No.440736

Honesty

イシさん

鬱ものです。閲覧にあたってご注意ください。

2012-06-23 10:15:13 投稿 / 全10ページ    総閲覧数:281   閲覧ユーザー数:280

 

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 ―― 千早ちゃんは鳥。それもすっごく綺麗な青い鳥。

 

 ある日の空港。最初で最後の旅立ちの日。

 見送りにきた友人が私へ…。

 何を思ったのか。

 ふっと…、なんだか楽しそうに言った言葉。

 

 あまりに唐突な出来事に。私は苦笑して…。

 いったいどうしたのと、急な台詞の理由(わけ)を尋ねたものだけれど。

 返ってきた回答はあまりにもくだらなくて…。今ではすっかり朧霞。

 ただ…。それでも…。それが実に彼女らしい答えだったことは確かで…。

 なによりその時ともなった雰囲気だけはやたら楽しくて……。

 この身だけにはとても染みていて……。

 記憶を巡らせれば自然と頬が崩れてしまう。

 

 ―― 空は…。向かうところは、もうどうしようってくらい高いし、広けれど…。

 ―― 自分の翼で。ずっとずっとずっとずっと…。高く高く高く…自由に舞いあがれるんだよ。

 ―― だから、ね。千早ちゃんは…。 

 

 そう言って友人は。軽やかなステップで私から一歩下がる。

 そして、くるりと一回舞って。こちらにあらためて向き直る。

 いつも髪に結ってるリボンと。切り揃った前髪。可愛らしいそれが…。パサリと揺れた。 

 友人が微笑む。

 光のカケラが彼女から零れた……。…ように見えた。

 

 彼女は…友人は…。続ける…。

 

 ―― だから…。

 ―― 千早ちゃんはね…。

 ―― きっと…。

 ―― きっと…。

 

 ―― …。

 ―― ……。 

 一般にチハヤ・キサラギの人柄は、ストイックで従順。かつ物静かな娘だと評されている。

 確かにそれは事実なようで、実際彼女は歌に関する各種トレーニングを怠った日など一度たりともなく、何よりそれを誇ることもない…。

 仕事に対する姿勢もいたってきまじめなもの。

 オーディションやそれを経て手にしたことに、強い熱意と真摯な態度でもって挑み、一方で現場スタッフの要望や指示には坦々と従い、相応の結果をだし続けている。

 また、かくいうわたしも…。

 そんな彼女を目の当たりにし、彼女のマネージャーとして日が浅かったころは、彼女を先述の通り評価し、そう接していた。 

「チハヤ。きょうも素敵だった」

「ありがとうございます」

 とは。仕事が終わった後の、わたしと彼女の、恒例のやりとりだった。…ある時期までは。

 そう…。わたしはチハヤ・キサラギのことをまるで気高い探求者、求道者のように思っていたのだ。 

 

 チハヤの傍らには、ひとりの男性がいた。

 彼は"この国で雇われた"わたしと違い、チハヤが祖国においてデビュー当時からのパートナーで、そしてプロデューサーなる人物らしかった。

 ふたりは所謂「海外デビュー」というやつだった。にべもない表現をしてしまえば、わざわざ"わたしの祖国"に夢だの実力だの未来だのを試しに…、切り拓きにきたというわけだ。

 どういうわけか我が故国は、この類の志をもった訪来者が多く、絶えることがない。

 チハヤにしてもプロデューサーにしても、雇われて間もないころのわたしからしてみれば、そんな有象無象のなかの"ふたり"に過ぎず…。なによりチハヤの故郷は、大して能力もないのに「この国で活躍した」という箔付が目的で、組織に所属する人材を、その資金力を活かして送り込むなどいう実にエコノミックアニマルらしい行為をしばしば行うという現実もまた存在していた。

 そしてこれはだいぶ後なって知ることになるのだけれど――。

 チハヤ・キサラギという少女は、自身の母国にて大成功を収めたアイドルのひとりだった。

 加えて、当時のわたしがそれを感知していなかったことから伺えるように、彼女は故郷におけるネームバリューや華々しい履歴を喧伝しての来訪というわけではなかった。

 どころか生活基盤などしがらみの一切を捨て、一個人として"この国"にやってきたのだった。

 「プロデューサー」とふたりで、だ。

 この二人の関係は、薄々察しては、いる。

 実のところ。チハヤ・キサラギに対するわたしの"認識"があらたまった時期を、わたし自身よく把握していない。

 ただ漫然と。

 気がつけば。

 周囲のチハヤ評と自身のチハヤ評がひどく乖離しており、"プロデューサー"や仕事先のスタッフらが、彼女を褒め称えるたびに、微妙にむず痒い思いをしたのをよく覚えている。

