No.455792

彼女と私の関係3-3 『扇とあの日視た少女の姿』

バグさん

急にSF入ってきてる。まあええ事よ。

2012-07-19 20:00:53 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:282   閲覧ユーザー数:282

「あー…………」

翌日の放課後、やはり夕方。部活道に所属している生徒の大半も下校を始める、そんな時刻。

今日は美術室へ行かないで帰ろう。

仕事を問題無く終えて、与えられたデスクの前で、虹色《にじいろ》 扇《おうぎ》はそんな事を考えながら項垂れていた。スーツに皺が出来るとか、髪型が乱れるとか、そういう事に気を回す余裕が無いでは無かったが、敢えて無視した。

項垂れている理由。疲れていた、というものが半分程度。仕事はどうしようも無く疲れるものだ。それが例えどんな職業で会っても、使われる側の人間というのは単純にしんどい。

理由の残り半分は思索に耽っていたから、というのも有る。美術室へ行かないで帰ろうという思考も、その延長線上に有った。

昨日、功刀《くぬぎ》 羽衣《はごろも》に言われた事を思い出して、色々と考えていたのだ。色々と考えさせられた、というべきか。

高校卒業前に、件の少女が居なくなり、もやもやした物を抱えたまま卒業して、それから数年が経った。少女が居なくなった事に対するもやもやとした感情の理由を、扇は全く考えなかったわけでは無い。だが、考えると何時も不安になっていたのだ。

不安。

それは詰まり、あの少女を『視ていた』という記憶が本当に確かなものだったのか、という事だ。もしかしたら当事抱えていたストレスから逃避するために、扇が勝手に作り出したものだったのではないかと。

「いや…………まあ、それは無いと思うけど。思うんだけど…………」

 職員室内には未だ他の教師が残っている。不審に思われてはいけないと、小声で呟いた。

「よりによって、功刀さんに言われるとなあ…………」

扇《おうぎ》が美術大学に進学しなかったのには理由が有る。進学をしなかった、というよりも進学を断念した理由。美術的なセンスと技量において、高校生離れした境地に達していた彼女が、進学を断念した理由。

明白にして単純な理由が。

扇には有った。

「全く、あの子は私の人生にどれだけの壁を建てちゃってくれるんだか」

それは端的に言えば挫折であり、諦観であった。

自分の才能というものに、扇は限界を感じたのだ。才能というものに限界など無いと、扇は実は未だに信じている。努力して、努力して、努力すればどんな底辺からでも頂上へ向けて必ず前進するのだと。

事実そうだった。

羽衣は言った。高校生当時よりも技術が向上していると。

美術大学へと進学せず、趣味で絵を描いていただけの扇でも、その技術は確かに向上していたのだ。天才と言われた事も有った当時の扇よりも、今の扇の方が絵の技量やセンスは上なのだ。

だから、やはり扇は、才能というものに限界は無く、努力に努力を重ねればどんどん前進するものだと信じていた。

それでも扇が自分の才能に限界を感じたのは才能、あるいは実力が向上する速度の問題であった。それは言うならば、地面を這いずる者と軽快に走り抜けていく者との違い。そこまで露骨で明確な差では無かったのかもしれないが、とにかく感じ取ってしまったのだ。

当時、9歳だった功刀《くぬぎ》 羽衣《はごろも》という少女に対して。

高校三年生だった当事、夏休みのとある日。扇は実家から少し離れた市立図書館に足を運んで勉強に励んでいた。そこで視たのだ。展示されていた彼女の作品を。そこで感じた才能の差というものを表現するには、扇の語彙力は未熟過ぎた。なので、扇の美術大学進学を、当然の事として考えていた周囲の人間には、色々と迷惑をかけたものだった。

羽衣の方はそうした事情を全く知らないだろう。自分の存在が扇という人間に与えた影響というものを。もちろん、知ってくれなくても良いし、知ってくれない方が良い。

あるいは扇が天才で無く、平凡よりも少し上の技量と完成で美術大学を目指す少女だったならば、羽衣の絵を見たとしても、何も感じなかったかもしれない。しかし、そうでは無かった。扇は確かに天才だった。不運な事に、羽衣の天才性を一目で見抜けるくらいには才能が有ったのだ。天才だったが故に羽衣の異常な天性に気付き。天才だったが故に、勝てないと理解したのだ。

赴任して、成長した羽衣の絵を見て、扇は自分の理解が正しかった事を確認した。美術大学へ進学して、そこでどれだけ努力を重ねていても、きっと羽衣の天才にはまるで適わなかったに違いないと確信した。

扇が羽衣に抱いている複雑な感情というのは、詰る所、そういうものだった。

恨んではいない。あまりにも筋違いだし、何よりもそういう感情はほとんどと言って良いほど浮かんでこなかった。ただ、天才をして天才と言わしめるほどの圧倒的な才能に対する、清々しい程の尊敬が、感情の大多数を占めているのだ。それに少し付随する形で、嫉妬や羨望という浅ましい感情が含まれる。

