ったものを、まじまじと見てみる。

ラップに包まれたちくわであった。

「な、ん、で、お昼がちくわ一個なの!!」

「よかったじゃねえか。ちくわダイエットができるぞ」

「無いよ! そんなダイエット! それに私は今任務を終えたばっかりで、がっつり食べたい気分なの! 大体なんでこのお年頃の乙女にあげるお昼がちくわなの!? それもこんな匂わせぶりな紙袋に、ひとつだけだよ、ひとつだけ!!」

ばんばんとデスクを叩きながら、エネットが叫ぶ。

「購買で何か買って来い。まだ売れ残りぐらいあるだろうが」

「もうエビカツサンドはないもん! エビカツサンドの無い購買のパンなんて、ネタの無い寿司みたいなものだもん!!」

「じゃあお前は一生シャリだけ食ってろ。俺に当たるな」

ぎゃあぎゃあと騒ぎ続けるエネットを尻目に、氷室は再び書類を手にとって眺め始めた。

このままでは収拾がつかなくなると思い、千怜がエネットに近寄って、彼女の襟を掴んでデスクから引き離した。

が、エネットの勢いは一向に収まらない。千怜の手を引き離さんばかりに暴れ、氷室に向けて罵声を浴びせている。

千怜の口から、思わずため息が漏れた。

さっさと部屋から出ようと、エネットを引きずりながらドアの方へと近づいて行った、その時だった。

「団長ー。もうひとりの要救助者の女の子の保護、完了しましたー」

どこか間延びした声を響かせて、千怜の目の前のドアが開いた。

と同時に、これまた三人と同じ服装をしたふたりの男たちが、ずかずかと中に入ってきた。

ひとりは、大柄な男だ。身長は優に180cmを超えている。

よく身長が高い男にありがちな、やせ細ったのっぽというわけではない。その身長とちょうど良いぐらいの肉付きで、見事に身体のバランスが取れている。

薄いグリーンの瞳に、ほんの少し長めの茶髪がかかっている。

見様によっては、その辺の大学生よりも、よっぽど大人っぽい雰囲気を醸し出していた。

だがさっきの声の主は、彼ではない。声の主は、彼の前にいるもうひとりの男だ。

後ろの男よりも、頭ひとつ半分ぐらい小柄な男である。

ブラウンの瞳の上に、眼鏡をかけていた。

薄い黒色の髪は、程よい艶と束感がある。どうやらワックスを使用しているらしい。

かと言って、その髪はべたつきや、妙なてかりとは無縁であった。髪には動きとふんわりとした質感がある。

どうやら氷室や後ろの男より、オシャレには気を使っているらしい。

「了解。デリックもモルトもご苦労だった」

「いやいや、それに見合う収穫はありましたよ。何せその女の子からメアドと電話番号、訊いちゃいましたから」

顔に笑みを浮かべながら、眼鏡をかけた男――モルト・アークライトが言った。

「相変わらずの変態ぶりね。どうせすぐに引かれるわよ」

「おおっと、千怜も居たんだ。それに副長も」

驚いたような表情をしながら、モルトはふたりに近づいた。

直前の千怜の毒舌は、気にもしていないらしい。

千怜は表情を変えることなく、部屋を出ようとドアに向かって歩みを進めた。が、突然びくりと身体を震わせたかと思うと、その場に立ち尽くした。

ずっと千怜に襟を掴まれたままになっていたエネットも、この変化に気付いたのか、不審に思って千怜の手をすり抜けて、彼女を振り返った。

千怜は震えていた。寒さのせいではない。顔は見る見るうちに赤くなり、誰がどう見ても怒っているのは明らかだった。

ではなぜ、怒っているのか。

理由は千怜の身体の下半分、すなわち下半身にあった。

手が多い。右手は太ももの位置で硬く握りこぶしが作られていて、左手は力を抜いたまま、同じく太ももの位置に垂れ下がっている。

だがそれとは別に、もうひとつ、手がある。それは千怜の尻に添えられていた。

否、添えられているだけではない。その手は明らかに形を変え、尻を揉んでいる。それも、一切隠すようなそぶりなく、大胆に。

千怜が身をひねった。

同時に太ももの辺りにあった右手が消えた。

「ぐふっ!」

と息を吐き出して、千怜の背後にいたモルトが、その場に崩れ落ちた。

全身のバネを生かした千怜の右の肘が、モルトの鳩尾に食い込んだのだ。

当然といえば、当然の結果である。

こうなることを承知で、モルトは千怜の尻を揉んだのだ。

モルトは地面にうずくまると、低い唸りを上げた。鳩尾は打たれてもそう簡単に死にはしないが、その分痛みは大きい。腹の中にいつまでも残る痛みが、打たれた後もなかなか引かないのだ。

