No.55554

君よ知るや西の国 

遊馬さん

まだ本編に羽入が登場する前、「オヤシロサマ」を創作して書いた作品です。「オヤシロサマ」は雛見沢の土地神という設定です。

2009-02-01 22:05:30 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:1041   閲覧ユーザー数:980

君よ知るや西の国

 

 

 

 

 

 千歳幾年待つとても、きみに出遭う日夢に見て、常若の葉に空映す。

 古えの誉れいざ謳わん、故郷遥かなこのくにが、我が奥津城になろうとも。

 

 ――千年に一度の、恋。

 

 

 

 

 梅雨前線を押しのけて、高気圧が我がもの顔で頭上に居座っている。

 明日は楽しい日曜日。

 天気予報は一日中、晴れ。

 だが、北条沙都子はくさっていた。梅雨空のようにくさっていた。

 今日の学校で、「将来の夢を書きましょう」などという作文の宿題が出たからだ。

 知恵先生も酷な宿題を出すものだ、と思う。

 沙都子は今日の生活に一杯いっぱいで、とても将来の夢など考えられない。来月、いや

来週がいつもと同じように楽しく過ごせたらそれで充分なのに。

 年長組は受験がどうの、という話をしていたが、まだまだ沙都子にとってそれは実感の

ともなうリアルな話ではない。

 

「こんな気分の日は『庭』を散歩するに限りますわね」

 

 裏山。それを沙都子は「庭」と呼ぶ。

 しかし、現在「沙都子の庭」は裏山のみにとどまらず、拡大の一途をたどっている。

 沙都子は雛見沢山系の山々を踏破し、マップを作成し、トラップを仕掛け、日々着実に

その勢力範囲を広げつつあった。

 

 いつもどおりの山道を、いつもどおりに歌いながら歩く。メロディは即興、歌詞は適当。

 

 山の高さを褒め称え。

 瀬の速さを褒め称え。

 木々の緑を褒め称え。

 花の香りを褒め称え。

 鳥達の声を褒め称え。

 

 そんな言葉を連ねて、いつもどおりの山道を、いつもどおりに歌いながら歩く。

 

「あら?」

 

 沙都子は足を止めた。ワイヤートラップに鴉が絡まっている。

 鴉は光る物が大好きだ。このトラップはダミーなので、わざと銀色の地をむき出しに

光らせてある。多分興味を引かれた頓馬な鴉が首を突っ込んだのであろう。

 

「おやおや、お莫迦なカラスさんですわねぇ。今、ワイヤーを外して差し上げますわ」

 

 ばさばさと暴れる鴉をなだめながら、沙都子はワイヤーを外した。

 その瞬間。

 鴉は沙都子のシャツに飾られていたピンズを掠め取ると、一気に舞い上がった。沙都

子のお気に入りのひまわりのピンズ。真鍮にエナメルの、ぴかぴかのひまわりのピンズ。

 鴉は光る物が大好きだ。しかも鴉は頭がいい。沙都子が莫迦にしたものだから、その

意趣返しなのだろうか。

 

「あーあ……。うっかりしていましたわねぇ……」

 

 悔しくないわけではない。しかし、沙都子は鴉の習性を知っていながら注意を怠った。

 これは自分の責任である、と思う。

 ぼんやりと、沙都子は鴉の飛び去った東の空を眺めていた。

 

 

 

 めげることなく落ち込むことなく、沙都子は歌いながら裏山の頂に立った。

 

 空を渡って、遠く耳に唄が聞こえる。

 ああ、まただ。またあの唄が聞こえる。

 森の泣くような、木々の葉がささやくような。そんな空耳。

 

 しかし、聞こえるのはいつだって東の尾根、「緒夜の森」と呼ばれるあたりから。奥雛

見沢。高津戸を越えてさらにその奥。地元の者でもめったに足を踏み入れないその山中。

昼なお暗く、夜の山道を歩くが如くのたとえから、「緒夜」と呼ばれる森がある。村の古老

の話では、その森にはそれはそれは見事な「社の樹」という巨木があるという。

 

 

 

