No.621200

証明される迷信2(佐幸/腐向け)

9/22戦煌!東5 J52b 小説本。佐幸と家幸。既刊のみのために、過去のをサンプルがてらアップ。A5/92p。900円 馴れ初めがテーマ「迷信の下で」の後半。でもこれだけでも読めるように、2時間ドラマのごとく振り返ってます。前後編合わせると話として長すぎたので、読んだ方には勝手に称号付きます。数pの為に本は18禁指定。過去にサンプルとしてあげたのは「3」扱いになります。

2013-09-20 23:00:03 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:767   閲覧ユーザー数:767

 次の日。朝餉を済ませた幸村は、昨夜信玄から指定を受けた、躑躅ヶ崎の邸に来ていた。枯山水の見える部屋で二人、襖を開け放って将棋を指している。

信玄の家臣や小姓はいないが、その周囲は武田の忍達や信頼寄せる武将によって守られていた。佐助も庭にある木に隠れて、二人の将棋を眺めている。

 時折、幸村の「む」や、「そ、そこは」という情けない声が漏れ聞こえるものの、至って平和な光景だった。

 その空気に変化が生じたのは、信玄の二連勝で迎えた、三局目の序盤。

 

「此度の上杉との戦、ちと事情が変わるやもしれん」

 

「左様でございまするか」

 

 何度も相見えている上杉謙信との対決は、常に互角で、勝負がついていない。互いに多大なる被害を被った戦もあれば、睨み合いで終わった事もある。

 それが今回は、どれとも違うと言い出したのだ。幸村自身は信玄の意向が全てであるので、どんな状況でも従うだけだ。

 信玄は駒をパチリと動かし、話を続ける。

 

「北条の周囲が少しの、騒がしい」

 

「北条、ですか」

 

 幸村にとっては、少し意外な名前が上がった。一時は同盟を結んだ相手ではあるが、所詮は互いの領地を狙う関係。年が入って最初の戦も、北条だった。

 

「風が揺らぐ程度ではあるが、油断は出来ん。あともう一つ」

 

 独眼竜、と呟いた信玄の言葉に、幸村の指が駒を移動させたまま止まった。信玄は一瞥するだけに済ませ、あくまで話を淡々と進める。

 

「どうやら向こうも気付いておるようでな。竜にまで動かれるのは期ではない」

 

「伊達政宗殿が、北条を、でございまするか」

 

 平素を装いながらも、念を押したような言い回しに、さすがに苦笑いを禁じ得ない。好敵手である相手を意識しているのは明白だ。

 

「不満そうじゃな、幸村よ」

 

「斯様な事はござりませぬ」

 

 即答するのが何よりの証拠。

 

「よいよい。だがな、お主に場をやるのは我慢してくれ」

 

「恐れ多い事にござりまする。某に気遣いなど無用でござる。お館様の意思が某の、武田の全てでございますれば」

 

 膝に手を置いて簡素ながらも深く頭を下げる幸村を、信玄は興味深げな眼差しで見上げる。

 

「ならば幸村、どうしてやるのが良いと、そちは思う?」

 

 世間話のような口調ながらも、手札を見せた中、お前ならどうすると問うた。

 信玄が駒を進めるので、将棋を指しながら遠慮がちに答えた。

 

「北条は、動向次第かと思いまする」

 

「ほう、それはどの手を持って詰める」

 

「どこが北条を駒とするか……でございましょうか」

 

 的を外さない考えに満足し、信玄はもう一つ問うた。

 

「うむ。では奥州はどうとする」

 

「奥州は、その……」

 

 途端に歯切れの悪い口調となり、視線も定まらなくなった。言いにくそうにしている幸村に、大方の予想がつく信玄は、「言うてみよ」と促す。

 

「……一手目から、玉を動かさせれば済むかと」

 