だがモルトは、うずくまって痛がる反面、右手の拳を前に突き出し、その親指を立てて見せた。

顔も、何やら苦痛に呻くような表情の中に、恍惚とした表情がある。

明らかに殴られたことを喜んでいた。

「本当に懲りないな、モルト……」

呆れたように大柄な男――デリック・コーエンが言った。

「いやあ……これぐらいはさ、俺にとっちゃ、ご褒美みたいなもんなわけよ」

地面にうずくまったまま、震えた声でモルトが言う。

「次やったら、刺すわよ」

モルトを冷たい目で見下ろしながら、千怜が言った。

「いや、前回バストサイズ図ろうと胸触ったとき、ケツに太刀ぶち込まれたような……」

「何? 今頭に刺してほしいの?」

「すんません、以後自重します」

たぶん、と最後の言葉に呟きを交えてモルトが言った。

千怜がそれを聞き逃すはずもなく、モルトへの視線が一層鋭さを増した。

やばいと直感したのか、モルトは千怜に背を向け、右手で腹を押さえながら逃げるようにダブルソファに近づくと、そのままソファに仰向けに倒れこんだ。

さすがにこれ以上、面倒ごとを自分の方から起こすのは、自重するらしい。

「おい、この場にいる全員に言っておくことがある」

よく通る低い声で氷室が言った。

手に持っていた書類を、ばさりと無造作にデスクの上に放った。

その場にいる全員の視線が、氷室に注がれる。

「今回の件を踏まえて、今まで仮設基地のなかった密林に、新たに仮設基地を作ろうと思う。次の危険区域への遠征はいつになるかまだ未定だが、それまでに人員を集めておきたい。明日からの新しいクラスで、なるだけ多く新しい団員を勧誘して来い」

「何を言い出すかと思えば、そんなことですか」

千怜は氷室から視線を外すと、再び出入り口のドアに向けて歩き出した。

それを追う様に、エネットもドアに向けて歩き出した。

「待て」

氷室が言った。

ふたりの足が、ドアの前で止まった。

氷室はデスクの引き出しを開けると、中から新たに書類をふたつ取り出した。

「お前ら、このふたりに見覚えあるか?」

氷室は書類を手に持って、ふたりの前に突き出した。

その書類には、ふたりの少女の写真が貼られていた。

片方の書類の右上には、女神候補科高等部二年と書かれていた。

そこに写っていたのは、何とも形容のしようのない美をかね揃えた少女だった。

アメジストのような大きく、立派な瞳をしていた。だがその色と言い、輝きと言い、いかに上等なアメジストを持ってしても、この瞳に敵うことはあり得ない。そう万人に思わせるような、奇跡の輝きを持つ瞳だ。

髪は、長く深い夜色であった。その艶やかさも、瞳に劣らず、魔性の輝きを誇っている。

高等部の二年であるから、歳は十六か十七か。どちらにしろ、まだ成熟しきっていないことは確かである。だがその顔立ちは、無垢な少女の魅力を十分に残しながら、大人の妖艶さを秘めていた。

もう片方の書類には、女神候補科高等部一年とある。

そこに写っているのは、まだ幼さの残る少女だった。

この少女もやはり、整った顔立ちをしていた。

透き通った色の瞳は、先ほどの少女と比べるとそう大きくはなく、ごくありふれた大きさだった。

黒く長い髪のハチ周りの辺りから、まるで寝癖のように小さなツインテールが飛び出ている。

さらに、少女の右肩には、丸い何かの装置のような物があった。一見、それはアクセサリーのようにも見えなくはないが、よく見ればそれは、肩に着いているのではなく、埋め込まれているように見えた。

