No.276234

パンドラの獣化薬

 人が越えてはならない一線を超えてしまった科学者、小梅亮。彼を待ち受けていたのは壮絶な変身劇だった…….
 

2011-08-17 09:03:26 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:10224   閲覧ユーザー数:10205

 

                前編「禁断開封」

 虚ろになっていく心の片隅で想いが揺らぐ中、理性の片鱗がかろうじて俺を現実へ引き戻すのだ。

壊れていく理性と曝け出される本能の中、もうこのまま自分を失っても良いと思った。醜い姿で生涯を終える事になろうと、醜い事を悲しいと思う心すら失うならそれで良いと……だが、そう思う度引き戻される。あの日、あの時に。

 

  そもそもの発端は、俺があの時作ったドラッグにある。

 ただの遊び心だった。自身の才に溺れ、ある一線を踏み越えてしまったのだ。

 

 「これは、れっきとした科学の進歩だ! オカルトに人生を費やし続けた面々も驚くぞー」

 俺、小梅亮は一つの注射器を片手にはしゃいでいた。それをモルモット(マウス)に射す。

するとマウスはピクリと動かなくなり、痙攣だけを繰り返すようになった。

 そして次第に……

「グルルルルル」

 マウスらしからぬ鳴き声、いや唸り声をあげはじめ、その体躯が変貌を遂げ始める。毛は全て抜け落ち、骨が変形していく。

 鈍い音が鳴り響き、美しいとはお世辞にも言えない肉が剝き出しになった。

 端から見れば得体の知れない化け物と思われるだろう。だが、小梅亮は、そうは思っていなかった。

 数日間の後、突然変異が止まる。いや、まだ体内では変異が続いているだろうが表向きは形を整えたと言うべきか。

「亮、これは一体?」

 助手の大崎薫が、訝しげな表情で原型を失ったマウスを凝視する。

  背後から訝しげにこちらを見据える女性、大崎薫とは小さい頃からの幼馴染のため助手だが呼び捨てでも気にしない。むしろ、目上の相手に対する言葉遣いをされると気味が悪くなってしょうがないくらいだ。

「薫、これが俺が長い年月をかけて作り上げた技術の結晶だ」

 大胆にマウスを見せ付ける。これ見よがしに餌付けを見せてやった。肉食ではないはずのマウスに同属の鼠を与える。すると、躊躇いもせず、その骨を砕き肉を喰らい尽くしてしまった。

「な、あなたは一体、何を作っているの!?」

「新たなクローンの開発さ。それにスパイス(刺激)を与える為に」

 マウスの骨格は一昔前の人間のような猫背の姿をしている。その姿はまるで幻想に出てくる動物、”人獣”のようだった。

「幻想に出てくる怪物をモチーフにしてみた」

「そういう問題じゃないわ! こんなものを作ってあなたは……うっ」

 顔を真っ赤にして怒る薫を他所に、次のテストを続けようとした途端、研究室のドアが開き薫が倒れた。

 その首には麻酔製の針が刺されている。「だ、だれ……」

 鋭い痛みと共に意識が遠のいていく。辛うじて見た光景は研究資料を盗もうとする覆面集団の姿だった。

 

 