 つまりは伊達政宗自身を真っ先に動かした方が、結果的に周囲は動きを見せると。自らが最前線に立ち、敵陣へと攻め入る伊達軍ならばの意見だが、幸村の本音は別な所にある。

 それを見逃す信玄ではなく、パチリと一手指しながら、口角をありありと上げた。

 

「嘘のつけぬ奴よ」

 

 伊達政宗と一局指したいのは、名を出した時から勘づいていた。

 

「も、申し訳ござりませぬ」

 

 思わず頬を赤らめてどもってしまうのは、我慢しろ、と言われた矢先だと自覚しているからだろう。

 

「構わん。申せ、としたはわしじゃ」

 

 動揺が駒にも現れたのか、幸村の差し手が甘い。それも気にせず、考えたフリをして信玄も駒を動かす。

 

「準備が整うまでは、お主は上杉との戦に備えておけ」

 

「かしこまり申した」

 

 信玄が指した一手の音が、会話の集結となった。

 

「という訳で、大手じゃな」

 

「ぬああっ、お、お館様ぁっ、その手は酷いでござるっ」

 

 自分の詰めが甘かった事にも気づかぬままの幸村に、信玄の拳が自然と固くなった。

 

「何度も何度も隙を付かれるお主を鍛えておるのが、分からんのかぁ!こぅおの、たわけもんっ!」

 

「ぐぁはっ」

 

 幸村の頬に、バキィッという見事な一撃を与えると、その体は枯山水を超えた壁に埋まった。職人が丹精込めた枯山水は、幸村を吹っ飛ばした激風で原型をとどめていない。

あれを庭師に見せたら泣くどころではないだろうな、と二人を観察していた佐助が心中呟く。そんな腕によりをかけた庭を軽々と飛び越えた幸村は、信玄の足元まで戻って、勢い良く土下座する。

 

「なんとっ、お館様のお心の深さに気付けず、この幸村、不肖者でございまするぅぅっ。より一層精進いたしますすぞぉっ、おぅやぁかたさまああ!」

 

 ガバリと立ち上がるや勝鬨にも匹敵する音量で、至近距離の信玄を仰ぎ見る。

 一方の信玄は満足げに頷きながら、今度は腹に一撃食らわせた。

 

「ゆぅぅぅきぃむらーっ」

 

 開け放っていた襖をわざわざ破壊させても幸村は即座に戻って、今度は反撃を与える。

 

「お、やっかた、さむぅわああああっっ」

 

 下からのアッパーに、信玄は僅かに爪先だけを浮かせて、衝撃を吸収する。

 

「ゆううううきぃいいいむううううらああっっっ」

 

 気合を溜める相手に対し、負けじと幸村も両の拳を握って力を込める。

 

「うおおおやああかああたあさまあああっっっ!」

 

 佐助の「勘弁してよっ」と嘆く声は、二人の声にかき消された。

 どこの大声大会だ、と言ってやりたい。延々続き出した叫び合いと殴り合いに、遠くにいながらも耳を塞ぐ佐助は、今度こそため息をついた。

 

「……なんであの流れで、こうなるのよ」

 

 恒例となった騒ぎを聞きつけた家臣が、散乱された将棋盤と駒を、慣れた手つきで片付けていく。

 見慣れた者たちは、ようやく始まったかと、安全な場所で見物までしだした。観客をどんどん増やしていく光景に、違和感を覚えるのは俺様だけ?と、我が身の常識を、ひっそり見つめなおした。

 それもすぐに、そもそも忍に常識という定義がないことに思い至る。

 

 

幸村がボロボロになりながらも、満足気な笑顔で上田と戻ったのは、丁度お八つの時間だった。

 すっかり主が身奇麗にしたのを見計らい、本日のお八つを持ってきたのは穴山小助だ。

 

「幸村様、おかえりなさいませ」

 