 雛見沢村、いや鬼ヶ淵村はその昔から半農半猟の生活であったと云われている。いわ

ゆる「山窩の民」と呼ばれる人々であろう。山々を渡り歩く生活を送り、その一部が

鬼ヶ淵村に住み着いた、と郷土史の本には書かれている。雛見沢村固有の独自の風習

はその名残りなのかもしれない。

 《サトは人域、ヤマは神域》これが人里と山を分けるルールである。山に入ることを

許されたのは鬼ヶ淵の人間だけ。決められたルールを破れば厳罰が下る。これは人と山の

主との契約である。雛見沢村の人々が総じて信心深いのは、このような歴史的背景も考え

られる。

 

 ある興味深い説を唱えた郷土史家がいる。雛見沢の語源は「鄙(ひな)び」ではない

か、という主張である。「鄙び」とは辺境の意味である。雛見沢の人々が「山窩の民」の

末裔であるならば、これほど相応しい主張もない。すめろぎにまつろわぬ人々の末裔が

奉るのは、まさしく国津神の末裔に他ならないであろう。

 

 

 

 夏近く、雲が走る。

 ふと、沙都子は思う。

 明日はあそこに行ってみようか。「緒夜の森」に行ってみようか。

 

 おやめなさいな、と路傍の小石が言う。

 あの森は暗くて深いよ、と名もなき草花が言う。

 

 空を渡って、遠く耳に唄が聞こえる。

 ああ、まただ。またあの唄が聞こえる。

 まるで誰かが私を招くような。そんな空耳。

 

 決意する。明日は「緒夜の森」に行ってみよう。

 

 

 

「『緒夜の森』に行くのですか?」

 その夜、山歩きの仕度をしている沙都子に梨花が言った。

 

「ええ、そのつもりでしてよ」

 

「御山と主様には礼儀正しくするのですよ」

 

 いつもの梨花の忠告である。

 沙都子は思う。

 さすがに巫女だけあって、この手の梨花の忠告は正しい。

 

 御山の主様は無礼を嫌う。

 嫌な気配がしたらためらわず引き返せ。御山の主様がご不興だから。

 でも、むやみに人を嫌う主様は雛見沢の御山にはいないから、安心してもいい。

 礼をわきまえていれば、主様に会える。

 

 全く梨花の忠告は正しい。

 思い出すたびにそう思う。

 知らない山を歩くたびにそう思う。

 礼を尽くして、御山の声に耳を澄ませて歩けば、御山の主様に会える。こともある。

 

 ある時は、それは圧倒的に巨大な巌であった。

 ある時は、それは小さな渓流の源泉であった。

 ある時は、それは周囲を見回す猛禽であった。

 人の気配を許さぬ荘厳と権威が、常にあった。

 

 その時沙都子は、ああ、これがここの御山の主様なんだ、と感じる。

 丁寧な挨拶とお礼を述べて山を降りれば、次にその山を登る時は不思議と不安なく

歩ける。まるで、御山の主様が沙都子に好意的であるかのように。

 

 私も根っから雛見沢の人間なのですわねぇ、と沙都子は苦笑する。

 

 

 

 よし、と沙都子は呼吸を整えた。

 高津戸の廃村を左に見ながら延々と自転車を走らせた。ここまでなら細いながらも道

路がある。まだ人里の範疇である。

 しかし、もはやこの先に道路は無い。小路がうねうねと森の中に消えている。「緒夜の

森」の入り口。ここから先は御山、すなわち神域である。

 

 沙都子は再度装備を確かめると、自転車に括りつけてあったバッグを背負う。小さな

タンバリンを腰に結ぶ。鳴り物を鳴らすのは、これも御山に入るときの礼儀である。

通りますのでお許しくださいませ、という意味である。チャイムを鳴らさずにドアを

開けるのは、幾らなんでも失礼であろう。

 一礼して、沙都子は小路に足を踏み入れた。

 

 

 山の高さを褒め称え。

 瀬の速さを褒め称え。

 木々の緑を褒め称え。

 花の香りを褒め称え。

 鳥達の声を褒め称え。

 

 小路を歩きながら、沙都子は歌う。腰のあたりでタンバリンも歌う。

 野の花の薫る、くねる小路。

 夜とを紡ぐ糸の森。ぬばたまの森。

 伝えられる通り、確かにこの森は深く、暗い。

 だが、いい森だ。まるで、森が道案内をしてくれているかのようだ。

 湿った土の香り。朝露にぬれた草花の香り。左手を走る瀬の飛沫の香り。取り巻く

木々の香り。森の香り。

 