「おい、これ人間に使って大丈夫なのか?」

 朦朧とする意識の中で、声が聞こえる。体は椅子のようなものに縛られているのか全身が痛い。目は体が麻痺しているせいか上手く瞼の筋肉が働いてくれない。

「大丈夫ですよ。仮に死んだとしても、土台は作られているんですから新しい実験体を集めれば良い」

 何か逃げられる手段は無いか。当たり前だが口はガムテープで塞がれ助けは呼べない。

申し訳ない程度に動く手を使って鋭利な刃物でもないかと、何処かの探偵小説のような希望に縋る。が、現実はやはり虚しい。そんなもの、あるはずなかったのだ。

「おやおや、お目覚めですか? 教授」

 男の声に背筋が凍った。気付かれたのだ。

「ん、んんん……んーーー!(その声は、神崎か)」

 ガムテープで抑えられ言葉にならない声が発せられた。

「覚えていてくれて光栄です。さて、これから何をするか。あなたのような頭脳の持ち主ならすぐに察しがつくはずだ」

 恐怖と憤りで全身のアドレナリンが活性化する。目を強引に見開き、ぼやけつつも見えるその光景にぞっとした。

「ん……ん、んー!」

 神崎の手には一本の注射針。先程、マウスに投与した薬剤と同じ種類のものがあれに入っている。

 涙を浮かべながら必死に抵抗するも虚しく、ゆっくりと針が皮膚に食い込んでゆく。そして中の薬剤が体に注ぎ込まれる。

 

ドクン__

ドクンドクン___

 まるで倍々ゲームのように、心臓の鼓動が早く高鳴り一秒に刻む回数を増してゆき、沸騰したお湯を体内にぶちまけられるような痛みが全身を巡りショックで俺は気絶した。

 

 次に目が覚めたときには、薄暗い牢屋に閉じ込められていた。

異常に広く間取りが取られており一人で閉じ込められるには贅沢なほどだ。しかし、その理由は嫌でも俺の脳裏に浮かんでくる。これぐらい広くなければいけない理由があるのだ。

「誰か嘘だと言ってくれ」

 更に高騰していく恐怖の中、俺は独り呟き牢屋の窓から外を見る。

外は断崖絶壁で、とても脱出できそうにはない。月の光だけが綺麗に、牢屋の中を照らしていた。

 

 ふと、痛みを感じ手を見る。

 

「まさか……」

 手は赤く滲み、人毛ではなく羽毛のような毛がうっすらと姿を見せていた。体を確認する。おそらく監視カメラ等が設置されているだろうが、羞恥心などかなぐり捨てて衣服を脱ぎ、隠れた部位も確認する。

 やはり、至る所に変異が起きている……。

 

 しかし、本当の地獄はこれからなのだ。

 

 不気味な音を立てながら、食べ物の盛られたトレイを持ってくる男が牢屋に近づいてきていた。

「貴様、”ビストニン”を投与したな!」

「おお、察しが早い。あなたにはビストニンのプロトタイプになって頂きたいのです」

 にこやかに、こちらを見てくる男は神崎だった。

「人間に使う気か!」

 憤怒が込み上げてくる。

「ええ、先生の資料を読ませて頂きましたが、どうやらベースによって最終的な変化も変わってくるらしい。治験という名目上で沢山のモルモットが集まりましたよ」

「何て事を……あれは、まだ未完成だ! そもそもモルモットに摂取させる段階を踏んでいない。人間に投与したら何が起きるか分からないぞ」

「ですから、製作者のあなた直々に実験体になって貰うんですよ」

 

 トレイを牢屋の中にスライドさせて神埼は立ち去った。

 何て馬鹿なんだ。神崎は科学者としての知識においては何処か抜けていた。社交的ではあるが、やはり致命的な欠陥の持ち主なのだ。

 

 俺は絶望しきった表情で状況打開を模索しながら、侘しい食事にありつく。何時から寝ていたのだろう? 随分と空腹だったのか、何も塗られてないコッペパンが意外と美味しく……、

「痛ぅ」

 固いコッペパンを噛み千切ったら、舌を嚙んだのか鉄のような味が口の中を潤す。違和感を感じ、俺は薄汚れた鏡で

口の中を確認する。

「クソ……」

予想通り。だから、余計に取り乱さず冷静さに磨きがかかる。歯は鋭利に変形しており、まるで肉食動物のようになっていた。

 

