No.35108

マンジャック #10

精神レベルで他人を乗っ取れるマンジャッカーという特殊能力者を巡る犯罪を軸にしたアクションです。

2008-10-10 22:11:08 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:368   閲覧ユーザー数:352

マンジャック

 

 

第十章 収束 I・NET

 

 篠つく雨は正午を過ぎても止む気配を見せない。多湿化した首都圏は蒸し暑さの度を更に増し、今や不快指数100の苛立ちが人々の暗鬱たる心を満たしている。

 さる人は窓を開けてその日六回目の天仰を行い、さる人は足先からじわじわと水分が浸透するのに堪えながらも傘を前に出して進んでゆく。

 都内某所のこの建物の一室にも、分け隔てなく湿気は侵入し、内部の空気を不健康なものに変えていた。

 そして、そんな雰囲気に気圧されたのか、苛立ちの罵声が室内を満たした。

「だから言ったじゃないか。こんなこと巧くいく筈ないって!」

 だが、それに応じる言葉は対照的に、淡々としたものだった。

「今更それはないだろう。ヤムにコンタクトを取るのにはお前だって賛成しただろう。」

 両の壁を圧する書棚はこだまを返さず、薄暗く狭い部屋には二つの抑揚の声がただ染みてゆく。奇妙なことは、その声は驚くほど似ていたことだ。

「あんなことになるんなら、こんな計画を起こそうなんて思わなかったさ。」

声を発した男は両の拳を机に押しつけた。白衣を身につけたその男は、整えられていない髪と無精髭が、彼の疲労の深さを示しているようだ。

 だが次の一瞬で、その男の目つきが変わった。

「結果論だろう。十人や二十人の犠牲は仕方がない。」

 何ということだろう。その声は俯いた男の、その同じ口から発せられていたのだ。

「かりにも人命を預かる職業を糧としている者が不謹慎な言葉を使うな!」

男はまた自分の声に反論した。一人芝居にしては真に迫っている。

「聴いた風なことを言う。自分をどれほどの人間と思っているのだ。」

 男はきついところを突かれたらしく、表情に狼狽えが現れた。

 反論するには、たっぷり十秒を要した。

「お前が再び現れさえしなければ、私は家族と静かな生活を送れていたんだ。」

「泣き言か。俺が現れたのは必然さ。あんたがあの発見をすることが、俺を呼び起こすきっかけになったんだよ。」追い打ちをかけるように男は続けた。「あんたにはその素質があったんだからな。」

 男は眼を見開いた。唇が震えている。

「カマトトぶるなよ。お前は奴を殺したんだ。自分の名誉欲のためにな。」

「それだよ!」声はいっそう荒げた調子になった。「あの時、彼の本体は確かに、業火に身を焼かれていた筈じゃないか。何で、何で奴が生きているんだ!」

「お前には予感があったんじゃないのか。ハンターの件にしてもそうだったんだろ。」

 苦悩の発言に対して残酷なほどはっきり、男は事実を吐露した。

「奴は死んでいなかったんだよ。ゼロ・ヒューマーになってたってことだろ。」

男の顳かみに血管が浮いた。動揺がアドレナリン分泌を高めたのだ。

「精神科の高畑が特拘への定期検診を断られたそうだ。取り込んでいるから来なくていいとさ。」男は毒づく。「まったく。捕まったというからぬか喜びしていた矢先だ。」そして黙考の後、

「となると、あいつが逃げたことはまず間違いないな。」

「来るのか。」男は怯えた声を出した。「今度こそ。復讐に...。」

 

「さて。」だが、男はそんな言葉を無視するかのように話題を変えた。「次の手を打つか。」

「ま、まだやるのか。」

「当然だろう。そのために俺はいるんだぜ。」

 彼は机上の電話で秘書の女性を呼びだした。

「行くのか。」

「あぁ。少し状況を調べてくる。あんたはもう一度網を張ってくれ。」

 ノックがした。挨拶の後、女性が入ってくる。

「お待たせしました。お茶をお持ちしました。」

「おおどうもありがとう。待ちわびていましたよ。」

 男は一刻も早くという様な素振りを見せて椅子から立ち上がると、秘書の手から直接湯のみを受け取った。そのとき、男の手は僅かに彼女の手に触れる...。

 女の目つきが変わった。女は微かに微笑んで言った。

「いずれにしろ、もう後戻りは出来ない。あんたと俺は一心同体だからな。」

 男は頭を抱えて黙り込んだ。女は部屋から出て行く際に言葉を残した。

「心配するなよ。あいつに俺達のことが判る筈がないさ。」

 女性らしからぬ音を立ててドアが閉まった。

 

 窓ガラスには吸着力が重力に負けた水滴がまた一つ伝った。落下速度のじれったさは、そのまま原尾の焦燥を象徴していた。

 ボロボロのベンツで警視庁に戻った原尾は、対特の総力を挙げてのカタストロフ社日本本社への強制捜査をブチあげたものだ。

 だが、強制捜査は結局果たせなかった。警視庁上層部からの命令でストップがかかってしまったのだ。対特の組織は司法関係の中でも特異な地位を占めているため、その行動を左右できるのはかなり上級の地位にある者であるという事を意味する。

 外交圧力か...。

 原尾の推測は的外れではあるまい。表向きは経済外交を旨としているパシフィックが事件の中に絡んでいるとなれば、一人の警官の証言如きでカタストロフ社を強制捜査して、無駄足だったと判ったときの責務はどう取る。

 結局、その日は都中の消防車がプリンスホテル周辺のテロ火災の鎮火から、休む間もなくカタストロフ社に直行し、警察も通常の現場検証を行うというだけの動きに留まった。

 

 プリンスホテル周辺での過激派テロによる死者行方不明者、推定220人。

 同じくカタストロフ社内での不慮火災による死者行方不明者、35人。(ただし、軍属と思われる者の死体は見あたらない。)同時多発の災害としては類を見ない規模のものであった。

 プリンスホテルで起こった爆発は想像を絶するもので、七階までは建物の半分が無くなっていた。建築物をそこまで破壊するのに爆薬を外に仕掛けたとは考えられない。明らかに意図的に学会会場での惨状を隠蔽するために、建物内部に仕掛けたのだろうと思われる。

 これらの災害について翌日のマスコミは憶測誤報諸説乱れ飛ぶ大賑わいで報道していたが、何かしらの形で入ったらしい圧力のせいで、あっと言う間に沈静化してしまった。始めこそつられて騒いでいた人々も、飽きっぽいことは人々の常か、すぐに当たり前が待ち構えている日常生活に戻っていった。

 原尾の落胆はしかしその後すぐに、更に追い打ちをかけられた格好になった。警察手帳と拳銃を無くした事による謹慎処分である。幸いにして拳銃に弾は込めていなかったからとはいえ、減俸始末書に加えた、三週間の警察寮外出禁止...。これは寧ろ、表向きには軽い方だといえよう。だが、この時期に動けぬ事自体が、彼女にとっては手足を縛られる以上に重く感じられたのである。

