No.420614

三題噺『過去』『雨上がり』『虹』

投稿85作品目になりました。
最近書いてた、文芸サークルの原稿です。次の作品と一緒にどうぞ。
感想、よろしくお願いします。

2012-05-09 17:39:03 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:4866   閲覧ユーザー数:4329

寝起き、窓越しに見る曇天の空ほど、心を削ぎ落とすものはない。少なくとも、俺はそうだ。

鈍色の天井は今にも零れ落ちてきそうな怪しい雲行き。窓を開け放ってみると空気が湿っており、路面も真黒に濡れている。どうやらこの分厚い積雲は、俺が眠っていた間に一仕事終えているようだ。これから綺麗に晴れ渡るのか、それとも鈍重に膨れ上がるのか。それによって今日の持ち物に一つ、中々に嵩張る必需品が加わるか否かが決まる訳だが、俺の懸念はそれだけではなく、

「……憂鬱だ」

思い出したくもない事を、この空模様は思い出させる。両腕の中、降り注ぐ冷暗な雨粒に奪われていく体温。どれほど抑え込んでも溢れ出て、洗い流されていく緋。脆弱な最期の声を掻き消す雨音が苛立たしくて、腹立たしくて、仕方がなかった。無力を噛み締め、思い知らされ、叩きのめされたあの日、俺を構成する全てが崩壊した。世界が奈落に突き落とされ、深淵へと堕ちていく。黒より黒い場所へ。闇より暗い場所へ。

消えた。無くした。失った。亡くなった。

あれほど悔んだのは、あれほど憤ったのは、あれほど悲しんだのは、あれほど苦しんだのは、後にも先にもあの一度限りだろう。そうであってくれと、切に願う。

「…………」

疼く。痛む。蠢く。苛む。頭蓋の奥。脳髄の底。疵のない傷。跡のない痕。ずきずきと。じくじくと。きりきりと。じんじんと。

汗が滲む。肌に張り付き、大気に触れ、急速に冷えていく。視界が滲む。脳裏に焼き付き、根幹に触れ、急速に昇ってくる。

身体を丸めて視界を断つ。網膜への光を瞼で遮断し、鼓膜への音を掌で遮断し、自分という殻に閉じこもる。

どれほどそうしていただろう。何秒か、何分か、流石に単位に『時間』を必要とするほどではないだろうが、経過の基準が解らないため、判別のしようがない。顔を挙げても、曇天は相変わらずだった。何か変わる訳でもない。何が変わる訳でもない。無為に、無駄に、無心に、無限に、ただただ時間が過ぎていく。あまりに無色で、無機質で、無味乾燥。

生涯続くであろうこの灰色の朝に、どうして慣れる事が出来ようか。失って初めて知る大切さでも胸が締め付けられるのならば、大切だと知っていて尚、失った悲しみは、

「……畜生」

世界と自分が切り離されたような、世界に自分が置いて行かれたような、そんな錯覚。空間、次元、時流、何もかもが異なっているようで、さながら自分が幽霊にでもなったかのように思えて、

「だったらいっそ、どれだけ楽だろうな」

三途の向こうに会いに行ってもいい。その辺を徘徊しているかもしれないし、自縛霊にでもなっているかもしれない。

「……いや、アイツに限ってそれはないか」

想像してみてはみたが、余りに似つかわしくなくて自嘲する。そんな馬鹿げた考えが浮かぶくらいには落ち着いて来ているようだ。

と、

「……お」

微かな切れ間、伸びる光の筋。それを皮切りに、次々に大地へと差し込まれていく、細く長い山吹色の柱。優しく暖かなそれはゆっくりと広がっていって、

「…………」

壮観だった。カメラが手元にないのが悔やまれるほどに、それは素晴らしいの一言だった。明けの日差しが絵具となり、風景と言うキャンバスに幾重の筆を落としていく。彩られた街並みは鮮やかな煌めきを帯びて、先程とは真逆の意味で、別世界のように見えた。

そして、

「…………」

言葉は要らなかった。というよりも、発する事が出来なかったと言う方が正しいか。立ち並んでいく光の並木の間、縫うようにアーチを描いた七色の橋。光の分散が生み出す自然の造形美。直訳で『雨の弓』となるそれは、地平を弦として真っ直ぐに天を向いていた。

「虹……」

こんな早朝から拝める日はそうそうない。それも、これほどまでに鮮明に、その姿を見る事の出来る日など。絶景。その一言に尽きる景色を目の当たりにすると、人は記録に残そうという考えに至ることすら忘れるようだ。

「……お前、なのか?」

下らないと、有り得ないと、解ってはいる。しかし、ほんの微か、芥子粒程でも、頭を過ってしまった。これはきっと、お前が見せてくれたのでは、と。

「……あぁ、解ってるよ」

死ぬ気など、増してや自ら命を絶つなど、考えはしても実行などしやしない。何より、誰よりも生きる事を望んでいたお前に対して失礼も甚だしい。どれほど悲観だろうと、どれほど諦観しようと、どれほど苦悩しようと、どれほど後悔しようと、

「生きるさ、最期まで。お前の分まで、な……」

灰色の朝に、俺は初めて笑った。雲の向こう、太陽の中で、アイツが笑ってくれたような、そんな気がした。

 


 
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