No.527961

アキオ・トライシクル ‐ 2

好美とテルミと生活を始めた彰夫。ふたりの心に触れ合い、時に争いながら、ふたりの奥底にある唯一無二のものを見出していく。好美とテルミと彰夫の心は、いったいどこへ行くのか…。

2013-01-05 06:47:43 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:392   閲覧ユーザー数:392

 女子美の相模原キャンパスにある「女子美アートミュージアム」は、女子美術大学出身の著名な作家や、女子美術大学にゆかりの深い美術家の作品を中心に収集された常設展示があり、特に染織品は古代から現代までの世界の染織品を網羅した国内最大級のコレクションがあることで知られている。企画展示では、期間を区切って学生や教員作品の展示がおこなわれ、好美の参加する作品展はこの会場で開催されている。

 彰夫は、アートミュージアムに入ると、まず好美の作品に直行した。誰に会う前に、まずひとりで好美の作品に触れてみたかった。心理学の世界では、描画は大きく分けると、心理検査と心理療法のふたつの処置として用いられる。彰夫は好美の作品をアートとしてではなく、心理検査の目で観察したかったのだ。

 実際の心理検査では、テーマを設けて描いてもらう方法がよく用いられる。そのテーマにはさまざま種類があり、「人物画」「風景構成法」などは良く使用されるテーマだ。その描かれた絵の中に、心の中にしまってあることが表れることが多い。

 例えば子供の例で、口のない人が描かれている場合、自分の弱さや甘えたい気持ちを充分に表すことができなくて、自分の中に閉じこめてしまっていることが考えられる。また、腕のない人が描かれている場合、大人や親から受ける精神的、肉体的な力に大きな不安を抱いていることが考えられる。

 変った例では「雨の中の自分」を描いてもらうという方法もあり、非行少年などは傘をささずにずぶ濡れになっている絵を描く傾向がある。確かに、『自分が何かに守られている』という感覚がなければ、傘は描けないのかもしれない。

 今回はテーマを持って好美に描いてもらったわけではないので、その解読は相当難しいはずだ。はたして好美の作品を見つけた彰夫は、作品の前で立ちすくんでしまった。解読の助けになる具象的なものはなにも描かれていない。ポロック、デ・クーニング、デュビュッフェ。それらの作家を彷彿とさせるような抽象的な絵なのだ。その色と筆致は情熱的で、挑発的で、抒情的で、内省的で、外交的で…。まったくわからん。大学でもっと真剣に勉強しておけばよかった。呆然と眺めていると、やがてその絵全体から発する美しさが、無条件に彰夫の眼底を愛撫しはじめた。鑑賞者になってはいかん。観察者の眼を取り戻さなければ。彰夫は頭を振って気持ちを入れ替えると、家で解析するために、好美の絵がもっている特徴的な部分を片っ端からメモした。

 

「あの…。」

 彰夫は背後から声を掛けられて、メモ作業の手を止めた。振り返ると、そこに好美がいた。

「もういらしてたんですね。声をかけて頂ければよかったのに…。」

 そう言いながらほんのり赤らめる好美の顔を見ると、今日はうっすらお化粧をしているようだった。際立つ鼻筋と濡れた唇。愛らしく跳ねたまつ毛は、こんなにも長かったことに今まで気付かなかった。服の雰囲気も、過去会った時とちがった印象を受ける。今日のために、お化粧やおしゃれをして来たのか。

「すみません。早く好美さんの作品を見たかったもので…。」

「画商でもないのに、必死にメモしながら絵を観賞する人を始めてみました。」

「ああ、これは…。」

 彰夫はメモを慌ててポケットにしまった。

「何をメモしていたんですか?私の作品の批評?」

「いや…、絵のことじゃないんです。急に晩飯のレシピを思いついちゃって…。」

 好美は探るような眼で彰夫を見つめた。嘘を見透かされる狼狽というよりは、長く好美に見つめられることへの狼狽で、彰夫の顔が上気した。彰夫の口が勝手に動きだした。

「僕は美術の知識など無いですから、批評なんてとんでもないです。何を描こうとしているのか、何が描かれているかなんて、まったく理解できません。ただ…、こんな自分でもひとつだけはっきりと言えることがあります。好美さんの作品は無条件に美しいと思いました。この絵を見て、あらためて好美さんを好きになった理由がわかりました。」

 しまった!心の奥底に鍵を掛けてしまっておいたはずの気持ちが、思わず口からこぼれ出た。彰夫はおそるおそる好美の様子を伺った。見ると、好美は口に手をあててうつむいたまま動かない。そして、わずかに震え始めた。目に涙が溢れていた。

「ごめんなさい…。好美さん、許して下さい。変なこと口走っちゃって…。」

 それでも、好美の涙は止まらない。内向的な好美の性質を考えると、たいしたつきあいもないのに突然コクルなんて、明らかに失態だった。

「ごめんなさい。こんなことを突然言われることが、好美さんが嫌いなのは良くわかっていたつもりなのに。なんと謝ったらいいか…。」

 彰夫は自らの軽率さを後悔して視線を床に落とした。

「本当にごめんなさい。気分を害したでしょう。出直してきます。」

 頭を下げて、アートミュージアムを立ち去ろうした彰夫は、自分のジャケットの袖が引かれるのを感じた。

「約束したでしょう。ご案内はまだ終わってません。」

 振り返って見ると、好美は涙の代わりに、かよわい微笑みを顔に浮かべていた。

 自分の失言が許されたのかと安心した彰夫は、好美について作品展を見て回った。失言に懲りた彰夫は、今度は下手なことをしゃべらずに、良い聞き役になろうと心掛けた。好美は静かに、しかし雄弁に解説してくれた。そして、彼女の案内は作品展だけでなく美術大学のあちこちの施設まで及んだ。歩いているうちに、自然と好美の手が彰夫の手を求めてきた。大学の構内を、手をつないで歩いているうちに、彰夫は周りの学生たちが、驚きと好奇の目でふたりを見ている事に気づいた。そして、学生ラウンジで仲良くコーヒーを飲んでいる時に、ふたりに集まる視線の先を探り、彰夫はようやく理解することができた。それは彰夫に対するものではなく、好美が男と楽しく時をすごしている事への驚きと関心なのだ。

 

 彰夫が自宅でメモと心理学書を見比べながら、好美の絵の解釈に奮闘していると、携帯が鳴った。着信表示を見て警戒する。好美なのか、テルミなのか。

「もしもし…。」

 返事が無かった。もう一度呼びかけて、返事を待った。返事が無い代わりに、激しい息遣いと嘔吐で喉が鳴る音がする。彰夫は電話を切ると、自宅を飛び出して入った。

 

 松風マンションの彼女の部屋には鍵が掛ってなかった。部屋に飛び込んでみると、汚物にまみれて、彼女が床の上をのたうちまわっている。好美なのか、テルミなのか。彰夫は彼女の肩に腕をまわして半身を起した。息も絶え絶えに彼女が彰夫に訴えてきた。

「胃が、死にそうに痛い…。」

 瞳が黒かった。テルミだ。

「テルミ、何があったんだ?」

 テルミは身もだえするだけで答えない。あたりを見回すと、空の日本酒の一升瓶が転がっていた。急性アルコール中毒? 今は嘔吐を伴う泥酔期で、このまま血中アルコール濃度が上昇し続けるようなら昏睡期に入り、呼吸機能や心拍機能の停止に至るかもしれない。彰夫は、即座に救急車を呼んだ。そして、テルミを嘔吐物の窒息から守るために、体と頭を横向きにして寝かせた。いわゆる回復体位と呼ばれる体位だ。

「なんでこんなに飲んだんだ。」

 叫ぶ彰夫に、テルミが悶えながら、絞るような声でうわごとを言った。

「もともと…男に電話して誘うなんて…出来る女じゃなかったのに…。」

 そこまで言うと、テルミの意識が落ちた。いよいよ昏睡期に入ったのだ。彰夫はテルミを抱え呼吸と心拍を頻繁にチェックした。救急車はなにぐずぐずしているんだ。彰夫は床を拳で叩きながら叫んだ。しばらくすると、かすかであるが救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

 

 彰夫は長い時間、病室のベッドに付き添っていた。テルミが、今は血中アルコール濃度も低下し、深い眠りについている。生体モニターから発せられる規則的な電子音が、テルミの無事を知らせているようで嬉しかった。

 彰夫は、さっきからずっとテルミの寝顔を見つめている。いや人格が現れていない寝顔は、テルミなのか好美なのかわからなくなっていた。よくよくみればひとつの顔だ。しかし、同じ人間の顔なのに、人格が現れると、こんなにも顔と印象が変わるのかと、あらためて驚かざるを得ない。ふたりは肌の色も眼の色も違って見える。いや、そんなディテールはどうでもいい。絶対的な存在が別個のものとしか思えない。昨夜は、明らかにテルミが泥酔していた。もともと良く飲むテルミだが、昨夜は異常な速さで、大量の酒を飲んだようようだ。それは、何かのストレスを発散させるとか、忘れるとかの為ではないように思える。

 深いため息とともに、彼女がうっすらと目を開けた。覗いた瞳の色はグレーだった。好美は、じっとベッドサイドに居る彰夫を見つめる。ボケている画像の焦点を合わせているようだった。

「彰夫さん?」

 慌てて身体を起こそうとする好美を、彰夫は止めた。

「大丈夫、ここは病院だよ。好美さんはもう回復に向かっているから…。」

「どうして私が病院に?なぜ彰夫さんがそばに居るの?」

「ゆうべ具合が悪くなって、好美さんが電話してきたんだよ。憶えてないかい?」

 好美は困ったように首をふった。彰夫は、好美の手を優しく握りながら言葉を続けた。

「こんなふうに記憶が飛ぶなんて、よくあることなのかな?」

 彰夫の問いに、好美は顔を背けてしまった。

「ああ、変なこと聞いてごめんね。無理に話さなくてもいいよ。今は身体の回復だけ考えよう。お水でも飲むかい?」

 そう言って、ミネラルウォーターを取りに行こうとすると、好美は握っていた手に力を入れて、彰夫が自分のそばから離れるのを嫌った。

「確かに、記憶が無くなることが…たびたびあるんです。」

 彰夫は座りなおして、好美の言葉を待った。好美は慎重に言葉を選んでいるようだった。

「…そんな女なんて、気持ち悪いですよね。」

「そんなことは二度と言わないって約束して。」

 彰夫は好美の弱気な発言に反射的に返事を返した。その素早い反応と手を握り返してくる彰夫の力に勇気を得て、好美は話を続けた。

「気がつくと部屋が散らかっていたり、自分のものじゃないものが置いてあったり…。誰かがいたみたいで…。それでも、今まではわたしの身体に、なにも危害なんてありませんでした。」

