No.509937

竜たちの夢15

少しずつ不安の種が出て来始めます。

今更ですが、この作品では一刀がチートなので、そういうのが許容できる方のみご覧ください。


続きを表示

2012-11-19 01:14:41 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:5304   閲覧ユーザー数:4024

 

 曹嵩を陶謙の部下が襲撃したという事件は瞬く間に曹操達の下に伝わった。

 

 これを機と見た曹操は徐州に攻め入ろうとするが、これは意外なことに襲撃された曹嵩達によって止められた。

そして、曹嵩から直接語られた内容に曹操は徐州をすぐさま攻めるのを断念し、その間に劉備達は徐州から荊州へと移り始めていた。

まさに一刀の読み通りに展開は進んでいたのだ。

 

 張三姉妹を曹操の下に送り、青州をより円滑に平定する力を与える代わりに豫洲を通らせて貰うという彼の考えは決して間違っていなかった。

曹操は明らかに見て見ぬ振りをして、そのまま先行部隊を通らせたという事実もそれを証明している。

後は一刀達が通るだけだが、その際に彼は追手が来ることを予想していた。

 

 そして、それはすぐに現実のものとなるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先行部隊が無事に荊州に辿り着いた報告を受けた一刀達は、早速豫洲を横切り始めていた。

曹操軍とぶつからないように、できる限り刺激しない道を選んで進みながら、彼らは荊州に向かった後のことを話しあっていた。

まだ荊州についてもいないのに先のことを話し合うのは取らぬ狸の皮算用というものだが、通れない筈が無い。

 

 もしも彼らを曹操が通さなければ、一刀は喜んでその軍の一部をごっそりと奪っていくだろう。

曹操は追撃を行っても痛手しか得られず、曹嵩を助けた者達を追撃したという悪評だけが独り歩きする。

その悪評は曹操の評価を一変させる可能性を秘めている……悪い意味で、だが。

彼女の最大の魅力である公平さまでもが失われては、もはや曹操は覇王にはなれない。

 

 

「ここまでは追撃は無かったが、いずれ来るだろうな」

 

「一刀様、追撃に対する殿はどうされますか?」

 

「勿論俺が行く。そろそろ竜の異形さを試してみたい処でな」

 

「恋は?」

 

「恋も待機だ。多方向から攻められた場合は愛紗と共に劉備を守ってくれ」

 

 一刀達が居るのは本隊の中心であり、前方と後方のどちらにもすぐに行けるようにしている。

前方は関羽が、後方は張飛が担い、今中央に居る将は一刀達三竜を除けば孫権、思春、趙雲の三人だ。

正確には華雄も居るのだが、彼女の存在はまだ秘匿してあり、董卓と賈詡の護衛を任せている。

 

 知華は呂蒙、孔明、梅花と共に先行部隊を指揮していた為、今はここに居ない。

先行部隊は一刀の予想通り何の攻撃も妨害も受けずに荊州に辿り着いた為、今は劉備達の受け入れの準備をしている筈だ。

この先行部隊の存在は先に荊州に向かい準備をするだけでなく、曹操達を焦らす為でもあった。

一度通った大きな魚を見逃したのだ……さらに大きな魚が通るのが分かっているのに見逃せず筈も無い。

 

 曹操は真面目で、決して追手などは放たないだろうが、その下の者達は違う。

必ず仕掛けて来る筈だ……五千を以下に削った二千の本隊を襲わずには居られない。

その二千という寡兵の奥底に愛紗、恋、一刀の三竜が潜んでいることにも気付かずに、誘いに乗ってやって来る。

この二千が実質数十万に匹敵する戦力を有していることを知らないままに、竜の口元に近付いてくるのだ。

 

 

「分かった……ご主人様、気を付けて」

 

「ああ、分かっている。劉備、俺は後方に行く。良いな?」

 

「うん、鈴々ちゃんと一緒に後方をお願い」

 

「確かに任された」

 

 一刀は劉備の言葉に微笑を浮かべると、すぐさま後方へと蜃気楼を走らせた。

その鮮やかさは蜃気楼だからこそなせるのであって、他の馬ではこうはいかない。

元々千里馬であった赤兎馬は恋の血を飲むことで更に強化され、蜃気楼を超える名馬となったが、その本質は力強さにある。

蜃気楼は赤兎馬程の力も瞬発力も持たないが、その柔軟性は赤兎馬すらも上回っている。

 

 十年という長い時を一刀という使い手と共に過ごしたのだから当然のことかもしれない。

一刀は力ではなく技術で制することを得意とし、彼の馬の扱い方は実に丁寧だ。

ある程度の力技を使うこともあるが、それらも蜃気楼の限界を考慮した上での行いだ。

蜃気楼は静かに、ただ主のように精密な動きを行えるが、赤兎馬にはできない。

荒々しいように見えるが、その実蜃気楼は非常に理知的な馬なのだ。

 

 

「……桃香様、宜しいのですか? 北郷殿に少しばかり自由を与え過ぎかと思うのですが」

 

「星ちゃん、一刀さんは私達には見えないものが見えているから、安心して任せて良いの」

 

「確かに私も北郷殿の能力は認めますが、それでもあまりにも自由に動き過ぎです。あれでは下の者に示しがつきません」

 

「星ちゃんの危惧していることも分かるけれど、それは無いよ。私は能力の無い人にはあそこまでの自由は与えないから」

 

「……これはまた、随分とはっきりとおっしゃいますな」

 

 劉備の現実的な一面を見せつけられた趙雲は思わず目を見開いた。

彼女が仕えることを選んだ主は、彼女が思っていた以上に強く、現実的だ。

その理想はただの甘い果実ではなく、今や実力が伴う理想であって、揺るがない。

まだ趙雲は劉備に仕えて間もないが、その間の仕事の様子を見る限りでは、彼女はまるで平凡ではない。

 

 正直に言えば、趙雲は劉備にあるのは強い理想だけで本人は少しも力を持たないものと思っていたのだ。

それが蓋を開けてみればどうだ?……平凡で鈍くさそうに見えて、その実こなしている仕事量は尋常ではない。

公孫賛の下に居た頃に出会った時とは明らかに異なり、彼女はその力を開花させている。

 

 劉備の強さはある意味恐ろしく、まるで一刀を見ているかのような錯覚を趙雲は覚える。

彼のように気難しさを感じさせはしないが、どこか二人は似通っているのだ。

理想しか持たないと思っていた劉備は、本当は夢だけでなくそこに至る手段も手に入れていたということであろう。

趙雲は良い意味で見誤っていたことを嬉しく思った。

 

 力無き正義でも正義無き力でもなく、まさしく劉備は力ある正義だったのだ。

 

 

「一刀さんと私の目指す未来は同じだから、あのひとは縛らなくて良いの」

 

「我々の目指す未来は桃香様の目指す未来と異なると? 聊か傷つきますな」

 

「星ちゃん、分かろうとしなくても良いの。この感覚は私と一刀さんにしか分からないから。ただ、これだけは忘れないで―――今の私があるのは一刀さんのお蔭なの」

 

「っ……成程。道理で似ている訳だ」

 

「私は一刀さんに似ているだけで一刀さんみたいにはなれないけれど、分かるの。あのひとは、私と同じものを目指しているんだって」

 

 劉備と一刀の姿が重なった趙雲は、密かに怯えを感じた。

曹操や孫策ではなく、劉備を選んだことは間違いではなかったが、それでも彼女は恐れを抱かずにはいられない。

間違いなく勝つのは劉備であって、曹操でも孫策でもないのが分かってしまう。

だからこそ、怖いのだ……あの二人を容易く飲み込める強さを持つ劉備が。

 

 曹操や孫策は確かに王として高い能力を持つが、飽く迄人間の領域を出ない。

だが、劉備は違う……まるで別の生き物のような気がする程に強い。強過ぎる。

人間が求めている究極の強さに足を一歩踏み入れている状態と言っても過言ではない強さだ。

決して揺るがない精神……人類の大きな望みの一つであるそれを彼女は既に持っている。

だから怖いのだ―――あまりにも強過ぎるから。

 

