朝議が終わるなり声を掛けようとして、延ばしかけた腕を止める。
というのも、彼が明らかに不機嫌な空気を振りまいていたからだ。
フードの影に隠れた表情は目が座り、口元はむっつりと結ばれたまま。
眉間に皺こそ無いものの、見るからに近寄りがたい空気を纏っていた。
周囲の官吏らも彼に触れまじと、遠巻きに通り過ぎて行く。
(さて、どうしたものか)
こういう時は拘わらないのが一番だが、仕事を抱えていてはスルーすることもできない。
急ぎの案件というわけではない。
かといって悠長なことも言ってられない。
辛評は首を軽く傾げながら、他の官吏らと同じように広間を後にする荀彧の背を見送る。
「辛評、どうしたの?」
すると突然背後から声をかけられた。
先程まで郭図とニコニコ話をしていた荀諶である。
同じ『軍師』であるが故に見上げずにすむというのは有難い、などと頭の片隅で思いながら気になっていたことを尋ねてみた。仮にも兄で、同じ官舎をあてがわれているのだ。いかに精神年齢が幼かろうて、気付くこともあろう。
「……荀彧に何かあったのか?」
「え? 文若に? 僕は何も聞いてないけど…」
辛評の言葉に意外そうな表情を浮かべた荀諶。
先を行く荀彧の背を不思議そうに見やる。
だが突然ムッとしたように唇を尖らせると、いきなり荀彧の傍へと駆け寄るなり、
「文若、来て!」
いきなり荀彧の右手を左手でしっかりと握りしめ、そのままズカズカと連れだって広間から出ていく。荀彧もビックリしたらしく、フードの影から何事かと面食らった表情が見え隠れした。
荀諶の思わぬ行動に驚かされたのは荀彧だけでなく辛評もだった。
絶句したように立ち尽くしたが、すぐさま頭を切り替え「相変わらず突拍子ないやつだ」と肩をすくめると、ゆったりと歩き出す。
荀彧のご機嫌取りは兄荀諶にまかせて、夕刻にでも立ち寄るとしようと自分の執務室へと戻ったのだった。
だが辛評の予想とは裏腹に、彼は一刻もたたぬうちに、別の場所で二人を見かけることになるのである。
それは、丁度主記の元へと清書すべき書類の原案を持っていこうとした途中。
どうやら自分を待っていたらしい荀攸に、いきなり袖を引かれたのだ。
「何だ?」
「しーっ!」
荀攸はくすくす笑いながら人差し指を口元にあててから、そっとその指をとある方向へと向けた。
その指差した先へと視線を向ければ、そこは荀諶があてがわれた執務室が。
窓の向こうに見えるは、長床に横たわり、一定の間隔で胸が上下している荀彧。
様子を見るに、どうやらすやすやと心地良く寝ているらしい。
そして同じ長床に腰を下ろし、何やら本を読んでいる荀諶の姿。
仕事をさぼっている以外の何物でもない光景なのだが、しかし荀攸と辛評は何も言わずにその場を離れた。少し離れた中庭に出ると、
「疲れてたみたいなんだ。このところ眠れてなかったらしいよ」
荀攸が種明かししてくれた。
辛評はそれで今朝の不機嫌そうな彼の姿に納得した。
荀彧は潁陰県の官吏だったのを、推挙を受けて潁川郡の官吏になったばかりであった。
慣れた故郷を離れ、陽テキに移ったばかり。
「そうだったのか。まぁ、こっちに来てまだ日が浅いから、慣れないんだろう」
「それに性格的に限界ギリギリまで頑張っちゃうからね。とうとう糸が切れた、というところだと思うよ」
「まだ自分のコントロールが苦手ということか。それなりに可愛げもあるみたいだな」
「あはは、そうだね!」
辛評が荀彧に下した一つの評価に、荀攸はカラカラとさも楽しそうに笑う。
それは、睡魔を誘う暖かな朝の話。
荀彧を甘やかす荀諶が書きたかったのですが、どうにもうまく書けませんでした。
荀諶はまだ精神的に幼いので、荀彧が必然的に彼のお守りをするのだけれど、時どきこんな風に荀諶が荀彧を甘やかしたり守ったりしてたらいいな、とか超妄想。
郭図を出せなかったのがちょっと残念。
5/25 一部修正…。
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荀彧の様子がおかしいと辛評が荀諶に尋ねた。すると…