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愛と友、その関係式 21~24話

紫虎さん

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2012-03-12 15:49:40 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:487   閲覧ユーザー数:482

 

愛と友(ゆう)、その関係式

<下>終始

 

第二十一章 かっこ悪くても

 

 春から夏へ、季節は何の迷いなく巡る。今だって人知れず梅雨はただひたすらに季節を刻んでいく。ときは六月中旬。姫条まどか、十八の誕生日があと数日に差し迫る――初夏。

 

 ”本当に気づいてないの? ごめん、何でもない――。……いえない。まだ、いえないよ”

 屋上の給水機の陰で空を見上げると、泣きそうに震える声が蘇った。――空は気持ちを映す鏡のようにどんよりと雲っている。

 あの日から、ふらりと授業を抜け出して屋上で空を見上げるのは姫条まどかの日課になっていた。いや、日課というほど時間は経っていないが、やけに遠い出来事のように感じていた。

 あれから、姫条まどかは小波美奈子と目を合わせていない。目を合わして口を開けば、美奈子の全てが手のひらから零れ落ちてしまう気がした。

 高校二年の冬、美奈子は緊張した面持ちで姫条へ自らの想いを打ち明けてきた。そのとき、美奈子の気持ちの全ては姫条の手のひらのなかに確かに存在していた。

 ――手を閉じれば、零れ落ちはしなかった? 彼女を引き寄せ抱きしめれば、気持ちが揺らぐこともなかった?

 疑問は形を変えて自分を責める。しかし、あの冬も今も答はあれしかなかったのだと理解していた。

 思えば、美奈子の存在で変化していく自分を姫条はいつも怖がっていた。同じように、美奈子もいつも緊張して姫条を見上げていた。

 初めて美奈子に声をかけたときも、初めて美奈子が電話をかけてきたときも、初めて二人ででかけたときも。

 姫条は怖がる臆病な自分を隠して、美奈子は美奈子で隠せないままいつも姫条に遠慮して――お互いに、とても不器用な恋だった。

「なんや、もう過去形かいな」

 思わず苦笑いを零す。

「せやかて、仕方ないやんなぁ……」

 空から目を離し、ごろりと寝転ぶ。給水機の影に冷やされたコンクリの床が心地よい。目を閉じると、美奈子の声が聞こえた気がした。

 ”姫条くん、あのね”

 美奈子が姫条へ好意を抱いていると知ったのは随分と前のことだ。気づくのは容易かった。姫条の今までの経験上、それから美奈子の態度。何から何まで解りやすかった。

 知っていて逃げ続けたのは姫条自身。今だって、美奈子から逃げようとしている。これまでとは反対の意味というのが何とも皮肉がきいていた。

 しかし、いつまでも逃げていられない。ここ数日の姫条の美奈子を避ける不自然な仕草を、いつまでも気づかないでいるのは難しい。

 姫条は目を開けると立ち上がった。遠くで雷の音がごろごろと低く唸る。重い雲はますます空を黒くした。

 

◆◇◆◇◆

 

「今日はここまで。大雨警報が出ているから河川には近づかないように。では、解散」

「おつかれさまでした!」

 バスケ部監督を中心に円陣をくんでいた男子バスケ部は、一斉におじぎをした。

 監督が体育館の扉の奥へ消えると、男子バスケ部の面々は一斉に帰りの準備をし始めた。マネージャーである紺野も同じで、足早に更衣室へ向かった。ここ最近はますます鈴鹿と顔が合わせづらく感じていた。理由はやはり美奈子に他ならなかった。

 手早く帰りの準備を済ませて、外靴をはく。外へ出ると、監督の言葉通りバケツをひっくり返したような大雨が降っていた。

 紺野は焦らず、自身の傘を空へ向かって広げるとどしゃ降りの中を歩きだす。

「――!」

 と、校門に近づくと傘をさす人影が一つ見えた。

 バスケ部で一番に出てきたのは紺野である。なら、校門に立っている人影は部活終わりの誰かを待っている、ということになる。そして、数ある運動部のなかでインターハイ出場が濃厚であるバスケ部の終了がいつも一番最後で、今日もそうだ。

 だから、待っているとすればバスケ部の誰か。

 そこまで推測したところで、傘に隠れた顔が明確に見えてきた。その顔には見覚えがあって、紺野は驚きのあまり息をぐっと詰まらせた。

 ――姫条くん。

 もしかしなくても、美奈子を待っているのだろう。

 紺野は横を通り過ぎながら軽く会釈する。

「珠美ちゃん」

 と、予想外に名前を呼ばれた。立ち止まり見上げると、姫条は困ったふうに微笑んでいる。

「……あ、美奈子ちゃん? えっと、まだ体育館だと思う」

「ちゃう。……えぇっと、な。用があるのは、自分なんやけど」

 姫条にしてはとても歯切れが悪い。姫条の指が向けられているのは紺野だ。

 ややあって、紺野は遅い反応を返した。

「私?」

 こくりと一つ姫条が頷く。

「なんで……」

 予想外の誘いに一瞬戸惑ってから、直ぐに気づいてはっとした。途端、気分が沈んで紺野は暗い顔を浮かべる。

 姫条も紺野の気持ちを察して俯いた。

「ほんま、ごめんな」

 二人とも口を結ぶ。静寂のなか、雨の音がやけに耳につく。

「――こんな雨やし、のみもんくらいなら奢るで。どっか喫茶店でもはいろうか、って……ええかな?」

 紺野は姫条を再び見あげた。

「……うん」

 

◆◇◆◇◆

 

 雨から逃れるように喫茶店のなかは人で賑わっていた。静けさを求めるように、店の隅の席へ紺野と姫条は腰を落ち着けた。外はあいかわらず止む様子のない雨。

 雨音に紛れ込ませるような内緒話。

 鈴鹿和馬と美奈子に関する紺野が知りえる話、その全てを話おえて紺野は大きく息を吐いた。

「――すまんな。こんなこと根ほり葉ほり聞いてまって」

「いいの」

 話したのは美奈子や姫条のためじゃない。鈴鹿の、もしかしたら藤井のために少しでもなる可能性があるからだ。

 紺野は悲しそうに微笑む。

 姫条はがりがりと頭をかいて、それから雨が叩く窓を見た。

 たらりたらりと筋を作って落ちていく雫、何筋かを見送ったあと姫条は口を開いた。

「――珠美ちゃんは、ええの? これで」

「姫条くんこそ。……でも、私はとめないね。だって、その方が和馬くんも奈津実ちゃんも幸せになるもの」

「みかけによらず、したたかやんな」

「……うん、これが和馬くんがくれた強さだから。ただ好きなもののためだけに真っ直ぐに強く」

 紺野はすまし顔で注文したアイスミルクティーを口に含んだ。

 姫条は目を見開いて、紺野をマジマジと見つめた。探していた答が見つかった気がした。そして、それは必ずしも幸せな結末ではない。いや、体育館裏の会話を聞いた時点で予想はできていたのだ。自分の幸せと彼女の幸せがイコールではないなんてことは。

 足りなかったのは覚悟の決め方だ。

 そして――探していたのは、彼女の愛し方。自分が変わるばかりで彼女に何ができるかを、無意識に不安に思っていた。彼女にできること、ようやく見つけた。

「こんなこと、姫条くんには辛い言葉かもしれないけどね。美奈子ちゃんの姫条くんへ向ける気持ちは、憧れだと思うんだ。……私も同じだから、解るの。和馬くんが眩しくて、ずっと見つめていたいそんな気持ち。でも、美奈子ちゃんと和馬くんは始めから今まで――」

 姫条は自分の唇に人差し指を押しあてて、言葉の先を制した。

「そんなん言われんでも。……本人も薄々気づいてるんちゃうか。それから和馬も」

 わざわざ鈴鹿が好きそうな場所を避けるのも、学校で本人を完璧に避けきってしまうのも、究極は意識しすぎているからだ。そして、不自然なことを不自然だと認めないのは、過剰に意識していることを自覚したうえで悟らせまいとしているだけに他ならない。

 過去に至っても、考えてみれば思い当たる節は沢山あった。

 鈴鹿が美奈子へ好意を向けていたのも知っていた。つい数ヶ月前だけど。

 美奈子の鈴鹿と浮かべる笑顔が一番美奈子らしい笑顔だと知っていた。

 自分が恋愛事に未熟なように、鈴鹿はもちろんのこと、美奈子だって未熟だと考えつかなかった。

 自分だってようやく答が見つけられたのに、どうして美奈子や鈴鹿を責められるだろう。特に鈴鹿は姫条の態度がはっきりしないことを知りながら、それでも尊重しようとしていた。

「……あぁ。そうやな」

 姫条は立ち上がった。鞄と伝票を手に持つ。

「今日はおおきに。訊きたいこと訊けたし、良かったわ」

「ううん。私こそ――あの、ごめんね? こんなこと、本当は姫条くんに言わないほうが良かったんだろうけど」

 姫条は首を横へ振った。

「いいんやって。俺が聞きたかってん、珠美ちゃんはわるうない。それにケジメはつけんとあかんからな」

「――?」

「なんでも。さ、こんな天気や。家まで送るで」

 姫条は晴れやかに笑った。窓を叩いていた雨は、ようやく勢いをなくして緩やかに土へ還っていった。

 

◆◇◆◇◆

 

 翌日、昨日の雨が嘘のような青空が広がった。

 放課後、姫条はバイト先へ顔を出すと預かってもらっていたバイクを受けとり、数日分の休暇の申請を店長へ提出した。

 店長は不思議そうにしていたが、男の事情は訊くもんじゃないと何も訊かずに許可してくれた。

 バイト先から再び学園までバイクを走らせる。

 校門へつくとちょうど部活動終わりの時間。姫条はバイクを校門の影におくと静かに美奈子を待った。帰っていく生徒達はバイクを珍しそうに横目で眺めて通り過ぎていく。何人かが校門を過ぎったあと、ようやく美奈子の姿を見つけて手を振った。

