No.382668

悪鬼

樺原 恵さん

「修羅」の続編です。

2012-02-24 19:52:38 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:4658   閲覧ユーザー数:4656

 

 

 ――遠い昔、心も背中も預けた男がいた。

 若く未熟な心が赴くままに、悪さの限りを尽くした日々。

 目の前に立ちふさがるものを力でねじ伏せ、時にねじ伏せられながら、有り余る熱情を、理由の分からぬ苛立ちを、周囲にぶつけることで散らしていた。

 

 あの時の己を思うと、なんとも言えない恥ずかしさに苦い笑みがこみ上げてくる。

 人の迷惑を省みず、思うがままに振る舞う様は愚かではあったが、それ故に一途でひたむきでもあった。

 

 あれから年を幾つか重ね、分別というものを多少なりとも身につけたが、再び選んだ場所もけして褒められたものではなかった。

 京の町を守るという名目で、浅黄色の羽織を纏って練り歩く際に受ける視線は、冷ややかで多分に恐れを含んだものだった。

 

(・・・仕方ねぇわな。勝手にやってきて好き勝手する無法者と言われても返す言葉がねぇ)

 

 ――平助や新八は真っ直ぐで裏表がない分、自分達の行いに返ってくる視線の冷たさに、苦々しい思いを抱いているようだった。

 

(守ってやってる、か。向こうにしてみりゃ、誰が頼んだよってなもんだよな)

 

 二人が酒を片手にぶつくさと文句を言い合う時に、黙って聞き役に徹していると、「冷めてる」だの「格好つけてる」だの散々にこき下ろしてくる。

 話題は何であれ熱く語り合う二人の姿は、過去の俺とあいつを思わせて、見ていると苦い笑みが口の端に浮かぶのを抑えることが出来なかった。

 

 ――二人ならどこまでもいけると思っていた。得物を片手に、時には拳一つで向かってくる敵を叩きのめす時の、熱く浮遊するような感覚。

 背中越しに感じる、相手の熱と信頼。

 

「俺達はいつまでも一緒だ」

 

 そんな事を疑うことなく信じられたのは、若さ故だったと今なら分かるが、あの時は裏切られたという哀しみで一杯で、他には何も考えられなかった。

 少しずつあいつの様子が変わっていくのを、心のどこかで気付いていたのに。

変わりゆく関係を恐れて、見ない振りをして――。

 

「一緒に生きていきたい女がいるんだ」

 

 思い詰めた顔でそう打ち明けてきたあいつを、俺は詰って・・・追いつめて。あいつが唯一を見つけたことを喜んでやることもなく、冷たい目で見据えて、吐き捨てるように別離を告げた日を今でも鮮明に覚えている。

 

 謝りたいと思っても、あいつがどこでどう暮らしているのか分からない。俺自身も合わせる顔がなくて、故郷の地を踏めずにいる。

 

 心を預けた者との別離が、その後の人付き合いに影響を与えていることに気付いていた。

 誰とも深く関わらず、面倒事になりそうならあっさりと引く。

 喧嘩と酒とねぐらさえあれば、此処でなくとも良かった。

 

(人の心は移り変わっていく。信頼も絆も・・・そして愛とやらも、夢のように儚いもんだ)

 

 特に女は、どんなに潤んだ瞳で愛を告げてこようとも、いつまでも待つと殊勝なことを言ったとしても、先を約束してくれないとなると、あっさりと前言を撤回して他の男の腕に抱かれる、そんな生き物だ。

 

 だが、それだからこそ居心地が良いとも言える。泡抹のような頼りなく甘い言葉さえ囁けば、柔らかなその身で一時の悦びを与えてくれる。信ずるに値しないからこそ、何とでも言えた。

そ んな狡くて愛らしい女達と過ごすのは、楽しくもあり、また憎らしくもあった。

 

 あの娘が屯所預かりとなった経緯は、不運としか言いようがないものだった。

 戻らぬ父親の行方を探しに、江戸から遙々と京へとやってきた晩に、羅刹と遭遇した上に、それを始末する土方さんらに見つかって拉致されるとは、極めつけに運のない娘だと思った。

