No.297888

DIVINESWORD ~神刀~

MMZKさん

その昔、ASKさん( http://sound.jp/silver-technology/ )のアルバムジャケット・レーベルのデザイン制作に挙手したところ、タイトルは「DIVINESWORD ~神刀~」、イメージは「西洋の侍」という依頼があったため、デザインイメージを膨らませるために西洋史やら日本刀やらを調べまくってでっち上げた物語です。その結果、デザインそのものより世界観と物語の執筆の方が時間がかかってしまったといういわくつきの一品がこちら。
「西洋の侍」という課題を字面通りに受け取って西洋の歴史にあてはめて奇妙なものが出来てしまったわけですが、もしかすると「西洋風ファンタジー世界の侍」とか、或いは「東洋の魔女」のように概念的な意味だったのかしら、と今になって思ったりしています。

Ein Dokument, zum des Jacke Bildes des 4. Albums "DIVINESWORD" von ASK zu überlegen.

2011-09-11 16:01:05 投稿 / 全29ページ    総閲覧数:1218   閲覧ユーザー数:1209

 

●本文

■序文

 ドイツはゾーリンゲンの刃物博物館。古今東西の刃物を集めたこの博物館の奥には、奇妙なものが安置されている。奇妙なもの、それは一対の日本刀である。いや、日本刀があること自体は別に妙なことではない。問題はその出自だ。

 造られた時代は17世紀前半。日本では江戸時代初期、ドイツでは神聖ローマ帝政30年戦争(※1)の頃である。拵は大小であるが柄巻が無く、鍔と縁が一体化しており、その時代のどの日本刀とも異なる形式となっている。それもその筈、この刀、少なくとも打刀については、ここゾーリンゲンで造られた物だという。こんな話、多少なりとも日本刀についての知識がある者に聞かせれば、鼻先で笑われるだろう。それほどに胡散臭い代物だ。しかし困ったことに、むしろその出自を否定する方が難しいほどに、ドイツを中心とした欧州各地にこの刀の名を冠した逸話が残っているのである。

 今も変わらず輝く刀身に刻まれたその名は、"DIVINESWORD -神刀- Nr.707 Batroit Lutz, Solingen 1618"。30年戦争において最後までゾーリンゲンを守護したという、神宿る剣である。

 

※1: 30年戦争

 ドイツ30年戦争とも呼ばれる、1618年から1648年まで続いた国際戦争。神聖ローマ帝国(現在のドイツ周辺地域)全土が戦場となり、度重なる戦闘、略奪、飢饉、疫病、重税のため町も村も大部分が荒廃し、当時約1600万人だったと推定されているドイツの人口は約1000万人に減った。30年戦争は欧州では初めての鉄砲が本格的に導入された戦争でもある。

■極東からの訪問者(ゾーリンゲン市長手記1604)

 隣人を訪ねるのも億劫になる酷い雷雨の夜、赤子を抱いた東洋の女がこの地を訪れた。女は武家、当地で言うところの騎士に当たる家の者であるといい、どこか気品が感じられる物腰であった。女は故郷を追われて紆余曲折の末この地に辿り着いたらしく、長旅に疲れきった様子だった。女は当時のゾーリンゲン領主アルフレート・フォン・リンブルク都市伯に赤子の保護と将来の仕官を願った。街を預かるリンブルク都市伯は、宗教上の理由(※2)から当然これを拒否した。女は異教徒であり、何処の街で頼んだとしても結果は変わらなかった。覚悟を決めた女は、所持していた短剣(※3)を自らの首に突き立て、命と引き換えにして願いを聞き届けさせた。女を哀れに思ったリンブルク都市伯は赤子を自由市民の職人に預け育てさせたが、面倒を嫌ったその職人は使用人に世話を押し付けた。こうして赤子は雇われ職人バトロイト・ルッツの子となった。1604年の話である。

 

※2: 宗教上の理由

 当時ゾーリンゲンは神聖ローマ帝国領であり、その帝国領では時代に先んじて信仰の自由が許されていた。ただしその信仰は街単位で統一されていなければならず、市民は全て領主と同じ宗派を信仰しなければならなかった。信仰に従えない場合、他の街に移住することは認められた。

 また、信仰の自由とは言っても神聖ローマ帝国はその名の通りキリストの教えをバックボーンとしているため、宗派の選択肢はキリスト教のカトリック(教会)とプロテスタント(ルター派、カルヴァン派)に限られた。

 

※3: 所持していた短剣

 夫の形見の脇差であったと思われる。最近の研究で、これは後に装飾を改めてディヴァインソードの脇差として使用されたという解釈が成立している。この仮説が正しければ、持ち込まれた脇差は無銘ながら戦国時代末期相州由来の業物である。ただ、打刀についてはその特徴が五箇伝のどこにも当てはまらず、贋作にしてはあまりに優美な仕上がりから、ゾーリンゲンの職人達が総力を結集して造ったという主張もあながち嘘ではないのではないかと議論されている。

■サムライソードの研究(ゾーリンゲン市長手記1604~1618)

 むしろ赤子の処置より深刻な問題だったのは、東洋の女が持っていた剣だった。その剣はゾーリンゲンで最も切れる剃刀と同様に鋭く、最も頑丈な剣に並ぶほど強靭だった。そしてこの二つを両立する刀剣はゾーリンゲンには無かった。その存在は刃物の街ゾーリンゲンの職人達の自負を大いに刺激した。多くの職人達はこれを超える一品を生み出すべくより一層の技術研鑽に励み、その様子は神聖ローマ帝国領ベルク公国を治めていたユーリヒ・クレーヴェ・ベルク公爵の耳に入った。ゾーリンゲン視察の際にこの短剣を見たベルク公は大変驚き、その場に職人達を集めて、これと同等以上の剣を作った者に男爵位を与えると約束した。この一言で職人たちはそれまで以上に奮い立った。

 至高の剣の開発研究は西洋最高の職人集団であるゾーリンゲンの技術を以ってしても難航を極めたが、14年の歳月と706本の失敗作、そして職人達の総力と執念を以って漸く完成に至った。完成した一振りの剣は、結局のところ東洋の「刀」そのものの形となった。これが後のディヴァインソードである。ディヴァインソードはまさに神宿る剣であり、持つべき者が持てば板金の甲冑をも容易に両断したと伝えられている。ただし、作られた当時はまだ銘が刻まれておらず、単にサムライソードと呼ばれていたという。

 サムライソード完成の報せは領主リンブルク都市伯を大いに喜ばせた。しかし完成までに長い年月を要したので、叙爵の約束をしたベルク公は既にこの世を去っていた。そこで、ベルク公からこの件に関する特別叙爵権限を預かっていたリンブルク都市伯が代わりに約束を果たし、サムライソードを作ったバトロイト・ルッツに男爵位を与えた。

 肝心の製法については、当時から部外秘のトップシークレットとされていたために記述が残っていないのだが、近年のX線組成解析から折り返し鍛錬と造り込みが施されていることが判明し、正当な日本刀の作り方に準ずるものであったことが伺える。ただ、問題は原料である。

 日本刀の製造には、たたら製鉄による玉鋼、或いはそれと同等の鋼が必須となる。しかし当時の欧州には玉鋼は存在せず、たたら製鉄と同等の高純度製鉄技術も存在しない。玉鋼と同等という要求水準は現在の技術から見ても驚異的に高いもので、現代日本の工業用高純度鉄鋼ですらこれの代わりにはならない。

 そこで、或いは当時シリアで使われていたという神秘の金属、インド産ダマスカス鋼を原料にしたのではないかという推測が成立する。これはダマスカスの賢者ハーディが製法研究に関わったという記述に矛盾しない。しかし未だにダマスカス鋼自体の正しい定義が判明していないので、原料がダマスカス鋼であると断定するには至っていない。

■戦乱と貴族狩り(ゾーリンゲン市長手記1618、エペ・ディヴァイネ第1章他)

 完成したサムライソードは、ゾーリンゲンの技術力の象徴として相応の装飾を施した上で、ユーリヒ・ベルク公国の新領主プファルツ・ノイブルク伯に献上されることとなった。しかし折悪く、後に言われる第二次プラハ窓外投擲事件をきっかけに神聖ローマ帝国各地で戦乱が勃発し、間もなくゾーリンゲンも甚大な被害を受けた。このとき街を襲撃した自称義賊の無法傭兵団は貴族狩りと称してゾーリンゲンの裕福な家庭を襲って回ったので、リンブルク都市伯を初めとする殆どの貴族が富と命を奪われた。不運なことに、貴族になったばかりのバトロイト・ルッツ男爵も殺害されてしまった。

 このときサムライソードを手に賊に立ち向かったのが、弱冠14歳、東洋人でバトロイトの養子であるクリスチャン・ルッツであった。クリスチャンは勇猛果敢に戦い、10人以上の賊を斬り捨てて殆ど一人で傭兵団を撃退したという。この人数については異説が多くあり、死亡した賊の殆どは彼の剣の師であったユーリ・アレクシス・フォン・キルヒアイゼン士爵と刺し違えたとする資料もある。キルヒアイゼン士爵は剣豪として名の知れた人物だったので、言われてみれば彼が賊相手に何も出来なかったというのもおかしい。そこで、現在最も信憑性があるとされているのは、複数の異説を統合した以下のようなものである。

 

 "1618年のある日、流れ者の傭兵達がゾーリンゲンの街で強盗行為を始めたため、報せを受けたキルヒアイゼン士爵が現場に急行し、直ちにこれを成敗した。叩きのめされた賊は素直に懺悔したので、敬虔なカトリック教徒であったキルヒアイゼン士爵は、カトリック教徒の端くれである彼らを寛大にも見逃してやろうとした。しかし、キルヒアイゼン士爵は賊に後ろを見せた隙に撃たれてしまい、怖いものが無くなった賊は好き放題に略奪行為を始めた。略奪の対象としては特に貴族や豪商が標的とされ、数日前に引越しが済んだばかりのルッツ家も例外ではなかった。刀匠バトロイト・ルッツ男爵は娘を守るためにサムライソードを手に賊に挑んだが、本職の傭兵にはかなわず命を落とした。そこに漸くクリスチャンが駆けつけ、姉を守るために養父の形見のサムライソードを手に奮闘、見事撃退に成功した。賊は再び命乞いを始めたが、彼らはクリスチャンの養父と師の仇だったので、逃げ遅れた10人あまりはクリスチャンの手によって八つ裂きにされた。"

 

 なお、当時のゾーリンゲンの貴族達が傭兵達にあっさり滅ぼされた理由としては、1614年から流行っていた黒死病の影響から街がまだ完全に立ち直っていなかったことがまず一つ。そしてもう一つ、街を襲った傭兵達がそもそも街を守るべき防衛隊そのものであったことが挙げられる。

■街の再編成とヒルデ男爵令嬢の擁立(ゾーリンゲン市長手記1618)

 街の人々はクリスチャンの勇敢さを讃え、ひとまずの平穏に胸をなでおろしたが、被害状況が分かってくると自らが置かれた致命的な状況に気がついた。この襲撃で生き残った貴族階級の人間は、クリスチャン・ルッツ士爵を含めてたったの二人しかいなかったのだ。ゾーリンゲンは直ちに防衛体制を再編成する必要があったが、その編成を指示する指導者がいなかったのである。彼らはまずリーダーの選定からやり直す必要があった。

 まず亡くなったリンブルク都市伯と並んで人々の信頼を得ていたのが識者ハーディであり、人格や能力には全く文句のつけようが無かったのだが、彼は貴族ではなく、それ以前の問題として異教徒だった。大多数の市民は医師としてのハーディを信頼してはいたが、彼を街の代表にするには対外的問題が多すぎた。

 実戦の功績を考えれば、賊を撃退したサムライソード使いのクリスチャン・ルッツ士爵に街の防衛を指揮させるのがまず妥当であった。しかし彼は人種が異なる東洋人であり、実はキリスト教徒でもなく、その上既にヒルデ男爵令嬢に対して騎士の忠誠を誓ってしまっていたので、街の領主としてトップに立てるわけにはいかなかった。

 そのため、人々は消去法でもう一人の生き残りを暫定的に領主代行として立てざるを得なくなった。そのもう一人とはモニカ・ヒルデ・ルッツ男爵令嬢、つまりバトロイト・ルッツ男爵の唯一の実子で、クリスチャンの姉であった。姉とはいえクリスチャンと1歳違いのヒルデはこのときまだ15歳であり、ほんの数日前まで雇われ鍛冶屋の娘だったので、政治的な知識は殆ど無いに等しかった。ただ、識者ハーディに懐いてよくものを教わっていたので、そこらの自由市民よりよほど利発ではあった。

 結局のところ、ひとまず代表にヒルデ男爵令嬢を立て、その補佐に識者ハーディと長老会をつけることで執務を安定させ、更にゾーリンゲンの市民団体中最高の発言力を持つカトラリー・ギルドが拒否権を持つことで迷走を抑え、前線の守備隊はクリスチャン士爵が指揮を執る、という暫定構造が出来上がった。この時点で戦乱がその後30年もの長きにわたるとは誰も思っておらず、とりあえずの自己防衛のためにこういった編成になったのであるが、いつまでたっても周辺地域の治安が回復しないのでゾーリンゲンは結局暫定体制のままで30年戦争を戦い抜くこととなる。この暫定体制は後にヒルデ体制と呼ばれる。

 余談ながら、モニカ・ヒルデ・ルッツは洗礼名でヒルデと呼ばれることが多かった。クリスチャン・ルッツについては典型的なクリスチャンネームの割に教会で洗礼を受けた記録が残っておらず、洗礼名ではなかったようであるが、最近の研究によるとどうやら本名でもないようである。

■サムライソードの行方(ゾーリンゲン市長手記1618~1648)

 ヒルデ男爵令嬢は長老会の助言に従ってゾーリンゲンの防衛を最優先とし、ひとまず貴重な戦力の一つであるサムライソードをプファルツ・ノイブルク伯へ献上するのは戦乱がおさまるまで先送りにすることを決定した。しかしその戦乱は休み休み30年も続いてしまったため、その後もサムライソードがノイブルク伯の元に届けられることは無かった。

