No.527948

ドナリィンの恋 上

短期交換学生で日本に来たフィリピーナのドナ。ある日歓迎パーティーの2次会でアクシデントに遭遇するが、そこで出会った日本人の若者佑麻に恋をする。自分の将来をしっかりと考えて日本に来日したドナ。自分の将来をまだ真剣にとらえていない佑麻。どんなに佑麻を好きになっても、フィリピンの家族と未来を捨てることのできないドナは、佑麻との恋を諦め帰国する。今度は諦めきれない佑麻が、彼女の大学名だけを手掛かりにドナを追ってフィリピンへ。

2013-01-05 05:34:06 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:503   閲覧ユーザー数:503

 

 マニラ発全日空950便は、15時に成田空港第1ターミナルに到着した。やっと面倒な搭乗客から解放される喜びに、満面の笑顔を見せるキャビンアテンダント。上目遣いに厳しい眼差しを向ける入管管理官。親しげな態度ながら疑いのトーンの声色で言葉をかける税関職員。胸をドキドキさせながらも、そんな人々の前を抜けて、ドナは成田空港の到着ロビーへ現れた。

 様々な人々の出会いと再会のドラマがロビーいっぱいに繰り広げられている中、ドナも叔母であるノルミンダの姿を見いだして、喜びと安堵の入り混じった声をあげて、叔母の胸に飛び込む。久しぶりに会った叔母は、少し太ったようだ。叔母の横に静かに控えていた叔父の頬にも再会のキスをすると、日本人では慣れない挨拶に叔父は恥ずかしそうにしながらも、優しくドナの肩を抱いて歓迎の意を表した。

 ドナはフィリピンの十九才の娘。マニラで大学の看護学部に通っているが、日本人と結婚した叔母のはからいで、叔母の家にホームスティしながら短期体験留学することとなった。彼女にとっては初の海外。日本語はまったく理解できなかったが、母国語のタガログ語の他に英語が話せた。

 ドナとノルミンダは、成田空港から都内の自宅へ向かう車の中で、タガログ語で機関銃の打ちあいのように近況を報告し合う。やがて、東関東自動車道から首都高に入るとふたりの話も落ち着き、ドナは車窓から覗ける外の景色にくぎ付けになった。ビルの合間を縫って走るハイウェイが、映画に出てくる未来都市のようだ。それにしても、奇怪な文字が描かれている屋外看板とそれが立ち並ぶ街の風景は、とても奇妙に感じる。もちろん、なんの看板なのか皆目検討がつかない。そう言えば成田空港で見た日本の女性たちも、今まで祖国では見たことも無いファッションを身にまっとっていた。三宅坂トンネルをくぐりながら、ドナは一生に一度の冒険が始まっていることを実感した。

 

 伯母のノルミンダの家にくと、ドナは滞在中自分の寝室になる部屋に案内された。なかなかいい部屋だ。彼女はさっそくスカイプで国に残る妹のミミに連絡した。

「Hello nandito na ako.(無事に着いたよ。)」

「Maaga ka ha.(結構早いのね。)」

「Kumusta si Nanay?(マムはどう?)」

「Ayun medyo malungkot pero masasanay din sya.

(少し寂しがっているけど、そのうち慣れるでしょ。)」

 ミミに呼ばれて、マムが画面に登場してきた。

「Mainit ba dyan o maginaw ? Kumain ka na ba?

(暑いのかい?寒いのかい?ご飯は食べたかい?)」

 マムの質問攻めに、ドナはひとつひとつ丁寧に答える。

「Dona! I miss you! (ドナがいなくて、寂しいよ!)」

 今度は、幼友達のドミニクがウェブカメラに乱入してきた。彼はドナと同じ年の青年で、家が近く、小さいころから家族同然に育った。少々乱暴で街でよくトラブルは起こすが、ドナにはいたって従順だ。

「Dominc. Salamat sa paghatid sa akin sa airport. Pangako mo sa akin. Hindi mo pababayaan sila Nanay.

(ドミニク。空港まで送ってくれてありがとう。空港で約束した通り、私が居ない間は、ちゃんとママと妹の面倒を見てあげてね。)」

「OK! Sige ako na bahala sa kanila wag kang mag alala.(オーケー、ちゃんとやるよ。) 」

「Kumusta si Norminda ?(ノルミンダは元気かい?)」

 マムの問いに、今度はドナのウェブカメラに、叔母が登場する。

「Mabuti naman!(元気ですよ!)」

「Medyo tumaba ka ah?(少し太ったんじゃないかい?)」

「Masarap siguro ang mga pagkain dyan. Patatabain ko rin si Donna wag kang mag alala. OK, mag hahapunan na kami mamaya na lang ulit tayo mag Skype.

(日本はご飯がおいしいからね。ドナも太らせて帰すから安心して。さあ、晩御飯だからスカイプはまた後で…)」

「Love you !」

 相互にそう言いあって、PCをシャットダウンする。いよいよドナの日本での生活が始まった。

 

 短期体験留学は、少学生化に悩む私大が推進しているグローバル教育プログラムだ。このプログラムへアジアの様々な国の若者たちが参加していた。大学は早速ルーキーの為に恒例のウエルカムパーティーを催した、これはクラスメイト達の親睦を図ることが目的だった。大学でのパーティーが終わると、クラスメイトの先輩はドナを六本木のクラブハウスへ誘った。ドナは最初断ったが、結局同行を了解することとなる。門限時間を守るようにノルミンダから言われているにもかかわらず、はじめての海外生活に、好奇心が勝ったようだ。

 クラブハウスの大音量に圧倒されながら片隅で飲んでいると、男達のグループに話しかけられた。身なりは小奇麗ながらも、片言の英語で近づいてくる物腰は多少強引で図々しくもあった。いかにも遊びなれた男たちのようだ。同席を断り切れず、グラスを重ねた。そのうち酔いがドナ達の警戒心を和らげ、先輩は気のあった男たちとフロアーへ踊りに出ていってしまった。取り残されたドナは、席に残った男から投げかけられる意味不明な英語に困惑していた。

 盛んに男は、ドナへエメラルド色のカクテルを進める。そのしつこさに根負けしてカクテルに口をつけると、甘すっぱいその飲み口が気に入った。相手の下手な英語につきあうよりは楽なので、ドナは幾度か口にグラスを運んだ。

 ドナの記憶はそこから断片的になる。どこかの一室のソファに身を投げ出されて、意識が少し戻った。先程の男が自分のからだに覆いかぶさろうとしている。事態がはっきり把握できないながらも、恐ろしいことが自分の身に起きつつあることを感じた。抵抗しようにも体が思うように動かない。自然と涙が出てきた。日本人相手に通じるわけもないタガログ語で、「Utang na loob wag naman.(お願いだからやめてください。)」と言葉を弱々しく繰り返す。薄れていく意識の中で、ドナは別の男の声をはっきりと聞いた。

「俺の女だ。触れたら殺すぞ。」

 日本語である。もちろんその意味はわからない。そしてドナは完全に意識を失った。

 

 ドナの家の前にタクシーが着く。玄関の前では、先程から心配そうに叔母夫婦がドナを待っていた。タクシーからドナを抱きかかえて青年が出てきた。ブラウスの一部が裂けたドナの身なりを見て、叔母夫婦は驚き、そして青年を睨みつける。叔父が奪うようにドナを受け取ると、何も言わずに家の中へ運んでいった。ノルミンダは青年の前に立ちはだかった。

「ドナの携帯電話に出たのはあなた?」

「…はい。」

「あなたは誰?」

 青年は下を向いて答えなかった。

「ドナに何があったの?」

 青年はクラブハウスであった一部始終を話した。そして、ドナのブラウスの一部は裂けているが、それ以外は、朝に家を出てきた時と同じ彼女そのものであると言葉を締めくくる。

 いきなりノルミンダは、青年の顔に平手打ちをくれた。

「ドナにお酒を飲ませてどうしようとしたの。ドナがフィリピーナだから、馬鹿にしているの。」と興奮して言い放つと、青年の鼻先で荒々しく玄関を閉めた。青年はひとり取り残され、しばらくは動けずにいた。

 

 窓から差し込む日の眩しさで、ドナが目を覚ました。起き上がろうとするが、頭が割れそうに痛い。とりあえずそこが自分のベッドであることを確認すると、安心してまた横になる。彼女は途切れがちな昨夜の記憶をたどった。怖い目にあったと記憶にはあるが、そのことよりもなぜか、タクシーに乗せるために自分を軽々と抱きかかえた逞しい腕と、その時頬に当たったリングの冷たさだけが、鮮明に体感として残っている。あの時、別な男が言った「オレノオンナ」その意味は何だったのだろう。痛む頭を揺らさないように、やっとの思いでリビングに降りたが、ドナを叔母が待ちかまえていて容赦のないお説教を開始する。ドナが頭痛ときついお説教の千本ノックに耐えている一方で、玄関先では一人の青年が、小さな花束を手にドナの家の呼び鈴を睨みつけていた。

 突然玄関が開き、驚いた青年が身を隠す。大学の講義に遅れるからと理由を付けて、叔母から解放されたドナが、勢いよく飛び出してきた。年齢にそぐわない程の可愛らしい少女走りで、先を急ぐ。彼は慌てて自分のバイクにまたがり、後を追った。ドナは、近くのバス停からバスに乗り、彼女が通う大学前で降りる。途中で出会った学友と笑いながら語らい、そして校門の奥へと消えて行った。

 青年はいつまでもドナの後ろ姿を見送っていた。

 

 歓迎パーティーから何日か過ぎたある日。ドナは、走るバスの窓から外をぼんやり眺めていた。日本には、「四季」というものがあるそうだ。それぞれの季節によって景色が変わるというが、四季の無い国から来たドナには想像ができなかった。自分の滞在は短期間だが、できれば季節のすべてを体験できればいいのにと考えていた。やがてバス停に着き、ステップを降りると小さな花束を持ったひとりの若者が視界に入った。その首元のチェーンについたリングの光を見た瞬間、ドナはパーティーの夜のことを思い出しその体が硬直した。恐れというよりは、驚きで心臓が高鳴る。その若者が一歩近づくと、弾かれたようにドナは大学の門へ走り出したが、若者は追ってはこなかった。

 翌日の朝もその若者は、バス停に立っていた。すでにドナはバスの窓から彼の姿を確認していたので、今日は一瞥もくれず足早に学舎へ急いだ。一週間がすぎ、土日をまたいでも同じことが続くと、ドナは不本意ながら自分の生活リズムを変えざるを得ないと感じていた。翌朝は、いつもより1時間早いバスに乗ったが、それでも彼の姿をバス停に見つけた時は、嫌悪というよりは、僅かではあるが敬意のようなものを感じた。

 ドナは彼の前に立ち、初めて彼の姿を正視する。少し茶がかった髪は、ワイルドに整えられ、肌の白さとグレーに透きとおった瞳の色は、彼は生まれながらに色素が足りなかったのだと思わせる。黒く光る髪と瞳を持つドナとは好対照だ。比較的長身で素直に伸びた手足は、しっかりとした体幹に支えられ、子供の頃から栄養摂取に恵まれていたことがわかる。ドナを軽々と抱きかかえた柔軟な筋肉は、白いポロシャツの上からもうかがえる。少し切れ長の涼しい目元は、今はちょっと伏し目がちで、なかなか言葉を言い出せない気持ちが読み取れる。小さな花束を持つ綺麗な指先は、触るととても柔らかそうだ。こんな男は、国では滅多にお目にかかれない。それにしても、なんてみずみずしい唇をしているのか。観察が妄想へと変化しそうになった時、ドナは彼のことばで我に返る。聞き覚えのある声だった。

「I just want to apologies what happen last time.…

(この前のことでお詫びしたいのですが…)」

 その言葉が合図であったかのように、ドナは何も答えず踵を返して足早に校門へ向かう。今度も彼は動かずに、そのままドナの後ろ姿を見送っていた。

 

 それからまた何日か過ぎた。大学の教室でクラスメイトに囲まれるドナ。バス停の彼はもうクラスの有名人になっていた。

「How's your stalker ?(バス停の彼は、相変わらず?)」

「I don't know, but he wait for me every morning, rain or shine he always there. 

(ええ…雨の朝も、風の朝も、相変わらず待っているわ。)」

「You knew he is a bad guy.(あいつはドナに乱暴した悪い奴なんでしょ。)」

 しかしドナはある朝、彼が毎日のバス停通いで顔見知りになった高齢者に、親切に何かの説明をしている姿を見た。また、バスに駆け込み、転びそうになった子供を支え、無事に乗り込んだ子供に手を振る彼の笑顔もかいま見た。あんな恐ろしいことがあった夜と彼のイメージとが、今ではなかなか繋がってこない。

「So , what are your plans now ?(どうするつもり?)」

「Plans ? To tell you the truth, I don't know. I can't think. And I don't even know what to do.(どうしたらいいかわからない…)」

「Do you have any idea why he's doing that ? Does he really want to apology or..., there's something else?

(そもそも、彼は何のために毎朝あのバス停でドナを待っているの。謝罪?もしかし   て、告白?)」

「What do you mean?(まさか…)」

「Look, If he really want to say sorry or ask for your forgiveness. He doesn’t have to do that every day. Just go straight to you and spread it out...