 もっと言うと。これらの理由は、実は定かでない。

 もしかしたら…。わたしがチハヤと同性ということに由来するのかもしれないし。もしかしたら、チハヤのマネージャーとして、彼女の今日に至るまでの"個人としての生い立ち"や"アイドルとしての経歴"を知ってしまったからかもしれないし…。もしかしたら、わたしがチハヤとある一線を越えて親しくなろうとしなかった―― どこか、一歩ひいたところで彼女を"眺めていた"からなのかもしれない。

 ―― とにもかくにも。

 チハヤ(とプロデューサーなる男性)に雇われ幾ばくか過ぎた頃には…。

 当初こそわたしが見積もっていた、そして周囲と殆ど一致していた、第三者視点からの"描かれた"彼女の人物像は、形骸もしくはペルソナをなぞっただけの所詮イメージにも満たない、ひどく醜いものとすら思えるほどに――『わたしの』チハヤ・キサラギは、「ストイックで従順かつ物静かな娘」や「気高い探求者」や「求道者」というまるで個人の羨望が込められたような"存在"ではなくなっていたのだった。

 

 そしてとうとう…ある日のレコーディング。

「あなたって、まるで小鳥…ね」

 それを終えてブースから出てきたチハヤへ、タオルと飲料を渡そうとよった際(きわ)に。わたしはおぼえず秘め事をこぼしてしまうったのだった…。

 「あっ」と。自身が発したものを自覚したときにはもう遅い。 

 しかして少女の切れ長で理知的な目は、まるで朝の目玉焼きのように丸くなり…そして彼女は何も言わず、身動(じろ)ぎひとつせず、わたしを見据えた…。 

 この時の圧迫感は今でも忘れられない。―― 同時にマヌケなことを仕出かしたものだと後悔したことも。

 確かに至るまで…。わたしの、チハヤ・キサラギに対する人物評や心情は、何時の頃からか、そしてその根源は何かとわからなかったが、日々変化していたのは紛れも無い事実ではあった。けれども。だからと言って…。それを、その"イメージ"を…。口にしようと、ましてや当人に伝えようとは微塵も考えてはいなかった。

 わたしは彼女に、チハヤに、雇われたマネージャーだ。

 「チハヤ。きょうも素敵だった」という決まり文句で日々を終え、仕事を全うし、給料を貰う。それで十分だし、というかそれ以上思ってもいなかったし、雇い主へ、例え年下であっても、無駄に口を利かせるつもりなどなかった…。

 ――ああ、だというのに。

 果たして。あまり間もなく、

「…あの、それって…どういう、意味ですか…?」

 目玉焼きに戸惑いと怪訝の色を加えて、チハヤは尋ねてきた。

 彼女の細く長い眉がピクッピクッと、わずかに数度跳ねるが見えた。

 当然だ。一仕事終えて、出迎えの一言が「小鳥」なのだ。動揺しないわけがない。 

 一方でわたしは――、

「えぇと…まぁ、大したことじゃないわ」

 卑怯にも大人だった。

 もともとこぼすつもりもなかった心情・台詞。なによりチハヤが表情の変化から、彼女の内で起こったろう波立ち、機微が刹那的に読み取れ、

「ネットであなたのファンアート見てねー。狼に犬、あとロボットとか…。いろいろあったけどわたしのイメージとして、チハヤは振る舞いとか見てるとやっぱり小鳥がぴったりかなって思ちゃって…思い出しちゃって…それで、つい…ね」

 と自身が思っていたところを偽ったのだ。

 ―― とはいえ。実際その様なファンアートは多く存在しており、半分は嘘でない。

 そしてパチリと目配せ。「些細な戯れ」だったと軽い微笑みを見せた。

 チハヤは――、 

「そう、ですか」

 と伏せ目がちに、浅く頷いた。

 うまくごまかせのだろうか。彼女はそれ以上何も言うことはなかった。  

 実際問題。わたしの…彼女―― チハヤ・キサラギに対するイメージ、つまりは小鳥なのだけれど、それを構成する一端が、チハヤを表現するファンアートから来たことは否めない。もっとも、それらの多くはチハヤが765というプロダクションに所属していた時代に描かれたもので、彼女がステージ衣装だったり、やたらスタッカートをきかせた特異な歌い方など、アイドルとしての"エピソード"などが由来になったものが主だったりした。けれど同時に、これらは…端から見たチハヤ、つまりは「アイドルのチハヤ・キサラギ」という観衆からのイメージ――もっと言ってしまえば、第三者の「こうあって欲しい」という願望が込められた、"外からつくられた内面"が"見るべき外面"に落とし込まれた、反映されたものであることもまた見て取れる事実だった。