 結局のところサムライソードは件の東洋女の実子であるクリスチャン・ルッツ士爵が手にすることとなり、その後彼は自身がディヴァインソードと呼ばれるほどに数々の武勲を挙げて行くこととなる。

■領主代行ヒルデ男爵令嬢の食料政策(ゾーリンゲン市長手記1618~1648)

 1618年以降の新体制ゾーリンゲンは、大きな問題を三つ抱えていた。

 一つは1614年から続く黒死病の流行。最も重大な問題ではあったが、これは前体制から識者ハーディによって既に対策が実施されており、1617年以降収束に向かっていたので、対策をそのまま継続することで問題なかった。

 二つ目は防衛体制の再構築。これは戦闘が専門のクリスチャン士爵と識者ハーディに一任された。

 そして三つ目は、より長期的かつ慢性的問題である食糧問題だった。後に小氷河期とも呼ばれるこの時代、もはや恒例化した不作から来る食糧問題は欧州全域で共通した深刻な問題だった。特に着任直前まで貧しい下層市民であった領主代行のヒルデにとってはまさに死活問題だったので、並の飽食貴族とは理解の深さが段違いだった。ヒルデは、自ら積極的にこの問題の対策に取り組んだ。

 ヒルデは出来ればすぐにでも食糧事情を改善したかったが、農耕自体を高効率化するような妙案がすぐに出てくるはずもなかったので、さしあたって農業保護を謳うことで農家戸数増加と農地面積の拡大を狙った。山間の頑固な職人の街であるゾーリンゲンにおいては、農業人口を増やそうというこの方針はそれまでありそうで無かった。実際、ヒルデが提案した際も農家を優遇することに対してカトラリー・ギルドからの反発は強く、彼らを説得するのにはハーディの助力が必要だった。

 農業保護政策の内容としては、まず大幅な減税があった。気候的に毎年不作になることはもはや分かりきっており、従来の税率で農家が真っ当に生きて行くことは明らかに不可能だったからである。幸いにして、と言って良いのか分からないが、貴族狩りの被害でゾーリンゲンの貴族は殆どいなくなってしまったので、もはや街の運営資金を上回る高い税を搾取する必要が無くなったというのも理由に挙げられる。

 次に、農家が新しく農地を開拓した場合、5年間その土地の税を通常の税よりも更に減免した。そのため、新しく入植した農家を中心として積極的に農地が開拓されるようになり、農地面積が広がった。先の項と合わせて生産量が増えてくると、競争原理で作物の値段が大きく引き下げられた。こうして街の中に住む人々の食糧事情も徐々に改善されていった。

 もう一つ、農地は街の外にあるので外敵による略奪被害に遭いやすいというのが問題だったが、ヒルデは非常時には街の中だけでなくブルク城への避難をも許可した。山城であるブルク城は街から距離があるので既に本来の要塞としての意味を失っていたが、構造が頑丈なので避難所としては申し分なかった。

 こうした自由な発想の政策は、当時のゾーリンゲンに利益を主張する貴族や教会関係者がおらず、その上ヒルデ男爵令嬢が貧乏性だったから実施できたものである。ハーディの助力も得て結果的に多くの政策を成功させたヒルデは街の人々に支持されるようになって行くのだが、その一方であまりに従来のやり方を無視した方策は、他の街の領主や彼らを束ねる領邦主、そして欧州全土に影響力を持つ教会の反感を買った。

■魔女ヒルデの秘術(ゾーリンゲン市長手記1618~1620)

 カトリック教会の裁判記録によると、ヒルデ男爵令嬢は1620年3月に本人不在の魔女裁判で有罪判決を受けている。その証拠とされるのは、彼女の父が作ったといわれるサムライソードが悪魔的な力を発揮して教会の布教(侵略)を妨害すること、秘術により唯一ヒルデ男爵令嬢だけがサムライソードを修復出来ること、殺したはずのゾーリンゲンの兵が多数生き返っていること、そして多数の猫を飼っていることである。

 現存するディヴァインソードには、数回にわたって補修を施した痕跡が見られる。ディヴァインソードが破損した時期については記録が残っており、いずれも刀匠バトロイト・ルッツ男爵の死後であるため、つまり彼の死後も少なくとも補修に必要な技術は失われていなかった。当時の記録によると、ディヴァインソードが破損した際には必ずヒルデ男爵令嬢が一人乃至は二人の使用人だけを連れて(※4)ブルク城の一室に篭った。ヒルデ男爵令嬢が篭っている間、人々はゾーリンゲンの守りの要であるディヴァインソードの復活を願い、秘術の成功のために祈りをささげた。そしておよそ2日から3日の後に修復されたディヴァインソードを携えてヒルデ男爵令嬢が部屋から出てくると、彼女はそのまま丸一日は床に伏したという。現代的に解釈すると、ヒルデ男爵令嬢は数人の直弟子とともに窯に篭って刀を打ち直していたのであろう。

 要するに魔女の証拠になるかどうかは別として、ヒルデ男爵令嬢だけがディヴァインソードを直すことが出来たという教会の主張は正しい。しかし刀の製法は魔術ではなくれっきとした技術である、と反論するためにはその内容をつぶさに説明しなくてはならなかったため、技術の漏洩を嫌った彼女は一貫して黙秘を続けたのである。

 

※4: 一人乃至は二人の使用人だけを連れて

 当初は一緒に刀鍛冶を学んだクリスチャン士爵と一緒に篭っていたが、彼が篭ると街の防衛指揮がとれなくなるので、後に使用人の中から信用できる者二人を選んで教え込んだそうである。

■その名は神刀(ゾーリンゲン市長手記1620)

 魔女扱いされるようになったヒルデ男爵令嬢は、次第に教会のみならず多くの市民からも忌避される存在となった。そこで、ヒルデ男爵令嬢の補佐を務めた識者ハーディが一計を案じ、それまで銘が無かったサムライソードに名前をつけた。"DIVINESWORD"、すなわち「神宿る剣」である。

 つまり主張はこういうことだ。「ディヴァインソードが勝利をもたらすのは、神の祝福を受けた剣だからである。その証拠に、神の祝福を受けたディヴァインソードは必ず勝利をもたらすのである」。

 冷静に考えると論理がループしており、事実上何の証拠にもなっていないのであるが、「正しいものが必ず勝つ原理」は当時の欧州において常識中の常識であり、裁判の最終判決に「決闘」が採用されていたことからもその根強い影響が伺える。そのため、教会は兎も角、民衆の心証を改めさせるにはこれだけで十分な効果があった。更に、神の所業と主張してしまうことで具体的技術を説明する必要が無くなるので、益々都合がよかった。

 唯一の難点は、そう主張する以上絶対に負けてはならないということであり、この主張の信憑性の全ては実際にディヴァインソードを振るうクリスチャン・ルッツ士爵の双肩にかかっていた。ただ識者ハーディも案を出してそれっきりというわけではなく、苦境にあっては協力して対策に当たったという。

 なお、わざわざドイツ語、ラテン語、フランス語を回避して英語で"DIVINESWORD"とつけられたのは、1620年当時イングランドが30年戦争には参加していなかったからであるとされている。つまり、英語を中立不干渉の象徴として用いたのである。しかし残念ながら1624年以降、そのイングランドも間接的にこの戦争に関わって行くことになるので、その真意は意味を失っている。

■ダマスカスの賢者(ゾーリンゲン市長手記1614~1620)

 ディヴァインソードの命名案を初めとして、大いなる知識を以ってヒルデ男爵令嬢らを助けたのは、ダマスカスの賢者として知られた識者ハーディ・ナディーム・アドーニースという男である。記録によるとハーディはオスマン帝国領シリアのダマスカス出身の医師で、イスラム教徒だった。普通に考えれば神聖ローマ帝国領のゾーリンゲンにイスラム教徒がいて無事なはずがないのだが、ゾーリンゲンの鍛冶技術の起源を辿るとオスマン帝国領シリアに行き着くので、ゾーリンゲンに限っては彼の故郷シリアは比較的身近な国だった。

 1614年以降、ゾーリンゲンは深刻な病に侵されていた。黒死病である。かつて15世紀に欧州の1/3の人間を死に至らしめたこの病に対して、ただ教会の教えに従うだけの退化した西洋医学では全く歯が立たず、1617年までの3年間でゾーリンゲンでは1,600人以上の犠牲者が出ていた。最初の1年間で教会関係者は残らず逃げてしまった。次の1年で医者が全滅した。その頃には街は伝染病の元として隔離され、国内の他の街に助けを求めることも不可能だった。こうした万事休すの状況で、アラブ医学の進歩を知ったリンブルク都市伯は、禁を破って昔のつてのシリアに頼ったのである。その後更に幾つかの困難を乗り越えて、5回目の使者がようやく旧シリアの首都ダマスカスに辿り着いたのは、1616年末のことだった。

 このときの救難要請を受けて旅立ったのが、ダマスカスの賢者として知られた名医、ハーディ・ナディーム・アドーニースであった。彼は翌年1617年の初頭にゾーリンゲンに辿り着き、街の治療を開始した。

 当時、医療の最先端であったアラブでも黒死病に対する確実な治療方法はまだ確立されていなかった。しかし、身体の免疫力を強化する漢方薬と栄養療法、根気強い看護治療が功を奏して、ハーディは患者の致死率を当初の7割から4割まで引き下げることに成功した。そしてそれ以上に画期的だったのは、彼の提案による猫の輸入であった。当時の欧州では、魔女狩りのついでに魔女の手先とされる猫が殺されたせいで、猫の絶対数が極端に減っていた。そのせいで天敵を失くしたネズミとそのネズミに寄生するネズミノミが急激に増えてしまい、これが黒死病の最たる感染源となっていた。そこでハーディはまず猫を増やすことで主要感染源を駆逐しようとしたのである。この狙いは見事に的中し、ハーディはゾーリンゲン訪問からわずか1ヶ月で患者の増加をほぼストップさせた。この功績からその後のゾーリンゲンでは猫が重宝されるようになったのだが、教会に対しては魔女認定の要らぬ口実を与えることにもなった。

 ゾーリンゲンの黒死病被害はその後順調に回復し、1619年には街から病を駆逐するに至った。仕事を終えたハーディは本来この時点で帰る予定だったのだが、前年から始まった30年戦争の影響による道中の治安悪化は厄介で、どうせ帰れないならば、と帰り道の安全確保を兼ねて引き続きヒルデに力を貸すことにしたようである。

 1619年に黒死病の駆逐が確認されてからは、修道院に戻ってきた教会関係者が街の運営に口出しをするようになったのだが、ヒルデ体制において彼らの意見は大抵相手にされず、多くの場合ハーディの意見が採用された。何故ならば、真っ当な治療を以って黒死病を駆逐したハーディの言葉に比べれば、病を恐れて早々に逃げていったばかりか、医者を見下し治療行為を妨害して人を死なせることばかりに熱心な教会の意見など、聞くに値しないからであった。特に領主代行のヒルデに至っては、下層市民であった頃に黒死病に罹っており、ハーディが貧しい者をないがしろにせず治療を行ったお陰で命拾いをしているので、その信頼は絶大だった。ただ、ヒルデは領主代行の立場でありながら教会を軽んじたので、これも教会の魔女認定に一役買ってしまった。

 また、ハーディはヒルデの件からバトロイト・ルッツとも親交を深めており、バトロイトに刀の製法のヒントを与えたのもハーディであったという。というのも、かつて短剣とともにクリスチャンの母がもたらした二つの書があり、これが東洋の言語で書かれていたために誰も読めずに放置されていたのだが、東西の文化に精通したハーディはこの書を解読することが出来たのだ。ハーディによると、その内容は武術指南書と砲術指南書だった。そしてこの武術指南書には刀の手入れの方法が載っており、中には僅かながら刀鍛冶関連の基礎知識も含まれていたようなのである。

 ヒルデ男爵令嬢の弟であるクリスチャン士爵も当然ハーディと親交があった。彼は武術指南書と砲術指南書をハーディに翻訳してもらうことで漸くそれらを理解し、訓練の末に身に着けることができた。実はハーディに出会う前のクリスチャンはむしろ弱いことで有名で、剣の師であったキルヒアイゼン士爵にもクリスチャンには剣の才能が哀しいほど無いと嘆かれたほどであったという。要するにハーディは事実上クリスチャン士爵の師匠であり、実際クリスチャンはハーディのことをマイスターと呼んでいたようである。尚、キルヒアイゼン士爵の指導でクリスチャンが上達しなかったのは単に向き不向きの問題で、彼に習った他の者はまともに剣術を身に着けていたので、キルヒアイゼン士爵の指導が下手だったわけではない。

 ハーディが彼らに訳して聞かせたという二つの書は、残念ながら最終的には異端の書として焼かれてしまったらしく、現存していないためにその具体的内容を知ることは出来ない。

■剣聖ディヴァインソード(エペ・ディヴァイネ 序章)

 ディヴァインソードが神の祝福を受けた剣であるという主張を押し通すためにも、クリスチャン・ルッツ士爵は常に勝利せねばならなかった。武術と戦術を真摯に追求し続けたクリスチャン率いるゾーリンゲン防衛軍は実際敗走することが無く、そのうち彼の噂は不敗神話となって、無用のリスクを嫌う軍隊はゾーリンゲンを避けて進軍するようにさえなった。

 レオナール・バラスコの戯曲エペ・ディヴァイネにその様子を簡潔にまとめた一節があるので、まずはこれをそのまま紹介する。

 

 "剣聖ディヴァインソード。戦場を駆けるその男は、味方にとっては無敵の武神、敵にとっては忌むべき魔人、その精神は忠義に厚い武人であった。

 彼には「ヒルデの遣い魔」「ゾーリンゲンの魔人」など数々の不名誉な別称があったが、何と呼ぼうが誰も彼の鋼の精神を砕くことは出来なかったので、しまいには誰もが諦めて「ディヴァインソード」と呼んでいた。彼は銃弾飛び交う戦乱の中、愚直なまでに一人の女を守り続け、しかし守りきれず、戦乱とともにその壮絶な生涯を終えた。"