 

 もしあの晩、あの場面に出会さなかったならば、綱道さんの知り合いの医者の某かの所に身を寄せて、俺達とは関わることなく平穏に過ごせたのかも知れない、と時折考えてしまう。

しかし、彼女は今ここにいる。日の当たる縁側に二人して座り、穏やかな笑みを浮かべて俺の顔を見つめている。

 その瞳に滲むのは子供が親に見せるような信頼の色。

 出会った当初の迷い子のような表情に絆されて、なにくれとなく面倒を見ている内に、彼女は次第に心を開いてくれるようになった。拾った犬猫が自分一人だけに懐いたような、そんな優越感に浸りつつ、彼女を妹のように可愛がった。

 いつまでも共にいる訳ではなく、いずれ去る存在だと思っていたからこそ、無責任に口先だけの優しい言葉を幾つも投げかけ、彼女はそんな俺の本心を知らず、いつも嬉しそうに笑った。

 

 その微笑みに、胸の奥が痛み始めたのはいつの頃だったろうか。

 空疎な言葉を投げかけるのに、躊躇いを覚えるようになったのは――。

 

「原田さん、有り難うございます」

 

 実のない言葉に返される柔らかな微笑み。真っ直ぐに見つめ返してくる琥珀の瞳に、息苦しさと後ろめたさと・・・どこか浮き立つような思いを感じた。

 

(・・・違う。ただ絆されてるだけだ)

 

 心のどこかが、微かに軋む音を聴いた気がした。堅く封じた場所が、きしきしと不安をかき立てる音を放ちながら、ゆっくりと表に出る時を待っている――そんな画が脳裏を一瞬過ぎていく。

 

 彼女の微笑みが、ふとした瞬間に見せる寂しさが・・・弱さを一人かみ殺して泣く姿を見る度に、心の奥底が震えるのを感じた。

 以前の俺なら、犬猫をあやすように優しく慰めてやれた。肩を抱き、頭を撫でて、何処かで聞いたような中味のない慰めの言葉を口にして。だが今は、俯いて静かに涙を流す姿を、遠くからじっと見つめているだけだ。拳に力を込めて、彼女が己と向き合う姿を黙って無力感に苛まれながら眺めているだけだ。

 

 透明な涙が地に落ちる度に、彼女は本当の意味で甘えてきたことなど、一度としてなかったと思った。

 気まぐれに与えた優しさを、嬉しそうに受け取ってはいたが、彼女から何かを求められたことも、感情をぶつけられたこともなかったと、そう気付いた。

(・・・千鶴は知っていたんだろうか?)

 虚実の混じった、信頼に値しない俺の心を。それを知りながら、受け入れてくれていたのだとしたら、俺は極めつけの阿呆だ。

 甘やかしてやってると思っていたのが、実は甘やかされていた――そう思うと顔から火が出るような羞恥が全身を覆い、情けなさに苦い笑みがこみ上げてくる。

 

じ っと考え込んでいると、隣に座っていた千鶴が心配そうに顔をのぞき込んできた。さらり、さらりと艶やかな黒髪が揺れるのを見ていると、先日の池の端での出来事が思い返された。

 

 大きな庭石を分け合うように座る、睦まじい姿。いつも口元に皮肉気な薄笑いを浮かべているあの男が、あのとき彼女に向けていた笑みは穏やかで優しいものだった。

(・・・あれは、どこかで見たことがある)

 少し甘えを含んだような、子供のような笑みは――。

(そうか!近藤さんと一緒にいる時の…あいつだ)

 思わず手で膝を打つと、千鶴が驚いて目をみはった。

「どうされたんですか?」

 憂うような色を浮かべた瞳が、じっと観察するようにこちらを見つめている。

 それに曖昧な笑みを返しながら、彼女と総司がいつの間にそんなに仲良くなっていたのか、と訝しんだ。

 ほんの少し前まで、あの男は興味も関心もないというような顔をしていたのに・・・。

 