(謝罪なら、早く受けちゃいなさいよ。そうすればもう毎日顔を合わせる必要もなく   なるでしょ。)」

 『もう顔を合わせる必要がなくなる。』ドナは、その言葉を受け入れるのにわずかな抵抗を感じた。

 

 ドナが謝罪を受け入れようと決心した朝。しかし、その日に限って、彼の姿はバス停にない。どうしようかと思い迷って、ベンチで腰かけていると、ほどなくして慌てて走ってくる彼の姿を認めた。彼の方はバス停にひとりたたずむドナを発見して、思わず立ちどまる。ドナが自分を待つ。彼にとっては想定外のことだった。彼は、すぐ逃げてしまう臆病な仔鹿に近づくように、ゆっくりと慎重に近づいていった。ちょうど5メートル位の間隔になった時、今度は、ドナが高鳴る自分の胸の鼓動を悟らせまいと後へ退く。彼は困って立ち止まった。そして少し考えると、今度はバス停のベンチに花束を置きゆっくりと自分が後ろへ下がった。ドナは、正確に5メートルの距離を保ちながら前へ進み、ついにベンチの上の花束を拾い上げた。

「Forgiven granted…(許してあげるわ…)」小さな声だったが、ドナの言葉を、彼はしっかりと受け取った。しばらく笑顔でドナを見つめていたが、軽く会釈をして言葉もなくドナから離れて行く。相手の背中を見送るのは、今度はドナの方だった。やはり、彼の目的は謝罪だけだった。彼の姿がもと来た道に消えるのを確認すると、少しばかりの失意を抱きながら、ドナは小さな花束をデイバッグに挟み込み、遅れた講義へと急いだのだった。

 

 実は、ドナはその日の講義内容が何も頭に入っていなかった。帰宅しても、自分のベッドルームにこもり、小さな花束をただ漠然と見つめていた。叔母に、夕食の準備を手伝うように促されて、ようやくベッドから起き上がる。食事中、大学の様子を聞く叔父の質問にも、生返事で答えるだけだった。食欲もなく、終わっても雑に食器を片付けて叔母に叱られた。今日はやる気が起きない。どうしてなのか、ドナにも訳がわからない。せめて今日受け取った切り花を、コップに活けるぐらいはしようと、水を満たした大きめなコップを持って、自分の部屋に戻った。花束の輪ゴムを解いたとき、葉の間からひらりと小さな紙切れが落ちた。

"Send me a mail when you need my help. yuma-i@ **.******.jp ISHIZU, YUMA."

 彼の名前はユウマなんだ。メモを見つけたドナの歓声で、驚いた叔母夫婦が部屋に駆け込んできた。

 

 大学サークルでのアイスホッケーの練習が終った。ロッカールームへ駆け込むと、佑麻はまず携帯をチェックした。メールはない。やはり、相手に連絡させるのはハードルが高かったのかもしれない。花を受け取ってもらってから1週間。彼女からのレスポンスはなかった。メモに気づかなかったのか。それとも全く関心がないのか。今となっては、あの夜タクシーで彼女の携帯番号を取っておかなかったことが悔やまれる。また、待ち伏せしかないのかよ。ストーカーだよな、これじゃ・・・。そう思いめぐらせていると突然、携帯に着信が来た。取り落とすほどのあわてぶりで携帯をとったが、残念ながら相手は佑麻の待ち人ではなかった。

「俺だ。もう練習終わっただろ。由紀の買い物に付き合う前に、診療室に寄れ。」佑麻の兄からのコールだった。

 佑麻の父が院長の病院。そこに、長男が内科医として勤務している。佑麻が兄の診療室のドアを開けると、兄はすでに外来を終えて書き物をしていた。

「来たか。」

「なんか用?」

「自由専攻学部のお前も、そろそろ専攻を決めなきゃいけない時期だろう。」

「ああ」

「どうするつもりだ。やっぱり、医者になる気はないのか?」

「・・・」

「この病院で俺が内科を診て、お前が外科を診る。それが親父の希望なのは知っているよな。」

「・・・俺には、人の生死に直接関わる仕事につくなんて勇気はないよ。」

「大げさに考えすぎじゃないのか。」

「・・・」

「まあいい。親父の期待は別にしても、進路を決めたら真っ先に俺に言うんだぞ。わかったな。」

「わかったよ。」

「ところでこれから由紀の買い物のお供だろ。忙しい俺の分まで、ちゃんと面倒見てくれよ。俺達の可愛い妹なんだから。」兄は札入れから、万札を数枚取り出した。

 佑麻が診療室を出ると、外来ロビー待っていた由紀が、可愛く手を振りながら、大きな声で彼を呼ぶ。

「佑麻にいちゃん!」

 由紀の天真爛漫な言動は、女子高校生になっても変わらない。兄は、父の手で厳しく育てられた。佑麻は母の愛で、優しく育てられた。しかし、由紀は幼い頃に母が亡くなったので、母の顔もぬくもりも、何も覚えていない。だから、兄と佑麻は母親代わりに、末妹の由紀を可愛がった。そのことが、天真爛漫な由紀を作る結果となっている。幼かった由紀も、今では少女から女性へと変化し始める時期で、妹ながら見ていても愛らしいと感じる兄達だった。

「兄貴から、由紀へ小遣いだよ。」さきほど渡されたお金を由紀に渡す。由紀は、そこそこイケメンで自分に甘い二人の兄が大好きだった。

「ラッキー、それでは出発ーっ!」佑麻は由紀に腕を取られて、ワールドブランドショップが立ち並ぶショッピングモールへと引かれていった。

 

 ドナは花束を受け取って以来この1週間、落ちつかない日々を過ごしている。もしかしたら、彼はメールを待っているのかもしれない。なら、メールを送るべきか、でも、これといって用もないのに送ったら軽い女にみられるかもしれない。やっぱりやめよう。けど、会って話したい気もする。いいや、お互いの母国語が通じない二人が会って何を話すのか。こんな問答がメビウスリングとなって頭を巡る。日本の看護学校の見学を終えたバスの中で、ドナはこの日もメビウスリングと格闘していた。

 バスが信号待ちで止まった。ドナがふと車窓から街に目を移すと、眺めていた街の中で、まぎれもない佑麻の姿が目に飛び込んできた。彼は両手に女性物ブランドの買い物袋を持ち、キュートな女性に腕を引かれて、楽しそうにまた次のショップに入ろうとしている。

「Napaka walang hiya nya.…

(私がメール一本に悩んでいるときに、あいつは女の子と楽しく買い物かよ。)」

 ドナは無性に腹が立ってきて、自分の携帯を取り出すとメールを打った。

『I'm hungry, meet me now at the bus-station close to my house!!! Donna.

(おなかすいたわ。家の近くのバス停まで来て、今すぐ!ドナ)』

 ドナのバスからも、佑麻がポケットから携帯を取り出す姿が見えた。メールを確認している。それからの彼のあわてぶりは遠目に見ても滑稽だった。連れの女性に手を合わせて頼みこんでいる。そして、買い物袋を押しつけると、抗議する女性に目もくれず、車道の縁石につまずきながらも、プールに飛び込むようにタクシーの後部シートに転がり込む。彼の挙動を一部始終見ていたドナは、くすくす笑いながら、ちょっとした意地悪な満足感を味わった。

「Teka lang…sandali(・・・でもちょっとまってよ。)」

 やがて、ドナは自分が何をしでかしたかに気づく。ついに佑麻を呼び出したのだ。そして彼は、今の何よりも優先して、ドナが指定する場所へ飛んでいった。ドナを乗せたバスが行き着くところで、彼が待っている

 

 バスのステップを降りると、バス停のサインに寄りかかりながら待ちうけていた佑麻が、ドナに気づく。佑麻が近づいて話しかけようとすると、ドナはまた後ろに下がってしまう。ドナは、デートの経験がないのでこういう時の男性との距離感がわからない。佑麻がまた一歩進むと、ドナはまた一歩下がってしまう。はじめて花を受け取った時の再現である。5メートルの間隔をあけ、お互い困った顔をしながら見つめあう。しばらくして、佑麻は近づくのを諦めて、少しあけた口に指を運び、手振りで『何が食べたいの?』とドナに問いかけた。ドナは、フォークをくるくる回して麺をからめ取り、口に入れるしぐさで答える。

「ああ、パスタ…。」指でOKサインを出し佑麻が歩き始めると、ドナは距離を保ちながらついてきた。

 カジュアルなイタリアンレストランを見つけ、店内へ。佑麻は、フロアスタッフにテラス席を希望し、紳士らしく椅子を引いてドナに着席を促すも、ドナは彼を通り越して隣のテーブル席に座り、悠然とメニューを開く。驚くフロアスタッフに小さく詫びながら、佑麻は仕方なく自分のテーブルに座った。指を鳴らしてドナの注目を引くと、メニューを開いて掲げながら、『何にする?』と手振りで問いかける。メニューは英語でも書かれていたので、ドナにもわかったが、彼女にちょっといたずら心がわいてきた。

 小さな黒板に日本語で書かれた日替わりパスタメニューを指し示し、『これは何?』と首をかしげるしぐさ。

「これ? Aは、エビと小松菜のぺペロンチーニだから・・・。」

 佑麻は離れたテーブルのドナに大声出して説明しようとしたが、彼のヘタな英語を他の客に聞かれるのも恥ずかしいと思い止まる。彼は、上半身を反らしながら泳ぐエビを表現し、からだを固めて畑にすくっと育つ野菜になり、そして指をちょっとなめて顔をしかめる辛い顔でパスタの味を説明した。ドナは、そんなパフォーマンスを披露する彼を唖然として見つめていたが、一通り終わったところで、今度はBを指し示す。

「えっこれも!Bは、イベリコ豚とマシュルームのクリームスープパスタ・・・、ちょっと難問だな。」

 佑麻が指で鼻先をあげて豚になり、頭を抱えてマシュルーム。角を作って乳をしぼる真似をしたところで、ついにドナは吹き出した。懸命に笑いをこらえながら、『私、やっぱりこれがいい。』と通常メニューのボンゴレを指差す。

「なんだよ。人にさんざんやらせておいて。」

 文句を言いながらフロアスタッフに二人のパスタをオーダーした。もちろん文句を言ったところで、ドナは日本語がわからないので伝わらない。しかし、ドナの笑顔を初めて見ることができたのは儲けものだった。佑麻の想像通りの可愛らしさだった。彼はテーブルのコースターに"Yuma Ishizu"と名前を書いてドナに見せた。それを見たドナは、"Donnalyn Estrada"と書いて応える。パスタが運ばれてくると、お互いがお互いを盗み見しながら、フォークを口に運んだ。ドナが空いたグラスを指で軽く弾くと、佑麻はフロアスタッフにドナのグラスに水を満たすようにオーダーする。佑麻が、コーヒーカップを持つしぐさをすると、ドナは小さな手のひらを振って、『お水で十分』と答える。こんな風に、ふたりの初めての食事は、静かではあったが柔らかく心地の良いものとなった。

 食事を終えて店を出た。ふたりはまだ、お互いの間隔を縮めることは出来なかったが、今度は前後ではなく横に並んで歩く。その方がお互いの様子が見やすかったのだ。家の前に着くとドナは、佑麻にほほ笑み、方手を胸に当てて軽く膝を折った。『ご馳走になって、ありがとう。』仕草の意味はすぐわかった。玄関の中へ消えようとするドナの背中に向けて、佑麻は初めて大きな声で呼びかけた。

「Could you call me again ?(また、連絡をくれるかい?)」

 振り返ったドナも、今度は大きな声で答えた。

「You, Next !(今度はあなたの番よ!)」

 

 その日から、ドナと佑麻の不思議なデートが始まった。佑麻の誘いで何度かバス停で待ち合わせたものの、お互いの5メートルの間隔が依然縮まっていかない。映画に行ってもドナは3つ隣の席に座るし、大学構内の広場でくつろいでもドナは隣のベンチに腰掛ける。もっと近づいてドナと話したい欲求はあったが、佑麻は急ぐのはやめようと考えた。距離はあっても、手振りやサインである程度の意思疎通は出来るし、時間になれば腕時計を指で軽く叩き、別に不快感なくバイバイできる。ドナが自然に近づいてくるのをゆっくり待とう。一方ドナは、佑麻と安らかに時を過ごすために、今はこの距離が必要だった。この距離であれば、無理して話す必要もないし、バランスのいい佑麻のシルエットをゆっくり観賞する楽しみも満喫できる。

 ある日のデート、佑麻はドナを公園の広場に誘った。短期間のスケジュールに押し込まれたドナの過密な講義や佑麻のサークル活動などの都合で、会っても一緒に居られる時間は少ない。貴重な時間を一刻も無駄にできないと、広場へ着いた佑麻は、バッグからフリスビーを取り出した。距離を持ちながらも、ふたり一緒に楽しめる遊びを徹夜で考えだしたのだ。ドナは、フリスビーははじめてだったが、見よう見まねで佑麻とキャッチとスローを楽しむ。慣れたところで佑麻はバッグから、もうひとつのフリスビーを取り出し、悪戯な目つきで2個を同時に投げた。ドナはこれしきの事なら大丈夫とばかり、ふたつのフリスビーを追って見事キャッチ。それを確認した佑麻は、3個目、4個目のフリスビーをバッグから取り出し同時に投げる数をエスカレートさせる。ドナは、必死に食らいついていたが、さすがに5個目のフリスビーがバッグから取り出されるのを目にすると、怒って背を向けて座り込んでしまった。佑麻は、なに事も一生懸命やろうとするドナの真摯な性格とともに、すねた顔も笑顔と同じくらい可愛らしいことを発見したのだった。