 沙都子が通り過ぎた後。

 ああ、あの子だね、と名もなき草花が言う。

 そうだよ、藁色の髪の少女だよ、と路傍の小石が言う。

 

 

 

 早瀬に沿いながら坂道を上りきったその時。

 沙都子は出会った。

 岸の向こう側、天を仰ぎ見て一本の巨木。

 森の木々の中でも一際に荘厳で、一際に威厳がある。

 その時沙都子は、ああ、これが「社の樹」、ここの御山の主様なんだ、と感じた。

 

 願わくば、もっと近くで見たい。

 願わくば、この樹に触れてみたい。

 

 早瀬に橋がかかるように朽ちた倒木がある。

 沙都子は、そっとその倒木の上に登ってみた。足元が苔で滑る。

 両手でバランスを取りながら、倒木の橋を渡る。

 もう少し、もう少し。

 ようやく反対側の岸に降り立った。

 

 言葉も無い。沙都子は句を継げない。

 なんという巨木だ。

 十人の沙都子が手を繋いでも、この樹を囲むことは出来ないだろう。

 歳古い巨木。梢さえ見えない。繁茂しているのは宿り木だろうか。

 足元に積もった枯れ葉を見て、ひとりつぶやく。

「……柏、ですわね」

 

 その時、影が動いた。確かに影が動いた。

 

 御山を歩けば、何かの気配を感じるのはさほど珍しいことではない。しかし、ここまで

はっきりと実体を感じたことは無かった。

 

 勿怪か? もっけなのか?

 

「申す」と沙都子が問う。

「申すですぅ」と影が答える。

「申す、申す」と再び沙都子は問う。

「申すですぅ」と再び影が答える。

 

 もっけだ!

 

 梨花の忠告を思い出す。

 嫌な気配がしたらためらわず引き返せ。

 沙都子は迷わず回れ右をすると、倒木によじ登って走り出そうとして――滑った。

 

「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 落下を覚悟して堅く眼を閉じる。

 突風が吹く。沙都子は枯れ葉のように舞う。

 微風が吹く。沙都子は枯れ葉のように――

 

 ――抱きとめられた。

 

 沙都子はゆっくりと眼を開く。

 思わず近くに人の顔があった。

 大きな瞳。童子のような薄墨色の髪。柔らかい眉。少女のような、少年のような――

少年。

 その吐息が沙都子の頬にかかる。森の香り。

 

 互いの眼が合った。沙都子の背と足に、人の温もりがある。

 

 も、もしかして――わ、わたくし、お姫様ダッコされてますのぉぉぉぉぉぉぉぉ!

 

「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

「ご、ごめんなさいですぅ! ごめんなさいですぅ!」

 

 少年が真っ赤になって沙都子を下ろした。

 どぅ、と森が騒いだ。

 沙都子には、それがまるで森が笑っているように思えた。ウケた、のかも知れない。

 

 少女と少年が。

 お互い真っ赤になって。

 もじもじもじもじもじもじと。

 

 また、森が騒いだ。

 

 

 

 少年からもらった水を一杯飲んで、ようやく沙都子は口を開くことができた。

 

「あなた様は、この森の――この御山の主様でございますか?」

 

 はにかみながら少年が視線で頷く。背が低い。沙都子とさほど変わらないくらいだ。

 

「数々のご無礼お許しくださいませ。わたくし、雛見沢村の――」

 

「北条沙都子さま、ですねぇ」

 

 まだ照れながら、そう少年は言った。

 

「こちらこそ申し遅れましたですぅ。『緒夜の森』を預かっておりますぅ、『シロウ』、と

申しますですぅ」

 

 

 

 

 それは古えのヨーロッパ。ローマに帝国が興る以前の時代である。ボローニャの北から

アルプス山脈を越え、遥かバルト海を見渡す地方にまで、栗鼠が枝を飛び移りながら旅が

出来るほどの大森林が在ったという。今やその巨大な森は絶え、わずかにドイツとフラン

スの国境を流れるライン川流域、通称シュヴァルツヴァルト、「黒き森」にかつての栄光の

片鱗を覗かせるのみである。

 

 

 

 御山の主様の中には、稀に人の姿をとって現れる存在がいるという。

 

