No.364295

鬼の霍乱

natsubiさん

シリーズもの3作目。1作目:http://www.tinami.com/view/361157

2012-01-16 20:26:12 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:345   閲覧ユーザー数:345

 朝起きると、熱い湯気の立つお味噌汁と炊き立ての白いご飯が待っている。副食は日によって違うが、まあ焼き魚であることが多い。あとは歯を立てるといい音のするお漬物だ。

 いつものように目を覚まして、いつものようにうきうきしながら、沖はダイニングの扉を開けた。

 テーブルがいつもよりも広く感じた。いつもよりも冷たくて、ただひたすらに四角い。

 扉を開け放った姿勢のまま、沖は目を瞬いた。熱い湯気の立つお味噌汁と炊き立ての――以下略、がない。

「マツイチー?」

 声を上げるが返事はない。

「……寝坊かなー」

 松壱が寝坊するところなど、もう五、六年は見ていない。ありえないことだとは思うが、心当たりがないわけでもない。ここ連日、彼は大学のゼミで出された課題のレポートに追われてろくに寝ていなかったはずだ。

 沖は松壱の部屋の襖をノックした。

「マツイチー、入るよー?」

 やはり何の応答もなかったが、開けて中を覗く。

「マツイチ?」

 ベッドの端に明るい色の髪が見える。ただの寝坊か。いや――

「……マツイチ……?」

 何か、変だ。

 動物の直感でそう悟って、沖はそろそろと松壱に近づいた。

「……沖、か?」

 足音に気づいたのか、布団の中の頭が動く。しかし普段の姿からは想像も出来ない程、声が弱々しい。

 薄暗い部屋の中、逆光を浴びる狐に松壱は掠れた声を向けた。

「悪い、起きられない……。飯は適当に食べてくれ」

「マツイチ……もしかして……」

 呟いて沖は、首を捻って避けようとする松壱を押さえて、その額に触れた。

 思ったとおり、熱い。

「……って、ちょっ、半端じゃなく熱いんだけど!」

 三十七じゃきかない、三十八度はあるかもしれない。

「寝てれば治る」

 そう言って松壱は布団の中に潜り込む。

「待って、いつから? いつから熱があったんだよ?」

「喚くな。頭に響く」

 切羽詰って尋ねる声は不機嫌に一蹴される。沖はぐっと息を呑むと、声を低くして続けた。

「……冗談じゃない。寝てればいいなんて言われて、放っておくわけにはいかないだろ」

 松壱は、高嶺は代々沖を養ってきてくれた。その主人の大事に黙っていることなど出来ない。

「俺、なんか作るから……お粥とかさ」

「いらない」

「マツイチ……」

 食べなきゃ駄目だと言う狐に、松壱は寝返りをうって視線を向けた。

「きっと吐く。作るなよ、もったいない」

 沖はうつむいた。

 零れてくる言葉はいつもどおり毒っ気がある。だがこちらを見上げてくる双眸には覇気がなく、熱のせいか判然としない光を浮かべている。

「……分かった。じゃ、水だけ汲んでくるから」

「ああ、そうだな。それが助かる」

 下を見たまま唇を引き結んで、沖は部屋を出た。

 廊下で深呼吸をする。そしてきっと顔を上げると、沖はそのまま外を目指した。

「黒刀!」

 神社の裏から森に向かって声を上げる。間をおいて、反応がないのを確かめると、更に声を大きくして叫ぶ。

「早く来ないと標準録画してた映画の上にうっかり天気予報なんか録っちゃったこと、マツイチにチクっちゃうからー!」

「……っ卑怯だぞ!」

 バッと、側の木から逆さまに黒刀が顔を見せる。

「なんだ、そんなに近くにいるならさっさと来てくれればいいのに」

 唇を尖らせる狐に、黒刀は木の枝にぶら下がったまま眉を寄せた。

「てめえがこんな朝っぱらから俺を呼ぶときはろくなことがないときだ」

 きっぱりと言う黒刀に、沖は両の拳を握って見せた。

「マツイチが熱出して寝込んでるんだよ」

 黒刀が瞬く。二回、三回と瞬きを繰り返して、彼はやっとを口を開いた。

「昔はよくあったじゃないか。だいたい、あいつはそこんとこあんまり丈夫に出来てないんだよ。今更、慌てるな」

 その言葉はカチンと沖を叩いた。顔に黒い影を落とす。

「黒刀のバカ、アホ。薄情な黒刀なんか豆腐の角に頭ぶつけてヒヨコでも回せばいいんだ」

