35. 敵状視察
「アンジェリカ、大丈夫かな」
食堂へ向かう途中、リックがぽつりとつぶやいた。
ジークは暗い顔でうつむいた。今日、アンジェリカは休んでいる。きのうあんなことがあったばかりだ。仕方がない。そうは思っても不安は募る。もしかしたら……。
「アカデミーにはもう来ない方がいいのかもしれないね」
ジークはリックを鋭く睨みつけた。リックはうろたえながらも、自分の考えを説明した。
「だってアカデミーにいたら、ユールベルって子と顔を会わさないわけにはいかないし」
ジークは苦々しく歯噛みした。
「僕もアンジェリカの気持ちは尊重したいよ。でも、あそこまでひどいとは思わなかったし」
リックの言っていることは正論だ。反論の余地もない。それどころか、ジーク自身も同じことを考えていた。だが、だからといって、感情的にはどうしても納得ができなかった。
「でも、俺は、どうにかしてやりたい」
ジークは言葉にすることで、決意を確かなものにしようとしていた。
「……うん」
リックは弱々しくうなずいた。どうやって? と尋ねたかったが、切り出すことが出来なかった。
ジークはまっすぐ前を向き、こぶしを小さく握りしめて気合いを入れた。
そのとき、ジークはユールベルの後ろ姿を見つけた。鮮やかな長い金の髪は、探そうと思わなくても目についてしまう。食堂へと続く廊下の先で、彼女はひとりで歩いていた。
「ジーク?!」
急に走り出したジークを追って、リックも走った。彼はまさかと思ったが、その不安は的中していた。
「ユールベル、ちょっといいか」
ジークはユールベルの背後から声を掛けた。彼女は眼帯の巻かれていない側から、ゆっくりと振り返った。それと同時に、微かに甘いにおいがあたりに舞った。彼女は真面目な顔のジーク、そして、その後ろでおろおろしているリックを順に眺めた。
「アンジェリカはいないのね」
「ああ、休んでる」
ジークの声は硬かった。ユールベルはしばらく無言で、彼のこわばった表情を見つめていた。
「わかったわ」
彼女はそう言うと、食堂へ足を向けた。
「なに考えてるの?!」
リックは責め立てるような口調でジークに耳打ちした。
「敵を知らなきゃ対策の立てようもねぇだろ」
ジークも小声で返事をした。そして、彼女の後について食堂へ入っていった。リックもしぶしぶ後を追った。
三人はそれぞれ昼食を乗せたプレートを手に、丸テーブルについた。普段ならアンジェリカ座っているはずの位置にユールベルが座っている。背筋をまっすぐ伸ばし、顔は正面、手は膝の上にそろえられている。文句のつけようがないくらい正しい姿勢だ。
ジークは落ち着かない気持ちとともに、軽い緊張を覚えた。
「それで、私に何の話なの?」
ユールベルはジークとリックの中間を見つめて、静かに口を開いた。
ジークは何から話し始めればいいのか迷い、黙りこくってしまった。そんなジークを、リックは軽く睨みつけた。声を出さずに口を動かしている。無言でジークを急き立てているようだった。
ジークは困ったように首を傾げ、腕を組んだ。
「えーと、だな」
ユールベルはジークに顔を向け、開いている方の目を細めた。透き通った蒼の瞳に陰が落ちる。それに呼応して、ジークの鼓動は強くドクンと打った。大きく息を吐き心を鎮めてから、ユールベルを見つめ返した。
「きのう言ってただろ。アンジェリカと友達だったって。あれは本当か」
「もちろんよ」
ユールベルは間髪入れずに答えた。
「今は、昔の友情を取り戻したいと思っているわ。いけない?」
「いけなくはない、けども……」
「でも、何年も会ってなかったのはどうして?」
ユールベルの勢いに押されているのジークを見かねて、リックが隣から口を挟んだ。ユールベルは視線をリックへと流した。
「会いたくても会えない状況だったのよ」
表情のない顔の中で、その瞳だけが冷たく、そしてどこか寂しげな光をたたえていた。
「どういうこと?」
リックは眉をひそめた。
「これ以上は言いたくないわ。知りたいのならバルタスに聞いて」
「誰なんだよ、バルタスって」
ジークはいらついて尋ねた。
「半分、私と同じ遺伝子を持つ人」
ユールベルは顔を上げ、虚ろに遠くを見た。ジークとリックは一瞬、顔を見合わせた。
「父親……ってこと?」
「その言い方は好きじゃないわ」
それきり言葉が途切れた。
ジークは伏目がちにユールベルの様子をうかがっていた。何かがあると思ったが、尋ねることは出来なかった。リックも目を伏せ、複雑な表情で口をつぐんでいた。
「……お父さんのこと、嫌いなの?」
長い沈黙のあと、うつむいていたリックがぽつりと言った。それからゆっくりと顔を上げるとユールベルをじっと見つめた。
「話題を変えて」
彼の視線に応えることなく、ユールベルは遠くを見たまま短く言った。リックは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
「じゃあ……その包帯はどうしたの?」
「ものもらいよ」
ユールベルはあっさり答えを返した。だが、その答えは嘘に違いない。ふたりともそう思った。
「何週間か前に見かけたときも、包帯してたぜ。ずっとものもらいなのかよ」
ジークが食ってかかった。しかし、ユールベルはまったく動じることはなかった。
「そうよ」
その機械的な声に、ジークは眉をひそめた。
「おまえなんでそんな無表情なんだよ。笑いもしない、怒りもしない。しゃべり方もずっと一本調子。おかしいだろ」
ユールベルはゆっくりジークへと顔を向けた。右の瞳が彼をとらえた。ジークは小さく息を呑んだ。
「無表情なんかじゃないわ。あなたにも、何度も笑いかけてるでしょう?」
ジークはとまどったように、リックに目をやった。彼は小刻みに首を横に振った。リックにも彼女が笑っているようには見えなかったらしい。
彼女はからかっているのか? それとも本気なのか……?