■騎士であり、なおかつ武士であった男(ゾーリンゲン市長手記1618~1648他多数)

 ディヴァインソードの使い手であるクリスチャン・ルッツ士爵のいでたちや人となりに関しては、比較的多くの資料が残っている。勿論資料によってある程度のばらつきはあるのだが、概ねその様子を知ることはできる。

 

 身長は14歳当時でおよそ140cm、成人しても160cm程度(資料によっては150cm~170cm)であったという。この体格は無論遺伝のせいもあるだろうが、主要因は成長期の栄養不足であったと考えられる。実際、当時の欧州は小氷河期の飢饉が長く続いていたため食糧不足が深刻であり、現在平均180cmのドイツ人成人男子の身長が167cmしかなかったくらいである。一方で裕福な貴族階級は十分に栄養を取って大きく成長していたので、元々貴族の騎士などを相手にすると、頭一つ分以上の身長差があることも珍しくなかった。

 髪形については、当時髪が長い男は珍しくなかったが、彼はその伸ばした髪を後頭部の上の方で纏め上げ、いわゆるポニーテールのような髪形をしていた。恐らくは武士に必須の髷を結ったつもりであったと考えられるが、奇異の目で見られるのは避けられなかった。

 当時貴族の髭は伸びっぱなしが普通であったが、クリスチャンは髭を剃ることが多かった。しかし毎日剃る暇があるわけでもなかったので、戦時は無精髭が半端に生えた状態であることが多かったようである。

 クリスチャンの普段の格好は、欧州の常識には全く当てはまらないもので、裾が長い前合わせのシャツ、腰の左右に穴が開いた裾広のズボン、指先が分かれた靴下、干し草のサンダル、絹のマフラー、特に寒い場合にはその上に狼の毛皮の外套といういでたちであった。初めて実戦で刀を振るった1618年当時はシャツとズボンに帯刀用の帯を巻いただけのシンプルな形だったらしいのだが、やはり袴の方が刀の収まりが良く、また足音を立てずに不整地を走り回るには草鞋が最適だったので、それらを一つ一つ改善していった結果、結局武士に似たような格好に落ち着いたようである。武士の正装については、武術指南書の礼儀作法の項に記されていたものと思われる。

 戦時の防具は機動性と持久力を重視した軽装で、キュイラス(胸当て)やポールドロン(肩当て)を装備することはあったが、極端に視界を悪くする兜は絶対に身に着けず、手足の動きを制限するガントレットやソールレット、無用な重量増加に繋がる鎖帷子などもまず着ることは無かったという。また、両手で刀を扱うため、楯も装備しなかった。装備の少なさは行動の迅速さに繋がり、そもそも普段から帯刀したままだったので、常に臨戦態勢にあったといえる。緊急時にはそのままの格好で現場に急行することがしばしばあった。

 

 クリスチャンの性格について、どの資料においても必ず述べられているのが、その恐るべき勤勉さである。クリスチャンは幼少の頃から剣術を習っていた。残念ながら体格の貧弱さも手伝って彼には西洋剣術の適性が無く、ハーディに師事して日本刀剣術を体得するまで人並みにも届かない程度だったのだが、それでも文句一つ言わずに人の倍は鍛錬に励んでいたという。結局のところ、彼は片手剣と楯をうまく扱うことは出来なかったが、西洋剣術の理屈を自らの身体に叩き込んでいたために刀で剣を制すことが出来た。同様に、彼は砲術を学んでもファーレンホルストのような狙撃の名手にはなれなかったが、砲術を誰よりも深く知ることで銃を制することが出来た。

 世に剣聖と呼ばれるようになってからもその勤勉さは衰えることがなく、放っておくと朝から晩まで鍛錬に励んでいたという。その強さと有名さゆえに彼に弟子入りを志願する者は決して少なくなかったのだが、殆ど全ての者がその殺人的練習量についていけずに脱落した。

 クリスチャンはどちらかといえば寡黙であり、その上部下の指導に関しては厳しかったため、よくあらぬ誤解を受けた。しかし基本的には礼節を重んじ受けた恩義は必ず返す人物だったので、市民や部下との人間関係が必要以上に悪化することはなかったようである。また、言葉が足りない部分についてはクリスチャンをよりよく知るものが積極的にフォローしたという事情もある。

 クリスチャンは騎士であり、一度忠誠を誓ったヒルデ男爵令嬢を裏切ることが一度として無かったこという点に関して、理想的騎士であったと言われる。一方で多くの騎士に見られる名誉欲については全く無いと言ってもいいほどで、勝利を至上目的とした腹が立つくらいの待ち戦術を多用し、どんな罵倒を受けても絶対に挑発には乗らなかった。それはそれとして、姉にして主であるヒルデ男爵令嬢を泣かせた輩は、それが誰であろうと地の果てまで追い詰めて叩き斬ったという。

 総じて、騎士の心得に加えて武士としての矜持をも内包した実直な人物だったようである。

■ディヴァインソードの紋章(ゾーリンゲン市長手記1620~1648)

 クリスチャン・ルッツ士爵の左腕から手の甲にかけてには、刺青で騎士の紋章が刻まれていたと伝えられており、意匠については具体的資料が残っている。

 正面向きの鉄兜は騎士の証、啄木鳥のクレストに狼のサポーターは軍神マルスの象徴、交差する剣は刀剣の町ゾーリンゲンを示す。

 中央の三つ巴は明らかに日本様式の家紋であり、彼の出自を辿る手がかりとして重要であるが、実際は家柄と関係なく大和の武神八幡宮の神紋を刻んだものである、という見解もある。また、クリスチャンの母の形見の電々太鼓にもこの三つ巴が描かれていたので、実は背景のベルトと併せてこの電々太鼓を表現したのではないかという見解もある。

 マント代わりに首に巻きつけられた穴だらけのマフラーは、彼が銃をも制した証である。更にスクロールには座右の銘として"La substance est non la substance"、要するに「色即是空」と刻まれている。これは禅宗、つまり仏教に根ざした心得である。実際に彼が仏教徒であったかどうかは定かではないが、神聖ローマ帝国において孤立する理由としては十分であったと考えられる。

 尚、紋章を手の甲に刻んだ理由は実に単純で、彼が楯を持たなかったからである。

 ディヴァインソードの鞘には略式で中央の三つ巴のみが刻印されている。

■無敗神話(ゾーリンゲン市長手記1618~1648)

 一般的に剣聖ディヴァインソードことクリスチャン・ルッツ士爵は、神宿る剣の主であるゆえに、その生涯において一度も敗北を喫しなかったとされている。しかしこの認識には二つの間違いがある。

 まず、ディヴァインソードNr.707はゾーリンゲンで707番目に試作されたサムライソードであり、いわば技術力の結晶ではあっても、別に神の祝福など受けてはいない。クリスチャン士爵の稀有な戦果は、最適な戦術とたゆまぬ努力の結果である。

 クリスチャン士爵は小柄な男であった。そのため、単純に力だけで比べると貴族育ちの騎士より非力であった。しかし彼は自身の体躯が小さいことを逆に利点として考えた。つまり、小さい分だけ攻撃に当たりにくく、軽い分だけ俊敏に立ち回ることが出来るということだ。この特性を突き詰めて、クリスチャン士爵は楯はおろか甲冑すらも殆ど身に着けず、銃を相手にする場合には射線と発砲間隔を見切り、疾風のごとく懐に飛び込んで一太刀の下に斬り捨てるのを必勝の戦法としていた。

 クリスチャン士爵は、この一見無謀な戦法で見事に銃を制して見せ、1625年頃には「ディヴァインソードに銃は通用しない」というのが傭兵の常識にまでなっていたという。その成功要因として、まず前述の小柄な体躯、身軽さ、銃の運用に関する見識の深さがある。次に鍛錬で身につけた持久力、精神力、即断力。最後に、この時代の銃が未成熟だったので速射性がなく、発砲直後の隙が甚大であったことが挙げられる。そしてこれらの要素が一つでも欠けたならば、彼が銃を相手に常勝することはなかったであろうと言われている。

 また、クリスチャン士爵が組織したゾーリンゲンの銃士隊は、様々な実戦ノウハウに基づく画期的な運用方法のおかげで、欧州でも指折りの精鋭部隊となっていた。そのため、相手が小規模な軍勢であった場合、彼が出るまでもなく勝負が決していることが多々あった。

 もう一つの間違いは、クリスチャン・ルッツ士爵は実際のところ数回の手痛い敗北を喫している、ということである。いくら努力して強くなろうが所詮勝負は時の運であるし、少数精鋭であるゆえに単純に圧倒的物量差には抗し得ない部分もある。ただ、ハーディ医師の存在により当時のゾーリンゲンは医療のレベルが他より格段に高かったため、常識的には致命傷を負っていたはずでも、最終的には必ず戦線復帰して全ての相手を打ち倒すことが出来たのである。

 また、クリスチャン士爵はあくまでヒルデ男爵令嬢の騎士であり、ゾーリンゲンの守備隊長であったので、わざわざ敵地に攻め入る必要が無く、集団戦闘においては殆どの場合において防御戦闘であり、地の利があった。そのため不確定要素が少なく、順当に勝ち続けることが出来たとも言える。

 ところでクリスチャン士爵は移動手段としてはよく馬を利用したが、乗馬したまま戦うことは滅多に無かった。適切な状況で使用すれば騎馬突撃は強力な攻撃の一つであったが、運の要素が大きすぎ、常に勝たねばならないクリスチャンが選択すべき戦闘方法ではなかったからだ。自分が被弾しなくても自分より大きな体躯である馬が被弾する危険があったし、馬は大きな音が苦手なので、発砲音に驚いて主人の言うことを聞かなくなることもよくあった。

■ゾーリンゲンの銃士隊(ゾーリンゲン市長手記1618~1648)

 ゾーリンゲンで最強の武人を一人挙げるならばそれは間違いなくクリスチャン・ルッツ士爵である。しかし仮に彼が絶対に勝負に負けなかったとしても、常に一人で複数の外敵から街を守るのは不可能である。彼はあくまで最後の切り札であり、通常戦力として最も頼りにされたのは、ニコラ・ウータ・ファーレンホルストを筆頭とする銃士隊だった。

 ゾーリンゲンには元々小規模な自警団があり、これは組織として自警歩兵隊、自警弓兵隊、自警騎兵隊を内包していたのだが、30年戦争開始時点で壊滅的な打撃を受けたのを見るまでも無く、これら従来の戦力で外敵の侵略を防ぎきるのはもはや不可能だった。そこで領主代行になったヒルデ男爵令嬢はクリスチャン士爵を防衛軍総隊長に任じ、識者ハーディと協力して従来の自警団を防衛軍として再編成させた。再編成にあたって、クリスチャンは従来の三部隊の増強に加えて銃器を専門に扱う銃士隊を新たに発足させた。銃士隊を含む防衛軍の人員は、自警団同様に全てゾーリンゲンの住人から選抜された。余所者の傭兵は戦が終われば略奪行為に走る危険性が高く、1618年の貴族狩りはその最たる被害であったので、まずそのリスクを最大限排除した形である。新たに組織された銃士隊は、軍としてはどちらかといえば少ないくらいの人数で、ごく普通のマスケット銃を装備していたのだが、全員に適切な砲術教育を施し、運用を徹底することで強力な戦力単位となった。その練度の高さはいつしか神聖ローマ帝国軍総司令官ヴァレンシュタイン公爵の耳にも入り、再編成された帝国軍の練度の低さに頭を悩ませていた彼は、ゾーリンゲンの銃士隊を手駒として欲しがったという。

 銃士隊の訓練はヒルデ体制が成立した1618年から開始され、翌1619年には戦力として有効に機能していたようである。銃士隊の初代隊長には、リンブルク都市伯の使用人であったファーレンホルストが任ぜられた。彼女はリンブルク都市伯存命中には何の変哲も無い家政婦だったが、賊にリンブルク伯を殺害されたのを契機として銃士隊に志願、 雑音の中でも聞き取りやすい大きな声と遠くを見渡せる優れた視力を買われて隊長に抜擢されたという。当初全くの素人だったファーレンホルストには、その才能と熱意を見込んで特に厳しい砲術訓練が科された。彼女は約1年かけてこれを全て習得し、銃士隊長就任時点で14歳の少女でありながら、既に立派な指揮官であった。ファーレンホルストは優秀な狙撃手でもあり、専用銃を用いた長距離狙撃は他の誰にも真似が出来なかった。

 ゾーリンゲンの銃士隊の最大の特長は、通常の三倍の連射速度で前列の全員が狙撃を行う点にあった。これは、例の砲術指南書の内容に従った部隊運用であるという。

 その運用方法とは、以下のようなものである。

 まず3人1組の最小単位部隊を作り、銃を3挺持たせる。これを狙撃手1人と装填手2人に分け、1人が撃つ間に他の2人が装填を行うことで、最高で3倍速の連射が可能になる。また、射撃の熟練者1人だけが攻撃に集中することで命中率が上がり、ついでに射撃訓練をすべき人数が1/3になる。これによって運用コストが削減でき、人員補充が楽になる上に集中訓練で更なる技量向上が望める。また、全員の命中精度を高めることで、友軍が敵軍に接近していてもある程度の支援攻撃が可能となった。

 この運用法は大車輪装填法と呼ばれ、詳細は部外秘とされた。これにより平常の部隊運用で3倍速の照準射撃が可能になり、特に熟練の極みに達した小隊の場合最高5人組で5倍速にまでなることがあった。

 このような銃の運用概念は当時の欧州では殆ど例が無く、他で探すとすれば日本の雑賀衆や根来衆あたりのそれによく似ている。最適化の方向性の話に置き換えると、ドイツはどちらかといえば道具の改良を進めて最適化する方向にあり、逆に各人の取り扱いを徹底することで最適化するのは日本的であるとも言えた。この概念を手がかりにクリスチャン・ルッツの出自を辿る研究も為されているが、未だに結論は出ていない。