 だが、今までの原尾とは違う気概が、こうした現実の重さにも立ち向かう力を与えている。

 今、原尾は自分の部屋にあって、ただ無表情に机上のコンピュータを操作していた。彼女の視覚を司る両眼の水晶体には、モニタからの光が反射している。

 原尾は時折マウスを動かしては、変化した画面に見入る。何かを探して...。

 外のことは馳君たちに任せるしかないわ。今の私に出来ることは、これだけだもの。

 

 窓も閉め切った真っ暗な部屋で、コンピュータからの光だけが室内の様子を探っていた。部屋の中央に、光に照らされたソファに座り込んでいる男がいた。

 クール。

 組んだ手の脇からモニタを見つめる彼はまったく動かない。ただ、日本特有の蒸し暑さに慣れない肌から流れる汗を除いては。

 彼は何をしているのだ。彼にはそんなことをしている余裕はないのではなかったのか。壁の上にある掛け時計の針が一回動く時間さえ、彼には惜しいのではなかったか。

 彼は待っている。

 彼の動く時はまだ来ないのだ。長針が頂点に来なければ鳩が出ないように、彼の欲する物は二つともまだ時の扉の向こうにあり。

 蒸し暑さとは別の理由から来る汗が、彼の頬を幾筋流れようとも...、

 彼はじっと待つ。

 

 焦燥していたのは、なにも原尾だけではない。課長の明林をはじめとする対特の全てのメンバーが同じ気持ちだったのである。

 ノヴァを警視庁内部で殺害されたことは、対特の威信を大いに欠く結果となった。その名誉挽回を兼ねての成田への大規模な捜査網も、結局は空振りに終わって、しかも馳からプリンスホテルにいる旨の連絡があって間もなくの大惨事である。

 あれだけ材料が揃っていながら、我々はそれを防ぐことが出来なかった。明林の苦悩は深まるばかりだった。

 事件当夜の原尾の様子を見れば、彼女は真実を語っているかどうかはすぐに判った。あの迫力は、嘘や出鱈目で出来るものではない。その意気を感じたからこそ、彼はすぐにも対特の総力を挙げたカタストロフ社の強制捜査にかかろうとしていたのだ。それは実行されていたろう。政府からのあの電話さえなければ...。

 一連の事件のその後の捜査も難航している。もともとジャッカー犯罪はその性質上、第三者の証言を得にくいのだが、今回のように明確にジャッキングが行われた場合でも、状況は似たようなものだ。滅多なことを話して、それがどう洩れるか分かったものではないという考えが、目撃者の頭を第一によぎるからだ。だから、転移学会に出席していた筈の人々も、会場にジャッカーがいたことを認めはするものの、口裏を合わせたように積極的な証言をしたがらない。よって今回の鍵を握るであろう、ホテルから忽然と消えたらしいジャッカーのことや、クール隊と称する米軍精鋭部隊の消息などについても全く掴めず、雲を霞の状態なのだ。

 結局、今回の成果といえば成木黄泉と名のるジャッカーを馳が逮捕(?)したことだけだったが、成木は特拘に送られてすぐ謎の自殺を遂げ、あまつさえ操乱は脱走し、逃走課程で警備員達は全員殺害されたという有り様だ。(クール隊の死体は運び去られていたため、敷地外での血痕は未確認事項となっている。)

 

 紳士で通る明林の背広の着こなしが乱れているのも無理ないところだろう。おしよせる疲労が身繕いさえも忘れさせているのだ。彼は止めていた筈のタバコを机の引き出しから取り出し、手にとって火を付けた。

 だが実は、かくも深い今回の事件のうちでも、明林を最も苦悩させているのが、公的には死んだとされる成木の存在なのだ。

 自殺だ? 彼は放り出した報告書に憤慨しながらもう一度目をやった。特拘に向かった捜査員と医師達が下した結論は、”閉塞空間に閉じこめられたため、先天的に持っていた神経症因子の突発的な発生が、一時的な心身制御の喪失をもたらした故の行動と考えられる。”というものであった。検死時に頭蓋内に見られた脳の萎縮や、凶器として手首の動脈を切ったであろうテレビカメラのレンズに成木の指紋が付いていたことから下した判断は、一見納得すべき結論であるように見える。

 しかし、それならば操乱が逃げられたのは何故だ? わざわざ監視室に行ってモニターの記録を消し去ったのは何故だ? 看守である戸塚の血の付いた足跡が、成木の部屋から明らかに歩いて外に出ているのは何故だ?

 成木は生きている。明林はこれらの疑問への答えに、そう叫ばざるを得ない。

 だがそうなると、彼が辿り着く可能性は、もはや一つしかない。

 成木黄泉。奴はゼロ・ヒューマンだ。

 明林は絶望的な気持ちでこの結論を再確認した。

 それが存在したという事実だけでも、一体どれほど大きく社会を揺るがすか考えもつかないとされるゼロ・ヒューマン。

 彼の男も絡むほどの事件とは...。明林は、底無しに深まってゆくかに見える状況に、深い嘆息をつくばかりだ。

 

 だが落胆ばかりはしていられない。クール隊とかも勿論だが、何とかこのバケモノを再び捕まえなければならない。彼は既に原尾以外の対特の全員を捜査に派遣した。成木が生存していて、しかも操乱と行動を共にしているという想定の元で、奴等の潜む場所をつきとめろというのがその指示内容だった。手がかりはあるんだ。後は全員の足に頼るしかない。

 けどなぁ。彼は情報の発信元の男の顔を思い浮かべると、この深刻な状況にも拘わらず、苦笑しつつ椅子に深く沈み込むのだった。

 

「ご免下さぁい。」

「ご用聞きかお前は。も少し歯切れよくしろ。」

「す、すみませんー。」

「...。」

 鈴鳴は思わず手を顔に当てた。原尾が謹慎している今、馳とコンビを組まされているのは、対特で明林に次ぐ年長者の彼なのである。気の毒に、江戸っ子的短気質の彼は、馳のペースにすっかり参っていた。

 まったく、こいつとコンビで原尾君はよくやってるよ。鈴鳴は心底思った。

「これでもシャキッとしていると思うんですがねぇ。」と言うと、彼は鉄扉を叩いてもう一度中の人間に呼びかけた。

 池袋・サンシャイン60の隣には、実に80階という頭一つどころか、十くらい抜きん出た第二タワービルが三年前に出来た。その最上階に移設した水族館は以前にも増して観光客を惹き付けるようになっていたが、その三階下の77階に、鈴鳴と馳の二人は来ていた。