ジークは再びユールベルに向き直った。険しい表情で彼女を覗き込む。
「おまえ、笑ってるつもりなのか? 全然、笑えてねぇぞ」
ユールベルはぴくりと眉を動かした。
「笑っていたでしょう? どうしてそんなことを言うの?」
ジークの胸にチクリと小さなとげが刺した。しかし、彼は続けた。
「いや、笑ってない。鏡を見てみろ」
「……いや」
弱々しくかすれた声。ユールベルの蒼い瞳が揺れ、顔がこわばった。白いワンピースから伸びた細い腕は小刻みに震えていた。
「鏡はいや、鏡はきらい……」
消え入りそうな声で何度もそうつぶやきうつむいた。今まで何を言っても動じた様子を見せなかった彼女が、突然、感情を表した。そのことがかえってジークたちを動揺させた。
「ユールベル?」
ジークはうつむいた彼女を覗き込んで、恐る恐る声を掛けた。
「……っ!」
何かに気がついて、彼女は大きく息を呑み、身をのけぞらせた。その表情は怯えたように引きつっている。彼女の右目は水の注がれたグラスを凝視していた。
「ユールベル?」
今度はリックが声を掛けた。
「……嫌……いやぁあっ!!」
彼女は甲高い声を張り上げ、目をそむけながらテーブルの上のグラスをなぎ払った。それは宙を跳び、ジークを襲った。とっさに手でかばったので顔への直撃は免れた。だが、割れた破片が彼の腕と頬を切った。
「……ってぇ」
ジークはよろけながら椅子から立ち上がろうとして、床に膝をついた。顔からは浴びた水が、腕からは血がしたたっていた。
「ジーク!」
リックは椅子から飛びおり、ジークに駆け寄った。
「平気だ。かすり傷だ」
ジークは落ち着いていた。リックの方がうろたえていた。
「かすり傷なわけないよ! ボタボタ血が落ちてる。ラウルのところへ行こう!」
「大丈夫だって言ってんだろ」
その言葉とは裏腹に、ジークの顔からは血の気が失せていた。
バリッ、バリッ……。
ユールベルが破片を踏みしめながら、ジークに近づいてきた。そして、ジークの目の前で膝をついた。
「おまえその辺、破片と血……」
そう言われても、ユールベルはおかまいなしだった。彼女の白いワンピースは、裾から赤く染まっていった。
彼女は白いレースをあしらったハンカチを取り出し、ジークの腕の傷口を縛り始めた。彼女が動くたび、甘い匂いがふわりと舞い上がった。それは血の匂いと混じりあい、ジークに奇妙な感覚を与えた。
ジークの腕は不格好に縛られた。
ユールベルは手を止め顔を上げた。彼の視線を捉えると、ぐいと顔を近づける。息の触れ合いそうな距離。ジークは鼓動が止まったかのように感じた。ユールベルは、血が滲んだジークの頬にそっと指を置いた。
「ごめんなさい。私のことを嫌いにならないで」
あごのあたりに、微かに彼女の吐息がかかった。ジークの頭はぐらりと揺れた。腕の痛みさえ忘れてしまいそうだった。
「すみません! 先生いますか!」
リックがドンドンと医務室の扉を叩いた。
ガラガラ——。
姿を現わしたラウルは、黙ってふたりを見おろした。顔をそむけ立っているジークの腕は赤く染まっている。そのことに気がつくと、面倒くさそうにため息をついた。
「またおまえか」
ジークはうつむいたまま顔をしかめた。
「入れ」
ラウルは短くそう言うと、ガーゼや消毒薬などを手際よく準備し始めた。
「ジーク、ほら!」
リックに促され、ジークはしぶしぶ医務室に入った。
「それほど深くはないな。すぐに治る」
ジークの腕に包帯を巻き終わると、絆創膏を投げてよこした。
「頬にはそれでも貼っておけ」
ジークは仏頂面でラウルを睨んだ。
——コンコン。
軽いノックのあと、すぐに扉が開いた。そこから姿を見せたのはサイファだった。
「来客中か?」
そう言いながらも、彼は遠慮することなく部屋に入ってきた。ジークとリックが会釈をすると、彼は穏やかな笑顔を返した。腕の包帯や血まみれの服を見ても、そのことには触れなかった。ジークは少しほっとした。
「今、終わったところだ。おまえは何の用だ」
ラウルはため息まじりに言った。
「相談したいことがあってね」
サイファはにっこりと微笑んだ。だが、目は笑っていなかった。それに気がついたのはラウルだけだった。
「じゃあ、僕たちは戻ります」
リックがそう言って、ふたりは立ち上がった。
「すまないな」
サイファは軽く詫びた。そして、ふいに尋ね掛けた。
「ジーク、腕はどうしたんだ?」
「……ガラスで切りました」
ジークはどう答えようか迷ったが、経緯を伏せたまま事実のみを述べた。その声は重く沈んでいた。だが、サイファはそれ以上の追求はしなかった。
「そうか、お大事に」
短くそれだけ言った。
「あの」
ジークはとまどいながら切り出した。
「アンジェリカ、あしたは来ますか?」
「体調次第だが、なるべく行かせるよ。おそらく大丈夫だろう」
サイファは再びにっこり笑った。ジークはその答えに安堵して、つられるように微かに表情を緩めた。
「あんなことを言っていいのか」
ラウルは後片づけをしながら、背後のサイファに問いかけた。ジークとリックは出ていったので、ここにはふたりきりしかいない。サイファは窓枠にひじをつき、外の景色を眺めていた。
「相談したいのは、そのことなんだ」
