No.215093

三度目の家庭教師

瑞原唯子さん

「レイチェルに魔導を教えてやってくれないか」
今でも彼女を想い続けていることは知っているはずなのに。
それどころか実際に裏切ったことさえあるのに。
ラウルにはサイファの真意がわからなかった。

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2011-05-05 01:56:19 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:800   閲覧ユーザー数:779

「レイチェルに魔導を教えてやってくれないか」

 サイファが飄々とそう言うのを聞いて、ラウルはカルテを整理していた手を止めた。反射的に険しく眉を寄せると、僅かに振り向き、パイプベッドに腰掛けている彼を肩越しに睨みつける。

「本気で言っているのか?」

「ああ、もちろん」

 サイファは人なつこい笑みを浮かべて答え、それから少し真面目な顔になった。

「あの事件以来、レイチェルは怖がって外に出ようとしない。だから、彼女に魔導を制御できるという自信を持たせてやりたいんだよ。元を正せば、おまえの責任でもあるし、断らせはしない」

 宝石のような鮮やかな青の瞳を向けて、静かに毅然と言う。

 ラウルは机に向き直った。重ねたカルテの上に腕を置き、目を細めてそっとうつむく。

「……信じるのか?」

「おまえのことなんか信じるわけないだろう」

 さも当然という口調で、サイファは軽く答える。

「今でも吹っ切れていないことくらい、わかりきっているからな。だが、レイチェルは二度と私を裏切らない。そして、おまえは彼女の意思を無視することはない。だから、何も起こりはしないということだ」

 レイチェルは二度と裏切らない——。

 彼は少しの迷いもなくそう言い切った。そして、実際にその通りだろうとラウルは思う。彼女を連れて逃げようとしたときも、はっきりと断られてしまった。もう自分の割り込む余地はないのだと理解している。

「来週から頼むよ」

 サイファは笑顔でそう言うと、ラウルの肩をぽんと叩いて医務室をあとにした。

 細く開けた窓から滑り込んだ風が、クリーム色の薄いカーテンを波打たせる。そして、机に向かい額を押さえたラウルの髪を、撫でるように緩やかに揺らした。

 

「お待ちしていました」

 翌週から、ラウルはレイチェルの家庭教師を引き受けることになった。

 通い慣れたはずのラグランジェ本家だが、訪れるのは十数年ぶりであり、さすがに少しばかり緊張を覚えていた。迎え入れてくれたのが、サイファでもその親でもなく、レイチェルだというのも奇妙な感覚である。本当に今さらであるが、彼女が本家に嫁いだいう事実を、あらためて思い知らされた気がした。

「着替えてきた方がいいかしら」

「そのままで構わん」

 ラウルはぶっきらぼうに答えるが、レイチェルに目を向けられると僅かに視線を逸らす。その大きな蒼の瞳に気持ちを見透されてしまうようで怖かった。その恐怖は彼女に対してのみ感じるものであり、それゆえ、同時に多少の懐かしさも感じていた。

 

 カツン、カツン、カツン——。

 レイチェルが一歩下りるたび、石段を打ち付ける音が低い天井に反響する。ラウルは彼女のあとについて、薄暗い階段の先にある、魔導の訓練場へと向かっていた。もちろん、ここに入るのも初めてではない。サイファの家庭教師をやっていた頃に、幾度となく使用していたところだ。

 カツン——。

 規則正しかったリズムが止まり、レイチェルは行き止まりの鉄扉に手を掛ける。が、すぐに開こうとはせず、背を向けたまま、小さな肩をわずかに上下させて静かに言う。

「私、本当はまだ怖いの」

「…………」

 どう返事をすればいいのか、どんな言葉を掛ければいいのか、ラウルにはわからなかった。口を閉ざしたまま視線を落とすことしかできない。彼女は淡々と言葉を繋ぐ。

「でも、私、ラウルを信じているから」

 長い髪をさらりと揺らして振り返り、ラウルを見つめると、ニコッと子供のように愛らしく微笑んだ。それは、無邪気に信頼を寄せてくれていた、あの頃と変わらない無垢な笑顔だった。

 

 訓練場に入り、扉を閉めると、そこはもう二人きりの空間だった。魔導耐性に優れた厚い壁が、この空間を外界から切り離し、時間さえ止まっているかのような錯覚を与える。一緒にいる相手によっては息が詰まる場所だ。だが、今、ラウルの眼前にいるのはそういう相手ではない。