 やがて、前にした鉄扉が開いて、妙な覆面を被った者が出てきた。その者は男とも女ともつかぬ声で言った。

「何ですか。」

 今度は鈴鳴が切りだした。

「警察の者です。2,3お伺いしたいことがあるのですが、あなたはロンド・バリの関係者の者ですか。」

 その者は小さく頷いた。

 覆面を取りはせぬものの、性別も定かでないその者の無言の態度の中に、自分たちに対する忌避の感情を読み取った鈴鳴は、手っ取り早く事情を説明すると、本題を告げた。

「我々はある事件の捜査をしています。その手がかりの一つについて調べているところでして。

「つまりロンド・バリではそのショーの...失礼、儀式の最中に”ある動物”を用いますね。その動物を見せていただきたいのです。」

 その者の無言の行動は、導きの合図だったのだろう。部屋向こうに消えたその者を二人は追った。

 

 ロンド・バリはかなり特殊な部類に入る娯楽である。いや、娯楽の範疇に入れていいものかすら疑問だ。観劇...とも少し違う。それは一言で言えば、狂気を見せる娯楽なのだ。

 打楽器系の奇妙な音楽の流れる中で、一人がトランス状態に入る。それを注視している観客達は、しだいにその様子に引き込まれてゆき、ついには会場全体の酩酊が始まる。と、簡単に述べてしまえばこんなところであり、要旨だけではアイドルのコンサートと何処が違うのだと指摘されそうだ。そしてそう言われれば、筆者も首を傾げざるを得ない。

 あえて違いを探すならばその熱狂の度合いであろうか。アイドルコンサートならば、親衛隊がその声をもんたよしのりに...古かったか...。親衛隊がその声をつぶす程の弊害しかないが、ロンド・バリを見終えた客達の方はその多くが極度の疲労状態に陥り、酷いときには脱水症状すら起こしかねないことだろう。先天的精神病質の者が潜在症状を誘発する例さえあるという。

 このような後遺症の過多なことや、近年問題になっている反社会的宗教団体と類似しているなどと囁かれていること、そしてなによりもそのやり方には転移が絡むのではと目されていることがあって、当局のチェックは当然ながらこの集会に対して厳格このうえない。にも拘わらず、その人気は一向に衰えない。どころか、数年前より自然発生するように出てきたこの狂気のサブカルチャーは、今や池袋のホットスポットとなった感さえあった。

 自らの危険すら顧みず、精神の解放を求める現代人。そんな彼らが無意識に希求したものがロンド・バリ。世紀末が生んだ娯楽...そう判断するほか無い...。

 

 扉を過ぎると、中はかなり薄暗かったが、鈴鳴と馳はそこが相当広い空間であることは判じられた。

「これがロンド・バリの...。」

目が慣れてきた馳は小さく呟いた。77階と78階をぶち抜いた全フロアーを用いたその空間は下手な体育館よりも遥かに巨大で、とてものこと高層建築の内部とは思えない。全体が擂り鉢状の形態を呈していて、客席はぐるりと一周しながら底の方にまで螺旋を成して配されている。そしてその底部には円形の舞台があり、床のリノリウムがどこからか入り込んだ光を鈍く反射していた。ショーが...儀式が始まるときには噎せかえるほどの熱気が取りまくであろうこのホール内も、誰もいない今では三人の足音を反響させる程の静けさを持っているだけであった。

 再びここに狂気が沸き返るのはいつだろう。馳はふと思った。

 

 鈴鳴と馳ら三人は、客席の最外郭にある通路を、半円を描くようにぐるりと通って反対側のドアに達した。

「こちらです。」

そう言って、覆面の者はそのドアに入った。鈴鳴ら二人も続く。

 薄暗いと思ったホールの中よりも更に暗いその部屋は、ロッカーや椅子が雑然と置かれたままの狭い部屋で、楽屋のような使われ方をしているらしく、どう着るのかも判らない服や、一見して武器と思えるものなどが散乱していた。非常口の横の左側の壁にドアがもう一つあるが、覆面の者はそこには行かず、部屋の右奥の方に進むと、一番奥の椅子の上に置かれて黒布を被せられている物の前に立った。そして鈴鳴らが入ってきたのを気配で察すると、振り返りざまその布を外した。

「あなた方のお探しの動物とは、これのことでしょうか。」

覆面の者が取り去った黒布が空間を駆け抜けた後、そこに残されたのはドーム型の小さな鳥篭だった。だがそこに入っているのは鳥ではなく、しかし同じく空を駆ける者...。

「蝙蝠。」

鈴鳴が言った。そう。それはまさしく蝙蝠だった。そいつは突然の眠りを覚まされたことを非難するかのように、鋭い牙を剥き出して覆面の者に小さく威嚇をした。そして人間にはほとんど真っ暗と思えるようなこの部屋の幽かな光さえ眩しいと思うかの如く眼を細めた。

「私どもの儀式はお客様との一体感を高めるため、導者と呼ばれる踊り手の他にもう一つの媒介物を利用します。それがこの蝙蝠です。」

語りながら、覆面の者は手振りで自分がその導者であることを示した。

 動物の中でも特に警戒心が強く、そのくせ社会集団を成さないと生きていけないのが蝙蝠の習性だ。そんなところが何ともこの哺乳類は我々現代人と酷似しているではないか。暗黒を好むその姿は、裏面の人間と言ってすらよいのではないか。だから人は、彼らのイメージには何かしら自分の鏡像を見ているような気持ちを持つ。観客の内面を引き出す開放感を売り物にしているロンド・バリにとって、これほどに相応しい媒介物はおるまい。

「その特殊性ゆえ、捜査の中に交えていただけたのと存じますが、果たしてお探しの動物でしたか?」

 導者は言った。表情を変えるはずの無い覆面が、僅かな光で微笑んだように見えた。

 元より鈴鳴にそれが判る筈もない。彼は振り向く。馳の方を。

 馳はごくりと唾を飲み込んだ。

 この捜査を提案したのは彼だった。対特のメンバーの中で彼だけが、成木黄泉がプリンスホテルから逃亡するときに転移した蝙蝠を見ていた。だから彼には彼なりの確信があったのだ。蝙蝠の成木への慣れ方からしてその場限りの使い捨て動物とは思えないと。つまり、成木を捜すには蝙蝠を手がかりにすればよいと。

 鈴鳴に促されるまでもなく、馳はその眼を瞳孔までも開ききって真実を見つめようとしていた。その脳裏には同時に、黄昏の街の中に頼りなげに飛んでいたあの奇妙な哺乳類の姿を浮かべていた。そして...。

 馳は首を横に振った。

「違います。あの時見た蝙蝠は、遠目で見ただけですが、こんなに小さくありませんでした。」

 