 美奈子は目を丸くして、慌てて姫条のほうへ駆けてくる。

「姫条くん、待っててくれたの?」

「まぁ。でもな、ここに着いたのはついさっきやから気にせんといて」

「そう?」

 美奈子が不安そうに首をかしげた。

 姫条は喉の奥で笑うって美奈子の頭を撫でた。美奈子はますます困惑顔だ。

 姫条は何も答えなかった。気の済むまで撫でて、それからバイクへ戻ると持ってきていたヘルメットを美奈子へ投げた。

 美奈子は慌ててそれを受け取る。

「かぶって。美奈子ちゃんに、これから見せたいもんがあるんや」

「免許、とったの?」

 姫条のバイクを見るのは一年と少し前ぶりだ。前にみたときも、校門で目をキラキラと輝かせてこれからバイト先にいくんだと言っていた。そのときは確かまだ免許をとってはいなかったはずだ。

「おお、一年前にな。それで、ようやく一年たって自分を乗せて走れるようになったってわけや。ちなみに、そのヘルメットは中学のときの俺の」

 姫条が投げたヘルメットを指さす。

 美奈子がマジマジと見ると、確かにヘルメットには所々に擦り傷がある。

「で、これが先輩。なつかしなぁ」

 バイクにかかっていたもう一つのメットを出して、姫条は目を細めた。

「ま、昔話したかったんやないし。ほら、いこう」

 姫条は美奈子の手にあるメットを美奈子の頭に被せて、顎紐を優しくとめる。それから、自分が持っていたメットを被ってバイクにまたがった。

「うしろ。ここ」

 美奈子は促されるままに姫条の後ろに座る。

「ちゃんと掴まってな。何かあったら、服の端を軽く引っ張ってくれたらええから。それから……マフラー、そうその排気口には気をつけてな。――ほな、いくで」

 鍵を回してアクセルを軽く回す。ぶんと空気が唸って、金属の身体が大きく震えた。

 美奈子は少しだけ怖くなって、姫条の腰へ抱きついた。

 前へ引っ張られる感覚がして、ふっと後ろへ引っ張られる感覚。それからまた前へ。

 美奈子がおそるおそる目を開けると、景色は流れだしていた。

「わぁ――」

 バイクの後ろに乗ったのは初めてで、風をきる気持ちよさに美奈子は思わず感嘆した。

 景色は流れていく。建物、人の波、電車――。走る車の数が少なくなると、大きな道に出た。やけに仰々しい大きなガードレール、その先には一面の海が広がっている。海沿いの道へ出たのだ。

 いつの間にか太陽は海に寄り添おうと熱く身を焦がし、世界を赤で埋めつくしていく。

 美奈子は息を呑んだ。

「綺麗」

「あぁ――綺麗や。すごく」

 ぐっとバイクを傾けてカーブを曲がる。

 ――まるで風になったみたい。

 美奈子は目を閉じた。

 

◆◇◆◇◆

 

 急激に進んだ開発の影で、忘れ去られてしまった海岸沿いの岬にある展望台。いつ見つけたのか、姫条のバイクが止まったのはそんな場所だった。

 柱と屋根だけの木製で簡素な展望台の天井を見上げると、お約束のように沢山の相合傘が彫られている。

 美奈子は楽しそうにしばらく天井を眺めて、思い出したかのように姫条へ振り向いた。

「そういえば、見せたいものって?」

「ん、そうやなぁ。いうなら、あれ?」

 言って、姫条は展望台の後ろに見える真っ赤な海を指さした。

「実をいうとな、一回くらいは美奈子ちゃんを後ろに乗っけたいだけやってん。思い出作りっていえば、なんやきまらんけど」

「一回? 思い出づくり?」

 照れたふうに後頭部をかく姫条とは裏腹に、言葉の不自然さに美奈子の顔は強張った。

「そんな顔せんで。な?」

 美奈子の目は大きく見開かれ、不安げに揺れた。

 誘われるように、姫条の決めたはずの覚悟が揺れる。自分自身のためにも、もっと納得のできる理由づけが欲しい。――いや、このままではあまりにも乱暴な結論づけで、

自分が勝手に決めつけてしまっているのではないかと。

「……そうやな」

 姫条は腕組して空を見あげた。

「俺、ずっと返事をせんかったやろ。んで、ようやく答を見つけてん」

「答?」

「おぉ、だから――今度は美奈子ちゃんに訊いてええ? それで、真剣に考えてほしいんや。誤魔化しとか、その場しのぎとかちゃうで、ちゃんと」

 姫条は美奈子の前に立つと、その両肩をぐっと掴んだ。真っ直ぐに美奈子の目を見る。

「美奈子ちゃんが好きなんは、本当に俺か?」

 

◆◇◆◇◆

 

 何となく違和感はあった。

 とても些細な違いだ。ほんの数日だけ、真っ直ぐに目を合わせてくれなかった。ただ、それだけ。

 何があったのか?

 訊けなかった。訊けば、自分のなかにある違和感を聞き返されそうで。

 そして、今。久しぶりに合わさった姫条の視線は、とても強く慈愛に満ちていた。

 ――美奈子ちゃんが好きなんは、本当に俺か?

 ひゅっと空気が通った喉が鳴る。背筋が凍った。

「……え?」

 ひどく間抜けな表情を浮かべているんだろうと感じながら、湧き上がる感情が困惑なのか悲哀なのか解らなくなる。

「なんで、そんなこと訊くの?」

 問いに、姫条は悲しそうに微笑んだ。

「私は……屋上で、姫条くんに想いを伝えたはずだよ。なのに、どうして? 私は振られたって、こと?」

 姫条はふるふると首を横に振った。

 姫条にこんなことを言わせてしまった。その事実が、美奈子の中を自分に対する嫌悪感で埋め尽くしていく。しかし、どうすることもできなかった。

 姫条と出会って二年越しの想い。それをほんの一言で片付けてしまうなんて、到底認められるはずがない。

「じゃあ!」

「美奈子ちゃん」

 少しだけ語気を強めて、姫条は美奈子を制止した。美奈子はびくりと震えて、姫条を見あげた。

 反転、姫条は優しく微笑んだ。

「大事なことや。言うたやろ、俺は自分にはいい加減なことをしたくなって。好きなんや、だから――」

 姫条は言いよどんで俯いた。ほどなくして、再びあげられた顔は今までにないくらい真剣で何処か照れたように頬を赤くしていた。

「なら、賭けをせんか? ――俺はこれからお前にキスをする。もし、拒まんのなら俺はもう何も言わんし気持ちを疑うような真似もせえへん。さっきの言葉も謝る。だから……そんときは改めて俺の彼女になってくれ」

 ――もし、できなかったら?

 魔が差すように美奈子が美奈子に問いかけた。美奈子は迷いを振りきり、静かに頷き目を閉じる。

 掴まれた両肩に、姫条の指先の力を感じた。姫条の香水がわずかに強くなる。近づく気配を感じて、頬に姫条の髪があたった。

 ――キス、しちゃうんだ。

 美奈子のなかで美奈子がぽつりと呟いた。蘇るのは、公園で見た鈴鹿の姿。

 ――どんな感じ? ――どんな気持ち? 嬉しかった? それとも緊張した? ――ねぇ!

 その瞬間、パンと胸の中の何かが弾けた。

 苦しくて息ができない。身体の奥からこみ上げたものが、目頭を熱くする。

 ――そうか、私。和馬が……。

 息苦しくて、美奈子は堪らず結んだ唇を開いた。すると、開いた隙間から熱い何かが流れてきた。

「……あ、あれ? なんで……涙なんか」

 驚いて、美奈子は目を開く。と、同時に目の前にいた姫条は笑って、唇じゃなく美奈子の片頬へ唇を落とした。まるで涙を拭うように。

「はぁ、やっぱあかんかったか。好きなんやろ、あいつが」

 姫条は身を離す。

「ごめん」

 美奈子は流れる涙をとめようと、必死に瞼を指先で拭う。しかし、涙はせきをきったように止め処なく溢れていった。

「無理して止めようとせんでもええ」

 姫条は美奈子の頭を撫でる。

 ――自分で認めようとしなかったせいで、姫条にも辛い役回りをさせてしまった。

 それでも姫条は優しくて、ますます涙が溢れてきた。

「ごめん」

「あやまらんで。俺、美奈子ちゃんのおかげでようやく気づけたんや。人が人を好きになるっちゅーことがどういうことか、親父とおふくろのことも。こんなんなるまでかかったけどな」

 姫条は撫でていた手を止めると、代わりに美奈子の腰に両腕を回して抱きしめた。

「でも、私」

「ええから、もう何も言うな。……ちゃんと意味はあったんや。だけどな、これだけは最後に許して」

 美奈子の頭を胸に押しつけ、耳元へ唇を寄せる。

「好きやった。……おおきに」

 

◆◇◆

 

 美奈子が泣きやむのを待ってから、姫条は美奈子を家まで送った。

 日はとっぷりと暮れて、あたりは暗くなっている。姫条は美奈子のかぶっていたヘルメットをしまいながら、口を開いた。

「これから、どうするん?」

「少し……考えたいの」

 美奈子は真っ赤に腫らした瞼で俯いて、じっと地面の足先を見つめていた。

「さようか。あ、いうとくけどアイツに伝えたるサービスはせえへんからな」

 姫条が冗談交じりに言うと、美奈子は小さく笑う。

「うん。解ってる」

「応援もせん。自分で頑張るんやで」

「……うん」

「よし。ほな、俺はこのへんで」

 姫条は再びメット被りなおすとバイクでまたがった。エンジンをかけると、ぶんと空気が唸る。

「姫条くん! ……あの、ありがとう」

 背中にかけられた声に、姫条は軽く手をあげて応えるとアクセルを回して夜の街へ走りだした。

 