「原田さん?」

 名を呼ぶ声に彼女へと顔を向けると、ふいに通り過ぎた風が黒髪を乱して、白い頬を露わにした。

 少女と女の境目にある者だけがもつ、まろやかな曲線を描く頬。

 燃え立つ生命を感じさせる紅い唇。

 思わず手を伸ばそうとすると、それより先に記憶にある無骨な男の手が、彼女の頬を慈しむように触れるのを見た気がした。

 空中で止まった己の手を、何とも言えない気持ちで見つめる。

 

 あの時、あの瞬間に硬く封じていた心が溢れ出て、この娘に対する想いを自覚した。

 誰も立ち入らせなかった領域に、千鶴はいつの間にかするりと入り込みそのまま居座ってしまった。

 海辺の岩場で、うたた寝している内に、周囲に潮が満ちて取り残されてしまったような、そんな心許なさを感じて、寸時、放心したのを覚えている。

 

(とうとう俺にもやってきたか、とそう思ったんだった)

 

 親友のような唯一を羨望しながらも、それ故に壊れた関係を思って、心の何処かで女を憎んでいた。

 蜜のような甘い言葉も、戯れ言、睦事だからこそ言えたこと。そんな儚い言葉に喜び、縋る女を愛しく思いつつも、何処かで蔑んでもいた。

 

何故、この女なのだろうと思った。

千鶴より美しい女は幾らでもいる。華やかに狂った町で、そんな女達を気が向くままに抱いてきた。

 

(何故、千鶴なのだろう?)

 

 幾ら考えても答えは出なかった。それが故に、己はこの娘を本気で愛しているのだとも思った。

 想った相手の想った理由は・・・その存在が己に深く根ざせば根ざすほど、意味をなさなくなる。

 

 ――千鶴だから愛した。

 

それが唯一の答えのような気がした。

 

 

 以前から、総司は他の者より体が弱いところがあったが、ここ最近、寝付くことが増えたように思う。

 こんこん、と部屋の前を通る度に、苦しげな咳の音が聴こえてくる。そして、それを宥めるような柔らかな声もともに。

 

「お薬飲んで下さいね?朝の分を隠して飲んでらっしゃらないのを知ってますよ」

「知らないよ。ちゃんと飲んだよ。言いがかりは止めてくれない?」

「お庭の植え込みの陰に捨ててあるのを見つけましたよ。しかも初めてじゃないですね?」

 怒りを含んだ声に、わざとらしく咳をすることで誤魔化す総司。

 二人のやりとりに慣れを感じて、ぐっと拳を握りしめながら通り過ぎることも増えた。

 

 近藤さんも土方さんも、総司の病はいつもの風邪だという。たまに見舞いに行っても、小憎たらしい言動に変わりはなく、むしろ退屈そうに市中の様子を尋ねてくる。

 今も空いた時間に、土産の茶菓子を渡しがてら、総司の部屋に上がり込んでいた。

 

「ああ・・・退屈だ。僕もさっさと布団から出て刀振り回したいよ」

「おいおい・・・。ただでさえ俺達は厄介者扱いされてんだからよ、必要な時以外は抜くなよ」

「知らないよ。先に向こうに抜かせたらいいんでしょ。そんなの簡単だよ」

「お前・・・、下手なことすると近藤さんと土方さんが辛い目に遭うんだぜ?分かってんのか?」

「ああ、そうだね。土方さんはどうでもいいけど・・・近藤さんは駄目だ。じゃ、こっそりやるよ」

 そう言って冷たく笑う総司を、傍らで千鶴が案じるように見つめていた。

(・・・なんだ?やけに気にかけてるじゃねぇか)

 日々の雑用の合間に、総司の部屋に出入りしているのに気付いていた。

 雑用が終わった頃を見計らって声を掛けようとしても、いつの間にか姿が見えなくなっている。最初の内はあちこち探し歩いていたが、最近は総司の部屋を真っ直ぐに訪ねるようになった。

 