彼は空を見上げながら、ぽつりぽつりと言った。
ラウルは椅子に腰を下ろすと、サイファの方へ体を向けた。それに呼応するかのように、サイファもさっと振り向いた。思いつめたような真剣な表情。しかし、それとは対照的な昼下がりの穏やかな風、柔らかな光が、彼の鮮やかな金の髪を上品に煌めかせている。
「アンジェリカの、開きかけた記憶の扉を、もう一度閉じることは出来るか?」
ラウルは眉をひそめた。
「いつまでも嘘をつき通せるものではないだろう」
「隠し通すさ」
サイファは少しの迷いも見せずに答えた。ラウルはギィと軋み音を立て、背もたれに身をあずけた。そして、無表情で口を開いた。
「ここまで来たら、思い出させるべきだと思うがな。もう幼い子供ではない。今の彼女なら耐えられるだろう」
サイファは目つきを険しくしてラウルを睨んだ。
「それはおまえの憶測でしかない。失敗が許されることではないんだ」
「記憶を消すにも危険は伴う。忘れたのか」
「おまえは一度も失敗していない」
サイファはめずらしくむきになっているように見えた。しばらくふたりは無言で視線を戦わせていた。
「アカデミーが終わったら、家に来てくれ」
厳しい表情のまま、サイファは有無を言わさぬ口調で言い切った。そして、ラウルとすれ違い、戸口へ足を進めると、扉を開こうとしてふいに手を止めた。
「私はこれからバルタスに会ってくる」
「あまり派手に動くな」
ラウルは背を向けたまま静かに言った。
「忠告、感謝する」
サイファに微かな笑顔が浮かんだ。
煌々と蛍光灯が照らす、天井の低いオフィス。十人ほどが机を並べるその奥に、がっちりした男が大きな机を構えていた。
サイファは、部屋に入るとつかつかと彼の前へ進んでいった。書類やペンの音がやみ、あたりはしんと静まり返った。そこにいた全員がサイファに視線を注いだ。
「お久しぶりです。バルタス事務官」
バルタスと呼ばれた男は、うつむいて苦い顔をした。しかし、すぐに厳格な表情を繕い、前を向いた。
「何の用だ」
威厳に満ちたよく通る低音。だが、サイファは畏縮することなく、にっこりと笑いかけた。
「少し外でお話ししませんか?」
「もう昼休みは終わった。仕事でないのなら帰ってくれ」
取りつく島もないあしらい方。それでもサイファは引かなかった。
「半分は公用、と言っていいかもしれません」
意味ありげにそう言うと、真剣なまなざしで挑むように笑ってみせた。バルタスは無言で席を立った。
「すぐに戻る」
フロア内の部下たちにそう言い残し、サイファと連れ立ってその場を後にした。
ふたりが部屋を出ると、残された者たちは色めき立って、口々に話を始めた。
王宮の外れにある小さな森。その中にひっそりとたたずむ散歩道をふたりで辿る。あたり一面にうっすらと緑のフィルタがかかり、枝葉の隙間からもれる光がまだら模様を映し出していた。
「君は、何を知っている」
先に口を開いたのは、前を歩くバルタスだった。
「あなたの家の偽装結界のことだけです」
サイファがそう言うと、バルタスの足は止まった。彼は空を仰ぎ、大きく息を吐いた。
「私を罰しに来たのか」
サイファはバルタスの背中を見つめた。大きいがどこか頼りなく、哀愁が漂っているように見えた。
「公用と言ったのは、あなたを連れ出すため。ことを大きくするつもりはありません」
バルタスは腰に手を当てうつむいた。
「……だろうな。ラグランジェ家の恥を公にすることなどできまい。それに、そのおかげで君の娘が今日まで何事もなく暮らせてこられたのだからな」
そう言いながら、自嘲ぎみに鼻先で小さく笑った。
「否定はしません」
サイファは冷静に答えた。
「それでも、もっと早く気づくべきだったと思います」
その言葉を聞くと、バルタスはゆっくり振り向いた。サイファは彼と目を合わせた。そしてさらに話を続けた。
「どうして今になって結界を解いたのですか。そして、彼女をアカデミーに通わせるわけは……。私が伺いたいのはそれだけです」
サイファの真剣なまなざしがバルタスに突き刺さる。彼は重い口を開いた。
「あの子はもう私の手には負えない。すべてはあの子の意思なのだ。私には何を考えているのかわからんよ」
何もかも諦めたような言い方。サイファは彼のそんな様子を見て決意を固めた。
「今度、お宅の方へうかがいます。もう門前払いをする理由はないでしょう」
「ああ、歓迎するよ。今はあの子とふたりきりでね。正直、気が滅入る」
バルタスはやりきれなさを滲ませた。
「奥さんと息子さんは?」
「妻の実家に身を寄せている。そうする以外に守りようがないからな」
風が吹き、葉のこすれる音が、ざわざわと上から降りそそぐ。バルタスは寂しげに笑った。
「呪われているのは、君の娘でなく、私の娘の方かもしれんな」
36. 甘い憂鬱
「おはよう」
背後からの晴れやかな声が、ジークとリックの足を止めた。ふたりははっとして同時に振り返った。
「アンジェリカ! 良かった、元気そうで」
リックは彼女の笑顔を目にすると、ほっとして言った。
「全然たいしたことなかったみたい。ラウルも大丈夫だって」
アンジェリカは肩をすくめて明るく笑った。だが、そんな彼女を見ても、ジークの心配は拭えなかった。