 「ビストニン」、別名:獣化薬。大まかに言ってしまえば生物の細胞を変化、別の生命体に変体させる劇薬だ。

 狼人間などという非現実的なものを主張する学者連中を驚かせる為に、余った時間で作り上げた薬品だ。

 自分で言うのも何だが、バイオ技術に関しての才能も勘もトップクラスに違いない。今までも功績をあげていたし、社会に幾度と無く貢献してきた。

 今回は、余りに余った予算を気まぐれで研究に注ぎ込んだだけ。それが「まさか、こんな事になるとは思いもしなかったが……。頭を抱える。

 

 神崎、あの男は俺に弟子入りを申し込み一時的に同じ研究室で働いていた。非常に社交性のある人間で、細かい部分は奴に丸投げしていたと言っても過言ではない。しかし、研究に使うはずだった予算の一部を掠め取っていた事が発覚し追い出した。追い出したはずだったのに……。

「何故だ。何故、今更こんな研究を盗んで」

 目的が分からない。治験で人を集めてまで奴は何をしたいのだ。そこまで考えて俺の思考回路がシャット(遮断)される。

 骨が砕ける音、目が充血し全身に裂けるような痛みが奔る。喉元が焼けるように熱くなり、悲鳴をあげようにも謎の奇声があがるだけ。

 

 鏡に目を戻すと、赤黒く染まった何かが背中から突出していく姿が目に映ったが、意識はそこで完全に落ちた。

 

 

               後編『パンドラの環』

 

 ___何日寝ていたのだろうか。ふと目を覚まし辺りを見回す。兎の毛が散らばっており血塗られた壁が悲惨な光景を形作っている。並びに腐臭が漂っており、お世辞にも空気が良いとは言えない状況だった。

 それに普段より鼻が刺激を……ん? 

 鮮明に記憶が蘇ってきた。

 俺は神崎にビストニンを……早く止めなければ!

「出せ! 出すんだ!」

 鉄格子を叩きつけ、叫び声をあげる。そう、叫び声をあげている。誰なんだろうか?

 このけたたましい野獣のような咆哮を発しているのは?

「誰か、そこにいるのか!?」

 返事は無い。ハっとして鉄格子を叩きつけていた腕を垣間見る。

 腕というよりは脚と言った方が正しいか。鳥獣のように発達した筋肉と鉤爪。

 心なしか目線の位置が以前と違うような気がした。

 嫌な予感を背筋に感じ、毛が逆立つ感覚を味わいながら鏡の前に向かう。

「あ……ああ……」

 鏡の前には化け物が立っていた。空想世界に出てきそうなグリフィンだ。

 そして、紛れも無く鏡の前でうろたえ声を発しているのもグリフィンである。つまり、これは俺自身という事だ。

「何日、眠っていた」

 周囲を見渡す。無人だ。静寂がその場を包み込んでいた。しかし、食い荒らされた跡が何箇所か残っている。

 おそらく、これは自分の行いなのだろう。

「眠っていたのではなく我を失っていたという事か」

 こんな状況下でも冷静に状況分析出来るのは研究者としての意地だろう。

 自分の作った研究の成果は無論気になるし、何よりも自分の作り上げた物が、どんな形であれ社会に危険を及ぼすのは気に食わない。

「薫は無事だろうか。とにかく外に出なければ」

 声ならぬ鳴き声を発しながら、牢屋からどう脱出しようか模索する。看守はいないようだ。

 その折、ガチャリと牢屋をロックしていた南京錠の外れる音がした。

「こっち」

 久しく人の声を聞いた気がした。俺は、その声に従い牢から出る。四足で歩くというのはやはり慣れない。

 ひとまず手助けをしてくれた人間に感謝する。いや……この時、俺は浅はかな勘違いをしていた。

 ヒトとしての声帯を持ち言語を扱えるというだけで、決して目の前にいる相手が人間ではない事に気付いたのだ。

 そこにいたのは二足で立つ狼。骨格こそ人間に近しいが……狼人間とでも呼ぶべきか。

(さて、どうやって相手に意思を伝えよう)

 こちらからは言葉が通じない。ペンでもあれば良いが、どのみち今の前脚で持つのは億劫であろう。

 良い策も見当たらないので、とりあえず目の前の狼人間(声からして女性だろう)についていく事にする。

 

「あなたが、この薬を作った張本人である事には目星がついてる。早く、パスを教えろ」

 何処か憔悴した声で女が唸る。目の前には厳重にロックされた扉があった。

 その先にはあるのは、俺の記憶が正しければ薬品を保管する倉庫。

 しかし、彼女は何の為にここに俺を連れて来たのだろうか?

