No.590949

2013

向坂さん

2013年の光ちゃん誕生日記念です。

2013-06-25 00:25:14 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:825   閲覧ユーザー数:820

 

6'

 時刻は午後六時過ぎ。今日は仕事が久し振りに早く終わった。お疲れ様でした、お先に失礼します。

 ここのところ半月ほど、遅くまで仕事があったので、陽があるうちに帰るのが何か新鮮な気分だ。お、携帯にメール。

『やっほー。私早く終わったんだけど、今日は遅い?』

 絶妙のタイミング。俺はメールじゃなく電話で返した。

「おーい、光さん」

『あ! もしかして、今日、もう終わり?』

「うん。せっかくだから外でメシでも食おうよ」

『やったー!』

 ? 何か、声が二箇所から聞こえるような気がする……

『「わっ』」

 わっ。背後からの一撃。

「ひ、光。なんでここに」

「え。なんか、今日は君も早く終わるような気がして。ここまで来ちゃいました」

 胸を張る。こっちは口が半開きだ。

「す、凄いな。霊力でもあるんじゃないか」

 光はぷ、と噴き出した。

「アハハ。本当は、今日出先から直帰だったから、ちょうどこっちを通ることになっただけ」

「何だ」

 光はごく自然に俺の腕を引き寄せて絡まる。組む、というよりも絡まる、だ。

「ひ、光?」

「んー! なんか、外で会うのって久し振りだよね。わくわくしちゃう」

 ふう。全く。

「本当に、光は変わんないな。高校の頃からさ」

「えー。君だって。ううん、君は子供の頃から変わってないよ」

 いつもの会話を交わしつつ、駅前の方に歩いていくと、まだ夕方なのにシャッターの下りている店があった。あ。

「ああ、ここもついに無くなったか」

 思わず声に出して言ってしまった。

「え? どうしたの」

 光が首を傾げて店のシャッターを見た。そのど真ん中に、紙が一枚。ポップなフォントに似つかわしくないことが書かれている。『閉店のお知らせ』

「ほら、ここ。高校の頃よく来たCD屋」

「あ。あの、ちょっと変わったのも売ってたとこ!」

「そうそう」

 俺と光が「変わってない」合戦をしていても、街の方は変わっていくんだな。

「ちょっと、寂しいね」

「だな。でも、きっとまた何か面白い店が出来るさ」

「そうだね。さ、今日は何食べよっか?」

 

7'

 時刻は午前七時過ぎ。安い紅茶でもそれなりにいい香りはするもので、優雅と言えなくもない朝食ではある。まあ、食べ物はメロンパンに目玉焼きだったりするのだけど。

「こっちの一個はちょっと失敗しちゃったんだ。ほら、黄身が出ちゃってる」

 光が苦笑いして自分の皿を指す。

「俺がそっち食べてもいいけど。見た目なんてあんまり気にしないし」

「いいよいいよ。作った人の責任! はい」

 光が渡してくれた新聞は相変わらず煮え切らない政局に煮え切らない怒りをぶつけていて、大して面白くない。でも、スポーツ面にちょっと気になる見出しを見つけた。

『フランス予選初勝利。ガルニエ二得点』

 サッカーの国際試合の記事だ。気になった、というのは「ガルニエ」という選手の名前だ。最近サッカーを余り見なくなったので選手にもすっかり疎くなってしまった。でもこの名前には憶えがある。

「光、サッカーのガルニエって憶えてる? フランス代表の」

「ガルニエ選手? うーんと……あ! あの、日本と韓国のワールドカップのときの!」

 十年、いやもう十一年前に、日本と韓国でワールドカップが開催された。そのとき、フランス代表のキャプテンを務めていたのがガルニエだった。残念ながらフランスはいい結果を残せなかったものの、ガルニエ主将の、フランスらしからぬ無骨で闘志溢れるプレイは印象に残っている。

「そうそう。で、今、新聞見たら、ガルニエが代表戦で二得点したって」

「えーっ! だって、ガルニエ選手って、今いくつ?」

 十一年前に三十過ぎのベテラン選手だったのだから、今はもうとっくに四十を過ぎているはずだ。それで現役、代表に選ばれて二得点? 凄い話だ。と、思って記事を読んだら違っていた。

「十八歳だってさ」

「え?」

「『なお、同選手は、日韓W杯に出場したアラン・ガルニエ氏の長男』なんだと」

「あー、なるほど! そうかあ、親子で代表なんてすごいね」

 まあ、十一年も経てば、こういうこともあるよな。他人事でもない。ガルニエ父が活躍したあの年、俺たちは大学の一年だった。いまや、子供がいてもおかしくない年齢になってしまった。いないが。