 異装である、と沙都子は思う。「シロウ」と名乗った少年の、いや御山の主様の服装で

ある。

 全体の印象は和風という感じなのだが、身に着けているアクセサリーの装飾が不思議と

異国風である。まるで組紐を絡ませたような渦巻き文様や人の顔を思わせる彫刻を施した

玉とか、それが少女めいた横顔の少年の主様と奇妙に似合っていて、沙都子は眩しげに

見とれていた。

 

「シロウの格好、おかしいですかぁ?」

 

 自分がぶしつけな視線を送っていることに気付いて、沙都子はあわててかぶりを振る。

 

「いえいえ、めっそうもございません。よくお似合いでございますわ」

 

 それは一安心、といった風にシロウは微笑み、くしゃりと沙都子の髪を撫でた。

 

 ひゃう!

 

「沙都子さまの藁色の髪も素敵ですぅ。ほら、陽に透けると金色の冠のようですぅ」

 

 び、び、びっくりしたぁ。

 

「ぬ、主様。ご、ご冗談は……」

 

「『シロウ』と呼んでいただけると嬉しいですぅ」

 

 うっとりと主様、いやシロウは笑いかける。沙都子には自分の顔が熱くなるのが

分かってしまう。

 なにか、自分と同じくらいの背格好の相手と会話をしていると、つい自然と視線が

合ってしまい、少しだけ心臓の鼓動が早くなる。舌足らずの甘やかな喋り方もなぜか

耳に心地よい。

 沙都子にとって初めての経験である。

 

「沙都子さまは山を歩くとき、いつもお歌を楽しんでらっしゃいますぅ。シロウはそれが

ちょっと羨ましいのですう」 

 

「――シロウさん?」

 

「シロウは他の御山の主様からはあまり良く思われていないのですぅ。シロウの先祖は

『余所者』だからなのですぅ。だから、シロウはいつも一人きり。シロウは寂しい時に

歌うのですぅ」

 

 なぜか、その一言が沙都子にはカチンと来た。寂しげに笑うシロウの姿にカチンと

来た。相手が御山の主様であることも忘れ、いつもの口調でまくし立てる。

 

「シロウさん。それは違うのではございませんこと? 寂しいときにしか歌わないなんて、

それじゃぁまるで――」

 

 ――まるで昔の私ではありませんか。

 今の私には梨花がいる。仲間、と呼べる人々がいる。もう昔みたいに一人ぼっちで遊ぶ

こともない。それなのに。それなのに――

 

 沙都子は思い至る。この不思議な親近感の理由。

 

 ――ああ、昔の私に似ているのですわ。このシロウさんという方は―― 

 

「ねぇ、シロウさん。この森全てがあなたの『仲間』だと思ってはいかがかしら? 樹も

草も花も川も土も風も、その全てがあなたの『お友達』だと。先祖が余所者? それが

何でございますの? シロウさんはシロウさんですわ。この森の皆様がシロウさんのことを

お嫌いだとおっしゃいまして? 森の皆様がシロウさんを好きでいらっしゃるからこそ、

シロウさんはこの御山の主様で――」

 

 ……しまった。やっちゃいました……

 つ、つい、いつもの調子で……よりにもよって御山の主様相手に……き、きっと呆れ

てしまわれましたかしら……

 

 しかし。

 

「沙都子さま。シロウはなぜもっと早く、沙都子さまにお会いできなかったのでしょうか」

 

 シロウは沙都子を見てはいなかった。涙を隠さず、遠い西の空を見ていた。

 

「シロウの心は、千代に降り積もる寂しさの枯れ葉に覆い尽くされてしまったのですぅ。

なぜ、なぜもっと早くに沙都子さまと――」

 

「命短き人の世に『遅すぎる』という言葉はございませんわ、シロウさん」

 

 ――たとえ世界が枯れ葉に覆い尽くされようと、あの宿り木はとこしえに緑ではござい

ませんか?