 以前趙雲が劉備と出会った時はここまでではなかった。

王としての器を感じさる人間であるとは思ったものの、飽く迄彼女の眼には曹操や孫策と同等に見えていた。

それが再会してみれば、あの二人を置き去りにした圧倒的なオーラを放っている。

彼女が客将として世話になった公孫賛がもし今の劉備を見ていたならば、その変化に言葉すらも忘れていたに違いない。

 

 

「桃香様は、本当に北郷殿がお好きなのですね」

 

「うん、愛しているよ。誰よりも、何よりも、私はあの人が大好き」

 

「おお、随分と熱烈ですな……向こうは気づいていないようですが」

 

「うぅ……それは言わない約束だよ」

 

「ふふ……そのような約束、私は聞いておりませぬぞ?」

 

 趙雲は劉備の強さを真正面から受け止めずに誤魔化すことしかできない。

何故劉備が一刀にあそこまでの自由を与えているのかを彼女は少しだけ理解した。

二人はきっと何処かで繋がっているのだ……だから、同じものを目指すことができる。

違う存在である筈なのに、共通点を見いだせてしまうのもそのせいに違いない。

まるで以心伝心を体現しているかのように、二人は互いを理解しているのだ。

 

 そう、きっと二人は―――同一の存在なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……暇なのだ」

 

「そうだな」

 

 後方に加わった一刀であったが、思いの外追手が来ないせいで実に手持無沙汰だった。

最初から後方に待機していた張飛に至っては、どこからどう見ても退屈している。

一刀は持っていた書簡を眺めて暇をつぶしているが、張飛は特にそういうものが無いので、チラチラと一刀を見ながら構えサインを出している。

 

 一刀はそのサインに気付きながらも、現在行軍中であることを考えてそれには応じない。

そんな彼を見た張飛は頬を膨らませて更にアピールしてくるが、やはり彼は応じず、だ。

緊張状態になると恐ろしく集中力が高まる張飛ではあったが、こういう平時、特に退屈な場合には集中力の欠片も無い。

ここを突かれてしまう可能性もあるが、その程度でやられる程彼女は軟ではない。

 

 

「暇なのだ!」

 

「そうだな」

 

「う……うにゃ~!!」

 

「っと!……飛び掛かって来るな。邪魔だ。それと、馬が戸惑っているぞ」

 

「構ってくれないと退かないのだ!」

 

 飛び掛かってきた張飛と、彼女の馬を見比べながら一刀は思わずため息をつく。

周りの兵士達は苦笑する者も居れば、一刀の言うことを聞かない張飛に青ざめている者も居たりする。

一刀は有能ではあるが、厳しい上官であるという認識の者も居るのだから仕方ない。

そういう認識の者は張飛が彼に罰せられるとでも思っているのだろう。

 

 しかし、一刀にはそのようなことをするつもりはない。

張飛は飽く迄まだ年頃の子どもであって大人にはなっていないのだから、この程度は許さねばならない。

このようなことを怒っても仕方ないし、怒っても張飛は態度を改めないだろう。

だからこそ、一刀は別の形で態度を改めさせる。

 

 

「張飛、お前は変わらないな。今はまだ良いが、大きくなってもそのままだと色々と恥ずかしいぞ?」

 

「うにゃ? どういうことなのだ?」

 

「考えても見ろ。仕事中に関羽が駄々をこねて、頬を膨らませながら俺に構えと言っているのを見たらお前はどう思う?」

 

「みっともないから、暫くの間は愛紗と距離をおいて知らない振りをするのだ」

 

「おい、随分と酷い対応だな……取りあえず、今張飛がしているのはそういうことだ」

 

 張飛の容赦ない回答に内心呆れながらも、一刀は彼女の眼を見た。

彼女の紫色の眼は純粋で、既にいくつもの穢れを見てきた筈なのに、その純粋さを捨てていない。

一刀はその強さに心から敬意を払っている。

彼女が今まで見てきたものは決して良いものではない筈なのに、ここまで真直ぐであれるのはもはや天性のものがなければ無理だ。

 

 劉備の下に集った者達は皆それぞれが歪みを抱えながらも、強い。

脆さがある筈なのに、それを補って余る程の強さを彼女達は元々持っているのだ。

一刀はただそれを磨いて開花させていくのが得意なだけで、元々彼女達はそれを持っていた。

だからこそここまで劉備軍は精強になったのだろう。

 

 

「う~……それは嫌なのだ。大人しくしているのだ」

 

「それで良い。追手が来るかもしれない……それに備えておけ」

 

「分かったのだ! 殿は鈴々とお兄ちゃんでするのだ?」

 

「ああ、そのつもりだ。張飛、俺の戦い方から盗めるものは全部盗んでおけ」

 

「言われなくてもそうするのだ!」

 

 一刀の言葉に笑顔で頷くと、張飛は彼女の馬に飛び乗った。

彼女はまさしく人間の中ではほぼ最強の部類に入る武人であり、体さえ出来れば、無双となるだろう。

飽く迄人間の中での話だが、それはとても凄いことだ。

一刀達は竜であって、いずれ人間の歴史から姿を消していく……その時最強と呼ばれるのは彼女かもしれない。

 

 現在大陸最強と言われているのは一刀であり、二番目は恋だと言われている。

後はこのまま伝説になれば十分……否、北郷一刀と呂布奉先の亡霊の恐怖を知らせるには十分過ぎる。

彼は歴史の表舞台からは消えるが、その後も腐敗を排除する嵐であり続けるつもりだ。

愛紗と恋もそれに納得してくれている……後は、表舞台から消えるまでに強固なシステムを作り上げるだけで良い。

 

 人間の最強は人間で決めれば良い……一刀達はその遥か上から全てを見守るだけだ。

再び乱世が訪れるのならば、彼はまた全てをリセットして、真っ白にする。

それこそが竜の生き様であることを彼は知らない……しかし、無意識の内に彼はそれを辿っている。

生まれながらにして完全な竜となることを約束されているからこそ、彼は無意識にそれを行う。

 

 生まれながらにして完全な逆鱗となることを約束されている劉備のように、そうなるようになっている。

 

 

「! 伝令、劉備達にすぐに知らせてくれ―――追手が後方から来ている。距離は凡そ十里だ。俺と張飛で掻き乱しておくから、行軍速度はそのままで良い、と」

 

「御意!!」

 

「お兄ちゃん、数はどのくらいなのだ?」

 

「恐らく二万……いや、一万五千だな。張飛、行くぞ」

 

「了解なのだ!!」

 

 一万五千の戦力を回したということは、曹操は袁紹を吸収して得た戦力四万近くと青州兵三十万を律するだけの力は殆ど残っていないことになる。

もしも今公孫賛が攻め入ればあっと言う間に総崩れになるのは明白だが、そうはいかないのが現実だ。

張三姉妹を上手く利用して青州兵を手懐け、袁紹の軍も帝の名を出されては曹操に従わざるを得ない。

 

 恐らく追撃に回されたのは曹操の精鋭部隊ではなく、袁紹の部隊であろう。

率いる将は曹操の将であろうが、それに追従するのは本隊ではない。

まだ袁紹の軍は吸収されて間もない……故に、今ならば一刀達を追撃させても独断専行だと言い訳ができる。

率いる将が誰なのかが問題だが、追撃してくる軍そのものは曹操軍ではない。

それが一刀の予想だった。

 

 

「……妙だな。あの牙門旗は、張遼のものだ」

 

「張遼? 張遼って曹操に捕獲された張遼なのだ?」

 

「ああ、そうだ。しかし、何故張遼が? 敵討ちにでも来たつもりか?」

 

「もしかして、お兄ちゃんに勝負を挑みに来たのだ?」

 

「いや、それはない」

 