 ドナのご機嫌を直す意味も含めて、コップで飲むしぐさで『飲みもの欲しい?』と佑麻が問うと、ドナは親指を立てて『ちょうだい!』と答える。佑麻は、近くの売店へ向かった。ドナは、フリスビーをおしりの下に敷いて芝生に座りこむ。今日は気持ちのいい日だ。空を仰ぎながら、祖国の暑さを思い出そうとした。日本でこんな涼しい空気に触れていると、マニラの一年中続く重苦しい暑さを忘れてしまう。佑麻はマニラのむせかえる暑さをどう思うだろうか。雑多な臭気が混ざったチャンパカ通りでも、佑麻は顔をしかめず歩いてくれるだろうか。やがてドナは、なぜそんなことを思い始めたのか不思議になり、頭を振って考えを切り替えた。

 

「彼女。ひとり?」

 若い二人連れの男が、日本語で話しかけてきた。身なりを見れば、外国人のドナでも、彼らが紳士でないことは一目瞭然である。ドナは、立ち上がりこの場からすり抜けようとするが、もうひとりが行く手をふさぐように立ちはだかる。

「どこから来たの?」「かわいいじゃない。」「そのへんでお茶でもどう?」

 日本語の意味がわからなくとも、ドナは下品に笑いながら近づいてくる彼らが、何を目的としているのかはおおよそ察することができる。彼らの包囲から逃れようともがいていると

「俺の女に、何かようか!」

 少し怒気を含んだ佑麻の声が響いた。

 男たちの動きが止まった。その隙にドナは、男たちから逃れ、佑麻の背後に身を隠し、彼の腕にしがみつく。男たちはふたりをしばらくにらみつけていたが、舌打ちし、諦めたように去って行った。

 佑麻は、男たちが離れていくのを確認すると、みずからも軽く安堵のため息を漏らし、背中に隠れるドナを振り返る。彼女がわずかに震えているのがわかる。佑麻は、『大丈夫だよ。』と日本語で言いながら優しくドナの黒髪をなぜた。ドナにもその意味がわかったようだ。彼は買ってきたミネラルウォーターのキャップを開けて彼女に渡した。ドナは喉を鳴らして勢いよくミネラルウォーターを飲むと、少し落ち着きを取り戻したようだ。ふたりが戻らなければならない時間がやってきたので、佑麻は芝生に残したフリスビーを拾いに行こうとすると、ドナが彼の腕にしがみついたまま一緒についてくる。仕方なく佑麻はドナを片腕にぶら下げながら後片付けをした。

「It's getting late now Donna, Wanna take a walk back home?

(そろそろ時間だ。このまま歩いて帰ろうよ、ドナ)」

「Opo…(はい)」ドナは小さくうなずく。

 ふたりはそのまま腕を組んで歩いた。佑麻は、ついに腕にとまってくれた小鳥を逃がしたくなかった。ドナの柔らかさと温かさを腕に感じながら、出来るだけゆっくりと歩いた。一方ドナは歩きながら、またもや自分を救ってくれた魔法の言葉『オレノオンナ』の意味をしきりに考えていた。

 

「おい、佑麻。お前フィリピン人の女の子と付き合っているのか?」

アイスホッケーの練習後、シャワールームでチームメイトが佑麻を囲んで問いかけた。

「いや、付き合っているって訳じゃ…。」

 公園での一件以来、ドナと佑麻は話ができる距離に、お互いを近づけられるようになっていた。今のデートは、カフェで同じテーブルに座り、時間いっぱい日本語と英語とタガログ語を交差させながら、お互いの家族や生活や生い立ちのことを話し合う。ふたりの共通言語は英語だが、ふたりにとっての異国語である英語では、伝えたいけど伝えきれないもどかしさがあった。しかし、それでもあきらめずにひとつひとつ丁寧に説明する努力は惜しまない。そうして過ごすふたりの時間が楽しくもあった。佑麻は、ドナの国の暮らしを聞いてもまったく具体的なイメージがわかなかった。まあ、同じアジアだから日本とそう変わらないだろうと、日本の延長線上で、家の形、部屋の様子、街の風景を想像した。後日、その時の自分の想像がいかに甘かったかを思い知ることになる。ドナは、佑麻の母がすでに亡くなっており、医者として忙しい父に負担をかけまいと、兄弟3人で支え合って育ったことを知った。佑麻が兄弟の写真を見せると、妹を見てドナはコロコロと笑い出す。佑麻がいくら訳を聞いても彼女は明かしてくれなかった。

「なあ、フィリピーナってどんな匂いがするんだ?」

「そうそう、肌が黒くて、毛深かったりするのか?」

「やっぱり、目の色が違ったりするのか?」

 シャワールームで佑麻を囲むチームメイトが矢継ぎ早に質問する。

「なあ、いい加減にしろよ。俺は、お前らの彼女の、匂いだの、肌の色だの、目の色だのに聞いたことはないだろ。」

 佑麻は多少不愉快な思いを抱きつつも、チームメイトにドナを紹介する必要性を感じていた。彼女が日本女性と比べなんら特異なことはないと分かってもらうことが理由だが、みんなにかわいいドナを自慢したいという欲求も少なからずあった。

 シャワーを終え更衣室から出ると、チームのマネージャー軍団が待ち受ける。チームメイトの誰かの彼女だったり、誰かに憧れて参加したり、マネージャー軍団は、華やかな女子大生の集団となっていた。やがて、軍団は目当ての男たちのもとへ散って行く。

「佑麻!」彼を見つけて、幼年時代から付き合いのある麻貴が声をかけた。

「来週のパーティーはどうするの?」

 彼の属するアイスホッケーチーム『ホワイトウルブス』の創部記念日には、金持ちOBのゲストハウスで、毎年記念パーティーが催される。それは、女性同伴のフォーマルパーティーで、新入部員であった去年は、佑麻は気安さから麻貴を同伴して参加した。それ以来、麻貴はサークルに名前を売ってマネージャー軍団の一員になったのだが、持ち前の気の強さから今では軍団のリーダー格にのし上がっている。麻貴がマネージャー軍団に入った本当の理由を知る人は少ない。

「あたしだって何人かに誘われているんだから、相手探しで困っているなら早く言ってよ。」

 そうか、創部記念パーティーがあったな…。

「ああ、ありがとう。今年は迷惑かけなくても済みそうだ。」

 麻貴はそっけない佑麻の返事に、驚きを隠せない。

「えっ!今年は相手が居るの?」

「まだ、承諾してくれるかどうかわからないけどね。」

 じゃあな!と言って立ち去る佑麻を、震える握りこぶしで見送りながら、麻貴は早速情報収集のために新入部員を呼びつけた。

 

「Mahal(マハル), 最近ドナの様子が変じゃない。」ノルミンダは、キウイの皮を剥きながら、ソファで本を読む夫に話しかけた。

「帰ってくる時間も不規則だし、大学でパーティーがあるから、背中の開いた服を貸してくれなんて急に言い出すし。」

「もう日本に来てだいぶ日にちが経つから、友達も増えて付き合いも多くなったんじゃないか。」

「それに、急に熱を入れて日本語を勉強するようになったのも変だわ。」

「結構なことじゃないか。」

「この前、いきなりどこで覚えたのか『オレノオンナ』ってどういう意味かなんて聞くものだから、なんでそんなことを聞くのかと問い詰めたら答えも聞かずに逃げちゃったのよ。」

「…あの夜以来、しばらく元気が無くて心配だったけど、最近は明るく楽しそうにしているじゃないか。もう少し様子を見てみようよ。」

 夫の言葉にうなずきながら、ノルミンダはカットしたキウイを皿の上に盛り付けた。

 

 バス停での待ち合わせに佑麻が乗ってきた車は、小ぶりながらも、見事な曲線で構成されたいかにも走りそうなスポーツタイプの車だ。ドナは女性の大半がそうであるように、車には関心が薄く、その車がどこの国のなんという車なのかは判別できないが、高級車である事は容易に想像できた。佑麻は兄の車を借りてきたと説明したが、ドナは日本の医師の高所得が羨ましく思えた。バス停で待つドナを見た佑麻は、一瞬ハッとして固まった。そんな佑麻の反応を見て、ドナはシートに腰掛けながら、自分がどのように見えたのだろうかと心配になった。叔母のゴージャスな服を身にまとったとはいえ、着こなせていないようで居心地が悪い。やはり借りものの宿命であろうか。佑麻は、ドレスシャツとスーツを完璧に着こなしている。きっと自分の服なのだろう。運転する凛々しい横顔を眺めながら、いつもとは違ったセレブな佑麻を発見し、ドナは妙な距離感を感じていた。

 やがて、郊外の洋館に到着する。ゲストハウスのエントランスでは、新入生が受付をおこなっていた。

「先輩、遅かったですね。」

 そして、好奇な目でドナに視線を移すとニヤつきながら言った。

「ようこそ、サークル史上初めての外国人女性を心から歓迎いたします。」

 ドナは、もとより日本語がわからないので佑麻に助けを求めたが、彼はそんな後輩の言葉には無表情でそそくさとホールの中へ入っていってしまった。ドナは仕方なく、笑顔で軽く受付の後輩に会釈すると慌てて彼のあとを追う。

 ホールに入ると、ふたりはホールにいるメンバーから一斉に好奇の視線を浴びた。これには佑麻も少したじろいだようだ。待ちかまえていた麻貴が立ちすくむ彼に呼び掛けた。

「佑麻、遅かったじゃない。キャプテンが待っているわよ。」

 麻貴に腕を取られて、佑麻は奥のドリンクコーナーへ引かれていってしまった。

 すれ違うすべての人達と親しげに会話する佑麻を見ると、彼がみんなから好かれている事がよくわかる。早口な日本語は、到底ドナには理解することは出来ない。佑麻は友達にドナを紹介するわけでもなく、他の人たちとの会話に忙しくて、彼女と来たことを忘れてしまっているかのようだった。いつしか、佑麻に取り残されたドナは、ひとりぽつんと壁の花になっていた。

 

「A beautiful lady standing alone ? It’s unbelievable ! Are you with someone?

( まさか君はひとりでここへ来たわけじゃないよね?)」

 アメリカからの留学生であるダニエルが、ドナに話しかけてきた。

「Yah, I have a company. But he's quite busy at the moment talking to his friends.

(ええ。でも友達は忙しくて、私にかまっている暇がないみたい。)」

「I'm Daniel(僕はダニエル。)」

「I'm Donnalyn, And where is your date ?

(わたしはドナリィン。ところであなたのパートナーは?)」

「I don't have. It's just my 1st week here in Japan. Eventually first time as well. So you are the first lady I've talk.

(最近こちらに来たのでまだ女性の友達はいないんだ。)」

 ダニエルは、久々に気兼ねなく英語が使える相手に会えた嬉しさで、ドナに盛んに話しかける。ドナにしても唯一の知り合いである佑麻に構ってもらえない以上、ダニエルと話すしかなかった。やがて、打ちとけたふたりの耳にビートのきいたクラブミュージックが流れてきた。ダニエルは、ドナをダンスに誘う。ドナは佑麻を目線で探したが、彼はまったくこちらに関心が無く、他の友達と楽しそうに話している。しかし、佑麻にしてみれば麻貴の拘束から逃れて、ドナのもとへ行こうとしたのだが、間が悪いことに、二人が流暢な英語で楽しそうに会話していたから、入りずらくてもとの集団に戻ってしまっていたのだ。

 パーティーに誘っておきながら、自分は佑麻からいつまで放っておかれるのだろう。ドナはダンスする気分ではなかったが、気を使ってくれる紳士のダニエルの誘いを断る非礼もできないので、ふたりでダンスフロアへ出た。

 実のところ、おもちゃの少ないフィリピンの女の子達にとって、小さいころから親しんでいる遊びは歌と踊りだ。ほとんどの女の子は、テレビで踊るキュートなダンサーや美しいシンガー達に憧れる。見まねで、歌ったり踊ったりしているうちに、自然にダンスが身についてしまうのだ。例にもれず踊り始めたドナは、周りの視線を集めるに十分な腕前であった。上半身で踊るアジア女性に比べて、ラテン系は腰で踊る。キュートでしかも適度にセクシー。日本人の女子大生とはレベルが違う。実は佑麻も、そんな彼女の踊る姿を遠くから見つめていたひとりでもあった。

 しばらく踊り、ドナの額も汗ばんできた。ダニエルにお願いして涼しい場所へ移って休んだ。小さな扇子で首元に風を起こしながら、佑麻を探す。佑麻がこちらを見ていた。ようやく彼もドナと過ごせる余裕ができたようだ。ダニエルに挨拶して、彼女は笑顔になって小走りに彼のもとへ。すると、そんな彼女を見つめていたにもかかわらず、彼は近づいてくるドナに背を向けたのである。それでやっとドナは、ここへ自分を連れてきたことを彼が後悔していることを悟った。ドナはついに切れた。口を一文字にしてしばらく怒りに耐えていたが、決心するとパーティーの音響係に曲をリクエストし、猛々しい足取りで、ダンスフロアのセンターに位置すると、アップにしていた髪をほどいた。やがて、強烈な重低音とともに、レディー・ガガのナンバーが響き渡る。すると、ドナがティーンらしからぬセクシーなダンスを踊り始めたのだ。乱れる黒髪に、あやしく燃える瞳と誘う唇が見え隠れする。服の上からでもわかる若々しく張り出した乳房。別の生き物のように柔軟にくねる腰。それらが、激しいビートとともに躍動する。女性達のしかめ面とは裏腹に、ホールの男たちは熱狂した。そして、曲の終りとともにピタッと決めたポーズで、佑麻を指差しドナは叫ぶ。

「Hey everybody !!  What is the name of that man who brings me here? That supposes to be my dance partner!!!