 

「今からでも遅くはない、と沙都子さまはおっしゃるのですかぁ?」

 

「シロウさん。お友達になりましょう。わたくしはシロウさんのお友達。シロウさんは

わたくしのお友達。森の皆様はみんな仲間。よろしくて?」

 

 ああ、とシロウは嘆息する。万感の想いを込めて。

 

「沙都子さまはシロウの思っていたとおりのお方でした。シロウは――シロウは沙都子

さまと会えてよかったですぅ。心からよかったと思いますぅ」

 

 みたび、どどう、と森が騒いだ。

 

 

 

「今は、今こそは……ひとり寂しく歌うのではないのですぅ。沙都子さまと、そして森の

仲間と一緒に、シロウは歌うのですぅ!」

 

 息をため、地に伏して両手を挙げる。立ち上がりながらシロウは歌声を上げる。

 

 何と言う声なのだろう。沙都子は息を呑む。

 硝子の風鈴を指で弾くそのボォイソプラノ。

 その透き通る細い声が、地鳴る。

 何と言う唄なのだろう。沙都子は知らない。

 とつくにの唄、異国の唄。胸を締め付ける唄。

 その溢れ出す細い声が、神鳴る。

 

 知らず、沙都子は歌声に合わせて腰のタンバリンを指で叩いていた、

 やがて指は手のひらに替わり、そしていつしかタンバリンは腰から外され、沙都子の

手の中で踊る。

 シロウが歌い、沙都子がリズムを刻む。

 それは記憶の歌声、いのちを継ぐ鼓動。

 

 喝采が聞こえる。

 

 

 

 ローマの地ではガリアと呼ばれた。

 パレスチナの地ではガラティアと呼ばれた。

 ブルターニュの地ではゴロワーズと呼ばれた。

 その民の名は「ケルト」。

 かつてヨーロッパを席巻し、ローマのカエサルに滅ぼされた民族。

 その民族が奉った森の神の末裔の唄が。

 ケルトの森から遠く遠く離れた雛見沢の森に響き渡る。

 

 あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 

 木々を揺らし、風を起こし、雲を散らし、瀬は歩みを速めて、土を濡らす。

 

 流浪の民。漂泊の民。離散の民。ケルト。

 蛮族蛮人と呼ばれた。

 刺青の種族と呼ばれた。

 残酷な人喰いと呼ばれた。

 謂れのない差別を受け続けた。

 だが、その誇りだけは歌い継がれる。

 

 

 

 またたいて沙都子は幻視する。

 鳥だ。鳥の視点だ。私は鳥だ。

 大地を俯瞰する。

 すでに日本海を抜けて、陸地が見える。ユーラシア大陸だ。

 翼を打って急上昇する。

 

 時急ぎ、西から太陽が昇り、東へと月が沈む。

 ――時間を遡行しているのか? 夜を紡ぎ昼を紡ぎ、影と光が明滅する。

 

 満蒙の荒野を抜けて、砂の海へ。還らざる地、タクラマカン砂漠。

 左翼には崑崙山脈、カラコルム山脈、さらにパミール高原。

 

 向かえ、西へ。

 西へ西へ。

 西へ西へ西へ西へ。

 西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ。

 西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ!

 

 カスピ海を後にして黒海上空。

 右翼に黄色い平原。ウクライナ。ウクライナのひまわり畑だ!

 

「きれいですねぇ。ひまわりがいっぱいですぅ」

 

 声がする。シロウさんの声だ!

 私の右上に、風をまとってシロウさんの唄が飛ぶ。

 

 西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ西へ!

 

「もうすぐですぅ、沙都子さまぁ」

 

 見えた。

 森だ。一面の森だ。大森林だ。

 文字通り、鬱蒼と地の果てまで続く大森林だ!

 

 

 

「ここからは北へ向かいますぅ、沙都子さまぁ」

 

 シロウさんが先導する。

 ロールしながら急降下。木々の梢をかすめる。

 森だ。大海原のようにうねり、逆巻き、凪ぎ、荒れ狂う森だ。

 ただひたすらにがむしゃらに出鱈目なまでに巨大に永劫に無限に森だ!