 恋に聞いた限りでは、彼女は一刀以外に真名を預けていないし、受け取っても居ない。

彼女はただ実力のみを認められて董卓軍に加わっていたのであって、慕われてはいなかった筈だ。

彼女が助けたという陳宮以外は彼女とそれ程親しくはなく、敵討ちなど考え着く筈も無い

そもそも彼女はまだ生きている。

 

 となれば、華雄か高順か徐栄の誰かの敵討ちとなる。

華雄に関しては生きていることを秘匿したのだから、張遼が生存を知っている筈もなく十二分にあり得る。

他二人に関しても、孫策達による火計の案を出したのが一刀であることを知れば、張遼はやってくるだろう。

 

 考えてみれば、張遼を頭に据えるのは少しもおかしいことではなかった。

 

 

「しかし……牙門旗が張遼のものしかないのは妙だな。一万五千を一人の将で担うのは不思議ではないが、俺達を相手にするには将一人ではあまりにも貧弱だ」

 

「伏兵は?」

 

「いや、それを行うには手順が雑過ぎる。そもそもここは伏兵を置けない。何処から仕掛けても、容易に対策できてしまうぞ」

 

「……訳が分からないのだ」

 

「安心しろ。俺もだ」

 

 不気味さを感じさせる追手に一刀は眉をひそめる。

張飛もその表情を歪ませて、蛇矛を静かに構えている……彼女も不穏さを感じているようだ。

一刀はこの十年で多くを見て、経験してきたが、この妙な感覚は初めて感じる。

初めてではるが、あまり心地の良いものではなさそうだ。

 

 近づいてくる『張』の牙門旗と、以前汜水関で出会った張遼がその姿をはっきりと見せた時、彼は違和感を抱いた。

以前彼がほんの少しだけ手合せをした時と、様子が異なるのだ。

何が異なるのかは良く分からないが、少なくとも以前とは何かが違う。

 

 

「また会うたな、北郷一刀!」

 

「張文遠、汜水関で会って以来だな。いったい何用だ?」

 

「何用も何も……分かるやろ? うちらはあんたらの監視役や。飽く迄名目上は」

 

「……それで、実際は?」

 

「北郷一刀―――うちと勝負してくれへんか?」

 

 一刀は張遼の言葉とその眼から感じていた違和感の正体に気付いた。

彼女の眼は復讐などの負の感情は抱いていないものの、執着心が垣間見える。

彼が今まで向けられたそれとは異なるが、これは恐らく純粋な武への憧れであろう。

無双と言われていた呂布を降した彼に興味が無い筈が無い。

しかし、二人の間にある差は歴然だ……彼女の行動は無謀だと言わざるを得ない。

 

 

「勝負して、俺に何の利益がある?」

 

「名目上、うちは飽く迄あんたらが無事にこの領土を超えるかどうかを確認するだけや。でも、そんなことじゃ満足できへんねん。うちを降せば、無事に通しても良いで」

 

「お前なんか、鈴々で十分なのだ!」

 

「張飛、あんたとも戦ってみたいけれど、うちが今一番戦いたいのは北郷一刀なんや」

 

「……良いだろう。ただし、お前を降した場合は素直に撤退して貰うぞ。約束を違えば――皆殺しにする」

 

 一刀は全身から氣を放出しながらその眼で張遼を見据える。

彼女も関羽達と肩を並べる武人であることは間違いないが、彼にとってはその程度でしかない。

人間は竜には絶対に勝てないし、殺すことも逆鱗以外には叶わない。

もはや今の彼にとって一騎当千の武将など大したものではないのだ。

 

 

「ええよ。約束は絶対に違えへん。ほんなら―――行くで!!」

 

「張飛、お前は下がっていろ」

 

「了解なのだ」

 

「さて……来い」

 

 一刀は、飛竜偃月刀を片手に馬を加速させた張遼を迎え撃つ。

心から喜んでいるのが良く分かる彼女の笑顔を見ながらも、彼は直ぐに蜃気楼から降りた。

蜃気楼は不満そうにするものの、彼の眼を見てすぐさま後方に下がる。

そんな彼らを不思議に思いながらも、張遼は飛竜偃月刀を力一杯振り下ろした。

 

 一刀はそれを片腕で弾き、逆の腕ですぐさま張遼の馬を横に倒した。

あまりにも速いその動きに、張遼はそれを防ぐこともできずに地面に投げだされる。

一刀の速度に驚きながらも、そのまま流れるように起き上がった張遼は放たれた追撃を何とか防ぐ。

防いだ途端に両手が痺れて武器を手放してしまいそうになるのを堪えながら、彼女は一旦距離を取った。

 

 張遼が飛竜偃月刀を構え直すのを見ながら、一刀はその場で腕を組む。

確かに張遼は超一流の攻撃速度を持っているかもしれないが、彼にとっては少し速い攻撃でしかない。

彼女の武が通じるのは人間相手の時だけであって、彼には通用しないのだ。

 

 

「やっぱ凄いなぁ……あんた本当に人外みたいやで」

 

「良く言われる。さて……今度はこちらから行かせて貰うぞ」

 

「!?」

 

「遅い」

 

 張遼のすぐ横に移動すると、一刀は飛竜偃月刀の柄を掴んでそのまま彼女を投げ飛ばした。

驚きに目を見開く張遼であったが、軽やかな身のこなしで見事に着地する。

素晴らしい身のこなしを見せた彼女は、そのまま反撃に転じようとし、一刀の姿がまた見えなくなったことに気付く。

 

 

「っ……居ない!?」

 

「こちらだ」

 

「―――!? がっ!?」

 

 声のした方を慌てて振り向いた張遼が見たのは、恐ろしく綺麗な深紅の瞳だった。

鮮血のように鮮やかで、深淵のような深みを持つその眼は、彼女を釘付けにして動くことすらも忘れさせる。

そんな彼女の胸部に、容赦ない一撃が加えられた。

 

 胸部に食い込む一刀の腕を見ながらも、張遼はすぐさま飛竜偃月刀で彼を刺そうとしたが、易々と弾かれて飛竜偃月刀は宙を舞う。

不思議なことに痛みを少しも感じさせない彼の貫手は、彼女に妙に暖かい何かを感じさせる。

何処となく懐かしさを感じさせるその暖かさは、妙な安心感を彼女に齎した。

 

 

「ぐ……」

 

「先に言っておく―――叫んでも良いぞ」

 

「な、何を―――あっ……」

 

 不意に、張遼は己の中に何かが流れ込んでくるのを感じた。

それはとても暖かく、心地よく、しかし同時に火傷しそうな程に熱く、絶大的な快楽を彼女に齎す。

まるで脳が焼き切れそうな程に感覚を刺激するその何かに彼女は何も言えなくなる。

戦場においては絶対に経験できない筈のこの未知の感覚に、彼女はただ混乱するしかなかった。

 

 

「あ……ああ……」

 

『か……と……羅馬に……』

 

『ああ……や……そくだ……』

 

 彼女の頭の中に直接、誰かの声が聞こえてくる……妙に懐かしい誰かの声が。

彼女の頭の中に直接、誰かの頬に触れた感触が入ってくる……とても愛おしい誰かの感触が。

それはとても大切なものだった筈なのに、彼女には思い出すことができない。

何か、大切な約束をした筈なのに、誰とどんな約束をしたのかを思い出せない。

 

 

『霞……行こう』

 

『うん……一刀』

 

「ああああああああああああ!?」

 

 彼女はそれがいったい何なのかを少しも思い出せない。

いつのことなのかも分からない。どんな場所だったのかも明確ではない。誰のことなのかも定かではない。

ただ、それはとても愛おしいもので、彼女が何よりも求め、依存したものだった筈だ。

そう、彼女の奥底にある何かが告げている。

 

 手を伸ばせ。その手で零れ落ちたそれを掴みとれ――そう彼女の奥底で何かが告げる。

目の前にあるその光を、今度こそ絶対に手放すなとそれは言う。

幾度も掠め取られた光を、今度こそ絶対に奪い取れとそれは囁く。

一度も手に入らなかった光を、今度こそ手に入れろとそれは誘惑する。

だから、彼女は―――それを掴んだ。

 