 好美は、点滴の管が繋がる腕を眺めながら言った。

「病院で目が覚めるなんて、初めてです。私怖い…。」

 彰夫は好美のベッドに腰掛けると、好美の震える肩を抱いた。好美は、怯える小鳥が母の羽根の中に逃げ込むように、彰夫の腕の中に身を預けた。

 昨夜のテルミの飲み方は、あまりにも攻撃的だった。それにあのうわごと。あれは明らかに作品展に自分を誘った好美の事を言っているに違いない。理由はわからないが、ついに交代人格が基本人格と衝突を始めたのか。それって、人格統合の前兆か?それとも破たんの前兆なのか…。もっと、勉強しなければならないことが沢山ある。いろいろ思い悩む彰夫だったが、しかし彼の心にも、ひとつだけ明解な解があった。いずれにしろ、テルミの攻撃から、基本人格の好美を守らなければならない。理屈抜きの意思だった。なぜ?どうして自分が?今まで何事を決めるにも常に自分の指標となっていたはずの消去法が、いつのまにか隅に追いやられ、どうしても自分がやらなければならないと直感していた。つまりこれが、日頃彼が一番恐れていたはずの衝動なのである。

「突拍子もないことを言うけど、驚かないでください。」

 彰夫は好美の肩を抱く腕を解かずに言葉を続けた。

「好美さん、一緒に暮さないか。もちろん恋人としての同棲じゃなくていいんだ。友達としてのルームシェアと考えて欲しい。出会ったばかりの男と暮らすなんて、とんでもないかもしれないけど、信じてもらえないかもしれないけど…。」

 それ以上の言葉は必要が無かった。彰夫の腕の中で、好美が何度もうなずいていたのだ。

 

 彰夫の動きは迅速だった。不動産屋の情報網を総動員して、ふたりが住む部屋をすぐさま探し出した。好美が好きな海の見えるベランダがあり、キッチンとバスルームはひとつでも、鍵のかかる寝室が2部屋あるマンション。好美が退院すると、ふたりはすぐにその部屋に引っ越したのだ。

「はい、これが玄関のカギと寝室のカギ。僕の部屋は鍵を付けないから、不安な時はいつでも入ってきていいからね。」

 にこにこして鍵を受け取った好美は、彰夫との暮らしが嬉しくて仕方がないようだった。大学から帰って来ると、早めに仕事から帰って来た彰夫が、キッチンで鍋の湯気に包まれて夕食の準備をしている。寝室での創作活動で喉が渇き、リビングへ出ると彰夫が読書をしている。寝坊して起きると、キッチンのテーブルにメモとともに朝食が準備してある朝もあった。彰夫が待つ部屋に帰り、彰夫とともに時を過ごし、毎朝彰夫の存在を感じる。ひとりきりで味気ない、今までの生活が一変した。

 好美はそれでいいのだが、テルミはそうはいかなかった。一緒に暮らして初めてテルミが現れた晩、『なんで私がアンタと暮らなきゃならないのよ。』と叫びながら、部屋中のモノを彰夫に投げつけた。ぶつけられてあちこち絆創膏だらけになった彰夫だが、常に冷蔵庫に冷酒を欠かさないことを条件に、なんとかテルミをなだめすかした。

 彰夫は、毎日の同室の生活の中で、好美とテルミの生活をできるだけ干渉しないようにしながら、彼女たちの観察を始めた。どんな時にテルミが出現するのか、克明に記録した。テルミが毎晩現れることはない。3日か4日に一夜ぐらいの出現率だ。よほどの事件が無い限り、人格交代に明解な動機があるわけでもないようだ。その出現のあり方は、『ししおどし』に少しずつ水が溜まり、やがて傾いて岩を叩くのに似ていると思った。

 好美は美大に行く以外は、あまり外出しない。外出しても外での活動は安心して見てられるのだが、テルミはそういうわけにはいかない。仕事に行くのだとわかっていても、テルミが何も言わず大きなドアの音を立てて出て行った夜は、後を追っかけて連れ戻したい衝動に駆られる。自分と起きたことを考えると、あまりにも奔放で自己中心的なテルミの言動が彰夫を落ち着かなくさせるのだ。外では、お客や男友達とどういうつき合いをしているのだろう。男漁りでもしているのだろうか。恥ずかしがる好美から苦労して聞き出した話では、目が覚めたらベッドに知らない男がいたなどということは過去には無かったようだ。男を自分の部屋に連れ込むようなことはしないようだが、では、自分の時はいったい何だったのだろうか。幸いにもベッドの下に落ちていたので好美に気付かれなかったが、あの時目覚めた彼女が自分を発見していたらどうなっていただろうか。テルミが男と寝ると言うことは、肉体的には好美が寝ているのと一緒になる。考えれば複雑な心境だ。とにかく彰夫は、テルミを縛り上げて自分そばに置いておきたかったのだが、無理に彼女の行動を規制したり強要したりしたら、好美に何をしでかすかわからない。そう考えてじっと我慢しながらも、やはり帰って来るまで心配で寝られなかった。

 彰夫がまず知りたかったのは、テルミが好美をどれだけ認知しているのかだった。テルミが好美に抵抗するとか攻撃するとかがあるとすれば、それは相手を認知していることが前提だ。その認知の度合いによって、彰夫の対応の仕方も考えなければならなかった。

 彰夫は何とか話を聞き出そうと、ある夜寝ずにテルミの帰宅を待っていた。いつも通りに酔って帰って来たテルミは、リビングで待ち構えた彰夫にあからさまな警戒を示す。

「なによ…。そこで何してるの。」

「そんな怖い顔するなよ…。寝られないんだ。少しおしゃべりしない?」

「彰夫と話すことなんかないわ。そんなことより、セックスしよう。あたしもご無沙汰だし、彰夫もよく寝られるわよ…。」

「いや…そうじゃなくて。」

「彰夫が嫌なら、他の男と寝るわ。」

「そ、そんな脅しを…言うな。」

「あら、あたしが他の男と寝るのが嫌なの?」

「ああ、絶対に嫌だ。」

「それでも、あたしとセックスするが嫌なの?」

「脅されてするなんて、まっぴらだ。」

「あの女とだったらやりたい?」

「それは…。」

 彰夫は答えようがなく、慌てて話題を切り替えた。

「テルミ、あの女のことをどこまで知ってるんだ?」

「ぜんぜん知らないわよ。」

「この前、急性アルコール中毒で倒れた時、うわごとであの女のこと言ってたじゃないか。」

「言うわけないでしょ。」

 テルミは、吐き捨てるように言うと自分の部屋に入り、荒々しくドアを閉めてしまった。

 

 テルミが自分の寝室に入ってしまえば、彰夫もリビングに居ても仕方がない。ベッドに横になり睡眠を取ろうと試みたが、いろいろな考えが頭を巡った。今日の対話は失敗だった。次回にテルミが現れるまで対話はお預けだ。今日はまったく知らないとシラを切られてしまったが、そんなはずがあるわけ無い。テルミ相手にどう対話を誘導したら、拒否されずに、求める答えが引き出せるのか…。やはり、苦手な酒を飲み交わしながら話すしかないのか。そんなこと考えているうちに、ますます頭が冴えて、なかなか寝付けなくなっていた。ふと、ドアをたたくかすかな音に気づいた。

「はい?」

「彰夫さん、まだ起きてますか。」

 声のトーンが、好美だった。

「ええ、どうしました?」

 彰夫がドアを開けた。好美が、パジャマ姿で立っていた。

「自分の部屋に…誰か居るみたいな物音がして…で目が覚めてしまって…そしたら、なんか怖くなって…」

 怒ったテルミが好美に、また何か悪さをしたのだろうか。好美がまた小鳥のように震えていた。

「温かいココアでも作りましょうか?」

「いえ…ただ怖くて…。」

 好美が消え入りそうな声で言葉を続けた。

「彰夫さんのベッドで…一緒に寝てもいいですか?」

「一緒って…。」

 戸惑う彰夫に、好美が顔を赤くした。しかし、顔を赤らめながらも、肩の震えが止まらない。よっぽど怖い思いをしたのだろう。

「ごめんなさい。変なことお願いして…。やっぱり…。」

「それで好美さんが安心できるなら、僕はかまいませんよ。」

 彰夫は、絶対に手を出さないぞという固い決意を持って、自分のベッドに好美を迎え入れた。しかし、迎え入れた瞬間に後悔する。当然なのかもしれないが、好美はパジャマの下に何もつけていない。そんな彼女を直接肌で感じると、その暖かさと柔らかさに溺れそうになった。好美が発する香りとオーラで理性を失いそうになった。ベッドに入ってきた好美は、彰夫の腕の中で小さく震えていた。やがて、好美が彰夫にしがみつく力を強めると、ゆっくりと彰夫の唇を求めてきた。好美の濡れた唇が触れた瞬間、彰夫は押さえていた理性の堰がついに壊れ、好美を強く抱きしめた。好美は長年待っていた恋人にやっと出会えたかのように彰夫を受入れ、そしてふたりは激しく燃えた。

 

 朝、彰夫が目を覚ますと、ベッドに好美は居なかった。時計を見ると、すこし寝坊したようだが、ゆうべの至福を考えると慌てて家を出る気にはなれない。部屋を出ると、好美がキッチンで朝食を作っている。コーヒーが、いい香りで彰夫を迎えてくれた。彰夫は好美の顔を見るのがちょっと照れ臭かった。

「おはようごさいます。」

 そう言いながら、笑顔の好美が、コーヒーカップを手渡してくれた。受け取る時に、好美の手が彰夫の手に触れた。彼女の肌の柔らかさと温かさが、昨夜のふたりを思い起こさせてくれた。彰夫は今夜から寝室はひとつでもいいかもしれないと、ひとりでニヤケながら考えていた。

「ゆうべはリビングで、遅くまで宅建試験のお勉強していたんですね。」

 グレーの瞳を朝日に輝かせながら好美が言った。

「わたし先に寝てしまって、ごめんなさい。」

 彰夫はその言葉に呆然として、返事を返すことができなかった。好美は何事もなかったように、キッチンで朝食を準備している。昨日と変わらぬ朝なのか?そう言えば、ゆうべは部屋が暗くてベッドに入ってきた好美の眼の色を確認できなかった。

『やりやがったな、テルミのやつ…。』

 あんなに上手く好美を真似るなんて…。結局テルミは好美のすべてを知っているということなのだろうか。

 

「オイちゃん、このあたりでいいわ。」

「折角だから家の前まで送るよ。」

 今夜も克彦は閉店までキャバクラで遊び続け、今日の送りオオカミの獲物は、テルミだった。しかしながらこのオオカミは、過去に百人近くキャバ嬢を送っているのだが、今まで実際に目的を果たしたことは一度もない。信子との家庭を壊したくない克彦は、常に『あわよくば』のレベルでキャバ嬢を送っており、『ひょっとしたら』の楽しさだけで、ある意味十分であったのだ。しかし、テルミには違った。彼女の群を抜いた容姿の美しさもさることながら、その気まぐれ度やフェロモン濃度がまさに愛人として理想の女性だったのだ。信子との信頼関係に、多少の危険を犯しても、より親密になりたい女性だった。

 彰夫と店に来たあの夜以来、克彦はテルミを目指して通い続けた。テルミは気まぐれ出勤で、不定期に週に1、2回しか出勤してこないので、当然克彦が店に行っても、彼女が居ないことが多い。そのたびごとにマネージャにクレームを言って暴れる克彦だったが、それでも店で会えた時は、そんなことも忘れてテルミに貢ぎ続けた。そして閉店まで居座ると、必ず送っていくとテルミに持ちかける。断られ、断られ続けたある日、唐突にテルミの方から送ってくれとせがまれた。克彦の熱意に負けたと言うよりは、別の事情があるようだったが、克彦はそんなことはまったく気にならなかった。