「今さらおまえに魔導を上手く扱えとは言わん。ただ、自分の力を制御できるようにはなってもらう。いいな」

「はい」

 レイチェルは緊張感のない笑顔で答える。素直だが、本当に理解しているのか判然としない。こんなところも昔のままである。だが、あのときの失敗は繰り返せない。今度は焦らずじっくりと——。

「まずは瞑想をしてもらう」

 ラウルは訓練場の隅に置いてあった、古びた木製の椅子を持ってきて、そこにレイチェルを座らせた。ドレスの長い裾が地面を擦っている。彼女は行儀よく膝の上に手を重ねながら、不思議そうに小首を傾げてラウルを見上げた。

「瞑想ってどうすればいいの?」

「体の緊張を緩め、雑念をなくし、眉間に意識を集中させる。あとはその状態を維持し、少しずつ高めていく」

 ラウルは簡潔明瞭に説明する。それでも彼女には難しかったようだ。

「高めるって……何を?」

「……いや、それはいい」

 きちんと瞑想をやったことがなければ、わからなくて当然かもしれない。

「とりあえず、意識を集中させるところまでやってみろ」

「はい」

 レイチェルはそう返事をしたものの、すぐに困惑したように眉をひそめた。意識を集中させるといっても、どうすればいいのか、取りかかりが掴めないのだろう。

「目を閉じろ」

 ラウルはアドバイスを送る。しかし、なぜか彼女はくすっと小さく笑った。

「何だ?」

「いえ、何でもないわ」

 そう答えながらもくすくすと笑い続けている。ラウルがムッとして睨みつけると、彼女はようやく笑うのをやめ、おどけるように小さく肩をすくめた。それから、そっと瞼を下ろして瞑想を始める。

 

 静かに時が流れ始めたと思った、そのとき——。

「いつまで続ければいいのかしら」

 彼女は目を閉じたまま尋ねた。瞑想に取りかかってから、まだ5分と経っていないはずである。

「……おまえ、まったく集中していないだろう」

「わかるの?」

 レイチェルは目を開け、大きな蒼い瞳をぱちくりさせた。ラウルが腕を組んで溜息をつくと、彼女は申し訳なさそうに微笑みながら肩をすくめる。

「なんだかつい余計なことを考えてしまって」

 魔導を適切に扱うには集中力がなければいけないし、集中力がなければ魔導を適切に扱うこともできない。小さな子供の頃から魔導を扱う訓練をしていると、自然と集中力を高められるようにもなるが、レイチェルはこれまであまり訓練をやってこなかったと聞いている。いきなりではやはり難しいのだろう。だが、決して出来ないわけではないと信じている。

「だったら、祈ってみろ」

「何について?」

「おまえが強く思いをこめられるものなら何でもいい」

 そう言うと、レイチェルは少し考え込んだ。それから両手を組み合わせて静かに祈り始める。

 すると。

 彼女の魔導力が急激に高まった。彼女本来の力からすれば微々たるものではあるが、平常時、彼女の独力でこれほど高められたのを見たことはなく、ラウルは目を見張った。

 まだ高まっている——。

 空気が震えているのがわかる。いったいどこまでいくのかと不安に思い始めた、そのとき——彼女はぷっつりと糸が切れたように椅子から崩れ落ちた。地面に倒れる寸前で、ラウルがその小さな体を抱き留める。

「おい! レイチェル!!」

 意識をなくしたレイチェルに呼びかけると、彼女はまぶたを震わせ、そろりと目を開いた。ぼんやりとした蒼の瞳が、真上から覗き込んだラウルを捕らえる。

「大丈夫か?」

「ええ」

 彼女は柔らかく微笑んだ。それを見てラウルは安堵の息をつく。彼女を抱き留める腕に力がこもった。

「何があったか、覚えているか?」

「お父さまのことを祈っていたら、あのときのことがよみがえってきて……それで……」

 そう説明する彼女は、さすがに少し不安そうだった。あの忌まわしい事件は思い出したくもないはずだ。だが、そのことが彼女の魔導力を高める一助になったことは間違いないだろう。無理やり魔導の力を引き出された経験により、以前よりも魔導を高めやすくなっている、というのもあるかもしれない。

