No.579717

皇旗はためく許に Ⅰ・【予兆】(上)

陸奥長門さん

 久しぶりに小説を投稿します。
 今回は(自分なりに)真面目に仮想戦記を書いてみました。
 と言っても、今回は戦闘らしき戦闘は描いていません。その点については、ご不満をもたれる方もいらっしゃると思いますが、きちんと布石は打っているつもりです。
 世界中が戦乱に巻き込まれる中、大日本帝国はどのような運命を辿るのか? しばしの間、付き合って頂けると幸いです。

2013-05-24 18:55:20 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:765   閲覧ユーザー数:751

          1

 

『―――本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』

 

 この有名な一文を含む報告電がとんだのは,西暦1905(明治38)年5月27日,午前6時21分のことである。

 当時世界最強とも謳われたロシア帝国の通称バルチック艦隊と,新興国大日本帝国の連合艦隊との決戦の狼煙が上がったのだ。

 世界中の海軍関係者が,抑えきれない好奇心をもってその行方を見守るなか,海戦は一方的な様相を見せた。2日間に渡る戦闘の結果,バルチック艦隊は壊滅。連合艦隊は被害らしき被害を受けなかったという,パーフェクトゲームだった。

 この歴史的な快挙の中,災厄に見舞われた者は確かに存在した。

 装甲巡洋艦「日進」に少尉候補生として乗り組んでいた高野五十六もまた,戦果の影で災禍を受けた一人だった。

 

―――不覚だ。

 

 ”あの日”から,どのくらい時間が経ったのだろう?

 混濁する意識のなか,高野はぼんやりとそんな事を思った。

 体が重く,鈍痛が心臓の鼓動にあわせて襲ってくる。

 高野は瞼を開けられぬまま,必死に意識を繋ぎ止めようとした。 だが,痛みと熱にうかされて思考は千々として纏まらず,意識は混濁したままだった。そのなかで思い起こされるものは,轟音,衝撃,怒声―――

 自分の体が思うように動かせない。 これは,なにか致命的な傷を受けたのだな,と思い至った時,高野の意識は再び暗黒の闇へと飲み込まれた。

 

 再び意識が戻ったのは,なにかに呼びかけられた気がしたからだ。

 相変わらず痛みと熱を感じるものの,瞼を開ける事は可能な程度には回復していたようだ。

 ぼやけた視界が,明瞭になっていく。視線の先に,二人の男の心配顔があった。

 一人は見覚えがあった。「日進」に乗り込んだときに訓辞を受けた。そう―――「日進」艦長,竹内平太郎大佐だった。その側に付き従うように立っている男には見覚えがなかった。年齢は竹内艦長よりも若く見える。

 黒の詰め襟姿は,海兵の規定にはないが,正装であることは勘で分かった。何れにしても自分よりは階級の上の人物だ。失礼のない対応をしなければなるまい。

「そのままでよい」

 身を起こそうとした高野を竹内大佐は制止した。

「貴官は負傷をしているのだから,無理をするものではない。いいからそのまま横になっているがよい」

 竹内大佐は鷹揚に言って,側に据え付けてある椅子に腰掛けた。それからもう一脚の椅子を黒服の男に示し,座るように勧めた。

 しかし,黒服の男は直立不動の姿勢を保ったままだ。 高野が何事か,と視線を移した矢先,やおら男は頭を下げた。

「この度は,誠に申し訳ありません!」

 一瞬,高野はあっけにとられた。意表を突かれたといってもよい。 自分よりも階級の上の者から謝罪を口にされるなど,これまでに経験したことがなかったからだ。

 黒服の男がいつまでも頭を上げないのを見かねたのか,竹内大佐が取り成しの言葉をかけた。 これは高野にとっても救いだった。 この黒服の男に何を言っていいものか,判断しかねていたからだ。

 

 男は海軍軍令部第二局勤務の東雲彰久大機関士と名乗った。 大機関士というと聞き慣れない言葉だが,兵科将校流に言い換えると大尉相当の地位になる。

 これにも高野は首を捻ることになる。 一介の少尉候補生の自分のもとに大尉が訪れることも不可解だったし,まして頭を下げられる覚えがない。

「我々の戦備の不首尾により,貴官へ大変迷惑をかけました。どのような言葉をもってしても,謝罪できるものではありません」

 東雲の話によれば,高野が負傷した直接の原因である主砲の爆発事故――そう,これは事故とされた――は,日本で製造された砲の不具合であるという。暴発の原因は,砲身の加熱による砲弾の早発だという。砲身があまりにも加熱された為に,砲弾の炸薬が砲身内で爆発したというのだ。

 これによって,数名の犠牲者が出たが,一番の重傷者は高野だという。

 

―――事故,だったのか。

 

 高野は左手の人差し指と中指を喪ってしまった。左足も負傷しており,これはもう少し傷が深ければ切断もやむなし,と判定されるほどの重傷だった。 これからの任務に支障が出るのではないか。ことによったら,このまま軍を退役しなければならないかと思うと,気鬱になる。