「……どうかした? じっと見ちゃってさあ」

 光は失敗した目玉焼きを器用に食べてしまってから、俺の視線に気が付いた。

「あ、いや、何でもない」

 付き合いが長いって言っても、なかなか言えないよなあ。子供作る?とかって……

6

 時刻は午後六時過ぎ。今日の仕事は朝早くからだったのでもう終わりだ。お疲れ様でした、お先に失礼します。

 ここのところ半月ほど、遅くからの仕事ばかりだったので、陽があるうちに帰るのが何か新鮮な気分だ。お、携帯にメール。

 何だ、広告か。そんな、42インチのテレビなんてほいほい買えないよ。削除、と。さて、ちょっと寄り道してくかな。

「ああ、ここもついに無くなったか」

 思わず声に出して言ってしまった。誰も聞いていなかっただろうな。

 俺はCD屋のシャッターの前に貼られた閉店のお知らせをもう一度見直して、今度は心の中で言った。ここもついに無くなったか。やっぱり、ネット通販とか配信とかに負けたんだろうな。俺も最近はそんなのばっかりだったし。それでこういう店の閉店を寂しがるのは不実かもしれん。

 高校の頃よく来たCD屋だった。別にマニア向けじゃなくて普通に流行りのCDを売ってるような店だったのだけども、ところどころにやけに古かったり聞いたこともなかったりするのが混じっていて、店員さんの反骨心みたいなのを感じてたんだよな。

『ねえ、これ、知ってる? 私たちが生まれた頃に流行ってたんだって』

『いや、知らない。ていうか、何で光は知ってるんだよ』

『お父さんが好きでよく聴いてたんだ。あれはレコードだったけど、CDになってたんだなあ。お父さんに教えてあげようかな』

『レコード持ってるんだったら別にいいんじゃないのか?』

『うん、でも、うちのレコードプレイヤー壊れちゃってるから』

 というようなCDがぽんと置いてあったわけだ。

 思わず溜息が出た。何だか急に年を取った気がする。こういうことがあっても、何とも思わなくなったら本当に年を取ったってことなんだろうな。

 中途半端に自分を励まして、俺は帰宅ルートに戻った。

 

7

 時刻は午前十時過ぎ。今日の仕事はまた昼過ぎから深夜までに戻ったので、まだ朝と言ってもいい。

 安い紅茶でもそれなりにいい香りはするもので、優雅と言えなくもない朝食ではある。まあ、食べ物はメロンパン一つきりなのだけども。

 新聞は相変わらず煮え切らない政局に煮え切らない怒りをぶつけていて、大して面白くない。でも、スポーツ面にちょっと気になる見出しを見つけた。

『フランス予選初勝利。ガルニエ二得点』

 サッカーの国際試合の記事だ。気になった、というのは「ガルニエ」という選手の名前だ。ここのところサッカーを余り見なくなったので選手にもすっかり疎くなってしまった。でもこの名前には憶えがある。

 

『「W杯を来年に控え、フランス代表にガルニエ復帰」かぁ。もうおっさんだしなあ。代表復帰って言っても』

『うーん、そうかなあ?』

『お、光センセイは違う意見?』

『アハハ。えへん、センセイとしては、ガルニエ選手はまだまだ出来ると思います。凄い頑張り屋だもん』

『確かに闘志は凄いけど、スピードがなあ。ドイツのムラーとか相手にしたら置いてきぼりになるぜ』

『スピードが全てじゃないでしょ』

『……陸上部員、しかも短距離の人間のセリフとは思えないな』

『アハハ、もう。そういう問題じゃないよー』

 

 十年、いやもう十一年前に、日本と韓国でワールドカップが開催された。そのとき、フランス代表のキャプテンを務めていたのがガルニエだった。残念ながらフランスはいい結果を残せなかったものの、ガルニエ主将の、フランスらしからぬ無骨で闘志溢れるプレイは印象に残っている。

 十一年前に三十過ぎのベテラン選手だったのだから、今はもうとっくに四十を過ぎているはずだ。それで現役、代表に選ばれて二得点? 凄い話だ。

 と、思って記事を読んだら違っていた。今回活躍したガルニエ選手はまだ十八歳の新星で、

『なお、同選手は、日韓W杯に出場したアラン・ガルニエ氏の長男』

 なのだそうだ。そうか、十一年も経てば、こういうこともあるよな。

 他人事でもない。ガルニエ父が活躍したあの年、俺は大学の一年だった。いまや、子供がいてもおかしくない年齢になってしまった。いないが。それ以前に子供の母親に当たる人がいない。

 まあ、いないものはしょうがない。考えても空しいだけだ。労働してこよう。

 新聞を閉じかけて、ふと止まった。ガルニエ二世活躍の記事の下に、ごく小さな記事があった。オリンピックでもなければ余り話題にもならない、陸上の記事だ。いわく、

『元五輪代表候補、陽ノ下が引退』

 え。陽ノ下、って光だよな。あんまりこんな苗字ないし。

「アテネと北京の五輪代表候補だった陸上短距離の陽ノ下光(ひびきの大職)が引退を発表した」やっぱり。 

 光が体育大学に進んだことは知っていた。そして、あれはいつだったか……ああ、アテネのときだから、もう九年前だ。光がもしかしたら、五輪代表になるかもしれないという話を匠から聞いて。

『元同級生で集まって、壮行会でもやらないか?』

 いいな、やろう。俺も乗り気だったんだけど、皆の予定が合わないでいるうちに、消えてしまった。当の光も出場できる記録を出せずに、涙を飲んだとかいう話だった。

 オリンピックは四年に一度だから、五年前の北京のときにもチャンスがあったはずだ。実際この記事にも北京のときは出場まであと一歩に迫った、とある。でも、その頃にはもう、皆疎遠になっていて、壮行会どころか連絡もなかった。大体、俺だって今この記事で結果を知ったくらいだ。