 

「か……ず……と……」

 

「……終わったか。命までは取っていない! そのまま連れて帰るが良い!!」

 

 やがて、あまりの刺激に意識を失った張遼をそっと地面に横たえると、一刀は叫んだ。

この余りにも異常な光景に今まで静止していた曹操軍も、すぐさま動き出す。

気を失った張遼を抱えると、一礼してそのまま退いていく曹操軍の兵を見遣りながら、一刀は思わず苦笑した。

 

 彼に一礼をした者は、彼の記憶が正しければ以前反董卓連合で一刀と話をした兵士であった筈だ。

やはり彼の読み通り、吸収した袁紹の勢力を劉備の追撃に回していたと考えて良いのだろう。

態々追撃の際に元袁紹の配下達を使ったのは、ここで裏切れば容易に排除できるからというのが大きい。

裏切れば袁紹の立場は益々危うくなり、最悪の場合殺されてしまう。

だから、彼らは裏切れない。

 

 これこそが、素晴らしい主を得た兵達の弱点だ。

主を押えられてしまえば、彼らは身動きを取ることができない。

圧倒的な力を持つ竜ならば話は別だが、彼らは人間であって、そのような力は持たない。

この一万五千程の軍の中に曹操の手の者が居るのは確かであり、妙な素振りを見せればすぐさま袁紹は消される。

直属の精鋭の弱点を曹操の軍師は良く分かっている上に、それを利用する非情さまで備えているようだ。

 

 

「行くぞ、張飛」

 

「了解なのだ。それにしても……お兄ちゃん、張遼に何をしたのだ?」

 

「俺の氣を送り込んだ。上手く行けば死なないが、最悪の場合己の氣を掻き乱されて死ぬだろうな」

 

「……全然大丈夫そうな気がしない上に、曹操が攻めてくる口実になりそうなのだ」

 

「そうなるのならば、喜んで喰らおう。しかし、そうはならない……今回は曹操の部下の独断だろうからな」

 

 曹操の下に集った軍師の誰かが独断で行ったのは間違いない。

張遼は策謀を用いる人物ではないし、曹操も約束を反故にするような人物ではない。

彼女には卑怯さが足りない……史実の曹操のような残虐さがまるで足りない。

それは良いことであり、同時に悪いことでもある。

劉備を理想だけの夢見がちな者だと言いながらも、彼女がまさにそれなのだ。

 

 彼女は搦め手ではなく正々堂々と戦って、地力で勝つことを望む。

それは素晴らしいことではあるが、敵に最大の力を使わせずに戦わなければ、味方の損害は大きくなってしまう。

その点では劉備と同様だということを彼女は自覚していないのかもしれない。

この矛盾は彼女をいずれ殺し得る。

 

 更に言えば、彼女にはもう一つ困った点がある……今回の部下の独断がまさにそうだ。

力を持つ部下を自由にし、その能力を存分に生かすのは実に素晴らしいことではあるが、御すことを忘れてはいけない。

その点では、劉備は言外にそういったことを行う上に、それでも無理ならば一刀が御するので問題ない。

曹操は彼女と同様の信念を持ち、彼女の望む形に他者を御する者が必要だが、そのような者は居ない。

 

 曹操が優秀過ぎるが故に、後光効果でそのような者は必要ないと思われてしまうのだ。

 

 

「独断? でも、独断だと曹操は怒って部下を殺しちゃうかもしれないのだ」

 

「それはないな。それをすると、優秀な軍師が一人か二人死ぬ上に、張遼もさようならだ」

 

「でも、謹慎くらいにはなりそうなのだ」

 

「それが妥当だろうな。一度の失敗で即処刑では、部下達は思う存分に力を発揮できない」

 

 史実ではこの時代の軍規は非常に厳しく、何があっても死罪になると考えて良かったものだった。

それには及ばないものの、この世界はそういったものに厳しいが、しかし厳し過ぎるのでは困る。

失敗を一度たりとも許さないということは、部下を委縮させてしまう。

思う存分に力を発揮させることができない君主など、生き残れはしない。

 

 曹操はそれをしっかりと分かっている筈だ。

だからこそ、もっと部下をしっかりと御することを望み、しかし押さえつけはしないだろう。

一人の求心力だけで全員を御するのは非常に難しく、彼女と同等の求心力の持ち主を下手に登用すれば、派閥ができてしまう。

一刀のように劉備が活動を始めた時から共に居た者ならば問題ないが、そうでなければすぐに国は二分される。

 

 曹操の下に居る軍師達がどこまでやれるかは分からない。

一刀の記憶が正しければ曹操の下に集った軍師は主に荀彧、荀攸、賈詡、程昱、郭嘉の五名だった。

その内の荀攸――梅花は彼の下に降り、賈詡も董卓と共に保護してある。

つまり、今曹操の下に居るのは荀彧、程昱、郭嘉の三名であって、この三人にどれだけの求心力があるかが全てを決めるだろう。

 

 

「張飛、お前は張遼に勝てたと思うか?」

 

「鈴々が思うに、勝率は五分五分なのだ。だから、勝てなくはなかったのだ」

 

「そうか。さて、劉備達の所に戻るぞ」

 

「了解なのだ!」

 

 張飛の武に関しては愛紗に任せれば問題はないと一刀は考えている。

張飛に必要なものを愛紗は知っているし、それを教えるだけの器用さを彼女は持っている。

張飛に足りないものは守りの型であり、それを習得すれば、更なる高みへと向かえるだろう。

守りが得意な愛紗ならば、それを上手く教えてくれる。

一刀も元来は防御主体の型を使うが、彼の場合は攻撃力が高過ぎて参考にならない。

 

 そういう意味でも、氣の簡単な応用法なども愛紗が教えてくれているのは有難い。

張飛は天性のものを持っており、氣さえ扱えればそれを更に伸ばしてやることができる。

後はそれを利用して技術と経験の方を伸ばせば、張飛は感覚だけに頼らない真の武人となるだろう。

関羽さえも超える武人の誕生も夢ではない。

 

 

「さぁ……どうなる?」

 

 曹操は今現在大陸で最大の戦力を持っているが、しかしまだ不安定だ。

孫策も着実に戦力を増大させ、東南の大部分は既に勢力下においている。

仕掛けてくるとすれば、孫策側だが……彼女は妹の居る勢力を攻められる程割り切れていない。

否、正確に言えば割り切れる形で彼女は孫権を見送ることができなかったのだろう。

 

 劉表は孫堅が重体になる原因となった黄祖が仕えていた人物だ。

そのことの恨みから孫策側が攻めてくるならば、その時は一刀達に協力を求めてくるだろう。

それは決して悪い話ではないが、良い話でもない。

劉表を討つつもりならば、曹操とぶつかる覚悟が必要だからだ。

 

 

「張飛、荊州についたらすぐに鍛錬を開始するぞ」

 

「応!!」

 

 

 曹操はまず徐州を攻め、その次に攻めるのは荊州となるだろう。

荊州は土地が豊かで、徐州のみでは補いきれない北部の土地の貧しさを補うことができる。

更に荊州を手に入れれば、益州、交州、揚州を攻略する際の拠点として機能させることも可能だ。

多方向から攻めこまれると厳しいが、それをどうにかするだけの戦力を既に曹操は手に入れている。

青州兵三十万の半分である十五万程の戦力があれば、多方向からの攻撃にも耐えることは不可能ではない。

 

 だからこそ、一刀がこの時期に張三姉妹を曹操の下に送ったのは大きい。

曹操が一刀達に追撃をしかけようとしなかったのも、すぐさま青洲兵を完全に手中に収める為だ。

三十万を自在に操る術を与えてくれた者へ追撃をかけられる程、彼女は割り切れない。

乱世だからと割り切って追撃できない彼女は、確かに正々堂々としていて魅力的だ。

だが、邪悪さが足りないとも言える。

 