「お、何っすかこの可愛い()! しかもふたりも! もしかして新入りだったりとかするんっすか、団長!?」

ソファから身を起こして、興奮気味にモルトが言った。

「違う」

と、間を空けずに氷室が言った。

それを聴いてモルトはがっくりとうな垂れると、深いため息を吐いてソファに深くもたれ掛かった。

部屋を出ようとしていたふたりも、その書類に写っている少女に目を向けていた。

――あれは、まさか……

千怜は思った。

夢に出てきた少女のひとりに、雰囲気が似ている。

だが、まさかそんなことを、あの男に言うわけにはいかない。

馬鹿にされるか、相手にされないか、どちらにしろ、そういう類の扱いを受けることは、目に見えている

たかだか夢のことだ。おまけに夢の中でも、顔を見たわけではない。

ただ、なんとなく雰囲気が似ているだけ。そんなことは、曖昧な夢の出来事を元にしているのだから、よくある事だ。

「知りません」

千怜は書類から目を逸らして言った。

だがエネットは、ずっと片方の書類に目を向けていた。

「私、こっちの娘なら、知ってるかも」

エネットがそう言って指を刺したのは、高等部一年と書かれた方の少女だった。

「確か、同じクラスの娘だよ。名前は、確かええっと、ネロちゃんって言ってたかな? 今日はまだ話してないけど、席も近かったし、明日になったら話しかけてみようかなって思ってたんだ。この娘がどうかしたの?」

エネットが訊いた。

「いや、別に。ただ知ってるか知ってないかだけ、聞いておきたかっただけだ。もう行っていいぞ」

氷室がふたりに向けて言った。

ふたりは不思議に思いながらも、特にそれ以上尋ねることもなく、ドアを押し開けて部屋を後にした。

部屋は、氷室とデリックとモルトの三人だけになった。

「で、団長。頼んでたものって、ありますか?」

その期を見計らっていたように、モルトが氷室に尋ねた。

氷室は無言で軽く椅子を引くと、デスクの下に置いてあったふたつのビニール袋を掴み上げ、モルトとデリックの方へ放り投げた。

ふたりはそれを、左手で受け取った。

受け取ると同時に、ふたりはビニール袋の口を開けた。

ビニール袋の中に何が入っているのか、ふたりは既に知っていた。

「おおっ、ちゃんと注文どおり限定50個のエビカツサンド、買っといてくれたんっすね! いやー、さすが団長!」

「メロンパンとコーヒー牛乳、どうも」

ビニール袋の中身はパンと飲み物、すなわちふたりの昼食だった。ふたりが臨時の任務が入ったときに、氷室に頼んでおいたものだった。

モルトは早速ソファから身を起こして、包装紙に包まれたエビカツサンドを、ビニール袋から取り出した。

電子レンジで温め直したそれは、まだ温かい。手に取ると、包装紙を通してその温かさが伝わってくる。

モルトは無造作に包装紙の上半分をめくった。

蒸気とともに、芳しい香りがモルトの鼻腔をくすぐる。

「ではでは、いただきまー……」

モルトが大きな口を開けてエビカツサンドにかぶりつこうとした時、後ろのドアが静かに音を立てた。

瞬間、モルトは背に冷たいものを感じた。それは尾てい骨から背骨を通って、首筋までを一気に走り抜けていった。

不意に、いやな予感がモルトの頭を過ぎった。

頼むからそうであってくれるなと願いながら、モルトはドアの方へ振り返った。

が、そこにあったそれは実に、モルトのそうであってくれるなを形にした光景であった。

そこにいたのは、目を血走らせたエネットだった。

ドアはほんの少ししか開いていない。その小さな隙間から、血走らせた片目だけの視線を、モルトに注いでいるのである。

その光景といい、にじみ出る雰囲気といい、まるで髪を短くしたホラー映画の貞子のようである。

エネットは、それが欲しいとは言わなかった。

ただ、じっとモルトを睨みつけている。それも、殺気とも呼べるような雰囲気を撒き散らしながら。

もうそれは、そいつをよこせと口で言っているのとほぼ変わらない。目は口ほどにものを言うとはよく言ったものである。

「あの、よろしければ……どうぞ」

モルトはエネットの方へエビカツサンドを差し出した。

それが差し出されたのを確認した瞬間、エネットはドアを蹴り開け、モルトの手の中のエビカツサンドに一気に飛びついた。

右手を伸ばし、モルトの手にあるそれを奪い取ると、そのまま反転して素早い動きでドアの隙間から部屋を出て行った。

まるで、餌に飛びつく犬か猫のような動きだった。

実際、やっている行為も犬か猫並みだ。

「やっほー千怜、お待たせ! さっ、パン買いに購買行こう!」

ドアの向こうから、エネットの無邪気な声が聞こえてきた。

もはや何も言うまい。モルトはそう思った。

あのエビカツサンドは、自分の腹には入らない運命だったのだ。

それに、これで自分に対する副長の好感度も上がった。もし副長がクラスの友人と自分のことを話すとき、今のことがあったから、もしかしたら好印象な風に話してくれるかもしれない。