「ごめんなさい」

「謝ることはない。それでいい。少しずつ慣らしていけば上手くいく」

「……本当?」

「ああ」

 まっすぐ彼女を見つめて答えると、レイチェルは安堵したように微笑んだ。彼女に言ったことは、気休めではなく本当のことである。正直、どう訓練すればいいのかラウルも悩んでいたが、このことではっきりと一筋の光明が見えたのだ。

「頑張るわ」

 レイチェルはそう言って体を起こし、再び椅子に座ろうとする。が、ラウルは手を引いてそれを制した。

「今日はもういい」

「過保護ね」

 レイチェルはくすっと笑う。もう子供じゃないのに、とでも言いたげだった。

「急激に負担を掛けるのは良くない。サイファにも、無理をさせるなと釘を刺されている」

「……わかったわ」

 ラウルが真面目に説明すると、彼女は不本意そうな顔を見せながらも頷いた。しかし、すぐに明るい表情に戻って続ける。

「また、あした頑張りましょう」

 彼女の場合は、笑っていてもそれが本心かどうかはわからない。怖い気持ちがなくなったわけではないだろう。だが、こうやってやる気を見せてくれていることに、ラウルは多少なりとも安堵させられた。

 

「お茶でも飲んでいって」

 地下の訓練場から階段を上がったところで、レイチェルがごく自然にそう言う。ラウルは息を呑んだ。そして、彼女の瞳から逃れるように視線を落とす。

「……いや」

「お茶までならいいって、サイファにも言われているのよ」

 まるでラウルの心を見透かしたかのように、レイチェルはくすっと笑いながら付言する。その瞬間、ラウルの顔は苦々しく歪められた。脳裏にサイファの顔がちらつき、腹立たしさがおさまらない。が、彼女に応接間へと促されると、断ることなど出来るわけもなく、怒りを心の奥底に抑え込んだまま足を進めた。

 

 向かいのソファに座ったレイチェルが、手慣れた所作でティーポットからカップに紅茶を注ぐ。ほどよく美しい紅色が、緩やかにカップの中で揺れる。水面は、レースのカーテン越しの光を反射して、柔らかく輝いていた。

「どうぞ」

「ああ……」

 ラウルは差し出された紅茶に口をつけた。お世辞でもなく、ひいき目でもなく、素直に美味しいとラウルは思う。何も出来なかった彼女が、美味しい紅茶を淹れられるようになり、そしてその紅茶を二人きりで飲む日が来ようとは、15年前には考えられなかったことだ。

 暖かく、光の溢れる昼下がり。目の前には笑顔のレイチェルがいる。

 とても穏やかな時間だった。

 

 それから10日が経ち——。

 深夜といってもいい時間、ラウルの医務室にサイファが押しかけてきた。しばらく忙しくて来られなかった、と前置きをしてパイプベッドに腰掛ける。少しばかり疲労の滲んだ表情と、きっちり身につけた制服から察すると、おそらくこの時間までずっと仕事をしていたのだろう。

「どうだ、レイチェルの訓練は」

「上手くいっている。問題ない」

 ラウルはあれからほとんど毎日、といっても平日のみだが、ラグランジェ本家に赴いてレイチェルの訓練を続けていた。今は徐々に魔導に慣らしている段階である。本当に少しずつではあるが、着実に前進していることは間違いない。

「ティータイムは楽しんでいるか?」

 サイファは続けてそう尋ね、思わせぶりに片方の口角を上げた。ラウルが僅かに眉を寄せると、フッと笑い、芝居がかった所作で右の手のひらを上に向ける。

「毎日一緒にお茶を飲んでいることはレイチェルから聞いているよ。責めているわけじゃないぞ。心ばかりの報酬のつもりで許可したんだからな。いくら何でも、全くのタダ働きをさせるほど無慈悲ではないんでね」

 お茶までならいいとサイファに言われた——あのときの彼女の言葉が脳裏によみがえる。そういう意味だったのかと腑に落ちた。報酬という言い方に腹立たしさを感じるものの、拒否する強さも持てず、ただ目の前のサイファを睨みつけることしかできない。

 彼は平然としたまま続ける。

「レイチェルもおまえと過ごせて随分うれしそうにしているよ。そのことには少々嫉妬しないでもないが、安全が担保されていれば、こういう適度な刺激も悪くないものだな。良いスパイスといったところだ」

