No.532310

〔AR〕その24 前編

蝙蝠外套さん

twitterにて週間連載していた東方二次創作小説です。
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2013-01-15 22:12:38 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:566   閲覧ユーザー数:566

 静かな寝息をたてる姉からの緩やかな拘束を優しく外し、こいしはパジャマ姿のまま自分の部屋を抜け出した。

 さとりの部屋の片づけは済んだが、やはりさとりは自分の部屋に戻ろうとはしなかった。単純にこいしがそばにいなければいけないというだけでなく、自分が自分の部屋で何をしたかを思い返してしまうからだろう。

 今の時刻は普段ならこいしも寝る時間だが、今夜はさとりと離れて、やらねばならないことがある。なるべくなら、姉が起きる前に済ませたいと考えていた。

 部屋を出て向かったのは、談話室。日常的に古明地姉妹やそのペットが茶菓子を楽しむ場所だが、今は一週間以上満足に使われていない。

 談話室のドアを開けると、そこにはお燐、空、そして他数匹の、人語を解する賢いペットが集まっていた。それらは、一斉に入室したこいしを出迎えた。

「おまたせ。みんな、集まってくれてありがとう」

「こいし様、一体どうしたんです?」

「悪いね、すぐに済ませるから」

 こいしは一同を再度テーブルの周囲に座らせ、自分は空いているソファに腰掛けた。そして、口を開く。

「みんな予想ついてることだろうけど、お姉ちゃんのことで相談があるんだ」

 こいしのさとりに対する言及に、ペット達は揃って困り顔を浮かべた。

「さとり様、一体どうしちゃったんです?」

 お燐が一同を代表してこいしに質問する。

「……ほんとに、よくわからないの」

 しかし、こいしはそれに明確には答えられなかった。なにせ、こいし自身もさとりからはっきりとしたことは聞けずしまいだからだ。未だ、さとりは詳しい事情を聞ける状態ではない。

 とはいえ、こいしには、何が起こったかはある程度推測が付いている。

 あの日、さとりは秋祭りの行われていた人里に赴き、そこで何かひどい精神的ショックを被ったのだ。

 それに、人里の人間である稗田阿求が、何か関わっているのではないかと、こいしは考えている。祭り当日、稗田阿求とこいしは遭遇していないが、祭りの数日前の彼女と、そして姉とのやりとりは覚えている。故に、こいしは阿求とさとりの間に何かあったと見ている。

「うにゅ……もし、さとり様を誰かがいぢめたのなら……私が行ってすぐさまやっつけてやる……消し炭にしてやるんだ」

 半ばテーブルに突っ伏し、眠気をこらえたぼんやりとした口調ではあるが、空の発言はこいしにとって危惧すべきものだった。

 例えば、ここでこいしが口を滑らせて、阿求のことを話したとしよう。その瞬間、この場にいるペット全員が、人里を襲撃するかもしれない。

 普通であれば、確証のない話であるところだが、さとりの痛ましい姿を見ている手前、今のペット達は一触即発のものを心に抱えている。こいしが迂闊な情報を与えれば、暴走する危険性があるということだ。

 正直なところ、こいし自身も、阿求に対して疑わしい感情がある。本当に阿求のせいでさとりが傷ついたのであれば、流石にこいしも黙っていることはできない。

 だが、それは全て因果関係がはっきりしてからの話だ。表向き封じられているはずの地底の住人が、また地上で暴れ出したとあれば、さらなる騒動が引き寄せられるかもしれない。それは誰も望むところではないはずだ。

 こいし自身、精神的にぎりぎりの綱渡りをしている感覚がある。そこで、理性という平行棒でもって均衡を保っていられるのは、ひとえに命蓮寺での修行の成果か……まぁ、ぬえにけしかけられて手を抜いたことは多々あったが。

 とまれ、今夜ペット達に集まってもらったのは、さとりを傷つけた犯人探しを行うためではない。

「お姉ちゃんの怪我、まだ治らないんだ」

 さとりの顔からは未だにガーゼがとれない。毎日取り替えているのだが、その度にこいしは姉の外傷が癒えないことに不安を感じていた。

 通常、妖怪は肉体が傷ついても、大概すぐに治る。それこそ、体をバラバラにされても生き延びるものだっている。覚り妖怪は特別肉体が頑丈というほどでもないが、それでも浅い傷は日をまたがずとも治ってしまう。

 外見の痛ましさはともかく、さとりの傷はそこまで深いものではない。しかし、未だ傷口は癒着せず、ところどころ血がにじんでいる。さとりが度々傷口をさする仕草を見るに、痛痒も引いていないようだった。

「薬は? 医者に見せたりは?」

 ペットの一匹が疑問を呈するが、そこでお燐がこいしのかわりに頭を振った。

「塗り薬はつけてるけど効果なし。そして地底の住人は妖怪しかいないから、体の傷や病気なんてのもすぐ治っちまうんで、旧都には藪医者しかいないんだ。診せるだけ無駄」

 お燐には、動けないこいし変わって様々な手だてを探ってもらったが、地底の中でできる範囲では打つ手はなかった。

「それで、私、考えたの」

 こいしの言葉が重い。その雰囲気を察知したペット達は、全員が居住まいを正した。

「昔、命蓮寺の人に聞いたんだけど、地上には、どんな怪我も病気も治せるお医者さんがいるんだって。明日、そこにお姉ちゃんを連れていこうと思うの」

 ペット達が一様にざわめくが、こいしはそのまま続ける。

「それでね、もしかしたら、治療にしばらくかかるかもしれない。その間、私達は地霊殿を留守にする。みんなには、ここをしっかりと守っていてほしいの」

「しばらくって……どれくらいかかるんですか?」

 聡いペット達は、治癒にしばらく時間がかかる、という発言が、おそらく肉体的なものにとどまらないだろうことを感じ取っていた。その上で、こいしに問うが。

「それはわからない。でも、なるべく、すぐには帰ってくるつもり」

「こいし様も行っちゃうの?」

「多分、付き添ってないとだめだと思う。正直、地上に連れ出すのもちょっと難しいかもね」

 でも、とこいしは決然としたまなざしを見せた。

「今のままじゃ、どんなに時間をかけても、お姉ちゃんは立ち直ってくれない。私達には、残念だけど有効な手だてはない。だから、少し無理をしてでも、地上に助けを借りに行ってくる」

「でも……」

 空は不安そうなまなざしを隠せない。ほかの面々も、皆困惑している。

 そんなペット達を勇気づけるように、こいしは笑って見せた。

「大丈夫。必ず、お姉ちゃんと一緒に、にこにこしながら帰ってくるから。だからみんなは、地霊殿をよろしくね」

 数秒、談話室に沈黙が訪れた。ペット達は全員、笑顔なこいしをじっと見つめている。

(あ、あれ?)