アンジェリカは三日間、アカデミーを休んでいた。「全然たいしたことない」のなら、三日間も休む必要があるだろうか。念のためといわれればそうかもしれない。だが、そうではないかもしれない。
気がかりなことは他にもあった。アンジェリカが明るすぎる、ジークはそう思った。あんなことがあったばかりなのに、彼女に不安はないのだろうか。なぜそんなに屈託なく笑えるのだろうか。
「ジーク? どうしたの?」
ふたりの間に滑り込んできたアンジェリカが、難しい顔のジークを不思議そうに見上げた。ジークはその声で我にかえった。ふいに、下から覗き込むアンジェリカと目があった。近くで見ても彼女の顔色は良かった。肌は白いが、頬はほんのり桜色。そしてバラ色の可憐な唇はつややかに輝いている。
「いや、元気そうでよかった」
顔をそらし、そっけなく言うと、ジークは再び歩き始めた。
「なに、あれ」
アンジェリカは彼の後ろ姿にまばたきを送りながら、きょとんとつぶやいた。リックは小さく笑った。
「多分、照れてるんだと思うよ」
「ふーん……?」
アンジェリカはよくわからないままそう返事をして、軽く首を傾げた。
「おい! 何やってんだ!! 遅刻するぞ!!」
ジークは振り返り、一向についてこないふたりに向かって叫んだ。
「ごめん、いま行く!」
リックは笑顔で手を振り答えると、アンジェリカとともに小走りで駆け出した。
終業のベルが鳴り、一時間目が終わった。
アンジェリカはノート、教本をトントンと揃えると、それらを机の中にしまいこんだ。それから、いつものように後方のジークに目をやった。しかし、その席には誰もいない。そのまわりにもジークはいない。今までそんなことは一度もなかったのに——。彼女に不安がよぎった。
「あれ? ジークはどこ行ったの?」
リックも教室をきょろきょろ眺めまわしながら、アンジェリカに近づいてきた。
「さあ……授業中はいたと思うんだけど」
彼女は目を伏せて、小さな声で答えた。隠そうとしても隠しきれない不安感が、その声に滲んでいた。
リックはそれに気がつき、急に笑顔を作った。
「きっとお手洗いだよ。そんなに心配することはないって」
「別に心配なんてしてないわ」
アンジェリカは精一杯の強がりを見せた。
ジークは一年生の教室へ来ていた。後ろの扉から中を窺うと、近くでしゃべっていた女の子ふたりに声を掛けた。
「悪い。ユールベルを呼んできてもらえるか」
そう言って、窓際の席でひとり外を眺めているユールベルの後ろ姿を指さした。ふたりの女の子は、頬を赤らめながら少しとまどったように返事をすると、連れ立ってユールベルのもとへ駆けて行った。
ジークは壁にもたれ掛かり、腕を組んでため息をついた。別に悪いことをしているわけではない。そう自分に言い聞かせても、若干の後ろめたさは拭えない。
「あなたが会いに来てくれるとは思わなかったわ」
ユールベルの声が、ジークを現実に引き戻した。白いワンピースのユールベルは、棒立ちでジークをじっと見つめた。相変わらず彼女の左目は白い包帯に覆われている。
ジークは話を切り出そうとしたが、まわりの注目を浴びていることに気がつき、口をつぐんだ。そして、場所を探すため、あたりをぐるりと見渡した。
「あっちで話そう」
好奇の目を向ける一年生に睨みをきかせながら、ユールベルを階段の裏へと連れて行った。
「腕は大丈夫?」
先に話しかけたのはユールベルだった。彼女は、ジークの長そでの上からそっと手をのせた。包帯の感触を感じとると、顔を上げ、ジークの目を見つめた。
「ごめんなさい」
「いや、平気だ。傷は浅い」
スピードを上げた心拍に急き立てられるように、ジークは短く早口で言った。ユールベルはゆっくりと目を細めた。
「私のことを嫌いにならないで」
前回の別れ際と同じ言葉。だが、あのときとは違って、ほんの少しだが感情がこもっているように感じられた。
ユールベルは両腕をジークの背中にまわし、彼の胸に顔をうずめた。
突然のことに驚いたジークは、不格好に両肘を張ったまま、行き場をなくした手を宙にさまよわせていた。背中に置かれた細い腕、細い指、腕をくすぐる柔らかな金髪、鼻をくすぐる甘い匂い、薄地の服を通して感じられる微かな体温、押しつけられた柔らかな胸、胸にかかる熱い吐息……。ジークは全身でユールベルを感じた。だんだんと遠のく現実。それでも正気を保とうと、彼の頭は必死でもがいた。そして、ようやく思い出した。自分がなぜここに来たのかを。
「ハンカチ……」
ジークはつぶやくように言うと、ズボンのポケットから手のひら大の紙包みを取り出した。
ユールベルはそれに目を移した。それから顔を上げ、ジークの瞳をじっと見つめた。彼が下を向けば息が触れ合いそうな距離。ジークは少しでも離れようと、背筋を伸ばして顔を前に向けた。
「このまえ借りたやつ、ダメにしちまったんだ。悪い。なるべく似たやつを選んだつもりだ」
ジークは平静を装い、低いトーンで言った。しかし、速いスピードで打つ鼓動までは隠し切れない。彼女には伝わってしまっているだろう。そう意識すると、心臓はますます強く活動する。
「私のせいだから、そんなことは気にしなくても良かったのに。優しい人ね」