(どなたか、私のダンスパートナーが誰だった教えてくれないかしら。)」

 彼女の一声で、ホールの全員が佑麻を見た。彼はぎょっとして硬直する。そして、そんな彼を残し、ドナはまっすぐ顎をあげて、両肩を振りながらホールの出口へと進んで行った。

 

 外へ出たドナの手首を取ったのは、追ってきた佑麻だった。

「Wait a second, Donna !(ちょっとまって、ドナ!)」

「Don't touch me!(触らないで!)」ドナは彼の手を振り払う。

「Please(待ってくれよ。)」佑麻がまた片腕をとる。

「No, I have to go home.(いやよ。もう、帰るんだから。)」

 しかし、今度は両腕を取られてドナは身動きできなくなっていた。彼女は佑麻の目を睨みつけた。自然と涙が溢れてきた。

「Why you bring me here? Do you know what I've been through just to be with you now?

(なぜ私を誘ったの?わたしは自分のすべての勇気を振り絞ってついてきたのよ。)」

 ドナの涙を見ながらも、佑麻は何も答えなかった。

「If you shame to be with me, you should not invite me!

(私がそばにいるのが恥ずかしいなら、誘わなければよかったのよ。)」

「I see, Donna. I will drive you home. Please get in.

(わかったよ、ドナ。家まで送って行くよ。だから、頼むから車に乗ってくれ。)」

 

 シートのドナは、佑麻にそっぽを向くように外を眺めていたが、涙で目が曇り何も見えていなかった。たったひとりで日本人だけのパーティーへ出席することに、怖れがなかったわけではない。しかし一方では、佑麻に承諾の返事を伝えて以来、わくわくしながら今夜を迎えたのも事実だ。自分は佑麻に何を期待していたのだろう。今なんでこんなに悲しくなるのか、自分でもよくわからなかった。

「Donna, we are here.(ドナ。着いたよ。)」

 佑麻に助手席のドアを開けられて、ドナは我に返った。外気がドナの頬にあたる。しかしそこは彼女の家の前ではなかった。

「Where am I?(ここはどこ?)」

 不安になったドナの手を取って、佑麻が言った。

「I have something to show you before you go home. It won't take long. Please come with me.

(家に帰る前に見せたいのもがあるんだ。少しでいいから、僕につきあってくれないか。)」

 この後に及んで、佑麻は自分に何を見せるつもりなのか。しかし、こんな見知らぬところからひとりで帰ることもできず、ドナは仕方なくついていった。佑麻は彼女を、暗い大きなホールの中へ導く。そしてラバーを敷き詰めたフロアに彼女をひとり残して、佑麻はさらに暗い奥の部屋へと消えていった。今度は、不思議な冷気が、ドナの全身を包んでいた。やがて、聞いたことのないような足音が聞こえ、巨大なシルエットが近づいてきた。ドナは息をのんで身を固くするが、しばらくしてそれが佑麻であることに気づく。思わず安堵のため息をついたが、その息が白くなっているのを不思議に思った。佑麻が膝まずいて、ドナに何かを差し出した。

「I didn’t mean to frighten you. Can you change your shoes? It’s gonna be more comfortable to you if you wear this deck shoes.

(驚かせてごめん。このデッキシューズにはき替えてくれると嬉しんだけど。)」

事態が飲み込めぬまま、ドナは靴をはき替えた。

 そして、立ち上がったところで、ホールのライトが一斉に点いた。白い水銀灯に、さらに白い氷面が光って眩しい。ドナはここがアイススケートリンクであることに気づく。フィリピンでは、アイススケートリンクはとても珍しい。彼女も過去に一度しか見たことがない。しかもそれは、ワールドショッピングモールの中にある小さなものだった。ここは、それの何倍も広く、そして何倍も輝いていた。佑麻を見ると、彼はパーティースーツのまま、足にはごついアイスホッケーシューズを履いて立っていた。彼が巨大に見えたのは、このスケ―トシューズのせいだった。

 佑麻は、ドナの手を取ると、ゆっくりと氷上へいざなっていく。ドナは滑りやすい氷面に何度も転びそうになりながらも、佑麻に支えられながらなんとか進む。リンクの中央に着くと彼は言った。

「Donna, I admit, I'm not a good dancer on the floor, but not on ice.

(ドナ。パーティーフロアでは無理だけど、氷の上なら僕はとてもいいダンスパートナーになれる。)」

 ホールいっぱいに、セリーヌ・ディオンが歌うタイタニック号のテーマ曲が流れ始めた。佑麻は曲に合わせて、ドナを操りながら滑らせ、リフトし、ペアダンスを踊った。ドナは、氷の上は初めての経験である。デッキシューズとはいえ、最初は滑りやすい氷面にバランスを失ったが、やがて佑麻に体を預けてさえいれば、スケーティングができることを悟った。心地よい風を全身で受ける。景色が流れていく。天井が回転する。佑麻に支えられ、操られ、抱きかかえられながらも、彼の体を自分の体の近くに感じて滑るスケーティングは、ドナをして、別世界にいるような心地にさせる。ゆっくりとスピンして、やがて曲の終りを迎えると、ドナを氷上に立たせながら佑麻がいった。

「I'm sorry for making you upset in the party. I'm so confused and I can't find a word to introduce you to everyone. I made a mistake. Allow me to make it right. Right here, on these moment.

(悲しませてごめんね。誘っておきながら、みんなに君のことをなんと紹介したら   いいのかわからなかったんだ。でもこれからはこう紹介することに決めた。)」

 佑麻は、誰もいないメインスタンドに向かって大声を張り上げた。

「Attention, ladies and gentlemen. I represent to you. Ms. Donnalyn Estrada. A lady that makes my days complete, make my world keep moving.

(みなさまにご紹介いたします。私が出会った最高の女性ミス ドナリィン・エストラーダです。)」

 そう言いながらうやうやしくお辞儀をする佑麻に、ドナの胸はキュンと鳴った。彼女は氷上を飛び上がると長身の彼にしがみついた。

「Hey, be careful!(あぶないよ、ドナ。)」

 佑麻は笑いながらドナの体を抱きかかえる。そんな彼の頬を両手で押さえて、ドナは自分の顔をゆっくりと近づけていった。それが二人の初めてのキスだった。佑麻は氷の上にいるのにもかかわらず。心が熱く溶けていく。やがて彼女は顔を離すと、佑麻の唇に薄くついた自分のチークを、細い人差指でふき取った。

「Kuya Yuma, Sabi ko na nga ba salbahe ka eh.(佑麻。やっぱりあなたは悪い奴だわ。)」

 佑麻は、抱きかかえたドナを、いつまでもいつまでも下さずに、ふたりだけのスケーティングを楽しんだ。

 

 会社の残業で遅くなったドナの叔父は、偶然彼の家の前にいる二人を目撃した。二人は結んだ手をなかなか離さず、どう考えても長すぎる挨拶を交わしている。ようやくドナが玄関を開けて家の中へ入っていった。上機嫌で車に乗り込もうとする佑麻に、叔父が話しかけた。

「いい車だね。君のかい?」

 突然問いかける主に戸惑いながらも、相手が以前会ったドナの叔父であることがわかると、佑麻は緊張しながら答える。

「自分は学生ですから、車は持てません。これは医師の兄から借りてきました。」

「そうなんだ…。いかにも馬力がありそうだね。」叔父は、しばらく車を眺めまわしていた。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。自分は石津佑麻といいます。今日 自分の大学のサークルのパーティーにドナリィンさんをお誘いして、今お送りしたところです。」

「君はたしか、ドナに大酒飲ませて乱暴しようとした彼だよね…。」

「いや、乱暴と言うわけでは…。」

「ドナもそんな君となんで親しくなったのだろうね。」

 佑麻は答えようがなかった。

「少し時間あるだろう。歩かないか。」

 叔父の誘いを断るべくもなく、佑麻は黙って従った。しばらく歩くと、小さな公園にたどり着いた。叔父は、ポケットからタバコを取り出して口にくわえる。

「君は吸うのかい?」

「いえ、吸いません。」

「そうか、偉いね。」そう言いながらくわえたタバコに火を点けた。

「ドナはね、小さいころから日本で勉強することが夢だったんだ。パスポートの問題でなかなか実現できなかったが、それがようやく叶ってやってきた。短い期間だけど、私はその間、沢山のことを勉強し、楽しんでくれればいいと思っている。ドナが将来仕事を始めた時に、今ここで得たものが、きっと大きな力になると信じているよ。」

 タバコの煙を吐きながら叔父は言葉をつづけた。

「実際ドナは国に帰って看護師になろうと頑張っている。だから、ドナはここでの勉強を終えたら、必ず帰るんだ。そして帰る時には、良い財産と良い思い出だけ持って帰らせたい。それがこの叔父の切なる願いなんだよ。」

 佑麻はただ黙って叔父の話を聞いた。

「今夜は、最初に会った時よりきちんとした格好だから、前ほど悪い奴には見えないね。実際ドナがなつくくらいだから、思っているほど、悪い奴ではないのかもしれない。だから、別にドナと会うなとは言わない。でもドナとは距離を保って、いい友達でいて欲しい。楽しい思い出を作るには、いい友達は必要だからね。決して、帰国する時にドナを泣かせるような友達にはなってほしくないんだ。お願いできるかな。」

 佑麻はしばらく考えたのち、慎重に言葉を選んで答えた。

「ドナリィンさんとお付き合いするなかで、良い友達でいるためのラインを、どこに引いたらいいのかは、正直言って今はよくわかりません。でも、お話の主旨はよくわかりました。お考えに従って自分の最善を尽くすことはお約束します。」

「そうか。ここで話したことが無駄にならないことを願うよ。それじゃ失礼するよ。」

「はい、おやすみなさい。」佑麻は、家に向かう叔父の背中をずっと見送りながら、なにかとても難しい禅問を出された気分になっていた。

 

 佑麻は、リンクサイドに来たドナにスティックをあげて挨拶する。ドナは、笑顔で応え彼の練習が終わるのを観客席で待つことにした。観客席のドナに、サークルの仲間たちがあちこちから気軽に声をかける。彼女も明るく返事を返した。今では、ドナも多少の日本語は理解し、また日本語で返事を返せるまでになっていた。記念パーティー以来、彼女はチームメイトに広く知られることとなり、佑麻の手助けもあってすっかりサークルの仲間になっていたのだ。先日もマネージャーリーダーの麻貴の反対をよそに、初めてスケートシューズを履いたドナが、チームメイトに代わる代わる手を引かれてスケーティングの練習をさせられた。そして遠慮なくドナの手を握り腰を支えるチームメイトにやきもちをやく佑麻を、みんなが面白がった。

 ドナは観客席から、佑麻の迫力のスケーティングを目で追う。いかついプロテクターで誰もが同じように見えるが、今では背番号とスケーティングフォームで彼がわかるようになっていた。ドナの日本滞在での残りの日数が少なくなればなるほど、一日の中で彼と過ごす時間が増えていく。美術館へ行き背中合わせに別々の絵をしばらく眺めたり、公園の芝生で読書する彼の膝枕で音楽を聞いたり。言葉は交わさなくとも彼といると、暖かく柔らかい何かが彼女の心を包む。すでにドナの心の中に彼の指定席があり、1日でもその席が空いているとまったく元気が出ない有様だった。

 ふたりで歩く時は、自然に腕を組み、手もつなぐ。時には、佑麻が優しく肩に手を回してエスコートもしてくれることもあった。しかし、いくら親密度が深まっても、不思議と彼の方からキスを求めることはなかった。それが、彼女を家まで送ってのバイバイキスのレベルであってもだ。ドナはそれが日本の国民性かなと考えた。それでもキスが欲しい時は、ドナから顔を近づければいい。彼は決まって、ドナの体を抱きとめる腕から伝わる情熱とは不釣り合いな、静かで軽いキスを彼女の唇に返してくる。

 ともあれ今日は、ドナのレポート制作のために、佑麻の父の病院へ連れて行ってもらう約束になっていた。大学のカリキュラムも最後のレポート制作を残すのみになり、ドナは『日本との看護の相違と相似から考える看護のあるべき姿』というテーマで取組むことにした。レポート制作が終われば、あとは帰国の日を待つだけとなる。帰国の日と帰国後のことについては、ドナも佑麻も話題にすることはなかった。練習が終わった佑麻は、ドナが待つ観客席へ。ふたりは麻貴の冷たい視線に気づくこともなく、バイクにまたがって病院へ向かった。

 

「お前が呼ばれないのに病院へくるなんて珍しいな。」

 外来ロビーで兄から、佑麻は声をかけられた。

「いやぁ、看護師志望の友達がいて、医療現場の見学をアレンジしたのさ。」

「ふーん。友達ってあの娘か?」

 兄はナースステーションで看護師と話しているドナをあごで指す。

「ああ。」

「また毛色の変わった娘を連れてきたな。迷惑かけてないだろうな。」

「事前に病院長と看護師長に承諾もらってるよ。」

 しばらく兄はドナを眺めていたが、

「おまえも、あの娘くらい医療に関心を持ってくれればいいのにな。」

 また説教が始まるのかと佑麻は身構えたが、兄を呼ぶ病院のアナウンスに助けられた。

「またあとでな。」と言い残した兄は足早に診療室へ歩いていった。

 今度はナースの制服の胸に研修バッチをつけたドナが、佑麻の方にやってきた。

「佑麻の病院、すばらしい。I’ve never seen this kind of machines in the Philippines. It’s very high technology. All of the rooms are clean and in order. And system and rules are well organize and under control.