 去年もロンドンでオリンピックがあったけど、そのときはどうだったのか。記事にはアテネと北京のことしか書いていない。たぶん、全然届かなかったんだろうな。

『光、いつも練習で大変じゃないか?』

『練習すればするほど、どんどんタイムが良くなるんだよ。楽しいよ!』

 混じり気なしの笑顔を思い出す。あんなに頑張り屋だったのに、結局オリンピックには出られなかったのか。何か、凹むな。頑張り屋じゃない俺が冴えない日々を送るのも当たり前か。

 新聞を畳む前にもう一度だけ、ちらっと二つの記事を見た。日韓W杯。陽ノ下が引退。

 俺はふうっと息を吐いた。そうだ。十一年前は、高校を卒業した年でもあったんだよな。

 

5

 卒業式の日がいやに寒かった記憶がある。三月だったはずなのだけど。あ。ああ、そうか。三月は三月でも一日だったような気がする。なら寒いのも当然か。

 とても寒くて、卒業式なのに桜も咲いていなくて。まあ、一日だとしたら当たり前ではある。ともかくそんな寒々しい中を、校長先生の訓示やら生徒会長の赤井さんの答辞なんかをぼんやりと聞いて。

 匠や純といった友人たちと意味もなくはしゃいで写真を撮ったりした。今までいつも一緒だったから、これからそんなにつるめなくなる、という事態が余り想像できなかった。

 そして、光がいた。

「ねえ、せっかくだし、写真撮ろうよ」

 水無月さんにカメラマン…カメラウーマン? いや、彼女の思想を尊重するなら、「写真撮影手」? ともかくそれを依頼して、俺と光は卒業証書を手に、咲いてない桜の前で記念写真を撮った。光の笑顔が何だかふわっと柔らかかったのを憶えている。

 それからどうしたのか、よく憶えていない。大学の入学式は四月の頭だったはずだから、丸々一ヶ月の休みがあったはずなのだけども。まあ、どうせ俺のことだからいい加減にだらだら過ごしたんだろう。

 次にはっきり記憶があるのはもう大学の入学式だ。そう、周りが見知らぬ人たちばかりで、俺は思ったのだ。もう、匠も純も、水無月さんも華澄先生も俺の周りにはいない。

 そして、光も。

8

 新しい人事制度、か。何度この通知を読んでみても、俺の能力だと今より給料下がりそうだなあ。そして外は深夜。加えて雨、と。気持ちが盛り上がる要素は何もないけど、そんなに下がってもない。何だろう。麻痺してるのか。

 雨が思ったより派手だ。いつも帰る駅じゃなくて、地下道を行ける方にするか。あっちちょっと遠いんだけどな。

 徒歩三分で地下道へ。たった三分でこれか。帰ったらすぐ風呂入らないと風邪引きそうだな。

「あーあ……帰ったらすぐお風呂に入らないと、風邪引きそうだよ」

 そうだよな、光。

 ……光、だって?

「えっ……」

 反対側の階段から地下道に入ってきて、同じく濡れ鼠の女の人の目が見る見るうちに丸くなる。その左側の下にあるほくろが視野に入った瞬間、

「光?」

 俺は変な音程でそう言った。

「え、え、えーっ!?」

 光はそれほど変な音程ではなかったが、一つの「え」ごとにオクターブを上げて叫んだ。

 一体何年ぶりだろう。高校を出て以来だから……あ、そうか。

「十一年ぶりだな」

 光は丸くなった目を瞬かせ、ふわっと笑った。

「へー、ぱっと出てくるね」

「あ、いや、たまたまちょっと、な」

「えー、でも、すごい。本当、久し振りだよね」

 光はふわっと微笑んだ。高校の頃よりちょっと細面になったかな。

「いつもここの地下道を使ってるの?」

「あ、いや、違うんだ。今日は雨だから。光はこっちなのか?」

「ううん。今日はちょっと用事があって出てきただけ」

 結構な偶然だな。あ、偶然と言えば。

「光、陸上、現役引退するんだって?」

 光はまた目を瞬かせた。ちょっと笑顔から力が減る。

「うん。ちょっと怪我が長引いちゃって……」

 何にか良く分からないが、何かに促されて俺たちは地下道を歩き始めた。

「怪我? 大丈夫なのか?」

「平気平気。でも、全力で走れないんじゃ、もう選手はやれないなあって」

「そうか……引退後はどうするの」

「まだ今は何とも。しばらくは大学の事務のお仕事があるけど、選手をやってること前提だったし」

 そう言えば、『ひびきの大職』とかって書いてあったな。光は一拍呼吸を置いて、俺にふわっと笑いかけた。

「君はどうしてるの? ずっとひびきのにいた?」

「あ、いや。一回出たんだけど。仕事が残業ばっかでおかしくなりそうだったから、転職して戻ってきた」

「へえ。じゃあ、今はひびきのなんだ」

「うん。給料が余りにも安過ぎて、実家じゃないと生きていけないから」

「……そっか」

「……まあ、色々大変だな。お互い」

 この時間の地下道は、人通りがほとんどない。俺と光の湿った靴音しか聞こえなかった。靴音しか、だ。

「……」

「……」

 十一年だ。話すことも、聞きたいことも山ほどあったはずだ。でも、近況報告が終わった後、俺たちの間にあるものは、靴音だけだった。

「電車、一緒だよね?」

 次に出て来た言葉は、光のそんな一言だった。

「え、ああ」

 我ながら鈍くさい反応をした。光は気にせずふわっと笑った。

「じゃあ、行こう」

 

