No.269296

子守歌

己鏡さん

2010年12月25日作。船頭=ゴンドラ乗り=ゴンドリエーレ。偽らざる物語。

2011-08-11 01:16:12 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:323   閲覧ユーザー数:320

 暖炉の薪がパチパチと小さく爆ぜる音がした。

 宿の談話室で、私はカメラの手入れをしていた。

 窓の外ではしとしとと冷たい雨が降り続いている。

 私の隣では同じ宿泊客の母子が暖をとっていた。母親は毛糸で編み物をしており、男の子の方は外出できなくて暇を持て余している様子だ。

 まだ年端もいかぬ少年が私に話しかけてきた。母親が軽くたしなめたが私はかまわなかった。この男の子や夫妻とは連泊しているうちに何度か顔を合わせ、顔馴染みになっていた。

 私はまだ駆け出しだったころの思い出話をすることにした。

 

 世界には水運の便の発達した水都がいくつかあり、写真家として活動を始めて数年の私は、そういった町のひとつに立ち寄ったことがあった。

 その町は水路をゴンドラが行き交う、観光業や商業が発達した賑やかな都市だった。

 私は町の様子を写して回るため、カメラを携え舟に乗った。

 声をかけられたのは、船着場に到着して舟から降りようとしたときだった。

 それまでガイドをしてくれていた船頭の男が私を呼び止めたのだ。私よりさらに若いであろう彼は、私が写真を撮ることを生業としていると知り、あまり謝礼は払えないが一枚撮ってほしいと依頼してきた。

 私は快く引き受けることにした。当時は生活費を稼ぐのも楽ではなく、細々とした仕事もいろいろとこなさなければ食べていけなかったからである。

 色よい返事に、彼はまだ幼さの残る顔に満面の笑みを浮かべて、何度もお礼を言った。

 指定された日の夜に船着場に行くと、ゴンドラ乗りはすでに来て待っていた。

 挨拶もそこそこに説明を受ける。彼曰く、とある女優との写真を撮ってほしいということだった。その女優は最近人気が出てきた新人で、公演のために世界各地を回っているらしい。今日までこの町の劇場にも出演していたが、お互いなかなか時間が合わなかったそうだ。明朝、次の地へと発つ。今度はいつ遭えるかわからない。

 チャンスは今宵のみということか。

 しかし、新人とはいえそのような人気女優と、そうそう仲良くなれるものでもない。女優と彼との間にどういう馴れ初めがあったのか、下世話な話ではあるが、当時まだ青かった私は興味を抱いた。

 不躾に尋ねると彼は恥ずかしそうに目を伏せてしまった。しばらく考えてようやく口を開きかけたとき、彼女がやってきた。

 街頭に張られていた公演のビラ。そこに載っていたのと同じ顔が目の前に立っていた。

 彼女はゴンドラ乗りにエスコートされて舟に乗ると、私に軽く会釈して腰を下ろした。

 はじめはゆっくりと漕ぎ出していく。真剣なまなざしで櫂を操る船頭を女優がじっとみつめていた。ここで水をさすのも気がひける。初めての出会いについてはけっきょく聞きそびれてしまった。

 ゴンドラは障害物にぶつからないよう、慎重に進んでいくと次第に広い水路から開けた場所へと出た。

 水の広場とも呼べるその空間は、町の喧騒からひとつ離れたところにあった。

 おもむろにゴンドラ乗りが歌いはじめた。

 低く落ち着いた歌声は、艶やかな伸びと耳に残る響きを伴って水面を渡っていく。

 舟は動き始めたときと同じようにゆるりと、空間の真ん中で停まった。

 彼女は歌声に聞き惚れているようだった。瞼を閉じ、ゆっくりと首を振ってリズムを取っている。

 いつもなら乗り合わせた恋人たちに歌声を聞かせ、脇役に徹する彼も、今晩だけは主役だった。

 邪魔するものなど誰もいない、ふたりだけの舞台。

 いまは彼女のために、存分に歌えばいい。

 舟歌はいつしか甘美な愛の歌へと変わっていた。静かな響きは子守歌のようだ。漂うゴンドラが揺り籠のように眠気を誘う。

 彼はバランスを崩さぬよう慎重に片ひざをつくと、そっと彼女の肩を抱き寄せた。

 口づけたりはしない。ただ耳元で歌に乗せてそっと愛を告げる。

 彼女が彼の背中をぎゅっと抱きしめた。

 私には無理だった。彼の歌も、彼女の思いも、何も写真に残せない。それだけの腕がまだなかったのだ。

 だからせめて、形だけでもこの瞬間を残すことにしようと決めてカメラを構えた。

 やがて歌は終わり、最後に彼が彼女に何事か囁いた。

 彼女は一筋涙をこぼし、小さく何度もうなずいていた。

 明くる朝、彼女は別の町へと旅立っていったという。

 

 暖炉の火をみつめてため息をひとつつく。

 恋の別れはいつも後味が苦い。

 と、ふと見れば男の子がうつらうつらしている。母親の方にもたれかかり、今にも眠りに落ちそうだ。

 子どもには退屈だったかと少し反省していると、母親が男の子の頭をなでながら静かに歌いだした。

 おっとりとした声で紡がれるその歌に、私は聞き覚えがあった。

「その歌はどこで?」

「幼馴染だった夫が、昔よく聞かせてくれたんです」

 私が驚いた顔をしていると、談話室に一人の男が入ってきた。男は妻に話しかけようとして子どもが寝ていることに気付き、口をつぐんだ。

 巡りあわせとは不思議なものだと思う。たしかによくみると、ふたりとも年を重ねて変わりはしたものの面影がある。

 私はカメラを手に立ち上がった。

「一枚いいですか?」

 いまならいい写真が撮れるだろう。

 きょとんとする夫の横で、子どもを抱いた彼女がくすりと笑った。

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
1
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択