 ――結局、鈴鹿と紺野が付き合っていないと美奈子に教えることはできなかった。

 それが、嘘偽りのない想いの証明のようで、姫条は笑った。

 ぐんぐんと街灯が残光を残しながら消えていく。

 気づいたら、少し涙ぐんでいることに姫条は気づいた。

「ハハ、かっこわる」

 知っていたはずなのに、改めて知った。

 小波美奈子を幸せにしたかった。それが小波美奈子でないといけない理由。そして、それを愛と呼ぶことに。

 その感情は、今までの自分からは考えつかない奇跡であることは間違いない。

 大丈夫、これからもちゃんとやっていける。ちゃんと逃げずに前へ進める。

 姫条は夜の闇の奥のもっと先にあるものを真っ直ぐに見つめた。

 

◆◇◆◇◆

 

 翌日――、姫条まどかが学校とバイトを休んで訪れたのは、母親の眠る墓標だった。

 久しぶりに帰ってきた地元は、あの頃と何も変わっていない。

「――ただいま、おふくろ。しばらく帰ってこれんくてすまんかった」

 物言わない墓石に語りかける。

「ここらへんは何も変わってへんな。……ここも、綺麗なまんまや」

 座り込む。姫条の言う通り、墓石は綺麗に磨かれていて回りに雑草の一つの生えていない。そして、供えてあるのは母親の大好きだった花の束とお菓子。

「めっちゃ愛されとるやん……、親父のアホがキザったらしい」

 誰が墓の手入れをしているかなんて一目瞭然だった。

「誰も手入れせんかもって、不安だったんやけどなぁ。……あぁ、アホは俺や」

 がしがしと後頭部をかく。少し照れくさそうに鼻頭をかいて、姫条はぽつりと呟く。

「おふくろは、ちゃんと幸せやったんやな? 親父のこと好きやってんな? ――俺もな、幸せにしたい女がみつかってん。だから、ほんの少しだけ親父の気持ちがわかって。なぁ――ずっと心配かけてたよな。ほんま、すまん」

 姫条は懐から”はばたき市銘菓”を取り出すと、そっと墓前へ置いた。

「しばらくはあっちで頑張るな。親父をこえて、おふくろよりエエ女みつけて親父より幸せにしてみせたる。ほな、また来るわ」

 姫条は手を合わせると、立ち上がった。

 と、墓を出て十メートルほど歩いた所でスーツを着た見覚えのある男に声をかけられた。確か、父親の会社の右腕だったと姫条は記憶している。

「若。帰られはったんですか」

「若はやめぇって。まあな、墓まいりでちっとな。でももう帰るわ」

「そうですか……。あの、若。おやじさんのこといい加減許してやってもらえんでしょうか。おやじさんは、うちら社員全員の生活も守らなあかん立場のお方や。おやじさんだけ悪いんやない。おやじさんだけが責を受けとるなら、私も――」

「俺と親父の問題や」

「若の気持ちは痛いほどわかります。けど!」

「もう、ええって! そのことは……もうな、ええんや。ついさっき、おふくろの墓みたら綺麗やったわ。どうせ、俺がここにおるときは俺の気の済むようにやらせえ言われとったんやろ?」

「お墓の管理はおやじさんが全てやっとることで、今まで他人に触らせたことは」

「せやから、わかっとるって。だから余計に腹がたつんや。親父の手のうえで転がされとったみたいでな。だから、俺は親父のうえをいかなあかん。今度は違う意味で親父をこしたる」

「……若」

「だーかーら、若ってのはやめぇ! 俺が俺の会社でっかくして、そしたら親父の会社を奪うんやからな。余計な心配は無用じゃ」

 びっと人差し指をつきつけ、それから小さく笑い踵を返して手をあげる。

 もう姫条を止める声はしなかった。

 姫条は駐輪場に止めてあったバイクへまたがった。ふと気がついて携帯を取りだす。電話帳から呼び出したのは、父親直通の電話番号だ。

 今改めて考えると、何だかんだと理由をつけて登録を抹消しなかったのはこうなる日を心の何処かで望んでいたからかもしれない。

 通話ボタンを押す。

 何コール目かに、ぷつっと繋がる音がした。こちらからかけたのは初めてで、もしかしなくても、驚き戸惑っているのかもしれない。電話向こうの声は無言だった。

「……親父か? 俺や」

 長ったらしい沈黙の後、父親は低く”ああ”と返した。その短い言葉に、どんな感情が含まれているのか姫条には想像できなかった。だが、反対に父親だって姫条の心境の変化など想像できないでいるのだろう。そう思うと、妙に安心した。

 そして、改めて思い知る。口にしなければ何も伝わらないのだと。

 それを知っていたのは母親だけで、父親も自分も何も口にできないで疑念だけを深めていった。

「――元気でやっとるんか?」

「ぼちぼちな」

「そうか」

 電話先の父親は短く息を吐く。ほんのわずかだが、それが安堵の息だと姫条は気づく。

 少しだけ父親に歩み寄れた気がした。

 ――今はこれだけやけど、十分。

「まあ、そんな感じや」

「お、おい」

 電話を切ろうとすると、父親が慌てて声を発した。父親は少しの間を置いて、照れたように小さな声で呟く。

「……誕生日おめでとう」

 ほんの少しの歩みより。それは父親とて一緒のようで。

 互いが完全に分かり合えるには長い年月が必要だ。だが、それは永遠にこない日でないことを知った。

 

22話へ続く

愛と友(ゆう)、その関係式

<下>終始

 

第二十二章 代償

 

 藤井奈津実は昼休憩、夏の廊下を早足で歩いていた。目指す教室はただ一つ、小波美奈子の教室だ。

「小波美奈子いる!」

 ばんと教室の扉を開け放ち、言い捨てる。

 各々が好き勝手に昼休憩を堪能していた教室はしんと静まり返り、藤井に視線を集中させた。それから、呼ばれた生徒――美奈子が立ち上がる。

「……なに?」

 何処か覇気のない顔をして美奈子はぼんやりと藤井を見つめた。

 イライラした。何かがあったという紛れもない証拠だからだ。

 藤井は美奈子へ近寄ると手首を掴んだ。

「ちょっときて。話があるから」

 返事を待たずに藤井は歩きだす。美奈子は抵抗をせずに、いや抵抗する力がないのか脱力して引っ張られるまま歩き出した。

 しんとした教室を後ろ背に二人は教室を出る。

 しばらくして、教室は再び元の騒ぎを取り戻す。数人の生徒が興味深そうにひそひそと噂話を始めるが、やがてそれは数分も経たないうちに別の話題に変わってしまう。

 そんななか、ただ一人。藤井と美奈子が出ていった扉を心配そうに見つめ続ける男がいた。

 葉月珪だ。

 葉月はしばらく無言で扉を見つめて、そして、意を決して立ち上がった。それから、誰にも気づかれないようにそっと教室を後にした。

 

◆◇◆◇◆

 

 姫条まどかは、数日前から学校を欠席したいた。私立のばか高い授業料を数日分といえど無駄にするなんて、もったいないといつも言っている貧乏性の彼にしては珍しい出来事だ。だが、無断欠席ではないので一般の生徒達が不審に思うことはない。そう、ただ一人を除いて。

 その一人は藤井奈津実だった。

 いつも姫条を見ていた。姫条が何を考えているか、何を見ているか、何に耳を澄ましているか。何を感じているか。愛情ゆえに必死で理解しようとしていた。

 だから、姫条が休む前から様子が少しおかしかったことに気づけた。そして、裏付けるように盆でも何でもない時期の姫条の休み。

 そのとき初めて、姫条が人前で滅多に弱味をみせないことを藤井は知った。そして、それが姫条の故意であったことも。

 姫条はいっそ異常だと思えるほど、自分の弱味を人に見られること悟られること言い当てられることを避けていたのだ。それは巧妙で、実際、姫条が何かを思い悩んでいるなんて他の誰も気づいていない。

 藤井とて、同じだ。姫条に何処か陰があるのだと気づいたのは数日前で、それまでは周りと同じように姫条に迷いや悩みなどないのだと思っていた。

 明るくて誰にでも優しくて完璧な、だけど人間くささを忘れない藤井からしてみれば理想的な”人間”。しかし、どうやらそれは思い違いで、姫条とて藤井と同じ人間で完璧とは程遠かった。

 美奈子は知っていたのだろうか? 姫条は同い年で十代の高校生で、悩みもあって強くもなくて――。

 ……だが、それは愚問でしかない。

 姫条の弱味の存在を、藤井に気づかせる要因を作ったのは他でもない美奈子なのだ。美奈子だけが姫条へ影響を与えられる。藤井が欲しがってやまないものを美奈子は持っていた。

 勝負にすらならない、解っている。

 だけど、私は――。

「――ッ」

 無意識に美奈子を掴んでいる手に力が入る。直ぐに我に帰って握った手の平を緩めた。後ろを振り向くと、気づかないふりをしているのか何も感じていないのか、美奈子は表情をピクリとも動かさずに俯いていた。

 胸が罪悪感でチクリと痛む。

 嫉妬じゃないはずだ。藤井は自分へ言い聞かせる。

 確かに悔しさは胸いっぱいだ。だけど、こうして自分を動かしているのは義憤だ。ひどくおせっかいであるのかもしれないけど――大事な人が傷ついている。怒りにそれ以上の理由なんて必要ではない気がした。

 そして、藤井は美奈子にこうも告げていた。

 ”あんたがその鈍感さで姫条を傷つけるなら、あんたを許さない”

 だから、半ば無理矢理な理論ではあるけれど、美奈子を問いつめる権利が自分にはあるはずだ。

 着いた場所はどの教室からも見えない、校舎裏の死角だった。

 掴んだ手を放して、藤井は美奈子の正面に仁王立ちした。静かに、だが怒りを滲ませて呟く。

「――姫条に、何したの?」

 俯いていた美奈子はピクリとして顔をあげた。

 相変わらず覇気のない顔だ。何かを告げようとして唇を開けるのに、震えて声になっていない。

「何? 聞こえない」

 藤井が大きく、だがゆっくり聞き返す。

 美奈子は再び俯いて、きゅっと両方の手を握りしめた。それから唾を飲み込み、一度だけ深呼吸して顔を上げた。

「私、姫条くんが……本当は好きじゃなかった。……姫条くんが本当は俺のこと好きじゃないだろう……って。だから、気づいて。私、本当は――」

 途切れ途切れに、だけどしっかりとした口調で美奈子は事の顛末を藤井へ告げた。

 美奈子の言葉で、頭の中が真っ白になっていく。

 何かがあるだろうと確信はしていた。だが、これほどまで酷いとは想像していなかった。

「姫条は……あんたのこと……。ねぇ、好きだって知ってるよね?」

 自分がいくら努力しても姫条に影響を与える力なんて持てないでいるのに、その特別な力を持つ美奈子はいとも容易くそれを放棄した。そのようにみえた。

 信じられなさ過ぎて、自分に対する侮蔑のような気さえしてくる。

 ――それがどんだけ凄いことか、あんたちっとも解ってないじゃん。なのに、姫条が好きじゃなかった?