4

「もう、帰りだよね?」

 と光が言ったのは、今考えると奇妙だった。というのも、俺は帰宅部だったから、夕方校門のそばにいれば帰るところに決まっていたからだ。

「え、ああ」

 鈍くさい反応をする俺に、光はふわっと笑った。

「……じゃあ、一緒に帰ろう。ね」

 冬だったから、もう陽が半ば以上沈んでいた。風が結構あって、体が縮み込む。

「……寒いね」

「冬だからな」

 正確にこうだったかは憶えてない。気候のことを話したのは確かだったと思う。

 これも考えると奇妙なことなのだけど、話の内容は良く憶えてないくせに、そのとき、枯れた葉っぱが一枚、光の制服の緑色をかすめて落ちていったのをはっきり記憶している。

「……そうだね。冬だもんね」

 これも定かではなかったが、確か光はそう言ったはず。その次に記憶にある光の言葉は、

「ねえ、せっかくだし、写真撮ろうよ」

 だ。そう、そこから卒業まで、俺たちはまともに話をしなかったのだ。

 

9

 あの、隙間風のあった冬の夕方に比べると、今日は蒸し暑い。でも、あの日を思い出した。

「ここのあたり、みんな地下になったんだね」

 隣で吊り革につかまった光が真っ暗な車窓の外を見て言う。

「ああ。乗り換えとか大変になったって」

「そうだよね」

 通過する駅の照明が光のベストの茶色を一瞬照らした。

「渋いな」

 自分でも良く分からないことを言ってしまった。光は目を瞬かせた。

「え?」

 まあ、そうなる。俺は言葉を探した。

「あ、えーと。その、色合いがさ」

 探してこれだ。自分に絶望する。

「ああ。まあ、私もいい年だしね」

 光はちらっとベストの袖を見てから続けた。

「信じられる? もう、私たち、三十になるんだよ」

「そうだな」

 何かを思い出しそうになったが、表まで出て来なかった。

 しばらく、電車の揺れる音だけしか聞こえなかった。やがて隣の光の気配が息を溜めた。何か言おうとしている。

 電車が止まり、ドアが開く。怒涛のように人が乗ってきた。そうか、ここ、各駅停車との接続駅だ。

「わ、すごい」

 光はおそらく用意していたのとは違うことを言って、ふわっと笑った。

「この時間でも結構大変だな」

「うん、そうだね」

 そこからの沈黙は、ひびきのに着くまで続いた。

1

 光が泣いていた、という話は匠から聞いたのだったか、純からだったか。

 最初に聞いたとき、あ、そうだ、光って泣き虫だった、という変な感慨が頭に浮かんだ。高校に入ってから、笑顔ばかり見ていたから、忘れていた、と。

 最初、電話をかけたのだけど繋がらなくて、光の家に直接行ってみようと思って外に出た。そこからが何だか変な感じになっている。

 

10

 ひびきの駅は地下化されていない。でも、この時間だと地下と変わらないくらい暗い。それでも車窓にホームの端が見えてきた。

「えっと」

「……」

 光は言葉を探しあぐねている。俺も同じだ。見る見る間にホームは車窓の中で伸びていき、電車の速度は落ちていった。

「あ…」

 光が何とか音じゃなく文章を紡ぎだそうとしたとき、電車は停止し、ドアが開いた。背後からの圧力によって、俺と光は電車を降りた。

「……ここもさすがに降りる人が多いね」

 光はまた、おそらく言おうとしていたことではないことを言った。俺はうなずいた。

「そうだな。俺たちもだけど」

「うん」

 こういう、自動的な会話しかできていないんじゃないか? でも、何を話すべきなんだ?

 エスカレーターでちょっと下がって改札まで行くと、光はこちらを振り返った。

 

2

 光を見つけたのは、公園だった。子供の頃よく一緒に遊んだ小さな公園だ。光の家に行こうと思ったのになぜ公園に行くことになったのか分からないし、泣いているという話だった光が穏やかな顔でいたのも不思議だった。

「光」

「あ。どうしたの」

 光がゆっくり反転してこちらに向く。陽が傾いている。全てが夢の中のように、生々しさがない光景だった。

「光、その……大丈夫?」

「……なんで? 大丈夫だよ。いつも通りだよ」

 そう言ったあと、光はふわっと笑った。

 あ、そうか。これが最初だ。光の、この笑い方。ふわっと柔らかい……

 