 どこまでが本心かわからない。ただ、それがラウルの神経を逆なですることは、十分理解していたのだろう。挑発的な光を宿した青い瞳がそれを物語っていた。

「これからも頼むよ」

 サイファはパイプベッドから立ち上がると、満面の笑みで手を振って医務室をあとにした。遠ざかる彼の靴音を聞きながら、ラウルは口を引き結び、膝にのせた手をゆっくりと強く握りしめた。

「絶対あやしい!!」

 ジークの向かいに座るアンジェリカは、思いきり眉をひそめて力説した。白いテーブルの上で、小さなこぶしをぎゅっと握りしめている。その前に置かれた紅茶の水面には、小さく細波が立っていた。

「二人とも幸せそうな顔して、まったりお茶なんか飲んで……魔導の訓練とか言ってるけど、本当だかわかったものじゃないわ」

 ジークは休憩時間にアンジェリカに会いに行ったのだが、なぜか、彼女はわざわざこの王宮内の喫茶店へジークを連れて来た。いつもはアカデミーの仕事部屋でお茶をするのに、いったいどうしたのかと思ったが、理由は彼女の話を聞いてすぐにわかった。サイラスもいるあの部屋で、こんな他言無用の話をするわけにはいかなかったのだろう。ただ、ここに他の客はいないが、カウンター内の店員が少し気にしてそうな素振りを見せている。興奮しきっているアンジェリカは気付いていないようだが——。

「落ち着けよ」

「ジークは他人事だから落ち着いていられるのよ!」

 とりあえず宥めようとしたジークに、彼女は間髪入れずに切り返す。ジークにとって「他人事」と言われたことは甚だ不本意だが、今はそれを議論するときではない。感情をぐっと抑えて言葉を繋ぐ。

「そうじゃねぇよ。レイチェルさんのことを信用してるんだって。おまえ、自分の母親だろ?」

 アンジェリカの顔に翳りが落ちた。複雑な表情を見せながら、それでも強気を失うことなく言い募る。

「そうだけど、あの二人には前科があるんだから」

「前科、ねぇ……」

 その前科でおまえが生まれたんだけど、とジークは思ったが、もちろん口が裂けてもそんなことは言えない。カウンター内の店員に聞こえたか気になったが、アンジェリカが声のトーンを落としたので、離れたところにいる彼には届いていないようだ。ジークはさらに声をひそめて尋ねる。

「でも、サイファさんは二人を信用してるんだろ?」

「お父さんは甘いのよ。現に一度寝取られてるじゃない」

「……おまえ、そんな言葉どこで覚えてくるんだよ」

 ジークは深く溜息を落とすと、テーブルに肘をついて額を押さえる。

「ああ、もうっ! こうしている間にもお母さんたちは密室で二人きりなのよ! 焼けぼっくいに火がついたらどうしてくれるの?! もしかしたらもう手遅れかもっ!!」

「心配しすぎだって」

 ジークがそう言っても、アンジェリカが落ち着くことはなかった。苛ついたように、眉を寄せて唇を噛みしめる。やがて、いてもたってもいられない様子で、バンと勢いよくテーブルに両手をついて立ち上がった。

「ジーク! 偵察にいくわよ!!」

「……へ?」

 目をぱちくりさせたジークの腕を、彼女は強引に掴み、引きずるようにして喫茶店をあとにする。テーブルに残した紅茶には、まだ口もつけていなかった。

 

 二人は王宮を抜け出し、ラグランジェ本家に向かう。アンジェリカはともかくとして、ジークはそろそろ仕事に戻らねばまずいのだが、とてもそんなことを言い出せる雰囲気ではない。

 アンジェリカは持っていた鍵を使い、重厚な扉を、ゆっくりと音を立てないように開いた。

「あら、お嬢様」

 気配に気付いて出てきた年配の家政婦が、不思議そうに声をかけた。が、アンジェリカが険しい顔で人差し指を唇に当てて見せると、彼女は慌てて口を閉じて片手で押さえる。

「行くわよ」

 アンジェリカは抑えた声でそう言い、ジークの腕を引っ張りながら屋敷に入る。ジークは気が進まなかったが、振り切って逃げるわけにもいかず、渋々ながら彼女に従って足を進めた。

 二人は抜き足差し足で、地下へ続く階段を下りていく。

「なあ、やっぱやめねぇか?」

「しっ! 静かに!」

 多分ダメだろうと思いつつ提案してみたが、やはり彼女はまったく聞く耳を持たない。ジークはもう諦めた。訓練の様子を聞いて、真面目にやっているとわかれば、それでアンジェリカも納得してくれるに違いない。