だが、初めから果たしてそうだったのかどうかは分からない。あるいは忘れてしまったのか。高校生だったあの時、羽衣に感じた天才に対して、本当に割り切って考える事が出来ていたかどうかなど、もう今となっては分からない。もしかしたらそうした現実から逃れるために、存在しない少女の記憶を作り出していた可能性だって有り得る。その可能性は低いと考えたいが、どれだけ低くても否定はしきれない。

昨日、羽衣の言葉に自身の抱える問題の本質を指摘された様な気がして、だから敢えて考えてこなかった不安が首をもたげたのだった。

時を経て、そんな羽衣の教師となっているというのは何とも皮肉だった。赴任直後、扇は自分が教師としてやっていけるのかどうかと、真剣に悩んだものだ。他の大多数の教師も抱えてきたであろうそうした類の悩みよりも、恐らくは余程重いものであると確信しながら。それでも辞職せずにやってこれたのはそれだけ自分が大人になった証明かもしれないし…………過去の思い出を引きずっている事の証明かもしれなかった。

過去の思い出。

 そうだ。昨日も考えたように、扇は未だ、あの名前も知らない、存在しているかどうかすら分からない少女に未練を残しているのだった。拘っているのだった。だからこそ不安を覚えるのだし、だからこそ未だ羽衣に対しての複雑な感情を捨てきれずにいるのだろう。

思えば、高校、大学を卒業して少しずつ大人になってきていると考えてはいたが、あの少女が居なくなって以来、扇はずっと同じ場所で足踏みをしたまま、何一つ前へ進む事が出来ていないのかもしれない。

「…………あの頃の私の記憶。私の思い出。それは確かなものだったと信じたいけど…………いや、違うか」

 嘆息して、机に顔を付けながら、僅かに頭を振った。

「確かなものだったと信じる事にする」

 そうで無いと、何も始まらない様な気がした。そもそもの前提を、もうここで心に決めてしまうのだ。まあ、だからと言って不安が解消されるわけでは無いのだが、あの少女に拘っている自分の心を探るに当たって、そこを決めておかないと話にならない。

問題を一つに絞るに当たって、あの少女に拘る自分を考えるに当たって、それはもう大前提で有るし、それを外す事は逃避に他ならないと思われた。

「どうしてこんなに…………」

 もう一度だけでも会いたいと思っているのだろうか。

会いたいという気持ちの正体を分析するならば、それは何らかの情に起因するに他ならない。

愛情とか友情とか、憎しみとか悲しみとか、喜びとか恐怖とか、そういう情。妥当なのは愛情か友情なのだろうが…………。

「友情? 愛情? 友情はまあ、分からないでも無いけど、愛情って…………」

 好きとか、そういう事か? と眉根を寄せた。

「彼女の事を愛してる? 女の子を好き…………? 私が?」

 顔に若干の火照りを感じた。

 そんな馬鹿な、と呟くが、良く考えてみればこれまで男を好きになった事は無かった。

いや。

恋愛をした事が無かった。恋愛経験が皆無だった。

小学校、中学校の頃は共学だったが、勉強や習い事で忙しく、異性と何かしらの関係になるという事は無かった。扇にその気が無かったというのも有るかもしれない。当時、男子と親しくしていれば恋愛関係に発展していたかどうかと問われれば、これはもう良く分からないとしか言い様が無かった。そもそも、良く覚えていないのだ。機会が無かったのかもしれないし、その気が無かったのかもしれない。ただ、同姓の友達に対して恋愛感情を絡めた事が無かったというのもまた、事実だった。

そして星崎女子高等学校はもちろん女子高である。異性との出会いは必然、少ない。積極的に男子との出会いを求めていかなければ、恋愛など出来るはずも無い。異性との恋愛をしていた女子の噂を聞いた事は有るが、そういう噂が立つ時点で、異性交友をしていた生徒の少なさの裏付けになる。

扇もご多分にもれずそうだったし、美術室に通いつめていたので、異性との恋愛について考える機会など、ほとんど無かった。当時の親友がそういう出会いの少なさに愚痴を言っていた覚えは有るが、扇はあの少女に夢中だったので、適当に聞き流していた気がする。

「……………………ん?」

 思索の途中で、首筋に違和感を覚えて、手を当てる。

チリチリ、と静電気の様なものが走った様なそんな感覚。だが、気のせいだったのかなんなのか、手を当てた時には既にその感覚は消え去ってしまっていた。

とまれ、思索を続けようと、若干の行儀の悪さを覚えながらも、机に肘を付けると、

「いやいや虹色先生、そこまでその子の事しか考えて無かったんなら、それはもう恋でしょ」

 