「早くしろって言ってるんだ。何人を巻き込んだと思ってる。このマッドサイエンティスト」

 悪態をつかれ、うろたえる。どうやら事態は俺が理性を失っていた間にかなり深刻化していたようだ。

 何があったのか聞きたいが相手に意志を伝えられない以上、命令に従って動くしかない。

 繊細な機械を壊さないように鉤爪で、ゆっくりと押すしかなかった。

 それが余計に彼女をイラつかせているようだが一応、慎重にパスワードを入力するしかない事を理解してくれているようで静かに待っている。

 

 何とかパスワードを全て入力し……入力し……

(あれ?)

 つい、ピュイ?っと言葉にならない鳴き声を漏らした。

「おい? いつまで梃子摺ってるんだ?」

 痺れを切らした女が聞いてくる。先程から気になっていたが、どうやらこの狼女は軍人気質な口調のようだ。

 と、そんな事は今はどうだっていい。

 振り向き、何とかジェスチャー感覚で伝えようと思ったが「頭でも壊れたのか?」と軽くあしらわれてしまった。

 

 かくなるうえは!

 俺は廊下の鉄製の壁に鉤爪を立て、黒板を引っ掻いた時の嫌な音が反響し、数倍に膨らませたような騒音を立てながら線を引いていった。

「ううっ……」

 女が呻き出す。どうやら彼女は狼としての聴覚も得ているらしい。

 耳を塞ぎながらうろたえ、クゥーンと床に頭を伏せた。

 申し訳ない気持ちになりながらも、俺は鉤爪で線を引くことを止めない。

 暫くして俺は引っ掻くことを止め、音が止んだ事に気付いた女が立ち上がった。女は今にも噛み付きそうな形相で

怒り狂っていたが、すぐに壁に書かれた線に気付き平静を取り戻す。

「これは……」

 そこに書かれていた線は文字である。小学生低学年が書いたような粗雑な文字だが、それでも言葉を伝えるには十分だった。

『パスワードがなにものかにかきかえられている。なにかこころあたりはないか?』

 女は暫し頭を抱えてから、

「心当たりがある。おそらく、お前を貶めた下種(げす)だろうな。ハンサム気取りの悪魔め」

(神崎か……)

 確かに、今ここを管理しているのは神崎と考えてもおかしくはないだろう。となると……

「神崎を捕まえるしかない」

 女が先に結論を出した。

「神崎のいる場所なら大体、検討がつく。私についてこい」

 更に女は先陣を切って走り出すではないか。何処まで、この研究所について知っているのだろうか?

 とにかく頼りになる事は間違いないし、危険かどうか関係無く頼らざるを得ない事も紛うこと無き事実。

 詮索は後回しだ。

「ああ、そうだ。個々の呼び方は決めておいた方が良い」

 ふと「忘れていた忘れていた」と頭を掻きながら女が振り返る。

「その方が、いざという時に声をかけやすいからな。よし、今から幾つか質問をする。イエスなら首を縦に。ノーなら首を横に振れ」

「まあ、今更だが一応確認は怠らずだな。お前は私の言葉が分かるか?」

 俺は首を縦に振る。

「よし、次だ。お前の名前は小梅 亮で合っているな?」

 俺は再度、首を縦に振る……ん? 

 何故こいつは俺の名前を知っているんだ?