 その後は,竹内大佐によって海戦の結果,日本海軍が圧勝したことを聞き,少しは気が休まった。

 東雲は終始謝罪の言葉を述べていたが,高野の負傷の責を東雲一人が負うのは筋違いであるという趣旨の事を言った記憶がある。とにかく今日は驚くことが多く,疲れが酷かった。とにかく,体を休める。自分にはそれしかできないのだと,言い聞かせているうちに,また意識は深い闇の底へと落ちていった。

 

 高野の傷は順調に回復していった。体力も戻り,いつ退院しても良いように思われるようになっていた。

 その間にも東雲大機関士は何度か高野の見舞いにやってきた。 高野が回復しつつあるのを我が事のように喜んでくれた。 そんな事だから,必然二人の距離感は縮まった。階級を超えた,友誼のような関係を築いていた。

 ある時,東雲が勢い込んで言った。

「確かに我が海軍は,かのバルチック艦隊を破りはしましたが,その事を手放しで喜んでいるわけにもいきますまい。連合艦隊旗艦である『三笠』を筆頭に,主力艦は概ね海外から購入したものです。軍の近代化――いや,国内産業の振興のためにも,主力艦は国内で作れるようになるべきです」

「よくは……判らないのですが,それは問題となっているのですか?」

 高野は首を傾げた。一兵卒が考えるには,規模が大きく,茫漠として形が掴めない。

「維新からこちら,国をあげて『富国強兵』を推し進めていますが,実態は個人を中心とした家内制手工業が中心であるのが我が国の現状です。今我々がやらねばならない事は,鉱工業や重工業の育成です。これをやらねば国富を蓄え,力をつけ,欧州列強に互する国になることなど,不可能なのです」

「それには,技術の習得が大切ですね」

「その通りです。この際外聞などは気にせず,外国から技術者を招き,教えを請うのです。そして技術の底上げを図るのです。やがて帝国は主力艦を自力で造ることも可能となるでしょう。その時になって,これらの技術習得が役立つはずです」

 高野は大きく頷いた。東雲大機関士の言うことは尤もだと理解したからだ。 ロシアとの戦いは,近代に入って国と国とが戦った初めての総力戦である。国が持てる力を結集して戦わなければならないということは,それは国そのものの力をかける必要性があるということだ。その為には国の力そのものを質・量共に高めなければならない事を意味する。東雲大機関士の言いたいこととは,正にそれだった。

「今は戦勝に沸いていますが,いずれその事に関して,冷静に考える必要があるでしょう」

 東雲大機関士は,宙の一点を見据えながら,そう口にした。

     2

 

 炎が燃えさかっている。

 その周囲を取り囲んでいる人々は,その火を消すような素振りは見せない。 それどころか更に燃え上がれよと言わんばかりに雄叫びを上げる者さえ居た。

 日露講和条約――ポーツマス条約の内容に反感を覚えた人々が引き起こした騒動の一光景だった。

 

「まったく,嘆かわしい。いや,愚かしいとでも言おうか」

 眼下の光景を凝視しながら,老齢の男が呟いた。

 年齢は60を超えているだろう。 しかしその背は真っ直ぐに伸び,体の端々から生気を迸らせている。 隙無く着こなした軍服が,彼が今現在も現役であることを雄弁に物語っていた。

「仕方があるまいよ,大山卿。瓦版―――いや,今風に言うと新聞か。あやつらは ”勝った。勝った” と景気の良い事ばかり書き連ね,帝国臣民もそれを疑っていない。皆,解っていないのだ。この戦争の勝利は薄氷を踏むような危うい状況でつかみ取った奇跡なのだと」

 窓際に立つ軍人――大山巌陸軍大将に応えたのは,眼光の鋭い男だった。年齢は大山大将とさほど変わらないように見える。

 大山は純白の軍装に身を包んだその男に向かって,小さく鼻を鳴らすと,

「海軍さんが派手にやってくれましたからな。あれで国民は大きな自信を得た。 『大日本帝国は大国ロシアに勝った』と」

 その立役者である,白の軍装を纏った海軍大将・東郷平八郎は大きな,溜息ともとれる息を吐いた。

「あれとて,薄氷ですよ,大山卿。大きな博打をうって,たまたま勝てたに過ぎない。運が良かった」

「それは謙遜ですな,提督。海軍の秘蔵っ子,秋山中佐が立役者となった。海軍が練りに練った作戦だったのでしょう?」

 大山の傍らに立つ,参謀飾緒をつった参謀らしき男が,皮肉を込めた口調で放言した。

「そう言う陸軍さんも,旅順や奉天で大活躍だったではないですか。『無敵皇軍,ここに在り』とは,よく言ったものです」

 海軍参謀の言葉に,顔を顰めたのは,この会議場に設置された長机の一角に腰を据えていた乃木希典陸軍大将だ。

「二人とも,そこまでにしておくのだ。今日は陸軍だ海軍だと我を主張する場ではないのでな。双方言いたいこともあるだろうが,それはこれからの議論の中で発言してもらいたい」