 キャバ嬢とのつき合いに慣れている克彦は、送りのルールを熟知していた。初めての送りとなる今夜、彼女の私生活事情もわからないのに、いきなり彼女の部屋に押し入ろうしても無理なことはよくわかっていた。今夜の目指すべき成果点は、彼女の住んでいるマンションと部屋を特定することで十分だ。そこをヒントとして、ゆっくり彼女のプライベートを探ればいい。

「オイちゃん、ホントにここでいいから。」

「そうか、じゃぁ、気をつけて帰れよ。」

 テルミは、酔いでふらつく足でタクシーから降りる。克彦の乗るタクシーに振りかえると、軽く敬礼をして、マンションの方に歩いて行った。

「運転手さん、少し前に出て、止まってくれる。」

 克彦はそうドライバーに指示すると、ポケットからオペラグラスを取り出し、後部座席の窓からテルミの姿を追った。テルミは、ふらふら歩きながらマンションの入り口に到達するが、その場で座り込んでしまい中に入って行こうとしない。バッグから携帯を取り出すと誰かに電話をしているようだった。

『あーん?こんな時間に誰に電話してるんだ?』

 克彦はオペラグラスで、さらにテルミを見守った。

 やがて、マンションの入り口から男が出てきた。男はテルミと何か言い争っているようだったが、結局バッグを受取り座り込むテルミを背負った。

『ああ、やっぱり男と暮らしてるのか…。』

 おぶられたテルミは、はしゃぎながら男の片耳を引っ張り、男は痛さのあまり引かれる方向にひと回りせざるを得なかった。こちらを向いた男の痛そうな顔を見て克彦は愕然とする。その男は彰夫だった。彰夫はテルミにおもちゃにされながら、ようやくマンションの入口にたどり着く。マンションに入る直前に、テルミだけが振り返った。テルミが悪戯な笑顔でこちらに敬礼しているのを、克彦はオペラグラスを通してはっきりと見た。

 

「ぼーっとして、何考えているのよ。」

 頬杖を突く肘を信子に払われて、克彦は我に返った。

「別に…。」

「まったく…。かっちゃんは、昼はぼーっととしているくせに、夜になるとやたら元気になっちゃって…。最近毎晩遊び過ぎじゃない。」

 確かにキャバクラ通いの夜が続いて、寝不足なのは事実だ。それにしても、昨夜は衝撃的だった。あそこで彰夫の顔を見るなんて…。

「最近。彰夫が変だと思わない。」

 考えている事といきなりシンクロして、信子から彰夫の名前が出てきた。克彦はぎょっとしてテーブルに置かれたお茶を倒してしまった。慌てて手元にあったトイレットペーパーで、こぼれたお茶を拭く。信子は克彦の失態に首をふりながらも言葉を続けた。

「どうもさ、彰夫のやつ女と暮らしているみたいなのよ。」

 入口に近いデスクで仕事をしていた美穂が、ピクリと反応した。信子は美穂に聞こえないように、顔を克彦に近づけて声をひそめざるを得なかった。

「犯罪じゃなければ、彰夫も大人だし何してもいいんだけど…。でも、たったひとりの肉親としてはやっぱり相手と会っておくべきだと思うのよね。」

「やっ、やめた方がいいと思う。」

 克彦は、即座に信子を否定した。日頃から従順な克彦にしては珍しい反応だ。

「どうして?」

 克彦に本当の理由が言えるわけが無かった。詰め寄る信子。

「どうしてよ?」

「…たぶん、今の同棲なんか長続きしない。すぐ別れちゃうと思うよ。すぐ別れちゃう相手と会っても無駄だろう。」

「なんですぐ別れるって思うの。」

「気難しい彰夫くんの性格を考えれば、一緒に暮らす相手もそのうち…。信子もそう思うだろう。」

 信子はしばらく考えていた。

「そうかもしれないけど…でも決めた。やっぱり会うわ。」

「やめた方がいいって…だいたい誘っても彰夫君が連れてくるわけないよ。」

 その時、事務所の自動ドアが開いて、彰夫が建て売りの建築現場から帰って来た。思いついたら、すぐやらねば気がすまないのが信子の信条だ。

「彰夫。今夜家でご馳走作るから、同棲している彼女を連れておいで。」

 あまりにも突拍子もない信子の申し出に、一瞬眉をしかめた彰夫だったが、あっさりと返事を返した。

「わかった。都合を聞いてみるよ。」

「えーっ?」

 克彦の絶叫に、さらに彰夫が言葉をかぶせる。

「それから、言っておくけど、同棲じゃないから。ルームシェアだから。」

 それだけ言うと、彰夫は設計図面を持ってまた外へ出て行った。

「さて、今夜は何を作ろうかしらね…。」

 思案顔で奥に戻る信子の背を見送りながら、克彦の膝は小刻みに震えていた。テルミが我が家に来るなんて…。信子がテルミに会ったら、絶対に修羅場になる。信子がテルミを気に入るわけが無い。傍若無人なテルミの言動で、こちらにも火の粉が降りかかって来るのは明らかだ。ふと顔をあげると、克彦のデスクの前に美穂が立っていた。

「なんだよ?」

「あたし…辞めさせてもらいます。」

 美穂の手に退職届があった。

「だから、彰夫君の同棲なんて長続きするわけないからぁ…。」

 その後事務所を閉めるまで、克彦は泣きくれる美穂を説得することで一日を費やした。

 

「姉貴、来たよ。」

 彰夫の声に克彦は震えあがった。ついにその時がやって来た。信子に促されて、仕方なく克彦も来客を迎えるために玄関へ出る。今夜の晩餐を無事に乗りきることができるのだろうか…。信子の背中に隠れて恐る恐るのぞき見る克彦。しかし、同じように彰夫の背中から恥ずかしそうに顔を出して挨拶したのは、テルミではなかった。

「はじめまして…大塚好美です。今日は、お招きいただきまして…。」

 信子と克彦のあまりにも不躾な凝視に押されて 好美は最後まで挨拶の言葉を言うことができなかった。信子は好美を頭のてっぺんから足の指先まで、値踏みするように眺めまわしているし、克彦は予想と違った女性を目の前にして、唖然と好美を見つめている。こんなふたりの視線に曝されれば、途中で言葉失うのも無理はない。やがて、値踏みが終わった信子が、ふたりに家に上がるように言った。彰夫に導かれてリビングに進む好美。そのふたりの後ろ姿を眺めながら、信子が克彦の耳元で囁いた。

『彰夫ったら、案外まともなのを連れてきたわね。』

 一方言われた克彦は、盛んに首をひねる。テルミを連れて来るはずではなかったのか。もしかしたら、三人で暮らしているのか。そんなことが許されるのか…。

 平土間式のリビングに腰掛けるふたりに、落ち着く暇もなく信子が声を掛けた。

「好美さんだっけ…。夕飯の準備手伝ってくれるかな。」

「姉貴、来た早々お客さんに失礼だろう。」

「いいじゃない、ただでさえ我が家は女手が不足しているんだから。」

「はい…、わかりました。」

 彰夫の制止も聞かず、好美は言われるがままに信子についてキッチンへと姿を消した。姉の失礼を詫びながら好美を見送る彰夫。一方、ふたりきりになったことを確認した克彦は、さっそく彰夫に問いただした。

「彰夫君…」

「なんですか?」

「あの娘が、本当に同棲している娘なのか?」

「本当って…。そうですけど、同棲じゃなくてルームシェアですから。」

 しばらく疑いの眼差しを彰夫に向けていた克彦だが、意を決して口を開いた。

「もしかして、彰夫君。その…ルームシェアってやつを、ふたりの女性としていないか?」

「なんで?義兄さんも変なこと言うな…。一緒に暮らしているのは彼女だけですよ。」

「そうか…。」

 克彦もまさか、以前彰夫が指名したテルミに、その後自分が入れあげて、彼女を送った時に彰夫の顔を見たとも言えず、その後の言葉が継げなかった。

 

「どう?彰夫とルームシェアして好美さんに迷惑かけてない?」

 台所で包丁を扱いながら、信子が野菜を洗う好美に話しかけた。どうやら、信子は好美と女性同士の話がしたかったようだ。

「はい。彰夫さんは几帳面ですから、部屋はきちんとかたずけるし、時々晩御飯や朝ご飯を作ってくれたりします。だから迷惑だなんて…。」

 好美も信子の意図がわかるだけに、出来るだけ誠実に答えようと努力した。

「へえ、あの彰夫がね…。」

 信子は、包丁の手を止めた。

「わたしは不思議でしょうがないの。もともと彰夫は、人と人の関わりを避けて、妙に冷めているところがあったから…。そんな彰夫が同棲、いやルームシェアを始めるなんて…。失礼なこと聞いていい?」

「なんでしょうか?」

「ルームシェアを言いだしたのは彰夫なの?」

「ええ…まあ。」

「そう…好美さんはよっぽど彰夫に気に入られたのね。」

「そんなこと…。私も助かっています。家賃はもちろんですが、何よりもひとりで居る時よりも寂しくないし、安心だし…。」

「安心?…あいつ、こんな可愛いお嬢さんと同じ屋根の下で暮らしていて、オオカミになったりしないの?」

「ええ、とても紳士です。」

「まあ確かに、昔から草食系でおとなしい、いや、物足りない子だったからね…。」

「彰夫さんの小さい頃ってどんなこどもだったんですか?」

 彰夫に関心を示す好美に、信子は好感を持った。

「ひとことで言えばひどいマザコンでね。」

「マザコン?」

「どこに居てもお母さんのそばから離れなかったわ。彰夫が幼稚園や小学校へ行くのを嫌がる朝は、仕方ないから母が彰夫にチュウをして元気づけて、やっと送り出したの。」

「お母さんのチュウですか?」

「ええ、それで妙に張り切っちゃって、駆け出して学校へ行ったわ…。」

「かわいいですね。」

「かわいい?それを眺めてた姉としては複雑な心境ね。母親も子離れしていないし、彰夫もなかなか親離れしなかったし…。」

「今の彰夫さんからは想像できません。」

「彰夫が言ったかどうか知らないけど、母は彰夫が小学校の時病気で亡くなったの。母が死んだ時は、彰夫は気が違ったように泣いて、心が壊れたんじゃないかと心配したわ。なんとか立ち直ったものの、その後はどちらかと言うとあまり感情を外に出さなくなってしまったの。人との関係に冷めてきたのもその頃からだったわ。父が亡くなった時も、案外さっぱりしたものだったわね。」

「そうなんですか…。」

「そう言えばこんなこともあったわ。小さい頃の夏休み、蝉とりから帰って来た彰夫が、よっぽどのどが渇いていたのか、テーブルにあったウイスキーの瓶を麦茶と間違えてがぶ飲みしたことがあったの。」

「それで、どうなったんですか。」

「急性アルコール中毒で病院行き。それ以来トラウマになっちゃって、お酒は一滴も飲まないの。アルコールに対する恐怖は尋常じゃないみたいね。家でも彰夫はお酒飲まないでしょ。」

「ええ、確かにそうですね。でも…私もほとんど飲まないのに、冷蔵庫にはいつも冷酒が入ってますけど…。」

「へんね…。」

 食材の準備を終えて鍋と野菜を持って信子と好美がリビングに出てきた。団欒が始まった。

 

