No.460662

彼女と私の関係3-4 『扇とあの日視た少女の姿』

バグさん

ようやくこの話も終わりです。
色々と長すぎた上にグダッた・・・のですが、まあ色々と勉強にはなりました。こういう話を描くのに向いてないとか、そういうのを理解するくらいには・・・。

2012-07-27 23:26:34 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:315   閲覧ユーザー数:314

色々と考えては見たが、あの少女に対する感情は家族に抱くそれや友人に抱くそれと、とても良く似ているが確かにちょっと違う様な気がした。

だが、やはりそれを恋愛と結びつけて考えるとすると、どうにもピンと来ない。やはり恋愛経験が無いためなのだろうか。好きとは何か。愛とはなんなのか。

「あー、いや、先生? そんな難しく考える事でも無いのでは?」

 呆れた様に、扇の隣に立つ生徒は言った。呆れられるのは不本意だが、呆れられても仕様が無い体である自分が何とも情けない。

「要は先生が、その子を好きかどうかが、まず問題なんじゃないですか? で、先生はその子が好きだと。でも恋愛は良く分からないと…………」

 彼女はそこで言葉を区切って、微笑した。

「…………じゃあ先生、これから知れば良いじゃないですか」

どうしてだろうか。扇はその笑顔に、薄ら寒いものを感じてしまった。背筋がぞわりと反応して、鳥肌がうっすらと浮かび上がる。まるで、もう何もかも知っていて、全てを見透かしている様な、全てを見透かされているような、そんな感覚すら覚える。

が、すぐにその感覚は消失して、何かの気のせいだったのだろうと、僅かに首を揺らした。

 ともあれ、気楽に言ってくれるものだと、嘆息する。

「まあ確かにあの子の事を考えると、胸がドキドキしたり…………もう何年も見てないんですもの、凄く悲しくなったりするわよ。…………そうね、確かに私はあの子を特別に好きなのかも。でも…………女が女を好きになるって…………」

 ちょっとおかしく無いだろうか。恋愛経験が無くても、それが何となく不自然だという考えは有った。扇に恋愛経験は無くとも、恋愛をしているカップルなら街中に溢れている。そんな彼らを何の感慨も無しに視てきた扇だが、同性カップルの目撃例というものは未だかつて無かった。

「恋愛なんて、どんな形であれ歪なものですよ。千差万別という時点で、もう正しさの基準なんて誰も定める気が無いに等しいじゃないですか。女が男を好きになる。女が女を好きになる。どちらもおかしくは無いでしょう。惚れた相手の性別では無くて、それ以外の何かで相手を好きになった先生をおかしいなんて、誰にも言えませんよ」

 詭弁の様で、事実、詭弁なのだろうが、その千差万別にすらこれまで当てはまる事の無い人生を送ってきた扇に、反論の余地は無かった。反論する発想が浮かばなかったというのが正しいか。生徒からここまで色々と言われて、ショックでは有った。まだまだ新米の教師だが、内心、忸怩たる思いすら無いでも無かった。

性別は恋愛に対しての前提条件で有る、というのが一般的な認識なのだろうから、それに対して反論する事はもちろん可能だ。扇がそれを思いつかなかったのは言い包められている証拠なのかもしれないし、同姓同士の恋愛に抵抗が無い事の証明かもしれないし、あるいは単純に恋愛というものについて、これまで考察した事が無かったからかもしれない。

「ふ…………ふ、恋愛か…………。…………はぁ。勝手に縁の無いものだと思い込んでいたけれども、いやはやどうして、身近に転がっていたものだったというわけなのかしらね。もしこれが本当に恋ならば、の話だけれども」

 灯台下暗し。灯台の足元が暗すぎて転倒してしまって、助け出してくれたのが仮に女の子だったとして、その子を特別に可愛いと感じてしまったならば、それは恋の始まりに成り得るのかもしれない。

そしてそれが恋で無かったとしても、あの少女が扇にとって特別な存在で有るという事は間違い無かった。

好きだとか好きで無いとか以前に、特別。

もう一度会いたいと思うのは好きだからとかそういう事では無く、きっと特別な存在だからなのだろう。その特別の中に『好き』という恋愛感情が含まれているのかもしれない。…………いや、あるいは逆なのかもしれない。『好き』という感情の中に特別という要素が含まれているのかもしれない。それは両親や友人とは一線を画すために、最も必要な要素だった。