 また、ゾーリンゲンの銃士隊はその防御においても手堅く、打ち崩すのが容易ではなかったと言われている。これは半身射撃や伏せ撃ちを徹底して被弾断面積を減らしていたためである。特にゾーリンゲンの外郭に増築された壁上砦からの一斉射撃を打ち崩すのは、長射程の攻城砲でも持ってこない限り殆ど不可能だった。更に30年戦争末期には、攻城砲対策として荷馬車に装甲を施した装甲馬車や、荷馬車に長射程砲を積んだ戦車を運用して、移動しながらの射撃戦を展開することもあった。

■武器の街ゾーリンゲン(ゾーリンゲン市長手記1147~1648)

 1147年の技術伝来以来、ゾーリンゲンは刃物の町であった。特に1604年から1618年の間はベルク公の約束があったためにサムライソードの製造技術研究に重点が置かれ、707本の試作刀剣の集大成としてDIVINESWORDという至高の剣が創出された。しかし、その後の30年戦争時代においては爆発的に銃器の製造が増えていった。これは新たに領主代行となったヒルデ男爵令嬢が早急に防衛戦力を増強しようとしたことが最大の原因である。この狙いは概ね成功した。当時ゾーリンゲンでは既に少数ながら鉄砲の製造を行っている鍛冶屋があったので、街全体に生産を拡大することで必要な数の鉄砲を容易に調達することが出来た。また、当時の欧州全体の風潮として鉄砲に対する需要はかなり高いものだったので、造りすぎた鉄砲は店頭に出しておけば飛ぶように売れた。

 ゾーリンゲンで造られる銃器は、その技術力を裏づけとした高い品質でも知られたが、そればかりでなく機能面でも様々な改良が試みられていた。しかし構造自体が極端に違うものは生産性や保守性、部隊運用に難があったため、ゾーリンゲンの銃士隊では基本的に普通の火縄式マスケット銃が使用され、銃器の構造に詳しく扱いに長けた者だけが試作品の銃を使用していたようである。

 試作銃の中で特に有名だったのは、1625年以降に銃士隊長ファーレンホルストが使用していたロングバレルの狙撃銃である。この狙撃銃は当時のゾーリンゲンで製造された銃器の中でも最高傑作といわれており、望遠スコープと涙滴型専用弾の採用によって、火縄銃であるにも関わらず有効射程400m(※5)という非常識な性能を誇っていた。

 この狙撃銃は圧倒的な性能の反面、その特殊性ゆえに、製造数の限界と運用コストの高騰、扱いの難しさという難点があった。まず、肝心の望遠スコープに行商から買った出所不明(恐らくオランダ製)の望遠レンズを使用していたため、この部品の追加調達が望めない以上、流石のゾーリンゲンも1挺制作するのが限界だった。また、涙滴型専用弾の使用と望遠スコープのメンテナンスが不可欠だったため、他の銃に比べてかなり運用コストが高かった。更に、使用する火薬の量が多いために一発で銃身が過熱してしまい、次の火薬を詰める前にまず冷やさなくてはならないので、二発目の装填にはどう頑張っても10分以上はかかった。

 しかしファーレンホルストは単一目標を狙撃して戦闘を回避もしくは終結させる目的でこの銃を使用したので、一発必中である限りは問題なかった。また、通常の戦闘においては銃士隊の指揮をするのが役目なので、そもそも撃つ必要が無い場合もあった。

 1625年にこの銃が初めて実戦で使用された際、敵軍は大混乱に陥った。突然指揮官が狙撃されてしまったことで混乱したこともあるが、それ以上に問題なのは、狙撃手がどこにも見当たらないことだった。指揮官を失った兵は戦意喪失して逃走し、総力戦は回避された。これだけでも大した戦果だが、実はまだ続きがある。姿が見えない狙撃手は各地で様々な噂と憶測を呼び、そのうち誰とも無く言い出した「ディヴァインソードが宿す神の力による超常的攻撃」とする説が広く受け入れられるようになった。こうしてファーレンホルストの長距離狙撃には本人のあずかり知らぬところで原理仮説と名前が付与され、「ハンメル・デス・ウルタイルス」(Hammer des Urteils=裁きの鉄槌)と呼ばれるようになった。それは後にそのままファーレンホルストの銃の名前に採用された。

 ハンメル・デス・ウルタイルスの正体はその後も秘匿され、ガリレオ・ガリレイに看破されるまでの2年間、デンマーク・ニーダーザクセン戦争の真っ最中であるにも関わらず「神の力」に守られたゾーリンゲンの治安は他に類を見ないほどのものだったという。

 その後1648年にハンメル・デス・ウルタイルスはヴェルジアネーゾ卿の手に渡ることとなったが、そもそもの設計方針が「通常のマスケット銃の精度限界を遥かに超えるファーレンホルストの狙撃能力を十分に活かすための銃」だったので、ファーレンホルスト以外にこの銃の有効射程を十分に活かせる者はおらず、腕のよい銃士でも精々200m程度の距離で命中させるのがやっとだった。

 他の特殊銃としては、剣術が主体のクリスチャン・ルッツ士爵が短射程のハンドガンを一つ携帯し、必要に応じてこれを使用したという記述がある。クリスチャンは銃の扱いに秀でているわけではなかったが、距離さえとっておけば安全というわけではない、というプレッシャーを与えられるだけでも十分だった。

 

※5: 有効射程400m

 当時の一般的火縄式マスケット銃では、80m先の標的に当てるのが精一杯だった。仮に高精度の銃と火薬と銃弾と射撃の名手を揃えたとしても精々100mが関の山だったので、この数字がいかに非常識であったかということが窺い知れる。

 尚、攻城砲であれば射程1kmを超えるものも存在していたので、優れた砲兵がいれば射程外から壁上砦を攻撃することは可能だった。

■戦乱の終結と剣聖ディヴァインソードの最期(ゾーリンゲン市長手記1648)

 ディヴァインソードNr.707とクリスチャン・ルッツ士爵が経験した激戦の記録は軽く十指に余るほどであり、それらは様々な物語として各地で語り継がれている。彼の戦いぶりについて語り始めればきりが無いが、今回はその中でも最も壮絶なエピソードとして知られる最期の戦いと、戦いに至る経緯について述べることとする。

■2月の使者(ゾーリンゲン市長手記1648.2)

 発端は、ゾーリンゲンにオスマン帝国からの使者と名乗る男が訪れたことである。折しも1948年初頭の2月、依然各地で戦乱は続いていたものの、和平条約の締結は時間の問題と目されていた時期のことである。使者が運んだ手紙を読んだ識者ハーディはかつて心優しかったイブラヒム王の豹変ぶりを知り、説得のための帰郷を決断した。

 オスマン帝国への道程は長く、まだ危険も多かった。このときハーディは75歳の高齢に達しており、賊に襲われた場合に自力で逃げおおせるのはまず無理だった。そのため彼を守護する随伴者が必要になったのだが、大人数が随伴すると要らぬ争いの種になる。そこで、ゾーリンゲン最強の武人であるクリスチャン・ルッツ士爵が同行することとなった。この当時ゾーリンゲンの防衛軍は百戦錬磨の兵が集う軍団として円熟に達しており、過去3年間外敵の侵入を許していなかった。そのためクリスチャンは銃士隊長のファーレンホルストに防衛軍総隊長代行を一任して旅立った。こうしてオスマン帝国へ向かう一行は、識者ハーディ・ナディーム・アドーニースの他に、使者ムフリス・ザリーフ・イルファーン、剣聖クリスチャン・ルッツ士爵、それからルーファス・フォン・シュツットガルトを加えた4人となった。このルーファスというのはクリスチャンに直接剣術を教わった唯一の男で、大層な変わり者だったという。

 ルーファスがどう変わり者だったかというと、彼は名門シュツットガルト都市伯家の三男なのだが、生来異常な負けず嫌いで、一度敗北を喫すると命ある限り何度でも勝負を挑み続けるという厄介な性格であった。その最終的勝利を得るために自らに課す鍛錬の量は、もはや常軌を逸していたという。そのため14歳の頃には故郷で勝負を挑む相手がいなくなってしまい、今度ははるばるゾーリンゲンを訪れて剣聖と名高いクリスチャンに決闘を申し込んだ。当初一度で勝てぬとしても何度かの再戦で勝利を得ることができるであろうと踏んでいたルーファスであったが、一度の手合わせで見事に惨敗すると、彼は彼我の埋めがたい差を悟った。ルーファスは力の差を知って落ち込むかと思えばそうでもなく、その後許可も得ずに勝手にクリスチャンにくっついて回り、ひたすら修行を真似ていた。ただ真似ていただけとはいえ、入門を志願する他の者達が長くても1月で脱落していくのに対して、ルーファスは1年経ってもまだ飽きずにくっついていた。流石に朝から晩まで毎日顔をつき合わせているので会話をする機会も多くなり、そのうちクリスチャンはルーファスの型の間違いを指摘し始めた。こうして、徒弟にすらなっていないのにいつの間にか剣術の指導を受けていたという按配である。そして1648年の時点でもそんな微妙な関係が続いており、そのためルーファスは呼ばれてもいないのにクリスチャンを追ってオスマン帝国へと旅立ったのである。このとき彼は17歳だった。

■4人の使者と神の剣(狂王イブラヒム 晩年の一節)

 1648年4月、西方より4人の使者が首都イスタンブールを訪れ、イブラヒム王との謁見に臨んだ。4人の中には31年ぶりに奇跡の生還を果たしたダマスカスの賢者、ハーディ・ナディーム・アドーニースがいた。1つの証と2つの問答によって宰相達は彼を信用し、4人を王の間へと通した。だがイブラヒム王は彼らにまともに取り合わなかった。ハーディが3人の護衛を連れているのを見ると、王は条件を出した。護衛の3人がそれぞれ王の部下と決闘を行い、全ての相手に勝利したならば話を聞くというのである。

 銃使いの使者ムフリスは、王を護る剣士と決闘を行った。剣士は銃弾を弾く大きな楯を持っていたので、ムフリスはむしろ積極的に距離を詰め、急所を一撃で撃ち抜いて勝利を手にした。大剣使いのルーファスは、王を護る銃士と決闘を行った。ルーファスがおもむろに剣を投げつけると、銃士は予想外の攻撃を躱すことができずに死んでしまった。神の刀を使うというクリスチャンには、王の命令により残りの全てが襲い掛かった。クリスチャンは抜刀するまでもなく、一喝を以って彼らを制した。彼らは一歩も動けず、敗北を認めた。

 こうして漸く謁見に至った彼らであったが、実際のところイブラヒム王の心の病は重く、まともに話が出来る状態ではなかった。

 宰相達と話し合った結果、ハーディは帝国の政治を助けるためにイスタンブールに残ることとなった。イスタンブールの民は賢者ハーディの政治参加を歓迎した。そんな折、またもや西方からの使者だという男がイスタンブールを訪れた。男の名はギドといった。彼が伝えたのは、クリスチャンの故郷が敵の手に落ちたという報せだった。

■千の十字軍(エペ・ディヴァイネ 第4章第2幕)

 難攻不落のゾーリンゲンを攻め落としたのは、モヌール・ティレー・ヴェルジアネーゾ子爵という男であった。彼はフランス王国北部のティレー子爵家とトスカーナ大公国のヴェルジアネーゾ子爵家の間に生まれ、トスカーナ大公フェルディナンド2世に長く仕えた忠臣である。ヴェルジアネーゾ卿が挙兵した名目上の目的は、魔女討伐であった。

 教皇インノケンティウス10世は、1647年10月にトスカーナ大公フェルディナンド2世・デ・メディチに対して勅命を下していた。その内容は、ゾーリンゲンの魔女を討伐せよ、というものである。これを受領したフェルディナンド2世は頭を抱えた。こんな下らないことを言い出したのは、あのオリンピア・マイダルキナに決まっている。大方彼女は、和平条約が締結される前に魔女討伐の成果を上げてカトリック勢力の発言力を増すのが得策だ、とでも囁いたのだろう。それが分かっていても教皇が下した勅命である限り、逆らうことは不可能だった。トスカーナ大公であるメディチ家には、資金がある。芸術や学問に関しては人脈もある。だが、こと軍事面に関しては、フェルディナンド2世大公は素人も同然だった。しかも相手はあのヴァレンシュタイン公が追加徴税を諦め、フランス王国正規軍が避けて通るというゾーリンゲンだ。彼の力では、天地がひっくり返っても攻め落とせるわけが無かった。軍事面で頼りにならないのは他のイタリア諸侯に関しても同じで、誰が軍を動かしたとしてもゾーリンゲンを攻め落せる気がしなかった。また、失敗した場合の損害はメディチ家が傾きかねないものだった。

 主の苦悩を察したヴェルジアネーゾ卿は、状況を打破する一策を提案した。十字軍の編成である。十字軍の大義名分を掲げることで、多額の支度金を支払う必要が無くなり、やりようによっては他の大国の軍勢を借りることができる。

 この案は窮したトスカーナ大公の全面的支持を受け、ヴェルジアネーゾ卿は早速フランス北部のティレー本家に連絡を取って十字軍の募集を開始した。募集に際して具体的な討伐目標については伏せられたが、名門メディチ家による多額の成功報酬の約束は多くの猛者にとって魅力的なものだった。この成功報奨については、討伐が成功した場合にゾーリンゲンから巻き上げる予定だったので、メディチ家の資産を切り崩さずに十分支払える見込みがあった。また、荒廃しきった神聖ローマ帝国領において西洋屈指の兵器製造技術と用兵術を以って奇跡的に生き残っていたゾーリンゲンをメディチ家の新たな直轄統治領にできるならば、それは軍事的にも経済的にも良い効果をもたらすと考えられた。