 藤井の気持ちなどお構いなしに、美奈子は続ける。

「でも、私……和馬が好きみたい」

「ッ!」

 瞬間、息がつまった。頭に過ぎったのは紺野の顔で、美奈子の言っていることはつまり姫条のみならず紺野も傷つけようとしている、ということだ。

 カァッと頭に血がのぼり、藤井は手を空へつきあげた。

 美奈子はぼんやりとした視線であげられた藤井の指先を目で追う。

 打ち下ろされるかと思った(藤井でさえ)掌は、ピタリと空中で止まった。

 不思議なほど身体が震えた。

 ――本当は羨ましいだけなんじゃないか、とか。この怒りの本質は自分のためだけじゃないのか、とか。本当は美奈子が姫条を取らなくて安心したんじゃないのか、とか。道徳心が身体を震えさせているのだ。

 美奈子は生気のない目で指先をじっと見続けている。まるで振り下ろされるのを待っているかのようだ。

 そのとき、ほんの少しだけ美奈子の気持ちを理解した。

 美奈子は罰が欲しいのだ。そして、藤井は美奈子へ罰を与えたがっている。それが、筋違いの権利だと知っていても、互いの利害は一致していた。

「あんたさぁ、勝手すぎるよ」

 それでも、手をさげることも打ち下ろすこともできない。じんわりと涙腺が緩んで視界が歪む。

「解ってる……ごめん。藤井さん」

「解ってないじゃん! どれだけ、どれだけ……どんな想いで、姫条をっ……!」

 喉を絞めらたみたいに苦しくて息ができない。鼻の奥がつんとして、目頭が熱い。藤井は自分の気持ちを上手く喋れなかった。

 正反対に美奈子は次第に冷静さを取り戻しているようだった。

 ただ、冷静に――。

 美奈子は冷めた目をすると、すっと息を吸い込んで口を開いた。

「――かわいそうな藤井さん。ごめんね? こんなことになっちゃって。でもね、自分で言いたくなかったの。だって、仕方無いじゃない。本当は姫条くんじゃなくて和馬が好きだったなんて気づいても言えないよ。だから――察してもらったの」

 藤井に罪悪感が残らないように、美奈子がわざと藤井を煽っているのはバレバレだった。だが、だからこそやりやすい。

 藤井は沸きあがる激情をそのままに上げていた手を美奈子の頬へ打ち下ろした。

 肌と肌の弾く音。乾いた音は滑稽なほど綺麗で、校舎裏に響いて消えた。

 じんわりと広がる痛み。美奈子はぴくりとも表情を変えない。

 藤井は叩いた手を胸元へ引き寄せ抱いた。

 ――痛い。

 ぎゅっと目を瞑り、開ける。

「謝らないから。あんたが楽になるためじゃん、これでおあいこ」

 踵を返して走りだす。佇む美奈子を一度も振り返りはしなかった。

 ――卑怯よ、あんな目で。ズルイ。

 もし、美奈子が言い訳をして誤魔化したなら、逃げて姫条に全責任を押しつけるようなことをしたなら、何の罪悪感もなく美奈子を憎めたし嫌いになれた。

 ――手が痛い。

 叩いた嫌な感触がこびりついた汚れのように落ちない。むしろ、感覚は強くなっていく。

 ――本当に、一瞬でも。喜ばなかった?

 姫条と美奈子の関係が駄目になって、それを少しでも喜ばなかったか? 藤井には断言できなかった。

 ――最低じゃん。

 自分も、とそこに付け足して藤井は下唇を噛みしめた。

 

◆◇◆◇◆

 

 美奈子は校舎裏から見える小さな空を仰ぎみた。

 ――手加減してくれなくて良かった。

 叩かれた頬がじんじんと痛んだ。ふと、青あざを顔にこさえていた天童を思い出す。

 いつだか美奈子は喧嘩はやめろと天童に偉そうに告げた。なのに、藤井に自分を殴らせるように仕向けた。

「人のこと言えないな……ハハ」

 しかし、今一番にできる償いがこれしか思いつかなかった。

 相手が自分を殴りたいと思っていて、でも、それを良心で止めていて。なら、それを取り払うのが罰を受ける側の責任だと思ったのだ。

 しかし、叩いた藤井の顔はちっとも晴れやかではなかった。もしかしなくても、美奈子の頬が痛いように藤井の掌も痛いのかもしれない。人を殴るというのは自分と他人、どちらも傷つける行為だと気づく。

 ――そっか、どっちも痛いのか。

 なら、罰にもならない。結局は、自己満足でしかなかったのだ。

 美奈子は自嘲気味に笑った。

「嫌だな……本当に、嫌になる」

 遠くで昼休憩の終わりを告げる鐘の音が鳴る。

 美奈子は打ち身で熱を帯びる頬を撫でた。こんな状態で授業を受けられるはずがない。

 事情を訊かれるのは億劫であるし、そもそも説明できない。

 美奈子はふらふらとした足取りで歩き出した。一つだけ、学園のなかにありながらとても静かで心休まる場所を思い出した。

 着いたのは教会だ。

 新緑の中に映える白い壁と重く閉ざされた扉。幼い頃、よく来ていた遊び場、入学式のとき魅入られた教会。

 美奈子の思惑通り、教会の周りには誰もいない。美奈子は安堵して教会へ近寄ると、開かない扉に背を預けて目を閉じた。

 風の音、草のこすれあう音。それ以外は存在しない、とても穏やかな空間に美奈子の意識は闇へ誘われる。

「――美奈子?」

 眠りへ落ちる手前、光の世界へ引き戻されるような声に目を開けた。

 目の前には心配そうな顔で美奈子を覗きこむ葉月の姿があった。

「けい、くん」

 遠い昔と重なる光景に、胸が痛くなる。甘えてしまいたくなる衝動にかられて、視界が歪んだ。

 しかし、甘えられるはずなんてない。いや、甘えてはいけない。

 美奈子は無理矢理微笑んで取り繕った。

「そっか、ここはお気に入りの場所だもんね。ごめん、すぐに移動する」

 立ち上がり、葉月の横を通り抜けようとする。が、葉月に手首を掴まれて制止させられた。

「いい。ここは大事な場所だろ、お前も」

「でも!」

 美奈子は感情的な自分に気づいてうな垂れた。

「……ごめん。でも、一人になりたいの。一人にさせて」

「やだ」

 葉月はきっぱりと否定して、手首を掴んだまま先ほどの美奈子と同じように教会の扉に背を預けて座りこむ。

 引っ張られて、美奈子もその場へ座り込んだ。

「なんで?」

「さぁ。……お前、泣きそうな顔してただろ?」

「してないよ」

「嘘。……嘘つきは舌を切られるんだ。知ってたか?」

「なにそれ」

 思わず美奈子は笑ってしまった。

 そうだ。そうだった。子供のころ、葉月はひどく茶目っ気でこんな風な可愛い冗談をいっていた。そして、こういう言葉を葉月が言うのは、大抵は美奈子を元気づけようとしているときだ。

 葉月は何も訊こうしない。それも葉月の優しさだと知れた。

 葉月が心配してくれている。自分には、そうしてもらえるだけの価値などないのに。

 かけられる優しさを嬉しく感じるのと同時に、どうしようもない罪悪感にかられる。しかし、かけられた優しさを無碍にすればそれこそどうしようもない人間になってしまう気もした。

 美奈子は両手で顔を覆った。

「……ありがとう。ごめんね」

 積み上げてきたものが崩れていく感覚に囚われた。

 誰かを傷つけている事実を知った。だから、覚悟を決めた。でも、全てを回答したあと間違いに気づいた。

 ――何処から直していけばいいのだろう?