「もう一度会えればなあ…………」

切実に願う。

言葉にした瞬間に、胸が締め付けられるような苦しさと切なさを覚えた。あの少女が消えてしまったのだと確信した時の感覚。久しぶりの焦燥感。

初めは…………初めというのは、これはあの少女を視なくなって一年程の期間であるが、とまれ、初めはそうした焦燥感にずっと苛まれていた様な記憶が有った。二年、三年と経つうちにその感覚は次第に薄れていき、今ではもうほとんど感じなくなってしまっていた。

焦燥感とか絶望感とか、そうしたものが薄れてしまったのか、あるいは慣れてしまっただけなのか。それは分からない。分からないがしかし、扇は今、確かな切実さでもって、心に再びそれらの苦しみを呼び込んでいた。

心に覚えた苦しさと同時に、当時の記憶もまた、鮮明に思い出されてきた。記憶、あるいはあの少女と共に過ごした時間、その時に覚えた安らぎの感情。

恋とは確かに、こういうものなのかもしれない。

あの少女ともう一度会うことが出来れば、あの頃から進む事が出来なかった扇の人生も、もしかしたら前へと進む事が出来るのかもしれない(少々大げさに過ぎるとは思わないでも無かったが)。

だが、それは無理な話だ。

だって、あの少女はもう消えてしまったのだから。

教師として学校に戻ってきて半年間、何度も美術室を訪れたが、結局、その姿を視る事は出来なかった。

結局はやはりそこに行き着く。どれだけ自分の気持ちを分析しようが、どれだけ自分の気持ちと向き合おうが、あの少女がもう居ないという事実に変わりは無いのだ。

あるいはそれを忘れたいがために、芽生えていたあの少女に対する恋愛感情らしきものを、無意識的に自覚しようとしていなかったのかもしれない。

「もう一度、美術室へ行ってみたら良いんじゃないですか? もしかしたら、ひょっこり現れるかもしれませんよ」

「……………………」

 全く、また気楽に言ってくれるものだと、扇は苦笑した。そうやって期待して、裏切られ続けてきたのが、この半年間だったのだ。勝手に期待して、裏切られたと感じるのは何とも図々しいものだが、そうでもしないと落胆の気持ちの行き場が無い。

それでも半年間、美術室へと通い続けてきたのは、やはり、少しでも出会える可能性があると信じたいのだろうし、その可能性を捨てきれないのだろう。有り得ないと断じ切れないのだ。

「先生も色々悩んでいるみたいですけど、いきなり現れなくなったんだから、いきなり現れてもおかしくは無いでしょう?」

 そう言われると、そんな気がしないでも無い。というより、それを否定する言葉が無いと言うべきか。そもそも、頭の片隅でそう思っているからこそ、再び現れる可能性を捨てきれずに、しつこく美術室へと通っているのだが。

「だから、行ってみれば良いじゃないですか、美術室に。案外、今日あたり現れるかもしれませんよ?」

「…………そうね。行っても会えないかもしれないけれど、行かないとそもそも会えないものね」

 今日はもう、帰ろうと考えていたのだが。

 彼女に言われるままに…………という訳でも無いけれども、何だかその言葉に色々と励まされるものを貰いながら、扇は美術室へと向かう事にした。

『真の自己を失う事が、死に至る病に繋がるのですよ。少なくとも、何処かの哲学者はそんな事を言ってました』

そんな言葉を背に受けながら…………まあ、言っている事は正直、あまり理解出来なかったが、それでも感じる所が無いでは無かった。生徒に負けている気がして、悔しく感じなくは無かったが、教師と生徒、という垣根を越えて相談に乗ってくれた事には感謝を覚える。