 ―― ロボットにせよ。狼にせよ。犬にせよ。

 どんなチハヤも。無口で、不器用で、優秀で、従順で、クールで――。そこにあざといほどの、醜いほどの、エゴや欲求をむきだすこと殆ど無く、決して他人からの好意を拒むことなく、笑顔少なく、しかし笑えば綺麗な、うちに秘めた、本当は心優しい…。そんな少女が輝いていた。

 あるいは。そんな少女はいるのだろう。

 何より、どうしようもなく、わたしは、わたしの周囲は、そして"彼女の"プロデューサーは――の、チハヤ・キサラギに対する視線、評価、イメージはまさしくその通りであった。

「チハヤなら」「彼女なら」「千早なら」 

 不可思議なほどの一致と。全幅の信頼と。それによった好意。

 そして彼女は、チハヤは、顔色ひとつ変えずにこれを受け入れて、わたしはそれを当然と思い、むしろ善意や一種の愛情とさえ思い、さらには小さな愉悦に浸っていた。 

 疑問に思わなかった。なにひとつ。

 たとえ彼女の生い立ちを"知ることになっても"…。

 

 思索が途切れた。

 部屋のチャイムが鳴ったのだ。

 今はわたしは自分のアパートにとうに帰宅していて、思惟片手に、マネージャーとしての庶務をいろいろと片付けていたのだった。

 であれば。鳴ったのは、玄関脇に設置された、来客を知らせる呼び出しのブザーに違いなく、ふっと、視線を斜に移せば、時計があって、大小の針と忙しない棒針は22時と15分ほどの時間をわたしに示し、叩扉の時間にしては少しばかり訝しむ頃合いであることを教えてくれた。

 ―― 幸運なことに、わたしはデリバリーを頼んでいない。

 立ち上がって。ワインレッドなアンティークテーブルの上にちらばった今日や明日以降、またはこれまでの仕事、それらの隙間に置いていた、グラスを手にとり、なかで揺らぐ、琥珀色の液体をひと舐め、この時間帯に訪ねてきそうな人物を思い浮かべ数えてみる。しかし残念なことに。ここ一年ほど"ご無沙汰"だったし、なによりその様な関係にあった人物たちは、求めこそすれ他人にサプライズを用意してくれるほど優しくはなかった。

 訪問者に心当たりはなかった。

 再び。チャイムが鳴った。

 わたしはとうとう観念して、ため息をつき、玄関へ向かった。

 誰が来たのだろうという囁かな好奇心は勿論、それよりも何らかの対応をとらなければ延々とチャイムを鳴らされそうな不安になんとなく襲われ、せめてドアスコープから確認をと考えたからだ。

 しかして、小さな覗き穴の先には――。

 見覚えのある少女が、たっていた。

「チハヤ!?」

 わたしは慌ててチェーンをはずし、幾つかの開錠を経て、ドアを開ける。

 不気味の正体はチヤハ・キサラギだった。

 

「どうしたのこんな時間に…」

 開扉開口一番。わたしは挨拶も忘れて、予想だにしなかったゲストに深夜の来訪の理由を問うた。

 今。わたしの目の前にはチハヤ・キサラギ。

 服装は昼のときのまま、ただ妙に頬が赤く染まっていて、両の手を前で組み、なんだか居た堪れなそうな感じで立っていた。―― 彼女はこちらと目を合わせようとしない。

「チハヤ…?」

 わたしは応答を促す。

 果たして彼女からの返事はなく、暫く待っても、眠った貝のようにだんまりだった。

 わたしはため息ひとつ。そして部屋へ迎えいれた。「まぁ…いっか。入って」と。

 

「コーヒー? ミルク? ジュース? それとも水?」

 何やら煩悶としてそうな我が雇い主を部屋へ通すと、わたしはイスもすすめず、キッチンに向かい彼女へ飲みたいものを聞いた。

 返事はなかった。

 戸棚や冷蔵からコップや飲料など、お目当てのものを探しながら視線を流せば、チハヤは相も変わらず沈痛気味な、もの言いたそうな、何かを溜め込んでいるような表情で、けれども遠慮がちに、なにやら珍しいものを見る感じで、わたしの部屋を見回していた。