 何か滑ったか? とこいしは一瞬不安に思ったが。

「……こいし様が、とてもはっきり見える」

 ペットの一匹が、ぽつりとつぶやいた。

「こいし様、しばらくずっとぼやけていたのに、今は、凄い頼もしい」

「こいし様、きっと、約束守ってくれる」

 つられてほかのペット達も、口々にこいしを称えた。

「こいし様、任せてくださいよ。あたい達、どんなに時間がかかっても、待ってますから」

「うん! 地霊殿は、私が、私達が……あと、ヤタガラス様が、絶対に守るから!」

 お燐と空も、不安げな表情を吹き飛ばして、力強くこいしに頷いてみせた。

「みんな……」

 こいしは思わず目頭が熱くなった。感謝の言葉もない。

 さとりのように、ペット達を導くことができるか、こいしには自信がなかった。心が読めないため、ペット達の真意を読めず、正しい指示を出せるかどうかがわからなかった。

 だが、はっきりしたことがある。今目の前にいるペット達をはじめ、地霊殿の住人は、皆さとりのことが好きであり、そしてさとりの為にならば、力を貸してくれるのだと。

 これで、少なくとも後光の憂いはない。こいしは、さとりと向かい合うことに注力できる。

「じゃあ、みんな、今夜は一旦解散。明日の朝になったら、色々準備を頼むわ。お昼前には地上に出るつもりだから」

 ペット達はシンクロしたように、一斉に頷いた。

 そしてこいしは談話室を辞すると、駆け足で部屋に戻る。もしさとりが起き出していた場合、トイレに行っていたと誤魔化せるように、長い時間は空けていられない。

 やることは決めた。後は明日、それを実行に移すため、しっかりと休む必要もある。

 きっと、明日は長い一日になるだろう。こいしは、そう覚悟を決めた。

 

 

 久々に、ささやかながら幸運が訪れた。阿求は、己の精神に活力を与えるため、そう思うことにした。

 昼下がりのいつものカフェーで、阿求とアリスは向かい合って座っている。

 阿求にとっての幸運とは、普段魔法の森に暮らしているアリスが、タイミング良く人里を訪れていたことだった。

「すみません。呼び止めてしまって。私の方から、ご自宅にお伺いするつもりでしたので、助かりました」

「別にいいわ。丁度休憩したかったところだし」

 アリスは淹れ立ての紅茶のカップを口にすることなく、湯気をくゆらせるように揺らした。

「私も気がかりだったのよ。貴方、結局あの祭りの時、会場にこなかったでしょ?」

「はい……ちょっと色々ありましてね」

 カップの湯気越しに、アリスは阿求を神妙に見つめる。

「貴方のお友達には、体調不良だとは聞いたけど、なんかそれだけではないみたいね」

 鋭い。阿求は話がすぐに通じそうなことに安堵しつつも、彼女の才気にやや気後れする。

「体調不良は間違ってません。あの時は、まともに歩けませんでしたから」

「そう、じゃあ、お友達にも言っていないであろう詳細を、包み隠さず聞かせてもらおうかしら。私への用事も、それに関することでしょう?」

 本当に鋭い。阿求は感服する。ややもすればアリスの言動はとげとげしく思えるが、これは別に彼女が不機嫌なわけではなく、真実の追求に妥協しない性分だからだろう。

「ではまず、重要なことを……あの日、私は古明地さとりさんと出会いました」

「へぇ……」

 アリスは手にしたカップにようやく口を付けた。今は貴方がしゃべる番で、私は聞き手に回る、という意思表示のようだ。

「私は、祭りの日、『Surplus R』先生と一緒に人形劇を見る約束をしていました。あの竹の広場に続くアーチ池で、私は『Surplus R』先生を待っていたんです。そこに現れたのが、さとりさんだったんです」

 阿求は滔々と語る。その表情は、実に複雑な感情が渦巻いていた。

「つまり、アリスさんの推理は正しかったのです。『Surplus R』はさとりさんで、私はずっと彼女と文通をしていたことになるのです」

「なるほどね」

 アリスは相づちを打ち、一旦カップをソーサーに戻した。中身はほとんど減っていない。

「そうして私達は一緒に竹の広場を目指したのですが、私はさとりさんを恐れ、さとりさんもまた私を恐れました。その末に、私達二人は……決裂してしまったのです」

 誤解を招きやすい言葉だが、そうとしか言い表しようがなかった。あの日のあの瞬間は、まごうことなき断絶だった。

「ちょっとまって。なぜ、さとりが貴方を恐れなければならないの? 貴方はどうみても妖怪退治ができるようなタイプでないのは、それこそさとりならばわかるでしょうに」

「覚りだからこそ、です。私の精神は、覚り妖怪にとってはあまりにも異形の存在として映るらしく、それこそ正気ではいられないほどなのだそうです」

「……魔法使いとしては正直興味深い話だわ。あ、これは聞き流してね。そう、貴方達は、はっきりいって、直接会うには最悪の相性同士だったわけね」

 言葉にすると本当に無体なことだ。しかし、事実である。

「さとりさんは、そのまま姿を消しました。今はどうしているのかはわかりません。地底に戻ったのだとは思います。バイオネットが休止する前に、様子をうかがおうかとも考えましたが……」

「まぁ、普通に考えると、貴方とのコンタクトは拒否するでしょうね。バイオネット自体を忌避しているかもしれないわ」

「はい。それは、仕方がないことだと思います。ですが……」

 一度深呼吸をしてから、阿求は決然としたまなざしで話し出した。

「私は、このまま終わらせたくないんです」

「じゃあ、どうするの?」

 阿求の目を見て、アリスもまた、単刀直入で阿求に問う。

「もう一度だけ、さとりさんに会いたいんです。勿論、さとりさんは拒絶するかもしれない。でも、私の意思だけは伝えたいのです」

「具体的には?」

「まず手紙を書きます。今丁度文面を試行錯誤しているところなんです。バイオネットが休止している現在、それを届けるのは至難の業ですが、なんとか私のコネを使って対処しようと思います」

「魔理沙でも唆せば簡単そうな気はするけどね――それはいいけど、そこに私がどう関わるのかしら?」

「私がさとりさんに手紙を送り、その返事が、YESだった時――アリスさんには、もう一度『頼れるアルフレッド』の人形劇を演じてもらいたいんです」

「承ったわ」

「へ?」

 阿求は、アリスが一拍を置くとみて次の言葉を考えていたが、対するアリスはさらりと承諾してみせた。

「私も、この前の祭りは、ちょっぴり心残りだったのよ――勿論、出し物としては及第点を越えていたにしろ、発起人の貴方と、原作者に出会えなかったのは、すっきりしなかったわ」

「い、いいんですか?」

「人形さえあれば、私の劇はいつどこでだってできる。大がかりな舞台は必要ないわ。平原の木の下であろうと、往来の片隅だろうと、そのクオリティは揺るぎない」

 鮮やかに、アリスはそう言い放った。

「――ありがとうございます。私の果たせなかった約束――いいえ、わがままにつきあっていただいて」

「気にすることないわ。さっきも言ったでしょ。心残りだったって」

 アリスに気負った様子はない。阿求は、アリスが話の通じる相手だと見込んで、依頼を切り出したわけだが、こうもあっさり引き受けてもらうと、肩すかしをくらった気分でもある。

「じゃあ、しばらくはさとりの反応待ちってところかしらね」

「そうなります。とりあえず、今は頭の片隅に止めていただければ、かまいません」

「わかったわ。人形はいつでも使えるようにしておくから」

 アリスは話の区切りがついたと見て、しなやかに紅茶を呷った。少し温くなっていたので、三分の一ほどがアリスの喉を通り抜けていった。

「さて、それじゃあ私も仕事に戻りましょうかね――とはいっても、正直すぐに片づくとも思わないし、もう少しゆっくりしていてもいいかなぁ」

「そうだ。アリスさん、今日はどのようなご用件で人里にこられたのですか?」

 阿求は、今更の疑問をアリスに問う。見たところ、アリスの手荷物には買い物袋のようなものはないことから、買い出しにきたようには見えない。代わりに、旅行鞄よりは若干小さい程度の手提げトランクを椅子の脇に置いていた。それは、アリスの人形師としての商売道具である、ツールボックスであった。

「簡単に言えば、『彼女』の調整――なんだけど、どうにも不穏なものを感じてね。ちょっと人里全体を調べてみたくなったのよ」

「どういうことです?」

「阿求も知ってるでしょう? ここ最近の、変な幻影の噂を」

 噂――あのことか、と阿求は思い至る。一時期家に引きこもっていた阿求は、祭りが終わった後、ごく最近になって知った話だ。天狗の新聞も度々報じているが、その真相はまったくもって判明していない。