 十字軍編成の主旨はリスクの回避であったが、メディチの名の下に軍を率いる以上、ヴェルジアネーゾ卿は勝利を前提として用意を進めた。その最たるものとして、彼は大型の攻城砲を3門用意した。ガリレオ・ガリレイに物理学を師事し、独自に燃素(※6)の研究を行っていたヴェルジアネーゾ卿が設計したこの大砲の最大射程はおよそ1.5kmで、ゾーリンゲンの防衛兵器で最も厄介なハンメル・デス・ウルタイルスの有効射程400mを遥かに上回っていた。流石に精度では比べるべくも無いが、射程外から砦を攻撃するには十分なものだった。

 こうして翌1648年の3月、ヴェルジアネーゾ卿は十字の旗の下におよそ千人の軍勢を率いてゾーリンゲンを訪れた。千という数は、事前調査で掴んだゾーリンゲン防衛軍総戦力の約3倍を見積もった数であり、これより少なければ確実性が揺らぎ、多ければ支払いと統率に問題が生じるというバランスに基づいて定められていた。ヴェルジアネーゾ卿が率いる千人の軍勢は、その数の必然性から結成時に「千の十字軍」と称された。

 

※6: 燃素

 フロギストンとも呼ばれる元素。現在で言うところの硫黄であるというのが通説だが、その特徴が完全に一致しているわけではなく、実のところ何だったのかはっきりしていない。何らかの硫黄化合物や混合物に独自に名前をつけて燃素と呼んでいた可能性もある。

■第38次ゾーリンゲン防衛戦(ゾーリンゲン市長手記1648.3)

 大小併せて38回目となる1648年3月の防衛戦は、ヴェルジアネーゾ卿率いる千の十字軍との戦いであった。このときのゾーリンゲンの防衛軍は、当初銃士隊177(総隊長1、中隊長4、隊長補佐5、射撃手48、砲手4、装填手115)、弓兵24、歩兵112、騎兵12の総計325人であったとされている。戦力差は単純に考えれば3倍であったが、ゾーリンゲンにはかつて3千の軍勢を相手に互角に戦った実績と自負があった。問題はその数ではなく、装備と戦術だった。

 千の十字軍には3門のヴェルジアネーゾ式長射程攻城砲があり、更に砲手はそれぞれガリレオ式双眼鏡を持っていた。これは壁上砦の銃士隊を主力とするゾーリンゲン防衛軍にとって脅威だった。攻城砲対策として、ゾーリンゲンの四方にはそれぞれ1門の大砲が設置されていた。この大砲は間違いなく当時トップクラスのゾーリンゲン規格精度で作られており、射程でも約1.2kmを誇った。しかしそれでも敵の新型攻城砲の射程には300m及ばず、防壁の存在を前提としていたために移動能力もなかった。更に、望遠鏡と呼べるものがハンメル・デス・ウルタイルスのスコープについているもの以外に存在しなかったので、射程内での命中率ですら厳しいものがあった。

 ゾーリンゲン防衛軍は、開戦当初から圧倒的な不利を強いられた。千の十字軍は攻城砲の性能差を最大限活用し、射程内には絶対に近寄ってこないばかりか、風下になった際には安全ラインまで後退して慎重に好機を待った。かといって、後退する千の十字軍を追いかけるのは、数に劣るゾーリンゲン防衛軍にとっては単なる自殺行為だった。

 クリスチャン士爵の留守を預かるファーレンホルストは、相手以上の慎重策で対応した。ゾーリンゲンの強みは、武器を作る生産能力を有していることであり、持久戦ならば武器を集めながらでも戦えることだ。彼女はまず領主代行のヒルデに連絡を取り、武器と有志による兵を2時間で可能な限り集めた。これでひとまず人数と装備は800人分になった。当時のゾーリンゲンの人口が老若男女合わせて3,000人弱だったので、兵士として徴用出来る人数はこのあたりが限界だった。増員に際してファーレンホルストは銃士隊の編成を組みなおし、従来の装填手を第2線の射撃手として代わりに新兵を装填手に据えた。この編成でローテーションを組み、2時間ずつ基礎訓練を科すことで何とか戦力として動かすことが可能になった。これで銃士隊の厚みはおよそ3倍、連射力でも2倍にはなった。

 これに並行して、ファーレンホルストはカトラリー・ギルドに移動砲台の製作を依頼していた。ゾーリンゲンの技術を以ってしても流石に射程1.5km以上の移動砲台を即席で作るのは不可能だったが、既存の固定砲台と同じ部品を流用して射程1.2kmの簡易移動砲台を作るのは可能だった。ファーレンホルストは部品の在庫を考慮して、至急2台の移動砲台の製作を依頼した。ただし、射程と数を妥協する代わりに、馬車に積んで運用可能な重量であることが要求された。つまり足りない射程を機動力で補い、戦車として運用しようという発想であった。戦車の運用のために軍馬が徴用され、必然的に戦車の運用は馬の扱いに長けた騎兵隊に任された。そして引かれる砲台の側に砲手と装填手が乗り込む形であった。

 

 戦闘開始から2日目の正午、ゾーリンゲン防衛軍は正門を自ら開いて反撃に出た。これは壁上砦が辛うじて機能するぎりぎりのタイミングだった。まず騎兵隊長ベルギウス以下4騎の重装騎兵が先陣を切り、4台の装甲馬車がそれぞれ12人の鉄砲兵を乗せてそれに続いた。更に2台の戦車が躍り出ると、縦列隊形を組んだ歩兵隊が門から湧き出し、槍の対騎兵防御陣を敷いたその背後に弓兵が構えた。残りの鉄砲兵は、壁上砦からの狙撃に専念した。装甲馬車は射程内に敵を捉えた時点で反転し、装甲を施した背面を楯として攻撃を開始した。戦車は横を向き、相手の砲撃に対応する準備をしてから砲撃を開始した。

 ゾーリンゲンの銃士隊の大車輪装填法を用いた3倍速連射に対抗する最もシンプルな解決策は同じ大車輪装填法を用いることだったが、所詮烏合の衆である十字軍の兵は、装填手に徹することを嫌がったので連携が取れる筈も無く、これははなから無理だった。次善策として千の十字軍が取った戦術は、最前列に鋼鉄の楯を並べての一斉銃撃だった。この運用による防御効果は塹壕ほどではなかったが、防御力と機動力の両立という一点においては大車輪装填法をも上回っていた。こうして徐々に陣形を変えながらゾーリンゲン側の集中攻撃をしのぎ、銃士隊の後ろから飛び出した騎兵部隊は機動力を活かして装甲馬車の側面へと回り込んだ。これに対応して装甲馬車は素早く後退を始め、騎馬隊を壁上砦の射程内におびき寄せて迎撃した。装甲馬車が反転してから攻撃を行うのは、こうした囮戦術を遂行するのに適していた。しかし囮に引き寄せられた騎兵は思いのほか少なく、まだまだ戦力差をひっくり返すには程遠かった。それに戦車や装甲馬車も、あまり長くは前線にとどまっていられない。しかしこれは一つの好機だった。陣形が急激に変わったために、横から見ると大将が丸裸に近い状態だったのだ。ゾーリンゲン側の大将であるファーレンホルスト防衛軍総隊長代行は、この機を逃さず狙撃を敢行した。このときファーレンホルストは何処に居たかといえば、先陣を切って飛び出した騎兵隊長ベルギウスの後ろに同乗して敵側面に回り込んでおり、既に相手の大将を300mの距離に捉えていた。

 大将から300m、敵部隊外縁から150m。絶好の位置である。ファーレンホルストはベルギウスに馬を停めさせると彼の肩に腰掛け、ハンメル・デス・ウルタイルスの引鉄を引いた。狙い過たず、どてっ腹に大穴を空けられた伯爵は地面に転げ落ち、そのまま動かなくなった。しかしここでファーレンホルストは奇妙な違和感に気付いた。指揮官を仕留めたにしては、敵の混乱があまりに小さい。つまり今倒れた伯爵は指揮官ではないか、もしくは複数の指揮官が居る。ファーレンホルストはいつも通りに望遠スコープで楯の紋章を読み取って最も位が高い者を大将格と判断して攻撃したのだが、これがそもそもの間違いだった。千の十字軍で最も位が高いのはオージェ伯爵だったが、実際に統率していたのはヴェルジアネーゾ子爵だった。ヴェルジアネーゾ卿は過去のゾーリンゲン攻防戦を研究解析した結果、「自分より位が高い者を一人置いておくだけで、狙撃目標をそらすことが出来る」という結論に達した。そのため、主であるトスカーナ大公を差し置いてわざわざおだてに乗りやすいだけのオージェ伯爵を招いていたのである。作戦の失敗を悟ったファーレンホルストは、迷わずベルギウスに反転を命じた。既に千の十字軍の軽騎兵1個中隊が彼女らの追撃を開始していたが、判断が早かったお陰で辛くも本陣に辿り着くことが出来た。

 その後の戦いは戦力の削り合いだった。ゾーリンゲンは2両の戦車を駆使して攻城砲3つのうち2つまでを沈黙させたが、やはり急場しのぎの設計では重量的問題から持久力に無理があり、足が鈍ったところに集中砲火を食らって大破した。装甲馬車も当初は優勢であったが、攻城砲の直撃を受けて1両が大破、逆にこれを避けようとして馬が弾幕に突っ込み沈黙したものが2両、残り1両は余力があるうちに退却せざるを得なくなった。

 数に劣るゾーリンゲン防衛軍はじりじりと戦線を後退させていき、徐々に敗色濃厚になっていった。

 

 3日目の朝、敵の布陣を確認したファーレンホルストは我が目を疑った。何と敵の軍勢が最初と同じ約千人に戻っていたのである。2日目の日没前に確認した限りでは、ほぼ互角の損害を与えて双方およそ500人ずつ減らし、ゾーリンゲン300、十字軍500程度まで減っていたはずである。

 疑問は兎も角戦闘は開始された。この日は森から迂回してゲリラ的に散発的な射撃戦を行い、大健闘の末最終的な被害はゾーリンゲン50人、十字軍250人程度となった。その代わりに正門側の壁上砦は砦としてもはや機能しなくなった。

 

 そして問題の4日目。夜明けと同時に敵の布陣を確認したファーレンホルストは暗澹とした気分になった。また敵が千人居るではないか。ファーレンホルストは部隊長を緊急招集し、作戦会議を開いた。そして一人ずつこの現象についての見解を述べてみたところ、多少の違いはあるものの概ね全員の見解は一致していた。すなわち、千の十字軍の総数は千人ではないということだ。ゾーリンゲン正門前の地形では、一度に何千人もの兵士を動かすには無理がある。そこで、とりあえず無理なく指揮が通達できる千人を展開しておいて、減り次第後方の予備部隊から補充人員を送っているのではないだろうか。この仮説が正しいとすると、敵が全部で何人居るのか予想がつかないので、最初から3千人攻めてくるよりもよほど厄介だった。

 対策どころか疑問を解決する暇すら与えず、間もなく千の十字軍からゾーリンゲンへの降伏勧告が下った。やや時期尚早ともいえるこの勧告は、そのタイミングの悪さゆえにゾーリンゲン首脳部を苦悩させた。

 時期尚早とはいえ、この勧告を拒否した上で負けてしまった場合、当時の風習からして暴徒化した敵兵士が略奪行為に走ることはほぼ確実で、これは多くの場合街の荒廃に直結した。これまでは防衛軍総隊長クリスチャン・ルッツ士爵が全責任を負って「否」と答えてきたのだが、司令官にして最後の切り札である彼がいない以上、勝利を断言できる者が居なかった。ファーレンホルストは自らの非力さに歯噛みした。

 仮に持久戦に持ち込んだとして、初めの数日は武器製造力を持つゾーリンゲン側が有利かもしれない。しかし備蓄の食料には限りがあり、味方の援軍が望めないどころか敵の軍勢が実際何千人いるのかも予想がつかないので、あまり引き延ばすことも出来なかった。更に、ハンメル・デス・ウルタイルスによる指揮官狙撃という切り札も指揮官が特定できないために確実性を欠き、徹底抗戦の決意を鈍らせる一因となった。

 これらの判断材料から、ゾーリンゲン領主代行、長老会、カトラリー・ギルドは街の存続を第一に考え、単純に降伏はしないが、停戦交渉の席には着くという結論に至った。

■停戦交渉(ゾーリンゲン市長手記1648.3)

 戦闘開始から4日目の正午、両軍の代表が交渉のテーブルに着いた。この交渉には、両陣営のトップに加えてそれぞれ2名の補佐役の同席が許可された。ゾーリンゲン側の代表は、領主代行モニカ・ヒルデ・ルッツ男爵令嬢と防衛軍総隊長代行ニコラ・ウータ・ファーレンホルスト、騎兵隊長ギド・ベルギウスの3人だった。3人目はベルギウスではなく長老会から一人選抜する案もあったが、不測の事態への対処を優先して最終的に非力なヒルデの両脇を軍属が固める形となった。対する千の十字軍は、総司令官モヌール・ティレー・ヴェルジアネーゾ子爵とその部下カルロ・ブランジーニ士爵、戦死したオージェ伯爵の部下であったアベル・モントルイユ子爵の3人という構成であった。場所は両軍陣地の中間地点とし、人数分の簡易椅子とテーブルが設置された。

 千の十字軍が最初に示した停戦条件は、以下のようなものだった。

 

1. モニカ・ヒルデ・ルッツ男爵令嬢の身柄を引き渡すこと。

2. ディヴァインソードNr.707を譲渡すること。

3. メディチ家直轄のカトリック教区となること。

4. 賠償金込みでヴァレンシュタイン免奪税の3倍を支払うこと。

 