 照明のせいだろうか。チハヤの顔…頬は、玄関で見た時よりもずっと火照ってるように見えた。  

「コーヒー? ミルク? ジュース? それとも水?」

 わたしは再び同じ問を投げた。

 別段、他人に観察されるほどわたしの部屋には珍しいものなど置いていない。強いて言えば、一般的な同性のそれよりも多少ものに囲まれた生活をしているだけのことで―― あ、そういえば自宅にチハヤ・キサラギを迎え入れたのは実はこの時がはじめてだった。

 またも返事はない。

「コーヒー? ミルク? ジュース? それとも水?」

 三度目。今度は手を止め、ゲストを見据えて…。しかして、流石に、ようやく。チハヤへ声は届いたらしかった。回視の動作が止まり、彼女がこちらへ向き直る。

「何か飲む?」

 と、わたし。そして「大したものないけど…」と続けた。

 するとチハヤは「ええ、じゃぁ…」とちょっとばかり沈思して、

「なにか、アルコールを…」

 と言った。

 わたしは思わず吹き出した。

「驚いた。あなたでも冗談言うんだ」

 チハヤも控えめに笑った。

「まぁ…適当に何か見繕うから、適当に座っておいて…」

 そうして、わたしはゲストに相応しい飲み物(勿論アルコール抜き)を見繕うべく再び視線をチハヤから外ずすのだけれど―― それも長くは続かなかった。

 唐突に響いた咳喘の音。しかもそれはどうしてなかなか激しい…。

 わたしではない。それはチハヤ・キサラギによるものだった。

 声に驚き、

「チハヤ…?」 

 その方へ顔を向けたときには、テーブル――先ほどまで仕事をしていたアンティークのもの――の側でチハヤが片手で口を抑え何度か背と肩を上下させていた。

 それに加えて――、

「あなた…なにを…」 

 彼女がもう片方の手には、見覚えのあるグラスがあった。それはちょっと前まで、琥珀色の液体がたゆたっていて、わたしが仕事と思惟の片手にちょびちょびと舐めていたものだ。つまりグラスは――確かまだグラス四割ほど残っていたはず…――すっかり空になって彼女の手に収まっていたのだ。

 みなまで言う必要はないと思うけれど、言ってしまえば、チハヤはわたしがほうっておいたグラスの中身を飲み干してしまっていたということ…。とどのつまり彼女が言った「なにか、アルコールを…」という台詞は冗談などですまなかったのだっ。――続いた浅い笑みの意味も…。

 わたしは飲み物なんか忘れて慌てて彼女に駆けよった。

「なんてバカなことを…」

 程度の差はあれ、アルコールが喉に悪いことは一般によく知られている…。それはチハヤもよく認知していることらしく、自身が21歳未満であることはもとより、こと歌に関して繊細な気配りを欠かさない彼女は、今の今まで、少なくとも、わたしの目の届く範囲でアルコール類を摂取したことはなかった。

 それがどうだろうか。

 わたしの目の前でむせ続けるチハヤは…。

 恐らくチハヤの喉は焼けるような痛みに支配されているに違いない。わたしが飲んでいたものは実に20度以上。それもストレートだ…。

 いったいどうして? ジュースに見えた? 好奇心? 悪戯心?

 原因の探求。この時のわたしの心境と言ったらもう――。

 いや。嘘だ。

 このときのわたしは、とうに彼女への認識をあらためていたこと。また彼女への評価が周囲と乖離していたこと。なにより至るまでの彼女の表情から、根本と理由はともかく、衝動の源となった"感情"を薄々感じてはいた。そもそもチハヤが頬にあった不思議な赤みは、もしかすると、とうに彼女がアルコールを多少なりとも"飲んでいた"からではなかったか?

 果たして動揺し手をつかねているわたしへ、

「…家で…アルコール、飲むようになった…から、いけると思ったんですけど…」

 チハヤはかすれかすれに告白した。――案の定だった。 

「まさか…こんなに…きつい、なんて…」

 苦しげで、自身をあざわらうかのような、歪んだ笑みを少女は浮かべた。

 わたしは…思わず息をのんだ。

 チハヤは"鬱屈"していた。――何に対してかは知らない。

 深夜の訪問は、それに関することだったのだろう…。

 ――けれども。

 実にわたしはこの時、チハヤの感情よりも、いやむしろそれを察していたからこそ、今現在置かれた状況に対する責任の所在ばかりを気にかけていたのだった…。

 そうしてようやっと…。

「…どう? 少しは…落ち着いた?」

 チハヤの慌ただしいしわぶきが静まり出した頃。人肌ほどに温めたミルクが入ったマグカップを彼女に手渡しながらわたしは尋ねた。――今にして思えばこの言葉はむしろ自分自身に向けたものだったのかもしれない。