 克彦は、テルミのマンションで見た男を彰夫だと思ったのは見間違いだったと結論付けると、急に気が楽になった。また、彰夫の友達とは言え、若いお嬢さんを初めて我が家に迎えた嬉しさで、子供のようにおはしゃぎを始めた。克彦は自分が適当に出来あがって来ると、やがてキャバクラの乗りで、飲まない彰夫には目もくれず盛んに好美に自分の焼酎を進めた。

「義兄さん。いい加減にしてよ。好美さんも困ってるだろ。」

 彰夫が義兄を責めるも、好美は笑顔を崩さず克彦の酒を受け入れた。

「いいんです。お義兄さんいただきます。」

 しかし過去一度も他人の家族の団欒に招かれた経験のない好美は、招いてくれた家族に失礼は出来ないと、かなりの無理をしていたのは事実だ。断れない酒の杯を重ねながら、鍋の蒸気とエアコンの熱気が好美への酔いに拍車を掛けた。気がつくと、いつのまにか好美は、彰夫を膝枕にして酔い潰れていたのだ。

「かっちゃん。彰夫の彼女を潰してどうすんのよ。」

「そんなつもりはなかったんだけど…。」

 信子の叱責に、克彦は肩をすぼめながらも、瓶に残った焼酎を手酌でグラスに足していた。

「彰夫、好美さんをソファーに寝かせてあげて。」

 彰夫は、好美を抱き上げてリビングのソファーに寝かせた。

「あーあ、あとかたずけを、手伝ってもらえなくなっちゃったじゃない。」

「いいよ、姉貴。俺が手伝うから。」

 彰夫は、好美の頭の下にクッションを置き、毛布を掛けると、信子に従って台所へ向かう。酒の相手も居なくなり、ひとりになった克彦はつまらなそうにグラスを口に運び、このまま中途半端に終わるくらいなら、この後キャバクラでも行こうかと考えていた。

「オイちゃん。あんたの家には日本酒は無いの?」

 聞き覚えのある女性の声を聞いて、克彦のグラスの手が止まった。顔をあげると、目の前に毛布をはおったテルミが、グラスを差し出して悪戯っぽく笑っている。

「テルミ?」

「早く探してきなさいよ。」

「好美さんはどこへ?」

「あの女のことなんかどうでもいいの。早くちょうだいよ!」

 事態の把握できない克彦は、テルミに言われるがままに、酒があるラックから、日本酒の一升瓶を取りだしテルミのグラスに注いだ。テルミは最初の一杯目を、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。

「カーッ。やっぱり他人の家の酒はうまいわね。もう一杯!」

 テルミの飲みっぷりに押されて、差し出されたグラスに日本酒を注ぐ。なぜ突然ここにテルミが現れるのか。よく見れば、さっきまで好美が来ていた服を身につけているが、顔と目つきは別人だ。テルミ以外の誰でもない。

「いつまでハトみたいな顔してんのよ。」

「だって…。」

「そんな顔見せられたら酒がまずくなるわ。」

「テルミがいきなり現れて…、ソファーにいたはずの好美さんが消えて…。もしかして知らない間に入れ替わった?」

「なに馬鹿なこと言ってるのよ。酔ってるの?」

「俺もしかして、飲みすぎた?」

「飲み過ぎどころか、まだまだ足りないわよ。ほら、乾杯するから一気に飲んで。」

 克彦は、大学生以来の焼酎の一気飲みをテルミから強いられた。テルミの、イッキ、イッキの声援に押されグラスを飲み干すと、混乱する頭の中で、克彦の酔いが一気に爆発した。

 

「リビングが騒がしいわね…。好美さん、起きたのかしら。」

 彰夫がリビングからの声に耳をすませた。その声に居るはずのない女の声を聞き分けると愕然とした。

「ちょっと、様子見て来るから…。」

 彰夫は慌ててリビングへ向かう。そこでは完全に泥酔状態の克彦と、一升瓶を小脇に、立て膝で日本酒をあおるテルミがいた。

「なんで、ろろ(●●)にテルミちゃんがへる(●●)のか、なんか不思議だなぁ…なんて、どへ(●●)でもいいっしょ。この際…。」

 克彦が喋るが、酔いのため満足な言葉になっていない。

「そう、酒が飲めれば、それでいいのよ。」

「ああ、出張キャバクラ、バンザーイ。我が家にテルミちゃんが来てくれるなんて…。もっとそばに寄ってもいいかな?」

「いいとも!」

 克彦が、立ちあがってテルミの側に向うが、一歩も進まぬうちに、畳に倒れ込んで動かなくなった。彰夫はそんな克彦に構わず、彼の身体をまたぎテルミに詰め寄った。

「なんでテルミが、ここに居るんだ?」

「彰夫が連れてきたくせに…。」

「俺が連れてきたのは、好美だ。」

「あたしは来ちゃいけないの?」

 テルミの放った言葉が、彰夫の胸に刺さった。返事を返すことができなかった。

「あたしは家族に紹介してもらえないわけ?」

 テルミはそう言うと、彰夫を睨みつけながら立ちあがった。

「待て、テルミ。どこへ行くんだ。」

 家を飛び出すテルミ。彰夫は台所の手伝いでしていたエプロンもそのままに、彼女の後を追った。

 

 西浜の海岸線はとうに日が落ちて、暗闇から波の音だけが繰り返して押し寄せて来る。足元も見えにくい浜で、彰夫はようやくテルミに追いつくことができた。

「テルミ、俺が悪かった。テルミの言う通りだ。」

 彰夫は、テルミの片腕を取ると、彼の方を向かせた。テルミの黒い瞳に反射する光が、揺れているように感じた。テルミも涙ぐむことがあるのだろうか。

「テルミをちゃんと家族に紹介するべきだった。家に戻ろう。これから姉貴夫婦に紹介するから…。」

「いまさら遅いわよ。」

 テルミはそう言いながら彰夫の腕をはらうと、見えもしないのに波の音が聞こえる闇を見つめていた。

「彰夫は、あたしを頭の悪い女だと、馬鹿にしてるでしょう。」

「馬鹿になんかしていない。」

「彰夫の考えている事が、わからないとでも思ってるの。」

「何のことだ?」

 しばらく闇を睨んでいたテルミだが、やがてゆっくりと言葉が口からこぼれ始めた。

「あたしとあの女を切り離して、あたしを消すつもりでしょう。それで、あの女とおとぎ話の結末みたいに、いつまでも幸せに暮らすつもりね。」

「そっ、そんなことは、考えていない…。」

 そう言いながらも、答える表情と少しカミ気味の返事は、その言葉の真偽を証明するには、はなはだ不適当なものになっていた。彰夫は慌てて言葉を足した。

「テルミの誤解だよ。」

「だいたい、わたしとあの女とどっちが好きなの?」

「どちらも…好きだよ。」

「嘘つかないで!この前あたしを抱こうとしなかったじゃない。なのに、あの女の真似をしたら抱いたわよね。」

「いや、それは…。」

 テルミは話を打ち切るかの様に彰夫の返事も待たずに歩き始めた。彰夫はすぐ追いかけて、彼女の前に立ちはだかる。

「テルミは、テルミ自身と好美さんとの関係がわかってものを言っているのか?」

「好美って誰よ。それがあの女だとしたら、わたしとは何の関係もないわ。」

 ここから彰夫は慎重になった。切り離された人格に、基本人格との同一性の自覚を、どのように芽生えさせたらいいのだろうか。他人があからさまに暴露して、同一化を強要してはならないことはわかる。あくまでも自らが自然に気付くように導かなければならない。彰夫は慎重に言葉を選んで言った。

「いいか、俺が好美さんを好きなのに、テルミが嫌いになれるわけないだろう。」

「意味わかんない。」

「いいか、よく考えてみろ。好美さんを大好きだと言うことは、テルミの事が大好きだと言っているのと同じことなんだぞ。」

「それって、いわゆる二股でしょ。」

「だから…。」

「あの女と並べて言われるのは気に入らないけど、わたしのこと大好きだったらそれを証明してよ。」

 テルミがまた悪戯っぽく笑いながら言った。彰夫は彼女から受けた様々な仕打ちを考えると、身を固くして警戒せざるをえなかった。

「どうやって…。」

「簡単よ。あたしが日本酒買って帰って来るまで、これを持ってここで待ってて。」

 テルミは自分が肩から下げていた小さなポシェットを彰夫に手渡した。

「そんなことで証明できるのか?」

「ええ。」

「日本酒買ってきても、俺は飲まないぞ。それでもいいな。」

「ええ、お金はちょうだい。」

「俺が出すのかよ。」

 彰夫はポケットの財布からしぶしぶ札を出した。

「それからそのポシェットはわたしが一番気に入っているモノだから、大切にしてよ。」

「ああ。」

「失くさないで、彰夫の手からちゃんと私に返してよ。」

 そう言い残すと、テルミは足早に走っていった。

『テルミは、本当に日本酒が好きなんだな。もしかしてアルコール中毒なのか。』

 闇に消えていくテルミの後ろ姿を追いながら、彰夫は考えた。そんなテルミを、本当に自分は好きなのだろうか。話の流れでテルミのことを好きだと言ったものの、アルコール恐怖症の男が、アルコール大好き女と上手く付き合えるわけが無いと感じていた。そもそも交代人格とわかっているのに、その人格を好きになれるのだろうか。さらに、交代人格に、同一性の自覚なんて芽生えさせていいのだろうか。よしんばそれが正しいことだとしても、それを専門医でもない自分がやってもいいことなのだろうか。好美を守るために始めたことなのに、なにか違う方向へ走っているような気がしてならなかった。

「おい、おまえ。」

 気がつくと彰夫は、暗闇の砂浜の上で数人の男達に囲まれていた。

「お前、ストーカーだってなぁ。」

 男達はいたって自己中心的な理由で慢性的なストレスを感じており、そのはけ口としての怒りの矛先を、常に求めている人種であることが一目でわかった。ストーカーという称号は、彼らに遠慮のない暴力を許す格好の材料となっているはずだ。彰夫を囲む輪がじりじりと詰められていった。暗闇の中でも彼らの殺気がひしひしと肌を指すのがわかった。

「お前が奪ったというハンドバックを返してもらおうか。」

『やりやがったな、テルミのやつ…。』

 彰夫はポシェットを胸に、暗闇の海へダッシュした。

 

「専務、お電話ですよ。」

 江の島ハウジングのオフィスで美穂が信子に電話を取り次いだ。

「誰?」

「大塚さんと言う女性の方です。」

「ああ、好美さん…。」

 昨夜、晩餐に招待したものの、ふたりは忽然と姿を消した。好美は酔い潰れていたので仕方がないのかもしれないが、彼女を連れて挨拶もなく姿を消した彰夫の非常識には多少腹を立てていた。しかも彰夫は、事務所が開いたと言うのにまだ姿を見せない。