 収集のつかなくなっている問題に、ただ途方に暮れる。今は静かに目を閉じて、二年間の意味を美奈子は繰り返し考えてた。

 

23話へ続く

愛と友(ゆう)、その関係式

<下>終始

 

第二十三章 すれ違う想い

 

「――そう」

 美奈子から全てを聞き終えて、有沢はふぅと息を吐いた。

 ここは有沢の自室である。昼休憩、美奈子が藤井に連れられていったまま帰ってこないと知って、不安になって電話をかけたのだ。

 受話器越しの美奈子の声は、有沢が心配していたよりはとても平然としていた。有沢ならと淡々と事の顛末を語り、それから非があるのは全て自分で片付いたのだから心配は無用だとしめくくった。

 美奈子は大体がいつもそうだ。自分のことなど二の次で、まず真っ先に他人を気にしてしまう。良い意味でも悪い意味でも。

 そんな美奈子だからこそ有沢は気にいっているのだが、今回はどうにも納得できない。

「それで、あなたは大丈夫なの?」

「え、大丈夫だよ。平気、全然」

「――ハァ」

 やっぱりこれだ。

「あなたはね、ちょっとは他人を悪者にしていいと思うわ。……私とあなたの仲じゃない、愚痴と陰口の区別くらいつけられるつもりよ。なのに――ねぇ、あなた聖人君子にでもなるつもり?」

 有沢がまくしたてると、電話先の美奈子は黙ってしまった。

 言い過ぎたかと不安になっていると、ややあって美奈子はけたけたと笑った。

「ありがとう。今度はね、そうしてみるよ」

「あ、あのねぇ! 私は真剣に――」

「解ってるよ」

 静かに、だけど強い口調で美奈子は言葉を制した。こうまでされると、有沢は折れるしかない。

 有沢は肩を竦めた。

「それで、これからどうするの?」

「わかんない」

「わかんないって、あなた……。ほら、想いを伝えるとか色々あるでしょ?」

「告白はしないよ。だって……まだ、好きなのかよく解らないし」

「えっ……。えぇ!?」

 有沢にしては珍しく、大きな叫び声が出てしまった。有沢はすぐさま口に手を当てる。自分の部屋には誰もいないが、普段はしない失態に頬を赤くした。

 まるで有沢の顔を見ていたように、美奈子はまたケタケタと楽しそうに笑った。

 有沢はむっとして口を尖らせる。

「笑い事じゃないでしょう。ふざけてるなら奈津実があまりにも可哀相だわ」

「ごめん。ふざけてないよ。……そうだね。確かなはずなのに、ちゃんとした恋愛感情なんだって自分できっぱり言える自信がまだないの」

「どういうこと?」

 美奈子の言葉は解らないことだらけだ。有沢は眉をひそめる。

「だから、わかんない。もう少し、考えてみるよ。紺野さんのこともあるから。二人が幸せなら、わざわざ壊してしまう権利なんて私にはないでしょ?」

 確かにそうだ。有沢としても紺野が傷ついてしまうのは嫌だ。だけど、それで美奈子が幸せになれるのかと問えば違う気もする。かと言って、ぶち壊しても美奈子はきっと辛い顔をするのだろう。

 少しの間を置いて、有沢は渋々ながら頷いた。

「……ええ。そうね」

「――インターハイ近いから考えてる余裕はないかもしれないけどね」

 電話先の美奈子は微笑んだ気がした。

「考えなくていいって、ほっとしてるのかしら?」

「ん、実はね。――インターハイ、全力でぶつかるよ。それとこれとは別だもん。それにね、バスケをしてると見えることがあるかもしれないってそう思うの。だって、バスケがあったから和馬と会って仲良くなった」

「そうね。そうれがいいかもしれない」

「――うん。じゃあ、明日も早いから」

「ええ。頑張ってね、応援してるわ」

 ”ありがとう”と、その言葉を最後に電話は切れて、有沢は通信の途絶えを知らせる電子音を耳して溜め息をついた。

 

◆◇◆◇◆

 

 それから――八月のインターハイまで約二ヶ月間。美奈子は有沢へ宣言した通り、脇目もふらずバスケに打ち込んだ。その様子は何処か鬼気迫っていて、誰も美奈子に話しかけられない状況が続いた。

 人の噂も七十五日という言葉通り、藤井と美奈子の不自然なぎこちなさも姫条と美奈子の関係も、噂好きの生徒達の間から全くといっていいほど忘れ去られていく。その様相はまるで最初から何もなかったようだった。

 女バス男バス双方ともインターハイ出場は六月中に既に決まっていた。ついに迎えたインターハイで、はばたき学園バスケ部は順調に決勝へ駒を進めていく。

 男子バスケは去年の不調が嘘のように快勝完勝。決勝に進むまで常に五十以上の点差をつけて勝利した。決勝も、五十までとはいかないが二桁の差をつけて余裕の勝利をおさめる。MVPは鈴鹿和馬であった。

 一方、女子バスケ部も男子バスケ部までとはいかないが、常に落ち着いた試合運びで確実に勝利を重ねて決勝まで駒を進めた。

 そして、決勝――。

 相手は去年の王者。試合は常に均衡し、ラスト一分には完全なこう着状態となっていた。

 ここで点をとったチームが、この試合の勝者――。

 誰も何も言わないが、皆がそう確信した。

 動いたのは美奈子だった。相手選手の一瞬の隙をついた、完璧なスティール。そして、速攻。シュート体勢に入る、誰も止められない抜群のタイミング。誰もが試合は決まったと、そう思った瞬間だ。

 美奈子は背中へ大きな衝撃を受け、シュート体勢のままにゴールポストへぶつかった。後ろを見れはしなかったが、相手選手が体当たりをして止めたのだと気づいた。

 審判の高らかに鳴る笛の音を耳にしながら、美奈子の意識は暗転した。

 

◆◇◆◇◆

 

「三試合連続ファイブファールだってよ! くっだらねぇ!」

 吐き捨てるように鈴鹿は叫んだ。

 体育館で一人モップがけをしていた鈴鹿と美奈子が初めて出会ったときの会話だ。

 どうして、こんなに怒っているのかとか美奈子の疑問はつきなかった。

「くだらなくなんてないよ」

 ――自分が他人へ説教できるほど、高みに登りつめた人間だなんて一つも美奈子は思っていない。が、目の前で怒っている鈴鹿は何処か追いつめられた獣のように必死で、泣きそうで、まるで誰かに食いちぎられように言い負かされるのを待っているようにみえた。だから、同じスポーツを愛するものとして言った。鈴鹿も同じくスポーツが大好きなのだと直感したからだ。

 今でもあの言葉は間違っていなかったように美奈子は思う。鈴鹿は、なんて奴! と思ったかもしれない。

 実際、美奈子の直感は正しかった。鈴鹿はバスケというスポーツを美奈子以上に好いていた。

 バスケ部に入って知った、鈴鹿は誰よりも早く朝練をし誰よりも遅く部活を終えるということ。美奈子は体育館の鍵を開けたことも閉めることもできなかった。そして、体育館の扉を開けるといつも聞こえたボールの弾む音。

 あるとき、体育館の扉をくぐるのに二番手以上になれないのが悔しくて、美奈子は早朝三時に起きて体育館の扉の前で仁王立ちで鈴鹿を待った。あのときの鈴鹿の面食らった顔は今でも忘れられない。

 それから、美奈子と鈴鹿は驚くほど仲良くなった。

 

「ああ、わかったよ!! かってにしろ!」

 意固地になって今までのやり方を無理に通そうとしているのだと知れたのは、水のみ場で見た鈴鹿の涙のせいだ。

 ――泣いているの?

 出かけた言葉を喉の奥に沈めた。言えば、鈴鹿の自尊心がズタズタに傷ついてしまうと理解したからこそ、美しいものを壊してしまたくない一心だった。

 悲しいんじゃない。悔しくて泣いている、その涙の脆くも強い相反する美しさに目を奪われる。

 こんなにも一つのものに己を捧げられる人間なんてそうはいない。いや、口だけなら誰でも言えるし、そういう人間は沢山いる。美奈子自身もその一人だ。難しいのは、実際に命をかけるという言葉そのもののように、人生の全てを捧げる覚悟と生き様と姿勢。諦めるという言葉を知らない、ただひたすらに真っ直ぐな情熱。

 今までの鈴鹿の行動と涙には、少なくとも美奈子にそう思わせるだけの力はあった。

 試合中に飛び出してきたらしい鈴鹿にわけをきくと、積もりに積もったストレスがついに限界を超えたのだと直ぐに推理できた。

 思えば、出会ったときから鈴鹿は既に追いつめられていたように思う。その理由は、風の噂で耳にした急なポジション変更なのだろう。確かにポジション変更によってかかる選手の負担は大きい。しかも、今までのプレイスタイルと真逆で、並の選手に輪をかけて大きな負担を背負うこととなったらしい。極端な例えだが、オフェンス専門がディフェンス専門へ変えられたようなものだ。加えて、中学レベルと高校レベルは大きな差があり、その差もまた実質以上のストレスを鈴鹿へ与えることとなったのかもしれない。

 つまり、壁にぶつかったのだ。鈴鹿にしてみれば、挫折といってもさしつかえないだろう。

 出口の見えない闇に、鈴鹿は呑まれそうになっていた。

 ――どうすれば、この脆くも美しいものを守れるだろうか?

 美奈子はふるに頭を動かした。

 バスケの根本的な知識に関して、論理的に鈴鹿を説き伏せるほどの力量を美奈子は持たない。それに、それなら監督が既にやっているだろう。

 なら、慰め? いいや、駄目だ。下手な慰めは余計に傷を広げるだけだ。特に誇りを持っているなら、上辺だけの言葉をかけてはいけない。

 なら、頑張れ? 違う。――そうだ。

 美奈子はふいに思い出した。鈴鹿は何でも一人で解決しようとするところがある。一人で練習して、一人でボールをおいかけて、一人でバスケをして、きっと昔も壁にぶつかったとしても一人でどうにかしてきたのだろう。

 出会ったときもそうだった。まるでパスなんて考えもつかなかったみたいな顔をしていた。

 中学のときは、それでもよかったのかもしれない。ここまで一人でやってこれた鈴鹿の力量は異常だが……バスケセンスに恵まれているが故に、一人が当たり前になっていた。一人で何でもできると、誤認してしまった。

 ――でも、それって違う。あなたが好きなバスケじゃないよ。監督も、それが言いたいんじゃないかな。

 美奈子は意を決して口を開いた。

 

◆◇◆◇◆

 

「美奈子!」

 自分を呼ぶ声が聞こえた。

 美奈子ははっとして目を開く。スコアボードへ目をやると点数は変わっていない。

 ならと、今度は時計へ目をやる。時間は止まったままだ。

 どうやら、意識を失っていたのは一瞬らしい。

「大丈夫ですか?」

 声をかけられ、見やるとそこには審判がボールを手に持って美奈子を覗きこんでいる。

 美奈子が頷き立ち上がると、ボールを手渡された。

「赤四番アンスポーツマンライクファウル。白二本」

 ”やれる?”ともう一度、審判が聞いてくる。美奈子はしっかりと首を縦に振って、フリースローラインへ立った。選手達が決められた立ち位置へ行くと笛が鳴る。

 美奈子はボールを握りなおし、ゴールをじっと見つめた。

 これが入れば、はばたき学園の優勝はほぼ確実に決まるだろう。美奈子はごくりと唾を飲みこんで、そしてシュート体勢へ入った。

 ――絶対、決める!