「あ、そうだ。千鶴、源さんが呼んでたぜ。夕飯の仕込みを手伝って欲しいんだと」

「井上さんが?・・・そういえば、いい野菜が沢山手に入ったと仰ってたような」

 そう呟きつつも、手は湯呑みや使った皿をてきぱきと片づけている。そして、軽く頭を下げると、廊下に出て足早に立ち去っていった。

 

 残された部屋の中で、足音が聴こえなくなるまで、二人で黙って耳をすましていた。

 完全に音がしなくなると、総司がいつもの皮肉気な笑みを浮かべながら、こちらを振り返った。

「行っちゃったね。最近口やかましいから、静かになっていいよ」

「・・・お前のこと、心配してんだろ」

 自分の女を荒く扱うかのような言い種に、軽く苛立ちを覚えた。

「そう・・・だね。彼女はよく気遣ってくれる」

そ う言うと、口の端に柔らかな笑みを浮かべた。

「誰も頼んでないのに。・・・変な子だよね」

 変な子だ、と呟く声は優しくて、口とは裏腹に彼女を大切に想っているのが伝わってきた。

「あいつは、そういう女だろ」

 お前が特別な訳じゃない、とささくれた感情のままに吐き出すと、濃い翠の瞳が、素早く探るように俺の顔を見つめてくる。そして、冷たいくせにどこか優しい・・・そんな奇妙な笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「・・・彼女が気になる?どうして、こんなに僕に尽くすのか」

「・・・・・・っ!」

 揶揄するような声に、ざっと顔色を変えた俺を、眼前の男は面白そうに見つめていた。

「ねぇ・・・、気になる?」

 小さく笑う声に、手のひらに爪がくい込むぐらい、強く拳を握りしめた。

「・・・それで?気になると言ったらお前は素直に吐くのか?」

 冷たい笑みを返すと、総司も俺を真似するかのように同じ笑みを返してきた。

「流石に付き合いが長いと言うべきかな?そうだよ、素直に言う訳ないじゃない。特に左之さんみたいな人には言いたくないよ。きっと、一生分からないよね・・・だって恵まれてるから」

 最後の言葉は掠れてよく聞こえなかった。ただ、総司の俺を見る目にどこか苛立ちと――微かに憎しみを含んでいるような気がした。

「・・・総司?」

 名を呼ぶと、男は我に返ったように、幾度か瞬きを繰り返した。そして俺に背を向けると、ひらひらと手を振って、出ていくよう無言で告げてきたのだった。

 

総司の長患いは、少し良くなったと思えば、翌日には熱を出して寝込む――そんな一進一退の日々が続いていた。

 千鶴は相変わらず、甲斐甲斐しく身の回りの世話をしていたが、少しずつ顔色が曇っていくのが気になって仕方なかった。

 

(・・・風邪の割には治りが遅ぇな)

 

 新八も、平助も、この所めっきり姿を見かけなくなった総司のことが気になっているようだった。

 心なしか近藤さんも土方さんの様子もおかしい。水を向けても誤魔化されて、腑に落ちないままに日は過ぎていった。

 

 

 

 ――ある夜。

 

 島原で酒を呑んで帰ると、庭先で見覚えのある人影がぼんやりと佇んでいるのが目に入った。その様子がやけに気にかかり、同行していた新八と平助を適当に煙に巻いて、急いで庭へと向かった。

 

 さくさく、と土を踏みしめる音が響いても、人影は深い考え事に囚われているように、ぼんやりと空を見つめ続けている。

姿 が判別できる距離まで近づくと、ようやく音に気付いたのか、ゆっくりと振り返った。

「・・・よう。こんな時間に何してんだ?」

 沈んだ様子に気詰まりを覚えながらも、努めて明るく声をかけた。

「――原田さん。原田さんこそ、どうして此処に?」

「呑んだ帰りに、ちらっとお前の姿が目に入ってな。落ち込んでるみたいだったからよ、気になって来てみた」

 そう言うと、千鶴は一瞬、口を開き掛けたが、すぐに思い直したようにきゅっと唇を噛みしめた。

「――どうした?何か・・・あったのか?」

 尚も問いを重ねると、薄闇の中で濃い茶に変わった琥珀の瞳が、惑うように揺れるのが見えた。

「原田さん・・・」

 俺の名を呼んだ後、しばらく無言の時が続く。先を辛抱強く待ちはしたが、なかなか続かない言葉に痺れを切らして、思わず口を挟んでしまう。

「総司か?・・・あいつの事で悩んでいるのか?」

 