 この時にはもう、わたしは彼女を部屋のソファに腰掛けてさせており、 

「ありがとうございます…」

 チハヤは力のない笑みを浮かべ、わたしからマグカップを受け取った。目尻にはまだうっすらと涙が残っていたし、背も猫背で、声も微妙にかすれていた。アルコール度数20以上の、それもストレートを一気に飲みほしたのだから、無理もないと言えるけど…。

 そして静寂が訪れた。

 何も気まずい沈黙というわけじゃない…。ただ、チハヤの喉を気づかったのと、彼女がミルクをひとくちでも飲むのを待ったこと。またわたしも…その間に腰を下ろして一息着きたいと考えただけのことだった。――わたしの手にはミネラルウォーターのペットボトル。

 ややあって、チハヤはようやく口にカップをつけた。

 こくこくと、チハヤの黄色い喉が静かに。何度か上下した。

 それを見守り、わたしも手にしたペットボトルを口につけ水を軽く流しこむ。

 冷たくやわらかな舌触りがゆっくりとしみていった。

 

「…私…どうすればいいか、わからないんです…」

 チハヤがポツリと、両の手に挟まったマグカップを見つめながらそう言った。しばらくのしじまと生ぬるいミルクはどうやらゲストの心を少なからずときほぐしたようだった。

 自白や告白などのを促す際には水を飲ませるな、真実まで飲み込ませるから――などとドラマでよく言ったものだけれど、その真偽はともかくとして、チハヤは、ミルクと一緒に蠢いていた感情も多少は飲み込めたのかもしれない。

「プロデューサー…との、こと?」

 なんとなく察して、わたしは言った。

「なんだ…。気づいて…らしたんですね…」

 チハヤは苦く、短く、笑った。視線は変わらずマグカップに注がれたまま。

「消去法」

 わたしは答える。

「わたしの知る限りのあなたって、仕事に対してそういうことは言わなそうだから…。仮に、仕事の出来栄え――あなたの自身の歌に何かしらを抱え、捨て鉢になっていたとしても、さっきみたいにお酒で…ってこともしなさそうだし。大事な喉を、歌を、駄目にしちゃうから。機会を逃しちゃうから」

 チハヤは否定しない。微動だにもしない。

「じゃぁ、お酒を飲みそうな…どうしようもないこと…思いあたるのはなんだろうって考えたら…あなたの身近にいる人、その関係、それも一番――しか、わたしにはなかったから」

 チハヤが再び、小さく笑った。

「私、プロデューサーとの関係…。大っぴらにしてるつもりはありませんでしたけど…」

 わたしは肩をすくめた。

「あなたがうまく隠しおおせていても」

 そしてため息ひとつこぼして、

「あの彼じゃ…というか、あれという人物的に、ヒミツにできてると、思う?」

 肩を竦め、おどけた感じに言った。

「ラカンやフロイトを真に受けた…それが最善と思ってそうな男なんだから無理に決まってるでしょう」

「なんですか…それ」

 ようやく。チハヤがこちらを見て、控えめであったが、明るく笑った。

 

 あけすけに言えば。チハヤ・キサラギとそのプロデューサーは男女の関係にあった。

 そして二人の関係はあまりうまくいっていなかった。

 いや、ちがう…。正確には、うまくいっているのだけれど、うまくいっていないのだった…。

 チハヤの半生は実に孤独と不信、トラウマとの戦いと言えた。

 幼い頃に弟を亡くし、それによる家族不和、癒せぬ傷と続く寂寥感。

 一時は友人すらおらず、どこに行っても孤立した存在であったらしい。

 しかし彼女が、芸能界へ足を踏み入れた――あるプロダクションに所属した頃から、チハヤの世界は色づきはじめる。動きはじめる。

 かけがえのない同輩、親友たち。次いでプロデューサーとの出会い。

 頑なだったチハヤの心も表情も、少しづつほぐれていき、ついには自然と笑えるようになったそうだ。

 プロダクションの仲間らと出会って一年以上(正確な期間はわからなかった)。プロデューサーと出会って、アイドルとしてデビューして約一年がたった頃だったという…。

 そしてチハヤは、

「私から…プロデューサーに…告白しました」

 チハヤがプロデューサーを心から信頼し、好意を寄せているのは紛れもない事実だと思う。何より、だからこそチハヤはプロデューサーと海外に――つまりはわたしの国へ――飛び出せたのであり、今も続いて二人離れずにいることからもその感情の深さは物語られている。