 僅かに肩を落とした馳の背を軽く叩いて鈴鳴は言った。

「ここの人達が無関係でよかったじゃないか。」彼は導者の方を向くと、「や、どうもご協力ありがとうございました。じゃ、行こうか。」

「お役に立ちませんで。お気をつけて。」

 導者の言葉を最後に、その捜査は打ち切られるところだった。が、

「待って下さい。他に蝙蝠は...、あの向こうの部屋を見せてくれませんか。」

去りかけた馳がつと振り返り、言った科白は、鈴鳴と馳には見えなかったが、覆面の中に潜む導者の表情を明らかに変化させた。

「こら、失礼じゃないか。」鈴鳴が馳をこづく素振りをした。だが彼の口が馳の耳元に来たとき、「令状がない、自重しろ。」

 そして導者に対して、

「新米なもので、すいません。」

と言うと、馳の耳を引っ張りながら、鈴鳴は円形の通路を足早に歩いていった。

 

「すいません。勝手なことして。」

高速で降りるエレベーターの中で、馳は元気なく言った。

「そうだよお前。なんてことしやがるんだよ。始末書書くはめになるかと思ったじゃないか。」

 鈴鳴の剣幕に馳は殴られる覚悟をしたが、いつまで待っても飛んでこないので薄目を開けると、鈴鳴は既に外を向いていた。

「また来ようぜ。自分の勘が、この商売じゃ大切なんだよ。」

 

 覆面の者は鳥篭に再び黒布を被せた。蝙蝠は小さく鳴いたが、その後は元の闇に戻ったことを喜ぶように沈黙した。

「ふっ。危なかったぜ。」導者は左側の壁にある扉を開け放って言った。

 そこも小さな部屋だったが、休憩室らしく、簡易寝台が置かれていた。そしてその上に寝ている者が一人。

 死んだように青い顔をして眠っているその男。操乱!

「こら、俺に咬みつくんじゃねぇぞ。」

扉を閉めつつ、導者に転移した操乱は言い残した。闇に帰った部屋では、眼前の餌を喰らえない不満をあからさまに示して、天井からぶら下がった蝙蝠が、奥の壁を覆うほど巨大な翼を広げた。

 

 ちっ。この男も知らないようだ。成木は心中舌打ちした。彼は軋む音のする椅子から立ち上がると、放心している看護婦が我に返ったところだった。

「ん? どうしたのかね。」

「はっ。私ったらどうしてたのかしら。」

知らなくて当然だよ。君は今まで私が乗っ取っていたんだからね。成木は訳も分からぬ顔をしている看護婦を見つつ思った。

 

 さて。と、成木は再び策謀の思考を回転させる。この病院で一番の情報通というからジャックしてみたが、やはりあの男の事は知らなかったか。となると、この病院での情報集めはこれ以上進展するまい。来たときのようにまたこの女にとり憑いて去ることにするか。

「先生。とにかく失礼します。」

 成木の考えはしかし、彼女のこの科白を聴いた時にふと変わった。

 まだ転移心理学のホープとやらを見てなかったな。せっかくこの病院に来たんだ、彼に会うのも一興だろう。となると、秘書がいるらしいから、看護婦で部屋に行くのは不自然か。

 彼は看護婦が去るにまかせた。

 

 成木は都内にある国立精神医学総合病院に潜り込んでいた。

 その病院は、精神分析や心理学を中心にした学究を兼ねている施設であったが、新進の転移心理学者が多数研究に励むことでも世間の耳目を集めている場所であった。転移が最初に起こったのが日本であってみれば、転移学において自ずとここは世界的に先駆的な場所となっているのである。もっとも、唯物論に依拠して近代科学を発展させてきたという自負のある西洋社会にとってみれば、中世魔術に逆行しているようにすら思えるTrancefology(転移学)は、受け入れ難い分野であったという事もあろう。

 成木はそういう曰くのこの病院の看護婦の一人にジャックし、また彼女から転移学者の一人である一橋という男の身体にとり憑いたのだ。彼は中年太りに喘いでいる一橋の身体でゆっくりと階段を上って行く。

 彼はこんな所で誰を捜しているのか。彼は誰に会おうとしているのか。

 

「失礼します。最土先生はお見えですか。」

成木が半ば開け放たれたドアをノックして部屋の中に声を掛けた。

 声は折からの湿気に邪魔されるようにゆっくりと部屋に満ちていったが、やがて返事が聴こえた。

「はい。おりますから。入って下さい。」

柔らかな物腰の声が響いてきた。成木が部屋に入ると、両側を本棚の山に囲まれた部屋の中央に、椅子に座って振り向いている男がいた。

 四十代だろうか。最土と呼ばれたその男は、中肉中背で、シャツに軽く白衣を着こなしてリラックスした格好をしている。楕円に近い形の顔は温厚そうな眼を称えているが、それに不釣り合いなほどの髭が鼻から顎にかけてふさふさと覆っていた。

「突然入りまして。秘書の方がみえなかったようでしたので。」

「一橋先生でしたか。どうぞどうぞおかけ下さい。彼女はちょっと小用に出かけていってもらっているんですよ。」

 

 フルネームは最土修。転移学会にあって今や知らぬ者はいないほど有名な男である。

 勿論彼の研究業績がめざましいことがその理由である。転移可能者が、転移先で精神のみとなった心が、生理学的にどのように存在しうるのかがかなり細かく判ってきたのは、ここ数年で湧き出すように出てきた彼の多量の研究に因るところが大きいとされるのだ。

 転移学自体が新しい学問領域だとは言っても、四十代の彼をして転移学会のホープと呼ばれるまでに注目される人物たらしめたのも、これらの数々の先験的な研究の所以である。更に、転移学の祖と言っても過言ではない最土隆の娘と結婚したのは、その名声に加速をつけるに十分であったろう。

 成木がわざわざこの男に会いに来たのは、実はもう一つの理由がある。それはこの男の研究が、どこか彼と波長の合うものだったからである。

 それは後に、無理からぬ事として彼を納得せしめることになるのだが、今はまだその運命は平行線を辿っているままだ。

 

「情報通のあなたのことだ。また何か面白い話を聞きつけてきたのでしょうね。」

「ええ。例の爆破事件の事で小耳に挟んだんですがね。」

 一橋はどうも根っからのお喋りらしく、物静かさを好む成木にしてみれば不本意ではあったが、ばれない程度に普段の調子を見せてやらなくてはならなかった。だから彼は、一橋の脳の中を軽薄に浮遊している知識を口角に上らせていった。

「中江先生ですけどね、車を修理に出していたでしょう。あれ、どうも当日プリンスホテルの駐車場出口で付けた傷を隠そうとしてたらしくてですね。」

 自分が半死半生になっていたとき、脇を掠めていった車のことを語らねばならないとは皮肉なものだな。成木は苦笑いを禁じ得なかった。それというのも、この病院内の転移心理の医師の多くが、先日プリンスホテルで開かれた学会に参加していたからだった。となると当然渦中の人物として、その後のホテル付近での爆発も含めて、事件について知っていることを警察当局から追求されている訳で、ここ最近はその関連の話題で病院中持ちきりだったのだ。当日参加していなかった一橋はやれ悔しとばかりにいろいろな人から聴きまくり、詳しくなった知識を同じく行かなかった最土たち同僚にさんざ説いて聞かせていたのだった。