「もしもし…。」

 か細い声が返って来た。

「…好美です。昨夜は大変ご馳走になりました。お礼もせず帰ってしまって申し訳ありません。」

「そうよ、何も言わずにいなくなったから心配したのよ。」

 信子はふたりの非礼への抗議の意味を含めて、多少語気を強めた。

「…本当に申し訳ありません…。」

 今にも消えて無くなりそうな声だった。

「で、ゆうべはどうしたの?」

「私もよくわからないんですが…。今朝目が覚めたら自分のベッドにいました。」

「そう、彰夫が酔い潰れた好美さんを運んで行ったのね。無事に帰ったのならいいのよ。それで、彰夫は?まだ事務所に来てないんだけど…。」

「それが…。」

 好美がなかなか言い出さない。信子も心配になってきた。

「なんかあったの?」

「朝リビングに出たら、ずぶぬれの彰夫さんが、倒れていて…。私のポシェットを抱えてうんうん唸っていたんです。」

「えっ?」

「慌てて着替えさせたら、あちこち痣だらけで…。」

「大丈夫なの?」

「はい、今は落ち着いてベッドで寝ています。でも…、濡れたまま一晩過ごしたから、熱が出たみたいで…。」

「それで、病院は行ったの?」

「いえ…。彰夫さんが一日休めば大丈夫だからって言うので。」

「そう…。まあ本人がそう言うなら大丈夫でしょう。好美さん、事情はわかったから、悪いけど今日は彰夫の面倒を頼むわ。」

「はい。しっかり、看病しますから…。」

「それじゃね。」

「あの…。」

「なに?」

「ゆうべは本当に失礼しました。お義兄さんにもよろしくお伝えください。」

「かっちゃんのことは気にしなくていいから。今朝はあいつも、二日酔いで出て来やしないわ。」

 静かに受話器を置いたものの、彰夫といい、克彦といい、だらしない男達への不満で、信子の心拍数が徐々に上がってきた。

「彰夫君に何かあったのか?」

 最悪の間で克彦が登場して来た。ようやく起きだしてきた彼の顔を見て、信子の怒りがついに爆発した。

「子供も満足に作れないような男が、偉そうに重役出勤してくるんじゃないわよ!」

「え?今そんな話を…、ごめんなさい。」

 いつもながら、意味もよく考えずに、取り合えず謝る克彦。そんな彼にさらに腹を立てた信子は、席を蹴って奥の部屋に入ってしまった。仕方なく残された克彦が、入れ代わり社長席に座る。

「美穂ちゃん。熱いコーヒーくれる。」

 昨夜は久々の泥酔だった。なんでそんなに飲んだのか、鈍痛の頭をさすりながら昨夜のことを必死に思い出そうとした。うる覚えなのだが、家で飲んだ記憶と、キャバクラで飲んだ記憶がある。やがて克彦の席にコーヒーが運ばれてきた。

「ああ、美穂ちゃん。ありがとう。」

 礼を言っても美穂は克彦の前から離れない。美穂は疑うかのように、じっと克彦を見つめていた。

「どうしたの?」

 克彦はその意味を理解した。

「誤解するなよ。言っておくけど、僕たちに子供が居ないのは、信子がまだ仕事に専念したいって言うからで…。」

 克彦の弁解も最後まで聞かずに自分の席に戻る美穂。その後ろ姿から聞こえてくる鼻を鳴らす音に、克彦は彼女があからさまに鼻で笑っているのだと確信した。

 

 一日休めば熱も落ち着くと言う彰夫の予想に反して、発熱のピークは夜にやってきた。熱はあるとはいえ昼間はこう着状態だったので、これ以上熱も上がるまいと、好美も多少気を緩め、看護の手を休めて自室で休んでいる。夜の闇が訪れた頃に、彰夫は眼が覚めた。熱で眼が覚めるということもあるのだと、彰夫は初めて知った。身体がだるく息をするのも苦しい。好美に助けを求めようとするが、声が出ない。すると、勢いよく彰夫の部屋のドアが開き、好美が彰夫のベッドの様子を見に来てくれた。さすが好美だ。来て欲しい時に来てくれる。助かった。しかし、覗きこむ彼女の瞳を見て、彰夫は絶望的になる。来たのは黒い瞳のテルミだった。

「あらぁ、苦しそうね。わたしを馬鹿にした罰かしら。」

 彰夫は言い返す力もない。

「バッグを離さなかったのは褒めてあげる。でもこんなことで、私が納得したなんて思わないでね。」

 水が欲しい。声が出ない彰夫は濁った眼で、テルミに助けを求めたが、彼女はそんなことを意に介する様子がない。

「彰夫はお水が欲しいみたいね。あたしはお酒が欲しいの。今夜も飲みに行ってくるから…。じゃあね。」

 テルミはそう言って部屋を出ていった。勢いよく閉められた入口のドアの音を、ベッドで耳にした彰夫は、自分は本当に取り残されたのだと諦めた。

 やがて熱が、彰夫の頭を麻痺させてきた。覚醒と睡眠の狭間を笹船のように漂いながら、ついに浮力を失い、夢と現実が混沌とした濃度の濃い海の中を、ゆっくりと沈んでいく。やがて彰夫は、海底にマグマの噴出する開口を発見した。赤く染まった開口部から発せられる熱で、周りの水が瞬時に気泡となって上昇していく。その熱が離れている自分にも伝わってきた。浮き上がらなければ…。しかし、もがけばもがくほど、身体は海底のマグマの開口部へ向けて沈んでいく。いよいよ熱が肌を焦がすほどの距離まで沈み、ほどなくすれば立ち昇る水蒸気と同様に、彰夫の身体もマグマの熱で気泡となって、跡形もなくなるだろう。力も尽きて動けなくなった彰夫は覚悟を決めた。

 その時、彰夫の腕を掴むものがいた。彰夫の身体は力強くぐいぐいと引き上げられ、マグマから遠ざかっていく。彰夫は自分の腕を掴むものを見た。美しい人魚だった。人魚は見た目に反して凶暴だと言われている。繁殖期になると、人間の男の血肉を喰らって、子を産むそうだ。彰夫は助かったのか、それとも新たな危機に遭遇しているのかわからなかった。人魚は自らの尾ひれを力強く躍動させて、彰夫を水面へと引き上げていく。光に満ちた水面へ出た人魚は、彰夫を岸の岩辺へと運び横たえた。

「水をください。」

 彰夫が残された力を振り絞って人魚に言うと、人魚は海水を口に含み、自らの口で優しく彰夫の口に移してくれた。海水は不思議なことに真水に変わっていた。映画『パイレーツオブカリビアン』では、確か人魚にキスをされた宣教師がすべてを捨てて、彼女の世界に潜って行くんだっけ…。人魚の柔らかい口唇を感じながら、彰夫はそんなことを考えていた。唇を離した人魚の顔を見た。そのあまりにも美しく優しいその眼差しの中にある瞳は、黒いダイヤのように輝いていた。

 

 朝の光を感じて、彰夫が穏やかに眼を覚ました。

「彰夫さん、おはよう。」

 ベッドのそばで、好美が彰夫の身体から抜いた体温計を見つめていた。

「もう熱は下がったみたいですよ。」

 好美は枕元に持ってきたオレンジジュースにストローを指し、彰夫の口元にそえた。彰夫は好美の心遣いが嬉しかった。テルミが何時に帰って来たか知らないが、その後好美が熱心に看護してくれたのだろう。

「でも、少し熱が下がったからって外をうろついちゃだめですよ。」

 彰夫は好美が言っている意味がわからなかった。

「それにしても、たくさん買って来たんですね。」

 彰夫が見ると、枕元のデスクにミネラルウォーターのペットボトルが並んでいた。好美はキャップが開いているボトルを指差しながら言った。

「病人のうちは、出来ればボトルから直接飲まないで、ちゃんとコップに移して飲んだ方が良いですよ。ああ、それからゆうべ着替えたパジャマと下着は、洗濯しておきました。汗でぐっしょりの服をソファに放っておいたら、カビが生えちゃいますから気をつけてね。…あら、やだ。わたしお母さんみたいなこと言ってますね。ごめんなさい。」

 自分の言ったことに、自分で笑いながらキッチンに戻る好美。その後ろ姿を見ながら、彰夫は自分に水を飲ませ、汗でぬれたパジャマを着換えさせたのは、いったい誰だったんだろうと考えた。よくしゃべる好美と自分のために水を買ってきたテルミ。彰夫は自分にとってのふたりの印象が、変わりつつあることを感じていた。

 

 彰夫が回復してから1カ月、テルミが現れることが無かった。宅建の試験が近づいていたので、その準備がゆっくりと出来て助かったが、1ヶ月も過ぎると、いつしかテルミが現れてこないことが寂しいと感じている自分に気づいて驚いた。粗野で、自己中心的で、底意地の悪いテルミではあるが、黒い瞳の奥にあった母性は、本当に夢だったのだろうか。

 一方、テルミが現れてこない分、好美との距離は急激に縮まった。外では気軽に腕を組んでくるし、家では読書している彰夫の肩に寄り添ってきたりもした。また、積極的に自分の意見を言う傾向が現れて、彰夫にゴミを出すように指示したり、夕飯も何が食べたいとはっきりと言うようになった。もっとも、そんな積極的な姿勢は、もっぱら彰夫のみに示されているようではあったが、以前の好美では考えられないことだ。

 宅建の試験がある日曜の朝、出かけようとドアの前に立つ彰夫。しかし、また失敗したらという不安で、部屋からの一歩をなかなか踏み出すことができない。

「彰夫さん、どうしたの。」

 好美は黙って立っている彰夫の肩に手をまわし、こちらに向かせた。

「いや、別に…。試験行ってくるよ。」

 そう答える彰夫の髪を、好美は指で整えた。

「どうしたの、そんな暗い顔して…。自信が無いの?」

「そんなことないよ…。とにかく行ってくるから。」

「大丈夫よ。あれだけ準備したんだから。」

 そう言うと好美は、彰夫のあごに指を添え、つま先立ちしながら彰夫の唇にチュウをした。いつもの好美からぬ大胆な行為に驚く彰夫。

「これで元気出た?」

「ああ…。」

「それじゃ、走って試験場まで、いってらっしゃい!」

 背中を押されて部屋を出た彰夫は、なんとなく嬉しくなって、好美が言う通りに江ノ電の駅まで走った。妙な懐かしさが、彰夫の胸を温かく包んだ。

 宅建試験の結果は、その日から約45日後に発表される。何点以上を取れば合格するといった運転免の形式とは異なり、全国で得点上位者2万5千人前後か、合格率が15%前後になるよう調整された合格ラインを越えなければ資格は得られないのだ。結果だけを先に伝えておくと、好美のチュウも力及ばず、彰夫は今回も合格できなかった。しかし彰夫の名誉のためにも言っておくが、今回の試験では、全国で約19万2千人が受験し、合格者はたったの3万2千人。まさに合格率約16%の狭き門なのである。資格を与える試験ではなく、資格保持者を制限する試験と言っても過言ではない。