そうなれば、副長がその友人を連れてきたとき、ナンパに成功する確率が上がる。

なんだ。そんなことに比べれば、エビカツサンドのひとつぐらい、安いものだ。

そう、モルトは自己完結させた。

「ところでデリック、パンは余って――」

「ない」

自分の方に振り返ってきたモルトに向かって、口をもぐもぐと上下に動かしながら、無愛想にデリックが言った。

デリックはごくりと喉を鳴らして最後のパンの欠片を飲み込むと、紙パックのコーヒー牛乳にストローを刺し、それを口にくわえた。

――わざと速く食ったな

モルトは心の中で言った。

元々デリックは大柄ではあるが、大食いな訳ではない。この日の昼食も、小ぶりのメロンパンひとつに、コーヒー牛乳だけである。

ゆえに普段は、食べる速度も速くはない。むしろ少し遅めだ。

そんなデリックが、もうパンを食べ終えている理由は、ひとつしかない。

あの場に副長が居たからだ。

自分のエビカツサンドに、副長がたかると予期した。だからさっさとパンだけ先に食ったのだ。

――副長だけならまだしも、デリックにまで……

モルトの口から、盛大なため息が漏れた。

同時にモルトの腹の虫が、やかましい音を立てて鳴いた。

「食堂行ってテイクアウトしてもらってきやーす……」

よろよろとした足取りで、モルトは出入り口のドアに向かった。

ジャケットの胸ポケットにしまってある財布を確認しながら、モルトがドアノブに手をかけた。

「あ、団長。ひとつ質問、いいっすか?」

その場で振り返ってモルトが訊いた。

「何だ」

「さっきの娘たちのことなんっすけど、あれ、何なんっすか?」

「何って、どういう意味だ」

氷室の目が鋭く光った。

「もう千怜も副長も居ないんだし、今更惚けなくても。どうせデリックも薄々は感付いてるっしょ? さっきのふたり、こっち側に引き込むつもりっすか?」

「どうしてそう思う」

「いや、ただの勘っすよ。まあ、あのふたりを引き込むとなりゃ、それ相応の見返りも付いて来ますしね。団長はそれが狙いなんじゃないかって、俺の勘がそう言ってんですよ」

「ほう。で、俺の狙いは何だと思うんだ、モルト」

「俺の考えからすると、大方あのふたりを”抑止力”か”餌”にでも使おうって魂胆かなと思ったんですけど?」

手をドアノブから離し、頭の後ろで手を組んでモルトが言った。

デリックは黙り込んだまま、じっと氷室に目を向けている。

氷室は、ふんと微笑すると、デスクに両肘を突き、手を顔の前で組んだ。

「モルト、デリック、後で話がある」

「そうこなくっちゃ。んじゃ、さっさとテイクアウトしてきますわ」

そう言ってモルトはドアを開け、部屋を後にした。

部屋には、デリックと氷室だけが残った。

立っているのに疲れたのか、デリックはソファの前まで歩いて行き、そのままそこに腰を沈めた。

右手には、紙パックのコーヒー牛乳を持ったままだった。

「資料、みせてくれますか?」

デリックが言った。

氷室は黙って、束になったふたつの資料を、デリックの前のテーブルに向けて放った。

紙パックをテーブルの上において、デリックは資料を持ち上げた。

「夜刀神十香にネロ・フェケート・シュバルツシスター……」

氷室は両手を目の前に組んだまま、その名を低く転がした。

 

 

 

 

 

 

 