 

「とまぁ、こんな次第と言うわけですよ。」

一橋は元々聞き出すのが上手いのだろう。あの場の状況を、警察よりも良く知っているのではないか。成木は一橋の頭の中にある情報の多さに呆れていた。そんなこんなで成木は事の顛末を話し終えた。最土はその間中、再三驚きの表情をして興味深そうに終始聞いていた。

 なんとはなしに成木には、そんな最土がまるで彼の話を再確認するかのような反応をすることがあるのに気付き、心中秘かに訝った。

 だがまぁそんなことはどうでもいい。私の用はただ一つ。人捜しだ。

 今回、成木は最土にジャックするつもりはないようである。そうであれば、わざわざ無駄なお喋りをすることもない。だがそれは決して気紛れで行っていることではなく、初対面の人間に対して彼がわりによく行う振る舞いである。会話によるコミュニケーションは、時として無意識を表出する。それを見分けることを目的としての行動ということであろうか。畢竟、彼がジャッカーだからこそ、人となりを知るには時には外見から見ることも重要であることを弁えているということだろう。

 

「ところで、話は変わるんですがね。」成木は最土に出してもらったアイスコーヒーを一口飲んでから切りだした。「高畑先生の話を聞きましたか。」

「え。例の...門前払いの...。」唐突な話題の転換に、最土は戸惑いつつ答えた。

「そう。特拘に入れなかったっていう。あれのことです。」

「あれですか。」最土はうんざりしたように言った。「一橋先生まであんなたちの悪いデマを...特拘から逃げ出せるジャッカーなんているわけないですって。」

 成木は誘導の初期値としてこの話題を取り上げただけのつもりだったから、最土の態度の硬化は意外だった。現在の対話に集中していることを示す同調挙動も外してしまった。ということは、最土はこの線の話題には、何か触れたくないことでもあるのかもしれない。

 掘り出せるかな、金塊を...。

 成木は一橋の持つ生来の軽薄さを捨て、その表情に自らを浮かばせた。

「先生は...信じませんか。」声が低い。「あの、人類の可能性を。」

「そんな。ファンタジーですよあれは。三文SF作家が思いつく程度のね。」

...。反対に軽妙に話すことで切り返そうとしている最土であったが、作者を侮蔑するような言葉しか浮かばないようでは、焦っていることは明瞭だった。

「そうですか。私は最土先生ほど門前払いの態度を取る気は無いんですがね。」そろそろかな。成木はその名を切りだした。「何故って、私は常盤修司氏の論文を読んだもんですからね。」

「!!」最土は一瞬硬直した。髭に覆われた唇は、随分前から微笑みを湛えなくなっていた。

「ご存じかどうかは知りませんがね、その人のその論文が発端なんですよ。」

成木は追い打ちをかける。

「ゼロ・ヒューマーの。」

小さいがはっきりとそう言ったのはしかし、最土であった。成木は不意を突かれたために話を止めた。その沈黙を埋めるように最土が続ける。

「肉体という依り所なくして、精神だけが生存できる状態、身体の寿命に束縛されない永遠の生命の可能性。転移可能者がそのような存在に成り得ることを予言し、その様な独立精神体をゼロ・ヒューマーと呼び、思考実験と理論をまとめた研究。」

「”転移可能者に於ける独立精神体への進化について”...。」

成木が補足した。最土は首肯した。

「ナンセンスですよ。あれが発表当時学会でどういう評価を受けたかについては先生もご存じの筈だ。

「確かにあの論文に言われている存在は人類そのものにとって魅力あるものに見えますし、予言として斬新なものだった事は認めますよ。」

成木には、語り続ける最土が、どういう心境からか、言葉を絞り出しているように思えた。そして殊更次の科白には、それを語ることに対する無念が露出しているようにすら見えた。

「だがあの理論には裏付けがなかった。『現実にいない存在...そんなものについて考察を続けることは徒労である。』 当時学会が出した評価を、知らないわけではないでしょう。」

 下を向いてしまった最土に、成木は語る。

「確かに仰るとおりです。ですがね、私にはあの理論が間違っているとは思えないんですよ。」

 当然だろう。あの日を境に私がその実例になったのだから...。

「だから私は一度会ってみたい。常盤修司という人にね。」

 アイスコーヒーの中の氷が、コロンと音を立てた。

 この男、知っている。二人の間の沈黙が長引くほどに成木の確信は強まるばかりだった。だから。転移を...。

 最土は俯いたままこちらを見ていない。今なら...。

 

「ああー!!」

成木がそっと手を最土に伸ばしかけたとき、遠くから大きな声が響いてきた。何だ。成木はふとその声に注意をとられて転移の機を失い、その手を引っ込めた。

「あの、今聞こえた声は何ですか。」

 最土は奇妙な顔をした。

「えっ、何言ってるんです。あれはE級重度の精神患者の棟からの声じゃないですか。」

「そ、そうか。そうでしたね...。」

 その時、電話が鳴った。

 最土は自分の机に戻ると受話器を取り、暫く話していたが。表情が和んでゆくのが成木にも見て取れた。

「あの。」受話器を置いた最土が言った。「実はちょっと家の方で小用がありまして、家内が迎えに来たようですので、今日はもう...。」

 

 廊下の向こうから小さな女の子が駆けてくる。最土の娘なのだろう。成木は、やはり小走りで女の子に近づいてゆく最土の後ろ姿を見送りながら苦笑いした。

 あの男にはもう一度会わなくては。常盤の行方を知っている筈だから...。

「パパー。」

 だが、娘を高々と掲げる最土の表情をもし成木が見ていたら、親しきものだけに見せるその男の満面に浮かべた笑みが、嘗ての友が自分によく向けていたそれであることを見い出していただろう...。

 

 成木はこの場から去るために、勤務を終えて帰ろうとしている事務員を呼び止め、着替えたら部屋に寄ってくれと頼んだ。一橋は人当たりが良かったから、この男も帰宅を5分延ばされることを厭わなかった。

 成木が彼を一橋の部屋の中で待っていると、彼はふと一橋が、ジャックされる前にパソコンの前に座っていたことを思い出した。

 何気なく彼はパソコンに近づき、モニタを見た。

 見る見るうちに彼は一橋の顔に、邪悪な笑みを浮かべていった...。

 

「来たわ。」寮の面会室に入りつつ、原尾は言った。室内に据えてある応接用のソファには、馳が座っている。

「こっちは目立った収穫はなしです。申し訳ありません。」

「いいのよ。」原尾は持ってきたサブノートパソコンをテーブルに置くと、脇からケーブルを引っぱり出した。「あなたに借りたパソコン。なかなか速かったわよ。」そして壁にある電話線を抜き、そちらに差し替えた。