 けれどもチハヤは言った。

「どうすればいいか、わからない」と。

 いったいこれはどういうわけだろうか。

 チハヤはプロデューサーを信頼しているはずで。

 チハヤはプロデューサーを好きなはずだった。

 だというのに。わたしの目の前にいるチハヤは混乱し、鬱屈し、苦しんでいた…。

 好きであるならば、恋慕であるならば、情動の混沌はもっと違った形であらわれていたはずだ。

 そして。こここそに…。"うまくいっているのだけれど、うまくいっていない"が二人の関係あった…。

 

 繰り言になるけれど、チハヤの半生は"孤独と不信、トラウマとの戦い"だった。

それは彼女がものごころつくかつかない頃からはじまり、さらにそこに至るまでの幸せな思い出もあったという落差に、よりにもよって思春期をまたぐことでチハヤ・キサラギという人格をつくりだしていった。

 当時のチハヤが頑なで、異様なほど繊細だったのはここに由来し、根本として彼女は自分が大嫌いで、他者を信頼しにくい、孤独で未熟な少女だった。

 しかし。環境が。そして出会いが。チハヤを変えた。

 もしかすると…救った、という表現が正しいのかもしれない。

 けれども同時に――。

 ここに大きな落とし穴があることを、第三者は気づきにくにかった…。

 

 そう。チハヤは救われたのだろう。暗い暗いトンネルを抜け出せたのだろう。

 しかし彼女の暗闇は、トンネルは彼女が人生の大半を覆っていたのを忘れてはいなけない。なにより、彼女の性格や人格はこの期間に形成されたものであることも。

 であるならば、だ。

 たとえ仕事のためとはいえ接する機会が多かったとはいえ、たかだか一年程度の付き合いで、それも一回りも年齢が違う"異性"に、果たしてやすやすと思慕が目覚めるものだろうか。加えて下手をすれば、普通の好意が慕情へと変わる時間、またそれに気づくまでの間もあって、チハヤに用意された心変わりの期間はもっと短い。

 これが普通の、心と感情や家庭・環境に何かしらの痛手のない、純粋無垢な少女ならばわかる。そうであるならばストレートに、脇道それずに進むことができるから。

 けれどこの場合はチハヤだった。重い鬱積を抱えた少女だった。

 人の心は単純ではない。

 ペットロスト。友人や肉親の喪失。果ては食べ物の好き嫌いに至るまで。心に負った傷が何十年と癒えないなんてことはザラにあって、仮にその傷が癒えたとしても、きずあと(比喩)は残るし、癒えるまでの間、心身は(特にきっかけとなった物事へ)成長しにくい。

 チハヤは自身の経緯から、愛と感情に対してうとかった。

 そんな娘がたった一年(にも満たない期間)で心をあらため、異性に恋をする…。

 あまりにも荒唐無稽だ。

 何より、愛と感情へ半生目耳を塞ぎ拒否し続けていた未熟な少女の(人生)経験のどこに、ひとへ――それも一回り近く年齢が違う!――向けた好意を、愛だと、恋だと気づける情報が、体験があったというのだろう…。

 

 確かにプロデューサーへ、チハヤは信頼と好意を抱いたのかもしれない。

 しかしその信頼と好意を、チハヤは、錯覚してしまったのだった…。

 それはまるで…。暗闇から抜けた、まだ慣れない目で、明るい風景を見てしまったが如く。

 それはきっと。とてもとても。とてもとても。眩しかったのだろう…。

「私、だめなんです。彼のこと…好きなのに…。彼が私のこと、とても想っていてくれるのに…体が、それにつられて心も…拒否しちゃうんです…」

「…だから…アルコールを?」

「……」

 答えはない。

 チハヤは黙ってこちらを見た。

 

 結局、わたしはチハヤへ。関係についての、自身が抱いた結論を話していない。

 冷たいようだけど、これは彼女自身の問題であるし、なにより他人がどうこう言ったところで納得できるものじゃない…。  

 何より彼女は、

「でも…。飲んでも、苦痛なんです…。痛みも…体はなんともないのに…」

 とうにプロデューサーへ、身体を捧げていた…。

 求めてきたのはプロデューサーからであったという。

 もとより錯覚している少女。恥らいはあったけれど。愛を理由に拒否はしなかったらしい。

 わたしは深くため息をついた。

 ――…バカね…。

 人の肉体は正直だ。やりたくないことはしたがらない。

 チハヤ自身が行為に不慣れということもあったかもしれないけど、それを差し引いても、アルコールで誤魔化せない心身的苦痛は相当だ。(勿論、心理的拒否に限らない場合もあるのだけれど…)