 部屋のほぼ中央に立っていた男がそう言った。 海軍大臣・山本権兵衛大将である。

「そうだな。ここで不毛な言い争いをしていても,仕方がない」

 大山大将はそう言うと,懐から懐中時計を取り出して時間を確認する。

「そろそろ来る頃合いなのだが………」

 そう呟いた時,会議場の観音開きの扉が開かれた。

「お待たせしました」

 そう発言して入室したのは,軍令部総長の伊東祐亨中将と次長の伊集院五郎少将を含む8名の男達だった。

 これで海軍関係者は軍令部6名,連合艦隊司令長官,海軍大臣を含んだ10名。陸軍関係者は陸軍参謀本部部長である大山巌大将,同次長・児玉源太郎中将及び課員3名,陸軍大臣の寺内正毅大将を含む10名が集結したことになる。

「それでは始めましょう」

 錚々たるメンバーに圧倒されながらも,今回の『第1回統合幕僚会議』議事・宗方四郎大佐は張りのある声をあげた。

 

「最初に確認しておくが,これは陸海軍合同の協議をする場であって,糾弾する場ではない。勿論,人間のすることが100%正しい道理はなく,その場合は反省をすることは大事である。諸君に於かれては胸襟を開き,奇譚のない意見の発言を望む」

 大山大将の言葉に,一同は大きく頷いた。

「まずはこの度の戦,諸君の敢闘により,勝利を得られたのは重畳である。この戦に於いて我が皇軍が勝利できた要因はなんであろうか?」

 海軍大臣・山本大将の言葉に応じたのは,参謀飾緒を身につけた陸軍士官だ。

「決定的なのは陸軍が攻略した旅順要塞だと思われます。これによって海軍は旅順艦隊を痛撃し,後のバルチック艦隊との決戦に有利な体勢で臨めたのではないでしょうか」

「その点については大いに感謝する。陸軍の協力があってこその日本海海戦であったと思われる」

 海軍参謀が頷いた。

「ただし―――日本海海戦については幾つかの偶然が重なったとは云え,ひとえに海軍の日頃の訓練の賜であったことも,また事実であると考える」

「また陸軍が大陸にて戦えたのは,本国からの物資補給が滞りなく行えたからではないのか」

 この海軍参謀の言葉に,陸軍参謀が応える。

「本国から大陸の間の輜重輸送に関しては,何度かロシアの妨害を受けていたのではないか?」

「だが陸軍の要求には充分に応えたと,本職は理解している」

 陸海の参謀がお互いの目を見据える。 それを見て参謀本部の少佐が紙面を繰りながら発言する。

「確かに陸軍の要求に海軍は応えています。陸軍が不足と感じたのは,ロシアとの戦いに於いて想定以上の弾薬を消費した,と考えた方がよいでしょう」

「その件については,別に考えた方がよいだろうな」

 寺内陸軍大臣が腕を組みながら発言した。

「先程,海軍の言っていた ”偶然が重なった” と言うのが気になるな」

 大山大将が顎をさすりながら言うと,軍令部総長の伊東中将が小さく頷くと語り始めた。

「偶然と言うには語弊があるが,これは国家戦略の観点から述べる事ができる」

「具体的には?」

「日英同盟である」

 その場が一瞬静寂に包まれる。 この場の誰もが―――いや,正確に言うならば陸軍関係者が思いもしなかった言葉だった。 陸軍にとって,英国との同盟はあまり益のあるものとは思われていなかったのだ。

「この度の戦で,日英同盟の果たした役割は非常に大きい。世界各地に軍港を含む主要な港を抑えていた英国がロシア艦隊の寄港と補給を許さず,ロシア艦隊は疲弊した状態で我が海軍と戦ったのだ。極論を言うと,日本海海戦は戦う前に勝負がついていた,ともいえる」

 伊東の言葉に寺内陸軍大臣が頷いた。

「確かにそれは興味深い。つまるところ,これからの戦というものは」

「国が総力をもって戦うのは当然の事ながら,関係国の力をも必要とする,と言うことです」

「かつての戦国時代の拡大版ということかな。強大な敵と戦うときは同盟を結び共闘することで勝利を得る。同盟相手が窮地に陥ったら手を貸す,等のような」

「まさにその通りです。軍事同盟を結べば,我が方にたって戦ってもらえるが,逆もしかり。ですので組む相手はよく吟味する必要がありますが」

「英国との同盟は正解だった,ということかね?」

「少なくとも海軍では」

 ふむ,と頷く寺内陸軍大臣。

「しかし戦争とは,そのような他力本願だけでは戦えないはずです。我が軍がロシア軍より優った点,或いは劣った点などはなかったでしょうか」

 軍令部の課員の言葉に,まず反応したのは乃木大将だった。

「ロシア軍は我が軍よりも高度に近代化されていた。重火器の質・量共にロシア軍に分があった。我が将兵は,撃ち出される重機関銃の前に大きな犠牲を出した」

「ロシア軍は塹壕戦にも長けていたな」

 大山大将が,ぽつりと呟いた。

「縦横に張り巡らされた塹壕と機関銃座の組み合わせが如何に強固であるか,思い知らされた。あのような陣地を構築されると,攻略するには徹底した砲撃を加え,無力化したうえで突撃しなければ,攻める側の被害は鰻登りだ。203高地攻略において,最も威力を発揮したのは重砲だったが,我が国は十分な数を配備されていなかった」

