No.210470

刻限 -1

自殺や事故死などを見届ける主人公が、様々な、死というものに直面した人達に出会っていく話です。

2011-04-07 20:41:13 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:337   閲覧ユーザー数:302

 例えばトマトを地面へと落とすとする。

 

 ある程度の高さまでだったら、トマトは潰れないでそのままの形を維持するだろうが、人の背の

高さから落とすならば、トマトは潰れてしまうだろう。

 

 赤い色の液体が飛散し、中身の果肉も無残に押しつぶされる。液体と共に飛散した小さな種

が、無残な有様をより醸し出す。

 

 トマトは柔らかいから人の背の高さほどでも簡単に潰れる。正確に言えば、それだけの高さの

重力加速度と、地面の硬さでさえ押しつぶされてしまうのだ。

 

 だが、もし今、私が見ているようにデパートの屋上、13階建ての建物の屋上からトマトを落とし

たならばどうなるだろうか。より赤色の液体は飛散し、トマトは跡かたも無い、ただの地面の染み

になり変わってしまうだろう。

 

 それは人間の体であっても同じ事だ。トマトに比べれば人間の体はもっと丈夫かもしれないが、

13階建ての建物の屋上から落ちれば、同じようなものとなる。

 

 そして結果は凄惨たる有様になるだろう。

 

 よく飛び降り自殺が綺麗な描かれ方をされる。せいぜい、打撲程度で死亡しているような死体

が地面に横たわっていて、描かれても血が流れている程度の姿だ。

 

 実際はそのようなものでは済まされない。血は激しく飛散し、人間も潰れたトマトのようになる。

そして、時には死体を処理しなければならない人間が、へらのようなものを使って、アスファルト

の地面から、残骸になった死体をひっぺがさなければならない程になる事もある。

 

 悲惨さで言ったら、電車の飛び込み自殺とあまり変わらないかもしれない。しかもこのデパート

の周りには随分と多くの人々が行きかっている。

 

 もし、今、私が目の前にしている彼が、誤ったタイミングで飛び下りれば、彼自身が凶器となっ

て、下にいる人物へと襲いかかってしまう。それだけは避けたかった。

 

「俺は、この世の中の屑だ。これ以上生きていても仕方が無い。会社でも空気扱いだし、今まで

生きていて良かったなんて思った事は、何もないんだ」

 

 そのように私に言って来る彼は、すでにデパートの屋上に設けられた、柵の向こう側にいる。一

歩でも足を踏み出せば、そのまま彼は地面へと落下していってしまうだろう。

 

 そして、凄惨たる有様ができ上がる。悲鳴が聞こえ、少し遅れて、もう何の意味も無いかもしれ

ないが救急車がやってくるのだ。

 

「中学1年の時は、数学のテストでも90点以上が取れたんだ。だがそれがどうした?6年後の高

校3年になれば、大学入試で5点も取れないじゃあないか?結局、俺は何をやらせても駄目なん

だ?おい、見てみろよ」

 

 そのように大声で彼は言いながら、デパートの屋上から見える街並みを指し示した。私は言わ

れるがままに、彼とは違って、柵の後ろ側から街の風景を眺めた。

 

「排気ガスで、灰色になっちまってやがる。そう言えば、小学生の時に書いた絵じゃあ、空は青で

塗るのが当たり前だ。下手な人間の顔も皆ニコニコしていやがる。だが、今、俺はそんな絵を見

ると虫唾が走るんだ。

 

 空は灰色だし、満員電車の中じゃあ暗い顔をしている奴しかいない。こんな世の中が何だって

んだ。どうせ、今、くたばっても、年金をもらえる歳になってくたばっても同じだ!」

 

 彼の言葉はもはや、ただの罵声に成り変わっている。だがわざわざ私がここにいて、彼の言葉

を聞いているのには理由があった。

 

「それでいいのか?君の最後の言葉は、そんな言葉でいいのか?」

 

 私は口を開いて尋ねた。感情に任せ、騒ぎ立てている彼とは違って、あくまで感情を篭めない

声で尋ねる。

 

「遺書なら書いたぜ。どうせ、ろくに書く事も無い。相続財産なんてやつは、昨日、酒で全部すった

分でおしまいさ」

 

 自暴自棄になってしまっている彼を見つめる私。遺書なら確かに預かった。デパートの屋上か

ら風で飛ばされてしまったりしないように、しっかりと持っていてあげる事にしよう。

 