「元々、結構前から変なものを見たって話はあったそうなんだけど、祭りが終わってから急に知れ渡ったような感じがするの」

 アリスの話を聞いて、ふと阿求は残暑のある日のことを想起する。

「――今年の九月なんですけど、豊聡耳神子さんのこと、ご存じです? 彼女が、私に会いに来たんですよ」

「ふむ?」

「その時、何か引っかかることを言っていたんです。君は神霊とも幽霊ともつかないものをみたことないか、って」

 あの時のやりとりは、当時こそ阿求は真剣に考えたものの、結局答えは出ず、紫に手紙を出した時点で関心が薄れていった。

「伝え聞く話によると、人里に住む霊感が強い方は、特に霊の気配を感じることはないそうです。一方で、特別な能力を持たない人でも、不可思議な幻影を見ることがあるんです」

「――」

 アリスは思案するように、口元に手を当てて黙る。何か言葉を選んでいるように見えたので、阿求は紅茶を飲みつつ、アリスの出方を待った。

 十秒ほど立って、アリスは口を開いた。

「『彼女』の調整っていうのは、バイオネット出力の自動書記機能を一旦切り離す作業だったんだけど、どうにも原因の分からない不具合があるのよ」

「不具合?」

「まるで、何かを見ているように、勝手に動くの。『彼女』には、まだ自我と呼べるようなものは宿ってはいないにもかかわらずね」

「――まさか、『彼女』もまた幻を見ていると?」

「聞いても答えてはくれないけどね。でも、様子を見ていると、そう思わずにいられないのよ」

 アリスは再度紅茶を飲んで、その香りを吐き出すように、鼻を鳴らした。

「とりあえず、今日は慧音の家に泊まって、明日まで作業をしてみるつもり。で、その前に、日が落ちるまでにちょっと人里の様子を調べておきたいってわけ」

「日が落ちるまでって、あまり時間ありませんよ?」

 阿求は懐中時計を取り出す。今の時期の釣瓶落とし加減を考えると、あまり時間に猶予があるとは言えなかった。

「いくつか思い当たる節があってね――むしろ、日が落ちるくらいの刻限が狙い目なのよ」

「?」

「今はわからなくていいわ。私だってまともな確証があってそうしようとしているわけでもないし」

「――気になります」

 阿求は、胸騒ぎを覚えた。何か、もう少し判断材料があれば、安心して専門家に任せられる。しかし、今取り巻くこの状況は、確かなことが何一つ得られておらず、知れば知るほど安心できない。

「ご迷惑でなければ、少しアリスさんのお手伝いをしてもかまいませんか」

「やめときなさい、と言いたいところだけど、言って聞く顔じゃないわね」

 アリスは肩をすくめ嘆息した。

「ま、人里から出なければ身の危険にさらされることもないだろうしね。とりあえず、日没まで人里全体を見て回りましょう」

「はい――すみません。無理を言って」

「貴方も貴方の役割があるわけだし、気になるのも無理はないわ。ただ、何か異変が起こったら、絶対に踏み込んではだめよ。私は貴方の身の安全を保障しないからね」

「構いません」

 阿求は力強く頷いた。合意と見たアリスは、紅茶の残りを飲み干した後、席を立った。

「じゃ、行きましょ」

「はい」

 

 

「お姉ちゃん、お待たせ」

「――」

 人里からも、命蓮寺からも離れた街道沿い。

 今や大半の葉を落とした樹木の根本で屈み、身を震わせるさとりの元に、こいしが駆け寄った。

「永遠亭までの地図を書いてもらってたら遅くなっちゃった、ごめんね」

「こいし、寒いわ……」

 さとりは厚手の上着を重ねた着膨れした格好だが、ガーゼの隙間から見える頬の色は青白い。地熱の床暖房により年中温暖に安定している地霊殿に比べれば、冬に近づいている幻想郷の気温は、身に堪える寒さだった。

 こいしも、さとりほど厚着ではないにしろ、マフラーを巻き、ストッキングを履いている。

 妖怪であれば本来気温の変化にも強いはずだが、今のさとりは精神的に弱っているため環境の違いに敏感になっている。かつて冬場に普段着で守矢神社に参拝したことのあるこいしにとっては平気な気温でも、さとりには厳しい気温だ。

「さぁ、もう少しの辛抱だから、がんばって」

「ん……」

 こいしはさとりの手を取って立ち上がらせる。

(とはいったものの)

 内心、こいしは今の進行ペースに危機感を抱いていた。

 当初、地上に出てくるのは昼前を予定していた。しかし、さとりは案の定駄々をこねて地霊殿の外に出ることをかたくなに拒んだ。その説得にはかなりの時間がかかり、結果地上に出てこれたのは、太陽が西に傾きだした頃だった。

 それから、永遠亭までの道のりを訊ねに(本来なら先に調べておくべきところだったが、動けないこいしには不可能だった)命蓮寺に一度立ち寄る時も一悶着あった。

 さとりは対人恐怖症も併発しており、人がいる場所に近づくだけでも難色を示す有様だ。仕方なしに、こいしはさとりを人気のない道ばた待たせなければならなくなった。さらに、迷った末、命蓮寺の面々による道案内も断らざるを得なかった。

 こいしの目に水平線の様子が映る。西の方角が赤くなっていた。空には雲が多く、赤く引き延ばされた光は、東の空にある雲まで、薄桃色に染めていた。

 命蓮寺の合宿の間に、こいしは太陽の動きを実体験を以て学んでおり、もう日没はすぐであることを悟る。

 夜が降りて、暗くなること自体は、夜目が利くため問題ではない。しかし、夜行性の動物や妖怪が出現しだすのは、今のさとりを抱えるこいしにとって、甚だ厄介だ。

 さらに面倒なことに、竹林は迷いの名を冠しているそうで、案内人を見つけなければ永遠亭にたどり着くのも困難だという。

「赤い空……気持ち悪い」

 さとりがつぶやく。

「ほら、太陽に雲がかかっていて、ピンク色になってるじゃない。あれが傷跡のようでたまらなくいやだわ。そう思わない?」

「うん……」

 こいし自身も同じことを感じたものの、生返事を返す他ない。こいしは美しい夕焼けも知っている。同じ天気模様でも、気持ち次第でこうも受け取り方が変わるのか、とこいしはやや哲学的な感慨を持った。

 そして、今の姉は、見るものすべてが恐怖の対象になっているようで、それが心苦しい。

 一刻も早く、永遠亭にたどり着き、少しでも心身を癒してあげたい。それだけを願い、こいしはさとりの手を引いて、道を急いだ。

 

 

 同時刻。再度人里。

「潮時ね」

 逢魔ヶ辻を告げる血のように赤い空を見て、アリスは呟いた。

 アリスと阿求は陽の出ているうちに人里を巡回したはいいが、特段の異変は見受けられなかった。二人は、街灯や酒場の提灯などが点灯していく様を見ながら、里の大通りを並んで歩いていた。

「まるで異変の方に避けられてる気分ですね」

「むしろ、そんな意思が感じられるような原因があればいいんだけど」

 アリスの言うとおり、例えば今起こっている異変が何者かによって引き起こされているのであれば、話は簡単だろう。

「ここ数年の異変は、現象を見ただけでは原因の意図するところを読みとるのは困難ですからね」

「私としては、犯人なんていないんじゃないか、って思ってる」

「何故、そう思われるんです?」

「勘――で片づけても納得しないでしょうから、強いて言うなら経験則」

 アリスは、人差し指で、天空に輪を描く仕草をみせた。

「幻影は、人里だけでなく、幻想郷のあちこちで見られるって話。今の幻想郷で、あまりにも無差別に、広範囲に異変を起こすのは、リスクが大きすぎるわ。少なくとも、私は、犯人がいるにしても無自覚に起きている類だと推測する」