 科学者としての知名度なら確かに高い。だがしかし、この姿からどうやって小梅 亮であると判断した?

 そもそも、俺が”ビストニン”を造った張本人だと何処で知ったのだ?

 この事を知っている女性と言うと一人ぐらいしか思い当たらなかった。

「私の名前はサーシャ・ミール。改めて宜しく頼む」

 ふと脳裏に映った推測はサーシャと名乗る女の一言で、いとも簡単に打ち砕かれた。

 推測が当たって無いと分かった事で何処か安心感も覚えたが……。

 

 __薫がこんな姿になるなんて想像したくも無い。

 

「ん? どうした?」

 ボーっとしていたのを不思議がられたようだ。

「ほら、用件は言い終えた。神崎を探しに行くぞ」

 きっと、俺が巨体じゃなければ引きずってでも急いでいただろう。

 そういえば、彼女は名前からして外国人だったのか……治験の被害者は外国人にまで及んでいると思うと、更に神崎を止めなければいけない理由が強まった。

 外交云々ともなれば戦争だって起こりかねない。

 

(まさか、俺にヒーロー願望があったとはな……)

 小梅 亮という人間は我欲に任せて研究を続ける、いわばサーシャが言ったように現代に存在するマッドサイエンティストだった。

 そんな自分に正義を語る資格も、それを実行に移す義理も無い筈なのに……。

 

 ここは執務室。元は小梅 亮が設けたラボは3階建ての建造物で透明のガラス窓からは何やら孤島が見える。

 きっと、そこに立つ人間が普段のカリスマを保ち続けていれば良い写真が取れるような風景だろう。 

 「クソッ! クソッ! 役立たずのモルモット共が足掻きやがって」

 神崎は、手当たり次第にデータを投げ散らかしている最中だった。

 普段のハンサムボーイな面影など何処にも無く、素振り一つでさえも乱雑で品性の欠片も無い。

 そんな彼の頭には四文字の言葉しか浮かんでこない。

 __焼却処分

 __焼却処分

 __焼却処分

 __焼却処分

 __焼却処分

「化け物共の焼却処分」

 やはり開発者である小梅 亮を潰したのは失敗だった。

 口封じの為に薬を投与させたが、資料を参考にしても抗ワクチン剤など造れる知識が自分には無かった。

 手柄を横取りする筈がパンドラの箱を開けた第一人者として汚名を着せられてしまったのだ。

 その上、実験体の数多くは早々に事切れるか、発狂し食い争って殺し合っている。

 いや、それだけなら良かったのだ。実験体が自ら廃棄処分の手助けをしてくれるのは嬉しい限り。そう、

「あの女さえいなければ……」

 

 

「哀れね。あなたも、そう思わない?」

 鋭いガラス細工のような透明感のある声に神崎はハッと背後を振り返る。

 

「や、やあ」

 景気良く挨拶する目の前の男を力の限りに殴ってやりたい衝動を抑えながら、サーシャの言葉に同意して頭を縦に振るう。

「来てもらうぞ。神崎」

 狼の鋭い爪を立てながらクイクイと手招きするサーシャを見ながら神崎の表情がみるみる青ざめていく。

「パスワードを書き換えたのはお前だろう?」

「な、何を言って……」

「良いから教えろ!」

 小刻みに震える体を抑えながら神崎は俺を指差した。

「そいつが知っていると教えただろう!?」

「何だと?」

 サーシャがこちらを見る。

 どうやら俺がパスワードを知っていると神崎に吹き込まれたようだ。

「動くな」

 サーシャの一瞬の隙を突いて神崎は散らかったデスクから拳銃を取り出していた。

「手を上げろ」

 あげる手は無いのだが……っと心の中で突っ込みながら敢えて屈む。

 おそらく今の姿で前脚をあげたら襲われると印象付けてしまうと思ったからだ。

 横でサーシャが舌打ち交じりに隠し持っていたナイフやら拳銃やらを床に落とし手を上げる姿が見えた。

 