話を聞いてくれて有り難うと、彼女に礼を言おうかと考えて。

振り返ろうとしたその時。

「ん…………?」

 覚えた違和感。

チリチリと、首筋の辺りに静電気の様なものを感じて、手を当てる。だが、その感覚はすぐに消えてしまって、そういえば先ほども同じ様な事が有った様な気がする、と考えて。

まあ良いか、と扇は職員室の扉へと向かった。

そして扉に手をかけた所で、

「…………うわっ…………と」

向こう側から、ほぼ同時に扉を開けられて、少しよろめいてしまった。

驚いて扉を開けた人物を観ると、そこに居たのは良く知っている生徒だった。知りたくなくても知らざるを得ない。

とはいえ、功刀 羽衣と同じ様に、『名前だけ良く知っている』という程度のレベルでは有るのだが。

八王坂《はちおうざか》 かもめ。

優秀な生徒が集まる学園でも、突出し過ぎた能力を持つ事で有名な5人の1人。

不気味な魅力を持つ、不思議な魅力を持った生徒だった。容姿の美しさも確かに有るのだが、どうにも近寄りがたい妙な迫力と、不気味で不思議な魅力が有る。特徴極まる、自分の背丈程まである艶やかな黒髪が、その不気味さに拍車をかけているのは間違いない。だが、それが美しいと感じてしまうのだから、不思議ではある。

かもめは驚いている扇を一瞥し、職員室を一通り見渡して、

「…………。虹色先生。今、誰かと話をしていませんでしたか?」

 と、透き通り過ぎた声音で扇に訊ねてきた。この子はこんな声をしているかと少し驚いたが、同時に納得してしまった。不思議な魅力と不気味さ、妙な迫力が混同する彼女だが、何と無く希薄な印象も併せ持つからだ。儚いとすら言える。

今の彼女の言動は不躾と取られかねないし、挨拶も無かったが、どうしてだか不思議と腹は立たない。羽衣と同じで、そもそも人間的に大きく負けているからかもしれない。そう考えても屈辱的で有ると感じない所が、また。

全く不思議な生徒だった。羽衣以上に何を考えているのか分らない。

そして、だからこそ、彼女の問い掛けの意図も図りかねたし、良く分からないな、と扇は思った。

「…………? いえ、ずっと一人だったけれど?」

 少なくともデスクに向かって項垂れていた間はずっと一人だった筈だ。

少し心に引っかかるものを感じたが、扇は記憶のままを語り、かもめは納得して退出した。

それから、扇はすぐに美術室へと足を運ぶわけだが…………。

どうしてあの時、あのタイミングで美術室へと行こうと思ったのか、後から思い返しても扇には不明なのだった。確かに、美術室へよらずに帰ろうと考えていたはずなのに。

美術室へと到着した扇は戸惑った。

大いに戸惑った。

(何よ、これ…………どうしてこんな…………)

内心でそんな事を考えながら、気を失いそうなほどのショックを受けていた。

下校時刻を過ぎて、美術室にはもう誰も居ないはずだった。まだオレンジ色の陽が射してはいるが、空気は夜のそれへと移り変わる気配を見せており、空の色も間も無く、夜の帳が降りる事だろう。この半年間の経験で、この時間帯まで生徒が美術室に残っている事は無かった。例外もいくつか有ったが、まあほとんど無いに等しい(扇が美術室へといかない日も有ったので、そういう日はどうだったかは知らない)。

だから、もう生徒は居ないはずなのだ。

なのだが、一人の生徒が大型の机に向かっていた。

特に何をするでも無く、座っていた。

とはいえ、あの時の少女の様に、ただそこに居るというわけでも無かった。

その生徒は机に突っ伏して寝ていたのだから。特に何をするでも無く、ただ寝ていた。少なくとも、美術室の入り口から見る限りは。まさか死んでいるはずも無いだろうし、かすかに、規則正しく肩が上下しているのが確認できた。

とはいえ、生徒が寝ているというだけではショックを受けるはずも無い。下校していない美術部員がたまたまそういう状態になっているというだけならば。ただ起こして下校させるだけで済む話だ。

だが、今回のそれはそうもいかない。いきそうに無い。その生徒が寝ている場所は、高校時代の扇が愛用していた場所のすぐ隣であり、つまり、あの時の少女がただ存在していただけの場所であり、そして、

(…………そんな……………………本当に?)

 その生徒は机に突っ伏して寝ているので、肩から上しか見えない。頭頂部がこちらに向いているため、髪形でしか判断出来ない。だが、断定は出来ないが、少なくとも全体のシルエットが、あの少女そのものだった。

扇は入り口からおそるおそる、寝ている生徒の所まで歩いていった。途中でやはり消えてしまわないかという不安を覚えながら、それでも一歩ずつ確実に歩いた。

その生徒の所に辿り着くまで、時間にすれば僅か数秒だったに違いないし、体感的にもそれほどの違いは感じなかったのだが、扇は何か、少女が消えてしまってからこれまでの時間が、後ろへと流れ去っていく様な感覚に襲われた。思わず後ろを振り返りそうにすらなったが、あの生徒から眼を離すことで、彼女が消えてしまうのでは無いかとも思われ、ついに振り向く事は無かった。