 例えばチハヤの向けている好意は、実は肉親に向けるそれに近いものだったりするのかもしれない。

 こと女の身体のつくりは男のものよりずっと繊細だ。

 表層で抱いている"はず"の思いと深層にある実態との違和感がチハヤを苦しめているのだろう…。

「あ…す、すみません…。夜遅くにきて、へ、変なこと尋ねて…」

 ついついてしまったため息をチハヤはネガティブにとらえたらしかった。

 途端に顔を真赤にして、細かく身動ぎしながら、わたしに謝罪した。

 ――今更ながら、恥ずかしさが湧いてきたらしい。

 あなたについたため息じゃなかったんだけどとフォローしたくもあったけれど、一方で実際に深夜に訪問してきて話すことでもないので、特に否定もしなかった。

 その代わりわたしは、

「そういえば…どうして、うちに来たの?」

 と本来、真っ先に知っているはずであろうことを尋ねた…。 

 

 すぐに答えはなかった。

 チハヤはわたしからの問を受け止めると、なんとも思い倦ねた顔つきになって、手に持っていたマグカップを再び見つめた。そしておもむろに何度か指でカップの縁をなで、不意に、

「多分、懐かしかったんだと…思います…」

 と言った。

「なつかしかった…?」

 思わずわたしも聞き返す。

「昼間、マネージャーがわたしへ言ったことです」

 チハヤの視線があがり、ブラウンの両瞳がまたわたしをとらえた。

 それはかつて故国を旅立つ日のこととチハヤは語ってくれた。

「あの日。見送りにきた友人が、わたしへ、同様のことを言ってくれたんです…」

 わたしを見つめながら、わたしをとらえていない彼女の瞳は追慕に潤みながら、

「わたしのことを鳥だって…」

 とても幸せそうだった。

 

 結局のところ、わたしはチハヤへ言えることは何もなかった。

 彼女が背負った重さに対して、的確なアドバイスがまったく思いつかなかった(思いつくわけがない)…というのも勿論あったけれど。それ以上に、わたしが見て取った彼女の本質と、彼女に注がれる評価に抱くとものはとてもネガティブなものであったからだ。

 チハヤは請うように言った。

「だから…もしかしたら、私の今の、よくわからないわだかまりも…解決してくれるかもしれないって…」

 友人と似たような想いを述べたわたしへ…。

「私、ダメなんですっ。幸せにならきゃ…。そう決めたから、そう約束したからっ。そうならきゃっ!」

 

 けれどもわたしは、やはり運良く、そして卑怯にも大人だった。

 ただかよわく少女へ微笑み、何も語らずに、すべてをたたんだのだった…。

 ――聡い彼女を諦めさせるには言葉は必要なかった。

 

 静かな部屋。

 聞こえるのは規則正しい時計の秒針の挙動とわずかな衣擦れ。

 チハヤはとうに帰宅し、ひとりになった部屋で、わたしは深い息をつく。

 気分が重い。罪悪感、それとも後悔なのだろうか? 

 ソファに深く腰を掛け天井を見上げる。

 今日は、ひどく、なんだか疲れた…。

『あの…せめて、教えてください』

『どうして、私を小鳥って思ったんですか?』

 去り際の、少女の言葉がふと蘇えった。

 この時もわたしは、明確な答えを彼女に与えていない。

「バカね…」

 誰に言うわけでもないのに、わたしの口から言い訳がましい言葉が溢れた。

「言えるわけないじゃない…」

 ぼとり。

「何もできない、何も拒めない」

 ぼとり…。

「可哀想なあなただから……なんて」

 ぼとりと……。

 

 ―― …。

 

 繰り言になるけれど、わたしが彼女――チハヤ・キサラギを見つめるきっかけは、定かじゃない。ただ少女に注がれる周囲の評価はわたしのチハヤ観というものに一定の影響を与えたことは確かだった。そしてそのなかでも、チハヤに贈られたたくさんのファンアートたちは、彼女をわたしに「小鳥」という具体的なイメージ・形として連想させるに至った一因としてあった。

 チハヤに捧げられたすべての事柄は、「不器用」ながらも美しく「従順」な少女を象徴し、同時にそうであると、捧げた人々は思い、信じ、さらにそのものを愛した。

 生真面目な――。押しの弱い――。熱烈な――。etc――。 

 どんなすべてチハヤで、第三者からの愛だった。

 いやもしかするとそういうチハヤはいるのかもしれない。

 けれど。同時に。わたしは知っている…。

 これらはすべて、愛情という名の欲望で彩られた不思議な色であることを。

 少女の「不器用」さはそれを補う、絆を言い訳にした「束縛」へ。

 少女の「従順」さはそれを導く、立場を理由にした「服従」の裏返しであった。

 そもそもにおいて、チハヤが故国にある「絆」という文字・言葉の由来は「犬」や「馬」と言った、人にとって従順な家畜を"繋ぎとめる"・"束縛する"ためのロープからきているそうだ…。