 そして神崎は震え笑いながら数枚の資料を手に、執務室に設けてある業務用エレベーターに乗り込んで姿を眩ます。

「畜生!」

 何やら英語で罵言を叫びながらサーシャが今は閉じたエレベーターの扉を蹴る。

 驚く事に扉はめり込んだ。が、流石に蹴破ることは出来ない。

 暫くして気が済んだのかサーシャが、こちらに寄ってきた。

「お前は本当にパスワードを知らないのか?」

 首を縦に振った。

「本当か?」

 再度、首を縦に振る。

 潔白を証明するものなど何も無いが、嘘をつくメリットも無い。

「クソ。このままじゃ……」

 サーシャは床に落とした武器を拾いながら、どうやって神崎を追うか考えている。

 神埼が何処へ逃げたかは大体、検討がつく。エレベーターで緊急連絡通路まで降り、高架橋を渡って別館へ移動するはずだ。

 別館には専用飛行機が用意されている。

 追いつこうと思えば追いつける距離だろう。だが問題はエレベーターで降りる以外の道が遠回り過ぎる事。

 もう一つはサーシャに、別の道がある事をこちらから伝えられない事だ。

(ん? 待てよ?)

 俺は自分の体を良く回る首を右へ左へ回転させながら再度見た。

 ……何処からどう見てもグリフォンである。

 

 もしグリフォンの体を、ほぼ完全に形作れているなら……、

 

(飛べるんじゃないか?)

 

 高架橋に降り立てば先回りする事が出来るかもしれない。

 羽を何度か広げては閉じる。

(いける……っ!)

 馴染むまで続けた。

 広げては閉じ、広げては閉じ……これ以上、羽ばたいたらサーシャに睨まれそうなので流石に止めておく。

「何をして? うあっ!?」

 四の五の言っている暇は無い。

 都合よく広い間取りを取った窓ガラスを蹴破り、羽を広げ始める。

「乗れ!」

 伝わる筈も無いが叫んだ。

 すると、驚いた事に発達した跳躍力で背中に飛び乗ってくれたではないか。

 意思が伝わったのは奇跡としか言いようが無い。

 本来、奇跡だの非現実的な言葉には頼ってはいけないご身分なのだが今は歓喜せざるを得なかった。

「飛ぶぞ!」

 床を強く蹴って飛んだ。

 鳥になるというのは、こういう気分なんだろうか?っと悦に浸る間もなく、強風が体を襲う。

 何せ飛ぶのは初めてだ。舵を切って飛ぶのとは訳が違う。

 自分自身の意思で操作して地面に叩きつけられないように飛び続けるので精一杯だった。

 背中で何やら悪態をつかれたが、これだけ飛べるだけでも贅沢というものだろう。

 勿論、乗り心地は保障しない!

 

 目指すは高架橋。

 後、数十メートル……

 

 後、数メートル……

 

 3>2>1>0!

 