「幻想郷、あちこち」

 幻想郷の、広い範囲にわたる現象。阿求は、人里の住人故、人里を中心にした視点に偏っていた。だが、アリスの説明で、何か漠然とした感覚が浮き彫りになってくる。

「ともかく、人里に手がかりはなさそうね。私は一旦慧音のところに戻るから、貴方も家に帰ったら?」

「そうしますね。家の者には出掛けるとしか言っていないので――」

 人々が往来する街道。夕闇が炎で照らしあげられていく様に、目を眩む。阿求は、アリスと会話しながら、せわしなく目を瞬かせていた。

 幾度の瞬きをしただろう。キネマのフィルムをコマ落ちさせたかのような視野の中で。

 阿求は、その能力故。瞬きしたある一瞬の前には決してなかったものが、一瞬の後に現れたことを見逃さなかった。

「あ!」

 現れたのは――犬だ。薄い小麦色の毛並み、垂れた耳、ふりふりとした尻尾。

 最近、さる事情で犬図鑑を読んだことから、その特徴が印象に残っていた。ラブラドールレトリーバーという犬種。人里どころか、幻想郷全体を見ても滅多に見かけない外来種だ。

「どうしたの?」

 突如声を張り上げた阿求を、アリスは不振そうに見つめた。アリスにはまだ、多くの人妖が行き交う道に現れた違和感を気づけていない。

 そのアリスを後目に、阿求は犬を凝視していた。犬は、あたかも阿求と視線を重ねるように首を巡らせる。犬は阿求の目をじっと見つつも体を反転させ、ついには阿求達とは別の方向に歩きだした。

「あれ? 人里にレトリーバーなんていたっけ――」

 アリスも、ようやくその犬の存在に気づいたが。

 瞬間、阿求はこの場から立ち去る犬を追って駆けだした。

「阿求!?」

 アリスは驚きのあまり出遅れた。その一瞬は大きく、阿求はあっという間に人並みをかき分けて往来を突き進んでいった。

「ど、どうしたのかしら」

 困惑しつつも、追いかけようか、と足に力をこめたところで。

(おかしい)

 アリスは、自分の視界の異常に気づいた。

(いくらこの街道は酒場が軒を連ねてるとはいえ)

 瞬きするごとに、増えていく。

(人が、多すぎる!?)

「うわ! 来た! なんかきた!」

 紅魔館大図書館、バイオネットサーバルームに、はたての悲鳴がこだまする。

 サーバと直結し、その情報を逐一文字表示させる専用投影板――いわゆるモニタだ――から、穏やかではないアラートが迸っていた。サーバルームに常駐していたパチュリーとはたては、このサインを警戒していたのだ。

「来てしまったか……ほら、喚いている暇があったら手はず通りにやる」

「あーもう、あー、もう! わかったわよ!」

 はたては投影板の目の前に置かれた、文字の書かれた楽器の鍵盤めいた機材をたぐり寄せる。キーボードと呼ばれる、外の世界における式神を操作するための機械だ。

 バイオネットの管理者機能の操作は、基本的にパチュリーの持つ百科事典型専用端末を使えば過不足はない。しかし、特定のトラブルシューティングに際しては、指先による文字操作や音声入力では対応しきれない、複雑かつ速度を求められる手順を行わなければならず、そのためにキーボードが備え付けられている。

 しかし、実はパチュリーは、どうにもこのキーボードによる操作がなじまなかった。この五ヶ月間、暇を見ては練習していたが上達せず、そもそも今までトラブルらしいトラブルもなかったため、使うこともなかった。

 取材に来たはたてを引きづりこんだのは、機械に強そうだからという理由が大きい。そして実際、はたてはパチュリーからの簡単なレクチャーと説明書を読んだだけで、一晩もかからずにキーボードのタイピング技術を習得した。

 よって、今まさに起こり始めた、バイオネットの異変とそれへの対応は、パチュリーが指示を下し、はたてが手順を遂行するという体制で望むこととなった。

「じゃあ、頼むわよ」

「やったろうじゃん!」

 体制を整えるのに夜通しかかったせいで、パチュリーもはたても満足に睡眠をとっていない。パチュリーは元々がダウナーなためあまり外見には変化がないが、はたてのほうはいわゆる深夜明けのテンションで妙にパワフルだ。

 はたては、パチュリーの指示と、手元に置いた手順書を元に、作業を開始する。カカカカッ、と、小気味よい音の連鎖が奏でられる。乳白色のキーの数々が、はたてのものすごい指裁きでめまぐるしくピストン運動しているのだ。

 その卓抜したスピードに、パチュリーは内心で舌を巻いていた。口やかましく態度もだらしないと思っていたが、実はこの天狗、それなりに優秀なのではないか?

(こういう事態を見越して引き入れた――わけではないにしろ、渡りを付けるというのは、こういうことで役立つってことかしら)

 実に癪にさわる展開だ。しかし、今は使えるものはなんでも使わなければならない。

「そう、本当の異変に発展する前に!」

「だっしゃー!」

 

 違和感の増加に比例するように、アリスの目に映る往来は、人で溢れかえっていく。それはさながら、あの秋祭りの日のようで――いや、それすら超えているかもしれない。

 目の前の異常が露わになっていくにつれ、阿求の姿も遠く離れていく。

「上海!」

 アリスはトランクを解放し、人形を呼び出す。そのうちの一体の上海人形に、アリスは電撃的に指示を与える。

「阿求を追いかけ、護衛しなさい!」

「ワカッタヨー」

 指令を受けた上海人形は、地上数メートルの高さに上昇してから、ハイスピードで阿求の追跡に向かった。

 アリスは引き続き人形を周囲に展開していき、警戒する。彼女自身の感覚にも、索適タイプの人形にも、魔力や霊力といった反応が全くない。翻ってそれは、現状の異常を示すサインと言えた。

 そして、ただ一つ、目の前の光景を異変と判断する知覚野があった。アリスは、感覚からの要請に応え、そこに力を込める。

 アリスの瞳が、金を下地にした虹色の光彩を放つ。それとともに、アリスはその場から跳躍、二階建ての建物よりも上空に飛翔し、往来を、そして人里全体を見渡した。

「こんな、ことって――」

 アリスの幻視力が、真実を露わにしていく。

 道という道に溢れかえる人々の姿の半分以上が、実体ではない、実体そのものの幻であった。

 

 一方の阿求は、いつにない勢いで往来を走る。

 阿求もまた、アリスと同様に異変に気づいていた。瞬きをする前と後で、街道に存在する人の量がどんどん変化していく。時に人間以外の存在も増えている。

 これこそが噂の幻、異変の姿か。阿求はもはや疑う余地もなかった。

 そして、今阿求が走って追いかけているラブラドールレトリーバーもまた、実体そっくりの幻影のようだった。

 犬は、阿求がぎりぎり追いつけるほどの速さで駆け、時折首のみ阿求を振り返る。その仕草は、誘っているようにしか見えない。

 これは一体なにを意味しているのか? わからない。わからないが――。

(私を呼んでいる?)