(見たこともないような医療機器もあるし、どの部屋も清潔で機能的だし、電子カルテから支払いまで、システムが完備しているわ。)」

「僕の病院じゃないよ。」

「Having a hospital like this , maybe we don’t need a doctor or nurse to get cure.

(これだけ充実した設備があると、ドクターやナースがいなくとも、医療機器と薬が勝手に患者さんの病気を治してくれそうな気がするわ。)」

「その割には、ドクターやナースは死ぬほど忙しそうだけどね。」

「死ぬほどってなに?」佑麻は日本語の意味を丁寧に説明する。

「I will go around and have a look at patients with the head nurse.

(これから、病室に連れて行ってくれるんですって。)

By the way, how do I look? (ところで、日本のナースの制服、似合う?)」

 少し大きめだったが、少女っぽさが消えていつもと違った大人の感じが眩しい。

「うーん。Being nurse is not how do they look outside. It’s what you have inside. Which means heart and knowledge. Don’t you think so?

(制服が似合うようになるには、まだまだ勉強が足りないじゃないかな。)」

 と言いながらドナの額を軽くつついた。

 彼女は、お茶目に佑麻の指を掃うと、ナースに促されて入院棟に連れ立って行った。

 

 ドナの見学が終わるまで時間がある。仕方がないので、佑麻は久しぶりに病院のあちこちを歩くことにした。あらためて見ると、この病院にこんな多くの人が働いていたのかと驚く。彼らは、さらに多くの外来患者や入院患者に対応しながら、忙しく立ち働いている。病院スタッフのまちまちの動きは、一見なんの統制管理を受けていないようにさえ見える。この人たちは、人命にかかわるというハイリスクで重い責任をどこにしょって働いているのだろう。自分はそれを考えただけでも身動きできなくなってしまうのに。しばらくそんなことを考えていたら、廊下の角の出会いがしらに、入院患者らしき少女とぶつかってしまった。少女は、よろけて片膝をつく。

「ごめんなさい。大丈夫?」

 しかし少女は、手を差し伸べた佑麻に一瞥もくれることなく歩き去っていく。佑麻は少女の後ろ姿を見送っていたが、しばらくすると関心も失せて飲み物を求めて売店へと進む。他人の命にかかわることを避ける佑麻には、少女が背中から発している『助けて』というサインに気づくことができなかった。

 佑麻は、売店で買ったドリンクを持って、中庭に出る。病院内の空気は長く居るとどうも息苦しい。しばらく外気にあたりながら休んでいると、なにやらあたりが騒がしくなった。周りの人々の視線に誘導されて、病院の上を見ると、ビルの屋上の縁に入院患者らしき人が立っている。小さな人型だったが、どうやら先程ぶつかった少女であることが分かった。飛び降り自殺。中庭の人々は騒然とした。少女はじりじりと前へ進んでいるようだった。そして、少女の体がゆっくりと揺らぐ。佑麻は息を飲んだ。と、その瞬間新たな腕が伸びてきて、少女の胴に巻きつき、そのまま少女はビルの内側へ引きこまれた。

 佑麻は、いやな予感を感じた。衝動的に病院へ駆け込むと、閉じたエレベーターの扉のボタンを何度も叩く。なかなか開かないエレベーターの扉に業を煮やした佑麻は、階段を駆け上がって屋上へと急いだ。荒い息で屋上に到着した彼は、病院スタッフに囲まれて立ちすくむ彼の兄と看護師長を目撃する。そして彼らの足元には、泣きじゃくる少女と少女を覆い包むようにして抱きかかえるドナがいた。佑麻は何が起きたか理解できず呆然としていると、やがて少女が落ち着いてきたのを見極めて、兄がふたりを立たせた。看護師長は、少女を優しく抱きかかえて病室へと連れて行く。ドナは、少女の背中をなぜながら送りだした。その姿が屋内に消えると、ドナはそばに佑麻がいることに気づき、彼の胸の中に逃げ込んだ。彼に自分の震えを止めて欲しかったのだ。

「いったい、何が起きたんです?」佑麻は、兄に問いただす。

「お前が連れてきた娘が、あの女の子の命を救ったんだ。」

 兄は、佑麻の胸に収まるドナの姿を見つめながら言葉を続ける。

「あの女の子は、DVに合って今朝入院したんだが、精神的ダメージが大きくて自殺しようとしたらしい。それが、廊下で一瞬すれ違っただけで、その娘にはわかったんだ。それで後をつけて、屋上から飛び降りる直前に女の子に抱きついて命を助けた。」

 佑麻はあらためて、ドナを抱く腕に力をこめた。

「その娘の目には、心の傷が見えるらしい。」兄は震えるドナを、いつまでも見つめていた。

 

「Donna, have you finish your report ?(ドナ、レポート制作はどう?」

 講義の合間のランチタイム。マクドナルドでクラスメイトが話しかけてきた。世界共通規格のマクドナルドは料金の安さもあいまって、留学生たちにとってはとても落ち着く場所になる。ドナは、大好きなてりやきバーガーをほおばりながら答えた。

「I’m still working on it. But I already interviewed Japanese hospital stuffs, so It’s gonna be done in a few days.

(順調よ。病院にもヒアリングにいってきたし。)」

「Hospital? Is that the place where is the bad boy can hanging around?

(ふぅん。たしかその病院って彼の家の病院よね。)」

「Yah, A hospital where his Father is the owner and elder brother use to work.

(ええ。佑麻のお父さんとお兄さんがドクターなの。)」

「I’m thinking…(・・・ねぇ、ここは考えどころだと思わない?)」

「What ?(なに?)」

「I was just wondering , After you graduate and get a license nurse. Are you sure you gonna get a job soon? And even you work being nurse to your country. How much will you get?

(このまま帰って看護師になったって、働き口もそうないし、あってもきつくて賃金も低いでしょ。)」

「So what ?(だから?)」

「You have a choice, Donna. How about being a wife of a rich Japanese Doctor?

(日本のドクターのワイフとしてセレブになるという手もあるんじゃない?)」

「Come on…(やめてよ・・・)」

「Come to think of it. It’s the easy way to send a lot of money to your family.

(考えてごらんなさいよ。その方が沢山のお金を家族に仕送りできるでしょ。)」

「I know what you mean . But I have a dream. And I wanna do a lot of things.....

(でも、私だってやりたいことあるし、帰ってやらなければならないこともあるし…。)

It’s easy for you to say that, How can I marry him? And it’s not just easy.

(仮にそれが正解だとしても、結婚なんてそう簡単にできないわよ。)」

「Why ?(どうして?)」

「What about his feelings? I don’t know if he has for me. And for sure he had a lot of things to do.

And also, He have to prove something to his family as well.

(彼の気持ちもあるし、お互いの家族のこともあるし・・・。)」

「It’s ok!! There is a one way to get him and be his wife.

(大丈夫。一発で解決できる簡単な方法があるのよ。)」

「What do you mean ?(どうするの?)」

「Make sure you gonna get pregnant!!!(妊娠しちゃうの。)」

 大きなおなかを抱えたドナに、ベビー用品を山のように抱えた佑麻が常夏の日差しに汗だくになりながら日傘を指しだす。ドナは二人の姿を想像して思わず吹き出した。

「Hihihihi!!! I can’t do that!!!(そんなの無理に決まってるわ。)」

「Why not? Don’t tell me you don’t know how to make a baby.

(どうしてよ。まさか赤ちゃんのつくり方知らないなんて言わせないわよ。)」

 妊娠するなんて処女のドナには全く実感がわかない。ドラマかコミックの中での話だとしか思えないのだ。

 

「佑麻、熱がある。今日は帰ったら。」

 図書館でレポートを書いているドナが見かねて声をかけた。今日は、図書館での調べ物につきあった佑麻だが、朝、家を出る時からどうも熱っぽかった。どうやら前夜の飲み会のばか騒ぎがたたったようだ。ドナは佑麻の額に手をあてる。確かに顔も赤いし熱がある。

「そうだね。今日は帰るよ。」

 佑麻は、立ち上がろうとするが足元がおぼつかない。ドナは彼の腕を支え、

「バイクを置いて、タクシーで帰りましょう。I bring your home.(家まで送って行くわ。)」

 佑麻のバッグも肩にかけ、二人してタクシーに乗り込む。

 佑麻の家の前にタクシーが着くと、ドナはその家の門構えの立派なことに驚いた。振り返って、彼を見るともうぐったりしている。やっとのことでタクシーから彼を降ろして、玄関のチャイムを鳴らした。

「A housekeeper takes a rest today, so nobody else is in my house.

(今日は、家政婦さんが休みなので家に誰もいないんだ。)」と佑麻が言う。

 仕方ないので、そのまま佑麻の腕を支えながら家の中へ。そして苦労しながら彼を2階のベッドルームに運び込んだ。

 ドナは、佑麻のベッドルームを見回した。初めて見る彼の部屋は、確かに男の子のギアは多いものの、案外整然としている。壁にしつらえた棚には、デジタルフォトフレームが置いてあり、家族を撮った写真が入れ代わり映っている。幼い由紀を腕に抱いている母。その母に寄り添う佑麻と兄のスタジオ写真。小学校の入学式であろうか、頬を膨らませて自慢げに母親と並ぶ佑麻。母親から肩に手をかけられて恥ずかしそうにしている中学の佑麻。どの写真も、今は亡き母を想う佑麻の気持ちがよく伝わってくる。

 ふと見ると、机の前の壁にドナの写真がピンで留めてあった。いつ撮ったのかと近づいて良く見ると、パーティーで踊っている時のスナップだった。部屋にいる時にも自分を眺めているのかと思うと、ドナはちょっと恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。と同時に、こんな大胆にドナの写真を飾っているのだから、彼はこの部屋に自分以外の人を入れないのだと想像できた。家族と住む家でありながら、個人のプライバシーを大切にしている部屋がある。そんな家に暮らしている彼が、家族が肩を寄せ合って雑魚寝して暮らす彼女の家を見たらどう思うのだろう。いやいや、今はそんなことを考えている場合じゃない。ドナは頭を切り替えて、佑麻のクローゼットをあさりパジャマを取り出すと、彼を着替えさせてベッドへ寝かせる。彼は熱のせいか、ドナのなすがままに従っていた。

 ドナは、一階のリビングに降りていった。体温を測り、薬を飲ませたいが、当然体温計も薬もどこにあるかわからない。探すのをあきらめて、とにかく水分補給だけはさせなくてはと、水を求めてキッチンへ移動した。しかしここでもドナは戸惑ってしまう。かろうじて蛇口の位置はわかるが、今まで見たことのないオール電化のキッチンで、お湯を沸かしたくてもさっぱり使い方がわからない。仕方がないので、コップに生水だけ満たして運び、佑麻に水分を十分取らせた。その後は厚手のかけ布団で体を包む。こうしておけば20分ほどで発汗してくるはずだ。

 汗を拭きとる準備にまたキッチンへ降りたが、やはりお湯を沸かす方法がわからない。蛇口のノブをいろいろ試していると、蛇口から直接お湯が出ることを発見する。タオルを取りにバスルームへ。シャワーでなくバスタブ中心のバスルームを初めて見た。もともとフィリピン人は、朝出かける前に手早くシャワーを浴びるのが習慣だ。ジプニーに乗り合う女性達の髪がまだ濡れたままというのが、朝の通勤の日常風景である。熱いお湯で満ちたバスタブにつかって、バスルームで長い時間を費やす日本人が不思議に思える。トイレを覗くと、ウオシュレットがついている便器は、もはやシンプルな陶器の質感とは程遠いマシンと化していた。

 こうして佑麻の家の中を散策すると、あちこちから日本の日常の生活が見てとれる。ドナは、『人間が生きる』という本質は、祖国とまるで変わらないものの、『暮らす』というディティールが大きく異なっていることを感じていた。もし、自分がこの家で暮らすことになったとしたら、この家のひとつひとつを素直に受け入れることができるのだろうか。佑麻も私の家に来たらきっと同じ問いを自分に投げかけるに違いない。

 熱いお湯にタオルを浸し、佑麻のベッドへ運んで行った。果たして、彼は汗でびっしょりになっている。ドナは、濡れた彼のパジャマを丁寧に脱がせ、彼の下着にも手をかけた。

「ドナ・・・。」佑麻が弱々しい声で抵抗するが

「大丈夫、佑麻。I’m a nurse. I know what to do. Just follow my instructions.