 ことチハヤを愛する"彼"がこれをよく口にし、彼女との間柄を強調し、そうであるから「幸せだ」なんてめったに聞かないことを言ってくれるのは…、なんとも皮肉なものねとわたしは嗤う。――わたし自身も指さして…。

 少女は小鳥。彼女は青くて儚い小鳥。

 小鳥はお空をとべるけど 青い小鳥は檻の中。 

 ――ああ。

 檻は『愛情』

 扉は『優しさ』

 閂は『絆』

 ――誰もが見惚れる 豪奢な『住処』

 もしも彼女を 逃すまいと がっちり固めた。

 青い小鳥は 幸福に囲まれ 何処にも翔べない

 知ってるお空は 遠くの窓の 小さな小さなお空だけ

 

 

 少女は小鳥。彼女は青くて綺麗な『小』鳥。

 小鳥は羽根で羽ばたくけれど 青い小鳥は羽ばたけない

 ――ああ。

 青い羽根は 何も拒めない

 青い羽根は 何もつかめない

 青い羽根は 何も動かせない

 ――だって ただの『羽根』だから。

 もしも彼女に 両の腕があったなら

 狭い檻なんて とっくの昔に旅立っているのに… 

 青くて綺麗な 両羽根は ただただ人を魅せるだけ

 

 

 少女は小鳥。彼女は青くて瀟洒な小鳥。

 小鳥は元気に囀るけれど 青い小鳥は清亮に囀る

 ――ああ。

 嘴は 唄うことを許した

 嘴は 意志を示すことを許さない

 嘴は 彼女をとても無口にした

 ――だって 鳥は喋れない

 もしも彼女に 力強い口があったなら

 ただ只管に 青い小鳥であることを とっくの昔にやめただろうに

 わたしは ここよ ここからだして。

 

 

 そして。その身体はどこにも逃げれず。

 そして。その羽根はなにも拒めず、誰もつかめず。何も選べず。

 そして、その嘴は自分の思いを喋れない。

 

 だから彼女は青い小鳥。

 儚く綺麗で瀟洒な青い小鳥。 

 ああ…。

 

 多分。

 彼女は幸せになるのだろう…。

 

 けれど、少なくとも――。

 

 それを成し遂げるのは、わたしではないし――。

 

 ましてや。

 ましてや彼――。

 

 …。

 

 プロデューサーでもない。

 

 友人からは月に一度のペースで便箋がくる…。

 E-mailや電話でいいのにと一時(いっとき)はそう返していたものだけれど、こっちのほうが気持ちが篭ると彼女は(文章で)言い張って便箋を送るのをやめなかった。

 もしかすると、機械に疎い私への気遣いもあったのかもしれない。

 

 友人からの便箋は私の宝物だ。

 内容は彼女とかつての一緒に舞台にたった友人たちの日々の出来事を綴ったものが殆どで、あまり気にかけることでもなかったけれど、遠く離れた今となっては、どんなことでも嬉しかった。

 彼女はいつも何かしら写真をいれてくれた。

 同プロダクションの仲間たち。自分が撮ったお菓子や人形、どこかの風景。

 でも決して自分自身のを、どうしたのか、送ってくれることはなかった…。

 

 もうだいぶ、あのこの顔は…記憶と夢のなかでぐらいしか出会っていない。

 

 便箋はクリアファイルに。写真はアルバムに。すべて大事につづっている。

 いやになったとき。耐え切れなくなったとき。わたしはそれらと自分の記憶――旅立ちの日のこと――を開いて、自分自身を元気づけた。

 多分、これからもお世話になるだろう…。

 

 ああ。懐かしい声が聞こえた。

 

 ええ。そうね。そうよね

 私は幸せになれる。幸せにならなくちゃ。

 あなたと約束したんだもの。

 あなたができると言ってくれたんだもの…。

 

 ―― だから…。

 ―― 千早ちゃんはね…。

 ―― きっと…。

 ―― きっと…。 

 

 ねぇ…。春香。

  

 ―― 幸せになれるよ。

 ―― だって青い鳥は幸せのシルシなんだから…。

.

 

 
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