彼女のもとに辿り着いて、扇は若干の躊躇の後に、そっと、彼女の肩に触れた。

掌に柔らかい感触、そして彼女の温もりを感じた。掌から伝わる感覚に、これまでに感じたの事が無い程の興奮を、扇は覚えた。初めて自分以外の誰かに触れた様な錯覚すら覚える。人の肌とは、肉とはこれほどに柔らかく心地良いものだったのかと、感動する。この時、もし誰かに『掌から伝わる感覚がお前の世界の全てなのだ』と言われても、あるいは信じていたかもしれない。

扇は彼女の肩に置いた掌をゆっくりと移動させた。ショートカットにした彼女の髪に、ゆっくりと、舐める様に触れる。耳を露出させるように髪を分けて、そっと耳の輪郭をなぞる。彼女の髪の香りが、彼女の香りそのもが扇の鼻腔へと導かれ、やはりえもいわれぬ興奮を覚えた。

彼女の横顔を見て、やはりあの時の少女に似ている…………どころでは無く、そのままだと理解する。

確かに居る。肉体を持って、確かな人間として、幻影に過ぎなかったはずの、あの時に消えてしまった少女がここに、確かに存在するのだ。

その時、扇の心に、僅かばかりの痛みが走った。

(…………? なんだろう、なんでこんなに、私…………)

 痛みは不安の気持ち、もしくは恐怖の心が具体性を持って現れた証だった。どうしてそんな不安が起こったのかが分からないが、首を傾げて、一まず棚上げして置く事にした。

今はそんな事はどうでも良いのだ。

ここに居る。

あの時の少女が、ここに居るのだから。

「あ…………?」

頬を伝う不思議な感触。それが涙なのだと気が付いて、自分が泣いているという事実に少し驚いた。

だが、涙の理由など今更問うまい。

いや。

問うまでも無い。

胸中に満ちる大いなる満足感は一つの事実を示していた。考えるまでも無く、問うまでもない。自分は眼の前の少女を愛しているのだと、扇の気持ちはここに至って、ようやくそこへ着地した。恐らくは高校時代からずっとそうだった気持ちが、ずっとその行き先が不明だった気持ちが、ようやく終点へと到達したのだった。。

この気持ちの正体が分らないまま数年を過ごし、それを知る事が自身の人生の命題なのでは無いかと、扇は大げさに考えていた時期があったのだと、先述した。

確かに大げさだった。人生の命題などと甚だしく大げさだ。

分ってしまえば何という事は無い、ただの恋心。大げさでもなんでもない、等身大の気持ち。

それだけの事実が、何と心地良く大切なものか。明瞭になれば、これほど単純に素晴らしいものなのだろうか。

頬を伝った涙が流れ、寝ている彼女の頬へと、ぽつりと落ちた。

それに反応して、彼女の身体が少し揺れて。

「……………………ん」

彼女は眼を覚ました。

瞬間、扇の心臓が跳ねた。感覚としては口から出てしまった様な気すらした。

彼女は自身の腕に額をこすり付ける様にもぞもぞと動いて、そして、半分しか開いていない眠たげな眼で、扇を視た。恋に落ちた瞬間、眼が合って、時間が止まる…………等という事はもちろん無く、止まったのは扇の身体だった。緊張から全身が硬直して、彼女の頭の上に置いた掌すら動かせない。

扇は自分の気持ちを自覚したからこそ、いっそ逃げ出したい衝動に駆られていた。恋というものが、こんなにも気恥ずかしいものだとは思わなかった。高校時代、大学時代、あるいは中学、小学生の時分まで遡って考えて、各時代の友人達は、あるいは同級達はこんなものと向き合っていたのかと考えると、それらをある種の醒めた眼で見ていた己を、何と浅はかな人間かと罵りたいとすら思った。

逃げ出したいとは思っても、身体が上手く動かせないほど緊張してしまって、今の扇にはそれも無理なわけだが。

「先生…………ですか?」

眠たげな声。

それは扇が初めて耳にする、彼女の声だった。

こんな声を出すのか。彼女はこんな声をしているのか、と扇は感嘆した。少し高めの声。しかし五月蝿くない、のんびりした声。耳へと自然に入り込んできて、全身へと染み渡る。優しい空気に包み込まれたような安心感がこみ上げてくる。緊張感は未だ身体に残ったままだったが。