(私はナース。私の言うとおりにしてね。)」と取り合わない。

 ドナは、熱いタオルで佑麻の全身の汗を丁寧に拭き取る。いつもの白い肌が熱で赤みを帯びている。胸元の汗でチェーンについたリングが光った。幾度か見ているリングだが、不思議なデシャヴーを感じた。あっ、ドナはもう一度フォトフレームを見直す。写真の中の母親がこのリングを薬指にしていた。この男の子はどこまでマザコンなのだろうか。ドナはそんなことを思いながら、佑麻に乾いた下着とスウェットスーツを着せた。そしてまた水を飲ませる。ドナは、発汗と着替えを3時間にわたり3回繰り返した。3回目には、平熱とはいかないまでも熱は下がったようで、佑麻の息遣いもだいぶ落ち着いてきた。

 ナースとしての仕事を終えると、ドナはベッドサイドで佑麻の長いまつげを眺め続けた。彼女はこの男に愛おしさ感じていた。ある時は、騎士のように毅然としてたくましく、ある時は少年のように悪戯で恥ずかしがり屋、そして時には幼子のように甘えん坊になる。今日は、熱で弱っているのにもかかわらず、逆に汗にまみれた体躯からいのちのほとばしりを感じる。会えばいつも新しい魅力の発見があり、そしてそのすべてが理屈抜きで受け入れられてしまう。カソリックであるドナは、この男が好きだという感情の前に、この男とめぐりあわせてくれた神様への感謝の気持ちでいっぱいだった。

 そろそろ、水分補給だけでなく何か栄養を取らせなければ。やっとベッドサイドから離れる理由を見つけて、階下に降りた。汗に濡れた佑麻のウエットスーツをランドリーボックスへ運んでいると、突然呼びかけられて、ドナは息が止まるほど驚いた。

「ドナ!あなたなんでここに居るの?」

 声の主は麻貴であった。家族でもない彼女が、なぜこの家の鍵を持って自由に出入りできるのかドナには不思議でもあった。ドナは、ゆっくりとした英語で麻貴に事情を説明する。

「サークルの練習休んだから、そうじゃないかと思ったのよ。ちょっと佑麻の様子を見て来るわ。」

 麻貴が2階にあがる。ドナは、佑麻の部屋の中に貼ってある自分の写真を見られるのが、ちょっと恥ずかしかったが、すぐ降りてきた麻貴の言葉で安心した。

「佑麻ったら相変わらず自分の部屋には誰も入れてくれないだから…。いま降りてくるそうよ。薬は飲ませたの?」

 麻貴の問いにドナが首を振ると、彼女は薬箱を取り出し、体温計、解熱剤を準備する。キッチンへ移ると、電気ポットで湯を沸かし始め、食材の棚から缶のスープを取りだし、すばやく缶を開けて電子レンジで温める。麻貴はこの一連の動きを無駄なくテキパキとこなしている。どこに何があるのか、何をどう使うのか。この家のことはすべて熟知しているようだ。

 次に麻貴は電話をかけた。親しそうに話している相手が誰であるかすぐにわかった。

「佑麻のお兄さんが、あなたと話したいそうよ。」

 兄は佑麻のコンディションと処置した内容を聞いてきた。相手が英語の堪能な兄だったので、ドナは英語で説明したが、特に佑麻に何をしたのかについては、麻貴にその内容が詳しく知られないように早口で説明した。

『In Philippines, Do doctors always give such a first aid treatment to a sick person ?

(フィリピンでは、熱が出たらみんなそうするのかな?)』

 様子を聞き終わった兄が、電話口で質問した。

「Yes , there’s a lot of cases that there’s no medicines…

(国では薬が十分じゃない場合が多いので・・・。)」

『I understand. It’s not the medicines can always be a first aid. It’s giving them comport with tender loving care. And I know it’s hard and complicated.

(そうか、ナースには大変だけど患者さんの体には優しい処置だね。)

You gonna be a good nurse. And in behalf of my brother Yuma. Let me thank you for taking care of him.

(さすがナースの卵だ。佑麻に代わってお礼を言うよ。)』

 日本のドクターである兄からそう言われると、ドナもうれしかった。

『Ok, You can take a rest now . Maki will take over and look after Yuma.  Maki is a long long time family friend of ours. And younger sister Yuki will gonna be home soon.

(あとは麻貴さんに任せて大丈夫だよ。昔から家族ぐるみでつき合っている佑麻の幼馴染だからね。そのうち妹の由紀も帰ってくるだろう。)

A Hospital service car will gonna pick you up there and send you home.Again, thank you very much Donna.

(病院の車をまわすから、帰るのにそれを使ってください。本当にありがとう。)』

 その後電話を替わった麻貴が、兄から今後の処置の指示を受けて電話を終えた。

「ねえドナ。あなた佑麻の部屋に入ったの?」

 受話器を置いて、振りかえりざまの麻貴の質問に、ドナもなんと答えたらいいか戸惑ったが、よろけながらリビングに降りてきた佑麻のおかげでその問いに答えずに済んだ。

 リビングのソファに横たわる佑麻の口に体温計を差し込み、薬をのませ、スープを口に運ぶ。どこからか取り出してきた美しい柄の毛布を佑麻の体にかけて、麻貴はかいがいしく彼の世話をした。その様子を見ながら、ドナはこの家では何もできない自分の無力さが悔しかった。そして麻貴の甲斐甲斐しい世話を受ける佑麻が、さきほどベッドルームで寝ていた佑麻とは別人のように思えてならなかった。やがて病院の車が来た。佑麻のすまなそうな目に見送られながら、ドナは家を出た。レポートを書きあげてしまえばもう帰国の日を待つだけだ。しかしドナは、帰国したその後に佑麻とともにいる自分が、どうしても想像できない。帰りの車の中で自然と涙があふれた。

 

「Donna, kailan ka ba uuwi dito?(ドナや、いつになったら帰ってくるんだい?)」

 ウェブカメラを通してマムが尋ねる。

「Sinabi ko na sayo diba next week ako babalik dyan.

(そちらを出るときに言ったでしょ。もうすぐよ。来週には帰るから。)」

「Sa luto mo lang maraming nakakain si Nanay.

(マムは、アテのつくった料理じゃないと沢山食べてくれないのよ。)」

 妹のミミがカメラに割り込んできて話す。

「Kaya kung magtatagal ka pa dyan magkakasakit si Nanay.

(アテが長く日本にいると、マムは病気になっちゃうかもよ。)」

「Alam ko.(わかってる。)」

「Tsaka, Yung kapitbahay nating si Tatang sumasakkit na naman daw ang tuhod.Baka meron ka pa raw ng ibinigay mo sa kanya.

(それに、前の家のおじちゃんがまた膝が痛くなったので湿布を貼って欲しいって言っているし、)

 Tsaka si Aling Cora, ano nga ba raw yung pinaiinom mo sa kanya? Naubos na raw kasi yung binigay mo at kailangan nya na bumili.

(隣のおばちゃんはいつもの薬が切れたからいつもの薬がなんだったか教えて欲しいって言ってる。)」

「Sige, sige.(はいはい。)」

「Pamangkin mong si Sophia bumaba ang grado sa school. Nakagalitan ng teacher nya kasi muntik ng bumagsak sa test.

(ソフィアは、テストの結果が悪くて怒られたからまた勉強教えて欲しいそうよ。)

Si Dominic naman, hindi mo maaasahan sa bahay. Mula ng umalis ka, palagi sa layasan.Puro barkada inaatupag.Kaya hayun lagi nasasangkot sa away.

(ドミニクは、アテがいないと乱暴になってケンカばっかりしているわ。)」

「katabi mo ba si Nanay ?(ねえ、マムそばに居る?)」

「Nasa bintana, may katsismisan. kakausapin mo? Tawagin ko?

(いえ、叔母さんが来たからバルコニーで話に夢中よ。呼ぶ?)」

「Wag na wag na . ok lang(呼ばなくていいわ。)

Paano yan, Kung mag asawa ako ng Hapon? Syempre, dito na ko titira. Papayag ba kayo?

(もしよ、私が日本人と結婚して日本に住むようになったどうなるかしら?)」

 ドナの問いにミミはしばらく絶句した。ウェブカメラを通してしばらくドナの顔を見つめると、呆れたように言った。

「 Siguradong hindi kakayanin ni Mamu at lalala ang sakit non. Mag-wawala ang mga matatanda kapitbahay natin na umaasa sayo. At dahil nagwawala sila, makikialam ang barangay, pupunta dyan at ibabalik ka dito. Siguradong hahantingin ni Dominic ang mapapangasawa mo.

(マムは病気になって死にそうになり、あそこが痛いここが痛いって町中のじじばばが暴動を起こすと思う。見かねた、コミュニティーリーダーが日本に行って、アテを誘拐して無理やり連れ戻し、ここまで追っかけてきた旦那をドミニクが間違いなく殺すにちがいないわ。)

 Seryoso ka ba sa sinabi mo?(・・・本気で言っているの?)」

「Joke !!!!! hahahahaha!!(冗談よ。冗談に決まってるでしょ。)」

「Oo nga naman !!(そうよね。)」

 ミミはそう言いながらも、疑わしそうにウェブカメラ越しにドナを覗き込んだ。

「Syanga pala, Wag mong kalimutan yung pasalubong namin ha.

(ところで、お土産忘れないでよ。)」

「Oo naman. I send mo nalang sa akin sa mail kung ano ano yung listahan nyo ng

 pasalubong. Manghihiram na lang muna ko Sa Aunti Norminda ng pambili ng

 mga pasalubong sa inyo.

(ええ、買い物リストをメールで送ってね。なんとか叔母さんにお金を借りて買って帰るから。)」

 ミミとスカイプを終えたドナは、ベッドにうつ伏せに倒れこんだ。机の上には書きあがったレポートがある。明日提出すればカリキュラムはすべて終了する。その後の日本滞在の残された日々は、叔母のノルミンダと地方に居る親戚へ挨拶に行ったり、東京ディズニーランドに行ったり、御徒町へお土産の買い物に行ったりして多忙な予定が組まれている。もう佑麻と過ごせる日もごく限られてきた。レポート提出後の明後日には、佑麻がこの前の看病のお礼とレポート完成のお祝いに、日本でも有数のワイナリーへ連れて行ってくれることになっている。ドライブしながらの遠出になるので、朝から一日一緒に居られるようスケジュールを調整した。たぶんこの日が佑麻と過ごせる最後の日となるであろう。とにかく佑麻といる時は、別れを考えないで楽しもう。ベッドでドナは、何度も自分に言い聞かせていた。

 

 ドナを迎えにいく道すがら、佑麻は車を借りる際の兄との会話を思い返していた。

「兄貴、ETC カードもよろしく。」

「遠出なのか?」

「日帰りだけど、中央高速で勝沼方面に行きたいんだ。」

「何だ、麻貴ちゃんとドライブデートか。」

「いいや、違うよ。ドナだよ。彼女も、もうすぐ帰国するから、日本を少し案内してやりたくて…」

「ああ、あの天才ナースか…」兄はすこし考え言葉をつづけた。「彼女が日本人なら、我が医院へすぐスカウトするのにな。」

「どうして?フィリピーナじゃだめなの?」

「いくら能力があっても、患者さんが安心感を持ってくれないだろう。」

「そんなもんかなぁ。自分が熱でた時は、安心して任せられたけどなぁ。」

「しかし、彼女は偉いよ。もうあの年で、将来自分が何をしたいかしっかり考えているもの。ふらふらしている今のお前には、到底太刀打ちできる相手じゃないな。いい加減お前も、将来のことをしっかり考えろよ。」

「お説教はもう十分だよ。」そう言いながら、佑麻はひったくるように車のキーを受け取ったのだ。

 

 やがて、いつものバス停に大きなバスケットを持ったドナの姿を見つけた。朝早い待ち合わせなのに、なにか食べるものを持ってきたのかな。弾ける笑顔で手を振る彼女は、珍しくロングスカートだった。スカートについた柔らかいフレアが、新鮮な朝日に透けて眩しく輝いている。兄の言葉が佑麻の頭にリフレインする。『太刀打ちできる相手じゃない?』 今の自分は、ドナに相応しくないのだろうか。

 そんな懸念を払拭してくれるかのように、シートに収まったドナは、いつになくよく喋り、笑った。今では二人の会話は、英語、日本語、タガログ語が入り混ざった独特のコミュニケーションになっている。カーオーディオの軽快な音楽をBGMにして、車は首都高から中央高速へと進み、やがて景色もビル街から住宅街へ、そして山間へと変わって行く。その景色のひとつひとつの変化に、ドナははしゃいでいた。また、音楽好きなドナは、BGMに合わせて歌いはじめる。狭い車内なりに、ちいさい身振りでチャーミングなダンスを見せてくれるものだから、佑麻も運転する目がつい吸いよせられてしまう。そんな彼をドナは、危ないからまっすぐ前を見て運転しなさいよと言って、何度も怒った。

「まったくこどもだな、ドナは・・・。」

 佑麻はドナの性質が好きでたまらなかった。すぐ怒るくせに、数秒後には佑麻の頭を抱いてくれる。ガンバリ屋だが臆病でよく佑麻の腕の中に隠れる。腰に手を回すと大げさに恥ずかしがるくせに、図書館で隣に座っていると大胆に足をからめてきたりする。天真爛漫なドナ。しかしそれでも、自分はそんな彼女に振り回されたことがない。最初に付け回したのは自分だ。恋愛は先に惚れたものが相手に振りまわされる、というのが定石というものだが、彼女との付き合いの中ではそんなことはなかった。なぜだろう。上手く言えないが、彼女の佑麻に対する言動のすべてに、なにかしっかりとした根のような安定感を感じる。陽気で明るいのはラテン系民族には天性のものだとよく言われる。しかし、彼が今感じる根っこのようなものが、ドナの個人的性質なのか、民族性が故なのかは定かではなかった。残念ながら、それが以前失った、大切な母から享受していたものと同じものであると、その時点では気づけなかったのだ。

 

 最初のドライブインで休憩する時、ドナは佑麻の腕を取って離れようとしなかった。まるで、佑麻がどこかへ行ってしまうと心配しているようだ。絶対に置いてけぼりにしないから。大丈夫だから。佑麻がいくら言っても、ドナは離れようとしない。出会った当初は、5メートル以内に近づいてこなかったのに。そんなことを懐かしく思い出したりもしたが、それにしてもいつもと違うベタベタ度に、今日は様子が違うなとも感じていた。

 

 ワイナリーへ行く道の途中で、サクランボ狩りの果樹園に寄った。最初は虫がいそうだからと躊躇していたドナだったが、取り放題で食べ放題とわかると、たちまち宝石のようなサクランボの虜となってしまう。危ないからという佑麻の制止も聞かず、果樹の上の方がきれいで大きいと言って、脚立の最上段まで上る。佑麻は、脚立を押さえるので手いっぱいになり、自身でサクランボを採ることができなかった。抗議しようと見上げても、果樹に茂る緑葉のすきまからこぼれる日差しがまぶしくて、ドナの顔がよく見えない。しかし、スカートが透けてからだのシルエットが浮かんでくるのが妙にセクシーで、眺めているうちに徐々にサクランボへの興味も薄れていった。やがてドナは、スカートの裾に沢山のサクランボを包んで降りてきた。日差しをよけて果樹の根元に腰掛けるドナ。佑麻もその横に胡坐をかいたが、ドナに頭をかかえられて乱暴に引き倒された。ああ、膝枕をしてくれるんだと気づいた彼は、身を預けリラックスして横たわる。

「Isa isa lang ha ! (おなかを壊すからひとつずつよ。)」

 ドナは取ってきたサクランボを膝の上にいる佑麻の口に入れた。

「日本のフルーツは、どうしてこんなに静かなの。フィリピンのフルーツは、味、形、色、もっとうるさいなのに。」

「日の強さとか、ウェザーのちがいじゃないかな。」

「フィリピンのフルーツでも、日本に来れば静かになる?」

「I don’t think so, I’m sure it won’t grow here.