11

「君の家って、東口だったよね」

 光の視線が俺が行くべき方向を指し示す。俺はうなずいた。

「じゃあ、ここで。また会いたいね」

 言って、光はふわっと笑った。

 

3/12

 ここから卒業するまで、光の笑い方は全部これだった。あ、いや、今もそうだ。ふわっと柔らかい……

柔らかい……

 虚ろな、笑いだ。

「そうか……なら、いいけど」

 あのときの俺はそう言った。それがどういう意味かもよく分からずに。

 なので、今の俺はこう言う。

「あ、ちょっと待って光」

「? どうしたの」

 ええと、しまった。呼び止めたはいいけど、何も考えていなかった。自分が言ってることの意味がよく分かってないのは今も変わらないな。

「あ、その、あれだよ。お茶でも一杯ぐらい」

 光は一瞬だけ目を丸くした。すぐにふわっとした笑顔に戻る。

「嬉しいけど……もう遅いよ?」

 確かに、もう三十分もすれば日付が変わる。俺は躊躇った。あの地下道の入り口からここまで一緒にいて、このぎこちなさ、この空気の淀みだ。お茶してどうなる。光の言うとおり、こんな時間にお茶を飲めるところなんてない。光の明日の予定は知らないが、俺は明日も仕事だ。あらゆる要素が、俺の瞬間的な思いつきを否定していた。

「……それもそうか。じゃ」

4

「もう、帰りだよね?」

 と光が言ったのは、今考えると納得がいった。というのも、あの時期の俺たちは、一々確認しないとお互いの予定や都合が分からなくなっていたからだ。

「え、ああ」

 鈍くさい反応をする俺に、光はふわっと笑った。

「……じゃあ、一緒に帰ろう。ね」

 そう。こういう状況で、敢えて誘ってくるのは、いつも、 

 

13

「あ……待って。そこにコンビニがあるから、何か買って飲まない?」

 光の方だ。俺はうなずいた。

「……そうだな」

 俺たちはコンビニに入った。そもそも余り酒は飲まないし、第一明日も労働しなければいけない身だ。俺はジンジャーエールを買った。しかし、光は違う立場のようだった。

「えへへ、じゃーん。飲んじゃおっと」

 コンビニを出た光の手の中には、最近よくテレビで宣伝している梅酒の缶があった。

「へえ。光、飲めるんだ」

「そんなでもないけど。今日はちょっと飲みたくなったんだ」

 俺と光は駅近くの公園に行った。屋根つきの休憩所があるから、雨でも問題ない。

 屋根の下のベンチに並んで座る。俺がジンジャーエールの蓋を取ると、光が梅酒の缶をちょっと上に挙げた。

「再会を祝して」

 俺もペットボトルを上に挙げた。余り様にはならないけど。

「乾杯」

 軽くぶつけてから飲む。炭酸が胃に落ちていく。

 屋根に当たる雨の音が大きく聞こえる。とても大きく。他には何も俺たちの間に音はない。

 こうなることは分かってたはずなのに、なぜ俺は光を呼び止めたんだろう。そして、光は俺を呼び止めたんだろう。

「……沁みるなー」

 沈黙を破ったのは光だった。

「結構、強いのか、それ?」

 缶を指差すと、光はふわっと笑った。

「飲んでみる?」

「い、いや遠慮しとく。明日仕事だし」

「そっか」

 くいくい、と光は二口ほど飲んだ。

「明日、お仕事なら、あんまり遅くならない方がいいよね」

「あ、ま、そうかな……」

「んー」

 光はまたくいくいと二口ほど飲み、かくんと頭を下げた。

「お、おい、光。大丈夫か」

「……どうしてこうなっちゃったかな」

 え?

「光?」

「……あ。な、何でもない何でもない」

 言って、光はふわっと笑った。

 

2

「……なんで? 大丈夫だよ。いつも通りだよ」

 そう言ったあと、光はふわっと笑った。

 

2/14

 その目尻、ちょうど泣きぼくろのすぐ上あたりに、一粒の水の玉が浮いていた。

 

15

 俺は、光に言った。

「光。その、笑い方」

「え?」

 光はふわっとした笑顔を崩さずに首を傾げた。

「その笑い方。何か、光らしくないよ」

「私らしく、ない?」

 光はまだふわっとした笑顔を崩さずに、首を反対側に傾げた。

「そんなこと、ない、よ……」

 かくん。光は最後に前に首を傾げた。っていうか、これは。

「ひ、光、本当に平気か?」

「私らしくない……」

 俯いた光が、意外なほど低い声で言う。

「私らしくない……」

「ひ、光、家まで送って……」

「……君に、私らしいとからしくないとか分かるの!?」

 えっ。俺は思わず光の顔を覗き込もうとした。でも、その必要はなかった。光はぐっと顔を上げ、正面から俺を見据えた。

「君が言う私って言うのは、いつの私なの!? どんな私なの!?」

 言葉が、全く思い付かない。光はふわっと笑った。

「君の言う私は、十代の私でしょ。こんな、もうすぐ三十になるような私じゃないでしょ」

 