先生ですか、とは如何にも妙な質問だった。一瞬、扇は彼女が特定の教員を指して『先生』と呼んでいるのかもしれないと思い、少し嫉妬した。思い直して、その『先生』が自分の事を指しているのでは無いかと考えて、胸が熱くなった。仮に後者で有るならば、彼女は扇と過ごした記憶を持っているのだろうか。

しかし、そのどちらでも無かった様だ。

「あれ…………? 先生、ですよね。この学園の。スーツ着てるし、生徒には見えないし…………」

彼女は単純に、扇がこの学園の教師なのかどうかを訊ねてきていた様だ。まだはっきりとはしないが、扇は、この少女は自分との記憶を持っていないのだろうと、少し落胆した。

落胆したが、しかし、そんな事は大した問題では無いと考え直す。今、重要なのは彼女の記憶の有無では無い。別に色々と聞くべき事が有る。そもそも、記憶とは言っても、あの頃の彼女は明確な実体すら持って居なかったのだ。話すことも出来ず、触ることも出来ず、ただそこに居るだけの存在。良く分からない存在。そんな彼女に対して、記憶の有無がどうのこうのと考えるのは何か違う気がした。

そして、不安が首をもたげる。つまり、彼女はあの時の彼女と同じ存在なのだろうか、という事だ。確かに記憶の有無は大した問題では無いと思われたが、存在として同一では無いのならば、自分の気持ちの行き場はどうなるのだろうかと。眼の前の少女にそれをぶつけるのは、それこそ何もかも違う。扇が恋したのはあの時の、あの時間を共有した(と、扇が勝手に考えている)少女なのだから。もし眼の前の彼女があの時の彼女と全く異なる存在ならば、扇の恋は永遠に行方不明になってしまっても不思議では無い。

「え…………ええ、確かにそうよ。私はこの学園の教師。…………虹色 扇よ」

何時までも黙ったままだと、如何にもおかしい。不安を押し殺したまま、扇はそう応えた。自分の声が掠れてしまっていないかどうかも、また不安だった。

「虹色先生ですか。すみません、私、今日この学園に転入してきたばかりで、まだ何も知らなくて…………。色々と校内を見て回って、それで美術部に入部しようと思ってここに来たんですけど、もう誰も居なくて、のんびりしてるうちになんだか眠っちゃって」

あたふたと、眼の前の彼女は非常に申し訳なさそうに、気恥ずかしそうに言った。

扇は背筋に嫌なものを覚えると同時に、腑に落ちた。

なるほど、扇は新任ではあるものの、既に半年間はこの学校に在籍している。にも関わらず、学園内で彼女の事を知りえなかったのは…………もちろん、同じ学校の教師と生徒と言えども、偶然一度も出会わないという確立だって、低くは無いのだが…………今日転入してきたからだったのかと、納得した。そして、転入してきたという事は彼女は確かに、現実に存在する人間であり、つまり、

(…………あの時の彼女とは、違う…………のね)

 それはそうだろう。現実に肉体を持って存在するという事は、そういう事だ。彼女にはこの世に生れ落ちた瞬間からの歴史が有る。乳幼児期を経て、小学校を卒業し、中学校を卒業し、高校生として別の学校へ進学して、そしてこの学園に転入してきたのだ。時間というものが常に一方向のみに進むものかどうかなど、扇には知りえなかったが、一般的な認識としてはそうなっているし、世界の誰一人としてその流れに逆らった者はいないだろう。数年前、扇が高校生であの時の彼女と時間を共にしていた時、この少女は小学生だったはずだ。現実に存在しているのだから、そういう事になる。つまり、眼の前の転入生が数年前に扇と時間を共にするという事は事実上有り得ない。当たり前だが、その当たり前が今の扇には酷く辛かった。