「キャアッ!?」

 サーシャの悲鳴が聞こえた気がした。

 が、気付いた頃には既に遅く俺は勢いを止められず高架橋に体を叩きつけてしまった。

 全身に痛みが奔り響いてくる。

 頭を強打したのか目眩までした。

「うう……」

 背中に乗っていたサーシャも吹っ飛ばされ、高架橋から落ちる直前、幸か不幸かフェンスに叩きつけられ咳き込んでいる姿が微かに見える。

「おいおい、嘘だろ……」

 タイミング悪く拳銃を片手に神崎が高架橋に現れた。

 その銃口はサーシャに向けられている。

 終わった……飛び掛って襲えるかもしれないが、銃には勝てる自信が無かった。

 が、しかし、驚いたことにサーシャはまだ動けた。

 さっきまでフェンスにもたれ掛かっていたことが嘘のように、小刻みに走って神崎の腕を蹴り上げる。

 一瞬の出来事だった。

 動きを止めた神崎に、隠し持っていたのかサーシャは腰から一本の注射針を取り出し突き刺す。

「な……うあああああああああああッ!」

「借りは返した。これで逃げられないな」

 復讐心を込めた笑みを浮かべ、サーシャは神崎の襟首を掴む。

「さてと、いい加減パスワードを教えてもらうぞ」

 観念したのか神崎は口を開いた。

「66637564だ。だ、だが解毒剤はどのみち効かないぞ」

 涙目になりながら神崎は俺を睨む。

 サーシャも困惑してこちらを見た。

(ああ、サーシャは気付いていないのか)

 確かにビストニンの抗体は作っていた。

 だがそれは、体を元に戻すものではなく理性を保たせる為の薬でしかない。

 

「なのに、なのになのになのになのになのになのになのに」

 

 壊れたように神崎が叫び、隙をついてサーシャを蹴飛ばし、元きた道へ逃げ出した。

 おそらく彼らに追いついた所で自分が出来る事は何も無いだろう。

 二人の背中を見送りながら、俺は次に何をするべきか考える。

 とりあえず抗体の開発を任せられる人間を探すしかない。

 神崎は、あの発言を聞く限り抗体を作る事に失敗したのだろう。

 そうなると思い当たる人間は薫しかいなかった……。

 助手としての彼女の才能は素晴らしく、席を譲っても良いと思っていたぐらいだ。

 そもそも安否も居場所も分からない人間を探すというのも野暮だが、他に当てはない。

 

 その時、俺の頭に何かが引っ掛かった。

 

 __英名の女、”サーシャ”は俺の引っ掻いて書いたお世辞にも綺麗とは言えない日本語を何故、読めたのだ?

 しかし、これはただの偏見だろう。外国人の方が日本の文化に詳しい事だって良くある。

 

 頭の中に生まれた可能性を否定し、俺は高架橋の隅に落ちていた神崎の書類に気付いた。

 それを慎重に拾い上げ、書かれている内容に目を通し絶望した。

 

『獣化計画の見届け役をここに__最高責任者 神埼 猶(なお)の辞任後は私、大崎薫が実験体及び研究施設の管理を__』

 

 全て読む必要はないし、読む気にもなれなかった。

 簡単な話、俺は信頼していた助手にさえ裏切られていた訳だ。

 そして、神崎を殺しても研究は終わらないという事。

 おそらく薫を殺しても終わらないという事。

 研究に携わった人間は俺の記憶が無い間に何十人、何百人と増えていたらしい。

 パンドラの箱は一度開いたら閉じられない。

 だが、それでも俺にはパンドラの箱を開けた責任がある。 

 例え途方の無い時間がかかろうともパンドラの箱を閉じる鍵にならなければならないのだ。

 

 衝突した時についた傷を舐めながら、ゆっくりと立ち上がる。

 

 裏切られ騙され、こんな醜悪な姿にされてしまって……いっその事、このまま自分を失っても良いと思った。

 醜い事を悲しいと思う心すら失うならそれで良いと……だが、そう思う度、この日、この時が俺を現実に引き戻してくれるに違いない。

 

(完) 

 

 あとがき

 

 これにて小梅亮のお話は終了です。突発的に書き始めた作品だったので、かなり無理やりな展開が続きましたが、如何だったでしょうか?

 

 にしても結局、サーシャの存在って何だったんでしょうね? 獣化計画ってそもそも何なんでしょうね? 著者でさえ分かりかねます……。

 

 

 

 

 ごめんなさい、今のは嘘です。

 ”小梅 亮のお話はこれにて終了”ですが、サーシャ視点のお話も実は執筆予定なのです。

 投稿自体は何時になるか未定ですが、パンドラの獣化薬はまだ終わりません。 

 ではでは、ここまで読んで下さり真に有難うございました。

 

 
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