「……」

「もー!! ぼさっとしてないで、薬草!! 一番効く奴よこせ!!」

 遠慮などかけらも見せず手を差し出してくる狐に、黒刀は双眸を細めた。

「おまえ、人に物を頼むときはもっと謙虚にだな……」

「ばかー! 悠長にしててマツイチが死んじゃったらどうするんだよ!」

 ついに半泣きになって喚く沖に、黒刀は木から飛び降りて首を傾げた。

「そんなに酷いのか?」

 実際、あの宮司が病で死ぬなどありえないとは思う。だがこれほど沖を心配させる状態ではあるらしい。

 沖は小さく頷く。

「……ご飯、食べられないって……」

「それは熱があれば誰だって……」

 言いかけて、黒刀は口を噤んだ。

 ――そう、熱があれば誰だって苦しいのだ。

「分かったよ、薬草な。裏の庵まで行かなきゃないから、ちょっと待ってろ」

 頷いて涙を拭う沖の頭を叩く。

「バカ。泣きたいくらい辛いのは高嶺の方だろ。お前は側にいてやれ」

 叱咤激励を受けて、沖は笑った。

「黒刀が優しいと気持ち悪いや」

「んなことぬかしてると、薬草やらねえぞ」

 そう告げて、黒刀は地面を蹴ると空へと舞い上がった。黒い翼が地面に影を落とす。

「頼んだよ」

 沖が声を張り上げると、黒刀は片手を上げて見せた。羽ばたいて、離れていく。

 それを見送っていた沖は、神社の影に隠れていた人物が銀色のシッポを揺らしながら森の中へと分け入っていくのに気づかなかった。

「マツイチ、ほら体温計も。ちゃんと熱を計ってよ」

 上体を起こして水を飲む松壱に、ディジタル式の体温計を渡す。受け取りながら、松壱は眉を寄せた。

「熱があるって分かってて、何でまた計らなきゃいけないんだ」

 ぶつぶつ言いながらも脇の下に体温計をしまいこむ松壱に、沖は笑みを浮かべて見せた。

「時間を置いて、もう一回計ったときに熱が下がってたらほっとするだろ」

「下がってなかったらどうするんだ」

「そんなことは考えない」

 そう言って沖はタンスからタオルを引っ張り出す。

「ねえ、氷嚢(ひょうのう)とかはどこにしまってあるわけ?」

 首を傾げる沖に、松壱はさあと答える。

「そういうのはお爺様が管理してたんだよ。あの人が一番寝込まない人だったから」

「……じゃあ松蔵の部屋かな。それとも探すより冷えペタとか買ったほうが早いかな」

 悩む沖に松壱はそんなのはいらないと言う。

「それより一人にしてくれよ。寝たいんだ」

「ちょっと待ってよ。黒刀が薬草持ってくるからさ」

 タオルをベッドに投げ置いて、沖は窓の外を窺う。松壱は顔をしかめた。

「黒刀に言ったのか」

「当たり前じゃん。山の従者だよ。薬草に一番詳しいのはあいつなんだから」

「余計なお世話だ」

 と、言ったところへ、黒刀が窓から入ってくる。苦笑を浮かべる沖とベッドの上でぎくりと強張る松壱へ、彼はそれぞれ視線を向けた。そしてふっと笑う。

「余計なお世話さんの登場だ」

 窓の桟から飛び降りて、黒刀はサイドテーブルの上の水差しを取った。薬が入っていると思われる紙袋を振ってみせる。

「一番効いて、一番苦い奴。覚悟して飲めよ」

「んなもん、いらねっ……っ……」

 叫びかけて咳き込む松壱の横に黒刀は腰を下ろした。

「鬼の霍乱ってやつだな」

 背中を撫でてやりながら、もう一方の手でコップに水を注ぐ。

「その熱もコイツを飲めばすぐに引くさ。本っ当に苦いけど、遠慮しなくていいからな」

「覚えてろよ」

 優位に立って機嫌のいい天狗を松壱が睨む。が、もちろん黒刀はそんなことでは怯まない。

「そういうことはその可愛らしい涙目をどうにかしてから言うんだな」

「てめっ」

「ほい」

 怒鳴ろうと開かれた口に、ぽいっと丸薬が投げ込まれる。

「……っ!!」

「吐くなよー」

 首を振る松壱の顎を捕らえて、黒刀がコップの水をあてがう。思いっきり眉間に皺を寄せたまま、松壱はそれを飲み込んだ。

 零れて顎を伝った水を手の甲で拭き、松壱は口を押さえた。

「……っ……黒刀のバカ!」

 耐えられず目尻に涙がたまった。熱のせいで赤く上気した頬と汗に濡れたシャツが松壱を華奢な青年に見せる。その姿は幼少時、やはり熱を出して寝込んでいた彼を髣髴とさせた。当時の彼はまだ年相応に愛くるしく、黒刀にもよく懐いていた。