そこは、一言で言えばごちゃごちゃしている部屋だった。

部屋は、絵の具と木の匂いが溶けている。どこか鼻につくが、それほど不快にはならない程度の匂いだ。

部屋には、様々な美術に関する備品が無造作に置かれていた。

木製のイーゼルが部屋のあちこちに置かれていた。一部のイーゼルには、まだ描きかけの絵が描かれているキャンバスが立てかけられていた。

石膏像や、絵の資料集、その他もろもろの備品は、壁に密接している棚にまとめて置かれていた。

窓際のテーブルには、絵の具やパレットなどの小道具が、いくつも置かれている。一応まとめてはあるが、やはりこちらもかなり無造作な置き方だ。

この部屋は、美術準備室である。

隣には、扉を一枚隔てて美術室がある。基本的には授業で使う教室だが、放課後は美術部の活動場所でもあった。

部屋には、一人の男が、椅子に座ってキャンバスと向き合っていた。

美麗な少年だった。

少年は制服のズボンと白いYシャツの上から茶色のカーディガンを着用している。

その袖から、白い肌が見えた。それは、病的なまでに、白い。

癖のない艶やかなミディアムショートの黒髪が、その肌の白さを一層際立たせる。

薄い紅色の唇には、なんとも言えない色気がある。

一見すれば、女と見間違えそうな男であった。

だが、その少年のたたずまいに、女のひ弱さは微塵も感じられない。

ぴんと張り詰めた雰囲気の中には、凛と澄んだ気品と、不思議な男らしさが感じられる。

体格は、どちらかといえば小柄な方だ。痩せている印象はない。つくべき所にしっかりと肉がついていて、無駄肉だけをきれいに削ぎ落としたような体つきだった。

男は、パレットの絵の具を筆につけては、キャンバスに何かを描いている。

その表情は真剣な色で満ち溢れていた。

部屋の中を、張り詰めた空気が満たしている。息をするのさえためらってしまいそうな、硬質な空気である。

その硬質な空気の中に、突然ノックの音が響いた。

「失礼します」

声と同時に、男の右手側にあるドアが開いた。

中に入ってきたのは、大きめの封筒を抱えた少女だった。

「どうしました?」

筆を止めて男――貴戸鷹華(きどおうか)が、少女のほうを振り返った。

「えっと、部長宛の書類があったので、一応ここにお持ちしました」

「ご苦労様です。では、こちらにいただけますかね?」

温みのある笑みを浮かべながら、貴戸はパレットを背後のテーブルの上に置き、その上に筆を重ねた。

「はい、こちらです」

少女は静かに貴戸に歩み寄ると、手に抱えていた封筒を手渡した。

「ありがとうございます」

「これが、今まで部長が描いていた絵ですか?」

少女が、椅子の前のイーゼルに立てかけられているキャンバスに目を向けた。

「そうですよ。今のところ、八割がた完成といったところですかね」

涼んだ声で、貴戸が言った。

貴戸は早速封筒を開けて、中身の書類を確認していた。

キャンバスに描かれているのは、ユニコーンだ。

そのユニコーンは、月光が淡く照らす深い青の夜の中で、湖の真ん中に寂しげに佇んで頭上の月を見上げていた。額から伸びた一本の立派な角が、月光を跳ね返している。

湖には、水面に映し出された月が、朧気に浮かんでいる。少しユニコーンが動いてしまえば、たちまちその姿を揺らがせてしまうであろうその様子は、天に粛々と浮かんでいる月の姿とは対照的に、どこか儚さを感じさせる。

光と影の織り成すコントラストの調律が見事に整った、素人目に見ても息を飲ませるような絵である。

凛とした美しさの中に、どこか寂しげなものが感じられる、そんな絵だった。

「すごく、きれいな絵ですね」

「そう思いますか?」

「部長は、そうは思わないのですか?」

少女が不思議そうに訊いた。

貴戸は書類を再び封筒に戻すと、ふふっと微笑んで、

「美しさというのは、自分だけのものですからね」

と言った。

「自分だけのもの、ですか?」

「そうですよ。美とは、人が存在して初めて、成り立つものです。今あなたがこの場に居て、これを美しいと感じた時に、初めて美が生まれるんです。人が美しいと感じなければ、これはただのキャンバスに、絵の具の成分が付着しているだけですから」