考えてみれば当たり前の話だ。当たり前過ぎて、扇は眩暈すら覚えた。

前提となる存在が、当時、人間では有り得な無かったのだ。いくら眼の前の少女が瓜二つで有ったとしても、両者を結びつけるのは無理が有る。

無理が、有る。

それを認識して、扇の心に冷たいものが流れ込んできた。出口の無い暗闇の中で一人取り残されているのに、それでも前に進まなければならない無意味さすら脳裏を過ぎった。

だが。

だが、それでも諦め切れなくて。

「あの…………貴女、あの…………………………」

 苦しい。言葉を出すのも苦しい。思いを言葉にするのはもっと苦しい。それが意味の無い事になるかもしれないなら、尚更だ。

「貴女は六年前…………は、何をしてた…………の、かしら」

 なんとかそれだけを搾り出し、扇は息を整えた。

扇の様子は明らかに尋常では無かったが、それを訝しがる事も無く(まだ眠たかったのかもしれないし、細かい事を気にしない性格なのかもしれない)、彼女は気軽に応えた。そもそも、唐突過ぎて、彼女にとっては質問の意図すら不明なはずなのだが。教師が眼に見えて動揺していたならば、もう少し大きなリアクションをしても良いものだと思ったのは、後になってからだが。この時はそんな余裕など無かった。

「六年前、ですか? まあ…………小学校に通ってましたけど。小学生でしたし」

 予想通りの応えに、ああ、それはそうだ、そうだろうと、扇は悄然とした。

やはり、眼の前の少女はあの時の彼女とは何も関係が無いのだろうか。もしかしたら、『久しぶり』とでも言ってくれるのでは無いかと、有り得ないとは思いつつも、期待していた。

有り得ないと予期しつつも。

期待だけはしていたのだ。

「…………え、え? 先生、どうしたんですか?」

 少女が驚いて、のんびりした中にも、不安の混じった声を上げた。何だろうか、もう関係が無いとは知りつつも、どうしてか少女のその声に、扇は惹かれていた。

だからだろうか。

滲み出た涙が溢れ、頬を伝う。

この涙は先程とは全く異なる涙だ。

息が苦しい。胸が熱い。身体から無限の熱量が湧いてくるかの如く、ただ狂おしいほどに、心が乱れていた。しかし、乱れつつも心の中心はとても冷め切っており、自分の動揺っぷりがあまりにも滑稽でどうしようも無かった。

(ああ、終わった…………)

 心中で呟いて、更に涙が溢れ出る。もう自分には何も残っていないのだと言わんばかりに、扇の心は冷たく乾いていった。人生の命題などでは無い、ただの恋心。しかしきっと、これからの人生で自分はもう何も見つける事が出来ないだろうとすら感じていた。

しかし、眼の前の少女にはとても迷惑をかけてしまっている、と扇の冷静な部分がそう考えていた。眼の前で大の大人が泣き出したなら、それが教師であっても、もしくは教師だからこそドン引きだ。同じ様な事態に出くわしたなら、扇でもどうすれば良いか分らない。

教師としての信頼は地に堕ちたも同然だし、数日もすれば学園内に広まっている可能性すら有る。転入生が周囲と溶け込むには絶好の話題だ。そういう意味でも、『終わった』のだろう。

世の中に絶望と言うものが有ればきっとこういうものなのだろうし、深淵を覗きたい者は私の心を覗けば良いなどと、意味の分らない言葉が頭の中を飛び交っていた。もう半ば笑い出しそうになっていた。

だから、

「せ、先生、泣かないでくださいよ! 先生が絵を描いてる時はもっと、こう、楽しそうだったじゃないですか!」

と、少女が言って。

 その言葉をじっくりと反芻させて、扇は驚きに眼を見開いた。

楽しそうだ、と言ったか。

涙で塗らした顔はさぞ醜いものだろうと思いつつも、扇は顔を上げて、少女の眼をしっかりと見据えて、問わずには居られなかった。

「どうして…………私が絵を描いている事を?」

 いや、違う。

問うならばこうだ。

「どうして、貴女は私が絵を描いている時の事を知っているの?」

 美術室に居る教師。扇が教師で有る事を明かした時、担当教科までは言わなかった。美術室に居るのならば美術教師だと考えても不思議では無いだろう。だが、そうした推論が成り立つとしても、絵を描いている場面までは想像しようも無いはずだ。

それをどうして、この少女は知っているのだ。扇には本当に自分が楽しそうに絵を描いていた自覚は無いが、どうして見てきたかのように語るのか。

それは疑問であり…………期待でも有った。

少女は扇の問いに首を傾げて、

「…………あれ? 確かにそうですね。どうして私、そんな…………」

 ショートカットの髪、毛先を人指し指でくるくると回して、彼女はしばし呆然として…………扇の眼を覗き込むようにして、見つめてきた。

見つめてくる眼と、その仕草と彼女の香りと…………扇は自然と胸が高鳴っていくのを自覚していた。涙を拭いて、まだ潤んでいる瞳とは対照的に、唇が乾いている事に気が付いた。色々と昂ったり落ち込んだりしているうちに、自然と心に余裕が出てきていた。