「マチナヨー」

 その時だ、頭上から非人間的な抑揚のない声が届く。

「貴方は――アリスさんの人形」

 現れた上海人形は、走る阿求の肩に飛びついてきた。

「アリスさんが遣わせてくれたんですね」

「ソージャネーノ」

 上海人形を加えてなおも走る阿求であったが、追いかけている犬の先方を見て、表情をこわばらせた。今まさに、犬は人里の外と中を分ける櫓門をくぐり抜けていく。

 時刻的に、そろそろ門を閉じる頃合いだ。つまり、人間にとっては危険である夜の幻想郷に飛び出していくということである。阿求は走りながら躊躇する。躊躇するが――。

「上海さん、明かりとか持ってないですか?」

「デキルー」

 阿求の声に応え、上海人形は胸元のブローチを輝かせた。行灯の炎の明かりとは違う、弾幕の輝きを思わせる光が迸る。目が眩むほどの光量だが、これならば夜道での十分な明かりとなるだろう。

「行きます!」

 門番が門を閉じる前に、制止されることもなく、阿求は門をくぐり抜けた。

「この出口の先は、竹林ですね」

 門の名前や看板を確認するまでもなく、阿求は記憶を照合して判断する。この門を出て道なりに行けば、迷いの竹林に辿り着く。

 その方角になにがあるのか? 異変の正体か? それとも――。

 今の阿求は、とてつもなく危ない橋を渡っている自覚があった。アリスに任せるか、慧音を頼るといった行動もとれたはずなのに。

 しかし、今この瞬間、あの犬の行く先を確かめなければいけない。自らの足でそうしなければならない。理由のない確信につき動かされ、阿求は上海人形を頼りに、暗黒の世界を突き進むのだった。

 

 かろうじて、入り口と思われる竹藪の空白と、入り口であることを示す看板を見つけたのが、完全に日が落ちた刻限であった。

 迷いの竹林は、まるでそこだけ、いずこから空間を切り取り、持ってきたかのように存在していた。それまで平坦かつ視界の開けた道を歩いてきたところに、突如として現れたように、古明地姉妹には見えた。

 そして、そのぽっかりと空いた入り口らしきところは、夜の闇よりもさらに暗い。

「――こわい」

 さとりは表情をひきつらせて、こいしの右腕にしがみついた。恐怖に震える姉の鼓動が、こいしの全身に伝搬する。

 そのせいなのか、さしもの怖い者知らずのこいしも、不気味な感覚を禁じえない。妖怪が闇を恐れるのも滑稽な話だが、地底から来た二人にとって、この竹林は間違いなく異界なのだ。

「だ、大丈夫。道案内の人を見つければ、もう怖くないって」

 姉をどうにか元気づけつつ、こいしは一応ということで、ウィスプめいた妖弾の光源を左手に生み出した。夜目が利くとしても、流石に竹林の中では、視界を確保した方がよさそうだった。

 ただ明かりを灯すということは、妖怪や獣を引き寄せる危険性も伴う。痛し痒しといったところだ。

(変なのが寄りついてきませんように――)

「じゃ、行こう!」

「う……」

 腕にしがみついたまま、棒立ちで動こうとしないさとりを、半ば引きずるようにこいしは歩き始めた。

 鬱蒼とした竹林のトンネルを、姉妹は慎重に歩く。地面は土がむき出しだが、ある程度均されているようで、歩くのは苦にならない。しかしいかんせん、視界が悪すぎる。

 こいしは左手を光源から離し、命蓮寺で貰った道案内の地図を広げる。地図とはいっても、竹林までの道筋の後は、竹林の案内人とどのように会えばいいかという手はずまでだった。竹林内部は絶えず変化するため、マッピングできるものではないからだ。

「入ったらまず直進。何分か歩けば、案内人が住んでるところの看板が見えてくるそうだけど……」

 光源の明かりだけでは、先はほとんど見通せない。そして竹は目印にはならないので、ひとまず、目線から下の範囲をこいしは注意深く観察していった。

 こいしが探索に集中する間、さとりはこいしの肩に顔面を埋めた上で、堅く目を閉じた。周囲には竹林以外には何もないのだが、さとりには、その竹そのものが恐怖の対象であった。密に折り重なって、暗闇で薄明かりに照らされる竹は、彼女に精神的圧迫感をもたらした。

 だが、いくらなんでも、ずっと目を閉じ続けたまま、こいしに追随して歩くのは難しい。そのため、さとりは本能的に、転倒を避けるべく、時々薄目で足下や周囲を垣間見た。

 まるで、ホラーキネマの煽りシーンのよう……昔、たまたま年代物の映写機とフィルムが手に入り、地霊殿で上映会を行ったことをさとりは思い出す。その時の作品がホラーものだったのだが、姉妹達にとっては、鼻で笑ってしまうほどチープな出来だったのを覚えている。

 今のさとりには、笑うどころの話ではない。あんなチープな出来でも、見る時の気分や状況次第では、視聴者を恐れさせることもできるのではないか。さとりは、思考することで必死に恐怖と戦っていた。

 昔のことを思い出した影響で、瞼の隙間から断続的に見える景色は、コマ落ちのように感じられた。

「――?」

 さとりは包帯だらけの手で眦を擦る。視界が何か変だった。こいしの服の糸くずでも目に入ったかと思い、何度か目の周りを指でなぞってみるが、特段異常はない。

 奇妙に思い、さとりはおそるおそる、竹林に入ってからはじめて、まともに目を開いた。

 周囲は変わらず暗い。こいしの作った光源で見渡せるのは半径五メートルもないだろうか。

「あれ?」

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 いや、違う。さとりは疑問の声を漏らして、それにこいしが反応する。

「こいし……」

「ん――ん?」

 こいしは地図から視線を持ち上げて、さとりと同じように周囲を見渡し……異変に気づいた。

 こいしの光源は、姉妹の周囲半径五メートル未満しか照らしていないはずだった。

 にも関わらず、竹林の暗闇が薄らいでいく。明るいと言えるほどではないが、何か燐光のようなものが、空間に満ちている。これにより、まるで別世界に訪れたかのように、視界が開けていく。

 そして、さらなる異変が二人の目に映りだした。

「な……!?」

 こいしは危うく地図を取り落としかけた。同時に、維持していた光源が消えてしまう。明るさが一様になる。 

 うすぼんやりとした明るさの中で。

 空間のおぼろげな揺らぎから、人間の形をした影法師が続々と起立しだしたのだ!

 いや、人間だけではない。人間以外の動物、植物、無機物、はては異形の妖怪達までが、竹林のわずかな隙間を埋めるように、現出していく。

 その様子から、当然それらは本物の生き物などではないだろう。しかし、その姿形、質感は、本物と遜色ない。空間に拡散する鱗粉めいたきらめきがなければ、二人ともそれらが幻影であるとは気づかなかったかもしれない。

「なに、なにこれ!?」

「あ、あああ……」

 姉妹は共に気が動転した。このあまりにも異様な光景を見て、平静を保つなど、二人にはとてもできなかった。

「に、逃げよう!」

「え、ちょ、こいしっ」

 皮肉なことに、精神の動揺がもたらす衝動は、こいしの方が大きかった。こいしはさとりの手を強く握り、その場を駆けだした。さとりはもつれそうになりながらもそれに従う。

 さらなる恐怖におびえながら、さとりはどこか冷静に現状分析を行う自分に気づく。こいしはわき目もふらず前へ前へ走ろうとして、周囲が見えていない。

 さとりは、本物そっくりでありながら現実感に乏しい幻影達の様子を観察する。幻影達は、姉妹達を全く見ていない。それぞれが、それぞれにただ右往左往しているだけだ。今のところ、姉妹達に向かってくるどころか、存在を認知さえしている様子はない。

 さとりは再度、キネマのフィルムのことを思い出す。今自分達が見ている光景は、まるで過去に撮影された情景を眺めているかのようだ。

 さらに、さとりは、二ヶ月近く前に見た、アルフレッドの幻影を想起する。あれは、今見える幻影に比べるとよりおぼろげで、色も違っていたが、近い雰囲気を感じさせる。あれと、今見えているものは、同質のものなのか?