「よろしく言って貰う相手もいない。どうせ俺は孤独な駄目人間なんだ。だが、こんな風に話せた

のはお前が初めてだ」

 

 その後、礼でも言ってくれるのかと思ったが、どうやら気が立っているらしい彼は、再び向き直っ

てしまった。そろそろ準備ができたのだろうか。だが、そこで私はある事に気がついた。

 

「普通、飛び降りる前は靴を脱ぐ。それで警察は自殺か他殺かを判断する事もある」

 

 彼は靴を履いたままだった。履きつぶした革靴だったが、靴は靴だ。

 

「ああ、分かっている」

 

 そう言いながら彼は靴を脱ぐと、それを玄関先に並べていくように並べた。

 

「あと、人が下にいない事を確認するようにして欲しい。何年か前なんだが、飛び降り自殺で巻き

添えにしてしまった事があって、その時は、被害者に両親が謝罪してもしたりないくらいの謝罪を

した事があった。

 

 あなたも、死んでから両親には迷惑をかけたくはないだろう?」

 

「そんなに、説教臭く言われなくても分かっている」

 

 彼はそう言いつつ、自分自身を何とかリラックスさせようとしているかのようだった。そしてデパ

ートの屋上から下を見つめる。

 

 相当な高さだ。ニューヨークのエンパイアステートビルから飛び降りるという皮肉な言葉もある

が、その高さに比べればずっと低い。しかしながら、それでも13階の高さと言うものは相当に高

いものに感じられるはずだ。

 

 私もその柵を乗り越え、向こう側に出ようとしたが、さすがにこの高さでは躊躇ってしまった。

 

「でも、最後にあんたに会えて良かった。言いたい事を言えてすっきりしたよ」

 

 彼はそのように言った。そして何かを成し遂げたかのような満足げな表情を私へと向けてくる。

 

 私は知っている。それが何のサインであるかという事を。それは最後の挨拶のようなものだ。今

までに何度も見てきた。

 

 そして彼は飛び降りた。あたかも自分が鳥か何かであるかのような姿勢を取り、飛び降りていっ

た。しかし彼は鳥ではない。ただの人間に過ぎない。特別な存在でもない。ありふれた存在だ。

 

 ただ、もう少し考える事はできなかったのか。会社での扱いも、学生時代の成績も全ては過去

のもの。これからは変わる事もできたかもしれないのに。

 

 いやな音が聞こえた。私が何度も聞いてきた音だが、とりあえず、その音が聞こえたと言う事

は、彼の最後の行いは成功したという事だ。

 

 悲鳴が聞こえてくる。デパートの下で起こっている有様は見たくはなかったが、見ざるを得ない。

彼の最後の行いが周囲を巻き添えにしていないか、確認する必要があった。

 

 彼の体は誰にも接触せずに落下をした。人通りも少ない時間で、何とか彼は無事に最後の行

いを成し遂げた。その最後のあり様は周囲の人々に目撃される事になったが、とりあえず、誰か

を巻き添えにはしていない。

 

 彼の最後の行いが、一生目に焼き付いて離れないという者もいるだろう。だが私は何度も目撃

してきた。だから確認だけすれば十分だ。

 

 私は手にしていた彼の遺書を、丁寧に並べられている靴の下へと差し込んだ。これで警察は彼

の行いを自殺と判断するだろうし、彼の書き残した大切な最後の文書が、どこかに飛ばされずに

済む。

 

 その最後の彼の儀式を見届けた私は、その場を後にした。

 

 少し急がなければならない。今日起きる自殺は一件だけではないのだ。

 その自殺の方法は私としても推奨したくはないものだった。しかしながら、どういうわけか、会社

に行く事が苦痛になってしまったサラリーマンや、将来の自分を見出せないという学生などは、通

勤、通学時間帯に、よく電車に飛び込む。

 

 電車とは立派な乗り物であり、一度に大勢の人間を運ぶ事ができる現代生活には欠かせない

乗り物だ。しかしながら、それは同時に強大な凶器でもあり、自殺に使うにしてもほぼ確実に轢死

という方法を取れる。

 

 私が見てきた人々は、その轢死を実現させた者達ばかりだ。いかに人間の体が脆いものであ

り、いともたやすく粉砕できるものであるかという事を思い知らされる。

 