「そう言われると、確かに……」

「だから、客観的な真理と主観的な美しさは、常にイコールではないんですよ。この絵を見てあなたが美しいと感じても、他の誰かにとっては、醜く見えるかもしれません」

「―――」

「でもね、僕は思うんです。きっとこの世界のどこかには、揺らぐことのない、完璧な美が存在するのではないかとね」

「それはどこにあると思うんですか?」

「さて、どこでしょうか? 偉そうなことを言いましたが、私自身、まだ答えには程遠いんですよ」

くくっ、と貴戸は小さく笑うと、少女の方を見つめなおした。

少女は、まっすぐ貴戸を見つめていた。

正直、彼ほどミステリアスな生徒は、この学園にはいないだろうと少女は思っていた。

いつ何時話しても、彼が話す言葉は奥深く、底知れない。彼の笑みの奥に何があるのかは、中等部の二年のころからこの部に所属し、今年で三年目を迎える高等部の一年生の彼女にも、未だに分からなかった。

ただひとつ言えるのは、彼には不思議なカリスマ性があった。それは容姿云々の話ではなく、彼から自然ににじみ出ているこの不思議な雰囲気か、それとも彼の言葉だろうと、彼女は考えていた。そうであるからこそ、彼は人望も厚いし、この美術部の部長を務められるのである。

彼女自身、彼に対して何か不満を覚えたことはなかった。むしろ好意を抱いていると言ってもいい。

ただ、ときどき触れるこの不思議な雰囲気に、戸惑うことが多かった。

だがそれ以外では、絵のうまい、優秀で優しい先輩であった。

「ああ、そう言えば、私はこれから少し出かけてきます。他の部員にも、そう伝えておいていただけますか?」

「あ、はい、分かりました。それで、どちらに?」

「ちょっと生徒会長に用がありましてね。会おうかと思って」

「ええ! いや、でも、会うといっても……」

少女は戸惑っていた。

それもそのはずだ。何せこの学園において、生徒会とは存在自体は公にされているが、その活動場所を知るものは数少ない。

言わば、知る者のみぞ知る、秘密の場所なのだ。

それがどこにあるのかは、生徒会に所属する役員を含め、ごくわずかだ。生徒会の役員には、その場所に関しては、徹底した守秘義務が課せられている。何のためかは分からないが、そういう意味を含めても、生徒会の活動場所を知るというのは、一筋縄ではいかないことなのだ。

だが、そんな少女の様子を見て、貴戸は微笑みながら、

「大丈夫。私は活動場所を知っていますから。さすがに、簡単に教えることはできませんがね」

と言って、椅子にかけてあった学ランを羽織った。

左手には、先ほど少女が持ってきた封筒が抱えられていた。

そのまま貴戸は、準備室から廊下へと直結している扉の前へと歩みを進めた。

右手がドアに差し掛かったとき、思い返したように、貴戸は少女の方を振り返った。

「では、後のことは、よろしく頼みますね」

「あ、分かりました」

少女は依然として戸惑いを見せながらも答えた。

それを聞いて、貴戸は満足そうな表情を浮かべると、扉を開けて部屋から姿を消した。

 

 

 

廊下に出てひとりになった貴戸は、足早に生徒会室へと向かっていた。

ごく一部の限られた人間しか知らないその部屋を、貴戸はさも何度も行ったことがあるかのように、迷うことなく前を向いて進んでいた。

――役者と時期は整ったな

貴戸は心の中で呟いた。

不意に、左手の封筒に目を移した。この中の書類を、生徒会長に見せる。貴戸はそのために生徒会室へ行くのだ。

無論、貴戸は既に中を確認済みである。だがこの書類は、生徒会長の目にも通しておくべきだと、貴戸が判断したのだ。

だがそれはあくまで、生徒会長だけに(・・・・・・・)だ。これを人を使って生徒会室へ送ると、生徒会長の手に渡る前に、中身をチェックされかねない。そうなればそうなった時で、対処はする。が、それは面倒だった。それならば、直接届けた方がいい。

幸い、いい土産話も聞かせられそうだった。生憎と手土産はないが、下手な手土産よりも、この封筒の中身の方が、彼女にとってはいい土産になるはずだった。

貴戸は封筒の中から書類を取り出し、もう一度中身を確認した。

そこにあったのは、五人の少女の写真だった。

――夜刀神十香、時崎狂三、エネット・ラドリー・オークレー、ネロ・フェケート・シュバルツシスター、それにイヴ

貴戸は書類の写真の下に書かれている名を、心の中で読み上げた。

――さて、吉と出るか。それとも、凶と出るか

貴戸は醒めた含み笑いを浮かべて、歩みを進めた。

その表情には、一切の温みも、感じられなかった。

 

 

 

 


 
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