 受験を終えたばかりではそんな結果を知るわけもなく、彰夫はとにかく無事にやり終えた達成感に浸っていた。だから、今夜はふたりで外で食事をしようと好美を誘ったのも、自然なことだった。ふたりは湘南の浜に近いビストロで、小さいテーブルをはさんで、温かな食事を楽しんだ。ふたりで話しながらも、宅建受験の出来を聞こうともしない好美の心遣いが嬉しかった。彰夫は今朝元気づけて部屋から送り出してくれた好美をあらためて見つめた。灰色の瞳に反射する揺れるろうそくの光を見ながら、心から彼女を愛おしいと感じた。久しく見ないテルミのことを思うと、もしかしたら同一性解離性障害は和らぎ、基本人格である好美に自然に統合されたのかもしれない。外交的になった好美の最近を考えるとそれも十分にうなずける話である。彼女を見つめているうちに、目の前の彼女が、エプロンを掛けた彼女、赤ちゃんを抱く彼女、子供の手を引いて入園式に向う彼女、白くなった髪を気にしながら彼の横でゆっくりと編み物をする彼女へと、次々に変化してみえてきた。彼女とともに年齢を重ねる自分が、彼女とともに過ごす家庭が、容易に想像できたのである。自分の人生に受けいれられる未来だ。彰夫はそう思った。

 食事を終えた好美に、彰夫は浜に散歩に出ないかと誘った。

「寒くなってきたし、もう家に帰って休みましょうよ。」

 そう言って帰宅を促す好美ではあったが、彰夫ははしゃぎながら彼女を浜に連れ出し、波の音が聞こえる砂浜に彼女の座る場所を設えた。この浜でテルミと出会った。同じ浜で好美にコーヒーをもらい、そしてテルミに陥れられたりもした。薄暗い三日月の月明かりを顔に当てて、今隣には好美が居る。

「好美…。」

「なあに?」

「受験がんばったよな、俺。」

「そうね。結果はとにかくやり終えたのは…偉い、偉い。」

「ご褒美くれない?」

 好美はとっさに胸元を両手で隠した。

「違うって…誤解するなよ。ただ膝枕して、頭をなぜて欲しいだけだから。」

「でも外では恥ずかしい…そんなこと家に帰ったらいくらでもしてあげるから。」

「ここがいいんだよ。」

 好美はしばらく眼をつぶって返事をしなかった。

「なあ、少しだけでいいから、膝枕してくれよ。」

 せがむ彰夫にもしばらく答えなかった好美だが、ようやく眼を開けて言った。

「いいわ、おいで。」

 好美は恥ずかしいのか、彼の頭を抱えると多少乱暴に膝の上に載せる。

「おい、怒っているのか…。」

「別に…。」

 語調とは裏腹に、好美はやさしく微笑を浮かべて、膝の上の彰夫の髪を撫ぜた。彼は安心して言葉を続けた。

「もうすぐ美大を卒業だろう?奈良へ戻るのかい?それともなにか計画はあるのかい?」

 好美は、彰夫の髪を撫ぜる手を止めず、また返事もしなかった。

「もしよければ、卒業しても一緒に暮さないか?」

 そすがに彰夫のこの言葉に、髪を撫ぜる好美の手が止まる。彰夫はその手を取ると優しく握りしめた。彼女の温かさが握った手から伝わってきた。言うなら今しかない。彰夫は、勇気を振り絞った。

「好美、一緒に家庭を作らないか?」

「好美って…いったい誰に言ってるの?」

 彰夫は跳ね起きた。

「テルミ…お前いつから…。」

「いったい誰にプロポーズしてるのよ?」

「久しぶりだね…。」

「なにが久しぶりだねよ。人に膝枕させて、いい気になってんじゃないわよ。」

 興奮して言っているうちに、テルミの黒い瞳に大粒の涙が溢れ出した。

「お前泣いてるのか?」

「黙れ、ばかやろー。彰夫は何も解っていない。」

 テルミは、立ち上がると家に向って足早に歩きだした。歩きながらも、人目もはばからず泣きじゃくる。なすすべもなく、彰夫は2メートルほど後ろをついて歩くしかなかった。マンションに着くと、テルミはそのまま自分の寝室に閉じこもってしまった。彰夫は彼女の寝室のドア越しに話しかけもしたが、中からの応答が無い。お酒でも飲まないかと誘ったが、ドアは開かなかった。彼女の寝室のドアのそばで腰を掛けて、辛抱強くテルミか好美が出て来るのを待っていたが、しばらくすると彰夫は床の上で眠ってしまった。

 

 彰夫は窓から差し込む日の出の眩しい光で眼を覚ました。テルミが入って行った部屋のドアが開いていた。覗きこむと中に好美やテルミの姿はなかった。部屋を一通り見回ったが、彰夫ひとりでは誰も居ない。携帯に電話をしても、電源が切られている。ふたりは彰夫の前から忽然と姿を消したのだった。

 

 彰夫は新横浜からのぞみに飛び乗ると、京都で乗り継ぎ奈良へ向かう。彰夫は改めて好美が姿を消した理由を考えてみた。卒業まであと少しだと言うのに、単位も残したまま、好美はいったい何処へいってしまったのだろうか。姿を消した晩の経緯から考えると、好美が自らの意思で出て行ったとは思えない。交代人格のテルミが消されることを嫌って連れ去ったとしか思えないだ。基本人格を抹殺することは、交代人格の消滅も意味するのだから、まさか極端な行動には出ないだろうと自らを安心させ、冷静になろうと努めた。

 江ノ島ハウジングにある借主データから、好美の実家の電話番号と住所を調べた。まず実家に連絡取ろうと試みたが、掛けてみるとこの番号は使用されていないとのアナウンスが流れた。家族のものと偽って、美術大学の学生課にも電話してみたが、学生の出欠状況は把握していないと門前払いだ。どうも好美からは、休学届や退学届が出ている様子はなかった。

 部屋でひとりぼっちの日が重なるにつれ、彰夫の心配も日に日に膨らんでくる。2週間も経つと、もうじっと待ってはいられなかった。まず彼女の実家に行ってみよう。好美はそこに居るのかもしれない。よしんば居なかったとしても、家族の話から彼女を探すヒントが得られるかもしれない。信子に一方的に休みを告げて、彰夫は奈良に向っているのだ。

「あれ、及川君じゃないか?」

 JRのみやこ路快速の車中で、彰夫は意外な人物から声をかけられた。

「杉浦先生。」

「いやあ、思わぬところで会うね。奈良へ旅行かい?」

「いえ、観光旅行と言うよりは、友人に会いに…。」

「休日でもないのに、仕事を休んでまで会いに行く友人が奈良に居るのかい?」

「…先生こそ奈良へなにしに?」

「奈良大学主催の精神保健学会があってね。泊まりは奈良かい?」

「いえ、友人の都合次第で、どうなるかわかりません。」

 杉浦教授は、メモを取り出すと何やら書き込んで彰夫に差し出した。

「そうか、もし泊まるようなことがあったら、電話したまえ。食事でもしよう。」

「はい、ありがとうございます。」

 JR奈良駅で、杉浦教授と別れた彰夫は、タクシーに乗り込み好美の住所を告げた。タクシーの車窓から奈良の街を眺める。奈良へは初めて訪れた。彰夫は小さな街だが、独特の空気があると感じた。土地の持つ歴史のオーラなのか、この街だけ見えないシールドで覆われていて、他の都市とは異なる時計で営まれているようだ。京都は以前行ったことがあるが、同じ古都とは言えまったく違う印象がある。それが平安京と平城京のちがいなのかと問われたとしても、歴史的知識の乏しい彰夫には具体的にそのポイントを指摘することができない。

 歴史書を紐解けば、平城京の遷都は約1300年前まで遡らなければならない。皇室を交えて氏族間でどろどろの覇権争いを演じていた当時、遣唐使を復活させ、本格的な律令制国家の構築を目指した朝廷は、代を超えて発展していく都城の必要に迫られていた。また、天皇家との結びつきを強めていた藤原氏は、飛鳥を中心とする旧来の豪族勢力の力を殺ぐ必要があった。そこで、飛鳥の地から離れた奈良北部への遷都を実行に移す。平城京に遷都されたのは、710年のことである

 そこで新しい国家統合の枠組みを再構築しようとしたのが、聖武天皇だった。彼は仏教による国家統合を更に推し進め、東大寺を頂点とした国分寺・国分尼寺のネットワークによって、国家の再統合を図った。しかし、皮肉にも東大寺建立が、平城京からの遷都を決定付けることになる。東大寺大仏は全身に金メッキが施されているが、金メッキは金に溶ける性質がある水銀を金に溶かし、その溶かした液体を像に塗り、熱を加え水銀だけを蒸発させることで金メッキができる。この時、蒸発した水銀が平城京の空気を汚染し、水銀による中毒症状が多発した。当時は水銀の影響であることが分からないまま、祟りだと恐れられ、都を移す気運が高まっていった。

 一方、平城京に遷都したものの、藤原氏を初めとする氏族間の闘争と、それに伴う政変劇は依然とどまることがなかった。平城京遷都時の天武天皇から、持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇、光仁天皇と、わずか60年余の間に天皇が9人も変わる異常事態。そして、ついに光仁天皇の息子である桓武天皇が、平城京において実権を握っていた貴族階級及び仏教勢力と手を切り、新たな国家統合を模索するため、平城京からの遷都を決断。784年に長岡京へ、そして794年に平安京へ遷都されることになるのは、周知の歴史的事実だ。そう考えてみれば、まさに平城京は天皇が入れ代わり立ち変わり氏族の覇権争いに利用される舞台となった怨念の都なのだ。今、彰夫が感じているシールドは、そんな覇権争いで命を落とした人々の怨念が魔界となって、形成されているのかもしれない。

 そんなことを考えている間に、タクシーは古い居住区に入った。やがて道が狭くなり、車が通れるぎりぎりの道まで行って、彰夫はタクシーを降りる。このあとはアイパッドの地図を頼りに歩くことにした。生垣を持つ古い一軒家が建ち並ぶ居住区。彰夫は仕事がら坪単価の算出には慣れてはいるが、何処を掘っても歴史的遺物が出てきそうなこのあたりの坪単価は、まったく想像が出来ない。やがて、アイパッドが指し示す地点まで到達した。そこはあたりの家と溶け込んだ普通の古い一軒家だった。

 彰夫は玄関で表札を確認したが、自治体の交付する住居表示は貼られていたが、表札は古く、雨風にさらされて、そこに書かれた文字が判別できなかった。ここが本当に好美の実家なのかは、確認しようがない。しばらく家の周りを廻りながら、中の様子を伺った。人影はなかった。表木戸にもどりさてどうしたものかと考えあぐねていた時だった。

「君、私の家になんか用か。」

 振り返ってみると、風呂敷に包まれた一升瓶を手に下げて、初老の男が立っていた。彰夫は男の語気を荒めた誰何に、慌てて手に持ったアイパッドを落としそうになった。

「すみません…。お尋ねしますが、こちらの家の方ですか?」

「そうだが…何か?」

 こわもての男は、その眉間にさらに深いしわを刻んで彰夫を睨み続ける。

「あの…こちらは、大塚さんのお宅でしょうか?」

「ちがうな。」

「そうですか…。失礼いたしました。」

 彰夫は頭を下げた。男の視線を背中に感じながら、玄関から離れかけたが、思いなおして振りかえる。

「あの…。失礼ですが、以前大塚さんと言う方がここに住んでいて、引っ越されたということはありませんか?」

「ないな。君が生まれる遥か昔。じいちゃんの時代からわたしはここに住んでいる。」

「そうですか…失礼いたしました。」

 再び頭を下げる彰夫。その時、隣の家の玄関が開いて、女性が出てきた。

「あら、高井さん。お買いもの?」

「ええ、注文していた日本酒が入荷したもんでね。」

 彰夫へ向けていたこわもてを崩して、隣人に笑顔で答える男。彰夫は、そのふたりのやり取りを聞いてハッとした。

「ちょっと待ってください。こちらのお宅は高井さんというんですか?」

「なんだね君。いきなり失礼だぞ…。確かに高井だがそれがどうした?」

「もしかして…高井テルミさんと言う方はおられますか?」

 男は、一瞬黙って警戒心を強め、彰夫を睨む。

「私の娘だが、君はいったい誰だ?」

 彰夫は頭を下げると、逃げるようにその場を離れた。男の答えに、再び背中から浴びせられた男の言葉に気づけないほど、頭が混乱していた。

 