「現代戦が総力戦だというのは,この戦いが証明している。現場が必要とする量の弾薬が国内で生産が間に合わず,前線に届かないといった事態も何度かあった」

「全体的に見て,我が国の工業生産の基盤は脆弱ですな」

 そう口にしたのは山本海軍大臣だった。

「海軍にしても,主力艦は海外製だ。予算がつき発注を行っても,発注国の国情や製造元の都合で納期がずれこむ事もまれではない。これでは計画的な軍備増強など不可能だ」

「国内産業基盤の整備については,我々軍部だけでどうにかなるような問題ではない。もっと国家的な改革が必要だろう」

「それには同意する。政治が中心になるのは当然だとしても,もっと広く民間からも意見をきく必要があるだろう」

 その言葉を聞いて,寺内陸軍大臣が立ち上がった。

「陸海軍の連携は今後とも密となるように切に願う。 共に国を護る役目を負うものとして,その重みは計り知れない。だが,我らが協力して事に当たれば,それは決して不可能ではないはずだ。 帝国の繁栄と天皇陛下に栄光あれ」

 

 

「これが,君の出した回答というわけか」

 軍令部総長・伊東中将の前で表情を変えることなく,宗方四郎大佐は返答する。

「そうであります。この点は先の統合幕僚会議では述べられませんでしたが,私は重要な点だと認識しております」

「海上輸送路の安全確保……か」

 伊東中将は書類に目を落としながら呟いた。

「此度の戦でウラジオ艦隊が我が軍の輸送計画に与えた影響は,もっと重く受け止めるべきです。この艦隊が跋扈したおかげで多数の日本輸送船が撃沈破され,大混乱に陥ったのは事実です。あまつさえ本土砲撃をも許してしまいました」

「決して潤沢とは云えない我が海軍の,第2艦隊をこれの撃滅に割り当てなければならなかった。一時期は深刻な戦力不足に悩まされたのも,記憶に新しいな」

「それ故に,海上輸送路の安全を図らなければならないと考えます」

「その答えが『海上護衛総隊』の新設か」

「我が国は島国で海洋国家です。加えて保有する資源も少ない。必然,海上輸送に頼らざるを得ない。国の大動脈ともいえる海上輸送を安全・確実に運行する為には,このような組織が必要なはずです」

「………君の考えはよく解った。ただ,これを実現するだけの余裕が我が国にあるのか? 海軍の懐具合もよろしくないからな。無限に金が使えるという事もない。上に話を通してはみるが,必ずしも君の構想通りのものになるとは限らんぞ」

 伊東中将は溜息混じりに書類の束を机上に放った。 そのぞんざいな扱いにも宗方は心を動かされなかった。

 今は一刻も早く戦力を強化しなければならない時だ。直接の戦力にならない ”守りの装備” の優先順位が低いのは,彼自身にも解っている。

「しかし,これをやらなければ帝国の未来はない」

 自分でも驚くほどに冷厳な声だった。

          3

 

 年が明けた。1906年は大きな騒動もなく,平穏な年明けを迎える事ができたようだ。

 戦費供出の為に相変わらず税率は高く,国民生活は楽とは言い難かったが,戦争の気運が去った今,仮初めとは云え平和な1年が始まろうとしていた。

 

 浅見修造大尉は,工廠の開けた場所に置いてある機械を興味深げに見つめていた。

 十字型をした,トンボに似た機械だった。

 胴体にあたる部分は細い木組みの造りで,目算で5メートル以上。おおよそ6メートル弱だろうか。

 羽にあたる部分は圧巻だった。胴体の倍程度のある ”羽” が,胴体を挟み込むように上下2枚が木材や綱で結合されている。 そして中央部には何かの機械が据えられており,竹とんぼの羽のような物が付いていた。

「これが………”飛行機” というものですか」

 浅見大尉は『飛行機』と云われる物が,空を飛ぶ物だという知識はもっていたが,現物を目にしたとき,本当にこのような物が空を飛ぶとは俄には信じられなかった。

 確かに全体的に見て隙間の多い構造で,見た目よりは軽いのだろうが,それでもこんな物が宙に浮く姿は想像出来なかった。

「アメリカで発明された機械だ。もう3年も前に世界で初めて人間を乗せて飛んだのだそうだ」

 浅見大佐の横でそう言ったのは,『帝国海軍航空研究所』所長である吉岡慎太郎少将だ。

「最初は低空を這うような速度で飛んでいたそうだ。現在は随分と改良され,速度・高度性能ともに向上しているようだ。彼の国では,多くの人間や組織が研究を積み,技術向上の速度は日進月歩と云う。我が国では,漸く………このような ”旧式”機を入手できた次第だ」

「旧式機,とは?」

「日本と米国は友好国ではあるが,最先端の軍事機密となると,簡単には教えてもらえんのだよ」

「これが,兵器に………?」

 浅見大尉は訝しげに,目の前の機体に視線を向けた。

 こんな華奢な機体が,武人の蛮用に耐えうるのかと,疑問に感じたからだ。

「大尉の疑念も当然かもしれん。 しかし,陸軍ではこれは有用な機械であると認識しているらしい」

「陸軍が,ですか」

「陸軍は弾着確認用に早くから気球の研究をしていたそうだ。それに替わる兵器に為りうる,と判断したらしい。 この機体にしても,陸軍経由で入手したのだからな」

「弾着確認用,ですか」

「そうだ。我が海軍でも,研究する意義はあるとは思わないかね?」

         4

 