「こいし、逃げようっていってもどこへ!?」

「あ、案内人さんのところだよ! えっと、えっと……」

 こいしがばさばさと地図を開きなおそうとした、その時だ。

「あうち!」

「きゃ!?」

 慌てていたために、こいしは足下に転がっていた大きな石に気づかず、見事に足を取られた。さとりは、こいしの手に急激に引っ張られるのを反射的に回避し、結果、繋がっていた二人の手は離れてしまう。

 こいしは石につまづいたことでうつ伏せに倒れ、さとりは手が離れた反動で尻餅をついた。さとりは後ろ手を突いた姿勢になったためにほとんど痛手を受けなかったが、こいしはほとんど顔面から大の字に地面に突っ伏したため、衝撃のあまり身動きが取れなくなった。

「うぐぐ……」

「あたた……こいし、だいじょ……」

 さとりが立ち上がるよりも先に、姉妹の間をなにかおぞましい風のような気配が駆け抜けた。

 さとりは目を疑う。地面から、フィルムの早回しもかくやといわんばかりの速度で、タケノコが芽を出し、身を踊らせ、竹へと成長したかと思えば、花を咲かせていく。

 異様な成長速度に、これも幻影であると見破るのはたやすかったが、あまりにも急激に飛び出してきたために、視界が一気に遮られる。ほんの一メートルの距離にいるはずのこいしの姿さえ見えなくなった。幻の竹の生育にあわせ、さらに周囲は幻影達が姿を現していく。

「お、お姉ちゃん!」

「こいし!」

 こいしの声が聞こえるが、やはり姿は見えない。さとりは後ろ手に突いた腕に力を込めて、バネのように体を起こし、前方へ移動する。

 それと共に、花まで咲かせた竹は、さらなる速度で枯れ、朽ち果てていく。地面が再度露わになる。

 だが、先ほどこいしが転倒していたはずの場所に、彼女の姿はない。

「こいし! どこなの!?」

「おねーちゃーん!」

 こいしの声は聞こえる。しかし姿が見えない。それどころか、さとりはこの数秒、幻影の竹の出現によって、方向感覚を喪失してしまった。進むべき道も、元来た道もわからない。

「こいし!」

「おねーちゃー――ん」

 竹は、枯れた後も再度タケノコの芽を出して、節を延ばし、花を咲かせ、また枯れる。本来なら六十年はかかる一生のサイクルを、幻影はほんの数秒で上映しているのだ。それと共に、人や獣、妖の姿をした影法師もまた、現れては消えていく。

「こいしー!」

「おねーちゃー――……」

 こいしからの声が、どんどんと離れていく。さっきまであれほど近くにいたはずなのに。

「こいしぃー!!」

 さとりは、腹の底から妹の名を叫んだ。

 しかし、とうとう、こいしの声は返ってこなかった。

 

 

 阿求は、おぼつかない足取りで夜の街道を歩いていた。

 息が切れている。人里を飛び出して数秒で、阿求の体力はすぐ限界に達した。もとより、人間が全力疾走できる距離はたかがしれている。ましてや、少女の肉体であればなおさらだ。

 阿求が立ち止まって息を整えている間、犬の幻影はやや進んだところをぐるぐる回ったり、時折座るなどして、距離を保ちつつ阿求のペースにあわせているような行動を見せた。おかげで、見失うおそれはなさそうだった。

「しかし、このまま道なりに行くと竹林に行くわけで……そこに一体何が」

「シラネーヨ」

 上海人形が相づちを打つ。半自立稼働している上海人形には簡易的な応答機能がついているようだが、その返答はやけにぞんざいだ。

「まあ、貴方が答えを知っていたらそれはそれで驚きですけど」

「ダヨネー」

 阿求はそのぞんざいさを見越した上で、上海人形に話しかけつつ歩みを進めた。急ぎたいところだが、人里を飛び出してきたように再度走るのはもはや無理だし、服装の関係であまり大股にも歩けない。

 はやる気持ちを抑え、阿求は状況を整理する。わかっていることはほとんどないが、異変は今まさに起こっているのは間違いない。それがどの範囲まで及んでいるのかは定かではないが、少なくとも、人里は今ただならぬ状況のはずだ。家族や人里の住人、残してきてしまったアリスのことが心配だ。

 しかし、阿求は、自らを誘う犬のことも無視できない。今更疑いようもなく、あのレトリーバーは阿求をいずこかへ導こうとしている。何か、今の状況に関係のあるところへだ。

 そして、もう一つひっかかることがある。

 なぜそんなことを連想したのかは、阿求自身もわからないが。今阿求を先導する犬の容姿は、まるで『頼れるアルフレッド』の主人公である犬のアルフレッドを思わせる。ただでさえ、人里ではラブラドールレトリーバーのような海外の犬種を見ることはない故に、よけいにだ。

「貴方は、何を知っているの?」

 犬に……便宜上アルフレッドと呼んでも差し支えないかもしれない。それに阿求は声をかける。しかし、反応はない。ただ、阿求と一定の距離をとって、ひたすら数メートル先行するだけだ。

 そうこうしているうちに、阿求達の目の前に、異様な光景が姿を現した。

「――え?」

 阿求の視界の端に見える立て看板から、一行が竹林に到達したことがわかる。

 しかし、本来であれば、夜ということで黒い針の山を思わせるだろう竹林が、いまや、青白い鱗粉めいた明かりを放っていたのだ。

「これは――まずい」

 理屈抜きに、本能で、阿求は竹林の異常さを恐怖した。ここに立ち入ってはいけない。誰が見てもそう思うだろう雰囲気を、夜の闇に放っているのが、今の竹林なのだ。

「ヤバインジャネーノ?」

 上海人形も、警戒を示しているのか、心持ち強い音量で言葉を発した。

 一方、アルフレッドは、上半身をやや伏せて、吠えるような仕草を見せる。そして阿求達と竹林を何度か見比べると……バネのように下半身を収縮させて、一気に竹林の入り口へと突入していった。

「ええ!?」

 いきなりの行動に面食らう阿求。竹林の入り口は洞穴のようで、その内部はまっくらだ。アルフレッドの姿は一瞬で闇に飲まれた。

 流石に、その後をすぐ追随する勇気は阿求にはない。むしろ、今すぐこの場を離れて、人里に引き返すほうが賢明であろう。そう思わせるほどに、この光景は悪夢のようだった。

「……だけど」

 ならば、なぜここまできたのか? 阿求は自問する。危険を避けるのであれば、それこそ最初からアルフレッドについていく必要などなかった。

「ままよ!!」

「マジデー?」

「マジですよ!」

 阿求は、肩に止まっていた上海人形を胸元に抱きしめ、一度深呼吸する。

 そして、わき目もふらず、燐光に彩られた空虚へと突入した。

 

 めまぐるしく移り変わる、生と死のファンタスマゴリア。

 絶えず変幻する景色は、そう表現できるかもしれない。竹の一生を背景に、様々な生命の生きざまが上演されているような気がした。

 こいしとはぐれたさとりは、恐怖と寒気に震えながら、竹藪をかき分けた。こいしの声はあれからずっと聞こえない。

 視界が信用できない。瞬きの一瞬後には、周囲の光景は一変している。その上、本物の竹ととっさに区別が付かないため、どう前に進んでいいかすらわからなくなってくる。一歩踏み出したかと思ったら現実に密集した竹に衝突することは、もはや何度あったろうか。

 おかげで、厚手の上着のあちこちは擦れたり、破れたりして、顔面のガーゼはずれ、手の包帯も緩んでいる。その隙間を突くように、冷たい空気がさとりの肌を、傷口を苛んだ。

「うう……うう……」

 傷口が痛みを発する度にさとりは呻く。と同時に、その痛みと呻きが、かろうじて彼女の体を動かしているようなものだった。

 それでも、元より精神的にまいっていた状態で強行軍を続けていたさとりの肉体は、確実に疲労が蓄積し、抵抗力が落ちてきた。

 ざわり、と首筋が泡立つ。おとぎ話にでてくる竹取りの翁のような老人の影法師とすれ違った瞬間、さとりの体を支えている力はがくりと抜けていった。

「ぐっ……」

 まるで、その影法師に力を吸われたかのようだった。危うく倒れ伏すところを、体の芯が辛うじて引き戻す。視界が斜め下に落ちる。

 そこで、さとりは何かを発見した。幾度か瞬きし、幻惑の変化が及んでいないことを確かめたところで、それが何なのかが認識できた。

 地面が少し盛り上がり、さらにそこに木のうろのような穴が空いていた。何らかの動物が掘った巣か、それとも妖精の作った落とし穴の出来損ないか。今のさとりには判断がつかなかったが、ふとした思いつきで、さとりはその穴の中に転がり込んだ。