 そのことを思い出し、その松壱に非難されて黒刀は少し胸を痛めた。

 しかし薬はよほど苦かったらしく、松壱はおさまらず更に追い討ちをかける。

「お前なんか嫌いだ」

 ガビーン――とかそんな感じの音が黒刀の頭の中で尾を引いて鳴った。

「そんなに苦かった?」

 側で見ていた沖が興味深そうに首を傾げる。松壱は喉を押さえて答えた。

「人を殺せるくらい苦い」

「……それで死なないマツイチは人じゃないってこと?」

「あのな……」

 そのとき、眉を寄せる松壱を含め、三人の耳にインターホンの音が響いた。

「お客さん?」

「居留守でいいさ」

 首を傾げて振り返る沖に松壱はほっとけと告げる。

 だが二度、三度と響くインターホンに沖はついに立ち上がった。

「おい」

「大事な用がある人かもしれないじゃん」

 そう言って、沖は狐耳を人間の耳へと変化させ、髪も短くした。そして部屋から出て行く。

 ため息をつき、松壱は黒刀へと視線を向けた。なぜだかうなだれている。

(変な奴)

 頭の中で短く呟いて、彼は布団の上に寝転んだ。

 

「はーい、どちらさまですか?」

 沖が玄関を開けると、四度目のインターホンを押そうと構えている青年と目が合った。

 黒髪を短くした青年で、薄い眼鏡をかけている。黒いシャツと灰色のジーンズは幾分くたびれているようにも見えた。

「あ、えっと、俺、芥(あくた)っていうんですけど……」

 彼にとって沖の登場は予想外だったらしい。青年はあたふたと答える。

「えっと高嶺君と大学で……」

「ああ、マツイチの友達?」

「え、マツイチ? ……あっ、はい。……たぶんそうです」

 芥は頷く。

(『たぶん』て……)

 青年の困惑の原因が自分であるとも気づかず、沖は釈然としない気分で、青年に笑いかけた。

「マツイチはねー、風邪で寝込んでるんだよ」

「はい、知ってます。だから見舞いに来たんです」

 芥は買い物袋を掲げて見せた。何が入っているのか分からないが、重そうに袋が伸びている。

「あ、そうなんだ。ありがとう。えっと、じゃあ、あがって」

 中へ入るように示す黒髪の青年に、芥は頭を下げて高嶺家へと踏み込んだ。

「お邪魔します」

「千里(せんり)……!」

 沖に導かれて姿を現した友人の名を松壱が驚いた声で呼ぶ。

「よう」

 短い挨拶を返し、芥千里は手を上げた。

「じゃあ、俺達はあっちの部屋にいるから」

 沖は黒刀――人の気配を察してか、いつの間にか洋服姿に変わっていた――を連れて襖を閉める。室内には松壱と千里だけが残された。

「……何しに来たんだ」

 起き上がって呻く友人に、千里は上げた手をそのまま横に振る。

「起きんなよ。病人は寝てればいいんだから」

「そんなの俺の勝手だ」

 睨んでくるブラウンの双眸をものともせず、千里はベッド脇の椅子に勝手に腰掛けた。脚を組んでその上で買い物袋を開く。

「風邪引きマッチにお土産ー。うわー、俺ってば優しーい」

「それを世間では恩着せがましいというんだ。ていうか、マッチって呼ぶな」

 わざと間延びした口調で喋る千里に松壱は頭を抱える。熱のせいではない、別の頭痛がしている気がした。

 千里が取り出したのは桃の缶詰だった。

「やっぱこれでしょ。冷やして食べろよ」

「それは冷えてないのか」

「うん」

 眉を寄せる松壱に対し朗らかに答え、千里はショルダーバッグも開けた。

「ほい、こっちは昨日言ってた資料な。コピーだからやるよ」

 この紙束は本来、図書館で渡されるはずだったが、それはできなくなった。松壱は明日でいいと言ったが、提出期限間近のレポートの資料ともなれば、見舞いがてら届けてやろうという気にもなるものだ。