 この世界は邪悪さが足りない。圧倒的に足りない。

しかし、それで良いのだ……邪悪さが生み出す腐敗は竜によって焼かれる。

そのような手間がかからないのならば、それが一番であって、夢見がちな王達はそのままで良い。

変に歪まれるよりもその方がずっとやり易く、正々堂々と相対できる。

搦め手には搦め手で答えるし、策謀は策謀で以て飲み込んでしまうだけのことだ。

 

 もうすぐ始まる真の覇者を決定する大戦―――それで後腐れなく全てを決めることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曹操孟徳は非常に厳しい人間だ。

 

 他者には勿論のこと、己に対してはもっと厳しく、ひたすらに切磋琢磨している。

彼女は多才であり、その才能を十二分に生かして今まで生きてきた。

しかし、その才能に見合うだけの精神力を彼女は持ち合わせていない……それに彼女の周りに者は誰ひとり気付いていない。

後光効果とは恐ろしいもので、たった一人の人間が何でもできると思い込んでしまうものなのだ。

 

 曹操は確かに天才であり、各分野に特化している超一流には及ばないものの、一流の能力を有している。

しかしながら、その求心力は飽く迄人間業の範疇であって、彼女には劉備のような人外の如き求心力は無い。

彼女は確かに皆を照らす太陽だが、時には彼女の代わりに皆を照らす月が必要なのだ。

 

 しかし、曹操の下にはそのような人物は居ない。

劉備にとっての一刀のような存在が居ない已上、彼女は一人で皆を御するしかないのだ。

その真面目な性格のままに頑張ってはいたものの、今回それにも限界があるということを彼女は認識した。

彼女の部下である郭嘉と程昱が、彼女の許しを得ずに張遼を劉備の追撃部隊として派遣したのだ。

 

 

「稟、風……今回霞に劉備達の追撃をさせた説明をして貰っても良いかしら?」

 

「はい。張三姉妹の件があるとはいえ、他の軍に好き勝手に領土を渡られてしまえば他の勢力も同じことをしてしまいます。その為、軍を派遣して監視する姿勢でいることを示す必要がありました」

 

「稟ちゃんの言う通り、今回は劉備さん達ではなく他の勢力の皆さんへの警告の為にしたのです。霞さんに行って貰ったのは、もしもの場合でも彼女の機動力ならば生き延びられるからです」

 

「そう……でも、結果はどう? 霞は負傷して一週間は動けないと医者に言われ、おまけに未だに意識も戻らないのよ」

 

 そう、結果さえ出ているのならばまだ良かった。

劉備軍への牽制となり、同時に他の群雄達にその力を十二分に示すことができたならば、曹操もそこまで文句は言わない。

だが実際は劉備軍に軽くあしらうわれ、張遼という優秀な将を負傷させてしまっただけだ。

確かに他の群雄への警告にはなるが、同時に嘗められる原因にもなってしまう。

 

 そもそも、そういうことはまず報告して貰わねば困る。

今回のことに関しては、あわよくば劉備軍の者の首を取る魂胆だったのだろうが、それは非常に危険なことだ。

北郷一刀と孫権は婚約者であり、劉備の陣営に明確な脅威を示せば、孫策も動く可能性がある。

青州兵を完全に掌握すれば何とかなるかもしれないが、まだそれもできていない今では劉備・孫策の双方を同時に相手取るのは無理だ。

 

 孫策だけを相手にすればどうとでもなるが、劉備の下には北郷一刀と呂布が居る。

片方だけでも常軌を逸しているのに、二人も数万を一人で屠る将が居ては一溜りも無い。

数が多くとも雑兵では彼らを倒すことなどできない上に、まともに戦える将も居ないのだ。

将が負ければその影響はあっという間に軍に及び、数が多ければ多い程混乱は戦況を掻き乱す。

そのような相手が居る軍に張遼一人だけを向かわせたのは愚かと言わざるを得ない。

 

 実際問題、相手をしたのが北郷一刀ではなく呂布だったならば、張遼は死んでいたかもしれないのだ。

 

 

「機会を逃さない為とはいえ、そのことに関しては弁解の余地もありません。この首で以て責任を取る覚悟も既にあります」

 

「バカなことを言わないで。私は一度の失敗で殺すような狭量ではないわよ。貴方達には明日から一週間の謹慎を命じるわ」

 

「――!? しかし、それでは下の者に示しがつきません!」

 

「寧ろこの程度の失敗で殺した方が下の者達が委縮してしまうわよ。もしも霞が死んで、部隊も壊滅していれば話は別だけど、部隊は全員無事だったのだから」

 

「……分かりました」

 

 部隊が全員無事であったことに関しては喜ぶべきことであろう。

北郷一刀に手加減されたという事実が重く圧し掛かかりはするものの、徒に戦力を失わなかったのは良いことだ。

張遼に関しても傷そのものは見た目の割に深くないそうなので、一週間程で一応動けるようにはなる。

意識がまだ戻らないのが不安ではあるものの、いずれ眼を覚ますのに期待するしかない。

 

 神速の張遼と呼ばれている彼女が傷一つ負わせることもできずに負けた……この事実は軍の指揮に酷く影響する。

せめて張遼が無事であったならば軍の動揺も抑えられるが、このまま二度と眼を覚まさなければその影響は計り知れない。

劉備軍と戦うことを躊躇してしまうのは目に見えている。

 

 

「はぁ……それで、貴方達はこれから劉備達がどう動くと思う?」

 

「荊州に向かったのならば、荊州を取るつもりなのかもしれませんが……今この時期にそれを行うのは危険でしかありません。私ならば益州を取ります」

 

「確かに荊州を狙っている孫策と衝突する上に、私達と孫策に挟まれた形になるわ。そうなると、こちらとしては楽だけど、そうはいかないでしょうね」

 

「はい。ですから、今回荊州に向かうのは飽く迄英気を養う為であって、その後に益州に向かうのではないかと。この場合は涼州の馬騰達を倒さなければどうしようもありません」

 

「馬騰、ね……彼女と戦うのはもう少し後ね。できれば仲間割れでも起こしてくれると有難いのだけれど」

 

 曹操は基本的に搦め手を好まないが、場合によっては仕方ないと割り切れる。

正確には割り切るのではなく、内心非常に苦い思いで居るのだが、それに彼女の臣下は気付いていない。

彼女が必死に隠している歪みは、少しずつだが彼女を殺そうと動き始めていた。

覇王たらんとしているのに、心がそれに追いつかない現実が、彼女を苦しめる。

 

 覇王になろうとしたのは、己がそうなる運命だと思ったからだ。

実際問題、彼女がそれを志してから、多くの者が彼女の下に集い、今も彼女が天下を取る為に共に歩んでいる。

彼女の能力は確かに覇王となるには十分であり、それは間違いではなかった。

しかし、その目標に近付くたびに麻痺していく心は、厭な音を立てて悲鳴を上げ始めている。

 

 覇王となるには十二分な能力を有していても、彼女は一人の人間だ。

彼女は人間の領域を出ることはできず、人外である北郷一刀のようにはなれない。

彼ならばきっと彼女よりも上手く、より確実に、覇王としての道を進んでいくだろう。

だからこそ彼女は彼が欲しい。彼女にとっての手本となる彼を手元に置きたい。

心が悲鳴を上げて動けなくなる前に、彼女は手本を手に入れたいのだ。

 

 

「それでしたら、馬騰と韓遂の不仲を利用し、同士討ちを行わせるのが宜しいかと。上手く行けば大きな被害無くして涼州を手に入れることも可能です」

 

「成程ね。あまり絡み手は好きじゃないけれど、仕方ないわね。具体的にはどうするの?」

 

「互いが我々に寝返りもう片方を攻め滅ぼそうとしているという偽の情報を流し、偽の書状を持たせるのです」

 