「錚々たる面子だな」

 三菱財閥総帥・岩崎久彌は嘆息の声をあげた。

 その会場はある種の熱気に包まれていた。60人余の人間が,会場に並べられた長机に着席している。

 その顔ぶれは様々だ。スーツ姿が多いが,中には和装の者,軍服に身を固めた者も散見される。

 更にその会場は円形闘技場のようになっており,観覧席にも多数の人影がある。こちらは,軍人が多いようだ。詰め襟の学生服姿の学生も居る。

 広く門戸を開く,という姿勢を表しているようだ。

「川崎造船所の松方氏もいますね。その他にも財閥関係者,政府関係者,学者や軍人も居るようです」

 油断無く周囲に視線を走らせながら,雨音小太郎は岩崎に耳打ちした。 雨音は岩崎個人の優秀な秘書であり,同時に有能なボディーガードである。

「今まさに,この国を動かしている人間が一同に介した,というわけか」

 岩崎は楽しそうに呟くと,指定された席についた。

「なんにしても,この国が大きく動き出す兆しだな,これは。明治の大乱をある意味で凌駕するやもしれぬ」

 岩崎が感慨深げに頷いていると,前座にあたる箇所に座していた男が立ち上がった。丸眼鏡をかけた恰幅のよい男だった。

「逓信省の山縣です。本日は忙しいところ,本会議に参加頂き,まことに感謝の念にたえません。本会議に参加された皆さまは,どれも我が国を代表する方々であります。大は大型船舶から小は電気部品に至るまで,或いは化学の分野で我が国を率いる代表者であります。 今,世界は激流の中にあって,我が国もその流れに乗るものであります。しかしこの激流にただ身を任せていたのでは,溺れ,沈み,身を滅ぼすだけでありましょう。これより先は,国家の総力を結集して事に当たる必要があるのです。その為には,今現在我々に何が出来るのか,何が足らないのかという認識を共有し,それを補完しあい,足並みを揃えて前に進む必要があるのです。その場として,今回『帝国国家総力戦委員会』を開催するはこびとなりました。出席された皆さまに於かれましては,その点を留意頂き,奇譚のない意見交換をお願いしたいと思います」

 山縣の挨拶が済むと,各々の代表が口を開く。

 現状,何が出来るのか。

 問題点と解決策。

 発展の余地等々………。

 造船・造機業界からは主力艦の建造能力についての問題点があがった。 明治の開国以前から,主力艦の整備は海外頼りになっている問題については,未だ大出力の機関を製造する技術力,経験が不足しており,大型艦の建造が困難であるというのは大手各社の共通した認識だった。

 これについては各社から色々と意見が出たが,結局のところ技術力の不足を急速に補うには,海外からの技術者の招聘や設計を自国でし,建造の一部を海外へ発注する,或いは部品単位で発注し,輸入したそれを国内で組み上げていく等の意見が出された。

 この問題に関しては主力艦の建造能力の獲得目標年次を1910年代後半までとする事で,一応の決着をみた。

 電気関係では,無線機の有効性が語られた。

「海軍が開発した三六式無線機の優秀性は,先の日本海海戦で十分に発揮出来たと考えます」

 自身が開発に携わった木村駿吉が発言した。

 三六式無線機は艦船搭載用無線機として開発され,当時としては革新的な技術を用いており,従来の無線機を凌駕する性能を発揮した。

「無線機に関しては,陸軍でも研究しているのだが,性能には不満が残る」

 陸軍技術本部から出席した技官が渋面をつくる。

「三六式は艦船用の大型の物ですが,これを小型化し,陸上でも使えるようにするのは可能であると考えます」

 木村の発言をうけて,技官は大きく頷いた。

「それは大変心強い。是非とも共同開発をお願いする」

「無線機のお話が出たので,我々からも提案があるのですが……」

 電気会社の一人が挙手をした。

「無線機だけに留まらず,電気製品全体に言える事ですが我が国で製作される電気部品の歩留まりが悪いのが懸念されます。精度の向上と品質の安定に尽力する必要があると思います。それと,戦時に移行した場合についての在庫管理,代替原料の開発も不可欠だと考えますが」

 会場がざわめいた。

 この問題は頭痛の種であった。

 日本の高度成長化は明治維新後に急速に進んだが,それは主に重工業及び軽工業の分野であり,電気機器については列強に遠く及ばない水準だった。

 これは国策の根本的な欠陥であり,しかし当時としては其処までの国力をさく事が出来なかった,という事情もある。

 どちらにしろこの問題は,これから予想される電気機器の進歩に対して,大きな足枷となる。

「国としても,その問題は重要だと認識している」

 逓信省の技官が,苦渋を滲ませた声で応じる。

「国産品が海外製に劣ることも承知している。これは根本的な工業基盤の問題であり,精度の高い部品を造るには国内産業の底上げが必要である。この点に関しては,研究機関の立ち上げを主軸とし,今後の国策に盛り込む予定である」