 執務室となっている部屋へ入室の許可を貰い、障子開けて頭を下げる。

 穴山小助。古くは武田より仕える、穴山家縁の者という疑いようのない血筋を持ちながら、真田忍隊に属している。

 主(おも)だった命は、幸村の影武者。異能者ではない小助が真田源二郎幸村になるというのは、並大抵の努力では成し得ない。ましてや元々が忍ではなく、忍の技で異能者を装う為に、自ら志願して入隊したのだ。

 異色ともいえる経歴を持つ小助は、幸村が帰るまでの間、城を守っていた。とはいえ政務に手はだせないので、幸村の執務室にはたった三日とは思えない量の書類が、山と積まれている。逃げ出したい仕事を佐助が見逃す筈もなく、他の勇士を目付け役に据え、早速文机に拘束させられている。

 小助は、ならば仕事にやる気が出るようにと、お八つを持ってきたのだ。

 

「小助、留守の間、ご苦労であった」

 

「勿体ないお言葉にございます。幸村様、こちらは甚八が買って参りました、京の干菓子にございます」

 

 少し温めのお茶と共に出された、色とりどりの菓子に目を輝かせた幸村は、甚八の名前にも綻んだ。

 

「そうか、甚八が帰ってきておるのか」

 

「幸村様よりも、一刻ほど先にでしょうか。すぐにでも挨拶をと思っていたそうなのですが、ご政務を優先させて欲しい、と言付かりました」

 

 残念がる幸村に、「夕餉は甚八が作るそうですよ」と付け加えた。海育ちである甚八の料理は、誰もが認める腕をしている。

 

「それは楽しみだ」

 

 笑を戻した幸村は、干菓子を一つ、口に放り込んだ。

 根津甚八。先代である昌幸の代から真田に仕えている者だが、出は武将などではなく、元・海賊だ。

 真田が幸村に代替わりしても、あまりその地位も仕事も変わっていない。時折海に戻っては航海に出て、表向きは幸村直轄の諜報役を務め、裏では武器調達と調度品等収集を行い、真田ひいては武田の利となる物を持ち帰ってくる。

 船の行先が堺より西だけでなく、時折外つ国にまで延ばすのだから、当然幸村と会えるのは年に一度あるかないか。戻っているならば、すぐにでも会いたいと思っても仕方がない。

 夕餉の支度をしているという事は、それまでは会えないとも指している。幸村も日が沈みきるまでには通しておかなければならない書状もあるため、我慢するしかないなと、茶を啜った。

 一方、上田城内の外れにある草屋敷にて。佐助は信玄から新たに与えられた命を、才蔵に伝えていた。

 旦那もお館様も、揃って忍び使いが荒いよな。という愚痴から始まった内容は、二人が将棋を指していた際に関係していた。

 

「武田忍隊が調べた様子だと、北条の後ろは織田でも何でもない。武田に一度落とされた家の家臣だ。血筋の

もんか分からねえ童を主家の跡取りだって祭り上げて、援軍を北条に求めようとしている」

 

 才蔵は、その家臣も無駄な事をすると思いつつも、さして驚きはしなかった。

 

「寝返った事よりも、北条が動くほどの物なのか」

 

「あのじーさん、あれでも儀に生きてるらしいからな。うまいこと言いくるめられたんじゃねえの。腐っても落とされた家の出は、代々続く豪族だったからな」

 

 北条だって名だたる大名の血だからじゃない?と、適当に返した。下克上となったこの戦国の時代では、誰もが天下を取る権利を持っている。

 武田家とて守護の出身だが、信玄が今の座に座ったのは父を追放し、家督争いに勝ったからだ。とはいえ、実力主義の前では無力に等しい肩書きも、家としての繋がりを保たせるには、現在も効果的であるのは間違いない。

 忍である佐助達にはどうでも良い事でも、武将にとっては譲れぬ矜持ともなる。

 佐助は「さて」と話を戻した。

 

「北条が本当に動くのか、動いたとして、自軍をどこまでかは判明していない。何より敗れたとはいえ、降伏した連中の裏切り自体も、表立っては煙すら見せてない」

 