 そうして千里は長い石段を見上げて少しの後悔を覚えながらも、高嶺家を訪れるに至ったわけである。

「……悪いな」

 そう言って紙束を受け取ろうとする松壱の腕を千里が捕らえる。掴まれた腕を不思議そうに見下ろす友人に、千里は笑いかけた。

「悪い、じゃなくて『ありがとう』。ほれ、言ってみ」

 思わず松壱は顔をしかめた。

 この言い草。まるでどこかの妖怪たちを思い出させる。

「……おまえさ……」

「ん?」

「……いや、いい。ああ、ありがとう」

 肩を落としながら礼を言ってくる友人に、千里は目を瞬いた。

「おや、存外に素直。なに? 熱があるから?」

 知るか、とぶっきらぼうに答えて、松壱は貰った資料をベッド脇の机に置く。

 それを待ってから、千里は身を乗り出すようにして首を傾げた。

「そういや、さっきの人たち誰? 弟? なわけないか、似てないもんね。親戚?」

「背が低い方は従弟」

 一般人用設定で松壱は答える。千里は襖の方を振り返った。

「あれが噂の……」

「噂?」

 松壱が目を細めると、千里は視線を戻して答える。

「正月三箇日にバイトしてるって、あれだろ?」

 合点がいって松壱は頷いた。どうやら地元民には沖はバイト従弟として知られているらしい。まさか誰も彼をこの神社のご神体、しかも妖怪だとは思わないのだろう。

「ああ、そうだ」

 口元に小さく苦笑を浮かべる松壱に、千里は更に問う。

「もう一人は?」

「従弟の友人」

 これはあながち嘘ではない。松壱はそのままを答えた。

 千里はやはり背後を窺うように振り返る。そして今度は憚(はばか)るように囁いた。

「背が高くてちょっと怖そうだな」

「……そうか?」

 付き合いの長い松壱にとっては、黒刀の無愛想な顔も見慣れたものだった。疑わしげに尋ねてくる友人に、千里は素直に頷く。

「お前も背高いなーとは思ってたけど、それより高いもんな。それになんだか睨まれた気がして……」

 客人を睨んだのか。あいつめ、と内心で呟き、松壱は手を振る。

「あー、あれは人見知りなんだ。慣れればバカみたいに見えてくる」

 本人がいないことをいいことに、好き勝手に説明する。それを察して、千里は笑った。

「仲がいいんだな」

「いいもんか」

 即答する松壱に千里は更に相好を崩す。

「そういうことにしておこうか」

「どういうふうにしても、そういうことだぞ」

 松壱は釘を刺した。

 

「友人? ふうん、軟弱そうな男だな」

 居間のテレビの前の座卓で、黒刀はつまらなそうにそう言った。白い長袖ティーシャツの上に黒いオーバーシャツを着て、ジーンズを穿いている。そうして、缶からせんべいを引っ張り出す様は、とても天狗には見えない。