ユールベルはジークの手から紙包みを受け取ると、ようやく体を離した。ジークはほっとして小さく息を吐いた。「借りを作りたくなかっただけだ」——ジークがそう言おうとした、そのとき。
ユールベルはぎこちなく笑いかけた。ジークは目を見開いた。先日、彼女が笑っていると主張しても、見た目はずっと無表情だった。笑えないのかと思った。だが、今は確かに笑っている。
「あなたの言ったとおりだったわ。私は笑えてなかった」
彼女は目を伏せてそういうと、大きくまばたきをしてジークと視線を合わせた。
「だから、今、きちんと笑えるように練習しているの」
ジークは彼女の蒼の瞳に強い意志を感じた。少なくともそのことに関しては、疑う気になれなかった。
「そうか、頑張れよ」
ジークも微かな笑顔を返した。
「ありがとう」
ユールベルは大事そうにハンカチを両手で握りしめ、再び笑ってみせた。まだ少しぎこちない。だが、ジークの目には、さっきよりも表情が柔らかくなっているように映った。
ジークは自分の教室に戻るために、階段をのぼっていた。
「どんな手を使ったんだ。教えてくれないか」
その声にジークが顔を上げると、踊り場から男が見下ろしていた。レオナルドだった。腕を組んで壁にもたれかかり、嫌みたらしくニヤリと笑っている。ユールベルと話していたところを覗いていたに違いない。
ジークはひと睨みすると、無視をして通り過ぎようとした。だが、レオナルドは素直に逃がしはしなかった。
「ユールベルまでこんなに早く手なずけるとはな。アンジェリカだけでは物足りないか。それともラグランジェ家を乗っ取るつもりか」
レオナルドは挑発的に畳み掛ける。それでもジークは必死に気持ちを抑えていた。だが、その壁も次のレオナルドの言葉で弾け飛んだ。レオナルドはニヤリと笑い、身を乗り出すと、ジークの耳もとでささやくように言った。
「さっきのこと、アンジェリカに言ったらどうなる?」
ジークはレオナルドの胸ぐらに掴みかかり、そのまま壁に叩きつけた。レオナルドは後頭部を打ち顔をしかめた。だが、歯を食いしばったジークのくやしそうな表情を見ると、満足げにせせら笑った。
「悪いのはこっちか? 言われて困るようなことをしていた自分はどうなんだ」
レオナルドはさらに追いつめた。
ジークは何も言葉が出なかった。レオナルドから手を離すと、背を向けこぶしを握りしめた。
「言いたきゃ勝手に言えよ」
吐き捨てるようにそう言ったあと、少しの間をおいて続けた。
「俺は何も悪いことはしてねぇ」
今度は自分に言い聞かせるように、言葉を噛みしめながら言った。しかし、それと同時に、後ろめたさを感じていたのも事実だった。
「あ、ジーク!」
アンジェリカは教室に入ってきたジークと目が合い、声を上げた。ジークはアンジェリカに応えることなく、むすっとしたまま黙って席についた。
「どこへ行っていたの……?」
アンジェリカはおずおずと尋ねた。
「トイレだ」
ジークはぶっきらぼうにそう答えた。だが、その目は明らかに彼女から逃げていた。アンジェリカは不安そうに目をしばたたかせながら、遠慮がちに覗き込もうとした。
「だめだよアンジェリカ。あんまりジークを追いつめちゃ」
リックが優しく彼女を諭した。
ジークはどきりとした。リックが何を言い出すつもりなのかと気が気でなかった。しかし、下手に口出しするのも恐い。彼は成り行きを見守るしかなかった。
リックはアンジェリカににっこり笑いかけて言った。
「おなかの調子が悪いなんて、恥ずかしくて言えないんだから」
「違っ……! リックおまえ何言い出すんだ!!」
ジークは一気に顔を上気させて、椅子から立ち上がった。リックがなぜそう言い出したのかわからず、頭が混乱していた。そんなふうに推測しただけなのだろうか。それとも自分をからかっているだけなのだろうか。
リックは頭に手を置き、明るく笑った。
アンジェリカはそんなふたりを見て、腕を組み、呆れたようにため息をついた。しかし、その表情は安堵で和らいでいた。
ジークはそこで初めて気がついた。リックが自分のためにひと芝居打ってくれたのだということに。リックにも何も言ってはいなかったのだが、アンジェリカより付き合いの長い彼には、何か察するものがあったのだろう。そのごまかし方には納得がいかなかったが、それでもジークは感謝した。
キーン、コーン——。
始業のベルが鳴った。
「始まったぞ。おまえら席に戻れ」
ジークは照れ隠しに、大袈裟に手を振って追いはらった。その拍子に、シャツの袖口から白い包帯がチラリとのぞいた。アンジェリカはそれを目ざとく見つけた。
「どうしたの、それ」
彼女は指さしながら近づいた。
「ああ……」
ジークは一瞬、腕を隠そうとしたが、すぐに思いとどまった。隠した方が不自然であることに気がついたからだ。
「割れたコップで切った。たいしたことねぇよ」
努めて冷静に言ったが、アンジェリカの反応はなかった。
「アンジェリカ?」
「……え? ううん、なんでもない」
彼女は早口でそう言うと、パタパタと小走りで席に戻っていった。
甘い、におい——。
ジークに近づいたとき、微かにふわりと甘い匂いがした。懐かしいような、それでいて落ち着かない気分にさせられる。
何の匂い——?