0

 変な宇宙人が大暴れする楽しいアニメ映画が公開されるらしい。光向きじゃないな。寿さんと観に行こう。光とはいつでも遊べるしな。

 有名なピアニストが、クラシックにしてはお手ごろな料金でコンサートを開くらしい。めったにない機会だな。華澄さんが聴きたがりそうだ。光はちょっと退屈するかもしれないなあ。別のジャンルがいいだろう。光とはいつでも遊べるしな。

 スタジアムで格闘技だって? これは赤井さんだろ。光とは今度サッカーでも観に行こう。いつでも遊べるしな。

 デジタルフェアって何だ? うーん、要するに、パソコンとかモバイル的なものの見本市みたいなもんか。伊集院さんだな。俺、付いていけなさそうだけど。光とならたぶん、知識はどっこいだけどな。でもまあ、光とは別のところに行こう。いつでも遊べるしな。

 戦争を題材にした芝居……か。こういうの、観た方がいいんだろうけど、ちょっと硬すぎるかなあ。誰も付き合って……あ、そうだ。八重さんならいいかもしれない。きっとこういう題材でも分かってもらえそうだ。光も付き合ってくれそうだけど……まあ、光とならいつでも遊べるからな。

 そう、光とはいつでも会える。いつでも遊べる。どこへでも付き合ってくれる。どんなときだって光は変わらずに、笑顔で待ち合わせ場所に来てくれる。

 だから、今回はいいかな。

16

「……そうだな。俺は、今の光を知らないかもしれないな」

 俺は光を見つめた。

「あの頃から、何があってどういうことを思って、今ここにいる光がいるのか、知らない」

 そんなことにはならないだろう、と思っていた。それは、間違いなく、

「思い上がりだったよ、ごめん」

 光はふわっとした笑顔のまま、沈黙を守っている。

「でも、光……その、目尻のそれは」

 光はすっと目尻に指を当て、はっとしたように笑顔を消した。

「それが……らしくないことをしてるってことなんじゃ」

「ずるいよ」

 光は目を逸らした。

「ずるい?」

 俺が返しても、目を逸らしたまま、光は目尻を擦った。

「ずるいよ。そんなところには気が付くんだもん」

 正面を向き直したとき、光の目にはもう滴はなかった。

「でも、本当に、私はあの頃の私じゃないと思うよ。あんなに元気と希望と……に満ち溢れてたあの頃の」

 俺は苦笑いした。

「それは、お互い様だよ。俺だって、あの頃の、無駄なまでのエネルギーはすっかりなくなっちゃった」

 光がふわっと笑いかけ……悪戯っぽくにやっと笑った。

「その、無駄なまでのエネルギーって、女の子を追い掛け回すエネルギーのこと?」

「ぶふっ!!」

 タイミング悪く、ジンジャーエールを含んだところだった。

「だ、大丈夫?」

 光は素早くティッシュを出すと、俺に渡してくれた。

「あ、ありがとう」

「そこまで驚くってことは、図星だったんでしょ?」

 何と言うか。

「図星でした、なんて言うと思うか?」

「あの頃の君だったら言いそう」

 俺は顔をしかめた。

「だな。あいつなら言いそうだ」

「アハハ」

 あっ。

「光、それだよ」

「え?」

 光は何か見えないものを探すように視線をくるっと一周させた。

「それが、光らしい笑い方、だった。俺の記憶の中では」

 光は半秒くらい止まって、うなずいた。

「そっか」

 光はぐいっと伸びをした。

「うーん。ところでさ、実際、どうだったの?」

「何が?」  

「エネルギーの行方」

 俺は苦笑いをしようとしたが、できなかった。切ない。

「無駄に空中に消え去ったよ」

 振り向いた光は、俺のできなかった苦笑いを成功させていた。

「そっか」

 不思議なことに、苦笑いする光の目は澄んでいた。

 その目の輝きを見ていたら、ふっと言ってしまった。

「……もっとも、あと一人くらいは追いかけるエネルギー、あるけどな」

 光はもう一度伸びをした。今度のは、体がだるいからじゃなさそうだ。

「それは、他じゃ上手くいかないし、もうこれでいいやって追いかける感じなの?」

 俺はベンチから立ち上がった。

「まあ、他じゃ上手くいかなかったのは事実だけど。これでいいや、ってのとは違う」

 思い出す。一人で朝食を食べ、一人で寄り道したときに妄想した、二人での暮らし。その相手は、どこの誰とも分からない空想の女性じゃなかった。

「これじゃなきゃ駄目だったのに、どうして気付かなかったのか、だな」

 光はゆっくりと立ち上がった。

「ちょっと、遅かったなぁ」

 え。

「……光」

 光はにっと笑って、公園備え付けの時計を指差した。

 時計の針は真っ直ぐ上を指して重なっていた。ああ、日付が変わっちゃったのか。日付が……変わった。あ。思い出した。さっき表に出て来なかった記憶。

「光、誕生日おめでとう」

「ありがとう。ね、ちょっと遅かったでしょ。私、もう三十代になっちゃった」

 光がそう言って微笑んだので、俺は噴き出した。

「そんなことにこだわるキャラじゃなかったろ」

「だーかーら、変わっちゃったの」