 階段を下りきったところに扉がある。だが、その前に立っても中の音は聞こえない。魔導の訓練場はたいてい防音になっているのだ。場所自体が狭いため、二人は身を寄せたまま、冷たい扉にそれぞれ片耳を押しつける。何だかんだいっても、ジークも完全に信じているわけではなく、真実を確かめたい気持ちは少なからずあった。

 

「始めましょうか」

 レイチェルの声だ。どうやらこれから訓練を始めるところらしい。アンジェリカは少しも聞き漏らすまいと、小さな口をきゅっと結び、ますます真剣な顔になって耳に神経を集中させる。

「やはり椅子だとやりづらい。今日からは床でやることにする」

 もうひとつの声は当然ラウルである。だが、話の内容がいまいち掴めず、ジークは僅かに眉を寄せた。

「えっ……でも冷たいわ」

「すぐにあたたかくなる」

 戸惑いを含んだレイチェルの声と、感情の窺えないラウルの声。

 どういう訓練をしようとしているのか、これだけではまだわからない。ジークには椅子を使った訓練など覚えがなかった。椅子ではやりづらいということなので、椅子を使うのは特殊な方法なのかもしれないが——。

「あっ、何も服を脱がなくても……」

 そのレイチェルの声に、ジークは全身の毛が逆立つのを感じた。胸元で耳を寄せるアンジェリカは、小さく息を呑み、大きく目を見開いて固まっている。杞憂だと思っていた彼女の懸念が、まさか現実になっているというのか?

「上に乗れ」

「……ええ」

 上に乗るって、何の上に乗るんだよ?!

 ジークの全身から汗が噴き出てきた。額にも、背中にも、握った手のひらにも、じわじわと気持ち悪い汗が滲んでくる。アンジェリカも全身をこわばらせているようだった。だが、ジークには掛ける言葉など見つからないし、そんな余裕すらなかった。

「いくぞ、力を抜け」

「だめぇええぇっ!!!」

 悲鳴のような絶叫を上げながら、アンジェリカは扉を乱暴に開いて、訓練場の中に飛び込んだ。扉に寄りかかっていたジークは、いきなりのことでバランスを崩して中に倒れ込む。

「二人ともやめて! どうしてこんな……え? あれ??」

 アンジェリカは困惑の声を漏らす。それにつられ、ジークもおそるおそる顔を上げる。

 そこにあった光景は、脳内で再生された映像とは似ても似つかないものだった。

 ラウルは上衣を脱いでいたものの、シャツとズボンは身につけている。レイチェルもまた服を着たまま、ラウルの上衣がひかれた床の上で正座をし、祈るように両手を組み合わせていた。その額にはラウルの右手が当てられている。

「……おまえら、何をしている」

「何って……えっと……」

 ラウルが怒りをたぎらせた目を向けると、アンジェリカは顔を火照らせたまま、迫力に気おされたように一歩後ずさった。彼女にしてはめずらしく、しどろもどろになっている。

「魔導力を引き出す訓練をしていたのよ」

 レイチェルは正座したままそう言い、小さく笑って肩をすくめた。その笑顔は、申し訳なさそうにも、困惑しているようにも、どこか寂しそうにも見える。ジークは耳元を赤らめたまま立ち上がり、レイチェルでなく、ラウルに向かって勢いよく噛みつく。

「紛らわしいんだよ!!」

「勝手に聞き耳を立て、勝手に誤解をしておきながら、随分な言い草だな」

 ラウルは迫力のある低い声でそう言い、ゆっくり腕を組むと、ジークたちを凍りつくような眼差しで睨み下ろした。二人は顔をこわばらせて身をすくませる。

「ごめんなさい、私、ちょっと心配だったの……」

 アンジェリカはしおらしく言って、しゅんとうなだれた。ちょっとどころじゃなかったけど、とジークは思ったが、あえてこの場を掻き回すようなことは口にしない。

 ラウルはじっと二人を見下ろしていたが、やがて小さく溜息を落とした。

「私は一家庭教師としてここへ来ている。それ以上でも以下でもない。レイチェルがそう望むからだ。アンジェリカ、おまえが心配するようなことは一切ないし、今後もないと誓う。おまえが不快に思うなら、訓練後のお茶はやめてもいい」