 電気会社の人間は一礼すると席についた。

「飛行機械―――飛行機というものですが,これについての見解はありますか?」

 そう発言したのは,『帝国海軍航空研究所』浅見修造大尉だった。

 浅見大尉の言葉に答える者は居なかった。 参加者は互いに視線を交わし,困惑の表情を浮かべているばかりだ。

 『飛行機』という物の実態を,参加者はイメージ出来ていないようだ。

 自動車すら珍しい日本に於いて,飛行機という最新技術物を想像する事が困難であることを責められるものではないかもしれない。

「陸軍としても興味をもっている」

 そう言って起立したのは,『帝国陸軍航空研究会』西村晃大尉だった。

「陸軍は砲兵の弾着観測に気球を使う,という研究をしてきました。聞くところによると,海軍でも似たような事をしていたのではないですか」

 西村大尉の質問に,浅見大尉は答えた。

「はい。海軍も艦砲の弾着観測に気球が使えるかどうかの実験を繰り返しております」

「その弾着観測に飛行機を使う,と云うのですね」

「そうです。気球は進出距離に限界があり,また機敏な動きができません。もしも敵方に飛行機が在った場合,その飛行機が武装していたとして,気球ではいい的になるでしょう。飛行機という物が登場した時点で気球の時代は終わった,と考えます。となれば我が軍も飛行機を装備すべきでしょう」

 浅見大尉の言葉に,西村大尉は頷いた。

「陸軍と海軍とでは,仕様に細かな違いが生じるでしょうが,基本の部分は同じだと思います。陸海が個別に研究したのでは人員,予算,資材の面で無駄が生じます。陸海で協同研究をするのが望ましいと考えます」

 西村大尉の言葉で,この場は収まった。

 飛行機に関しては次回会合までに大綱を作成することとなった。

 一通りの議題が終わったところで,軍令部の東雲大機関士が発言の許可を求めた。

「国家総力戦体制については,大筋がついたと思います。私が軍令部の立場から提案するのは,製品の規格統一です」

 その場がざわめく。

 それは一種の盲点であったからだ。

「例えば,同じ機械であっても,製造業者が違うと部品の大きさが違い,その機械専用の補修部品を用意しなければならないという問題が発生しています。製造業者によって規格が違う為に融通が利かないのです。これでは保守管理にも多大の労力が必要となり,また無駄が生じます。資材が絶対的に不足している我が国に於いて,これは看過出来ない問題であります」

「つまり貴官は,製造品の規格をある値で統一する,と言うのだね」

 逓信省の山縣が訊いた。

「そうです。螺子一本から弾薬に至るまで,規格で統一するのです。そうする事によって,保守管理も容易になり,品質が一定に保たれれば,戦力の低下も起きにくい」

「規格は,どの会社のものを使用するのか」

「規格統一するには,現在の工作機械を全て更新する必要があるが,国が補償してくれるのか」

 といった意見が紛糾した。

 どの製造業者も,これには消極的な姿勢を示した。 どの企業も独自の思想の則って製品を製造しており,意見の対立は必至であった。

 後ろ向きではあるが活発な意見が出て,収拾がつかなくなったその時,

「この案件は次回会合までの持ち越しとします」

 山縣の発言により収まった。

「この案件は非常に興味深いものであり,また意欲的で野心的であります。恐らくこのまま議論をしても纏まらないでしょうから,次回会合までに逓信省を中心として素案を作ります。各製造業者の皆さまには,今後色々と協力して頂く必要があると思いますが,どうか帝国の未来の為にご協力をお願いしたい」

 その後,山縣の挨拶によって,第1回『帝国国家総力戦委員会』は閉会した。

 

「まったく,とんでもない事になったわい」

 会場を後にしながら,岩崎久彌は呟いた。

 言葉とは裏腹に,その声は明るい。まるで玩具を与えられた悪童のような顔つきだった。

「楽しそうに見えます」

 対して雨音の表情は硬い。 周囲を油断無く警戒しているようだ。

「楽しい? 楽しいとも。 これで帝国は新たな道を歩み始めたのだ。 それは我が社とて同じ。雨音,これから忙しくなるぞ」

 玄関に待たせた黒塗りの自動車に乗り込む。 遠く米国から取り寄せた最新モデルの車だった。

 後部座席に身を沈めた岩崎は,流れる窓外の景色を眺めながら思索に耽っていた。

 ―――この流れ。 これに乗れない者は,ただ零れ落ちるのみだ。

 

「飛行機か……」

 会場を後にしながら,一人の海軍軍人が呟いた。

 中尉の徽章を付けた彼は,知らず笑みを口の端に乗せていた。

 

 同じ時間,まったく同じ言葉を口にした学生がいた。

「休暇をもらった甲斐があった。 これが,俺の進む道か」

 海軍兵学生であるその男は,心の底から沸き上がる興奮を抑えきれずにいた。

 

 それぞれが,それぞれの考えを胸の内に秘め,帰路につく。

 この一歩が,その後の大きな歴史の流れになる―――誰もが予感していた。

          5

 