 第1項についてはファーレンホルストが激しく反対したが、そもそも建前上魔女討伐を目標に掲げての遠征なので、ヴェルジアネーゾ自身がどうでもよくても、この条件を取り下げるわけには行かなかった。また、停戦後の暴動を避けるため、誰かしら人質は必要だった。最終的にヒルデ自身の意思により条件を呑むことが決定した。それでもファーレンホルストが食い下がってヒルデの生命の保証を要求したところ、ヴェルジアネーゾ卿は一つ妥協案を出した。もしファーレンホルストがメディチ家に臣従を誓うならば、ヒルデ男爵令嬢について最低2ヶ月の延命を保証するというのである。彼は直接戦ったファーレンホルストの能力を高く買っており、彼女を味方に引き入れることはメディチ家の利益に繋がると考えたのである。ここでいう最低2ヶ月とは、2ヶ月後に開廷される魔女裁判まで虐待や拷問をしないことを保証するが、それまでに第2項が履行されない場合、裁判以降の生命の保証は出来かねるという限定的な意味である。それでもファーレンホルストはこの条件を呑む以外に選択肢が無く、会議の席上で略式ながら騎士の忠誠を誓うこととなった。

 次の第2項については、ディヴァインソードNr.707が持ち主であるクリスチャン士爵とともに遠征出張中なので、即時履行は不可能だった。流石に無いものは取れないので、これは前項に関連して2ヶ月以内に届けるという条件に変更された。この2ヶ月がヒルデの命を左右する重要な期限となった。

 第3項については、ゾーリンゲンは元々カトリック教区ではあるし、温和な統治で知られるフェルディナンド2世大公が新たな主になることには何の問題も無かった。ただ、もし神聖ローマ帝国軍が奪還しに来るとなると色々と厄介だった。

 最後の第4項については、完全に足元を見た甚だ法外の額ではあるものの、幸いそれまで外敵をシャットアウトして繁盛していたゾーリンゲンには、これを支払っても何とか運営を継続していけるだけの蓄えがあった。ゆえに、十字軍兵士の略奪を抑止するためには止むを得ない条件であるという結論に至った。

 この交渉が終了した直後、期限の2ヶ月以内にクリスチャン士爵を呼び戻すために騎兵隊長ベルギウス以下3名がオスマン帝国へと急行することとなった。

■2ヶ月間の新体制(エペ・ディヴァイネ 第4章第6幕)

 新体制の下、正式にヴェルジアネーゾ卿の配下となり千の十字軍の内情を知ることになったファーレンホルスト士爵は、彼の豪胆さにまず驚き、次に後悔や自責の念が沸いてくるかと思ったが、あまりの馬鹿馬鹿しさにもはや呆れる他なくなった。停戦交渉のために巧妙に偽装されていたが、いくら減らしても毎日千人に戻る千の十字軍など張子の虎に過ぎなかったのだ。補充人員は援軍や傭兵などではなく、ましてや死人が蘇ったわけでもなく、辛うじて行軍が可能な怪我人や従者などの非戦闘要員、それでも足りなければ近隣の町で雇ったエキストラで人数合わせをしていただけだった。それを知っている兵士達はそんな状況下では逃げ出さないのが精一杯で、彼らはもはや戦争ができるような状態ではなかった。それらを隠し通しながら、彼はブラフだけで降伏勧告を出してなおかつあの条件を押し通したのである。もし戦闘を続けていれば、まず間違いなくゾーリンゲン側が勝っていたであろう。だが、確認する暇を与えないタイミングで条件を出したのがヴェルジアネーゾ卿の手腕であり、ヴェルジアネーゾ卿の意思を汲んで3日半にわたって体裁を保ち続けたブランジーニ士爵の采配も大したものであったといえる。その結果として停戦条件を呑んでヒルデ男爵令嬢が囚われの身となった以上、文句を言っても遅かった。

 要するに、難攻不落のゾーリンゲンは稀代の戦術家や最強の武人に攻め落とされたのではなく、面の皮の厚いペテン師に口説き落とされてしまったのだった。

 

 ところで意外なことに、ヴェルジアネーゾ子爵が確立した臨時新体制はゾーリンゲン市民にすこぶる好評だった。

 まず、本当に略奪行為が殆ど発生せず、以前と変わらない高度な治安レベルが保たれていた。これはヴェルジアネーゾ卿が兵士達にまず半分の成功報酬を支払い、街で一切の犯罪行為を行わなければ引き揚げ時にもう半分を支払うと約束したためである。半分といっても相当な額だったので、兵士達はわざわざリスクを冒して強盗行為など働かずとも普通に買い物をすることが出来た。

 次に、前体制の良い所は残すべきであるとして、権限の削減はあるものの、長老会やカトラリー・ギルドをそのまま残すことが決定された。

 更に、ヴェルジアネーゾ卿は市民が理解するドイツ語を話し、無言の強制ではなく言葉による説得を基本としたので、多少無茶でも彼の行為は理不尽に感じられなかった。対話も積極的に行い、意見衝突の際には信用のあるファーレンホルスト士爵を仲立ちとして議論(※7)の場が持たれた。

 そして驚いたことに、ヴェルジアネーゾ卿は徴収した免奪税が予想外に多かったと言ってその1/3を市政に還元し始めた。冷静に考えるとそれでもヴァレンシュタイン公の二倍取り立てているので相当なぼったくりなのだが、前例が無い大盤振る舞いに多くの市民は彼を支持した。無論、これを見越して5割増で吹っかけていたわけであるが。

 こうしてあっという間にヴェルジアネーゾ卿の侵略者や圧政者としてのイメージは吹き飛び、ヴェルジアネーゾ卿本人のみならず、彼が仕えるというメディチ家に対しても相当の好印象が浸透した。これは良政によりメディチ家への好印象を植えつけ、なおかつ前統治者に依存していた住民感情を徐々に引き剥がすことを意図した一種のプロパガンダだった。

 このプロパガンダの真意を理解していたファーレンホルスト士爵は複雑な心境だったが、かといって市民が支持する政治を行うことに反対する理由は何も無いので、協力を惜しまなかった。新体制において旧体制との仲立ちという重要な役割を持たされていたファーレンホルスト士爵であったが、彼女には同じ仲立ちという意味でもう一つ任された仕事があった。ブルク城に幽閉された前領主代行ヒルデの説得工作である。

 メディチの名の下に魔女裁判までの2ヶ月間の生命の保証がなされたとはいえ、その裁判で再び有罪判決が下れば、ヒルデの処刑は免れなかった。既に身柄を拘束されている以上、彼女にできることは無罪判決を勝ち取ることである。そのためには、魔女の証拠とされている全ての事柄に対する反証が必要だった。中でも特に厄介なのが、ディヴァインソードNr.707の製造や修復に魔術を用いたという疑惑である。無念の死を遂げたバトロイト・ルッツ男爵の遺志を汲んで30年間製法を漏らさなかったヒルデはこの一件に関してだけは強情で、口を割るくらいなら死ぬつもりだと言って聞く耳を持たなかったのである。そのため、ファーレンホルスト士爵はむしろ友好的なヴェルジアネーゾ卿よりも強情なヒルデと衝突することが多かった。

 ファーレンホルスト士爵のもう一つの懸念事項は、ベルギウスが呼びに行ったクリスチャン士爵がなかなか帰ってこないことだった。ただでさえ遠い上に所在がはっきりしないので、いかに馬術に長けたベルギウスとはいえ、無事に連絡が取れるという保証が何処にも無かった。

 結局のところ、待っているうちに2ヶ月が過ぎて教皇庁の役人が到着するのが先になり、遂に魔女裁判の当日を迎えてしまった。

 

※7: 議論

 ヴェルジアネーゾ卿が意見を戦わせたという数々の議論の中で最も知られているのは、高級鍛冶屋と十字軍兵士とのいざこざの一件である。

 この件に関して彼は兵士の弁護に回り、「この街の多くの鍛冶職人達は、その高度な技術力に反して接客態度は幼稚もいいところで、はっきり言って物を売るというレベルではない」と職人の非を指摘した。確かにゾーリンゲンでは世界的に高い技術力を持つ鍛冶職人を自然と優遇する慣習があり、そういった環境で育まれた彼らの素人お断りな態度は、しばしば余所者を不愉快にさせることがあった。

 この議論を契機として問題を認識した職人達は接客の基礎を改めて一から学ぶことになり、しばしば争いの種となっていた接客問題が大きく改善された。また、単に人気取りの甘い言葉を囁くだけでなく本気の言葉で市民のためになる指導をしたことで、当初ヴェルジアネーゾ卿の友好的すぎる態度に懐疑的だった者達も次第に彼を信用するようになっていったという。

■雷雨の訪問者(エペ・ディヴァイネ 最終章)

 彼がゾーリンゲン・ブルク城の門を叩いたのは約束の期日の正午過ぎ、天候はあの日のように鐘の音も聞こえない酷い雷雨だった。

 最初に気付いたのは、見張り台にいたニコラ・ウータ・ファーレンホルスト士爵だった。彼女は城の正面扉近くの者に命じて扉を開けさせた。命じられた者はあまりいい顔をしなかったが、ほどなくして扉が開かれた。入ってきた男はずぶ濡れで、道中無理をしてきたのか身なりも整っていなかった。だが腰の刀と手の甲の大紋章は彼が剣聖ディヴァインソード、クリスチャン・ルッツ士爵であることを物語っていた。

 クリスチャンが広間を見回すと、3ヶ月ぶりに帰還したブルク城には見知らぬ顔ばかり。その全てが千の十字軍と教会の関係者だった。なるほど、出かけている間にゾーリンゲンが陥落したという話に間違いはないようだ。

 見張り台のファーレンホルストは声を涸らしてクリスチャンを急がせた。時刻は正午過ぎ、既に魔女裁判は始まっていた。

 魔女裁判の議場に使われた大広間の入り口で、クリスチャンの前にカルロ・ブランジーニ士爵という男が立ちはだかった。千の十字軍で一番の豪傑と呼ばれた男だ。ブランジーニは背が高く、背丈が平均未満のクリスチャンと比べると頭一つ分以上の身長差があった。ブランジーニがディヴァインソードNr.707の引き渡しを要求すると、クリスチャンは即座にそれを差し出した。ブランジーニはディヴァインソードを鞘から抜き、刀身の刻印を確認するとニヤリと笑い、議場の扉を開けさせた。議場に入ったクリスチャンは、即座に審議の中断を叫んだ。処刑予定時刻にはまだ早い。間に合ったはずだ。

 だがその時彼が目にしたものは、かつてモニカ・ヒルデ・ルッツ男爵令嬢であった物言わぬ何かだった。彼女は処刑を待つまでもなく、審議という名の拷問によって殺されていたのだ。その遺体は原形をとどめておらず、拷問の苛烈さを物語っていた。

 その事実を受け止める暇もなく、クリスチャンの耳を無遠慮な高笑いがノックする。その高笑いの主、ブランジーニはディヴァインソードNr.707を抜き放ち、神の祝福は我にありと宣言した。彼はヒルデが既に手遅れであることを知りながら、クリスチャンの手からその力の源であるディヴァインソードを奪ったのだ。魔女が作った悪魔の剣だと罵倒しておきながら全く都合のいいことだが、ともかく強力な力を手にしたブランジーニは猛然と「ゾーリンゲンの魔人」に襲いかかった。だが彼等は一様に勘違いをしていた。ディヴァインソードが勝利を与えるのではない。勝利を掴む者の手にあるのがディヴァインソードなのだ。ディヴァインソードはブランジーニを主と認めず、宣言するや否や彼の手から離れてしまった。いや、正確にはブランジーニは自身の右手ごとディヴァインソードを取り落としていた。ディヴァインソードだけを見てその持ち主を侮ったブランジーニは、すれ違いざまに腰の脇差を取り返されたことにも気付かず、そのまま右腕を切断されていたのだ。ブランジーニの高笑いは瞬時に絶叫へと転じた。こうして何事もなかったかのようにディヴァインソードNr.707は本来の持ち主であるクリスチャンの手に戻った。クリスチャンは次にブランジーニの左手を斬り落とした。この時点でもうブランジーニは無力化しているのだが、彼は続けざまに見事な太刀捌きでブランジーニの左腕を端から順に輪切りにしていった。端から順に斬るのは、より一層の苦痛を与えるためだ。普段のクリスチャンならばおよそあり得ない、無駄で野蛮な行為だった。ここで魔女裁判に参加していたアベル・モントルイユ子爵が教会の教えを盾にクリスチャンの所業を非難したが、姉を惨殺されたクリスチャンはもはや全く聞く耳を持たず、ブランジーニの残る腕や脚を黙々と輪切りにしていった。こうしてブランジーニはあっという間にヒルデの遺骸と同じような状態になった。

 議場は騒然となった。まず大半の者がゾーリンゲンの魔人に恐れをなし、我先に逃げ出そうとした。そうでない一部の者は、武器を取ってクリスチャンに襲いかかった。これを制したのは千の十字軍の実質的リーダーであったモヌール・ティレー・ヴェルジアネーゾ子爵だった。彼はまず非礼を詫びクリスチャンを懐柔しようとしたが、無駄だった。次に剣を納めるための条件についての交渉をしたが、クリスチャンにとってはヒルデの拷問・殺害に関わった全ての人間の抹殺を置いて他に選択肢は無かった。更に尻馬に乗ったモントルイユが街の人間を盾にした一言が火に油を注いだ。それこそ無駄なのだ。彼は城から一人も逃がさずに全員殺すつもりでいるのだから。交渉の余地なし、と覚悟を決めたヴェルジアネーゾは非武装の教会関係者の避難をモントルイユに一任し、自らは千の十字軍の指揮を執った。教皇の勅命である魔女討伐を達成するためにここまでやったのだ。その証人が殺されてしまっては何の意味もない。

 ヴェルジアネーゾの号令で千の十字軍の騎士達は剣やマスケットを手にクリスチャンに次々に襲いかかった。ゾーリンゲンの防衛軍との戦で数を減らされたとはいえ、まだ100人以上が残っている。普通に考えれば負けるはずがなかった。だが残念なことに相手は全く普通ではなかった。襲いかかる兵がディヴァインソードに次々に斬り捨てられ、あり得ない勢いで数を減らしていく。議場の床や壁は騎士達の血飛沫で見る見るうちに赤く染まり、そこには怒声と悲鳴が混ざり合って形容しがたい騒音が溢れかえった。