(いや無理だろう。日本に持ってきても育たないんじゃないか。)」

「I hate you…(あなたは本当に嫌な奴だわ。)」

 そう言うとドナは佑麻の頭を乱暴に膝から遠ざけた。

「What’s wrong? ( なんで怒るんだよ。)」

 驚いている佑麻をしばらく見ていたドナは、やがてまた彼の頭を引き寄せ膝の上に載せた。

「Ok… Come…(まあ、いいわ。サクランボ食べなさい。)」

 ドナは、サクランボを彼の口に運ぶのを再開した。

 

 果樹園からワイナリーへの移動の間でランチタイムとなった。佑麻は近くでレストランを探したが、「今日のランチはフィリピンスタイルでいきましょう。」というドナの提案で、ミネラルウォーターだけ買って、見晴らしのいい丘でバスケットを開けた。

 中から出てきたのは、スモークされた小型のフィッシュTapang Isda(タパン・イスダ)と、ココナッツミルクが入ったシチューみたいなもの、これはCadereta(カルガレータ)という料理であると教えられた。そして最後に、ライスが出てきた。ドナが持参してきたライスは、日本のものとはちがい細長で炊きあがりも多少パサパサしている。ドナが準備してくれた料理だ。彼は初めてのフィリピン料理に、多少の不安はあったが食事を開始する。スモークフィッシュに尻尾からかぶりつこうとしたら、骨がのどに刺さるからやめろと制止され、フィッシュを手でさばきながら、せっせと香ばしい白身を佑麻の皿に乗せてくれた。カルガレータをスプーンですくいパサパサのライスと混ぜながら口に運ぶ。正直な第一印象は、『なんとか食べられるな』であった。

ドナを見ると、右手の指先で器用にライスをすくいながら素手で食事をしている。今日の彼女は、今まで彼と行った街のレストランでは見せたことのない早さと器用さで、どんどん食べ物を口に運んでいた。おしゃべりの彼女が一言もしゃべらない。こんなに美味しそうに食べるドナを見るのも初めてのことだった。ドナの魚の身を取ってくれる心遣いと彼女自身が食べる勢いに押されて、佑麻もおなか一杯になった。ミネラルウォーターで細い指先を洗うドナを眺めながら、箸も使わず素手で食べることが、こんなにも優雅に感じられるのが不思議だった。

「何でナースになりたいの?」佑麻は食後の後片づけをしているドナに問いかけた。

「小さい頃、お父さんが病気で死んだ。お母さんは、家族のためにたくさん働いたからほとんど家にいれなかったの。代わりに近くのおじさんやおばさんが私たちの面倒を見てくれました。大きくなったら、ナースになってお礼がしたいと思ったのよ。」

 ドナはあらたまって佑麻に向き合い言った。

「What do you wanna be someday ? (佑麻は、何になるの?)」

「As of now, I don’t have any idea. I don’t have to hurry. I'm young and still have a lot of time. Anyway, I’m sure I can be what I wanna be.

( 別に今は、特になりたいものなんて考えてないな。でもまだ若いし、ゆっくり考えても間に合うと思うけどね。)」

「The same as what you are now, Nothing…

(何にでもなれると思っているうちは、何にもなっていないと同じことよ。)」

 言い投げられたドナの言葉に、佑麻は後ろめたさを感じて、返事をせずに遠い雲へと視線を移した。

 

 ゆっくりと食後の休憩を取ったのち、二人は車を飛ばして、いよいよ目的地のワイナリーに到着した。来場者は一度広場に集合させられて、ガイドから簡単な説明を受ける。早口の日本語なので、佑麻はドナに逐一説明し直した。説明のあとは、ガイドツアーのスタート。ワイン作りの歴史館から、昔の貯蔵庫、ぶどう果樹園、そしてワイン醸造の化学ラボラトリーと続く。もともとドナはワイン好きだったので、どれも興味深く見学していた。最後は彼女お待ちかねのテイスティング。多くの種類のどれもが無料なので、ドナはワングラスずつすべての種類のワインをテイストし始める。

「おい、飲み過ぎじゃないか。And yet, you’re under age and not allowed to drink alcohol.(しかもドナはまだ未成年だろう。)」

 運転があるので飲めない佑麻がすねて言った。

「Sad to say , In the Philippines, At 16 , we began to plan and think our future. And we are already adult at 18. So you don’t have to bother.

(残念ながら、日本と違ってフィリピーナは、16歳で人生を考え、18歳で成人するの。構わないでくれる。)」

 赤からロゼへ、ロゼから白へ、さらにピーチワインから梨のワインへとドナは飲み進む。その時点でだいぶ様子が怪しくなっていたが、テイストから選んだ1本を買い求めると、店先のガーデンテーブルで腰を据えて飲み始めた。佑麻は、仕方がないのでブドウアイスを舐めながら、ワインで変貌していくドナの様子を恐る恐る見守っていた。

「おい!ユウマ、うっぷ。Can I ask you something?(ちょっと聞かせてくれるかしら?)」

「Donna, Put a grass on a table.(ドナ、そろそろ飲むのをやめとこうな)あとは家に帰ってからにしよう。Your already drunk.(もうだいぶ酔ってるから。)」

 ドナのワイングラスを取り上げようとすると、

「Shut up!! I’m still fine. And I’m just starting to enjoy it. Don’t worry.

(うるさいわね。折角気持よく飲んでいるんだから、放っておいてよ。)」

 ドナはワイングラスを取り返す。

「Wait, I was just saying something… Ahmm…What was that? Ok, ok. I said, Can I ask you something?

(だから、ええっと…なんだっけ…そうそう、聞きたいことがあるのよ。)」

「なに?」

「I still remember what you said last time. You said, " ore-no -onna " , What does it mean ?

(あなたが前に言っていた" オレノオンナ"ってどういう意味なの?)」

「Did I say that ?(そんなこと言ったっけなぁ。記憶にないな。)」

「Yes you did !!(嘘を言ってはいけません。)」

「・・・要するにまあ、"She is mine"ってとこかな。」

「teka lang…sandali. I'm yours? Since when?

(ちょっとまって!佑麻。私がいつあなたのものになったのよ。)」

「だから、それは言葉のあやだって・・・。」

「Nobody owned me. And nobody will. Even you!

(私は絶対お前のものじゃないからな、わかったか。)」

「わかってるよ。あの時はそうでも言わないとドナを守れなかったから・・・。」

「Shut up !! How could you say that in public? It’s unbelievable!!

(黙れ!みんなの前でそんなこと言っていたなんて。信じられない。)

Sabi ko na nga ba salbahe ka eh!!!(やっぱりお前は悪い奴だぁ。)」

 ドナは佑麻に掴みかかろうとしたが、ついに酔いが回ってテーブルにうつ伏せてしまった。佑麻は、グラスとワインボトルを片づけると、ドナの頬にかかる髪を指の背で優しく掻きあげた。ワインで火照るその頬に、ワインの香る唇に、触れたいという欲求を辛うじて押さえ、車から持ってきたブランケットで彼女を包む。そして、最後の目的地へ向かうために、彼女を背負うとブドウの果樹園を抜けて、高台の方へゆっくりと歩いていった。背中では、ドナが寝言を呟いている。

「kahit ano pa. Pede naman akong maging sayo. Isama mo na ako kahit saan, at pag-aari mo ako! Torpe !!

(なんでもいいから、私をさらって自分のものにしちゃえよ。ばかやろう。)」

 もちろんタガログ語だから、佑麻にはその意味がわからなかった。

 

 上がっていった先には遠くが見渡させる丘がある。ドナをその芝生に寝かせると、佑麻は自分も横になり彼女の頭を腹に乗せた。そこから景色を眺める。ブドウの木々が連なり、丘に沿って茂るその様子はまるで外洋のたゆやかな波のうねりのようだ。フランスのブドウ園もこんな風景なのだろうか。やがて日が傾き、今日一日のふたりをにこやかに照らしてくれた日差しが、山並みの向こうに隠れようとしている。山辺は赤く、天空はダークグレーに、時とともにその色を濃くしている。そして日が隠れると、夜の帳が下り、天空の世界は一変する。満天の星が漆黒の夜空に溢れ、いつからいたのだろうか、その妖艶な月が、電灯ひとつないブドウ園のうねりを照らし出す。月光は、ドナのまつ毛にもその光をからめたが、彼女はまだ眠れる森の美女よろしく規則正しい寝息を立てて目を閉じている。

 佑麻はドナを起こしたくなかった。いったん起きてしまえば、再び時が動きだし、別れの時までのカウントダウンが始まる。ここで彼女が眠っている限り、時は止まりいつまでも一緒にいられる気がしていた。だがやはり、残酷な現実は避けることができまい。

「ここどこ? 天国?」ドナが目を覚ました。

「いや、ワイナリーのブドウ園さ。」

 ドナは半身を起こし、月に照らされるブドウ園を見入っていた。

「きれいね。Strange, I feel like I’m in the bottom of the sea.

(何か不思議な感じ。海の底にいるみたい。)」

 彼女もまたこの景色に、佑麻と同じものを感じていたのだ。

「I bring you here, hoping that it will live a memory in Japan to your heart and mind.

(日本の思い出に、この景色を見せたかったんだ。)」

 佑麻は、『思い出に』は余計だったかと後悔し、あわてて言葉を続ける。

「Is that the same moon you have in the Philippines?

(あの月はフィリピンと同じかい?)」

「We’re looking at the same moon, but there’s a lot of difference.

(見ている月はひとつのはずだけど、同じとは思えないわ。)」

「What’s the difference?(向こうの月は、どんなだろうね。)」

 『あなたの目で確かめに来たら。』佑麻はそう言ってくれるはずのドナの言葉を待った。しかし、ドナは何も言わない。ふたりとも深い静かな海底に沈んでゆくような、そんな時間が過ぎていく。やがて、ドナが静寂を破って口を開いた。

「ユウマ。The first time we met was not really good. But after that until now it gives me a good memory. A very happy memory that I will never ever forget, because it will stay in my heart. Thank you.

(あなたとの出会い方は最高とは言えなかったけど、日本であなたと過ごした日々は、本当に最高の思い出になったわ。一生忘れません。心からお礼を言います。ありがとう。)」

 礼を言うドナであったが、その言葉は佑麻の心に素直にしみ込んでいかなかった。

「It’s getting late now, Shall we go home ?

(叔母が心配するから、そろそろ帰りましょう。)」

 ドナに促されて佑麻は立ち上り、ブランケットを肩に羽織ったドナの手を引いて丘を下った。

 

 帰国までの残った数日は、ドナは叔母のノルミンダの立てたスケジュール通りに過ごした。東京ディズニーランド。福井の親戚訪問。京都散策。たぶん生涯二度と訪れる機会のない日本の観光を貪るような、貪欲な数日間だった。そんな忙しい合間でも、時折ドナが見せる遠い視線をノルミンダは見逃さなかった。そして、京都から帰りの新幹線で隣に座るドナが、まさにそんな表情をしていたのだ。

「Ate Baby.(アテ・ベイビー)」

 ドナは叔母をそう呼んだ。

「Masaya ka ba na kinasal sa hapon?(日本人と結婚して幸せ?)」

 突然の問いに戸惑いながらも、

「Masaya ako dahil wala naman problema. Pero...

(今の結婚生活に不満はないわ。ただ…。)」叔母は視線を窓の外に移しながら続けた。

「Mas masaya sana ako kung makakasama ko syang manirahan dyan sa pilipinas.