 とんと床を蹴り、重力から離れて空を一瞬だけ飛ぶ。手から離れたボールは綺麗な弧を描いてゴールリングへ吸い込まれていく。

 遠くからでも、はっきりと聞こえた。バスケットボールがゴールネットを揺らす音。美奈子は思わず拳を握り締めした。

 瞬間、わっと会場が沸きあがる。

 その瞬間、確かにはばたき学園の優勝が決定した――。

 

◆◇◆◇◆

 

 チームメイトたちとの勝利の抱擁をそこそこに、美奈子はコートを飛び出して観客席へ向かった。

 確かに自分を呼ぶ声が聞こえた。そして、その声を美奈子は知っている。

 鈴鹿和馬だ。

 男子バスケ部と女子バスケ部の試合会場は離れている。だが、男子バスケ部の決勝は午前中で女子バスケ部は午後。もし、試合が終わって直ぐ向かうなら間に合わない距離ではない。

 美奈子は男子バスケ部の試合結果をまだ知らなかった。

 もちろん、勝った? まさか、負けた?

 ぐるぐると思考は巡ったが、何より鈴鹿がバスケを応援に来てくれた事がたまらなく嬉しい。

 美奈子は確かに何かを掴みかけていた。

 試合が終わったばかりだからなのか、廊下を歩く人影はいない。美奈子はこれ幸いと走るスピードを上げた。

 真っ直ぐの廊下を走って、観客席に続く階段が右手に見えた。勢いよく曲がると、急に人影が現れた。

「きゃっ」

「うぉ!」

 勢いよくぶつかって、美奈子は後ろへ尻餅をついた。ぶつかった人物も同じように尻餅をつく。

「いたた……ごめんなさい。前、みてなくて――」

 痛むお尻を撫でながら謝ると、そこには目的の人物……ユニフォームを着たままの鈴鹿がいた。ぶつかったのは間違いなく彼だ。

「和馬」

「へっ、あ、美奈子? ――っと、うわあ!」

 美奈子は破顔して、目を丸くする鈴鹿へ抱きついた。

「ちょ、ま、ま、待て! おまっ、ま……お前!」

 鈴鹿は慌てて美奈子を引き剥がした。はたと気づいて美奈子も鈴鹿から身を放す。

「ごめん。勢いでつい」

「あのな! こんなことしてっと姫条に誤解されるぜ?」

 本気で怒る鈴鹿が、二ヶ月ぶりの痛みを美奈子に思い出させた。

 ――そっか。和馬は知らないんだ。

 考えてみれば進路相談の日からまともに口をきいていない。

 美奈子は意を決して口を開いた。

「あのね」

「それよりよ」

 声が重なり二人して口ごもる。

「なんだよ」

「なによ」

 じろりと見合って、根負けしたのは鈴鹿だった。視線を外すと、がりがりと後頭部をかく。

「あー……あのよ。見てたぜ、試合。優勝、おめでとう」

 毒気を抜かれて、美奈子はぽかんと口を開いた。

「なんだよ。もうちっと喜べよな。優勝だぜ、優勝! わかってんのか?」

 鈴鹿が顔を真っ赤にさせて口を尖らせるものだから、美奈子はおかしくて笑った。

 鈴鹿がむっとして睨みつけるものだから、美奈子はまあまあと両手を振る。

「わかってるよ。――ねぇ、男バスは?」

「優勝。んで俺がMVP。ったりまえだろ」

「そっか。おめでとう」

 弾けるように笑う美奈子。今度は鈴鹿がぽかんと口を開けた。ややあって、歯をみせ笑う。

「おう」

 言って、鈴鹿と美奈子は互いの拳を合わせた。

「――あ」

 ふと気づいて、美奈子は声をあげた。

「和馬ってばユニフォームのままなんだね」

「ああ、これか? 慌てて出てきちまったから着がえてる暇なくてよ――匂うか?」

 少し照れくさそうに鈴鹿はユニフォームを指でつまんだ。

「べ、別にお前のためじゃねぇぜ。バ、バスケだからな」

「解ってるよ。バスケ、大好きだもんね」

「……。あ、あのよ」

 不意に鈴鹿が真剣な顔をする。

「ここにきたのは、こうしてここまでやれたのはお前のおかげだって思ったから……これでも感謝してんだ、俺。なあ、今までありがとな?」

 突然の鈴鹿の謝意。美奈子は面食らって言葉を失くした。否、戸惑った。

 ”今までありがとう”それはまるで、別れの挨拶のようだと感じたからだ。そして、美奈子は自身の自惚れにも同時に気づく。鈴鹿にとって自分はまだ未来にいる存在だと、そんな自惚れ。だが、実際は違った。鈴鹿にとって、美奈子は過去の存在だった。ただの通過点でしかなかった。

 美奈子ははたと気づく。恋愛感情とはつまり、その人の人生を背負いたいという表れなのだ、と。

 寝食を共にし生死を分かち合い目標を共有することなど家族以外では不可能だ。つまり、赤の他人が家族となる正攻法はただ一つ――。

 ”愛している”とはそういうことだと悟った。

 ――和馬の見る未来に一緒にいたい、そう思ってたんだ、私。

 あの水飲み場で見たキラキラと綺麗な涙。それを流す瞳。その瞳が見る未来。このインターハイが美奈子が見れる最後の鈴鹿のバスケとの関わりだ。

 ――これが最後。でも、もっと見たい。

 しかし、それはもう無理だ。美奈子は自分へ向けられていた鈴鹿の気持ちをないがしろにして、応えられないと断った。なのに、今更応えたいなどと都合が良いにもほどがある。鈴鹿が過去のこととして処理するのは仕方のないことだ。してくれとも美奈子は頼んだ。

 全部が全部、自分の自業自得だ。

 鈴鹿と一緒に歩いていくのは紺野なのだから。

 美奈子はぎゅっと目を閉じた。

 

◆◇◆◇◆

 

 美奈子に好きだと伝えて、だけど拒絶された。いつかは薄れる気持ちだと信じていたのに、そうではなかった。だけど、美奈子の”好きな奴”がとても”良い奴”だから鈴鹿は納得できた。

 後ろを振り向かない努力はしてきたつもりだ。男らしくないことも随分してしまった。その結果、紺野を傷つけてしまったのを鈴鹿は少し反省している。

 しかし、ここまでしても気持ちは薄れはしなかった。

 だから、美奈子が突然避けはじめて鈴鹿は内心ほっとした。

 内にたまった薄れない想いとやらが、何かの拍子で出てきてしまいそうだからだ。だけど、恋愛感情は関係なしにどうしても美奈子へ伝えたいことが鈴鹿には一つあった。

 満を持してといえるほど大仰なものとすると照れるが、インターハイはまさに絶好の舞台だと思えた。

 

 伝えたいこと、その発端は二年前の水のみ場での出来事だ。

 美奈子のなかでは忘れてしまうくらい、ほんの些細な出来事かもしれない。だけど、鈴鹿にとっては人生で一番に大事な瞬間だったように思う。

 ――もし、お前がいなかったら。

 想像しただけでぞっとした。未だに出口のない闇を彷徨っていたかもしれない。

 あんなふうにバスケのことで鈴鹿に面と向かって意見したのは、あの時点では監督と美奈子ぐらいだ。周囲はバスケに関して鈴鹿を畏怖し、圧倒的な力量の差に遠慮しているふしがあった。実際、自分より弱いバスケ選手に鈴鹿は興味などなかったし、弱いのは努力が足りないからだとほんの少し見下していた。

 

 ”コートの外でもチームの一員だよ”

 だから、あの水のみ場で言われた言葉は衝撃的だった。

 そして、実は一番に重要なのはその言葉を言ったのが他ならぬ美奈子だからだ。

 鈴鹿の知るかぎり、美奈子は部活に対して真摯だ。朝練で先を越されたのは美奈子が初めてだった(少し反則っぽくはあったが)。基本、プロを除いて自分のバスケの強さ以外に興味はない鈴鹿だが、自分より強くなくても美奈子のバスケは好きだと初めて感じた。そんな美奈子が言ったからこそ、自分が実はチームメイトを仲間とすら思っていなかったという事実に気づけた。

 必死に一人でボールを追いかけていただけだった。それをバスケと呼べないのは、鈴鹿が何より解っていた。

 だから、気づかしてくれた美奈子にお礼が言いたかった。

 日本で最後の晴れ舞台であろうインターハイで、優勝を片手にお前の言葉は一つも間違っていなかったと、お礼を伝えたかった。なのに、お礼を言ったあと、美奈子は表情を曇らせて俯いた。