 

 扇の思索に、突然挟まれた誰かの声。落ち着いた声。

誰も居なかったはずの場所から聞こえてきた、声。

しかし、扇は何一つ動揺せず、声のした方向に顔を向けて、

「そう…………なのかな」

 そこに居たのは一人の女子生徒だった。

ボブカットが良く似合う、若干地味な女の子。しかし、その地味な印象が逆に彼女の美しさを引き立てている。

 その女子生徒は何時の間にかデスクの隣に立っていて、胸中で考えていた扇の思考を的確に読みとるという不自然な事をやってのけていた。しかし扇はその事に対して何の疑問も覚えずに、彼女に返答していた。

まるで、最初から女子生徒がそこに居て、最初から彼女と会話をしていたかの様に、扇は振舞っていた。

明らかに異常だったが、そんな異常を認識していない異常が起こっていた。

扇にとって、彼女はもちろん見覚えがある生徒だった…………かの様に認識されていた。確かに馴染みの有る生徒なのだが、どういう生徒だったのかが良く思い出せない。そして、扇はその事に対して、何らの疑問も覚えていないのだ。

とても良く見かける生徒なのだ。彼女の事は良く知っている…………と、扇は思い込んでいる。他のどんな生徒よりも一番知っていて、しかし他のどんな生徒よりも曖昧だった。

(えーと、名前は…………何だったっけ。…………まあ良いか、名前なんて)

不自然に会話に加わった生徒に対し、彼女の名前すら頭に浮かんでこない事に、扇は何一つ疑問を覚えること無く、自然に会話を続けた。

「いやまあ確かに、この年になって恋愛経験が無いっていうのは…………おかしいとは思ってたけど、でも…………いえ、どうなんでしょうね」

「良く分かりませんか?」

「そうね。そんな感じね…………」

 恋だ何だの言われても。

困惑するしかない。

高校生当時、扇はあの少女の絵を描き続けた。

何枚も。

何枚も。

何枚も。

鉛筆で、水彩で、アクリルで、油絵で。

描き続けた。

彼女の絵を、描き続けたのだ。息をする様に筆を奔らせ、水を飲むように時間を大切に扱った。当時、扇が部活動に費やした時間というのはもちろんそれだけでは無かったが、6、7割程度はそれだった様な覚えが有った。

高校生という貴重な青春の時間を、それ程に大切な時間を割いて、あの少女を描き続けたのだ。

それは恋愛感情として視るべきものなのだろうか。好きだからそうして描き続けられたのだろうか? そうだと言われればそんな気がするが、そもそも恋愛下手を通り越す勢いでこれまで生きてきた扇に、そんな判断が付くはずも無い。

「でも虹色先生、彼女の事、嫌いでは無かったんでしょう?」

「それはそうよ。嫌いなはずなんて無いわ」

 頭を振って否定する。

嫌いな訳が無い。扇にとって、あの少女との時間は特別なものであり、だからこそずっと美術室に閉じこもって居たのだ。

だからこそ、あの少女が消えた時、失意に塗れたのだ。

「だからって、それが恋愛感情だという事にはならないと思うけど」

「まあそうですよね。『嫌い』の反対は『好き』じゃなくて『無関心』。『好き』の反対も同じでしょうけど」

 扇の良く知るその生徒は、ふふ、と笑って続けた。

「先生、彼女に対して『無関心』だったんですか? 違いますよね? 感情としてはどちらかと言えば好きに近くて、でもそれはきっと、友達に対して抱く感情に近いと考えてる」

「…………だと思う」

あるいは愛情だったとしても、家族に抱くそれに近い。と、扇は心中で整理しながら考えていた。愛情と言えども色々ある。思い人に向ける情と恋人に向ける情、家族に向ける情、それらを全て愛情として一括りにしても差し支えないと思われるが、それでも程度の差は当然有る。扇は、自身が彼女に向けた感情を愛情として捉えたが、それはあるいは一人っ子の扇が、姉や妹という存在に憧れを抱いていた(という事実は無いが、無意識下では有ったのかもしれないと仮定する)ために現れたものなのだろうと考えれば、なんとか納得できないでも無かった。

「やや、虹色先生。まあそれは一つの考え方では有るんでしょうし、もしかしたら、確かに先生の中では彼女に対してそういう感情も有るのかもしれませんけど…………じゃあ、どうして先生は初めに『愛情』を彼女に対して想定した時、それを恋愛感情だと考えたんですか?」

「う…………」

それを言われると…………反論出来なかった。

「恋愛ってどういう事を言うのよ…………」

頭を抱えて呻く。

そして、二十代も半ばに差し掛かって、生徒にそんな事を言ってしまう自分とは何なのだろうと、扇は嘆息するのであった。


 
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