(フィリピンで一緒に暮らせたらいいのにと、時々想うの。)」

「Bakit di na lang kayo manirahan dito?(どうして暮らせないの?)」

「17gulang pa lang ako ng mag umpisa akong mag trabaho sa Japan.

(私は、17歳の頃から、日本に来て働いているの。)

Japayuki ang tawag sa amin. Madali naman akong nasanay sa trabaho. Batang bata pa ako at maganda , kaya kahit saan ako madestino ng trabaho nagiging numero uno ako.

(いわゆるジャパユキさんね。そのうち仕事に慣れてくると、若くて可愛い私はどの店でもトップだったのよ。)

Maniniwala ka ba Hirai, Kinshi-cho, Ueno kahit saan Club ako magpunta karamihan ng mga parokyano ko ay pumupunta para makita ako at ligawan.

(信じられる。平井、錦糸町、上野。どの街の店へ移っても、大勢の男たちが、私を口説こうと通ってくるの。)

Lumaki ang ulo ko at naging mayabang dahil sa mga nakapalilgid na mga lalaking may kanya kanyang motibo at lahat ay gagawin at ibibigay sa akin para mahulog sa kanila. Karanasang naka tayo sa pidestal.

(そのうち生意気になり、嘘をついていい相手か悪い相手かも見境がつかなくなってしまった。そのせいで、いろいろな経験もしたわ。)

Kaya nang humantong ako sa edad na 30 anyos napagod din ako at napag-isipan kong magtrabaho na lamang kahit sa maliit na lugar.

(やがて30歳を越えて全盛期も過ぎると、疲れてきて目抜きの街から少し落ち着いた街へ店を変えてもらった。)

At doon ko nakilala ang aking kabiyak.(そこで出会ったのが今の旦那なの。)」

ノルミンダはミネラルウォーターを口に含んだ。

「Unang kita ko pa lang ay nahulog na ang loob ko sa kanya. Kahit na sya ay hindi umiinom ng alak nakita ko kung paano sya makisama kaya lalong nahulog ang loob ko sa kanya. Di ko masasabing una ito pero sa muling pagkakataon ay tumibok ang aking puso.

(私の一目惚れだったわ。お酒も飲めないのに、付き合いで初めてやって来た彼にときめいちゃったの。初めてとは言わないけれど、久しく忘れていた感覚ね。)

Kung tawagin nila ako ay reyna ng kinshi-cho, ngunit noon lang ako nakaranas na di makatanggap ng kanyang numero at ng kanyang request hanggang sa sya ay makauwi.

(錦糸町のクイーンとも呼ばれた私が、今までのノウハウを総動員してアピールしたけど、その時は電話番号も教えてくれなかったし、指名もしてくれず帰ってしまったの。)

Inisip ko na lang na siguro ay hindi nya ko gusto, ngunit makalipas ang isang linggo ay bigla syang bumalik at ako ay nagulat dahil ako ay kanyang tinawag.

(私に興味がないのだとあきらめて1週間もたった頃、突然彼が店にやって来て私を呼んでくれたの。ビックリしたわ。)

Sa aking pagiging bihasa ay dinaig ko pa ang malamyang baguhan sa paNanayula ng aking pisngi, di man kami umiinom ng alak ay unti-unti naming kinilala ang isat-isa.

(ベテランの私がうぶな新人みたいに顔を赤くして、お酒も飲まずお互いのことを恐る恐る話し始めたの。)

Sa loob na iyon ay unti-unting kinakapos ang aming oras, kaya napagpasyahan naming mag karaoke box. Sa'min pag-uusap di namin namalayan ang pagsikat ng araw, ganunpaman sa kakulangan ng aming oras kaya hanggang sa agahan ng McDonald walang sawa ang aming pag-uusap at doon sya ay unti-unting nagbago.

(そのうち店の時間では足りなくて、閉店後にカラオケボックスで夜明けまで話し、それでも足りなくて朝のマクドナルドで話し、彼のことがだんだんわかってきた。)

Gusto ko sya makilala at kilalanin ng lubusan, kaya sya ay aking nagustuhan.

(知れば知るほど好きになっていったの。)

Dahil sa sya ay may asawa at anak di man nya maipangako sa'kin ang kaligayahang maikasal, kahit gaano ko man sya kagusto, handa akong magpaubaya dahil di ko rin naman sya makakasama kahit sa oras man ng kamatayan.

(当時の彼は、幸せな結婚とは言えなかったらしいけど、奥さんも子供も居たので、彼がどんなに好きでも、死ぬ時に一緒に居られる女にはなれないとあきらめてはいたの。)

Ngunit nakalipas ang isang taon dumating ang isang-araw, Nag balik ka sa akin na may bitbit na isang maleta at sinabing "Nandito ako para pag-usapan natin ang kinabukasan ng magkasama."

(けど1年ほどたったある日、『君と未来の話をしにきたよ。』と言ってカバンひとつで私のところにやってきたのよ。)

Dati pa syang nagta-trabaho sa kompanya ng kanyang dating asawa, pero binaliwala nyang lahat ng ito bahay, trabaho.

(もともと前の奥さんの親族の会社の役員を勤めていたから、家も仕事もすべてを投げ捨ててきたと思う。)

Naghanap sya ng bagong trabaho. Nag-umpisa muli sa una at nag sikap para sa aming kinabukasan sampu ng aking pamilya.

(それから彼は、新しい仕事を一からはじめて私と私の家族のために働き、そして尽くしてくれているの。)

May idad na sya , pero nag sasakripisyo at nag pupursige pa rin sya . Alam kong maraming hirap at passakit ang dinaanan nya . Kaya hindi madali sa akin na sabihin sa kanyang manirahan kami sa Pilipinas at mag umpisang muli.

(もういい年なのに大変だったと思うわ。そんな彼に自分の国で死ぬ安らぎまで捨てろとは言えない。)

Para sa'ming mga Japayuki, ang ibig sabihin ng pagpapakasal sa hapon, ay kung kinakailangang talikuran ninyo ang inyong bansa.

(ジャパユキの私たちにとって、日本人と結婚するということは、自らの祖国を捨てなければできないことだったのよ。)」

 ノルミンダはドナの手を取って握りしめた。

「Donna, hindi ka Japayuki…(ドナ。あなたはジャパユキさんじゃないわ。)

Di ba ikaw ay pilipina na mayroong kinabukasan, at ang iyong kinabukasan ay naroon sa pilipinas.

(未来のあるフィリピーナでしょ。あなたの未来はフィリピンにあるの。)

Kaya ang taong iyong mamahalin at gagawa ng iyong kinabukasan ay walang iba kundi nasa pilipinas lamang…

(だからあなたと未来を語れる相手はフィリピンにしか居ないのよ。)」

 ノルミンダの真剣な言い様に押されて、ドナはただうなずくしかなかった。

 

 どうしていいかわからない時は動けない。佑麻も例にもれずドナが帰国する当日まで、メールも電話もできなかった。メールや電話をしても、自分が何を言ったらいいのか皆目検討がつかないのだ。勝沼へのドライブ以来、ドナからも何の連絡もなかった。ただ佑麻は、ドナの帰国の日には、空港へ送りに行くことだけは心に決めていた。まるで恋愛映画やドラマの安っぽいストーリーのようだが、そうしなければいけないような気になっていた。全日空949便。17時20分発。あらためて帰りの便を聞いたわけではないが、全日空で来たことは聞いていたので、大方想像がつく。出発2時間前のチェックインタイムに合わせて成田空港へバイクを飛ばした。

 いざ空港についてみると、心臓がバクバクいい始める。何だかこれから武道館の舞台に上がって、1万3千人の前で歌わなきゃならないみたいだ。第一ターミナル、出発ロビーに出ると全日空のカウンターを探す。はたして、ドナはノルミンダ夫婦と共にチェックインカウンターへの列に並んでいた。

 佑麻は足が止まってしまった。ドナに近づこうにも足が動かないのだ。やがてドナ達はチェックインを済ませ、出発までの残された時間を過ごすために、ショップコーナーにあるマクドナルドへ向かう。佑麻は遠目にドナを見つめ続けた。今日のコーディネートはいつもと違う。体の線にピッタリとしTシャツに、ジーンズ。足のマニュキアの色に合わせたカラフルなサンダル。これが祖国でのスタイルなのか。彼女は家族が待つ母国への帰郷が嬉しいのか、ノルミンダと興奮気味に話していた。

 

 ドナは、周りを見渡して何度佑麻を探したろうか。ブドウ園以来、彼からの連絡もなく今日まできてしまった。ドナもその後ノルミンダと過ごす日々が多かったので、佑麻に連絡がし辛かった。今日が最後の日。彼の姿を一目でも見られればと神に祈ったが、未だに彼を見つけることができないでいる。ブドウ園であんなことを言ったからもう会わないつもりなのだろうか。ドナは沈む気持ちを叔母夫婦に悟られまいと、努めて明るく振舞った。やがて出発の時間が来た。出発ゲートへ歩きながら、自分の心を鎮めて彼を見つけることを諦めることにした。ゲート前で叔父がペットボトルの処理をしている間、ドナは佑麻に最後のメールを打った。

 

 佑麻はゲートに進むドナを眺めながら、現実なんてこんなもんだと吐き捨てた。堂々と送りにもいけない自分を、情けなく思った。佑麻の携帯にメールが着信したのは、その時である。

『Thank you for everything, Donna.』

携帯を持つ手が震えた。本当にこれがドナを見る最後なのだ。気がつくと佑麻はドナに向かって走っていた。

 ドナは叔母に最後のハグをしている肩越しに、物凄い形相で走ってくる佑麻を見た。不思議とドナに驚きはなく、ただ願いを叶えてくれた神様へ感謝の言葉を何度も繰り返した。佑麻は、荒い息を静めながら、ドナの前に立つ。彼の手に握り締められていた携帯を見てドナが言った。

「You were here and why you didn’t show up?(今までいたくせに、出てこなかったの?)」

「ああ。」

「Until my last minute in Japan, You're proving that your Bad guy.

(最後まで悪い奴ね、あなたは。)」佑麻を見るドナの瞳がわずかに潤む。

 それからふたりは長い間言葉もなく見つめ合った。お互いがお互いからのサインを必死に探し合っているかのようだった。見かねた叔父がドナを促した。

「ドナ、飛行機に遅れるよ。」

 ふたりが同時に叔父を見たので、叔父は何だか悪いことしたような気になって後ろへ退く。向きなおした佑麻がドナに言った。

「元気で。」

「Ikaw rin.(あなたもね。)」

 佑麻とハグも握手もせず、ドナは彼と叔母夫婦に背を向けて、しっかりとした足取りでゲートへ進んでいった。ドナを後ろから見送るもの達からはそう見えたが、実際前に回ってみるとドナの頬は大粒の涙で濡れていた。乗機待ちのロビーでは、ドナは人目もはばからず、声をあげて泣いた。こんな泣けるのは生まれて初めての経験だった。できれば、帰国する前に涙でこの切ない気持ちを洗い流してしまいたい。そう願っているかのようだった。

 

 ドナを見送った空港での別れ際に、叔父が佑麻に何事かを話しかけた。佑麻は立ち止まったものの、叔父とは視線も合わせず、ただ軽くお辞儀をしただけでその場から離れていった。

 

 『別れを繰り返し君は大人になっていく。』という唄があるが、それが当てはまるのは、あきらかに女性だ。帰国後ドナは佑麻との別れの悲しさを振り払うべく、一心不乱に学びそして地域の活動に精を出した。人々はそんな彼女を見て、ドナは日本に行って一段と逞しくなったと噂した。ドミニクも、帰国したドナに時折近寄り難いきびしさを感じたが、実際話しかけてみると彼女らしい優しさは失われてはいなかったので安心していた。こんなドナだが、さすがに夜はつらかった。どんなに疲れていても、なかなか寝つけない。ベッドにはいっても思い浮かんでくるのは佑麻の仕草、声そして彼と過ごした楽しい日々。彼の面影を振り払おうと奮闘しているうちに気がつくと朝になっていることが多々あった。いっそのこと夢の中で佑麻に会えれば寝つきもよかろうが、会いたい人ほど夢には出てこない。彼を思い出にするにはまだまだ時間が必要のようだ。

 一方日本の佑麻は完全に腑抜け状態であった。何事もやる気を起こさないので、家では由紀の、サークルでは麻貴の怒りを幾度となく買っていた。サークルのチームメイトは、何となくその理由を察しているが、今はそっとしておこうと彼には無理に近づかなかった。見かねた佑麻の兄が、忙しい診療の合間に弟を飲みに連れ出して、女なんて星の数ほどいるよと諭すが、弟は一向に変化する様子が見られない。そうして何ヶ月かが過ぎた。

 

 大学も長期休暇に入ろうかとしているある日、家で洗濯物を干す手伝いをしている由紀の携帯が鳴った。

「由紀ちゃん。佑麻いる?」麻貴が携帯も壊れるような剣幕で問いかける。

「朝から起き出してこないから、部屋にいると思うけど…」

「さっきから携帯が通じないのよ!」

「どうしたの?」

「あいつ急に休部届けを送りつけてきたのよ。」

 麻貴に催促されて、由紀は佑麻の部屋のドアをノックするが返事がない。妹だけ持たされている緊急用の合鍵で部屋に踏み込むと、机の上に由紀宛の手紙が一通置かれていた。その代わりに、家族の写真が映っていたデジタルフォトフレームが無くなっていた。

 

 

 
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