 楽しげに笑う。

「ははは」

 俺も笑うと、光はすっと近づいてきて、真顔で問いかけてきた。

「そんな、変わっちゃった私でも、追いかける?」

 俺はごく自然に答えた。

「ああ」

「……ありがとう」

 小さく呟いてから、光はぐーんと三度目の伸びをして、笑った。

「きっと、高校生の私なら、こんなとき、『もうどこにも行かないで』とか、『ずっと私のそばにいて』とか言っただろうなあ。アハハ」

 俺も付き合って伸びをして、聞いた。

「じゃあ、今は?」

 光は軽くウインクした。

「教えない」

「ちぇ。ははは」

 俺は笑って、ジンジャーエールを飲もうとした。でも、ぽつりと水滴が落ちてきただけだった。光も向かいで同じようなことをしている。

「光もそれ、空?」

「うん。なくなっちゃった」

「じゃ、捨ててくるよ」

 俺は光に手を差し伸べた。光は首を横に振る。

「う、ううん。いいよ、自分でやるから」

「いいって。大した手間じゃないよ」

 実際、近くに自販機があって、そこに缶やペットボトルを捨てるお馴染みのゴミ箱がある。

「いいってば。あ、そうだ、私が捨てて来てあげる。はい」

 今度は光が手を差し伸べる。うーむ。何だろう。何かひっかかる。

「そうか。じゃあ」

 と俺はペットボトルを光に渡そうとしつつ、光の手にある梅酒の缶を観察した。あのデザイン、もしや。

「あっ」

 光は慌てたように缶を持った手を後ろに回した。

「? 何で隠すの」

「え、えーっとね」

 光は目を泳がせたが、上手い言い訳を思いつかなかったようだった。

「えへへ」

 ちょっと舌を出して、缶を前に出した。そのラベルにいわく、『梅ジュース』。

「……これって、あの梅酒のメーカーが出してて、酒と区別が付きづらいってちょっと問題になった」

「そうそう。お酒の方はこのあたりに大きく『これはお酒です』って書いてあるよ」

 梅、の漢字の脇あたりを指でなぞる光に、俺は溜息をついた。

「確かに変わったな、光。前はそんな嘘つかなかったもんな」

「えー。嘘なんてついてないよ。私、一度でもお酒、って言った?」

 ……そう言えば。やられた。

「……それにしても。あのテンションのアップダウン、素面だったのか?」

「へへ。まあ、ね」

 俺はもう一度溜息をついた。

「凄いな。絶対酔ってるって思ってた」

「……さっきのは、酔っ払いをおとなしくさせるための言葉だった?」

 光はくるっと回って言った。俺は笑った。

「そんなこと、思ってもないだろ」

「アハハ」

 光は楽しげに笑った。もうあのふわっとした笑顔はどこにもない。

「でも、何で酔ったふりなんてしたんだ?」

 光は回転をやめて、俺の目を見返した。

「だって、そうでもしないと、思い切ったことが言えなかったんだもん。でも、本当に酔っ払っちゃってたら、本当のことが分からなくなるでしょ。お互いに」

 光は少し下を見た。

「どんなことになっても良かった。もう、あの雰囲気には我慢できなかったんだ」

「……光」

 俺はそっと光の肩に手を置こうとした。が、光はひらっとかわした。

「あれ」

「アハハ、調子に乗ってるなー?」

 ……本当に素面なのか、光のヤツ。

「よっと」

 光はちょっと離れたゴミ箱に、偽梅酒の缶を放った。缶は一度箱のふちに当たったが、上手く入った。がらんごろん、と鈍い音がする。全然綺麗じゃない金属音だ。

 でも、俺にはなぜか、それが鐘の音に聞えた。

17

 いつの間にか、雨は上がっていた。

「ほら、ここのCD屋、無くなっちゃったんだよ」

 光を送るべく、駅の方に戻る途中で俺は例のCD屋のシャッターを指差した。

「ホントだ。ちょっと寂しいね。近頃はこういう普通のCD屋さんは厳しいのかなあ」

 普通の?

「いや、確かにここ、大半はベタなのを売ってたけど。ちょっと変なのも売ってたろ。俺たちが生まれた頃に流行ってたやつとかさ」

「そうだっけ? よく憶えてないなぁ」

 ええっ。

「俺のイメージ的には、光がここで、『ああ、そっかぁ!』とかって言うんだけど」

「そんなこと言われたって、憶えてないものは仕方ないでしょ」

 ううむ。

「……がっかりした?」

 光が顔を覗き込んでくる。俺は笑った。

「しないって。光、変わったのか変わってないのかはっきりしてくれよ。今の顔、子供の頃そっくりだったぞ」

「えへへ」

 光はまた子供の頃みたいに笑うと、急に立ち止まった。

「うん。そうだ。変わったとこ、見せようっと」

「ん?」

 何だろう。光はカバンから携帯を出した。

「まだスマホじゃないあたりも何となく変わってないポイントだな」

「もう。君はどうなの」

 俺は無言で自分のカバンから二つ折りの携帯を取り出した。

「ぷっ。アハハハ」

 笑いながら、光はメールを打ち、どこかに送信した。

「? 誰に送ったの」

 聞くと、光はさらっと言った。

「お母さんに。『遅くなっちゃったから、友達の家に泊まる』って」

 え。えええっ!?