 

「ここが、シロウの祖先の森なのですぅ」

 

 アルプス山脈を過ぎ去り、レマン湖を見やり、ライン川に沿って、北へ。

 エルベ川を横断し、今度はオーデル川に沿ってさらにさらに北へ。

 先が見えない。果てが見えない。これが本当に森なのか。

 

 ――ああ、シロウさんは、わたくしにこれをお見せしたかったんですわね――

 

 眼下には暗緑色に塗り込められた土地。シロウさんの父祖の森。ケルトの森。

 過去の栄光、ケルトの森。

 

 突然にふっつりと森が消える。その先はバルト海。

 ここがケルトの森の終着点。シロウさんの父祖の森の終着点。過去の栄光の終着点。

 

 ――シロウさんの先祖がどうやって永い旅の果て、極東の地、それも雛見沢山系の

「緒夜の森」にたどり着いたのか。シロウさんはどれほどの永い時間の中を父祖の森を

思い描いて暮らしてきたのか――

 

 人たる身の沙都子に理解できるはずもない。ただ、シロウの歌声と共に「緒夜の森」が

合唱していることだけは感じられた。

 気が付けば雛見沢山系、「緒夜の森」。今、沙都子はここにいる。

 

 

 

 シロウの傍らに鴉が舞い降り、かぁ、と一声鳴いて何か光る物を地面に落とした。

 それは――沙都子のお気に入りのひまわりのピンズ。真鍮にエナメルの、ぴかぴかの

ひまわりのピンズ。

 

「ああぁ! あのカラスさんでしたのぉ!」

 

「ごめんなさいですぅ。モルガンは気まぐれなカラスなのですぅ。沙都子さまの宝物は

お返ししますので、お許しくださいですぅ」

 

「モルガンさんと言うのですか、そのカラスさんは。これからもよろしくお願いします

ですわ」

 

 沙都子はピンズを拾い上げると、それをシロウの胸に飾った。小さなひまわりが

シロウに咲いた。

 

「あのウクライナのひまわり畑も素敵でございましたわね、シロウさん」

 

 

 

 帰りは「緒夜の森」の出口までシロウ自らが送ってくれた。

 

「嬉しいのですぅ。お気に入りなのですぅ。ありがとうなのですぅ、沙都子さま」

 

 ひまわりのピンズを眺めて、シロウは屈託なく笑う。

 

「シロウさんはわたくしの大切なお友達ですわ」

 

 沙都子も笑う。ほんの数時間しか「緒夜の森」には滞在しなかったと思ったのだが、

すでに陽は山間に隠れ、残照のみが空を照らす。

 シロウの顔が赤いのはそのせいだけではなさそうだ。

 

「シロウからはこれをお渡ししますぅ、沙都子さま」

 

 頬そめて、シロウが差し出したのは、鈍く銀に輝く柏の葉。

 

「こ、これは……見事に美々しいですわね。こんな綺麗なものをわたくしに?」

 

「その葉を持っていれば『緒夜の森』はフリーパスなのですぅ。森の皆が沙都子さまを

歓迎してくれるですぅ」

 

 それは山の主との契約だ。

 それは山の主の誓約だ。

 その真の意味を沙都子は知らない。

 

「沙都子さまはシロウの大切な大切なお友達ですぅ」

 

 

 

「それではごきげんよう。今日はとても楽しかったですわ、シロウさん」

 

 深く一礼して、沙都子は自転車に手をかけた。

 

「あ、あの。あの。さ、さ……」

 

 シロウが俯いて口ごもる。

 

「……さと、里に下りてもいいですかぁ? シロウも里に遊びに行ってもいいですかぁ?」

 

「もちろんでございますわ! その時は、わたくしがご案内さしあげますわぁ!」

 

 自転車に乗って、振り向き振り向き別れを惜しんで、沙都子は山道を下り始めた。

 

 ――沙都子さまに会いに、里へ下りてもいいですかぁ――

 

 シロウの飲み込んだその言葉に、沙都子は気付いたかどうか……

 

 

 

 新しいお友達ができました!

 素敵なお友達ができました!

 大切なお友達ができました!

 

 ペダルを踏み込む足が軽い。

 梨花になんと言おう。仲間になんと言おう。

 ひまわりのような笑顔で沙都子は思う。

 作文の宿題も簡単だ。

 こう一言だけ書いてやろう。サインペンででっかく書いてやろう。

 

「西へ行く」

 

 将来は必ず「黒き森」へ行こう!

 シュヴァルツヴァルトへ行こう!

 シロウさんの父祖の森へ行こう!

 シロウさんと、シロウさんと一緒に!

 

 向かえ、西へ。

 西へ! 西へ!

 

 沙都子はペダルを踏み続ける。

 

 

 

 ――それは、神話と呼ばれるボーイ・ミーツ・ガール。

 

 

 

主要参考文献  図説 ケルトの歴史 (河出書房新社)


 
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