「なるほど」

 

 目的は、裏切り者の処罰。暗殺をするのは容易いが、どうせならば追随する者が出ないようにした方が効果的だ。白日の元に晒した上で、裏切った末路を周囲に見せつける。

 

「お館様は次の川中島を利用したいみたいだけど、どこまでどうなるやら」

 

 夏の盛りに、両雄攻めいるつもりは無かった。年を越して戦続きの武田に、上杉は数こそ少ないが、冬が終わるのを待っていたかのような合戦をし、長期戦に兵を疲弊させている。

今のままでは準備も戦略も足りず、互いに決戦は秋になるだろうと踏んでいる。

 

「どうして先に片付けてしまわない。裏切り者を交えての合戦など有益なことはないと思うが」

 

「戦力を使うのも見せるのも憚るなら、大舞台だと見立てて、まとめてしまえば良いとでも思ったんじゃないの」

 

 肩をすくめる忍隊の長に、副長は真意を嗅ぎとる。

 

「お館様はまた、あの上杉と決着を着ける気は無さそうだ」 

 

「才蔵……思ってても口にするなって。萎えるだろ」

 目的を見失いそうになるが、与えられた仕事を完璧にこなす事だけに集中すれば良いさ、と自分を奮い立たせた。

 

「裏切り者をあぶり出すのは、さほど問題じゃないんだよな。奥州もまあ、面倒だけど。むしろ厄介なのが北条なんだよな」

 北条も忍を扱う。才蔵と同じ伊賀者の集まりで、中でも伝説と言われる風魔小太郎が、常に主である氏政の周囲に気を巡らせているのだ。

 

「あの風魔と一戦交える気は、俺様も今は無いからねえ」

 

 緩やかな声とは裏腹に、佐助の目の奥は血を吸った刃が潜んでいた。才蔵の心も同じだった。

 

「だがいつか殺す」

 

 何せ先の北条との戦で、大事な主である幸村が忍の毒でやられたのだ。相手方の忍が持っていた毒の塗られた苦無で傷を負い、傷口から毒が回った。

戦自体は互いに退いた形を取り、休戦に近い決着となったが、一週間は床から起き上がれずに寝込んだ程。

 

「……あちらさんの毒には手を焼いたな。まあ旦那が苦無を無理やり引き抜かなきゃ、あそこまで酷くもならなかったんだけど」

 

「言い訳か」

 

「まさか」

 

 あの時、真田忍隊がどれほど、自分たちの不甲斐なさを恥じたか知れない。

 

「お前と同じだよ才蔵」

 

 同時に佐助が憂いたのは、草でありながら、誰もが当たり前に幸村を案じ、回復を願う心。結束の固さという長所でありながら、判断を鈍らせる短所にもなりえる感情を幸村は与えた。

 その心が復讐心で燃えている一方、何よりも忍でありたい頭が律する。

 

「いつかじゃない、殺れるなら今で良い。だが私怨で動かないのが忍だ」

 

「お前も相当屈折してる」

 

 長い付き合いである才蔵は、とうに佐助の内を見透かしている。くつり、と音も無く皮肉げに歪められた笑みに、佐助は眉間に皺を寄せた。

 

「そっくりそのまま返してやるよ」

 

 暗殺者から一変、心酔者に近い才蔵には言われたくない。というより甲賀出の佐助にとって、伊賀出の才蔵はいつだって気に食わない存在だった。

 その才蔵も佐助と意見が合わないのを当然としながらも、副長として申し分の無い働きをする。やはり真田忍隊の結束力の高さは、幸村が原動力となっているのは間違いない。

 その原動力はといえば、甚八が作った夕餉をぺろりと平らげ、二人での謁見を小さな酒宴にしていた。

 幸村はあまり酒が得意ではないが、甚八はザルを超えたワクだ。だから彼が戻ってきた夜はこうして、酒を振舞ってきた。

 それも今は終え、後は寝るだけとなった頃、佐助が幸村の閨へ参った。仕事の報告と、幸村が単衣に着替えるのを手伝う為だ。いつの間にか任務で不在の時以外の、彼の役目の一つとなった。二年前に関係を結んでからも、その習慣は変えていない。