「さて。」準備の済んだ原尾は馳と同じ側のソファに腰掛け、サブノートに電源が入る。

 原尾はトラックボールを繰りながら続ける。

「あなたが言ったとおりだったわ。インターネットの転移学会ホームページの伝言板に、三十分前に書き込まれたものよ。」

 カラー液晶モニタの画面にそれが映し出された。馳は覗き込んだ。

「こ、これは。」

「そう。」原尾は強ばった笑みを浮かべて続けた。「招待状よ...。」

 

 パソコンを手足のように使う馳にとって、インターネットサーフは勿論。大きな声では言えないがハッキングも決して難しいことではなかった。

 プリンスホテルの一件には多く転移学会医師が絡んでいたので、馳は情報を収集する目的から転移学会のサイトに入り込んでいたのだが、その奥深く、ちょっと人に言えない方法(だから筆者にも判らない。)で入ったその部分に、どうやらある未確認の人物がヤムに宛てたらしきメールの痕跡を見つけたのだ。

 それについて原尾に相談したところ、彼女はギルバートに憑いていた者がもう一度同ラインを使ってヤムに接触を試みる可能性は十分あり得ると判断、彼女自身の謹慎も利用してのネット上での張り込みとなったわけである。

 だがその予想は大胆な形で裏切られた。ジャッカーを作り出す手段を売り込もうとするこの者は、今回は特定人物へのメールではなく、堂々と広告の形で出してきたのだ。

 

「出された場所は原宿のインターネットカフェだって、一見の客だったらしく消息はそこまで。だから...」原尾も覗き込む。「この招待、受けないわけにはいかないってこと。」

 近づきすぎた原尾に少しどきどきしながら馳は思った。汗の匂いだ...。先輩もそれだけ必死なのか。いつもは何があっても香水を付けているのに...。い、いかん。彼は迷いを隠すように声を高めて聞いた。

「で、でも、これじゃクール達は困るでしょうね。」

「でしょうけど。」馳の上気を知ってか知らずか、原尾はソファに凭れた。「きっと来るわ。今度の網は、全ての者に対して投げられたんだもの。」

 原尾は馳の方に向き直って言った。

「総力戦よ。今度こそ。」

「はいっ。」馳も気合いを入れた。

「でもその前に...。」彼女はいっそう真剣な表情になった。

「私に貸してくれたこのサブノート、操作中に赤ずきんちゃんの絵が突然出てくるの、何とかならない。」

「わわわわわわ。」

馳は慌ててパソコンにとりついた。原尾は思わず声を立てて笑ったが、この点、筆者はあまり笑えない...。

 

 ガタン! 座っていたソファをひっくり返すのも構わず、クールはモニタに突進した。彼は抑え切れぬ興奮から震える声で口ずさんでいた。

「来た。」

 モニタに取り付きざま、喰いいるように見つめる視線の先には、英語でこうあった。

”自らの影を慕って、鷲は再び憩う。無口な忠義者の元に集う者は、我が持つ羽の偉大さを見るだろう。”

「ほう。」

 音を聞きつけて部下が二人入って来た。すぐさま彼は二人に告げる。

「奴の方からアクションを起こしてきたぞ。時間の方は十中八,九、今度の日曜の正午に設定してきたようだが、場所がわからん。だが俺達の側には日本贔屓のヤムがいると踏んでの謎かけだろうから、日本の中ではかなり一般的な場所に違いない。」彼の指示は機関銃のように矢継ぎ早に出される。

「忠義者とかを象徴する像がさほど遠くない場所にある筈だ。明日までに見つけだせ!」

 一人が軽く頷くと、風のように部屋を出て行った。

 

 残された方のクール隊の男は、クールの微かな興奮が静まってから言った。

「私の方は至って順調です。彼らは着々と育っております。」

 クールは男の幽かな不満を嗅ぎ取ったらしい。

「ふふ。そう怒るな。最終的な勝利を収めるためには、手段は多いにこしたことはない。時に使えそうな者はいるか。」

「かなり良いところまでいっている者が2~3。あとは損傷が酷くて...。」

「捨てろ。役に立たない者を飼っておく余裕はない。」

 男は軽く頷くと、今度は消えるように部屋を出て行った。

 

 奇妙な力が再び人々を結びつけようとしている。前進しようとする者のみに見ることの出来る運命の絆が、お互いを呼び寄せ合うのだ。だが、絡まりあい、複雑な幾何模様を織りなそうとしているこのレースの内、最も重要な主軸となる三本の糸の、最期の一本が足りない。

 彼はどうしているのか。

 

 傘に当たる雨の感触を手から感じ、凭れかかっている壁の湿気を背中より感じて、彼は立っていた。

 そこは吉祥寺のはずれ辺りの、とある神社の中。古社が居を構える脇の壁、そして更に言うなら正面からは死角になっている部分。そこに彼がそうしてから、もう一時間も経ったろうか。

 よれよれのシャツと、履き潰しかけたズボンが濡れるのも構わない。だらしなく頭を傾げて、物思いに耽っているように見える。その視線を辿っても、古壁に書かれた罰当たりな落書きに行き当たるだけ...。

 浮浪者もいないこんな場所に、佇む彼以外に誰がいる筈もない。墨絵のような倦怠感を伴う時間が、ただ過ぎるのみ。

 

 無気力の固まりでしかないような男は、突然ハッと我に返った。その眼は神社の入り口部にある鳥居の方に向けられた。

 男が一人、鳥居の近くに見えた。傘で顔は隠されているが、遠目にも高価そうな背広を着ていることが判る。男はキョロキョロと人目を気にしつつさっと鳥居を抜けると、奥の方に入ってきた。

 隠れている男はと言えば、入って来た男に見つからないようにもう半歩壁の奥に引き下がっていた。その視線はもう鬱のそれではなく、刺すように厳しい殺気を背広の男めがけて飛ばしていた。

 背広の男はそそくさと古社まで近づくと、背広の内ポケットから財布を取りだした。一見しただけでかなりの札を入れていることが判る、革製の物である。

 何と男はそれを賽銭箱の中に入れてしまった。

 そして小さく微笑むと、社の前の階段を上り、格子状の戸の隙間からその腕を入れた。

 

「......いったい......私は...。」

背広の男はたっぷり十秒間、そんな中腰の姿勢をしていたが、やがてそんな言葉を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。

「何故こんな所に...。」

 

 ジャッカー犯罪の被害者になる者の多くが洩らすそんな科白を吐いてから、背広の男はこの薄気味の悪い古神社から去っていった。彼が古神社入り口の格子戸の中をもう少し注意深く観察していれば、その中で横たわっている人間がいることに気付いたであろうが...。