 

18

 時刻は午前十時過ぎ。今日の仕事はまた昼過ぎから深夜までなので、まだ朝と言ってもいい。

 安い紅茶でもそれなりにいい香りはするもので、優雅と言えなくもない朝食ではある。まあ、食べ物はメロンパン一つきりなのだけども。

 と、思っていたら向かいから目玉焼きが差し出されてきた。しかしこれは。

「光、ちょっと黄身が出てないか?」

「えへへ。ちょっと失敗しちゃって。最近サボりがちだったから」

 新聞を手にしかけ、ふと思い出して聞いてみた。

「光、サッカーのガルニエって憶えてる? フランス代表の」

 やっぱりと言うか、光は首を傾げた。

「うーん。ちょっと憶えてないなぁ。ダフト選手は憶えてるんだけど」

 俺はうなずいた。そう、実際の光は俺の妄想からちょっと外れてた。でもまあ、それは当たり前のことだよな。

「その、ガルニエ選手? がどうかしたの」

「あ、いや。昨日の新聞記事でさ。息子が代表デビューしたって」

「へえ! そっか、もうそんなに経つんだね」

「ガルニエ、憶えてなかったくせに」

「アハハハ」

 ……うむう。「子供作る?」って聞くべきだろうか。

 馬鹿なことを考えていたら、じっとこっちを見つめている視線に気付くのが遅れた。

「どうした、光?」

「……うん。その……聞かないなって」

 え!?

「あ、いやそれはほらさ。まだ昨日久々に再会したばかりであれだから」

 うわあ、恥かしい。

「……そっか」

 ん? 何か光、浮かない顔のような。俺、勘違いしてる?

「……光。その、何を俺が聞かないのか、聞いてもいい?」

 どきどきする。光はちょっと目を逸らしたが、すぐに真正面を向き直した。

「……私が、高校を出てから今まで、君以外の誰かと付き合ったかどうか」

 ? あれ。そう言えば何で聞かなかったんだろう?

「……気に、ならない?」

 俺が考え込んでいたら、光が不安そうに言葉を足してきた。

「あ、まあ、そう言われるとあれだけど……」

 無理して聞くほどじゃない気がするなあ。

「ぷっ……アハハ」

 光が突然笑い出した。

「な、何だよ」

「ううん。何でもない。ゴメン、変なこと言って」

 光は言って、また突然に、笑うのをやめて真顔になった。

「あ」

「どうした」

「プレゼント」

 プレゼント……ああ、そうか。誕生日。光は真っ直ぐ俺を見て続ける。

「プレゼント。もらってない」

 目の前に手のひらが突き出される。

「……あの頃の光なら、絶対そんなこと言わなかったな」

 言いながら、ついつい笑ってしまうのはなぜだろう。

「あの頃の君だったら、言う前に素敵なのをくれたよ」

 光も言いながら、にこにこと笑っている。根競べしても体育会系には勝てそうにないな。俺は両手を上げた。

「分かったよ。今日買って、帰ってきてから渡すから」

 光はうなずきかけて……頬に手を当てた。

「……ねえ」

「ん? ご不満ですか」

 光は困ったような、くすぐったいような、でも結論としては笑顔、みたいな不思議な表情を見せた。

「あのさ。私、今から、家に帰らないと」

「え……あ!」

 当たり前のように、帰ったら光がいると思い込んでいた。うわあ。

「ご、ごめん」

 こんなだから、あの頃、光と離れちゃったんじゃないのか。

 俺が悶々としている向かいで、光はなぜか、天井を見つめて考えていた。

「……うん。そうだ」

 そう言って光は目を天井から俺に下ろした。

「ねえ。プレゼント、私が決めてもいい?」

「え、あ、もちろん。経済的に優しい感じであれば」

 光は(光にしては)悪そうな顔で微笑んだ。

「どうかなあ?」

「ええっ。ダイヤ的なものとかじゃないよな?」

 光はふるふると首を振って、今度は純度の高い笑顔になった。

「ううん。家賃の半分」

「へ」

 何だそれは。どういうことだ。麻痺してる間に、光は続けた。

「二人で住む部屋の、家賃の半分。どう?」

 俺はもっと麻痺した。やっとで舌を動かす。

「て、展開早いな……」

 確かに昔っから行動は早かったけど、こういう方向じゃなかったような気がする。

「大人ですから」

 光はぺろりと舌を出した。昔と変わらない、茶目っ気たっぷりの表情だけど、目の輝きに、昔にはない複雑な深みを感じる。

「それ、関係あるか?」

「アハハハ、そうだね」

 そう、色々、俺の知らないことがあったんだよな。さっき聞かれた、「俺が聞かなかったこと」絡みとかでも。でも、それでも、いや、それでこそ……

「何を考えてるの?」

 光が紅茶を二つのカップに注ぎながら言った。

「ん? 俺、やっぱり光好きだなあって」

 光はにっこり笑って、言った。

「ばかぁ」

 それは全く変わってなくて、すっかり変わった響きだった。

 

 

 

 

 
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