そうして冷静になって自分の気持ちと考えを整理して、扇は彼女に対する色々な気持ちを把握していった。

「うーん、…………考えても分りませんね」

 その返答は期待通りのものでは無かったが、それでも、何と無く扇は…………扇の心は繋ぎ止められている様な気がした。そう、期待しているのだ。

そうだ。考えて分かる様なものでも無いのだ、と扇は思い始めていた。むしろ考えて分かってもらっては困るのだ。あの当時の少女と眼の前の少女に何らかの関係が有ったとして、何と言うか、言葉で説明できる類のもので有ってはならないという、そんな考え。

「あ、でも、どうしてでしょう。先生と会うのは初めてじゃ無い様な…………昔、夢で見た様な、そんな気がするんです。夢、というか、遠い意識の底、というか。…………何ででしょう、今までこんな事、無かったのに。先生が美人だから、何処かで見た事が有る様な気が、してるだけなんでしょうか」

 少女のその言葉に、扇はどきりとした。

そして、ようやく安心出来た気がしたのだった。仮に眼の前の少女が扇の事を当時のまま知っていたとしたら、果たして扇は安心出来ただろうか。それは仮にそうなっていたら、という前提でしか考え様の無い事なので何とも言えないが、扇は心の中に不安の種を残したままだったのでは無いだろうか。

ただそこに居るだけだったあの時の少女が、実体を伴って今、眼の前に現れる。それはそれで素晴らしい事だったに違いない。だが、扇は少女に好意を持っていたが、肝心の少女がそうで無かったとしたらどうだっただろう。あるいは少女が扇に対して何の関心も持っていなかったのだとしたら?

そして、誰に言われたかはもう忘れてしまったが、『突然消えたのならば、突然現れるかもしれない』という逆の事も有りうる。

そう。

扇はあの時の少女が自分に対して何の感情も抱いていない事や、また突然消えてしまう事を恐れていたのだ。

先ほど感じた不安。寝ている少女の髪を触っていた時に感じていた不安とはきっとそれだったのだろう。

だから、今ここに居る少女はあの時の少女と同じでは無くて、そして完全に違っても扇としては困るのだ。彼女が現実として、実体を持った、彼女自身の歴史を持った実際の存在としてここに居る事が重要なのだった。先程は辛いと思えた事だったが、気付いてみればまるで逆の感情が扇を支配していた。何とも我侭な考えだが、そうで無いと扇の恋心は何の意味も無いものになってしまいかねない。

だから、これで良いのだろう。

「この場所も、何だか懐かしいような…………だからでしょうかね、居心地が良くて、ついつい寝てしまいました。もう3年間分は過ごして居た様な、そんな気が…………」

 はにかんで笑う少女を見て、扇は頭がくらくらしてきた。

その少女の微笑みは昔見たものと全く同じだった。扇は自分の周りが、あるいは自分自身が一瞬にして当時の景色へと変化していく様な感覚を覚えた。

(ああ、もう…………きっと、いえ、絶対にそうだ。そうなんだ。やっぱりこの子はあの時のあの子で…………だから、私は……………………)

可愛い。

触れたい。

彼女の存在を、もっと確かめたい。

扇は自身の理性に自信を持っていた。衝動に身を任せる人間では無い。自分の事をそうした理性有る人間だと信じてきたし、今までは確かにそうだった。

だが。

気が付くと、扇は少女を抱きしめていた。衝動が理性を圧倒して、彼女を自分の胸の中で抱きこんでいた。実際は二人の間にそれほどの身長差は無いため、抱きこめるのは彼女の肩くらいだったが、それくらいの勢いは有った。

少女が驚くかもしれないとか、これはどう考えてもセクハラだとか、そういう事に気を回せたのは抱きしめて数秒経ってからだ。

でも、気を回せる様になったからと言って、扇はそれで彼女を放す気にはなれなかった。嫌がられたならば、止めれば良い。色々と騒ぎになったならば、もう教師を辞めても良い。