 どうして喜んでくれないのだろう? 解らなくて悲しかった。だけど、それがもしかしたら姫条じゃなかったからかもしれないと気づいた。

「そっか……わりぃ」

 一番に優勝を祝ってもらいたい人物ではなかったから――と。

「――何で謝るの!?」

 弾かれたように美奈子は顔を上げた。何故だか凄く泣きそうな顔をして鈴鹿を見つめる。

「だってよ……俺、姫条じゃねぇだろ」

 言葉に、美奈子の目はみるみると見開いった。唇は震えて、美奈子はゆっくりと声を発した。

「違うよ……。私だって、紺野さんじゃない」

「……?」

 美奈子の言わんとしている言葉の意味が解らない。鈴鹿は首を捻った。

 ”どういうことだよ”と聞こうとして、携帯電話の着信音に遮られた。条件反射で携帯電話と取り出すと、ディスプレイには監督の文字。

「監督からだ」

「出て」

 美奈子の声に急かされて、ついつい通話ボタンを押す。

「何処にいるんだ」

「あ?」

「インタビュー。お前、忘れてただろ」

 ああと鈴鹿は思い出した。そういえば、MVPはちょっとしたインタビューを受けなければいけない。男子の部の会場を誰にも伝えずに飛びだしてきたものだから、忘れたのではと心配になった監督が電話をよこしたのだろう。

「うす、はい。直ぐ帰ります」

 一言二言小言を頂いて鈴鹿は電話を終えた。

「――美奈子?」

 何時の間にか美奈子はいなくなっていた。大方、電話中に足音を消して立ち去ったのだろう。

「なんなんだよ、アイツ」

 腑に落ちないものを感じながら、鈴鹿は後頭部をかいて大きく溜め息を吐いた。

 

 

24話へ続く

愛と友(ゆう)、その関係式

<下>終始

 

第二十四章 目指す未来

 

 インターハイ”はばたき学園”男女優勝という輝かしい栄光をそのままに、八月末までの長期休暇は終わりを迎えた。

 ときは九月。二学期の初登校した校舎にはバスケ部おめでとうの文字が躍った垂れ幕が掲げられていた。

 バスケ部員達は登校してから始業式、SHRが終わるまでひきりなしの賞賛と祝福をかけられ続けた。特にインターハイの主役であった三年は引退も相まって半ば卒業式のような雰囲気で、関係ないのに涙ぐんでいる生徒さえでる始末だ。

 ようやく今日の学校行事を全て終え生徒達は帰路につく。

 興奮冷めやらぬなか、美奈子も帰ろうと廊下を一人歩いていると担任の氷室教諭に呼び止められた。

「四月の進路相談の話を覚えているか? その件で本田先生から話があるらしいのだが、進路指導室へいけるだろうか」

「四月――? あっ」

 確か、一流体育大学から推薦がきていて条件はインターハイ優勝だった。

 美奈子は取り繕うように笑った。

「大丈夫です。ちゃんと覚えてます」

 インターハイに引退と続いて、すっかり気が抜けてしまった美奈子は推薦の話も抜け落ちていた。

「引退で気が抜けてしまうのは解るが、しっかりしなさい」

 氷室はわずかに顔をしかめるが、直ぐに肩を竦めて微笑んだ。

「――それはそうと、優勝おめでとう。担任として、君をたいへん誇らしく思う。よくやったな、小波」

「先生……」

 不覚にも美奈子は涙ぐんでしまう。それもそのはず、氷室は手放しで人を賞賛したりはしない。つまり言葉の意味が重いのだ。

 入学時からやれテストだ補習だと反目しあうこともあったが、認めることはきちん認めてくれる。

 ――私、先生の生徒でよかったよ――。

 などと、つい魔がさすように自分の世界へ浸りそうになる。数コンマおいて美奈子は我に返った。

「本田先生によろしくと伝えておいれくれ。それでは」

 氷室は踵を返すと、すたすたと去っていく。あははと作り笑って美奈子は手を振った。

 氷室の姿が見えなくなると、大きく息を吐いた。

「駄目ね。感傷的になってる」

 美奈子もくるりと背を向けた。それから歩きだす、目指すのは本田先生のいる進路指導室だ。

 廊下を歩いて窓の外を見る。残暑が残るグラウンドは日ざしで熱気がこもっていた。そこには三年を欠いた在校生が部活動に勤しんでいる。

「もう、終わりなんだよね」

 やはり感傷的だ。美奈子は頭を振った。

 だが、終わる部活動に残りわずかな学園生活、感傷的になるも仕方無いというものだ。美奈子は諦めて自嘲気味の笑みを浮かべた。

 ――それに……。

 美奈子は目を細めた。グラウンドの更に先、町並みの奥に見える海――また更に先を見ようとした。

 美奈子の中にある決意が生まれていた――。

 

◆◇◆◇◆

 

 コンコン、と数度ノックして進路指導室の扉を開いた。部屋のなかには既に本田教諭が机に座って待っている。本田は美奈子へ向かいの席を手で勧めた。一礼して美奈子が座ると、本田は口を開く。

「始業式の日にすまないな。呼んだのは他でもない、一流体育大学の推薦の話だ。四月に話していた通り、条件であるインターハイ優勝で先方も是非にと……」

「先生!」

 美奈子は本田の言葉を遮った。大きな声に本田は面食らった顔をしている。

 美奈子はやや照れたように笑った。

「すみません。あの、推薦のことなんですけど。断ろうと思うんです」

「えっ!?」

 今度は本田が大きな声を出し、身を乗り出して美奈子へつめよった。

「どうして?」

「それは――目標が見つかったんです。私の人生で一番に大事なことです」

 本田はがりがりと前髪をかくと、どっかりと席へ座りなおして天井を仰ぎみた。

「つまり、それは他に希望する進路があるということか」

「はい。……すみません」

「いや、いいんだ。こればっかりは本人の意思だからなぁ」

 本田は机のうえに出されていた資料を封筒へしまいこんでいく。

「なぁ、一応訊いていいか? 推薦を蹴ってまでやりたい事って何だ?」

「留学です」

 再び本田は面食らった顔をした。同じことをのたまう人物の前例があるせいか、口端を若干だけ引きつらせる。

「まさか、お前も本場でプロになりたい……とか?」

 美奈子は苦笑って首を振った。

「違います。私は世界のバスケがみたいんです。バスケの素晴らしさを伝える仕事がしたい」

「ほぉ……。ああ、いや待て待て。お前、自分の成績がわかってるか?」

 一瞬だけ感心しかけてはみたものの、本田はすぐ顔を青くした。指摘はもっともで、いくら格好の良いことを口では言ってみても成績を鑑みれば絶望的だということは美奈子も解っている。

「だから、頑張ります」

「頑張ります、か。うぅん」

 本田が腕組みして目を閉じ唸る。しばしして、顔を上げた。

「じゃあ、こういうのはどうだ? 推薦して入る、それから休学願いをだして留学する。これなら、気の迷いかどうか判断する時間が持てる」

「気の迷いじゃありません!」

 思わず声を荒げてしまった。美奈子ははっとすると口を閉じて、下唇をかみしめる。

「それに……そういうの好きじゃありません。推薦は本当に望んでる人が受けるべきです」

「うっ。確かにそれが理想なんだろうけどなぁ。実際は能力のあるものが優先される。それが不服だというなら優遇に見合う努力を個人でするべきだ。――小波、お前はこの高校三年間の部活でそれに見合う努力と成果をあげただろう? だからこそ、ふいにしてしまうのはな。利用できるものは利用すればいいのに」

「――インターハイの優勝まで行きついてようやく解ったんです。バスケをプレイする側じゃ、どうしても勝てない相手がいることに。私がするべきことは選手側にはないと思いました」

「まさか」

 本田は信じられないと首を振った。確かに世界を見渡せば、日本の高校で頂点をとったぐらいでは敵わない選手がいるだろう。だがしかし、日本では頂点なのだ。絶対的な力の差に簡単に絶望するようなレベルの選手ではないはずだ。

「ああでも、使命感とかそういうのじゃないんですよ」

 本田の思考を読み取ったように、美奈子は気の抜けた笑みを浮かべながら言い足した。

「私が、そうしたいんです。……バスケや運動を嫌いになったわけじゃないですし、むしろ前より大好きになりました、けど……だから、選手としてはもう無理なんだと思います」

 これ以上は水掛論になると予想して美奈子は席を立った。

「あの、ありがとうございます。心配してくれて」

 深深と頭を下げる。

 本田は他にも言いたいことがありそうだったが、結局は唇を真一文字に結んで微笑んだ。

「バスケ以外でも何か力になれることがあったらいえよ」

「はい」

 美奈子は今一度だけ深深と頭を下げて、踵を返した。

 

◆◇◆◇◆

 

「断る!」

 数十分後に進路指導室へ入ってきた鈴鹿和馬は、本田の言葉が終わらない内に大きな声で切り捨てた。

 予想通りの反応に本田はおかしいやら悲しいやら、力ない笑みを浮かべている。

「やっぱり、お前も留学か?」

「おう!」

「一応、お前にも訊くが……休学扱いで一年間は留学させてもらうってのはどうだ?」

「そういうの嫌いだ、保険かけてるみたいで。それに一年試すとか、まるで失敗が前提みたいだぜ……です」

「そういう訳じゃないんだがなぁ」

「ウス。……でも、甘えたくないんで」

「甘えなぁ」

 本田の落胆ぷりが、いつもよりも大きい気がした。

 鈴鹿は違和感を覚え、そういえば先ほどの会話の中の”お前も”という言葉を思い出す。

「そういや、さっき”お前も”って。俺より先に来た奴でもいるんすか?」

 思いつきは当たったようで、本田は頷いて大きく溜め息を吐いた。

「小波がな――。推薦を断ったんだよ、バスケで勝てない相手ができたとかなんとか」

「はぁ? ど、どういう意味だよ」

 思わず、教師に対する鈴鹿のなけなしの敬語が吹き飛んだ。

 本田は気にとめずに会話を続ける。

「そりゃ、俺だって聞きたいよ。何が何だかさっぱりだ。そういや、お前は女子の決勝を見てたんだよな? そういう選手、いたか?」

「いや――」

 鈴鹿は目を閉じて、女子決勝試合を思い出した。が、そこにはやはり美奈子がバスケを止めるというほどの選手はいなかったように思う。

「いなかった……と思うけど」

「だよな。突然どうしたんだか。お前は前から知ってたけど、小波まで何て……お前ら本当に勿体無い」

 頬杖をついてぼやく本田の傍で、鈴鹿は見えない美奈子の真意に首を傾げたのだった。

 