 不満を含んだ彼の声に、沖が眉を下げる。

「お前さ、相変わらずだね。人間嫌い」

「悪いか。俺は人間は嫌いだ。子どもは特に嫌いだ」

 つんとそっぽを向く天狗を、沖は頬杖を付いて見上げる。

「高嶺の人間は平気なんだろう?」

「あれは慣れ」

 あっさりと答えて、黒刀はせんべいの袋を開ける。

「というか、なんであの人間は高嶺の風邪のことを知ってるんだ?」

「あー、うん、でも友達って言ってたし。メールかなんか打ったんじゃない?」

 今日は日曜日だから、芥という友人も見舞いに来る気になったのだろう。

「ああ、携帯電話か」

 わずかながら疎ましさを滲ませる黒刀に沖は苦笑して見せるしかなかった。

 彼が人間を毛嫌い“してみせる”理由はなんだろうか。親しくなってしまうのを恐れているのではないかと、沖はそう感じていた。

 じっと見つめられるのが煩わしかったのか、黒刀は話を変えた。

「そういえば、チビは?」

 問われて、沖ははたと気づいて辺りを見回す。

「あれ? ……散歩かな?」

 ユキが山へ入っていくことは何も珍しいことではない。

 だが、まだ朝食を取っていないはずだ。

「……自分で狩りに行っちゃったかな」

 もとは野生育ちのユキである。その気になれば、自分で餌をとるくらいはするのだ。

 どちらにせよ、慌てるような問題でもない。

「そのうち帰ってくると思うけど」

「それもそうだな」

 沖の答えに、黒刀もどうでもいいように答える。そして空になった袋を三角形に折りたたんだ。

 小さなおにぎりの形にたたまれた空袋が三つほどできたころ、二人目のインターホンが鳴ったのだった。

 玄関を開けた瞬間、沖は表情を曇らせた。嫌な奴が来たのである。

 濃灰色のスーツを着た四十代ほどのその男は、黒い髪と黒い瞳、身長は標準よりやや高め、一見はエリートそうなサラリーマンである。彼は沖の渋面をものともせずに微笑んだ。

「久しぶりだね、沖君。松壱君に会わせてもらえるかな?」

 沖は首を横に振った。

「松壱は今は会えません。お帰りください、東條(とうじょう)さん」

 東條は片眉を上げる。

「会えない? なぜ? 今日は日曜日で、大学には行かなくてもいいだろう?」

 会わせられない理由は言いたくない。外出中とでも言えればそれでよかったのだが、東條の視線は松壱の靴を指している。

 沖は唇は引き結んで答えた。

「……松壱は寝込んでるんです。東條さんのお話の相手はできません」

 東條が目を見開く。

「寝込んでるって、風邪かい? それはいけない。見舞わせてくれよ」

 ちょうどいいと言うように手土産を掲げて見せ、東條は笑う。

 沖は青い双眸を細めて、声を低くした。

「あんたが会ったら、マツイチの具合がもっと悪くなるだろ。帰れ」

 険悪に言い返してくる「松壱の従弟」に、東條も表情を変える。

「言ってくれるねえ。汚らわしい妖怪が」

「あんたの方が汚らわしいよ。金の亡者、東條さん」

 妖狐の嘲りに、東條は眼差しに強い光を称え、声を厳しくした。

「どきたまえ。私は松壱の伯父だ。何の権利があってお前が邪魔をする」

「どかない」

 きっぱりと答える沖を、漆黒の双眸が睨む。

「上がらせてもらうよ」

 そう告げるや、東條は沖を押しのけて家の中へと入ってきた。

「東條!」

 沖が止めるのも聞かず、東條は廊下をすたすたと歩いていく。

 東條が歩いていくと、廊下で壁に寄りかかっている黒髪の青年と目が合った。

「君は……?」

 尋ねると青年は無表情に答えた。

「ただの知り合いだ」

「……そうか」

 他人に用などない。東條は松壱の部屋の襖を叩いた。返事を待たずに開ける。中には甥とまた知らない青年がいた。

「……東條さん」

 ベッドの上で松壱が呻く。目を瞬くばかりなのは千里だ。

「東條、帰れって言ってるだろう」

 あとから現れた沖が東條の肩を掴む。東條は苦笑して松壱に視線を投げた。

「ご覧のとおりだ。松壱君、こいつに一言言ってやってくれないか?」

 松壱は沖を見上げた。

「沖、下がれ」

「マツイチ……っ」

 沖が何か言おうとするのを、ブラウンの双眸が制する。

 ぐっと押し黙った妖狐を確認して、松壱は千里のほうを見た。

「悪い、ちょっと出てくれないか」

「あ、ああ。……帰った方がいいかな?」

 立ち上がりながら千里は困ったように問う。すると、松壱は唇の端をあげてみせた。

「いや、すぐすむ」

 どことなく剣呑な笑みに、千里は眉を下げて笑い、それから頷いた。

「分かった。待ってる」

 部屋から出て行く千里を、松壱は沖に目線で示した。

「客間で相手をしてやっててくれ」

「……分かったよ」

 不貞腐れた声で応じ、沖はぱしんっと襖を閉めた。

 その音に肩を竦めて見せてから、東條は千里が座っていた椅子に腰掛けた。紙袋に包まれた箱を差し出す。

「京菓子だ。みんなで食べてくれ」

「いつもありがとうございます」

 感情のこもらない声でそれを受け取り、松壱はベッドの脇に置いた。それからため息をつき、さも鬱陶しいように声を絞る。

「で、なんの用ですか、東條さん」

「伯父さんと呼んでくれよ」

 口元に笑みを刷き、東條は松壱の肩に手を置いた。

「私は君のような優秀な甥を持てて自慢なんだから」

 東條の手を払って、松壱は相手を見据えた。

 朝から止まない頭痛が、いっそう酷くなっていくのを感じながら。

 