 男が去って数分後、格子戸が中から開いた。ぬっと、見窄らしい服を着た中年男が中から顔を出した。

 彼はキョロキョロと辺りを見回すと、賽銭箱に近づいた。そして箱の後ろの鍵を外すと、中から財布を取りだした。

「へへ。ははははは。」

財布の中味の紙幣を数える毎に、彼の口から下品な笑いが漏れ出る。他人の心を乗っ取って、彼は何度そうして糧を得てきたのか。

 一心不乱に札束に見入るその男はしかし、目の前に立ち尽くす男に気付くのが少し遅すぎた。視線に履き潰したスニーカーが入り込むに至って初めて、彼はハッと気付いた。

「だ、誰だ貴様。み、見ていたのか。」

立ちはだかっていたのは隠れていた男だった。彼は傘で顔を隠したまま言った。

「み~んな見てたよ。マンジャッカーさん。」

 ジャッカーと呼ばれた男は眼を丸くした。それはそうだろう。マンジャッカーだと判って畏れをなさない奴と言ったら...。

「ジャ...、ジャッカーハンター...か?」

「当たり。」彼は傘を上げてその顔を見せた。歯を出して笑っていた。「俺を忘れたかい。」

「ピ、ピンぞろハンター!!」

ひいいい! 男はせっかく手にした札束も取り落として逃げ出した。最初は這って、次に全速力で。

 ピンぞろハンター、大野一色は、一瞬の間の後、泥濘を蹴って飛び出す。だがそこには先日まで見せていたような、弾けるような跳躍力はない。

 そうは言っても若さが違う。二人の脚力の差は歴然としていた。鳥居を抜けたところで、早くも大野は逃げ出した男に追いつき、背中にタックルした。道路の水たまりに飛沫を上げて二人が倒れ込む。

 力に於いても大野の有利は変わるところがない。二人はびしょ濡れになってもみ合いを続けたが、大野は男の手を後ろ手にすることにようやく成功し、立ち上がりかけた男に身体ごとぶつかって、神社脇の民家の垣根に押さえつけた。

「懲りてねぇようじゃないの。おじさんよ!」大野は男の後ろに廻した腕を更に捻る。

「い、痛い! か、堪忍してくれ...。」

「出来るわけないでしょ。なんのためのハンターだと思ってんのよ。」

「ひぃいぃぃ。悪かったですよ。反省してます。」

「口先だけ言ってなよ。」大野は更に力を込める。「話し相手は特拘の壁としな。」

 男はびくりとした。マンジャックは重罪だ。捕まれば極刑は免れない。

「そ、それだけは許して下さいよ。」無駄と知りつつ男はもがくが、大野はビクともしない。

「この通り謝りますから許して下さいご免なさいご免なさい。ああああ。」

 特設拘置所の名を出されて中年男はすっかり怯えてしまったらしく、垣根の木々に埋まった顔から発せられるその声は、何度も何度も慈悲を請うた。

 そして痛みと恐怖は、その声を次第に涙声にしていった。

 

 何を考えているのか。大野は男を押さえつけたまま、しかしそれ以上力を強めるでもなく、動きを止めてしまった。彼の目の鋭さが衰えてゆく。やがて...。

「ちっ。」

大野は男を放り出した。抵抗すらせずに、中年男は鳥居に衝突し、反動で泥の中に倒れ伏した。

 大野の顔はみるみる不機嫌になっていった。

「勝手なこと言うんじゃねぇよ。手前ぇのやってることがどれだけ他人の迷惑になるって思ってやがる。これだけ計画的に動いといて、弁解なんて見苦しいんだよ!」

 男は頭を抱えてしまった。地面に蹲って丸くなってしまった。

「す、すいませんすいません...。」

ガタガタ震えて小さくなってしまった男が、大野の怒りを更に増したようだ。

「ビクついてんじゃねぇよ。さっきの男にとり憑いたと同じように、俺をジャックするくらいのことしてみろよ!」

「め、めめめ滅相もない!」男は更に顔を身体に埋めたまま言った。「旦那にくってかかるようなジャッカーがこの世にいるわけありませんよ。

「つい出来心でやってしまったんですよ、あんまりひもじかったもんで...あああ、もうしません、堪忍して下さい、お願いします。お願いします。」

 

 俺みたいな青二才を旦那だと...。大野は自身の中で怒りが頂点に達した。が、どうしたことだろう。それはまるで糸の切れた凧のように、急速にどこかに流されていった。

 大野は震える男の前に立ち尽くしたまま何も言わなくなってしまった。

 あんたの様な人が...俺みたいな若造に卑下している...。

 大野はこの男の経歴を少なからず知っていた...。

 さる大会社で、この男は若くして類希な外交手腕を発揮して破竹の勢いで役職を上り詰めていった。当時、彼の勢力は回りの誰よりも絶大であったという。だが、あるときそれに破局が訪れる。常に相手の先手を打つと畏れられた男の対人駆け引きが、転移行為をした結果の所行であることがばれてしまったのだ。それはしかし、種がばれた手品師に対する扱いとはまるで違うしっぺ返しが彼に降り懸かることを意味していた。それは取引の相手の信用を失う程度のことでは済まされないということだ。今の世で転移可能者であるという事はそれだけで、人間関係を、そして社会生活を破綻させ...、そして更に、人間であることをも否定される。同僚はおろか、家族にすら疎まれるに堪えかねて、彼が会社を辞め、家を出るまでに、大して時間はかからなかった...。

 そこには彼自身の過失はない。あるのは、偶然に手に入れてしまった転移という名の能力だけ...。

 俺は弱い者虐めするためにハンターやってんのか? 大野はそこまで考えたとき、心中で叫んだ。こんな落ちぶれちまった人に更に追い打ちをかける為に、俺ってのは存在してるのか? ハンターの相手にすべき憎むべきジャッカー、人々の平穏な生活を乱すジャッカーってのは、こんな社会的弱者も含まれるのか?

 

「行けよ。」

大野は、小さく言った。

 しくしく泣いていた男がその小刻みな動きを止めた。

「聴こえなかったのか? 俺はお前なんか知らないって言ってんだ。」

 男が顔を上げた。

「あの財布、さっきの男性のか?」

「さ、三人前に転移した...人のです。」彼の泣くような声で、男は続ける。「じゅっ...住所は、財布の中に...。」

 雨は少し強さを増したようだ。大野がなにがしかした動作は、その音にかき消された。

 男の前に札が数枚落ちた。大野は札束の放り出してある社の方に歩きだした。

「あの金は俺が返しといてやる。その金は俺が今日パチンコですっちまった金だ。ネコババして地方で別人として生きるんだな。」

 男が金をかき集め、去っていく気配だけがした。

 

「臆病者のジャッカーの上前をはねるなんて、ピンぞろハンターも落ちたものね。」

大野の背後から声をかける女性の声。だが彼は、散らばった札束を集める手を一瞬止めただけだ。無論のこと大野がそんなせこい真似をするはずもないが、持ち主の所に届けたときにある程度の謝礼をもらうだろうことは事実なのだ。