◆◇◆◇◆

 

 同時刻。はばたき学園、校門近くに意外な人物が訪れていた。

「だから、止まれって」

「いやです。止まりません。それに、僕は僕の恩人に会いにいくだけです。何か問題でも?」

「みえみえの嘘を……、そのついでに美奈子に会うつもりなんだろうが」

「や。だって気になるじゃないですか。天童くんを変えた女性」

 悪びれない笑顔で立ち止まったのは若王子教諭だ。その後ろで苦虫を噛み潰したような顔をしているのは天童壬である。

「その言い方やめろ」

「あれ、照れてます?」

 くすくすと若王子は笑って、何処にそんな力があるのか涼しい顔で天童を引きずって再び歩き出した。

 はばたき学園の校門をくぐると、見慣れぬ成人男性と髪を染めた他校の生徒は嫌でも注目を集めた。

 下校途中のはばたき学園の生徒達は所々で足をとめ、好奇の目で二人を見る。視線に真っ先に気づいた天童は、ますます表情を曇らせて若王子の服を引っ張った。

「注目集めてんだろ。いいから、ほら!」

「いいじゃないですか、注目くらい。先生は嫌いじゃないですよ?」

 まったく話がかみ合わない。

 天童が頭を抱えていると、今一番に聞こえてほしくない声が聞こえた。

「天童くん? やっぱり天童くんだ!」

 声の先には、しこたま本を抱えた美奈子が笑顔で手を振っている。

「ゲゲっ。何でこう」

 天童は額に手をあてて溜め息を吐く。ちろりと若王子をうかがうと案の定、瞳をキラキラと輝かせていた。

「君が美奈子さん?」

「はい?」

 若王子の問いに、美奈子は笑顔で首を傾げる。

「あ、僕は若王子貴文。このヤンキーの天童くんに個人的に放課後勉強を教えている、羽ヶ崎学園の教師です。よろしく」

「うぉぃ!」

 朗らかにいらない事まで説明してしまう若王子に、天童は叫ばずにはいられなかった。だが、もう既に遅い。

 美奈子はきょろろんとして天童を見た。

「天童くんが、勉強?」

「おっ……おう。まあな」

 何となく照れて鼻の下を指でこすると、横で含み笑う若王子を見つけて口を曲げた。

「天童くんは変わりたいらしいですよ。自分が何処までできるか試したいらしいです」

「だから何で余計なことを」

 ペラペラ喋る若王子は掴みかかろうとした天童をひらりと横に避け、美奈子の手をとった。

「どうやら君のおかげらしいんですが……ちょっと、いいかな。ふむ」

 若王子は興味しんしんに美奈子の目を覗きこむ。が、しばらくしてがっかりしたように肩を落とした。

「意外と普通なんですね」

「えっ?」

 美奈子はますます困惑して、頭の上には何個ものクエッションマークが浮かんでいるようだった。

「てっきり、何か特殊な能力でも持っているのかと――」

「美奈子を何だと思ってんだっ」

 天童は美奈子と若王子の繋がれた手をほどくと、二人の間に真っ赤な顔をしてわりこんだ。

「いいかげんにしろよ。だから、嫌だったんだ。若ちゃんに会わせるのは……」

「やー、若いです」

 くすっと若王子が見透かしたように笑うものだから、天童はいよいよポコポコと頭に湯気を立てて憤慨した。

「――ンのっ」

「まあまあ、天童くん。落ち着いて」

 後ろから止めたのは美奈子だった。

「うっ……、まあ、これ以上美奈子に迷惑かけるのもな」

 辺りを見回すと好奇の視線は相変わらずで、ここが他校でしかも美奈子の学校だと思い出す。

「わりぃな、騒がせちまって。……若ちゃん、ほらもういいだろ帰ろうぜ」

「あ。僕は他にも用があるんで、天童くんは先に帰ってください」

 軽い口調で若王子は手をあげて、”じゃあ”というと校舎のほうへ歩きだす。

 ぎりりと奥歯を噛みしめる天童の横で、あっと美奈子は声をあげた。

「あの! 若王子先生!」

「はい?」

 若王子が振り返る。

「よかったら、私にも勉強教えてくれないですか?」

 美奈子の願いはかなり突飛で、さすがの若王子も一瞬ほど多少の疑問を持ったように見えた。が、直ぐに頷く。

「いいですよ。じゃあ、詳しい話は天童くんに聞いてといてくださーい」

 ひらひらと大きく手を振って、今度こそ若王子は校舎に消える。手を振り返していた美奈子も、あげた腕をおろして天童へ向き直った。

「可愛い先生だね」

「そぉかぁ? くえないオッサンだ、あいかわらず。――で、お前まで何で勉強なんだよ」

「迷惑だった?」

「迷惑とかそんなんじゃない。お前って勉強嫌いそうだから」

「あ、はは。ばれてた?」

 乾いた笑いを浮かべる美奈子に、天童は腕組した。

「俺って元優等生だからな。勉強が嫌いな奴と好きな奴はなんとなく見分けられるんだ。すごい?」

「へー、すごいすごい……って、えぇ!? 元優等生って天童くんが?」

「何だよ、失礼なやつだな」

 あからさまに驚く美奈子の鼻頭を天童が掴むと、ぎゃっと悲鳴があがる。

「こうみえても中学の全国模試じゃ、結構な順位だったんだぜ」

「ふ、ふほはー(うそだー)」

「嘘じゃねぇよ。……んで、どうして勉強なんだ」

 天童は鼻頭を放すと美奈子の顔を覗きこむ。美奈子は天童をねめつけた。

「話すと長いから、また今度ね。……あと、顔の距離がちかい」

 天童はぱっと距離を離すと、からからと笑う。

「お前でもそういうの気にすんだな。……ん、了解。今度な、じゃあ俺はそろそろ帰るわ。実は結構居心地悪いし」

 辺りをぐるりと見回して天童は肩を竦めた。

「あ、そうだ。――ほら、俺の番号」

 気づいて、天童は携帯を取り出すとオーナー情報をディスプレイに表示させる。

「う、うん」

 美奈子も頷くと、自分の携帯を取り出し素早く赤外線通信で互いの番号を交換した。

「うしっ、次の若ちゃんの空いてる日が決まったら連絡するよ。それじゃあ、今度こそな」

 携帯をしまいこんで、天童は手をあげ爽やかに校門を出ていった。

 

◆◇◆◇◆

 

 渡りに舟とはまさにこのことである。

 美奈子は天童がいなくなった校門に、ぼぅっとして立ち続けていた。手には図書室から借りてきた沢山の本。ずしりと重いソレが、これからの美奈子の重ねるべき努力の多さを物語っている。

 はっきりいって、美奈子の学力では体育会系以外の進学は天地がまっさかさまになっても無理レベルである。それをこれからしようというのだ。これから控えている文化祭、クリスマス、正月、バレンタイン、素敵なイベントの数々をぼうに振って我武者羅に勉学へ勤しむ覚悟だ。

 そんな風に思っていたとき、ちょうど出会った天童が勉強をしていて、しかも中学時代は得意であったというではないか。あれほど自信満々なのだ。少なくとも美奈子よりは学力が上なのは間違いない。

 他校の教師に頼んだのは不躾だったかもしれないが、若王子も快諾してくれた。

 神様はいるのかもしれない。

 そんな風に、わりとロマンチックなことを美奈子は思った。

 ふと疑問に思ったのは、天童の過去だ。天童の言う通り、中学時代に彼が優等生だったとして――ああなったのはどうしてだろう?

「美奈子!」

 耳元で響いた怒声に、美奈子は考えを中断させられた。

 はっとしてみると、眼前には不機嫌そうに眉根に皺を寄せる鈴鹿がいた。

「和馬。……どうしたの?」

「どうしたの? じゃねぇぜ。何だよ、さっきの野郎は」

「天童くんのこと?」

 それと鈴鹿が怒る理由が繋がらない。

 美奈子が首を傾げると、ますます鈴鹿は顔を険しくした。

「ああ、そうだよ。姫条はどうしたんだよ。お前、留学したいって何処にだよ。留学したら離れ離れになるんだぜ? 姫条のこと大事にしてやれよ!」

 頭ごなしに鈴鹿は怒鳴った。

 鈴鹿は未だに姫条と美奈子が付き合っていると思っている。なら、この言葉は友人として正しい忠告なのかもしれない。

 頭では、そう理解できていた。だが、美奈子のなかにはふつふつと怒りに近い悲しみが湧きあがっていく。

 お門違いなショックだと解っていながら、鈴鹿に叫ばずにはいられなかった。

「そんなの和馬も同じじゃない! 留学したら紺野さんと離れ離れになるんだよ。それに……天童くんは私の友達よ。変な目で見ないで」

「――ッ」

 鈴鹿の顔が強張る。

 言ってはいけない言葉を言ってしまった。それも過去に似たような過ちを犯したにもかかわらず。

 ――やだ……私、最悪。

 美奈子は下唇を噛みしめた。

「ごめん。……帰る」

 美奈子は背中を向けると、足早にその場を去った。

 呼び止める声はない。

 美奈子はしばらく一心不乱に俯き歩いて、ふと巻かれたネジがきれたようにピタリと立ち止まった。後ろを振り返る。はばたき学園の校門はもう見えない。

「バカみたい……私」

 ふぅっと息を吐く。抱いた本の重みがただ痛かった。

 

25話へ続く

 

 

 
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