 客間に案内された千里は座卓の端に座って、ぶつぶつとごちる友人の従弟を見た。

「黒刀もさ、あそこに立ってるなら東條を止めてくれればよかったのに」

 同じく客間にいる背の高い男は、その背後で窓の縁に腰掛けて庭を眺めている。

「俺は単にあの男を見てみたかっただけだからな」

 冷たく答える男を見上げていると、その視線に気づいて睨まれる。千里は肩をすくめてうつむいた。

「ちょっと黒刀、お客さんを怖がらせないでよ」

 沖が注意するのも聞かず、黒刀は続ける。

「あれが、先代高嶺の弟か……。似てないな」

「似ててたまるか」

 沖は吐き捨てた。

 珍しく毒を振りまく沖を見下ろして、黒刀は面白がるように笑みを浮かべた。

「なぜ?」

 沖は洋服の裾を掴んで肩を怒らせる。

「あいつは……山背(やませ)はマツイチが継ぐかもしれない東條の財産が欲しいんだ」

 千里ははじめて聞くその話に耳を傾けた。東條と言うのが松壱の母の旧姓だというのは知っている。

「その山背も東條の直系だろう?」

 首を傾げる黒刀を沖は見上げた。

「うん。今の東條の財産を管理しているのは六花のお父さんで冬詞(とうじ)っていうんだけど、冬詞は松蔵ととても仲がよかったんだ」

 黒刀が頷く。先々代高嶺と先代高嶺の父親は友人同士だ。

「だから冬詞も六花を高嶺に嫁に出したんだけど……。冬詞は娘を愛していてね、本来、東條の財産の四分の三は六花が継ぐはずだったんだ」

 だがそれは六花が高嶺の嫁になり、数年後病でこの世を去ったことで無効になった。

「そこで冬詞は財産を孫の松壱に四分の三を譲ると決めた」

「……なるほど、山背には四分の一しかいかないわけか」

 黒刀は酷薄そうな笑みで、山背がいるであろう方向を見やる。

 千里は話を聞いていて気になったことがあった。勇気を出して口を開く。

「あの、それって松壱が相続権を放棄した場合はどうなるんですか?」

 その場合に四分の三が山背に行くのなら何の問題もないはずだ。

 確かにそこだね、と言って沖が頷く。そして彼は山背をからかうかのように笑った。

「四分の三、全部が美術館や医療関係に寄付されることになってる」

「東條さん、俺は何度も言ったはずです。相続権は放棄する、と」

 そう告げる松壱に対して、東條山背は笑みを崩さない。

「君は東條の財産を知らないからそんなことを言うんだ」

「知ってますよ。でも俺には必要ありません」

 頑なに拒む甥の肩を山背は掴んだ。色素の薄い、自分とは似ていない双眸を見つめる。

「なぜだ。なぜ、無意味に手放すんだ?」

 松壱は伯父を嘲るように笑った。

「あなたに譲るよりは意味があることだと思うからですよ」

 かっと山背が目元を赤らめる。

「善人ぶる気か! あのろくでなしの息子が」

 怒号は無遠慮に松壱の劣等感を刺激した。松壱が睫毛を震わせ、そしてうつむいて声を絞る。

「……俺はあんな奴の息子じゃない」

「息子だよ」

 山背は甥の襟を掴み、嬲るように吐き捨てた。

「鏡を見てみろ。お前のその顔は間違いなく、あの男のものだ」

 胸を締め上げられる息苦しさに眉を寄せながら、松壱は頭を振った。

「……黙れっ」

 その声に呼応するようにびしっと空気が弾け、乾いた手で叩かれたような痛みが山背の頬に走る。

 痛みと怒りに山背は顔を歪ませた。

「妖怪を飼いならす力がこれか!」

 叫ぶな――松壱は頭の中で呻いた。

 男の怒罵は脳内で狂ったように響き、頭痛を増長させる。熱に侵された体は言うことを聞かない。

「姉さんは優れた術師だったが、お前が継いだのは父親の粗野な力のようだな!」

 松壱はぼやけた視界で山背を捉えた。

(叫ぶなよ。……自制できなくなるだろ……)

 彼は身の内に流れる霊力が、渦巻いて勝手に暴れだそうとしているのを感じていた。幼い時も熱を出したときは霊力を上手く御せなかったのを覚えている。

 ただでさえ集中力が落ちているこの時に、耳元で騒がれると、いっそ流れのままに力を解き放ってしまいそうになる。松壱はきつく目を閉じた。

(落ち着け……)

 父親がどうしたというのだ。

 あの男がどんなに暴力的な人間だったとしても、自分には関係ない。

「……帰ってください、東條さん。俺はなんと言われても意見を変える気はありません」

「っこの!」

 山背は甥を突き飛ばした。なす術もなくベッドに倒れこみ、松壱はシーツを握り締めた。

 思考さえも飛んでいきそうな感覚。だが、決して放り出したいわけではないのだ。自分は衝動的な怒りを最も恐れている。

 理性に縋るように、松壱は呼んだ。

「……月佳、来い」

 

 がたんっ!――と沖が立ち上がる。

 千里はぎょっとして肩を跳ねさせた。

「沖?」

 黒刀が呼び止めるが、沖は滑るような動作であっという間に客間から出て行く。

 唖然とする千里には構わず、黒刀は紫黒色の双眸を細めた。

(呼ばれたのか……?)

 今はこの部屋にいない、現高嶺だけが沖を自由に呼び出すことが出来る。

 妖怪の手綱、真名によって。

 

「マツイチ!」

 襖を外さんばかりの勢いで現れた妖狐に驚きながら、山背は振り返った。

「なっ?」

 当惑する伯父の背後で、松壱は唇を笑みの形に歪めた。

「東條さんはお帰りだ。送ってやれ」

 月佳は頷いた。

 そして立っている男の肩を掴む。

「なんなんだ?」

 半ば怯えるように山背は後退ろうとする。

「石段の下に車がある……」

 独り言のように呟き、月佳は掴んだ男をそのまま放り投げんとするかのように、引っ張った。自分よりも背の低い華奢な青年に身体を浮かせられることに、山背は驚愕した。

「うわっ!?」

 そしてまるでぽおんと投げるような感覚で月佳が手を離すと、山背の姿は室内から消えた。

 ぱんぱんと手を叩き、月佳は主を振り返った。

「終わったよ」

 嬉しそうに笑う狐に、松壱は追い出すような仕草で手を振った。

「靴もだ、バカ。早く届けて来い」

「あ、そっかー」

 いそいそと出て行く狐を見送ってから、松壱はため息をついてベッドに転がった。

 