 現代技術を発展させる事ができ、どんな動物よりも高い知性を持つ生き物でさえ、電車一台の

前では容赦なく粉砕されるのだ。

 

 さて、今日の彼は、駅のホームに立ちつくしており、どうやら戸惑っているようだった。

 

 丁度、通勤ラッシュの時間帯であり、大都市の駅のホームには人々が溢れている。

 

 自殺で無くても、ホームからはみ出し、線路に人が落ちてしまいそうなほど混雑している。電車

が来るたびに、駅のアナウンスは声高らかに流れる。

 

「電車が到着しております。黄色い線の内側までお下がりください!黄色い線の内側までお下が

りください!」

 

 ホームは人であふれ返っている。さっきの彼が言っていた通りに、現実にいる人々と言うものは

暗い顔をしているものだ。何しろ、あれだけ混雑している電車に押し込められ、しかもこれから会

社に行き、仕事をしなければならないのだから無理もない。

 

 私はその人の流れをできるだけ避けながら、ホームの端の方にいる彼の方へと歩いていった。

 

 彼も、通勤客と同じように暗い顔をしていた。通勤かばんを持ったまま立ちすくみ、じっと線路の

方を向いている。

 

 今にもその方向に向かって、糸にでも引かれるかのようにして、列車に飛び込みかねないだろ

う。

 

 彼は、電車による轢死というものがどういうものか知っているのだろうか。多分、今までに目の

当たりにした事が無いから、その死に方を選ぼうとしているのだろう。

 

 死に方の中でもとりわけ悲惨であるとされているし、多くの人に迷惑をかける死に方だ。私もそ

の死に方を推奨しない。

 

 人間の生死というものから比べれば、それは些細なことかもしれないが、電車は運休する。そし

て、数万人の人々の通勤が遅れ、場合によっては会社や学校を休まなければならない事態にも

なる。

 

 だが、現代ではその事後処理はより効率化され、一つの作業であるかのように後始末がされ、

ものの十数分程度で全てが片付くようになった。何しろ鉄道会社はそのためにアルバイトを雇う

ほどである。実に効率的だ。電車も数時間後には元通りのダイヤに戻る。

 

 だからと言って、決してその死に方が多くの人に影響を与えないわけではない。轢死を目の当

たりにした人々は、一生忘れられない思いをするだろう。場合によっては、電車にひかれた人間

の残骸が、ホームにまで飛んでくる事もあり、それに当たればもちろん怪我を負う。

 

 残骸の後始末をする人間もいる。彼らは望んでその仕事をしているとはいえ、やはり良い思い

はさせないだろう。

 

 私も轢死を初めて目の当たりにした時は、さすがにその日はものを食べる気分にはなれなかっ

た。

 

 だが私は、彼を止めるためにここにやって来たのではない。

 

 忠告をしに来ただけだ。そうしなければ、今の彼の死に方では大勢を巻き添えにする危険性が

あった。

 

 彼は駅のホームの端にいる。そして、電車に飛び込もうとしていた。電車がホームに入線した

時に飛び込めば、彼の肉体は粉砕され、彼自身は即死する事になるだろう。

 

 しかし私は知っている。そんな彼の行いがどれだけ大勢に被害を与えるかと言う事を。

 

 暗い顔をした彼はじっと線路を見つめていた。平行に引かれている線路が何かを誘っているよ

うに感じているのか。

 

 だが、私が近づいていくと、彼は何かを悟ったかのように私の方を向いてきた。

 

「君が、そうなのか」

 

 年の頃は、40代から50代といったところだろうか。しかしかなり老けた顔をしているようにも見

えた。彼の実年齢はもっと若いかもしれない。

 

「ああ、その通り」

 

 私はそのように彼に向かって言った。なるべく刺激を与えないようにと気をつけながら話を切り

出す。

 

「という事は、これは成功するんだな?次の電車が来た時、おれは飛び込んで死ぬ。そう考えて

いいんだな?」

 

 彼はそのように言って来た。次の電車が来るのは、運行頻度の高いラッシュ時間帯だから数分

もない。彼が飛びこむ事ができる機会は幾らでもある。

 

 だが私は彼のそんな行いを止めようとした。

 

「次の電車にこの位置から飛び込む事は勧められない。あなたが飛びこむことによって、大勢が

目の当たりにする。そして電車が粉砕したあなたの破片が、反対側のホームにまで飛んでいき、

向こうにいる若い女性を直撃する。体の中でも硬い骨の部分だ。女性は後遺症を患うし、被害は

それだけでは留まらない」

 