 寒風が吹きすさんでいた。

 ここには明確な四季というものがない。 夏日が終わったと思えば,直ぐに冬の足音が聞こえてくる。

 空気が乾燥しているものだから,風そのものの冷たさもより感じる寒気が一層強くなる気がした。

「ここが満州か。 確かに内地とは違うな」

 関東州大連駅舎に降り立った男の感想はそうだった。

 大連の街は活況に満ちていた。 流石に帝都・東京とは比べるべくもないが,内地の中規模都市と比べても遜色はないように思われた。

 先年の日露戦役など,事情を知らなければ,その影響を感じ取れる事はないのではないか。

 そのような事を茫と考えていると,後ろから声をかけられた。振り返ると,軍服を着た壮年の男が直立不動の体勢で立っていた。

「失礼ですが,中林中尉殿でありますか」

 あまり威圧を感じない,柔らかな口調だった。 性格も温厚なのかもしれない。しかし眼光は鋭く,彼が歴戦の戦士であることを物語っている。

「そうだが,貴官は?」

 中林中尉の言葉に,男は敬礼をして,張りのある声で返答した。

「関東軍の竹中であります」

「階級は」

「特務軍曹を拝命しております」

「そうか。竹中軍曹,君が案内役かな」

「はっ。 満鉄本社までお連れするよう,命令を受けました」

「そうか,ではよろしく頼む」

 竹中軍曹は短く応答すると,先頭にたって歩き始めた。

「歩きか?」

 非難するつもりはない。自動車などという物は,陸軍でも珍しい。ましてや民間乗用車に便乗する事など,無理であろう。

「満鉄の本社は大連駅の近くにあります。10分ほどで到着します」

「そうか」

 中林中尉は陸軍の所属だが,この度の転属で南満州鉄道へ出向となった。

 南満州鉄道は一応は民間会社であるが,その設立には帝国陸軍が大きく噛んでいる。軍人である中尉や軍曹が満鉄へ出入りするのも別段不思議ではなかった。

 満鉄本社への道すがら,中尉は町中を観察していた。

 通りには人が溢れており,様々な衣装を着た人々が往来を歩いている。大陸系の人間が圧倒的に多く,邦人の姿はまばらだ。

 露天で景気の良い声をあげるのは大陸人で,大陸語だ。 中尉は大陸語の教育を受けているのだが,この辺りは地方独特の訛りが強いようだ。

―――言葉に不自由するかもしれん。

 中尉がそんな事を考えていると,前を行く軍曹の歩みが止まった。

「到着しました」

 軍曹の言葉に,中尉は顔を上げた。

 コンクリート製の4階建ての近代的な高層建築物だ。 所々に補修の痕が見られるが,周囲に匹敵する建物がない為に,ひどく目立つ建物だった。

 これが南満州鉄道の本社だった。

 軍曹がさして気負い無く建物の中に入っていく。 慌てて中尉も後に続く。

 目的の場所は3階にあった。 階段を昇って奥まった場所に,その部屋はあった。

 何の変哲もない木製の扉を,軍曹はノックした。

「中林中尉殿をお連れしました!」

 軍曹のよく通る声が廊下に木霊した。 ややあって応答の声がした。

「失礼します!」

 軍曹は背筋を伸ばすと,扉を開けた。 扉はしっかりとした木材だった。厚さは3センチはあるだろう。拳銃弾ならば食い止めるのではないか。

「中林中尉,入ります」

 自然と背筋が伸びる。 軍曹は部屋の中に入ろうとはしない。自分の役目はここで終わりだと告げているようだった。

 部屋は思った以上に広かった。目算で15メートル四方だと見当をつけた。豪華な印象はない。事務仕事遂行を第一義に作られたようであるが,不思議と落ち着ける空間だった。

 部屋の中央部には長辺3メートル,短辺1メートルほどの1枚板の机が据えられており,革張りの上品なソファーが向かい合う形で置いてある。

 部屋の入り口から離れた奥に,執務用机があり,そこに目的の人物が座っていた。

 中尉は足早に机の前まで歩き,姿勢を正すと敬礼した。

「中林俊和陸軍中尉,ただ今着任いたしました」

 席に座っていた男は鷹揚に頷くと,立ち上がった。

「関東都督府の石塚英蔵です。内地よりの遠路,まことにお疲れさまでした。私は貴方の直属の上司ではありませんが,我が社の為に頑張っていただきたい」

「は! 拝命したからには粉骨砕身,任務を全うするよう務めます」

 石塚は微笑すると,

「長旅のすぐ後で,まことに恐縮なのだが,彼と業務について打合せを行って下さい」

 そう言って,応接机のソファに腰掛けている男を指し示した。

 この部屋には中林中尉の他に先客が居た。

 男は石塚に促されるように立ち上がると,中尉の前まで来て頭を下げた。

「調査部の刑部貞次郎です。よろしくお願いします」

 僅かに白髪の混じった壮年の男だった。眼鏡をかけている所為だろうか,どこか学者然とした雰囲気を感じる。

「刑部の専門は地下資源の調査です。中尉殿の隊には,彼らの安全確保をお願いしたい」

 石塚の言葉に,中尉は大きく頷いた。

 ”地下資源”―――近年注目を浴び始めた石炭に替わる燃料,石油のことを指しているのだろう。

 石炭は日本国内でも産出するが,石油の採掘はほぼ絶望視されており,重要な戦略物資となるであろう石油を自給自足しなければ,有事の際に困ることになる。海外への過度の異存は避けるのが賢明だった。