 歩いて、歩いているうちに彰夫は奈良公園へ来ていた。頭の中が真っ白でどうやってここまで来たかまったく憶えていないのだが、妙に酒粕の匂いだけが五感の記憶に残っている。べったら漬けの店を何件も通り越したせいだろうか。

 彰夫は奈良公園のベンチに腰をかけて、必死に自分と好美やテルミとの接点の記憶を辿った。

『テルミが基本人格なのか?賃貸契約は好美としたはずだ。本人確認は…免許?いや免許証は持っていなかった。確か学生証だ。あれは好美の名前になっていた…どうして?保護者の確認署名もあったはずだ…偽造なのか?仮に好美が交代人格だったとしても、あんな性格の彼女が偽造なんて大それたことができるのか?好美はテルミのことを知らなかった。知らないふりをしていのか?そう言えば好美は教えてないのに俺の名前を知っていた。テルミは好美のことを知っていた。テルミは好美の名前を口にはしなかったが、好美の真似が出来た。しかし本当にそうか?急性アルコール中毒で倒れた時言っていたテルミのうわごとは、キャバクラに誘った自分のことを言っていたのか…。』

 見直していくひとつひとつの記憶が整理できないでとり散らかり、彰夫の身体はパンパンに膨れ上がった。人間の心とは、決して立ち入れない暗黒の海溝のように、なんと深遠で不可解なものなのだろうか。彰夫は恐怖すら感じていた。もう自分ひとりで持ち切れない。彰夫は杉浦教授に電話を入れた。

 

「そうか…なかなか興味深い話だね。」

 奈良ホテルのラウンジで彰夫の話しを聞いた杉浦教授が、コーヒーを口に含みなが言った。

「しかし、及川君はいつからか精神科の臨床ができるようになったんだい?」

 彰夫は返す言葉が見つからなかった。

「別に及川君を責めているわけではないよ。専門医に連れていったところで、事態が改善されたかどうか解らない。心の健康については、まずそれを自覚し本人がその健康を望むかが重要な要素だからね。」

 杉浦教授は話を続けた。

「及川君の話を聞くと確かにテルミさんが基本人格と言って間違いがいないようだね。最初に会ったのはテルミさんだし、及川君についての情報入手は、常にテルミさんの方が先行していたようだ。」

「でも…テルミは好美のことを知っていましたが…。」

「基本人格が交代人格について何も知らないということも、多くの事例がそれを示しているだけで、すべてがそうであるかどうかは誰もわからない。最近では、環境的痕跡から、基本人格が交代人格についての『人となり』について、ある程度察することができるのではないかという学説も持ち上がっている。」

「学生証の名前が好美であるのはどうしてでしょう。」

「好美さんはなぜ及川君と賃貸契約を結べたんだろう?」

「それは…契約時の身元確認がおろそかになっていたと自分でも反省しています。」

「マンネリ化による業務怠慢。大学関係者としては不適当な発言だか、同じように大学の学生管理でも、親が再婚したから名前が変わったと申請すれば、ある程度の書類を準備するだけで比較的簡単に登録名も変えられるしね。」

「どうして、名前を変えてまで美大に通う必要があったんでしょう。」

「たぶん、美大に関係なく、故郷を離れてひとりで暮らすためには、人格を維持するために名前を変える必要があったんじゃないだろうか。」

 ホームズのように事態を解説していく教授に、彰夫はぐうの音も出なかった。

「そしてもう一つ明らかなのは、テルミさんが及川君と出会うことによって、今まで保っていた人格バランスが崩れ、行動パターンが不安定になってしまったということだね。」

「なぜでしょうか?」

「原因は学術的調査をしなければわからん。」

「…自分はどうしたらいいんでしょうか。」

「おいおい、僕は及川君が決めたことに助言は出来ても、君の行動を決められるほど賢くは無いよ。及川君はどうしたいんだい。」

「自分は…何らかの理由で彼女たちに選ばれたような気がしてならないのです。出会いはまったく偶然でした。しかしテルミと西浜で遭遇した翌日に、好美が事務所にやってきました。そしてまた好美がきっかけとなって、テルミと再会したのです。」

「なるほど…。」

「だから、テルミが去ってしまったからと言って、このまま関与を絶つわけにはいかないと思うんです。でもそう思うんですけど…。」

 彰夫が杉浦教授を見る目がわずかに潤んできた。

「まったく異なる個性を持つテルミと好美に、どう接したらいいのでしょうか?」

 彰夫の問いに答えずしばらく見つめていた杉浦教授。やがて教授は重い口を開く。

「個性ね…。及川君、まだ時間あるだろう。付き合ってくれないか。」

 

 杉浦教授は、東大寺大仏殿から300mほど西側にある戒壇院へ彰夫を連れていった。「戒壇」とは受戒の行われるところで、「受戒」とは僧侶として守るべき事を確かに履行する旨を仏前に誓う厳粛な儀式のことだ。つまり戒壇院は、この儀式によって正式な僧侶が誕生する神聖な場所なのである。戒壇堂へ入堂すると二重の檀があって、参拝者は下の檀に上がってぐるりと一周しながら、上檀の四隅に立つ四天王の各像と目の前で対面することになる。彰夫は、黙って壇を回遊する杉浦教授について歩いた。

 四天王はもともと古代インドの神々で、仏教に取り入れられる際に四方を守る護法神となった。仏教の世界観の中心にある須弥山(しゅみせん)の中腹の四方におり、帝釈天に仕えているという。日本に数ある四天王像は、仏法を侵そうとする外敵を威嚇する猛々しい表情をしており、東大寺戒壇堂の四天王像もまた武神の姿で、内側からあふれるような怒りの表情をたたえている。東南隅に剣を持つのが持国天、西南隅に槍を携えて立つのが増長天。北西隅に巻物を持つのが広目天、北東隅に宝塔を高く掲げているのが多聞天である。

 彰夫はそれぞれの像の顔を覗き込んだ。像の高さは163センチほどの等身の像で、増長天のみが口を開いて忿怒形をしているが、広目天・多聞天・持国天は口を閉じて内面に怒りを秘めている。各像ともそれぞれの表情に深みがあり、写実的で迫力がある。ミケランジェロ・ブオナローティが誕生した1475年より遥か昔の天平時代に、人間の内面の怒りや感情をこれほど高度に描写する天才仏師が日本にいたというのが凄い。

「この四天王を観た感想は?」

「それぞれ深みのある顔で個性的ですよね。」

「個性的ね…そうさっき君が言っていた個性だね。でも、各像とも出で立ち、姿勢、小道具、そして表情は違うが、良く見ると顔が同じ人物に見えないかい?」

 彰夫は杉浦教授の言葉にあらためて各像を見直した。

「ギリシャ神話に登場するオリンポスの神々は、それぞれが個性的で、人間的な感情を持っている。そして神々同志の関わりに人間を巻き込んで様々な事件を引き起こし、いたって説諭的な伝説を作りだした。しかし仏教の世界では神々について別な考え方をしているんだ。この四天王を含むすべての神が同一の存在であり、それぞれの神は、役割に応じて唯一のモノが形を変えているにすぎない。」

 彰夫は杉浦教授の話しをひとことも漏らさず記憶し、理解しようと懸命に耳を傾けた。学生時代に同じ気持ちで講義を受けていたなら、彼も今頃は準教授になっていただろう。

「この四天王を俯瞰して見てごらん。四天王の各像を繋げている、スピリチアルなエネルギーの紐が見えないだろうか。」

 杉浦教授は彰夫に向き合った。

「基本人格であろうと、交代人格であろうと関係ない。テルミさんも好美さんも、その名前が示す個性は、ひとつのディバイスにしか過ぎない。決してアイデンティティーを表すものではない。そう思わないかい。僕は彼女たちを繋げる目に見えない唯一のものが、彰夫君との関わりを求めたんだと思えて仕方が無い。『目に見えない唯一のもの』の存在を科学的に証明できなくとも、及川君はおぼろげながらにもそれを感じ取ってはいるはずだ。彼女たちに何ができるかなどと高邁なことは考えず、それが君にとってどういう意味を持っているのか、それは失うことのできない大切なものなのかどうか、恐れずにもう一度会って確かめてみてはどうだい。」

 

 彰夫は、高井家の表木戸の前に再び立っていた。呼び鈴を鳴らすかどうか、最後のところで躊躇しているのだ。杉浦教授は、もう一度会って確認しろと言うが、実際に好美やテルミの前に立って、どんな感情が湧き出るのかまったく予想ができなかった。嫌悪や恐怖だったらどうするんだ。顔だけ見て逃げ帰るのか。

「また君か…。」

 彰夫の背後で男の声がした。振り返ってみるとその声の主はテルミの父であった。彰夫は腹を決めた。

「テルミさんは、お戻りでしょうか?」

「だったらどうだと言うのだ?」

「お会いしたいのですが…。」

 テルミの父は、彰夫の頭のてっぺんから足のつま先まで、時間をかけて眺めまわすと、ため息をつきながら言った。

「たしかにテルミは帰ってきているが、今は家に居ない。」

「そうですか…では出直してまいります。」

「ちょっと待ってくれ。少し話をしないか。立ち話もなんだから、家に入りたまえ。」

 彰夫は、しばらく黙ってテルミの父の真意を推し量ったが、年上から乞われているのに、辞して帰るのはあまりにも失礼だと考え直しテルミの父の申し出に従った。テルミの父は彰夫を玄関から家に入れず、庭に回って縁側に案内した。彰夫を縁側に座らせて、家の奥に引っ込む。しばらくして小盆にとっくりとお猪口を載せて戻ってきた。