 そう言った瞬間、千鶴の瞳に光が戻り、きつく唇が引き結ばれた。その様を見て、己が急いたせいで、せっかく開きかけた彼女の心を、再び閉ざさせてしまったのだと気付いた。

 

「いいえ・・・。少し星が見たくなったんです。澄んでーー綺麗ですよね」

 言いながらこちらに向けていた視線を逸らすと、逃げるように空を見上げた。

「――千鶴」

「なんでしょう?」

「・・・何を隠してる?」

 低く問いかけると、華奢な肩が震えて、それを隠すように自身の両腕で己を抱きしめた。

「いいえ・・・、何も。隠し事なんてありません」

 どこか冷たい響きに、二人の間に壁を感じてじわじわと苛立ちが募ってくる。

「なぁ・・・。聞かせちゃくれねぇか。お前がそんなに総司に尽くすのは、何故なんだ?」

 ささくれた感情を押し殺して尋ねると、目の前の人影が言葉に詰まって俯くのが目に入った。黒髪の合間からのぞく白いうなじに、思わず見入ってしまう。

 酒の入った体は熱く、視線は吸い寄せられたように、白い首筋から離れない。無意識に足を進め、真後ろへと立った。驚いて身を退こうとする小さな体を片手で抱き止め、空いた手を伸ばして、その滑らかな肌に触れた。

 撫でるように指を動かすと、小さな呻きが聴こえてきた。そのまま付け根まで下ろし、膨らんだ小さな骨をなぞった。

「やめて・・・」

 掠れた懇願の声に、横から顔をのぞき込むと、薄闇の中でも頬が赤く染まっているのが見て取れた。

「離して・・・離して下さい!」

 身じろぎする体を押さえつけ、笑いながら耳元で再び同じ質問を繰り返す。

「・・・お前は、何故、総司にそんなにも尽くすんだ?」

 吐息とともに言葉を注ぎ込むと、腕の中の体が小刻みに震えるのを感じた。

「なぁ・・・、教えてくれ。お前は――あいつに、」

「私が・・・、沖田さんを、」

 自分から問うた癖に、答えを聞きたくはなかった。うなじで遊んでいた指先を素早く伸ばして、続きを封じるように小さな唇を塞いだ。

 外気で冷えた唇が、己の熱によって温まっていくのを感じた。ゆるゆると指先で唇をなぞると、言葉にならない声が、指先の隙間から漏れてくる。

 

 いつか見た光景をなぞるように、上書きするように、唇で遊び、頬に触れを繰り返した。

 

 ぐったりと目を瞑る顔を眺めつつ、ゆっくりと耳元に唇を寄せた。そして、時間をかけて煮こごった醜い感情が命じるまま、言葉を吐き出した。

 

「・・・お前がそんなに面倒をみる必要があるのか?――ただの風邪だろうに」

 

 その瞬間、腕の中の体が激しく身じろぎをし、俺の腕を振りほどいて逃れた。そして、ぱぁん、と小気味よい音とともに、遅れてじんわりと頬に痛みを感じる。

 

驚 きで言葉を失っている俺を、千鶴は哀しい目で見つめていた。そして、ほろり、ほろりと幾粒か涙を流すと、そのまま何も言わずに黙って走り去って行った。

 

 残された俺は、次第に闇に溶けていく後ろ姿を目で追いながら、すっかり酔いが醒めているのに気付いた。

衝 撃で痺れた思考の中、己が取り返しのつかないことをしたのだと、ただそれだけは分かった。

 哀しげな眼差しと、頬を濡らす涙が頭に焼き付いたようにいつまでも離れなかった。

 

                                       【了】

 


 
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