 着替える合間の雑談は、主に甚八の話題で盛り上がった。

 単衣に袖を通させ、腰紐をきゅっと結ぶと、ここへ来た二つ目の目的である報告を行なった。

 

「俺様は明日の夜から、またちょっと出るね」

 

 信玄とのやり取りがあったから、佐助の報告も予想していた。ただ昨日甲斐に戻って、今日上田に着いたのに、明日にはもう出ていくのかという性急さから、童じみた自覚はあれど、つい心寂しさを感じてしまう。

 

「そうか。今度はどの程度かかる」

 

「そうだねー……数日の内にってのは、難しいかも」

 

「あい分かった、気を付けて参れ。必ず無事に帰ってくるのだぞ」

 

 返事はないと知りつつも、幸村は必ず同じ言葉をかけてきた。今夜も佐助は一つ口角を上げるだけ。

 何も返せない変わりに、あり触れた日常を持ち出しては、少しでも心を和らげさせようとする。幸村の過ごす日常の続きに、忍が帰る場所があるとでも言うように。

 

「ここぞとばかりに、甘味の食いすぎだけはしないでよ」

 

「俺をなんだと思っておるのだ」

 

 失礼だぞと唇を尖らせるので、ならばと黙認していた事実を突きつける。

 

「あれはいつだったかなあ……。黙って見てたら戸棚に隠してた団子を次々と口に運んで、あっという間に三十本平らげたのはどこの主よ」

 

「う」

 

 まさか見られていると思わなかった幸村は、途端に二の句が告げなくなった。あっさりと終わった口論に、今度は自然と笑を零す。

 

「じゃあ俺様の居ない間は、六郎に任せてあるから」

 

 佐助がゆっくりと立ち上がりながらの忠告にも、幸村は思ったままを返してしまう

 

「では盗み食いを考える間も無く、隠されてしまうな」

 

 何度となく隠されては見つからずじまいだった過去を思い出し、懐かしい顔を浮かべるのは幸村だけで、佐助は呆れるばかりだった。

 

「……あいも変わらず、する気だったのかよ」

 

「いや違うぞ、例えばだ。それに、まだ何もしておらぬではないか」

 

 盗み食いをしたがっている事がもう、武将として問題大ありなんだけどと目で訴えると、またしても幸村の唇が尖った。

 

「佐助は帰ってくると口喧しくなる」

 

 目は口ほどに物を言ったらしい。

 

「口煩くさせてんのは旦那でしょ」

 

 なんでしょうね、この人。と思いつつも、口煩くなる理由を自覚している忍は、形勢逆転される前に部屋を出ようと決めた。

 

「じゃあ俺様も明日の支度とかあるから。旦那はお館様に言われた通り、上杉との合戦に備えてよね」

 

「お、おお。俺のことは案ずるな。佐助は己の事を優先させろ」

 

 無理な事を、と心中では笑いながら、「はいよ」とだけ頷く。

 退室すれば、またしばらく幸村と離れる事になる。次も、この場所へ帰れのか。ふとそんな事実に、らしくもなく佐助の動きが鈍った。

 瞬きほどの間ではあったが、同じく躊躇っていた幸村の背を押すには十分だった。

 

「あ、佐助」

 

 その場で立ったまま振り返ると、己と同じように躊躇いの空気を宿している目と合った。

 ああ、俺様も旦那の事を、こんな目で見ていなければ良いんだけど。

 呼ばれたので何を言われるのかと一寸待てば、先ほどと変わらない本音だった。

 