 このように一方的な戦いになったのには理由がある。まず今しがた輪切りにされたカルロ・ブランジーニ士爵は千の十字軍最強の騎士であり指揮官だったので、個人戦力として以上に用兵・指揮において欠かせない存在だった。次に十字軍にとっては敵より味方の数が圧倒的に多いので、銃を使っても援護射撃の殆どが誤射につながった。更に城内は屋外に比べ障害物が多く狭いことで、状況はクリスチャンに有利に働いた。ヴェルジアネーゾはこれらの悪条件から屋内で剣聖ディヴァインソードを仕留めるのは不可能に近いと感じており、だからこそまず交渉をしようと思ったのだが、まずいことに議場はブルク城の出入口からかなり離れており、場所を移すことも困難だった。そもそもヒルデの拷問・惨殺はモントルイユやブランジーニが勝手に計画したことでヴェルジアネーゾの意思には全く反しており、それまでの友好的ゾーリンゲン統治をぶち壊しにされたも同然だった。

 さて、当面の問題として移動が困難とはいえ、このままでは全滅の可能性が高い。ヴェルジアネーゾは早々に方針を撤退戦に切り替え、無理を承知で兵を退きながら戦った。また、途中で狭い通路を通ることがあったので待ち伏せ戦法も駆使したが、銃を用いた戦術に精通したクリスチャンにはそれすら通用しなかった。それでも何とかヴェルジアネーゾが城の正面扉前の広間にたどり着いたとき、彼はそこで逃がしたはずの教会関係者、そしてその誘導を任されたモントルイユ達が外に出られずに留まっているのを見つけた。何者かによって正面扉の開閉装置が破壊されていたのだ。詰まって足を止めた者達がまずディヴァインソードに切り裂かれ、次に非武装の教会関係者たちが次々に倒れていった。こうしてついに千の十字軍はヴェルジアネーゾ一人を残すだけとなり、ディヴァインソードNr.707の切っ先がヴェルジアネーゾの喉元を捉えた。

 それに待ったをかけたのは、ファーレンホルスト士爵だった。彼女はクリスチャンの復讐を止める気は無かったが、ヒルデの死に責任を感じていた。また、ヴェルジアネーゾの少なくともここ2ヶ月の行いは悪事とはほど遠かった。半ば強制であったとはいえメディチ家に忠誠を誓った以上、その忠臣を見捨てるのは信義に悖る。だからファーレンホルストは、自分と戦えとクリスチャンに言い放ったのだ。クリスチャンはこれに応じ、ヴェルジアネーゾから剣を引いた。ヴェルジアネーゾは自らの運命を天に任せ、二人の決闘を見届けることになった。

 「神刀(ディヴァインソード)」と「裁きの鉄槌(ハンメル・デス・ウルタイルス)」。かくして両雄相まみえることとなったわけだが、この決闘自体に大した意味は無い。しかしファーレンホルストは全力を尽くした。城内では狙撃距離など取りようもないが、それでも両者の距離はおよそ30m。当然刀が届く距離ではなく、その上ファーレンホルストが立っている位置は階段から回り込まなければ登れないほどの高低差がある。地の利から普通に考えればファーレンホルストが圧倒的に有利だ。階段へ向かうクリスチャンに、ファーレンホルストは初弾を放った。通常ならば必中のタイミング。クリスチャンはこれを最小限の動きで回避した。なるほど、剣聖ディヴァインソードに銃は通じないとはよく言ったものだ。彼はこれまであまたの銃士達と戦い勝利してきた男だ。だがファーレンホルストも裁きの鉄槌として知られた狙撃の名手だ。普通に狙って当たらなくても、当てるための手段ならばいくらでも知っている。そのために階段上の狭い通路に陣取ったのだ。彼女は手持ちの幾つかのマスケットの導火線に一気に火をつけると、階段を上るクリスチャンに次々と弾丸を浴びせた。1発、2発、3発、4発、5発、クリスチャンは射線を見てこれを冷静に回避し、連射が途切れたところで一気に階段を上り切った。ファーレンホルストは一旦退いたが、クリスチャンの瞬発力は尋常ではない。この瞬間に5mの距離まで詰め寄った。ディヴァインソードの必殺射程に入り、クリスチャンがさらに加速する。だがファーレンホルストは先程の残弾をまだ残していた。これを前進するクリスチャンに向けて発砲。クリスチャンはこれを咄嗟に壁を蹴ってかわし、その反対の手すりを蹴って前進を再開しようとした。ここでファーレンホルストはその手すりを思い切り蹴り飛ばした。木製の手すりがあっさりとへし折れ、クリスチャンは着地点を失って宙を舞った。ファーレンホルストは以前家政婦として働いていた経験で、ここの手すりが腐りかかっているのを知っていたのだ。空中では流石の剣聖ディヴァインソードも避けようがない。ファーレンホルストは虎の子のハンメル・デス・ウルタイルスを構えると、クリスチャンの心臓めがけて撃ち放った。しかしクリスチャンはこれを避けようともしなかった。何とディヴァインソードの一太刀でハンメル・デス・ウルタイルスの弾丸を叩き落とした。弾丸が見えたのではない。行動予測で射線とタイミングを見切ったのだ。クリスチャンはその勢いで姿勢を反転すると残った手すりの柱に足を引っ掛けて軸回転し、空中に飛び出した勢いのまま段上に舞い戻ってファーレンホルストに斬りかかった。対するファーレンホルストはこれを防がず、至近距離から無照準で腰に隠した短銃を撃ち放った。2発命中。心臓には当たらなかったが、クリスチャンの鍛え上げられた腹筋から鮮血が散った。被弾の衝撃でクリスチャンの身体が大きく傾ぐ。しかし彼はこのくらいで終わる男ではない。ファーレンホルストはクリスチャンが窮地から幾度となく立ち上がるのを見てきた。彼を仕留めるには、頭か胸を撃ち抜く必要がある。ファーレンホルストは射撃の反動を利用して後退し、自ら転がるようにして装填済みマスケットを拾った。だが次にファーレンホルストが視線を戻した時、彼女は目を疑った。クリスチャンは立ち上がるどころかそもそも倒れておらず、既に目の前に迫っていた。クリスチャンは一喝を以て己に気合を入れるとわずか一歩で追い付き、ファーレンホルストを肩から袈裟斬りにした。

 決闘の結果は辛くもクリスチャンの勝利となった。クリスチャンの傷も浅くは無かったが、ディヴァインソードをまともに受けたファーレンホルストの傷は深く、彼女はもう立ち上がることができなかった。

 仰向けに倒れたファーレンホルストが発した言葉は、謝罪だった。徹底抗戦の決断ができず街を守り切れなかったこと、ヒルデを死なせてしまったこと、そして打算と知りながらヴェルジアネーゾの優しさに甘えてしまったこと。

 クリスチャンはファーレンホルストを抱え上げると、その身柄を階下のヴェルジアネーゾに引き渡し、頭を下げてその助命を願い出た。その意図をはかりかねたファーレンホルストは、目を丸くしてその真意を問い質した。クリスチャンは答えた。自身には復讐の対象も守るべき人も、大義すら既にない。ならばせめて皆を守るという信念を貫いたファーレンホルストに慈悲を、そして忠義を誓った姉のヒルデには魔女の烙印ではなく人としての弔いを捧げたい。それが出来るのは守るべき姉一人すら守れなかった自分ではなく、むしろファーレンホルストと街の皆が信じたヴェルジアネーゾだというのだ。

 クリスチャンは信頼の証としてヴェルジアネーゾにディヴァインソードNr.707を差し出すと、残った脇差を自らの腹に突き立てた。

 こうして雷雨の訪問者は、44年前のあの日と同じように自らの命を絶ったのだった。

■4つの墓標(ゾーリンゲン刃物博物館展示資料)

 ゾーリンゲンの郊外カトリック墓地に4つの墓標が並んでいる。バトロイト・ルッツ(1578 - 1618)、モニカ・ヒルデ・ルッツ(1603 - 1648)、クリスチャン・ルッツ(1604 - 1648)、4つ目の墓標には名が無く、その代わりに「サムライソードをこの地に伝えた者」と記されている。これはクリスチャンの母の墓で、誰も名前を知らないので名を刻みようがなかったとされている。

 修道者を多数殺害したクリスチャンについてはついに正式な葬儀を執り行うことができなかったが、墓標はともに並んでいる。これが許されたのは、クリスチャンの最期の願いを聞き届けたヴェルジアネーゾ卿が本国に訴えかけた結果である。記録によると後に本国トスカーナ大公国に帰ったヴェルジアネーゾ卿は、ゾーリンゲンの民衆心理をコントロールするためには彼等の信頼を集めたヒルデとクリスチャンの人としての墓が必要不可欠だと説いた、とされている。それが実際に打算であったのかどうかは定かではないが、ともかく彼はヒルデだけでなくクリスチャンさえも人として弔うという難業をやり遂げたのだ。

 かくして建てられたクリスチャンの墓標にはこう刻まれている。

 

 "剣聖ディヴァインソード。戦場を駆けるその男は、味方にとっては無敵の武神、敵にとっては忌むべき魔人、その精神は忠義に厚い武人であった。彼は銃弾飛び交う戦乱の中、愚直なまでに一人の女を守り続け、しかし守りきれず、戦乱とともにその壮絶な生涯を終えた。"(※8)

 

※8: 剣聖ディヴァインソード ~ 戦乱とともにその壮絶な生涯を終えた。

後に戯曲作家レオナール・バラスコがクリスチャン・ルッツの墓標に刻まれた文面に感銘を受け、各地に散らばるディヴァインソード伝承をまとめ上げて作ったのが戯曲エペ・ディヴァイネであると言われる。エペ・ディヴァイネの序章にこの文言をアレンジしたものが用いられているのはそのためである。

●注意

 この文書は欧州中世史の大まかな流れには則っていますが、基本的にMMZKがでっちあげたフィクションです。

 特にゾーリンゲンを舞台としていますが、当地の史実とは何ら関係がありません。

●関連人物一覧

■ゾーリンゲン

◆クリスチャン・ルッツ士爵 (1604 - 1648):

 神刀ディヴァインソードNr.707の持ち主で、30年戦争期屈指の剣士。西洋生まれの東洋人であったという。ゾーリンゲン領主代行であるヒルデの騎士にして防衛軍の総隊長であり、何度も街の危機を救った。30年戦争後期には多くの剣士の尊敬を集めるようになり、彼自身が剣聖ディヴァインソードとも呼ばれた。

 1648年に姉の仇である千の十字軍を一人残らず地獄送りにしたあとで自ら命を絶ったと言われている。

 

◆バトロイト・ルッツ男爵 (1578 - 1618):

 製法も分からず材料も調達できない環境で業物の日本刀を造るという、限りなく不可能に近い課題をクリアした、ゾーリンゲンでも随一の鍛冶職人。ゆえに名前に刀匠とつけて呼ばれることが多い。その功績を認められ、1618年に男爵位を得るが、不運にもそれからものの数日で貴族狩りにあってしまい、命を落とす。ヒルデの父で、クリスチャンの養父。

 実は彼の死後にディヴァインソードは何回か折れており、補修のたびに切れ味と強度を増している。よって、現存するディヴァインソードNr.707の作者は誰かと問われた場合、バトロイトとヒルデのルッツ親子と答えるのが正解である。

 

◆モニカ・ヒルデ・ルッツ男爵令嬢 (1603 - 1648):

 1618年の貴族狩りで生き残った数少ない貴族の一人で、1618年~1648年の間ゾーリンゲンの領主代行を務めた。バトロイト男爵の一人娘で、クリスチャンの義理の姉。元は下層市民であったため全ての市民層に分け隔ての無い政策を推進し、特に貧しい者の信頼を集めた。その一方で教会の反感を買い、ゾーリンゲンの魔女とも呼ばれた。

 1648年にゾーリンゲンが陥落した際に市民を守るため敢えて囚われの身となり、それでもディヴァインソードの製法を明かさなかったため、一方的な魔女裁判と拷問の末に命を落とした。

 

◆ニコラ・ウータ・ファーレンホルスト士爵 (1606 - 1680):

 ゾーリンゲンの初代銃士隊長(1619 - 1648)。黒死病で親類を全て亡くして孤児になったところをリンブルク都市伯に拾われ、以来リンブルク伯の館で家政婦として住み込みで働いた。しかし1618年の貴族狩りで恩人のリンブルク伯をも失ったため、復讐に燃えるファーレンホルストはゾーリンゲンの敵を根絶やしにするために銃士隊の初期メンバーに志願。能力と意志の強さを買われて13歳にして隊長に就任、以後1648年まで隊長職を勤めた。一部では稀代の狙撃手としても知られ、名銃ハンメル・デス・ウルタイルスを駆使して数々の戦いを勝利に導いた。

 1648年3月の千の十字軍との戦いにおいては不在のクリスチャンに代わり総隊長代行を務めたが、ヴェルジアネーゾ卿の巧みな誘導により、街の存続のために不利な条件の停戦交渉に応じざるを得なくなった。停戦交渉においては、ヒルデ領主代行の延命と交換条件でメディチ家に仕える騎士となった。その後彼女はヴェルジアネーゾ卿の言に従い魔女裁判で無実を主張するための下準備に尽力したが、結局ヒルデを救うことは出来なかった。責任を感じたファーレンホルストは十字軍を皆殺しにしようとするクリスチャンに決闘を申し込み、善戦するもかなわず敗北。しかし逆にそのクリスチャンがヴェルジアネーゾ卿に助命を願ったことで一命を取り留めた。

 その後、ヴェルジアネーゾ家に嫁いでモヌール・ティレー・ヴェルジアネーゾ子爵とともにゾーリンゲンを治めた。ファーレンホルストはエペ・ディヴァイネ最終章の時点で既にヴェルジアネーゾ卿と肉体関係にあったとする説もあるが、真偽のほどは定かではない。

 クリスチャンやヒルデより年下だが背が高く、成人した時点で175cm程のすらりと引き締まった体躯であったとされている。

 

◆アルフレート・フォン・リンブルク都市伯 (1573 - 1618):