アンジェリカは得体のしれない不安が静かに胸に広がっていくのを感じた。
37. 渇いた心
その日は休日だった。
厚手のカーテンの隙間から光の帯が差し込み、さわやかに朝を告げる。こんな日は小鳥のさえずりが目覚ましがわりだ。
アンジェリカは、淡いピンクのネグリジェのまま階段を下りた。
「おはよう、アンジェリカ」
レイチェルはミルクティーを入れながら、にこやかに笑いかけた。
「お父さんは?」
アンジェリカは広いダイニングを見渡しながら、椅子に座った。
「用があるって、少し前に出かけたわよ」
レイチェルはカップを載せたソーサーを、アンジェリカの前に差し出した。アンジェリカはそれを手に取り、ミルクティーを口に運んだ。ほっとする香りと温かさ。頬を緩ませ、ふぅと小さく息をついた。
レイチェルは隣に腰を下ろしながら、その様子を愛おしそうに見つめた。それから少し身を乗り出し、彼女を覗き込んで口を開いた。
「ね、アルティナさんが久しぶりにあなたに会いたがっているの」
「王妃様が?」
そう聞き返したが、たいして驚いた様子でもなかった。レイチェルが王妃アルティナの付き人をしていることもあり、彼女は小さい頃からよく王宮へ遊びに行っていた。だが、アカデミーに入学してからは、ほとんどアルティナとも会っていない。
「一緒に行かない? 小さな王子様も待っているわ」
暗い気持ちさえ吹き飛ばすような、レイチェルの明るい声と笑顔。
この人が私のお母さんで良かった——。
そんな思いが、アンジェリカの胸にじわりと広がった。
サイファはひとりバルタスの家へ来ていた。門前で立ち止まり、屋敷の二階を見上げてみる。だがもうそこからは、偽装結界も、通常の結界も感じられなかった。
扉の前まで進み、呼び鈴を鳴らす。奥で重みのある音が鳴り響いた。やがて軽い足音が聞こえ、扉が開いた。
「おじさま、来てくださって嬉しいわ」
中から飛び出してきたユールベルが、サイファに抱きついた。ノースリーブの白いワンピースが風を受け、ふわりと丸みを作る。
「何度も訪ねてくれていたのに、いつもあの人が追い返してしまってごめんなさい。もう来てもらえないかと思っていたわ」
そう言うと、サイファの胸に頬を押し当て、目を閉じた。サイファは彼女の頭を軽くなでると、少し離れて立っているバルタスに会釈した。ユールベルはそれに気がつくと、冷たく固いまなざしをバルタスに流した。彼の顔には疲労の色が浮かんでいた。
「行きましょう」
ユールベルは再びサイファに向き直ると、彼の手を取り、軽い足取りで応接間へと駆けて行った。そして二人掛けのソファにサイファを座らせると、彼女もその隣に腰を下ろした。体半分をサイファに向け、甘えるように寄りかかる。サイファはよけることも突き返すこともせずに、自然なままでそこにいた。
「おじさま、コーヒーと紅茶、どちらがいい?」
「紅茶をお願いするよ」
サイファはユールベルの顔を見て、にっこり笑いかけた。ユールベルも微かに笑顔を返した。だが、それはほんの一瞬のことだった。すぐにいつもの無表情に戻った。
「バルタス、紅茶ふたつ」
召使いにでも言うかのような命令口調。それでもバルタスは何の反論もせず、黙って奥へと姿を消した。大きな背中には何の威厳もない。仕事中とは別人のようだった。
「ユールベル」
「なあに、おじさま」
ユールベルは体を伸ばし、サイファに顔を近づけた。サイファはユールベルの瞳を見つめて、真剣な表情になった。
「私たちのことを恨んではいないのかい?」
その言葉を聞くと、ユールベルはぱちくりと瞬きをした。
「恨むだなんて」
彼女は細い腕をたどたどしく伸ばす。ぎこちなくサイファの首へとまわし引き寄せると、彼の肩に顔をうずめた。そして、彼の耳もとでささやくように言った。
「あれは事故だったのよ」
サイファは複雑な面持ちで、彼女のゆるやかに流れるブロンドを見つめていた。
バルタスが無言で戻ってきた。カタカタと小刻みな音を鳴らしながら、カップがふたつ乗せられたプレートを、慣れない手つきで運ぶ。
ユールベルはサイファから離れ、向かいのソファに座り直した。
上品で繊細な花柄のカップとソーサーを、それに似つかわしくない大きな手でふたりに差し出す。
ユールベルは冷めた目で、その様子を眺めていた。
「終わったら出ていって」
驚くほど冷たい声だった。
バルタスは背中を丸めて立ち上がった。無愛想なままサイファに会釈をすると、プレートを小わきに抱えて応接間をあとにした。
サイファはカップに手を伸ばそうとした。だが、ユールベルはそれを遮るように、横からサイファに抱きついた。
「私、おじさまのピアノが聴きたい」
サイファはにっこり笑って答えた。ユールベルもつられてわずかに笑顔になった。
「おじさまこっち」
サイファの手を引っ張り、部屋の隅に置いてあるアップライトピアノへと誘う。彼女の軽い足どりから、浮かれているさまが見てとれた。