 放り投げられた。

 奇妙な浮遊感を覚えて目を閉じていた山背は、体がどこかに着地した感覚を受けて、恐る恐る目を開いた。

 そこは神社の石段の下に停めていた自分の車の中だった。身体はきちんとシートにおさまっており、木陰に停めていたせいでほんのりと湿ったような涼しさが車内にはある。

 ほっと息をつくと、膝の上にぼとぼとと靴が落ちてきた。

「わっ」

 驚きながらもそれを受け止める。まだ何か落ちてくるのかと身構えるが、次はなかった。

 そして今度こそ、安堵の息をつき、山背は車のハンドルに額を押し当てた。

 徒労感に重い溜息が漏れる。行ってみたら熱があるというので、今日は交渉し易いかもしれないと思った。だが、結局いつもよりもどたばたした帰還を受けてしまった。

 あの背の高い男もおそらく人ではない。術は使えないが、山背もまた魔性の存在を視認することができる。だが、彼はそれらと馴れ合うつもりはなかった。

(……妖怪屋敷もいい所だ)

 彼はぽつりと呟いた。

「疲れた」

 しばらく甥のところを訪れるのは控えよう。

 山背はのろのろと靴を履くと、車のキーを差し込んでエンジンをかけた。

 靴を山背の元に送ってから、沖は松壱の部屋へと足を向けた。

 部屋の前に黒刀が立っているのが目に入る。千里も一緒だ。

「何してるの?」

 沖が問うと、黒刀が振り返った。

「山背を帰したみたいだったからさ」

 なるほど妖力の気配でそれを悟ったらしい。黒刀が客間から出て行くので、千里もついてきたのだろう。

「……で? なんで二人してそこで止まってるのさ」

 中に入るか入らないのかはっきりしなよ、と沖が促す。すると黒刀が珍しく微笑んでみせた。

「入れない」

 そう言って部屋の中を指差す。沖はそれに従って中を覗いた。

 規則正しい寝息が耳に届く。

「……ああ」

 朝から止まない訪問者の相手をさせられていた松壱は、やっと眠ることが出来たらしい。

「起こすと怖いしな」

 黒刀は回れ右をする。そして自分はどうしようかと悩んでいる千里の首根っこを掴んだ。

「もうすぐ時代劇の再放送の時間だ。付き合え、人間」

「え!? え? あの……?」

「高嶺が起きるまで暇だろうが」

「……あー……はい」

 困惑しながらも頷く千里をずるずると引っ張っていく黒刀を見送って、沖は苦笑混じりに嘆息した。

 それから松壱の方を振り返る。すやすやと眠るその寝顔を見るのは久しぶりである。

(大きくなるのが寂しいのは、やっぱり親心かな……)

 胸に濡れ渡るものを感じながら、沖は襖を閉めた。

 ふと背後でガサガサという音がする。はっと振り返ると、庭の茂みから銀の尻尾が覗いていた。

「……ユキ?」

 そういえばすっかり忘れていた。

 沖が呼びかけると、ぷはっとユキが顔を出す。頭に木の葉がたくさんついているが彼女は意に介さず、満面の笑みを浮かべた。

「沖様、ただいまです! ユキも持って来ました!」

 そう言って掲げる手には緑の葉っぱ。脇には更に大量の葉が入った籠を抱えている。

 沖は眉を下げた。彼女なりに松壱が心配だったと言うことか。

 縁側によじ登る仔狐を抱き上げて、沖は笑った。

「ありがと、ユキ。でも今日は黒刀がお薬持ってきてくれたから、ユキのは今度な」

 しかしユキは首を振る。

「沖様、違います。これ蓬(よもぎ)です。お餅にするんです」

 目をぱちくりさせる沖に、ユキは松壱の部屋の方を指差して見せた。

「高嶺は甘いのが好きだから、お餅食べたら元気になります。ご飯食べれなくても大丈夫です」

「ああ、なるほどね」

 食事を取れないと言う松壱が、草餅ならば食べれるというわけでもないだろうが、ユキはそれで大丈夫だと考えたらしい。

(まあ、起きる頃には黒刀の薬が効いてるだろうし……)