 おそらく刑部技師には,大きな精神的重荷がその双肩にかかっている。

 これは,国家百年の計にも匹敵するものだ。

「最善を尽くします」

 自然,中尉の言葉は堅く,怜悧なものとなっていた。

          6

 

「ようやく数が揃ったな」

 防御巡洋艦「利根」の露天艦橋に明朗な声が流れた。

「そうは思わないかね,艦長」

 続けて言うのは「海上護衛総隊・第一護衛隊」司令・本多篤人少将だ。

「艦隊としては小規模ですが,やはり数が揃うと壮観なものです」

 「利根」艦長・御厨善吾大佐が応じた。

 利根型防御巡洋艦は,海上護衛総隊の旗艦として計画・建造された艦で,常備排水量4113トン,全長109.7メートル,全幅14.3メートル,最大速力23ノットを発揮する。

 武装は45口径15.2cm単装砲2基,40口径12cm単装砲10基と強力であり,護衛艦として恥じない性能を誇っている。

 更には傑作とされた三六式無線機の性能向上型である四○式無線機を搭載し,旗艦設備も充実している。

 その前方400メートル程前を航行しているのが,春雨型駆逐艦の「春雨」だ。

 春雨型駆逐艦は,常備排水量375トン,全長69.2メートル,全幅6.6メートルと小型の艦だ。最大速力は29ノットと,当時としては俊足で,武装は8㎝単装砲2門,5.7㎝単装砲4門,48㎝魚雷発射管2基と,艦体に似合わず強力だ。

 第一護衛隊には,この「春雨」の他に同型艦の「秋雨」「霧雨」「緋雨」の4隻が配備されていた。

 海上護衛総隊の一隊はこの5隻で構成されており,担当地区毎に6個艦体が編制されていた。総数30隻に達する,日本にとっては大艦隊といってよかった。

「我が第一護衛隊を含む6個護衛艦隊ですか………。これで帝国の海を護るのですね。正直に言いますと,もう少し数が欲しいところですが」

 表情を僅かに曇らせる御厨艦長に,本多司令は呵々と大笑した。

「無い物ねだりをしても仕方あるまいよ,艦長。 言ってはなんだが,我が国は貧乏所帯だ。主力艦の整備を優先するのは,予算の面から見ても当然だろう。むしろ私はこのような艦隊が整備された事自体が,驚嘆に値すると思うがね」

「はい。海上輸送路の安全確保が,ひいては帝国の国益に適う,と理解しています」

「そうだ。その為に我々は編制された。人員は海上勤務者だけでも5000名,陸上勤務者を入れれば1万名を超える大所帯だ。これだけの人員を割くのだから,国がどれほどこの艦隊に期待しているかが,伺い知れるだろう」

「………身が引き締まります」

「確かに,この広い大洋を護衛するには30隻という数は少ないように感じるだろう。だが,この『海上護衛総隊』という組織が存在する,という事に意味があるのだよ。海上交通に関して,国が安全を保証するのだ。国民にとって,これほど心強いものはないだろう」

―――そして,戦時になれば『海上護衛総隊』の存在価値は更に高まる,と本多少将は確信していた。

 

 その思考は次の瞬間断ち切られた。

「艦隊総旗艦より旗琉信号! 艦隊進路90度!」

 前檣頂部の見張り台から,見張員の声が届く。

「面舵! 艦隊進路90度!」

 即座に御厨は命令を出した。

「おもかーじ」 「進路90度,よーそろ」

 操舵手と航海長が復唱し,舵をきる。

 高速を発揮する為に成形された鋭い艦首が波を切り,艦が右に振られてゆく。

「僚艦はついてきておるか」

 艦長の言葉に,

「『春雨』面舵,『秋雨』面舵! 続いて『霧雨』,『緋雨』面舵!」

 見張員のきびきびとした声が響いてくる。

「流石に駆逐艦は小回りが利くな。 それにしても,全艦隊運動は今回が初めてだが,なかなか様になっているじゃないか」

 本多司令は満足げに呟いた。

「艦隊旗艦より旗琉信号! 『全艦艦隊速力20ノット・我ニ続ケ』」

「速力20ノット!」

 艦長の鋭い命令に航海長が復唱する。

 足許から響く艦の鼓動が強く感じ始める。 同時に艦が加速を始めたのを実感する。

 鋭い艦首が海面を切り裂き,巻き上がる飛沫が露天艦橋まで降りかかる。 しかし艦長を元とする艦橋要員は誰もそれを不快とは思わなかった。

 彼らの関心は,いかに正確に艦隊運動を行うか,に向いていたからだ。

 練度の向上は戦力の向上に繋がる。

 今はただ,訓練に全力を注ぐ時だ。それが,大日本帝国の未来に繋がるのだと,信じて―――

 

(つづく)


 
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