 内部は思ったよりは広く、彼女一人が身を縮こませて入る分には問題なかった。奥にまで入り込んださとりは、箱に押し込められるように体を丸める。

 幻影は、穴の中にまでは入ってこないようだった。動く必要がなくなったと判断したさとりは、深く息を吐いた。

 だが同時に、わずかながらも体を持ち上げようとしていた気力も弛緩していき、途端に破滅的な不安感がさとりを押しつぶしにかかった。

「やだ……もうやだよぅ……」

 もはや、壊れかけた精神をつなぎ止めるようなエネルギーは、さとりには残されていない。ただ、じんわりと、粉砕されていくのみだった。

 唯一彼女を支えていた、妹のこいしとも、はぐれてしまった。今のさとりに、こいしの無事を祈れる楽観性は、存在し得ない。

 何故、こんなことになってしまったのか。これも、いき過ぎた望みを抱いて失敗した末の罰なのか?

 もういっそ、今まで見てきたような影法師と同じような存在になれば、どんなに楽だろう。地霊殿で見た、昔死んだペット達の姿は、生前と変わらず生き生きとしていた。きっと、あらゆる苦しみから解放されているに違いない。

 心を読む必要もなくなり、恐れられることもなくなる。何も感じず、何にも煩わされず、ただぼんやりと漂うことができれば――それはどんなに素敵なことだろう。

 ならば、どうすればいいか。おそらく簡単なことだ。たった一つのシンプルな答え。

 それは、自らを、死――。

「ナンカ、ミツケター」

「――?」

 今や遠ざかったこいしの声、そして竹を揺らす風のささやきとは違う音を、久々に聞いた気がする。

 次に目に飛び込んできたのは、妖しげな燐光をかき消す強い明かり。さとりは眩しさのあまり目を堅く閉じた。

「どうしました?」

 また別の声だ。先ほどの抑揚のない音声とは違う、確かな人間の声。

 さとりは、その声に聞き覚えがあった。それと共に、唐突と第三の目に押し寄せてくる情報量。

 穴の内部を照らす光が、少し遮られた。何者かが穴の中をのぞき込んだようだった。

 さとりは、閉じた眼を開いて、穴の入り口を見やる。

『あっ』

 侵入者と目が合う。瞬間、視線を重ねた二人は、お互いに呆気にとられたような顔だった。

 光を放つ人形を掲げて、のぞき込むのは、紅顔の少女。

 名は、稗田阿求。あの日以来、さとりは片時も、この少女の顔を忘れることはなかった。

 

「な、なんでここに――」

 阿求は、唖然とした表情で、穴の中にうずくまるさとりを見下ろした。あまりにも唐突で、意外で、脈略のない展開。

 阿求と上海人形は先行したアルフレッドを見失ったままに竹林を突き進んでいた。そして、竹林の異変の様子を悪夢そのもののように見ることとなった。

 急激に変化する道に対して、阿求は、変化していない地面と己の記憶を照合しながら、ある道を進んだ。阿求は一旦、竹林の案内人をしている藤原妹紅の住まいに赴き、彼女の無事を確認し、そして助力を請おうと考えたのだ。

 だがその途中、再度アルフレッドが姿を現した。もう何度かわからない逡巡の果てにアルフレッドを追うことを優先した阿求は、その行く末で、こうしてさとりを発見することになった。

 もしやアルフレッドは、さとりの存在を知らせたかったのか? その思いつきを立証する手だてはない。

 そして、今のこのような状況の竹林の中で、まごまごしている意味などない。

(詳しい事情は後、後!)

「さとりさん! 早くここから出ましょう!」

「え、う……」

 さとりもまた、出来すぎた運命の巡り合わせに唖然としていた。それと同時に、阿求が自分を見ても恐れを抱く様子がないことに驚く。この異常状況で、感覚が振り切れているのだろうか。

 だが、しかし、やはり、彼女から発せられる圧倒的な記憶の量が、さとりに大きく立ちはだかる。あの日の決裂を思い出し、さとりの身はすくんでしまう。

「う……いや……」

「でも、ここにい続けるのはよくないですよ!」

「いやよ……いや……私に、かまわないで……」

 そのかすれ声が、阿求の心を軋ませた。

 紫から教えてもらったことだ。さとりにとっては、阿求こそが恐怖の対象たりうるのだと。今、こうして近づいているだけで、さとりに害をなしているようなものなのだ。

(……だから、だからって!)

 阿求は、上海人形を手からリリースする。空いた片手で穴の縁をつかみ、そしてもう片方の手を、穴の中のさとりへと差し出した。さとりの目の前に迫る、細い手。さとりは、怯えながらも、その手をまじまじと眺める。

「動けないのであれば、私が引っ張りますから!」〔ここで見逃したら……〕

 おびただしい記憶の海の中から、今さとりが見つめるこの手のひらのように、突き出てくる感情を、さとりは感じた。

「道案内も私がします……だから、私と一緒にここを出ましょう!」〔謝ることさえできないじゃない!〕

「!」

 強い感情が、文字通り、さとりの胸を打った。

 今まで、おびえのあまり膠着し、萎縮していた体はどうしたのだろう。さとりは、反射的に阿求の手を掴んだ!

「せー、の!」

 掘り返された後らしい軟弱な地盤と、半身を傾かせた姿勢。このような無理な体勢での力仕事の経験など、阿求にはない。ただがむしゃらに、全身の力を総動員して、背中に上海人形の助力を受け、さとりを穴から引き吊り出した。

 ただ、実際のところ、阿求の力の牽引はスターターの役割のみであり、後のほとんどは、さとりの力によるものだった。

 加減もわからず引っ張ったため、阿求はさとりの体が地上に出てきた瞬間、危うく後頭部を地面に打ってしまいかねないほど、大きく尻餅をついた。背中を引っ張っていた上海人形は、間一髪で離脱して、下敷きを免れた。

「はぁ、はぁ……」

「だ、だいじょうぶ……?」

 大きく息を切らす阿求が心配になり、先に立ち上がったさとりは声をかけた。

「あ、はい、なんとか。や、やはり肉体労働には向いてないです……あいた!?」

 どうにか立ち上がろうとして、阿求は顔をしかめた。

「ドシター?」

「うう……転んだ瞬間に片足をひねっちゃったみたいです……どうしてこんなときに」

 阿求は慎重に己の足を動かし、そして再度痛みに顔をゆがませた。引っ張る際の軸足になっていた左の足首が、焼けるように熱かった。見かけはなんともないが、体を揺り動かすだけで痛みを覚えるところから、かなり悪い方向に挫いてしまったようだ。

「わ、私が肩を貸すから、落ち着いて……ああ、でも、こいしが……」

「す、すいませんがたのみま……って、こいしさん?」

「こいしに、お医者さんに行くってつれてこられて、でも、はぐれてしまって……ああ、こいし……」

 医者、というと永遠亭のことであろう。阿求は対面時からさとりの顔面がガーゼで覆われていたことが気になっていたが、何かすぐに治らない怪我や病気にでもかかったのだろうか?