「すみません。私はまったくの下戸でして…。」

 酒を誘われる前に、慌てて自分の事情を説明する彰夫。父親はさげすむような視線をくれて言った。

「君は飲めないのか…つまらん男だな。」

 テルミの父親は、彰夫用に持ってきたお猪口を台所に投げて戻すと、手酌で飲み始めた。テルミの粗暴な言動は、父親譲りだと彰夫は思った。

「2週間ほど前に、ストーカーから逃げてきたと言ってテルミが戻ってきた。ストーカーは君か?」

「とっ、とんでもありません。自分はそんなこと…。」

「わかっているよ。普段のテルミだったら、ストーカーなんて半殺しにしているはずだ。決して逃げまわるような娘ではない。」

 テルミの父親は、彰夫をちらっと一瞥すると話を繋げた。

「しかし、どうやら君から逃げてきたのは確かなようだ…。」

 父親がグイッと煽ったお猪口に、彰夫は徳利を取って酒を注いだ。

「名前をまだ聞いていないが…。」

「すみません。及川彰夫といいます。」

「テルミとはどういう関係だ?」

「テルミさんとルームシェアをさせて頂いています。」

「なんだそれは…。」

「平たく言えば同じ部屋を共有して暮らしているということで…。」

「なにっ、同棲しているってことか?」

「いえ、あくまでもルームシェアです。」

「英語使えば、年寄りをごまかせると思ったら大間違いだぞ。日本語で言え。」

 恐ろしい剣幕で彰夫に詰め寄る父親に、彼はテルミが短気なのも遺伝なのだと思った。言葉を間違えたら殺されかねない。慎重に言葉を選んだ。

「いわゆる…ひとつの部屋で共同生活することです。」

「それを同棲って言うんだろが。」

「いえ、そうではなくて…。」

「不愉快だから、もう説明せんでいい…。ところで、テルミとは男と女の関係なのか?」

 彰夫は絶句した。こんなにダイレクトに聞いてくる父親にお目にかかったことが無い。返事の返しようが無かった。

「黙っているということは、そういうことなんだな。」

「…どう説明したらいいかわからないだけです。」

「説明はもういらないと言っただろう。イエスかノーで十分だ。」

 彰夫は頭を小突かれたような気分になった。

「テルミは変わった娘だろう。」

 彰夫は、この父は娘が解離性同一性障害であることを知っているのだろうかと考えた。

「確かに変わっていると思います。」

「テルミは、母親を中学時代に亡くした。男勝りの言動でよく母親を泣かせたが、それはテルミなりの母への愛情表現だったと思っている。ああ見えてもテルミは繊細な娘でな。高校時代、クラスメートが自殺した事件があった。その子の死は、まったくテルミに関係はなかったのだが、自殺する直前にテルミとその子の接点があった。どうやらその時テルミらしい粗野な言動をその子にしたらしい。その子を殺したのは自分だとひどく自分を責めて、学校へも行けず引き籠ってしまった。」

 彰夫は、父の空のお猪口にまた酒を注いだ。

「父親としてはどうしていいかわからなかったよ。つらい時期だった。しかし長い間かかったが、ようやく自力で部屋から出てきて、学校にも通い出したのだが、どうも以前のテルミではなかった。なぜか性格がより粗暴になった。当然友達も離れ、学校では孤立した。たまたま絵が上手かったので、東京の美大に合格して上京したのだが、娘ひとりの生活が心配でな。電話して様子を聞くと、かまわないで欲しいヒステリックに怒りだす。仕方がなく定期的にテルミのアパートへのぞきに行き、元気な娘の姿が確認できれば、そのまま声もかけず帰っていた。そうしているうちに、3か月前だったか…、何も言わず急に引越ししてしまい、所在がわからなくなってしまった。」

 好美が江ノ島ハウジングに来た時期と一致する。

「心配していたら、突然テルミが実家に帰って来た…。」

 父親の声が初めて弱々しくなった。

「君に嘘を言って申し訳なかったが…実は戻ってきた日からずっと、昔のように食事もろくに取らず、部屋に引きこもったままなんだ。そして、テルミを追って今日は君がやってきた。」

 酔いで充血した目で彰夫を見据えた。

「いったいテルミの身に何が起きているのか…わしには到底理解できない。なんとか、テルミを救い出してくれないか。」

「おとぎ話みたいに、城に幽閉されたお姫様を助けに来た騎士だったらいいんですが…。申し訳ありませんが自分にそんな力などありません。」

 彰夫のそっけない返事は、テルミの父を逆上させた。

「人が頭を下げて頼んでいるのに、なんだそのやる気のない返事は。もういい、帰ってくれ。」

「わかってください。自分はただテルミさんに会いたくて、ここにやってきただけなんです。とにかく…テルミさんと話をさせてください。」

 テルミの父は、酒をあおって返事を返してこない。彰夫は縁側に手をついて頭を下げた。

「お義父さん、お願いします。」

 テルミの父親はそんな彰夫をしばらく見つめていたが、やがて諦めたように口を開いた。

「わかった、とにかくテルミの部屋のドアを開けさせてくれ。できるか?」

「自分には考えがありますから…。そのかわり、お義父さん飲んでいるそのお酒を少しお借りできませんか?」

「好きにしろ…テルミの部屋は、2階にあがった右だ。」

 彰夫は、義父が台所から持ってきた日本酒の一升瓶を抱えると、礼を言ってテルミの部屋に向った。

「ああ、それから…。」

「なんですかお義父さん。」

「わしは今まで、娘に会いに来た男がわしをお義父さんと呼んだら、きっとその場で半殺しにするだろうと思っていたが…案外許せるもんだな。」

 テルミの父の言葉を聞いて、彰夫はもしかしたら半殺しになってかもしれない言葉を無意識に使ってしまった自分が恐ろしくなった。

 

 テルミの部屋の前に立った彰夫はしばし考えた。ことを始める前にまず中に居るのが今、テルミなのか、好美なのか確認する必要がある。すると彰夫が策を弄する必要もなく、中からテルミの声がした。

「彰夫なんかに会いたくないわ。帰って。」

 なんで自分が来たことを知っている?縁側での義父との会話に聞き耳を立てていたのか?自分の世界に籠っているのではなく、何かを待っていたのか?

「テルミ、久しぶりだな。」

 テルミからの反応は無かった。

「もうずっと部屋にこもっているんだって…。そろそろお酒が切れてる頃じゃないか?」

 あいかわらず返事が無い。彰夫は言葉を続けた。

「今日ね、お義父さんが注文していた酒が入ったんだって。聞いたら、『風の森』とかいう幻の銘酒らしいよ。へぇー、奈良の蔵元の酒なんだ…。1719年 享保4年創業、油長酒造か…。」

 部屋の中で人の動く気配がした。

「あれ、一升瓶に解説の書いたタグが下がってら。なになに…金剛渇城山系地下100mの湧水を用いられ、最初の飲み口では協会7号酵母ならではのフルーティーな上立ち香と含み香が出現します。俺には意味がわかんないな…。」

 ドアのすぐ向こうにテルミがいる気配がする。

「ほかは何と書いてあるんだ…。飲むほどに、丸みのあるなめらかな飲み口、そしてソフトな甘みがゆっくりと広がります。山田錦の親、雄町という米の特徴である、豊な甘みと優しい酸味を楽しめるお酒です。だって…。」

 彰夫は、中で唾を飲み込む音を聞いた。

「あれ、透明じゃないんだな。ああ、これが無濾過生原酒ってやつか。ほんのり色づいた景色も楽しい…。」

 テルミの部屋のドアがわずかに開くとコップを持った手がにゅっと出てきた。久しぶりに見る彼女の白い肌だ。彰夫は一升瓶を傾けると、コップに半分だけ『風の森』を注いだ。コップ持った手がドアの向こうに引っ込むと、喉を鳴らして一気に飲む音のあとに、『カーッ』という酒飲みのため息が聞こえた。久しぶりの酒がテルミのからだに染み渡っているのだろう。白く滑らかな手がまた出てきた。空のコップをゆすって、酒を催促する。彰夫は今度も半分だけ注ぎながら言った。

「テルミ、なんで急にいなくなったんだ。」

 部屋の中から返事はなかった。そのかわりに、また空になったコップに酒を催促する手が出てきた。今度は、彰夫はその手を握った。手はドアの奥に逃げることなく、彰夫の求めを拒むことなく動かなかった。久々に触れる彼女の肌。その白く、柔らかく、そして滑らかな肌に触れていると、肌の奥深くにある温かみが彰夫の手に伝わってくる。この暖かさは、憶えがあるぞと彰夫は思った。遥か昔に封印した記憶が蘇ってきた。そうだ、母親の手の暖かさだ。彰夫が、好美やテルミとの暮らし中で、彼女たちからおぼろげながら感じ取っていたものは、この暖かさだったような気がする。

「テルミさんが…彰夫さんといると…本来の自分じゃなくなっていくようで…嫌だと言っています。」

 中から好美の声がした。彰夫は別に驚きもしなかった。

「それは、テルミだけが言っているのではなく、好美も同じだろ。」

 好美からの返事はなかった。

「でも…本来の自分ってどんなんだろうね?」

 彰夫は彼女の白い手を、指で優しく愛撫しながら言葉を繋げた。

「本来の自分じゃないと思っている自分が、もしかしたら本当の自分かもしれないよ。恐れないで、その時の自分を受け入れればいいんじゃないかな。」

「彰夫さん。」

「なんだい?」

「テルミさんが言うには…、自分が思い込んでいるわたしが、本当の私でないなら…。」

 ドアから覗く白い手が、今度は彰夫の手を掴んだ。愛情の表現と言うよりは、逃がさないぞと言っているような握り方だった。

「酒が飲めないと思いこんでる彰夫は、本当は飲めるのかもしれない…。と言っています。」

 白い手が、空のコップを彰夫に差し出した。しかし彰夫は、身体を硬直させてコップを受け取ることができない。飲んだら、自分はどうなってしまうんだろう。そう考えると眼の前の日本酒が心底恐ろしかった。

「口ばっかりね、あんたは…。とテルミさんが言っています。」

「そうだね…テルミの言う通りだ。…結局やってみなければ、何が本当の自分なのか、自分ではわからない。」

 彰夫はコップを受け取ると、なみなみと日本酒を注いだ。

「彰夫さん。無理しないで…。」

 心配する好美に彰夫は言った。

「本当の自分探しの旅に出発だ。」

「テルミさんが、大げさに言うなと言っています。」

 彰夫は一気にコップを飲み干した。子供の頃の事故以来、初めてアルコールを身体に入れた彰夫。コップを口にした瞬間、確かにわずかであるが清々しい香りがした。案外スムーズに酒がのどを通っていく。飲みきった瞬間は、美味しかったのかもしれないと思った。なんだ、どうってことない。しかしそんな快感も束の間、やがて心拍数が上がり、額の血管が音を立てて血液を運び始める。身体中の血液が顔に集まってきたような気がした。頭痛が始まる。手首を見ると湿疹のようなものが見えた。やがて彰夫は、焦点が合わなくなった眼で、ゆっくりと部屋のドアが開くのを見た。

「彰夫って、本当に面白いわね。」

「そうですね。生理的にダメなものは、ダメだと、誰でも解ることなのに…。」

「こいつやっぱりひとりじゃ駄目ね。」

「はい。しっかり面倒見ないと…。」

 彰夫は薄れていく意識の中で、テルミと好美が話しあっている声を聞いたような気がした。

 

 3年後、テルミの父は、自宅の縁側で孫を抱いていた。彰夫は、宅建資格が自分の肌に合わないとわかってとうに不動産屋をやめた。今では杉浦教授の推薦で、奈良大学の大学院で心理学の研究をしている。出産を終えたテルミと好美は、奈良県立美術館にキューレターとして復職した。好美とテルミは相変わらず入れ代わり現れて彰夫を翻弄するが、この頃になると彰夫もコツがわかってきていた。テルミか好美かその針が大きく振れた時は、彼女の耳のホクロにキスをするのだ。そうすると、唯一無二の彼女が彰夫の腕の中に飛び込んでくる。 (了)

 


 
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