「つまり、偽の証拠を互いに握らせて互いに潰し合わせるのですね。桂花ちゃんにしては思いの外頑張った策ですが、それならば片方だけにした方が良いと思うのです。双方だとすぐに罠だと気付かれてしまいます。桂花ちゃんは能力は十分ありますが、まだまだ悪意を利用するというのが苦手なようで」

 

「風、貴方の言う通り私はそういう搦め手は苦手よ。そういう意味では軍師失格でしょうね。でも、それを平然とできてしまうのは嫌なのよ……華琳様の理念と食い違うもの」

 

 荀彧は確かに搦め手が苦手だ……彼女は人の悪意を深く知り、理解し、扱うことができない。

内政においてこそそういった悪意は見えるものだが、彼女はそれを割り切るのが難しいのだ。

日頃から口が悪く、曹操以外に対しては罵倒するのも珍しくない彼女ではあるが、そういったものに触れるのは嫌だった。

 

 それに対して、程昱は人間の悪意を年不相応なまでに理解しており、利用することを躊躇しない。

彼女は軍師としては能力も人格も完成されており、反面人間らしさが希薄な部分がある。

荀彧は程昱の能力を認めてはいるし、嫌いではないが、その方向性の違いが苦手だった。

戦の中で策を用いはするものの、正々堂々と同じ条件で真正面からぶつかろうとする曹操にとって、相応しい臣下ではないと密かに考えている程だ。

 

 

「ただでさえ目指す敵は強大なのですから、それ以外の敵にまで全力でぶつかる必要はないのです。風としては、件の北郷さんに関しても離間計を用いるべきだと思います」

 

「風、確かに貴方の言う通りだけど、そんな簡単にあそこは崩せないでしょう? 細作の話を聞く限りでは北郷を崩せば不可能ではないけれど、その細作が掴んだ情報も本物かどうかは定かではないわ」

 

「桂花ちゃん、その北郷さんを孤立させれば良いのです。北郷さんが巨高様に接触したのを利用すれば、不可能ではありません。こちら側に降るしかない状況に追い込んでしまえば、劉備さんにとって大きな痛手となります」

 

「つまり、桂花と風の意見を統合すると、北郷を劉備の陣営内で孤立させて、こちら側に降るしかないようにするということね? 確かに魅力的な案ではあるわ。でも、本当に可能なの?」

 

「可能ですよ~。桂花ちゃんの姪である荀攸さんを利用すれば」

 

「―――!?」

 

 程昱の言葉に、思わず荀彧は目を見開いた。

聞いた話では姪である荀攸は北郷一刀の下に降ったそうだが、それを利用しようと提案されるとは夢にも思わなかったのだ。

確かに乱世の中で姉妹だの姪だので、他勢力の者に情けをかけるのは枷でしかない。

しかし、それを利用されて心地の良い者など普通は居ない。

 

 荀彧はまさにその普通の者であり、程昱の案に賛成することはできなかった。

曹仁と許褚の報告から、曹嵩の護衛に趙雲と荀攸が加わっていたことは知っている。

曹嵩の部下として北郷に接触して彼に裏切りをけしかけたという噂を流せば、彼女は簡単に孤立するだろう。

曹嵩との間に密約が無かったことを知る趙雲も荀攸もまだ劉備の下に加わって日が浅い。

彼女達の言葉の重さは重臣達に比べれば酷く軽いのは当然のことだ。

 

 猜疑心の強い者が居れば、すぐさま北郷一刀は孤立し、やがてその地位を失う。

特に劉表という別勢力の世話になるのだから、そこに噂をばら撒き。偽の証拠を残せば彼は荊州には居られない。

場合によっては劉備陣営そのものを瓦解させることも不可能ではない効果的な策だ。

だが、荀彧には何故かこの策は上手く行かない気がした。

 

 

「風、その場合だと荀攸さんもこちらに降る可能性があるわよ?」

 

「上手く行けば稟ちゃんの言う通り、荀攸さんもこちらに加えられるでしょうね。でも、多くを望むのは危険です。北郷さんに集中すれば、劉備さんではなく彼について来ていた皆さんはこちらに降ってくださる筈です」

 

「成程。北郷殿の影響力の強さを利用するのね。風ならばできないことはないでしょうけれど、一週間は謹慎で動けないわよ」

 

「稟ちゃん、下準備そのものは謹慎中でもできますよ。できることをその間にやっておくだけです。さて……華琳様、如何なされますか?」

 

「――――頼んでも、良いかしら?」

 

 曹操は己の矜持と、現実を天秤にかけ、現実的な案を取ることにした。

また一つ大きな痛みを彼女は抱えることになるが、それでも彼女は進まねばならない。

もう止まれない。止まれないからこそ、途中で倒れぬ様に北郷一刀を手に入れなければならない。

最後まで進み続ける為には、彼女の手本となってくれる者を傍に置かなければならない。

 

 その為ならば彼女は手段を選んではいられない。

道半ばで倒れたならば力が足りなかっただけだという考え方ではあるものの、届くのならば力を手に入れようとする姿勢は忘れない。

人材を最も重く見ている曹操にとって、北郷一刀は彼女を覇王として完成させるのに必要な要素だった。

 

 曹操孟徳は覇王であり、覇王であり続けなければならない。

己を捨てきれないままではそうあることも、あり続けることも叶わないからこそ、彼女は北郷一刀を欲する。

あの人外とも言える程に己を捨てきっている男は、彼女がそうなる為の指標となる筈なのだ。

夢半ばで終わる覚悟はあれども、何もせずにそうなるつもりは彼女にはない。

 

誰よりも王として生き、王として死んでいく―――それが曹操孟徳の目指す未来だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 孫策は袁術を討った後、揚州のほぼ全域を平定しつつあった。

 

 幾度も見せつけたその力から、孫呉は地盤を確立しつつあり、既に揚州において孫策達に歯向かおうとする存在は殆ど皆無である。

少しばかり無理のある領土拡大ではあったが、その甲斐あってか孫策達は大きな心配事もなく内政を行うことに集中できた。

漸くその戦力が六万に達した頃であった……曹操が遠紹を降し、その勢力を格段に増大させたという知らせを聞いたのは。

 

 曹操の持つ戦力は直属軍二万余に、元・袁紹軍四万、更には青州兵三十万という、実に孫呉の五倍以上の戦力である。

青州兵に関してはまだ調練などが追い付かず、御しきれていない為、動きはしないであろう。

それでも残り六万の戦力は既に運用可能であり、後数ヶ月もすれば残りの三十万までもが動き出す。

これは孫呉にとって大きな脅威であり、孫呉単体で戦いを挑むのは危険過ぎる。

 

故にどこと同盟を組むべきかを軍議で話し合うこととなった。

 

 

「さて、曹操の軍に対して他の諸侯と同盟を組むことは決定したが……何か良い案のある者は居るか?」

 

「冥琳様、問われるまでもなく劉備さんなのでは~?」

 

「流石だな、穏。劉備と同盟を組むのは既に決定事項だ。蓮華様も向こうにいらっしゃるからな」

 

「確かにそうじゃな。しかし、劉備のところは五千余しか兵が居ない。少々頼り無いのではないか?」

 

「祭、呂布と北郷だけで五万相当だと考えても良いと思うわよ。つまり、約五万。私達と合計すれば十一万程の戦力ね」

 

 三十六万対十一万では結果は火を見るよりも明らかであろう。

しかし、これは北郷一刀と呂布奉先の実力を厳しく見た場合のことであり、もう少し甘く見れば三十六万対二十万程だと考えても良いだろう。

何せ、北郷一刀の方は僅か数瞬で黄巾党二万を屠った男だ……一瞬で二万を削られて動揺しない者など居ない。

 

 呂布も三万を一人で倒した実績があり、その際には無傷だったそうだ。

つまり彼女は三万相手ならば一人で任せても良い程に強靭で、汜水関の戦いを考慮すれば関羽を圧倒する程であることは分かる。

関羽と同等の武人は孫呉では孫堅しか居ない為、いかに呂布が強大なのかが理解できてしまう。

彼女はまさしく暴風だ。

 