今はただ、もっと彼女を感じていたくて、ただそれだけだった。

彼女の柔らかさとか、温もりとか。

香りとか、息遣いとか。

心臓の鼓動とか、抱き返してくる腕の感触とか。

「…………え?」

 抱き返してくる、腕。

扇が抱きついたのと同じ様に、彼女は扇に腕を回して抱きついてきていた。

驚いて扇が顔を上げると、そこには顔を真っ赤に染めて微笑む彼女の顔が有って、

「嫌じゃ、無いですよ。…………先生、私、あの、変な事言いますけど」

「な、何?」

「昔から先生の事、好きだった気がするんです」

 今知り合ったばっかりなのに変ですよね、と彼女は笑った。もちろん扇は笑う気になれず、また泣いてしまいそうになって、なんとか我慢して、

「私も…………ずっと昔から、好きでした」

 熱くて熱くて、もうどうにかなりそうなくらいに身体が熱くて、それでも腕を離す気にはなれず、むしろもっと力を込めて抱きしめて。

 扇は、彼女がただそこに居ただけの時からずっと質問し続けてきて、昔からずっと知りたかった事を、聞いていた。

「ねえ、教えて。知りたいの。貴女の…………」

本当に、知りたくてたまらなかったのだ。

「名前を…………貴女の、名前を教えて」

 外から流れてくる空気は夜気をたっぷり含んで、光も乏しい。

夕暮れの時間はすっかり過ぎて、夜の帳が降りていた。

ずっとずっと扇の思い出の中にあって、ずっと終わらなかった夕暮れの時間が、ようやく終わりを告げた様な気がしたのだった。

「かくして過去と未来が繋がって、一組のカップルが生まれましたとさ」

 めでたしめでたし、とそいつは呟いた。

校舎の外。

どう見ても空に浮いているそいつは、ボブカットの髪を風に揺らすでもなく、制服をはためかせるでも無く、空から事の一部始終を見守っていた。

そいつは職員室で扇と話していた生徒だった。

誰もが彼女の事を知っていて、そして誰もが彼女の事を知らなかった。

誰もが彼女の記憶を持っていて、誰もが彼女の記憶を持っていなかった。

 扇と少女が美術室から出て行くのを見送ってから、彼女もまた姿を消した。

彼女の顔は心なしか満足気だったが…………それを知る者はもちろん、誰も居なかった。

 

―  エピローグ ―

「私、先生の絵、好きですよ」

「…………え?」

それは予想だにしない言葉だった。

あるいは聞き間違えたのかと思ってしまったくらいだ。聞き間違えでは無かったとして、では功刀 羽衣のリップサービスだったのかと言えば、やはり彼女はそんな事をしそうな性格では無かったし、何よりも眼が真剣だった。

「小学生の時、観たんです。先生の絵。コンクールで章を取ってて、近くの美術館に飾られてて。それが今でも心に強く残ってて…………今でも私が絵を描いているのは、先生の影響なんだって、そう思ってます」

「……………………」

 明らかに自分よりも上手の生徒に褒められて、自分の絵を好きだと言われて。

扇はどういう風にリアクションを取れば良いのか分からなくて。

だって、扇は羽衣の絵を観て、美術大への進学を諦めたのだ。しかし羽衣は扇の絵を観て、その影響を受けて絵を描き続けていると言う。

何だかとても滑稽だった。主に、自分が。

嘆息して、笑ってしまった。

ふと、空気の流れを感じてそちらを見ると、開け放された窓から吹き込んだ風がカーテンを緩やかに揺らしていた。

夕暮れの光が美術室に差し込んでいた。

今と昔。高校生だったあの頃と、教師になって戻ってきた現在。色々と変わってしまったのだろうが、この時間帯に、この場所で感じる空気だけは何も変わっていないのだと、今更ながら気が付いた。

もうそろそろ、愛しいあの子が美術室へとやってくる。

「ありがとう、功刀さん」

「…………そうですか」

 教師に例を言われて『そうですか』と返すのは不適切に聞こえかねないが、羽衣は何もかも了解して、何もかも分った微笑みで…………だから、それで良いのだ。

影響を与えて、影響を与えられて。

勝手に勘違いして落ち込んだり、悩んだり、喜んだり。

これからもずっと、そうやって生きていくのだろう。

少なくとも、生きていけるのだろう。

止まったままだった扇の足は、ずっと同じ場所で足踏みを続けていた扇の足は、ようやく前に進み始めたのだから。

 


 
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