「まずいですね……しかし、ただでさえ竹林の中で、さらにこんな状況では、探すどころか闇雲に動くだけでもドツボにはまるだけです。一旦、案内人である藤原さんのところへ……」

「オ、オイ……」

 棒読みであるはずの上海人形の声が、どこか焦燥をはらんでいた。阿求は、何事かと上海人形を見上げると、ある一点を見ていた。

 そうして、上海人形の向く方向に視線を移す。

 未だ絶え間なく動き続ける竹林の幻影、その間隙の闇から、何かがこちらに向かってくる。

 うすぼんやりした燐光でそれらがはっきりしてくるころになって、阿求とさとりは、共に全身に鳥肌を立てた。

 いうなれば、それは亡者の行進。様々な時代、様々な風貌の人間、動物、妖怪達が、緩慢だが威圧的な蠢きでもって、確実に進行してきている。その向かう先に自分達がいるということを、阿求も、さとりも、説明されずとも理解した。

「……ヤバインジャネーノ」

「に、逃げなきゃ……って! あの妖しげな集団、私たちが来た道から来てるし!」

 阿求は、唯一記憶があてになる、地面の形を眺めて、悲鳴を上げた。亡者の列がやってきている方角は、阿求と上海人形がここまできた道であり、同時に、藤原妹紅の住まいの方角でもある。

 妹紅に会うためには、どうにかしてあの明らかに危険な一群を避けていかねばならない。しかし、迂回しようにも、周囲の竹林は虚と実が入り交じり、まともに動けるとは思えない。

「ウツトウゴク!」

 上海人形は警告のために、幻影の集団に向けてレーザーを発射した。スペクトル分解された可視光線の帯が集団を撫でる……ことはなく、なんの相互作用を及ぼすこともなく透過していった。そして、集団は少しも揺るぐことなく、行軍を止めない。

「キカナイノー……」

「アリスさんの魔法がきかないんじゃ……あれは本当に、幽霊でも亡霊でもない、幻……」

 阿求は青ざめる。火力で突破は不可能。目前に迫る集団が、幻だと理解していても、その中を突き抜けていく勇気はない。なにせ、集団の中には竹を割るための鉈を手にする者や、獰猛な牙や爪をむき出しにしている者もいる。

 じりじりと、距離は縮んでいく。このままでは、幻覚に飲み込まれる。退路は別の方角しかない。だが、阿求は足の捻挫で立つのも難しい。さとりは、立ちすくんだままだ。

「さとりさん、逃げて……」

「……」

 痛みをこらえながら、阿求は必死に体を起こすと共に、這って少しでも集団と距離を取ろうとする。その移動速度は、牛歩に劣る。いづれ追い付かれるのは必定だ。

「ガンバレー、ガンバレー」

 上海人形が、阿求の袖口を引っ張って補助する。しかし勿論、小さな人形の力だけで人間一人を動かすのは無理だ。

 どうする、どうする、どうする?

 あの亡者達に捕まったらどうなるか? わからないが、そうなってしまったら手遅れだと、本能が告げる。理屈を持ち出す暇もない。

 それは、さとりにもわかっているはずだ。

 なのに、何故動かない? 阿求は、焦燥しながら訝る。さとり一人ならば逃げるのはたやすいだろうに……。

 ふと、そんな訝る阿求の手を、さとりの包帯だらけの手が握った。奇しくも、先ほど阿求がさとりを穴の中から引き上げた時の手だ。

 次の瞬間、阿求は重力の反転を感じた。

「うわぁ!?」

 めまぐるしく光景が回転する。その変化が止まると、阿求が見上げる先に、ガーゼに覆われたさとりの顔があった。

「……阿求さん、あの亡者達が来てる方角へ行けばよいのね?」

「え? あ、はい……」

 思わず、阿求は返答する。さとりは首肯を返すと、上海人形を阿求の胸元に寄せた。

「お人形さんを、しっかり持っていて」

「ナ、ナニヲスルダー?」

 一拍を置いて、阿求は気づいた。

 今、自分はさとりにお姫様だっこで抱えられている。

 どうしてだ、と考えるより先に、阿求はさらなる重力の変動にさらされた!

「わぁぁぁぁぁあ!?」

 飛んだ。さとりは阿求と上海人形を抱きかかえながら、一蹴りで亡者の集団の上空へと跳躍したのだ!

 そして、その初速を維持したまま、さとりは変幻する竹林の空を飛翔。集団の最後尾を見いだすと、そこからさらに後方数メートル地点まで距離を取り、着地した。

 その間、一秒もかからず。阿求が一呼吸どころか、瞬き一回を終えるより速かった。おかげで、阿求の目には、急激に変転した景色の残光が焼き付き、目眩が生じる。

「あう、あう……」

「ごめんなさい、少しの間、我慢していて」

 今の運動が、人間には堪えるか。さとりは阿求の様子を見て思い知る。

 しかし、躊躇をしている暇はなかった。一刻一秒でも速く、ここから抜け出さなくてはならない。

「阿求さん、こっちを真っ直ぐね」

「は、はい。地面の形に間違いはないです……」

 さとりは、少し抱え方を変え、阿求が地面を見られるような体勢がとれるようにする。

「貴方は地面だけを見ていて」

「わ、わかり……ひゃああ!?」

 亡者の行列は反転し、さとり達の背後に迫る。

 しかし、距離を縮められるよりも前に、さとりは駆けだした。その速度は、先ほどの跳躍より抑えられているが、それでも周囲の光景が走馬燈めくほどには速い。

 ……稗田阿求は知らない。というより想像したこともなかった。この、自分と大して体格の変わらない少女が、天狗のカメラのシャッターチャンスから逃れられるほどの瞬発力を有していることを。

 確かに、古明地さとりは身体能力を駆使するタイプではない。彼女自身も、自分の本領はあくまでも相手の精神を読みとり、知略でもって心理的優位に立つことであると考えている。

 しかし、腐っても妖怪だ。鬼や天狗、吸血鬼といったトップランカーには勿論及ぶべくもないが、それでも、その身体能力は人間を遙かに超える。人間一人を抱えて全力疾走する程度、造作もない。

 さらに、彼女は他者のトラウマを増幅して再現できる。それを展開するための妖力は並大抵のものではなく、彼女の流儀ではないにしろ、正面からの弾の撃ち合いになった場合でも、そうそうひけは取らないだろう。

 古明地さとりの本当の恐ろしさとは、『心を読める』ことではない。

 『心を読める』という能力を最大限に活用できる、知性と素養を兼ね備えているという『事実』なのだ。

 さとりは、己の中に散り散りになった、力と意志をかき集め、走る。

 道案内は阿求に任せる。彼女が地面を認識し、正しいルートを導き出すのを、こちらで読みとればよい。

 勿論、阿求の心を読もうとすれば、さとりにとって大きな負担となるが、それも承知の上だ。余計な情報を受け取ってしまうこともあるだろう。そのため、さとりは阿求の意識を地面に誘導させ、少しでもピンポイントで情報を引き出させる。

 後は、ひたすら走るだけだ。今のこの悪夢のような世界から抜け出すために。

 懸念もある。妹のこいしのことだ。心配で心配でたまらない。

 だが、妹は強い子だと、さとりは信じていた。無意識の力でもって、上手く立ち回ってくれると。信頼と、ある種の願いを込めながら、さとりは妹の無事を信じることにした。

 だから、一念の元に走る。今この手が抱える少女を助けるという意志でもって。

 確かにさとりは、この少女の心を見たが故に傷ついた。だが、今自分が、空元気ででも立ち上がっていられるのも、この少女の想いを垣間見たからだ。

(……守ってみせる、絶対に!)

 なにもかもが、元に戻らなかったとしても。

 今、確かにここにあるものだけは、救い出したい。

 祈りにも似た心地で、さとりは、阿求と共に、生と死のファンタスマゴリアを駆け抜けるのだった。


 
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