 

「策殿、十一万では三十六万相手には勝てないのではないか? 三倍差ではこちらの有利な状況で戦わねば敗北は必至じゃぞ?」

 

「祭、戦う場所はもう決めてあるわ。雌雄を決するのは―――赤壁」

 

「赤壁、ですか。確かにあそこが鍵になりそうですね。勝負の決め手は風ですか~?」

 

「穏の言う通り、決め手は風だな。それさえ決まれば、三倍の差など気にする程のものではない」

 

 赤壁で水上戦を行い、不慣れな曹操軍を火計で一気に殲滅する……それが最も望ましい筋書きだ。

ただ、地理関係を考慮すると戦う時期などを上手く調整しないと風は吹かない。

そもそも常に曹操軍が風下の状態では火計に最大限の注意を払われることは目に見えている。

そうなれば曹操軍の撃破は難しく、単純な兵力差で敗北するのは必至だ。

 

 そうならない為にも曹操軍が風上になる場所、時期で、しかし時折逆方向の風が吹く季節を選ばねばならない。

幸い曹操は赤壁あたりの地理には疎く、情報操作さえ行えばその時期を選ばせることも不可能ではない。

負ければ終わりだが、勝てば曹操という最大の脅威を排除できる。

孫呉にとっては絶対に負けられない戦いだ。

 

 

「雪蓮も冥琳もある程度は既に決めていたのね。この軍議はその確認、ということで良かったのかしら?」

 

「ええ、その通りです。文台様、何か問題があったのでしょうか?」

 

「いいえ、寧ろそこまで明確な未来図を描いていたことに敬意を表したいくらいよ。雪蓮、冥琳……本当に良くここまで成長したわね」

 

「私達は文台様から孫呉を任されたのです。成長せずには貴方が背負ってきたものを背負いきれはしませんから」

 

「そうね。冥琳の言う通り、私達は強くならねばならなかった。お母様のように孫呉を纏めるには未熟だったから。でも、今は違うわ。今は―――私が王よ」

 

 強い光を秘めた目でそう言う孫策を見た孫堅は静かに微笑んだ。

彼女は娘の成長を喜び、同時に少しばかりの寂しさを覚える……もう孫策は完全に独り立ちしてしまったからだ。

戦力という面ではまだ母である孫堅に依存しているものの、精神的には一人の王として完成されてしまった。

それが彼女には頼もしく、しかし寂しいのだ。

 

 

「それで良いわ、雪蓮。今は貴方が王よ。だから、絶対に勝ちなさい」

 

「言われずとも、勝つしか生き残る術は無いのだからそうさせて貰うわ」

 

「雪蓮、そろそろ頼む」

 

「ええ……皆、良く聞け! 私達はこれから来たるべき決戦に向けて歩んでいく! その決戦では多くの死者が出るだろう。しかし、それはお前達ではない! 私でもない! 赤壁を――曹操軍の死体で埋め尽くせ!!」

 

「「「「「「応!!」」」」」」

 

 信頼できる重臣のみを集めた会議において、孫策はその王としての資質を存分に揮う。

鼓舞する王とは、戦いにおいて最も強さを発揮する王であり、孫策もその例に漏れない。

彼女は見方を鼓舞し、己を昂らせ、ひたすらに戦い続ける王だ。

だからこそ、彼女は孫呉が安定した状態になれば、その王位を妹である孫権に渡すつもりだった。

 

 孫策は孫権の王としての器の大きさが己よりも大きいことを知っていたし、いずれ時が来ればそれは目覚める……そう信じていた。

しかし、思いの外開花は難航し、結局彼女は未熟なままで北郷一刀の下に送られてしまったのだ。

それだけならばまだ良いが、反董卓連合の際に会った孫権は、彼女の想像を絶する覇気を備えていた。

 

 元々北郷一刀という男が余り気に入らなかった孫策にとって、その急激な成長は驚愕に値するものであった。

かの周公瑾や陸遜の下でさえ開花しなかった稀代の才能を、彼はたった三ヶ月で開花させたのだ。

孫権があそこまで成長したのは非常に嬉しいことではあるが、それ以上に北郷一刀がそれを伸ばしたという事実が彼女を不機嫌にさせる。

 

 彼を見ていると妙に疼くのだ――彼女の覚えていない古傷が。

 

 

「子敬、この度劉備との同盟締結についてはお前に任せようと思う。行けるか?」

 

「勿論です、周瑜殿。この魯子敬、ご期待に添えて見せましょう」

 

「頼んだわよ、子敬」

 

「御意」

 

 魯粛子敬は元々孫策達の下に身を寄せていたが、一度母親を迎えに行く為に離脱した政治家だ。

武・知略の双方に長け、諸葛亮孔明と同等の先見の明を持つ人物である。

その能力を誰にも理解されず、優秀な軍師が多くいる孫呉の中でも彼女は異質な存在だ。

彼女の描く未来図は周瑜ですらも全貌を理解するのは困難で、しかし当たる。

 

 言葉で説明することなど不可能に近い、もはや直観に近いその未来予測は孫策の勘に相当する精度だ。

その驚異的な精度を誇る彼女ならば、劉備達が孫呉と同盟を締結する未来図を描くのは容易い。

後はその未来図を現実にすることさえできれば、同盟は強固なものとなる。

 

 魯粛が孫呉に戻って来てくれたのは孫策達にとって非常に有難いことだ。

彼女は鬼才であり、周瑜でさえもついていけない面はあるが、その忠誠心は本物だ。

彼女は孫呉という国の為に忠実に動き、確実な結果を残してくれる。

もしも孫策と孫堅が倒れても、孫権は一人ではない……魯粛や周瑜が支えてくれる筈だ。

だから、二人は安心して、孫権に後を任せて本気で曹操と戦える。

 

 

「恐らく決戦は半年後……その時までにいかに戦力を増強できるかが大事だな。それも、量ではなく質を、だ」

 

「冥琳の言う通り、これから先は量よりも質を優先するべきね。数はそう簡単に覆らないもの」

 

「そういう訳で調練は頼んだわよ、祭」

 

「お任せくだされ、堅殿、策殿」

 

 孫呉は来たるべき決戦に向けて準備を始めた……大陸一の戦力を誇る曹操とぶつかる日は、そう遠くない。

この戦いで大陸を統一する者が誰なのかは決定すると言っても過言ではない。

密かに周瑜達が練っている天下二分の計は劉備と共に東西をそれぞれ治めるというものだ。

彼女ならばこの案に乗ってくれる……そう信じているからこそ、孫策達は劉備と同盟を組む。

 

 勢力の強大さを考えれば曹操、劉備、孫策の三大勢力以外にはこの大陸を治める力はない。

そして、曹操は手を取り合ってこの三大勢力で大陸を治めるという考え方はできない人間だ。

飽く迄大陸統一に拘る彼女では共存は望めないのが現状であって、手を取り合えるのは劉備しか居ない。

 

 孫策達は別に大陸を統一するつもりはない。

曹操さえ居なくなれば劉備達以外はどうとでもなる上に、劉備は侵略を好まない。

孫策達の願いは飽く迄孫呉の安寧のみであり、劉備はその脅威にはなりえないのだ。

彼女ならば、孫呉はそのままであれる……だからこそ、彼女達には力をつけて貰わねばならない。

 

 

歪んだ願いを持つ者同士が、手を取り合ってその歪みを語り合う時がもうすぐ来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は長い――長い夢を見ていた。

 

大切な誰かと笑い合い、泣いて、怒って、喧嘩して、求めて、求められた遠い記憶のような、おぼろげな何かを眺めていた。

その誰かはいつも彼女に笑いかけてくれて、まるで太陽のようで、幾度もその火傷しそうな熱が満たしてくれたのを、彼女は確かに覚えている。

それは、とても大切な記憶だ……彼女にとっての全てとも言える掛け替えの無いものだ。

 

なのに、それを与えてくれたのが誰なのかを思い出せない……一番大切なものが、抜け落ちたままだ。

何度も笑い合っていた筈なのに、何度も喧嘩した筈なのに、何度も求め合った筈なのに――彼が誰なのかを思い出せない。

何処かに一緒に行こうと約束した筈なのに、彼女は彼の名前も、姿も思い出すことができない。

 

 

「……あ……ああああああ!!」

 

 不意に、全身を襲った痛みに彼女――張遼文遠は眼を覚ました。

心地良い夢を見ていた筈が、鋭い痛みが彼女を現実へと引き戻したのだ。

誰も居ない部屋に一人寝かされていたことに気付くこともできず、彼女はその場で苦しみの余りのた打ち回った。

その痛みは、まるで全身が焼かれているかのような錯覚すら覚える程だ。

 

 何かが彼女の体の中で起こっている。

彼女の根底すらも変えてしまいそうな何かが、彼女の中で暴れている。

全身が熱い上に鋭く痛むが、焼かれている訳ではない……ならば一体何なのか?