 松壱も何かしら口にすることは出来るだろう。

「よし、じゃあ、草餅作ろうか」

「はい」

 微笑む養い親にユキも頷いて笑った。

 

「黒刀ー、餡子とってー」

 蓬を混ぜた餅を丸めながら、沖が黒刀を呼ぶ。餡を練り終えて脇においていた黒刀はめんどくさそうに答えた。

「自分でやれ。俺はテレビを見るので忙しいんだ」

「あ、あのどうぞ」

 千里が餡の入ったボールを沖の側に運ぶと、沖は彼ににっこり笑いかけ、それから黒刀を見下ろした。

「ありがとう。芥君は優しいね。そこのバカとは大違いだ」

「……バカって誰だ」

「黒刀です」

 呻く天狗をユキが無邪気に指差す。

「チビ助、人を指差すな」

「チビじゃないです。ユキはキツ――むぐっ」

 千里の前でとんでもない事を口走ろうとする子狐の口を沖がとっさに押さえる。

「どうしたんですか?」

 首を傾げる千里に、沖は乾いた笑いを漏らした。手の中ではユキがじたじたと暴れている。

「なんでもないよ。さ、早く仕上げちゃおうか」

 

「まずい」

 草餅を一口かじって松壱はそう呻いた。

「わ、ひどー」

 見守っていた沖が声を上げる。彼の前には皿に盛られた草餅の山。

「美味しくないですー」

 その横で同じく草餅を口にしたユキが涙ぐんだ。

「餡に塩が足りない。餅が硬い」

 かじった草餅を呑み込んで松壱が指摘する。

 餅担当の沖と、餡担当の黒刀が互いを睨む。その横で千里がへらっと笑った。

「まー、いいじゃないか。みんなで作ったんだからさ。そう思えば美味しく感じるだろう?」

「うわーん、芥君いい人!」

 沖が千里に飛びつこうとするのを、松壱が側のファイルで叩いて制した。涙目で鼻の頭を押さえる狐をブラウンの双眸が刺す。

「馴れ馴れしい」

「マッチ、嫉妬しなくていいから。ほらほらいつでも飛び込んできていいから」

「千里、お前は鬱陶しい」

 両手を広げる友人に大仰にため息をつく松壱に、沖が笑う。

 それを睨んでから松壱は手にしていた残りの草餅を口に詰め込んだ。

「……ほんっとうに硬いな」

「もー、マツイチはしつこい!」

 手を振って怒る狐とそれを笑う三人、それらを見渡して、松壱は微笑んだ。

 どうしようもなく甘い笑みに沖が動きを止める。残りも同様だ。皆、頬を染めている。

「お前らは、俺がいないと駄目だな」

 しょうがないな、と呟く声は何かを確かめるような響きを帯びていた。

 色の淡い花が日向で綻ぶようなその笑みは、実に久しぶりに見る。沖が大好きな松壱の笑顔だ。

 沖は嬉しくなってこくこくと頷いた。

「そうだよ。だから、早く元気にならなきゃ。マツイチがいなきゃ駄目なんだから」

 その頭を松壱がすぱんと叩く。

「調子に乗るな。俺がいなくてもいいようになれ」

「あう」

 今度は頭を押さえる沖を横目に見ながら、黒刀がにやりと笑う。

「それは無理だ。沖はきっと四百年経っても進歩がない」

「それはひどいでしょーも。俺だって成長するよ。そういう黒刀なんか六百年経っても変わんないよ」

 どうしようもない言い合いを続ける妖怪どもに嘆息する松壱の横で、千里は羨ましそうに笑った。

「四百年とか六百年とか……そんな先まで考えられるって、ちょっと凄いよね」

 千里は二人が妖怪であることを知らない。その上での言葉だ。

 松壱は友人の横顔を見つめて、そして再び沖と黒刀、ユキに視線を移した。

「そうだな。そんなに長く付き合いを続けようって言うんだから……敵わないよ」

 小さく漏らされたその言葉に千里は目を瞬いた。それから笑う。

「マッチって風邪引くと人が変わるねえ」

「うるさい」

 ベッドの端で体育座りしている千里は膝の上で腕を組んで笑った。

「へへ、ほっとした。マッチ一人暮らしだって聞いてたからさ……。こんな仲のいい従弟がいるなら大丈夫だね」

 そう言いながら沖たちを見る千里の笑みは絶えない。

 松壱は嘆息して、皿の上の草餅を見た。そしてもう一度、いまだ黒刀と舌戦している沖を見る。

「まったく、どうしようもない従弟だよ」

 誰にも聞こえない声でそう呟いて、松壱もまた笑みを浮かべた。

 空を見上げれば冷たい風が駆けている。けれど朗らかな笑い声達はそんなことなど気にせずに、高く舞い上がっていった。


 
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