ユールベルが黒塗りの椅子を引くと、サイファはそこに腰を下ろした。鍵盤の蓋を開け、音と感触を確かめるように軽く鳴らしてみる。だが、その手はすぐに止まった。
「ユールベル、このピアノ、調律が出来ていないよ」
サイファはユールベルを振り返る。ユールベルは少しの間、動きを止めていたが、やがて扉の方へ走っていった。
「バルタス、どういうこと? 調律が出来ていないって」
部屋の外に向かって大きめの声で問いつめる。
バルタスはすぐに戸口に姿を現わした。彼はユールベルを静かに見下ろして言った。
「ピアノは七年間一度も触っていない」
次の瞬間、ユールベルの平手打ちがとんだ。細腕を思いきり伸ばし、背伸びをしての平手打ち。たいした威力はないだろう。それでも、サイファを驚かせるには十分だった。それでも彼は動じた様子は見せなかった。
「道具さえ貸していただければ、私が調律しますよ」
サイファは立ち上がり、バルタスに声をかけた。
「道具もない」
バルタスはにべもない返事をした。
「最低」
ユールベルは冷たく彼を見上げた。
「それでは来週、私が道具持参でうかがいますよ」
サイファはバルタスににっこり笑いかけた。
「おじさまにそんなことさせられない。バルタス、調律師を呼んでおいて」
その命令を残し、ユールベルはサイファのもとへ戻っていった。そして再びサイファの背中に手をまわし抱きついた。
「ごめんなさい。ピアノはまた今度聴かせてくださる?」
「もちろんだよ」
サイファは優しくユールベルの頭をなでた。
ユールベルはサイファから少しも離れようとはしなかった。ソファに座った彼の膝に頭をのせ、彼の脚を指でたどり、その感触を確かめていく。
「おじさまが私のお父さまだったら良かったのに」
ユールベルはポツリともらした。サイファから彼女の表情は見えなかった。横顔には長い金髪が無造作にかかり、さらに包帯が邪魔をしていた。
「私、アンジェリカがうらやましくて仕方がない」
再び彼女はポツリと言った。
「君も知っているだろう、あの子の立場は」
「でもアンジェリカにはおじさまがいる。私には何もない」
彼女のあらわになった細い肩が、ほんの少し揺れた。
「そういえば、アンジェリカ。私のことをすっかり忘れていたわ。寂しかった……」
サイファの顔がけわしくなった。だが、それは一瞬。すぐに元の表情に戻った。ユールベルの頭に優しく手を置き、もう片方の手で彼女の顔にかかった髪をそっとかきあげる。
「申しわけない。あれはあの子にとっては辛すぎる過去なんだ。勝手を言うようだが……そっとしておいてほしい」
ユールベルはだるそうに体を起こし、サイファの膝の上に、横向きに座った。体をねじり、彼の首に腕をまわすと、額が付きそうな距離でまっすぐ見つめた。
「彼女だけずるい」
そう言ったあと、サイファを引き寄せ、頬と頬を触れ合わせた。
「でも、おじさまがそういうなら、私はそうするわ」
「ありがとう」
サイファは彼女の華奢な背中に手をまわした。
「さて、私はそろそろおいとまするよ」
サイファの膝の上に身を投げ出しまどろんでいたユールベルは、驚いて身を起こした。
「そんな、行かないで。ずっとここにいて」
彼に顔を突きつけ懇願する。サイファはにっこり微笑んだ。
「そういうわけにはいかないよ」
彼の右手がユールベルの頬を包み込んだ。
「また来るから」
そう言うと、サイファは立ち上がった。だが、その右手をユールベルがつかむ。すがりつくような右の瞳。
「また来るから」
サイファは同じ言葉を繰り返し、にっこりと笑った。ユールベルの手から力が抜け、サイファの手はするりと抜けた。
サイファは少し歩くと振り返った。
「その目、一度きちんと診てもらった方がいい。今度、ラウルのところへ行っておいで」
それだけ言うと、今度は立ち止まらずに部屋を出ていった。
玄関でバルタスが扉を開け待ちかまえていた。
「すっかり迷惑をかけてしまった」
気力のない低い声。彼が疲れ切っていることは明らかだった。
「いいえ。こちらこそお邪魔いたしました」
サイファは会釈をして外へと出た。まだずいぶん明るく、日没までは時間があるようだ。風もなく穏やかで静かな空に、小鳥が弧を描いて飛んでいった。
「……あまりあの子の言うことを信用しない方がいい」
バルタスは声をひそめてそう言うと、間髪入れずに扉を閉めた。
サイファはしばらく扉を見つめていた。それから顔を上げ二階を見上げた。窓にはすべて暗色のカーテンが掛けられていた。
「おかえりなさい!」
扉の開く音を聞きつけ、アンジェリカが二階から駆け下りてきた。
「ただいま、アンジェリカ」
サイファは優しい笑顔を見せた、
「今日は何をしていたんだい?」
「王妃様と王子様に会ってきたわ」
アンジェリカは嬉しそうに軽いステップを踏みながら、サイファの横に並んだ。だが、その途端、彼女の顔から笑みが消えた。とまどい、怯えたようにうつむき、体をこわばらせる。
「アンジェリカ?」
「ううん、なんでもない」