「勝手に推測してくれ、何時からいたのか知らないけどさ。」

「甘い男ね。」女は言葉に棘を搦めた。「ホントにあんな事で改心すると思ってるとしたら、随分と脳天気なことね。」

「...。」

「他人にない力を持った人間が、それを使わずにいるのは勇気のいることだわ。あの男も所詮自業自得なのよ。あんな境遇に陥ったのは、その誘惑に勝てなかったからじゃなくって。」

「あんた。」大野は思わず振り返った。「知った風な口をきくじゃねぇか。あいつを調べてでもいたのか。」

 大野は女と面と向かった。白のワンピースを着て、ブランド物のバッグを肩から提げている。捧げた傘の下から覗く眼が、挑発的に光を放っている。

「まさかね。私は一般論を言ったまでよ。あぁいう風に落ちぶれた人間は、自分の中に凋落の萌芽を持ってるものだわ。」

「誰だか知らないが言ってくれる。自分は完全だとでも思ってんのか。」

「ふふ。今度はあいつの弁護? 笑わせるわね。ひょっとしてあなた、人助けしたなんて、思ってるんじゃない。」

「うるせぇな。あいつの人生だ。どうするかはあいつが決めりゃいいことだ。」大野は怒鳴った。「俺についても同様だ。俺がどう思おうとあんたの知った事じゃない。それに」

 大野はニヤリと笑ってから言った。

「男が女言葉使うと気持ち悪ぃんだよ、たとえ女にジャックしててもな!」

 女は驚愕した。

 

 だが彼女...、いや彼が心の余裕を吹き飛ばされたのでないことは、男言葉に戻ってからの態度で判る。

「大したもんだな。流石はプロだと褒めてやろう。」

「簡単なことだ。控えめな服装の女性が、そんな攻撃的な言葉を吐いてくればな。」

 持ってる小道具が、不釣り合いに豪華だ。お偉いさんの秘書でもやってんのか。ついでに大野は思ったものだ。

「なる程。」女の声は言う。「名の知れたハンターだけのことはある。黄泉を捕まえたのもあながち偶然ではないのかもしれんな。」

 大野の目が険しくなった。

「どうしてそれを知ってる。」

「ジャッカーの間では知らない奴はいないさ。」女は軽く受け流した。「だがそう聴いたからこそ会ってみれば、どうして失望させてくれるじゃないか。」

「今の事か?」大野は不機嫌に言った。「確かにらしくないかもしれん。でも、あいつを捕まえるの、なんだか馬鹿らしくなっちまったんでね。」

「自惚れるなよ。」女は突然語気を強めた。「自分を何様だと思っているんだ。」

「何?」大野は挑発的な女の物言いに怒りを覚えた。

 女は顎を僅かに上げる。明らかに大野を嘲笑している。

「貴様がのうのうと生きていられるのは誰のお陰だと思っている。己が立場を弁えって言ってるんだよ。」

「おい。」大野が反論する。「何でそんなこと言われなきゃならない。お前らジャッカーなんかに...。」

「なんかに、だと。笑わせるんじゃない。」女は大野の言をあげつらった。「お前は、お前が今”なんかに”と蔑したジャッカーがいるからこそ生きていられるのだ。社会の澱として存在するジャッカーの、更におこぼれを拾う役割のお前が、慈悲をかけるなど片腹痛い。」

「貴様!」

大野はキレた。大野の右手が女の顔に飛ぶ。はり倒すのか?

いや違う。彼は女の頬に素早く手を触れると、瞬時にその手から拒絶波を発したのだ。普通のジャッカーなら、転移している身体から誘発せられる拒絶反応により、精神そのものに響く激痛が襲う筈だ。

 時数秒。

「!!」

大野の目が見開かれる。反対に、女が微笑む。変化したのは、表情のみ。

「それほど驚いたのか? 効かぬ事が。」

 指摘されるまでもない。大野ははっと右手を女から放し、その手に視線を移し、また女を見た。

「さっきの質問に答えてやろうか。」女の声に自信が付加する。「俺は完全だ。俺は完全なジャッカーだ。」

 

 大野の驚愕の顔が怒りに染まるまで、かなりの時間がかかった。だがやがて、絞り出すように言った。

「ギルバートに...憑いてたヤツだな。」

「察しが良いな。」女は片眉を上げて褒める。「いかにもそうだ。名を万丈司(ばんじょうつかさ)と言う。」

 大野の感情に反応する左腕の核磁気共鳴電池が加熱し、二の腕辺りに付いた雨を湯気にしてゆく。

「今は...。今はあんたを捕まえることは出来ないが。」

 大野はきっっと女を睨みつける。

「次に会ったときには...、俺の獲物にしてやる。」

 雨は、最早左腕に落ちたそばから蒸発させてゆく。

 

「上等だ。ハンターとはかくあれかし。」女が眼を細める。「だが、俺を捕らえる前に自分の後始末を付けて欲しいんだがな。」

「何だと。」

「黄泉。」

 女の発した名に、大野はうっとたじろぎ、そしてすぐに、尚いっそうの怒りを露にした。

 成木黄泉。

 それは、特拘から、逃げたヤツ。無敵のゼロ・ヒューマン...。

 そして、あの不幸な女を作った男...。

「俺だって。奴の居場所さえ判れば、すぐにでも...。」

「そうか。」女は微笑んだ。邪悪に。「俺は黄泉が次に現れる場所を教えるためにお前に会いに来た、...としたら、どうする。」

 ......否も応もない。

 

 屈辱に耐えながら、女が...いや、女の中に潜んだジャッカーが去って行くのを見送ってから、大野は雨に打たれるまま考えていた。

 彼は女が残した言葉の意味と、それを彼に伝えた意味を考えていた。

 奴が俺を利用しようとしているのは明らかだ。奴にとって黄泉が邪魔な存在なのは、プリンスホテルの一件を見れば判る。いや寧ろ、それ以上の関係すら邪推できそうだ。だが、今の俺にはそんなことはどうでもいいことだ。敢えてその誘いにのってやろうではないか。奴は黄泉と一緒に狩ってやる事にしたっていい。

「少なくとも。」彼は天を仰いだ。「弱い者虐めよか、性に合ってる。」

 ジャッカーハンターは...、大野は、マンジャッカーと対峙することにこそ存在意義があるのだ。彼はそれを痛感していた。そしてそれを忘れてしまえば、彼の人生には塵埃の価値すら見つけることは出来ないことも。

 そして彼の前には今、彼に拮抗するほどの敵が二人も現れたのだ。

 

 雨が止んだ。再びその眼に光を宿した大野が、その中を歩き去っていった。

 

 物語を彩る最後の絆が絡んだ。もつれ合う糸は、一つの目標を目指す様々な人物を縦糸に、そして彼らの野望と、謀略と、憎悪を横糸に、綾成すレースを再び編んでいこうとしている。目指す模様はどれほど複雑になろうとしているのか、作者にも見当が付かないが...。

 ともあれ、かくして第二部は始まる。

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第十一章へ

 

 


 
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