いつもならばそれを考えることもできたであろうが、今の彼女にそれを考える余裕などない。

ひたすら痛みに呻き声をあげながら苦しみ続けることしかできないのだ。

 

 もはや一瞬が一刻にも感じられる程に時の密度は高まり、彼女に襲い掛かる。

痛みがひくまでにいったいだれだけの時間が経ったのかも分からない程に、それは高密度だった。

ほんの少しの間だけの苦しみなのかもしれないが、彼女にはまさしく永遠に等しく感じられる。

荒い息をしながらも、漸く痛みが治まった彼女は全身から噴き出る冷や汗が体温を急激に低下させるのを感じた。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 いったい何が起きたのかなど彼女にはまるで分からない。

何かの疫病にかかったのかもしれないし、北郷一刀に胸を貫かれたことで不調を来しているのかもしれない。

筋肉痛にも似た怠さを感じながらも、彼女はそっと胸の傷に触れてみた。

元来ならば、そこからは包帯では隠しきれない程の血が染み出ている筈なのだが、手にその感覚はない。

 

 張遼はそのことを不思議に思いながらも、同時に自分が寝台から転げ落ちていたことに気付く。

倦怠感のある体を動かして寝台に背中を預けると、彼女は胸の傷がどうなっているのかを確かめることにした。

見た所包帯に血は染みついていないようで、既に止血されているのか、或いは自己治癒したということだろう。

 

 彼女は少しばかり強く傷口を押してみたが、痛みはなく肉が剥き出しになっている訳ではなさそうだ。

彼女の記憶が正しければ、かなり奥深くまで貫手で貫かれたのだが、その割には軽傷だ。

通常ならば、あれだけ深々と刺されては出血多量でとうに死んでいる筈なのだ。

まだこうして生きていること自体が奇跡であり、彼女を襲った謎の痛みさえなければ、両手を上げて喜んでいた所である。

 

 

「ぐっ……ガハッ……ゲホッ……」

 

 張遼は不意に吐き気を催し、耐えきれずにその場で吐いた。

それはまるで源泉から溢れ出す水のように、彼女の体から大量のどす黒い血を吐き出させる。

床を濡らすどす黒い赤と、その中に混じる何かがあったことを朧気な意識の中で認識しながら、彼女は額を押える。

彼女の肉体は極度の疲労状態にある筈なのに、思考が澄みはじめているのだ。

 

 疲労していれば当然意識はおぼつかなくなっていくものであり、元来このようなことにはならない。

この状況で冷静でいられるのがどれだけ異常なことなのかは、彼女も良く分かっている。

しかし、異常かどうかなど関係ない……冷静で居られることの方が良いのだから。

彼女は荒い息を整えながらも、どす黒い血の中に混ざっている何かに触れてみた。

 

 

「……鱗?」

 

 どす黒い血で濡れた半透明の白い鱗は、思いの他軽く、固かった。

それがいったい何なのかは彼女には分からないし、もしかしたら鱗ではなく別の何かなのかもしれない。

彼女には医学の心得など無いし、もしもこれがそういった類のものならばすぐさま医者に言うべきなのだろう。

しかし、彼女はそうする気分になれなかった。

 

 だって―――この鱗はこんなにも綺麗なのだから。

この半透明な鱗を見るだけで、彼女は朧気だった大切なものを思い出せそうなのだ。

顔の輪郭はぼんやりとしていて定かではないし、その声もノイズだらけで聞き取れない。

ただ一つ、彼の匂いだけは彼女の中にはっきりと残っている。

その残り香のようなものを、この鱗から感じるのだ。

 

 

「ああ……そうや。そうやった」

 

 どんな顔だったかも、どんな声だったかも覚えていない大切な誰かはもう居ないかもしれない。

一度忘れてしまったのならば、それは遠い昔の出来事だったのだろうか。

彼女が思い出せたのは、虫食いだらけの記憶の中で、確かに彼女がその口で呼んだ名だけだ。

彼女はそっとそれを口ずさむ―――愛おしい名を。

 

 

「か…………と」

 

『霞……ごめん』

 

「かず…………」

 

『約束……守れなかったよ』

 

「―――うちこそ、今まで思い出せなくてごめんな……一刀」

 

 張遼の記憶はまだまだ朧気で、虫食いだらけだ。

何処でどんなことをしたのかも、どんなことを話したのかも、所々しか思い出せない。

この記憶はもしかしたら彼女のものではないかもしれないし、そもそも妄想でしかない可能性すらある。

しかし、彼女には分かる―――これは彼女の記憶で、本物だ。

 

 一刀という名は間違いなく彼女を愛し、彼女が愛した男の名前だ。

その朧気な姿は思い出そうとすればする程に北郷一刀に重なり、そこに違和感は生じない。

彼女の思い出せる彼とは明らかに異なる何かがあるが、それは些細なことである。

あの時彼女の胸を貫いた手は、確かに彼のものだった。

何度も彼女の触れてくれた彼の手だった。

 

 彼にいったい何があったのかは分からない。

そもそも、彼は彼女が知る一刀ではない可能性すらもある。

この世界では魏の皆が彼を姓で呼び、その名を呼ばない上に、そもそも彼は魏に属していない。

それは酷く不思議なことだったが、そういう可能性もあるのだろう。

何せ、ここは彼女と彼が出会った世界とは違う道を辿っているのだから。

 

 

「一刀―――絶対に思いだして貰うで」

 

 この世界の記憶でなかろうが関係ない……この記憶は彼女のものだ。

だからこそ、張遼はその記憶を一刀が持たないことを承知し、同時に覚えている可能性を恐れる。

彼女のことを覚えていて、あれ程冷たい目を向けられるということは、彼が彼女を振り切ったということだ。

彼にはそんなことはできない筈なのに、そんな可能性の存在が彼女を不安にさせる。

 

 張遼は確かに一騎当千の武を誇る武人ではあるが、同時に一人の女性だ。

彼女が最初で最後と決めた北郷一刀に拒絶されてしまったら、彼女は生きていけない。

例えそれが彼女を愛してくれた彼ではなかったとしても、同じ顔で、同じ声で、拒絶の言葉を突き付けられてしまえば、正気を保てる自信は無い。

それでも、行かねばならない―――彼女の居場所は彼の隣だ。

 

 今はまだ関羽達の分厚い壁の向こう側に居るが、いずれ彼は出て来る。

張遼にはまだ不完全な記憶しかないし、彼女では彼を繋ぎとめられないかもしれない。

しかし、それでも行くのだ……次こそは彼を失わない道に向かう為に。

今度こそ手に入れるのだ……“世界”による別離を乗り越えて、二人でずっと笑い合う未来を。

彼女はその半透明な鱗をそっと両手に包み込み、紡ぐ――決意の言葉を。

 

 

「もう、絶対に勝手に逝かせへんから」

 

 

 

 

 

 

 

 確かな決意を胸にした彼女の新緑の眼が―――その形を変えた。

 

 

 

 

 

 

 

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
28
1

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択