 ジークがちらりとレイチェルを窺うと、彼女は微笑を湛えたまま頷いて見せた。何の迷いもなく頷けるのは、ラウルの言ったことが事実であり、そして何よりアンジェリカを大切に思っているからだろう。ラウルの言葉が嘘になることはない——彼女を見ていると、そう信じていいような気がした。

 アンジェリカは胸元に手を当てて口を引き結び、そしてゆっくりと顔を上げた。

「ごめんなさい、私、ラウルのことを信じるわ。だからお茶は飲んでいって。お父さんがタダ働きさせているみたいだし、お母さんとのお茶がせめてもの報酬ってことで……でも、お茶までにしてね?」

 そう言って悪戯っぽく小首を傾げる。

 ラウルは面食らったように目を大きくし、それから深く溜息をついた。

「おまえ……サイファと言うことが同じだな。呆れるくらいよく似た親子だ」

 今後はアンジェリカがきょとんとした。が、すぐに満面の笑みを浮かべると、肩にかかる黒髪をさらりと揺らし、屈託なく力いっぱい頷いた。

「二人とも仕事をサボって来たんだろう。早く戻れ」

「おまえには関係ねぇだろ!」

 ラウルに命令されると、ジークは無条件に反発したくなる。だが、もう休憩時間は終わっており、本当に早く戻らないと大変なことになるかもしれない。慌ててアンジェリカの手を引き、訓練場をあとにしようとする。が、扉に手を掛けたところで、ふいにその手を止めた。

「俺は二人を信じることにする。けど、もしアンジェリカを傷つけるような真似をしたら、そのときは絶対に許さないから」

 たいした力を持たないジークが言ったところで、あまり意味はないかもしれないが、それでも釘を刺しておかないと気が済まなかった。呆気にとられたアンジェリカの手を握り直すと、返事も待たず、わざと乱暴に扉を開いて階段を駆け上っていく。その途中で、彼女はくすっと小さく笑い、そっと力をこめてジークの手を握り返した。

 地上からは、二人を導くかのように眩い光が射し込んでいた。

「ジークとアンジェリカが押しかけて来たんだって?」

 サイファはノックもせず医務室に入って来ると、おかしそうにそう言って、くくくと笑いながらパイプベッドに腰を下ろして両手をついた。清潔な白いシーツに大きく皺が走る。

「一家庭教師として、って随分格好いいじゃないか」

 サイファの笑いはまだ止まらない。レイチェルが言ったのか、アンジェリカが言ったのかはわからないが、先日の出来事をすべて知っているようだ。背を向けたまま無視を決め込んでいたラウルも、さすがに耐えきれなくなり、肩越しに刺すような鋭い眼差しで睨みつけた。

「文句があるなら言え」

「感謝しているんだよ、アンジェリカを安心させてくれて」

 サイファは肩をすくめて両の手のひらを上に向けた。その態度や表情を見ると、真面目に答えているのではなく、茶化しているようにしか思えない。もっと言えば、嫌味なのかもしれない。ラウルは机に向き直って深くうつむき、低い声で言う。

「言ったことに何も嘘はない」

「ああ、言ったことにはね」

「……非難しているのか?」

「まさか、今さら」

 サイファは軽くそう答えると、ベッドから立ち上がった。カツカツと靴音を打ち鳴らしながら、奥へ歩いて行き、薄クリーム色のカーテンとガラス窓を大きく開け放つ。瞬間、目映い光が大きく広がり、昼下がりのあたたかい風が滑り込んできた。長くはない金髪がそよいで、キラキラと鮮やかな煌めきを放つ。

「ずっと、レイチェルに恋い焦がれていればいいさ」

 彼は両手を窓枠に掛け、澄み渡った青空を仰ぎ見ながら言う。

「そうすれば、いつまでもおまえを苦しめることができる。それに……」

 そこで言葉が途切れた。

 サイファはゆっくりと半開きの口を閉じる。ラウルも聞き出そうとはしなかった。聞かずとも、サイファが何を言おうとして、なぜ言わなかったのか、そのくらいのことはわかった。

 

 柔らかな光が大きく揺らぐ。

 二人の間には、風をはらんではためくカーテンの音だけが流れていた。

▼本編は「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。

http://celest.serio.jp/celest/novel_kakato.html


 
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