No.377474

妖艶な女

ようえんって言葉そのものが妖艶ですよね。

2012-02-14 00:05:37 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:760   閲覧ユーザー数:758

「お疲れ様です。お先に失礼します」

 男は上司に別れを告げると会社の外へ出た。別れたといっても仕事が完全に終わったわけではない。これから家に帰って明日までの企画書を仕上げないとならないだろうし、これは形だけの退社に過ぎないことは男自身が分かっていた。

 簡単に見積もって二時間ぐらいかかるだろう。憂鬱な気持ちが晴れないまま帰路を辿る。歩いていると肌を刺すような風が時折やってくる。

 時刻は八時を少し回った程度。家に着いた頃にはちょうど九時になっている。仕事が終わるのは十一時だ。日が回るまで残りは一時間しかない。

 ――どうしてこんな仕事に就いてしまったのだろう――

 就職をしてからというもの、自由な時間は極端に少なくなった。大学生活は華やかなものであっという間に終わってしまったし、高等学校を出てから就職するまでは坂道を自転車で降りたようにスムーズだった。

 ――もっと辛い体験をしておけばよかったな――

 男の考えは少々ズレ始めていた。駅に着くと電車に乗り、家の最寄り駅で下車する。ここからは徒歩で家へと帰るだけだ。いつも通りの道を進もうと思ったのだが特に理由もなく遠回りをすることにした。少しでも気分を晴らしたかったのだ。

 川の近くを歩くとその水面には月が浮かんでいた。ゆらゆらと満月まで一歩手前の月が揺れている。

 ――いまの生活はなにか満たされていない――

 何が欠けているのかわからないまま男は歩みを進めていく。この辺りは都市部に比べてまだ自然が残っているほうだ。河原がコンクリートで補強されていることはよくあるが、ここはまだそんなことはない。いまが冬ではなく夏であるならば、緑の絨毯が川面に沿うようにして連なっているはずだろう。男は思い返すようにして眼を閉じた。

 ――眼を閉じたままどこまで歩いていけるだろうか――

 子供じみた遊びを試してみたくなり、実行に移した。一歩一歩をゆっくりと進む。傍から見れば夢遊病か盲目の人間だ。足取りもおぼつかないし、瞼も閉じている。だが男はそんなことを気にしていなかった。冷たいはずの寒気がどこか気持ち良い。ここが河原だということも忘れてそのまま夢の世界へと旅立ちたいほどであった。

「そこのあなた」

 不意に後ろから声を掛けられてひどく驚いた。恥ずかしいことを見られてしまったとようやく気づき、顔に血が回る。眼を開くとさっき眼をつむった位置から五十メートルほど進んでいたようだ。

「は、はい。なんでしょう」

 振り返るとそこには女がいた。細い手足にスラリとした胴体。髪は黒く、艶がある。服は軽装のようで、この寒さのなかワンピースにコートを羽織っているだけのようだ。

 ――緑の黒髪に、華奢な体つきをしてるなあ――

 男は女の体を眺めてそう思った。

「お時間、あるかしら」

 揺れる口元にさっき眺めた月を重ねた。女の顔も眺めてみると、随分と整った顔立ちをしている。

 ――ああ、そういうお仕事の方なのか――

「いえ、すいませんがあまり時間のほうは……」

 それでもう諦めると思ったのだが女は食い下がった。

「どうしても?」

 眼の色は深く、その瞳からなぜか畏怖を感じた。この眼にも先ほどの月を連想させるものがあった。眼差しの中にどこか色を含んでいるようにも思えた。なんと答えようかと戸惑っているうちに女は続ける。

「すぐでいいの。お金もいらないわ。ただ私を抱いて」

 どうしようかと男は迷った。これから家に帰っても仕事が残っているだけで、楽しいことなど何もない。だから先ほどのように子供じみた馬鹿げた遊びを試す気が起きたぐらいである。不幸な体験をしてこればよかったと考えたこともある。どうせなら一度嵌められてみるのもいいかもしれないという結論に至った。

「そういうことなら……」

「じゃあこっちにきて」

 女は男の手を引くと、歩き出した。女の動作は一つ一つが丁寧だった。歩く歩幅や道を曲がるときの動作などが変わらずに、そうやって教え込まれたのではと思うほどである。

 ――さぞや、うまい女なのだろう――

 すでに不安よりも期待のほうが高まっていた。

 女の足が止まるとそこは古い家だった。わびしさを感じさせる家でこの女以外には誰も住んでいないようだった。

「それじゃあ、あがって」

 男は黙って言葉に従った。中を進んでいくと、掃除はされているようで埃などは溜まっていない。台所も見えたが綺麗であった。女のあとをついていくと寝室があった。すでに布団は敷かれていて女が常日頃からこのようなことを行なっていることを示していた。

 女はコートを脱ぎ捨て電灯を消すと、肌着をすべて取った。満月の明るさには少し足りない月明かりが女の体を照らす。男の見立て通り女の体は秀麗であったが、純潔とは程遠い妖艶さを孕んでいる。

 男は女を愛撫する。二人の体はほてり、男は女を抱く。女は想像の通り巧みで男は何度も粘着液を女の中に吐いた。想像を絶する快楽に男は時間を忘れて女を求め続けた。

 

 目が覚めた頃には朝となっていた。仕事はもちろんのこと終わっていない。

 ――やってしまった、今から会社で作業をしなくては――

 女とはどうせ一日だけの付き合いである。眠っているのをわざわざ起こす必要もない。男は女を置いて家を出ると、そのまま会社へと向かった。

 駅で電車を待つうちに、不意に女の視線に畏怖を感じたのは何故かを考えた。行為が終わると畏怖などなにもなく、ただの綺麗な女であった。やはり月のように満ちていなかったのだろうか。きっとそうだろうと結論付けると、男は電車に乗り込んだ。

 男はその日のうちに死んだ。

 


 
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