 ヒルデの先代にあたる正式なゾーリンゲン領主(1600 - 1618)。ベルク家に近い血筋であり、先祖代々の貴族だが、1618年の貴族狩りのため、ゾーリンゲン・リンブルク家は彼を最後に断絶した。

 能力的には特に秀でたところは無かったようだが、敬虔なカトリック教徒でありながら広い博愛精神を持っており、孤児の救済にも積極的だった。サムライソードが伝来した1604年当時にもし彼がゾーリンゲンの領主でなかったら、母を亡くしたクリスチャン・ルッツの命が救われることは無かったと言われる。

 1614年以降の黒死病被害においては、最初の2年間で講じた全ての対策が失敗に終わり、もはや滅亡も時間の問題となったが、最後にシリアに使節を送って救援を依頼したのが功を奏し、街は奇跡的復興を果たすこととなる。

 

◆ユーリ・アレクシス・フォン・キルヒアイゼン士爵 (1572 - 1618):

 聖騎士の異名を持つ剣豪で、クリスチャン・ルッツの剣術の師。キルヒアイゼン男爵家の次男。リンブルク都市伯と同じく敬虔なカトリック教徒であり、リンブルク伯とは古くから親交があったと言われる。

 1618年の貴族狩りの主犯格を一度は成敗したが、カトリックの同胞に対して寛大すぎるその心が災いして後ろから撃たれ、命を落としたと伝えられている。

 

◆ルーファス・フォン・シュツットガルト (1630 - 1689):

 名門シュツットガルト都市伯家の三男で、クリスチャン・ルッツ士爵に直に剣術を習った唯一の男。生来の異常な負けず嫌いで、負けた後リベンジを果たすことができなかった相手はその生涯においてクリスチャンただ一人であったと言われている。当初はスタンダードな西洋剣術を用いていたが、クリスチャンに敗北した後は両手持ち剣術を真似てバスタードソードを用いるようになった。

 クリスチャンの死後はディヴァインソードを継承せずそのままバスタードソードを愛用し、故郷に戻った後にドイツ騎士団に入団した。そして腕試しとばかりに目に付く騎士に片っ端から勝負を挑んだが、形骸化した騎士団にはルーファスが本気になれるような相手はおらず、1年もすると飽きて退団したという。

 

◆ギド・ベルギウス (1612 - 1665):

 ヒルデ体制ゾーリンゲンの4代目騎兵隊長(1639 - 1655)。

 元々は自由市民の馬車屋の息子で、14歳で騎兵隊に志願、27歳で隊長となった。銃士隊ほどの目立った活躍は無かったが、勇敢さと馬術の巧みさは皆の知るところであった。

 第38次ゾーリンゲン防衛線にも参加し、千の十字軍と交戦。ファーレンホルストを乗せて指揮官狙撃作戦を敢行した。停戦後、クリスチャンを呼び戻すためにイスタンブールへ馬を走らせた。

 

■神聖ローマ帝国

◆ユーリヒ・クレーヴェ・ベルク公爵: (不明 - 不明):

 神聖ローマ帝国領ユーリヒ・クレーヴェ・ベルク公国の領邦主。

 実在の人物。

 

◆プファルツ・ノイブルク伯爵: (不明 - 不明):

 1609年、ベルク公の死後に二つに分割されたユーリヒ・クレーヴェ・ベルク公国のうち、カトリック勢力のユーリヒ・ベルクを受け継いだ領邦主。

 実在の人物。

 

◆アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン公爵: (1583年9月24日 - 1634年2月25日):

 ボヘミア出身の傭兵隊長で、二度にわたり神聖ローマ帝国軍の総司令官を務めた男。卓越した軍編成能力に定評があり、最盛期では12万5千の軍勢を率いた。

 一度目は自ら鍛え上げた傭兵軍を率いて数々の戦果を挙げたが、その一方で免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立てる等の専横ぶりが諸侯の反感を買い、更迭された。二度目はスウェーデン王グスタフ・アドルフの脅威により帝国軍が劣勢に陥った際に皇帝に懇願されて再度総司令官となったが、主力が私兵ではなかったためか精彩を欠いた。それでも何とかスウェーデン王グスタフ・アドルフを戦死させたところで彼の役目は終わってしまい、独自に和平交渉をし出したことを皇帝に察知されて最後は暗殺により命を落とした。

 実在の人物。

 

■オスマン帝国

◆識者ハーディ・ナディーム・アドーニース (1572 - 1657):

 ダマスカスの賢者と呼ばれた偉大な男。本業は医者だが、その広い知識はあらゆる分野で頼りにされたと言われる。イスラム教徒でありながらカトリック教区のゾーリンゲンで30年間人々の信頼を集めていたということからして、まず尋常ではない。

 1617年にゾーリンゲンを訪れて黒死病を駆逐し、人々の絶大な信頼を得てその後の街の運営にも参加。ヒルデ体制の重鎮を務め、戦乱の30年戦争時代に難攻不落のゾーリンゲンを維持するという偉業を成し遂げた。1648年には故郷オスマン帝国に帰り、首都イスタンブールでイブラヒム王を諌めてその後は宰相達とともにオスマン帝国の危機を切り抜ける数々の政策を発案した。

 尚、ゾーリンゲン滞在中に教義上の問題からハーディに文句を言うカトリック信者はもはや数えるのも嫌になるほどいたのだが、それでも彼を説き伏せられる者は誰一人としていなかったという。

 

◆使者ムフリス・ザリーフ・イルファーン (1629 - 1673):

 1648年2月にゾーリンゲンを訪れ、識者ハーディに故郷の危機を伝えた使者。

 単身でイスタンブールからゾーリンゲンに辿り着くだけあって、腕っ節は大したものである。イスタンブールにハーディを連れ帰った功績から、イブラヒム王を諌めた4人の使者の一人に数えられた。

 彼はハーディの直弟子に等しいクリスチャンについてはその実力と人格を高く評価したが、更にその弟子である同年代のルーファスとはよく意見が衝突したという。

 

◆イブラヒム王 (1615年11月5日 - 1648年8月12日):

 オスマン帝国第18代スルタン(在位1640年 - 1648年)。

 アフメト1世を父とし、兄であるムラト4世の死後即位するが、様々な陰謀が渦巻く中で暗殺の恐怖に怯える日々を過ごしたため、徐々に精神異常を進行させて行ったと言われる。彼は初めは慈悲深く貧しい人々を助けることに努めたが、彼の母や当時の首相が実権を握っていたためにあまり多くの業績を残すことはなかった。やがて本格的に異常行動が目立つようになるに至って、狂人イブラヒムとまで言われるようになった。末期の1648年には突如自らの後宮にいた側室や女官、宦官ら280人を皆袋詰めにして川に投げ込むという暴挙を行って廃位され、母や大宰相ともども殺された。

 実在の人物。

 

■トスカーナ大公国

◆モヌール・ティレー・ヴェルジアネーゾ子爵 (1604 - 1677):

 トスカーナ大公フェルディナンド2世に幼少の頃から仕えた忠臣。

 一般的には燃素の研究者として知られるが、ガリレオ・ガリレイに物理学を直接習ったこともあり、その両方を応用して長射程の攻城砲を幾つか設計した。

 1647年、オリンピア・マイダルキナの発案による魔女討伐の教皇勅命を受けて困り果てたフェルディナンド2世の顔を立てるため、北フランスのティレー本家を頼って千の十字軍を募集。翌1648年にこれを率いてゾーリンゲンを攻め、ゾーリンゲンの魔女ことヒルデ男爵令嬢の身柄を確保した。これは他の誰にも為しえなかった難業である。

 その後2ヶ月のゾーリンゲン統治政策もファーレンホルストを仲立ちとした友好的なものだったので、民衆の支持は概ね高かった。しかしその2ヶ月目に行われた教会主導の一方的魔女裁判でヒルデを拷問死させてしまい、復讐の鬼と化したクリスチャンに十字軍と裁判のために呼び寄せた教会関係者全てを殺害された。

 最後の一人となったところでファーレンホルストに命を救われ、その後考えを改めたクリスチャンに願いを託された。

 クリスチャンの願いを受けたヴェルジアネーゾ卿は約束を守ってファーレンホルストの命を救い、後に結婚。ヒルデを人として弔い、更にクリスチャンの墓標を建てた。

 打算的側面が強い人物であったとされているが、その行いは結果的に善行となることが多く、概ね好意的に評価されている。

 ある意味実在の人物。

 

◆カルロ・ブランジーニ士爵 (1614 - 1648):

 トスカーナ大公国南部のブランジーニ子爵家の四男。ヴェルジアネーゾ子爵と同じくフェルディナンド2世大公に仕えた。2mを超える大男で、贅肉の無いがっしりとした体格をしていたという。

 体格のせいもあって、メディチ家の配下では最も武芸と用兵に長けていたので、ヴェルジアネーゾ卿とともに千の十字軍遠征に参加した。実戦では有象無象の十字軍と人数合わせのエキストラをなんとかやりくりして、百戦錬磨のゾーリンゲン軍相手に少なくとも表面上は互角以上に戦ってみせた。彼の縁の下の苦労が無ければ、ゾーリンゲンが停戦交渉に応じることはなかったと言われるほどであり、それなりに有能な人物である。

 しかし停戦後露骨にファーレンホルストに肩入れするヴェルジアネーゾ卿の態度が我慢ならず、モントルイユ子爵の口車に乗って魔女裁判でヒルデを殺害する計画に加担する。この計画でクリスチャンからディヴァインソードNr.707を騙し取り、「神の祝福は我にあり」としてクリスチャン士爵に挑んだが、全くかなわず逆に四肢の先からバラバラに裁断されて絶命した。

 

◆フェルディナンド2世・デ・メディチ大公 (1610年7月14日 - 1670年5月23日):

 名門メディチ家の当主にして第5代トスカーナ大公(在位1621年 - 1670年)。

 温和で友好的な人物で臣民から愛され、パトロンとしてはガリレオ・ガリレイらを支援した。しかし外交・軍事面では凡庸で、トスカーナ大公国の主権を維持することができなかった。

 実在の人物。

 

◆ガリレオ・ガリレイ (ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日):

 後に科学の父とも呼ばれる物理学者 兼 天文学者 兼 哲学者。

 一時期コジモ2世(フェルディナンド2世の父)の家庭教師もしており、有能な学者としてメディチ家のバックアップを受けた。しかし地動説を唱えたことで1633年に有罪判決を受け、以後フィレンツェ郊外の邸宅で軟禁生活を送った。

 勿論実在の人物。

 

■フランス王国

 

◆ソレナンテ・エル・オージェ伯爵 (1599 - 1648):

 フランス北部のオージェ伯爵家当主。

 ヴェルジアネーゾ子爵の誘いに応えて千の十字軍に参加し、伯爵より上の位の者が居なかったのでVIP待遇でもてなされていた。しかしそれはヴェルジアネーゾ卿の策略の一つで、狙撃の身代わりにされてしまい一撃で息絶えた。

◆アベル・モントルイユ子爵 (1605 - 1648):

 代々オージェ伯爵家に仕えたモントルイユ子爵家の当主。

 ヴェルジアネーゾ卿にすっかりおだてられて調子に乗ったオージェ伯爵が千の十字軍に参加すると言い出したので、そのお供として自身も渋々参加。オージェ伯爵が戦死した時、ヴェルジアネーゾ卿が伯爵を楯にしたことに感づいていた。その復讐という大義名分をかざしてヴェルジアネーゾ子爵配下の不満分子ブランジーニ士爵を密かに手なずけ、ヴェルジアネーゾ卿を出し抜いて教皇に取り入るために魔女裁判を誘導してヒルデを拷問、殺害。

 その後復讐鬼と化したクリスチャン士爵が十字軍を皆殺しにしている間に密かに脱出を図るも、出口が塞がってまごついている間にその他多数と一緒に殺害された。

 

■ローマ教皇庁

◆教皇インノケンティウス10世 (1574年5月6日 - 1655年1月7日):

 カトリック勢力の頂点に立つ第236代ローマ教皇(在位1644年 - 1655年) 。本名はジョバンニ・バッティスタ・パンフィリ。

 彼自身は高潔な改革の志を持っていたが、強欲な義理の妹であるオリンピア・マイダルキナの存在によって、その志は踏みにじられることが多かった。

 実在の人物。

 

◆オリンピア・マイダルキナ (不明 - 不明):

 ローマ教皇インノケンティウス10世の弟の妻。類を見ないほどの強欲さで知られ、しばしば教皇の顔に泥を塗った。

 実在の人物。

●参考文献・伝承

■ゾーリンゲン市長手記:

 15世紀以降にゾーリンゲンの市長が代々記録していたとされる公文書。フリースタイル形式になっており、その時々の市長によって物語調に書かれていたり地図や挿絵が描かれていたりすることがある。そのため、公文書の割に主観的で、信憑性に欠ける記述も多く見受けられる。

 特に1618年の貴族狩り事件以降は元々読み書きが出来なかったモニカ・ヒルデ・ルッツ男爵令嬢が字を教わりながら書いたため、暫くの間判読困難な記述が続いている。

 

■狂王イブラヒム:

 トルコ北部に伝わる伝承。即位時から精神を病んでいたとされるオスマン帝国第18代スルタン、イブラヒム王の凶行を今に伝える。簡潔な表現の淡々とした語り口が特徴。

 

■エペ・ディヴァイネ:

 フランスの劇作家レオナール・バラスコが欧州各地のディヴァインソード伝承を元にして書いたとされる戯曲。19世紀当時大流行したロマン主義の典型のような作風で、神の剣を持った男の壮絶な戦いと悲劇に満ちた最期を描いた物語。

 伝承の断片的情報に整合性を持たせるためにいくらか強引な解釈を与えてまとめられたようであり、そのため違和感は少ないが一部完全な創作となっている部分もある。

 1820年に一度だけ上演されたが、教会を冒涜する内容であると猛反発を受けて二度目以降の上演を差し止められ、それ以降1989年に台本が発見されるまで表舞台に出ることが無かった。

 

※以上の参考文献・伝承は全て架空のものです。

 

 
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