 私は自分の中で何度も繰り返してきた説明を彼にした。すると、彼は戸惑ったかのような表情

を私へと向けてくる。

 

「じゃあ、どうすればいい?止めるのをやめろと言いたいのか?君達にだって分からないんだ

ろ?おれが今までどんな思いをして暮らしてきたのかという事なんて、君達にだって分かりやしな

い」

 

 そのように彼は言ってくるが、

 

「いいや、私は止めに来たんじゃあない。あなたを適切な方法で導くために来たに過ぎない。もし

電車に飛び込みたいのならば、もっといい方法がある」

 

 私は駅のホームで茫然と立ち尽くしていた彼にそのように言い、計画していた通りに誘導した。

 

 通勤客で溢れそうなホームを私達は歩いていく。彼を先に行かせ、私は後ろからついていく。

 

「皆、なのか?皆が君を見るのか?」

 

 駅のホームの喧騒の中を、彼を先に行かせて私達は進んでいく。

 

「いいえ、あなたはたまたま私を見ただけだ」

 

 私はそのように答えた。そう質問される事も珍しくはない。

 

 やがて、ホームの反対側にやってくる私達。そこは電車が発車していく側であり、駅の先には、

ずっと延びているという線路と、空き地が広がっている。

 

 私はその位置までやってくると、彼の肩へと手を乗せて言った。

 

「この位置から飛び込めば、次の通過電車でいく事ができる。あなたの体が跳ね飛ばされていく

のは、ホームの向こうの空き地だけだし、誰にも怪我はさせないで済む。もちろん、今日の電車

は大幅に遅延する事になるが」

 

 私がそのように説明すると、彼は戸惑っているようだった。だが、少しの時間が経てば彼も納得

したようだった。

 

「分かったよ、そうする」

 

 納得させる事ができれば問題ない。自殺をしようとしている人間は大抵、冷静でいられない事

が多いが、それを落ち着かせるのも私の役目だった。

 

 彼の飛び込みは、飛び込みと言う行為自体は私は推奨していないが、完璧だった。通過電車

の速度は時速80kmほどは出ていたし、彼自身もほとんど痛みを感じる事は無かっただろう。

 

 彼を轢き去った後、列車はブレーキをかけ、ホームから幾分か頭を突き出した所で停車した。

 

 周囲にどよめき、騒ぎは広がったが、被害は電車が遅れた程度だ。彼が飛び込んだ地点の線

路には、彼の残骸が残されていて、それを処理する者達は必要になるが、被害を最小限へと抑

える事ができた。

 

「また飛び込みだよ。もう勘弁してくれよ」

 

 そのように聞こえてくるのは、駅にいる乗客の他人事であるかのような言葉だった。私はその声

を後ろに聞きつつ、その場を後にした。

 その自殺の方法は私としても推奨したくはないものだった。しかしながら、どういうわけか、会社

に行く事が苦痛になってしまったサラリーマンや、将来の自分を見出せないという学生などは、通

勤、通学時間帯に、よく電車に飛び込む。

 

 電車とは立派な乗り物であり、一度に大勢の人間を運ぶ事ができる現代生活には欠かせない

乗り物だ。しかしながら、それは同時に強大な凶器でもあり、自殺に使うにしてもほぼ確実に轢死

という方法を取れる。

 

 私が見てきた人々は、その轢死を実現させた者達ばかりだ。いかに人間の体が脆いものであ

り、いともたやすく粉砕できるものであるかという事を思い知らされる。

 

 現代技術を発展させる事ができ、どんな動物よりも高い知性を持つ生き物でさえ、電車一台の

前では容赦なく粉砕されるのだ。

 

 さて、今日の彼は、駅のホームに立ちつくしており、どうやら戸惑っているようだった。

 

 丁度、通勤ラッシュの時間帯であり、大都市の駅のホームには人々が溢れている。

 

 自殺で無くても、ホームからはみ出し、線路に人が落ちてしまいそうなほど混雑している。電車

が来るたびに、駅のアナウンスは声高らかに流れる。

 

「電車が到着しております。黄色い線の内側までお下がりください!黄色い線の内側までお下が

りください!」

 