「……早く帰って来い」

 

「旦那」

 

 やはり何も言えないのを知っている主は、それでも念を押した。

 

「傷一つ付けるなよ」

 

「それはどうかな」

 

 さすがに首を傾げてみる。傷だらけの体に、傷一つ付けるなとは得てして妙な、と心中笑んだ。幸村は僅かばかりでも反応のあった事で、今度は少し口調を強める。

 

「お主が傷をつける数だけ、団子を食ってやるからな」

 

 勇ましく言うことだろうか。不覚にも夜に声を出して笑いたくなるのを抑える為に、手で口元を被った。

 

「何だ」

 

 童じみた脅しだった事に気づいていないのか、今度は幸村が首をかしげる。

 

「……それって、旦那が団子食べたいだけに聞こえるんだけど……」

 

 佐助に言われて、ようやくハッとした。

 

「そ、そうか、そうだな。いや、違うからな」

 

「うん」

 

 ちゃんと分かっている、と頷いたのを見てから、「ならば」と、別な条件に置き換えた。

 

「少しでも怪我をしたなら、次の戦には参加させぬ」

 

 佐助からすれば、団子よりもこちらの方が驚いた。

 

「うわ、旦那にしては珍しく、武将らしい脅し文句」

 

「なんだそれは」

 

 感心というよりはからかわれていると感じ、不満げな顔で睨み上げる。これは鉄拳の一つでもくれてやろうと拳を握る虎若子に、ようやく佐助が慌て出した。

 

「ちょ、明日出る俺様に何する気?!」

 

「問題なかろう。出るなら尚更、一発殴るぐらいは労いの内に過ぎん」

 

「そんなの、あんたとお館様ぐらいだけだってのっ」

 

 結局、夜だというのに、忍が声を張り上げる羽目になった。

 

「わーかりました。旦那の背中を守れないのは嫌だから、ちゃんと肝に銘じておきます」

 

 傷云々だけでなく、帰還の所まで遡って応えた忍に、主はようやく満足げに頷いた。

 

「おお。忘れるな、俺の道を開けるのは佐助の役目ぞ」

 

 そして引き止めるのもね。

 胸の内だけで付け足したのは、忘れてはならない出来事への戒め。

 

「勿論、あんたの背中を守る役目も、あんたの足を止めようとする奴らの露払いも、誰かに譲る気は無いよ」

 

「佐助」

 

 佐助の、閨を出られなかった瞬きほどの躊躇いは、幸村が抱く不安を嗅ぎとったのかもしれない。

 でなければ不意に、己に言い聞かせるような言葉を吐く訳がなかった。

 

「大丈夫、俺様が旦那を陽の下で何度でも勝たせるし、もしまた……闇に歪んでも、目を覚まさせてやるよ」

 

 幸村が異能の声に耳を傾けないように。その声に返さないように。そしてもう二度と、闇に目を向け、身を沈めさせない為に。

 大丈夫。そうして何度も幸村を安心させようとし、自らを奮い立たせてきた。

 そう、これは戒めであり決意であり、だから佐助は幸村の言葉に答えない代わりに、行動で示してきた。

 閨を共にしたあの時、主が「傍にいろ」と言ったから。

 

「それじゃあ、おやすみ旦那」

 

 ちゃんと帰りますから、大丈夫。念を他愛もない就寝の挨拶に込めて。

 幸村は夜の静けさを取り戻した部屋で、障子をしばらく眺めた。去った佐助の背中を眺めるように、残像を脳裏に焼き付ける。

 佐助の大丈夫は、二人だけの呪文ともなった。初めて異能の力を暴走させた弁丸の時から数えて、いくつ彼はこの言葉を唱えてきたのか。

 だけど今夜は少し違っていた。

 

「大丈夫と言うがな……それは違うぞ、佐助」

 

 佐助に届かない幸村の否定に、燭台の火が小さく揺らめいた。

 

 


 
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