彼女は首を横に振りながらそう答え、小走りで二階へ戻っていった。
「お帰りなさい」
今度はレイチェルが笑顔で迎えた。
「あら? アンジェリカが降りて来なかった?」
「降りてきてたんだが……。また戻っていったよ」
「そう。王子様のお相手で疲れたのかしら」
レイチェルは首をかしげた。
ふたりは奥の書斎に場所を移した。扉には内側から鍵をかけた。それからテーブルを挟み、向かい合わせに座った。
「それで、どうだったの? 彼女」
レイチェルが静かに尋ねた。
「アンジェリカをどうこうする気はなさそうに見えた。だが……」
サイファは机にひじをつき、口元で両手を組むと、わずかに目を伏せた。
「バルタスには信用するなと言われたよ」
レイチェルは少し身を乗り出して、サイファを覗き込む。
「サイファは大丈夫だと思ったのでしょう?」
「自信はない。嘘を言っているようには見えなかった。ただ……」
彼は言葉を切った。そして、少しの間をおいて続けた。
「彼女の精神状態はまともとはいいがたいからな」
「そうでしょうね」
レイチェルは顔を曇らせた。
「やはりしばらく様子を見るしかないだろう」
サイファはそう言ったきり口をつぐんだ。レイチェルも同じく暗い表情で目を伏せた。重い空気がふたりにまとわりつき、動きを封じているかのようだった。
「ラウルにも言っておかなければな」
サイファは唐突に切り出した。
「え?」
レイチェルは顔を上げた。サイファもゆっくりと顔を上げ、彼女と視線を合わせた。
「ラウルにも関わりがあることだろう、多少はね」
「そう、ね」
「ユールベルには言っておいた。ラウルに目を診てもらうようにとね。それが吉と出るか凶と出るかはわからないが、もしかしたら……」
レイチェルの表情に、ふいに陰が落ちた。
「心配かい?」
サイファは優しい笑顔で尋ねた。レイチェルは目を伏せ、ぽつりと言った。
「そんなこと、聞かないで」
「そうだね」
サイファは彼女の頭にそっと手を置いた。
レイチェルは、突然はっとして目を見開いた。自分の頭を撫でているサイファの手を取り、袖口を鼻に近づけた。
「サイファ、この甘い匂い……」
彼女は悲しげにそう言うと、小さくため息をついた。
「彼女の匂いが移ったのね」
サイファは焦ったように匂いを嗅いだ。だが、自分ではよくわからなかった。困惑した顔をレイチェルに向ける。
「君にはわかるのか?」
「ええ、自分では気がつきにくいのかしら」
「アンジェリカが急に二階へ戻っていったのはこれが原因、ということか」
サイファは自分のしでかした大きな失敗に顔をしかめた。後悔を隠すことなく、その表情にあわらにする。
「思い出してはいないと思うが……」
彼は祈るように両手を組んだ。
「でも、匂いとそれに結びついた感情というものは、なかなか切り離せないものだわ。こういうことが続けば、もしかしたら記憶もよみがえってしまうかもしれない」
少し沈んだ声で、レイチェルは冷静に述べた。
サイファは立ち上がった。
「シャワーを浴びてくる」
そう言うと、扉へ向かって歩き出した。
「サイファ」
レイチェルは憂いを含んだ瞳を向け、気遣わしげに呼びかけた。サイファはドアノブに手をかけたまま、顔だけ振り返り、にっこりと笑ってみせた。いつもとなんら変わることのない笑顔。だが、レイチェルはその裏に隠された自嘲と自責を見逃さなかった。いたたまれなさに、思わず立ち上がり駆け出した。そして、後ろから彼をぎゅっと抱きしめた。
サイファは突然のことに驚いたが、その表情はすぐに和らいだ。愛おしげに、彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
サイファはふいに幼い日々を思い出した。自分が落ち込んでいたときは、何も言わずとも、いつも彼女はこうやって抱きしめてくれた。どんなに表面を取り繕っても、彼女だけは本当の自分を見透かしていた。彼女がいるからこそ、自分を見失わずにいられる——そんな気さえしていた。
「ありがとう」
そう言った彼の声は、とても穏やかであたたかかった。
続きは下記にて掲載しています。
よろしければご覧くださいませ。
遠くの光に踵を上げて(本編94話+番外編)
http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html
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アカデミーに通う18歳の少年と10歳の少女の、出会いから始まる物語。
少年は、まだ幼いその少女に出会うまで敗北を知らなかった。名門ラグランジェ家に生まれた少女は、自分の存在を認めさせるため、誰にも負けるわけにはいかなかった。
反発するふたりだが、緩やかにその関係は変化していく。
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