 ホームは人であふれ返っている。さっきの彼が言っていた通りに、現実にいる人々と言うものは

暗い顔をしているものだ。何しろ、あれだけ混雑している電車に押し込められ、しかもこれから会

社に行き、仕事をしなければならないのだから無理もない。

 

 私はその人の流れをできるだけ避けながら、ホームの端の方にいる彼の方へと歩いていった。

 

 彼も、通勤客と同じように暗い顔をしていた。通勤かばんを持ったまま立ちすくみ、じっと線路の

方を向いている。

 

 今にもその方向に向かって、糸にでも引かれるかのようにして、列車に飛び込みかねないだろ

う。

 

 彼は、電車による轢死というものがどういうものか知っているのだろうか。多分、今までに目の

当たりにした事が無いから、その死に方を選ぼうとしているのだろう。

 

 死に方の中でもとりわけ悲惨であるとされているし、多くの人に迷惑をかける死に方だ。私もそ

の死に方を推奨しない。

 

 人間の生死というものから比べれば、それは些細なことかもしれないが、電車は運休する。そし

て、数万人の人々の通勤が遅れ、場合によっては会社や学校を休まなければならない事態にも

なる。

 

 だが、現代ではその事後処理はより効率化され、一つの作業であるかのように後始末がされ、

ものの十数分程度で全てが片付くようになった。何しろ鉄道会社はそのためにアルバイトを雇う

ほどである。実に効率的だ。電車も数時間後には元通りのダイヤに戻る。

 

 だからと言って、決してその死に方が多くの人に影響を与えないわけではない。轢死を目の当

たりにした人々は、一生忘れられない思いをするだろう。場合によっては、電車にひかれた人間

の残骸が、ホームにまで飛んでくる事もあり、それに当たればもちろん怪我を負う。

 

 残骸の後始末をする人間もいる。彼らは望んでその仕事をしているとはいえ、やはり良い思い

はさせないだろう。

 

 私も轢死を初めて目の当たりにした時は、さすがにその日はものを食べる気分にはなれなかっ

た。

 

 だが私は、彼を止めるためにここにやって来たのではない。

 

 忠告をしに来ただけだ。そうしなければ、今の彼の死に方では大勢を巻き添えにする危険性が

あった。

 

 彼は駅のホームの端にいる。そして、電車に飛び込もうとしていた。電車がホームに入線した

時に飛び込めば、彼の肉体は粉砕され、彼自身は即死する事になるだろう。

 

 しかし私は知っている。そんな彼の行いがどれだけ大勢に被害を与えるかと言う事を。

 

 暗い顔をした彼はじっと線路を見つめていた。平行に引かれている線路が何かを誘っているよ

うに感じているのか。

 

 だが、私が近づいていくと、彼は何かを悟ったかのように私の方を向いてきた。

 

「君が、そうなのか」

 

 年の頃は、40代から50代といったところだろうか。しかしかなり老けた顔をしているようにも見

えた。彼の実年齢はもっと若いかもしれない。

 

「ああ、その通り」

 

 私はそのように彼に向かって言った。なるべく刺激を与えないようにと気をつけながら話を切り

出す。

 

「という事は、これは成功するんだな?次の電車が来た時、おれは飛び込んで死ぬ。そう考えて

いいんだな?」

 

 彼はそのように言って来た。次の電車が来るのは、運行頻度の高いラッシュ時間帯だから数分

もない。彼が飛びこむ事ができる機会は幾らでもある。

 

 だが私は彼のそんな行いを止めようとした。

 

「次の電車にこの位置から飛び込む事は勧められない。あなたが飛びこむことによって、大勢が

目の当たりにする。そして電車が粉砕したあなたの破片が、反対側のホームにまで飛んでいき、

向こうにいる若い女性を直撃する。体の中でも硬い骨の部分だ。女性は後遺症を患うし、被害は

それだけでは留まらない」

 

 私は自分の中で何度も繰り返してきた説明を彼にした。すると、彼は戸惑ったかのような表情

を私へと向けてくる。

 

「じゃあ、どうすればいい?止めるのをやめろと言いたいのか?君達にだって分からないんだ

ろ?おれが今までどんな思いをして暮らしてきたのかという事なんて、君達にだって分かりやしな

い」

 

 そのように彼は言ってくるが、

 

「いいや、私は止めに来たんじゃあない。あなたを適切な方法で導くために来たに過ぎない。もし

電車に飛び込みたいのならば、もっといい方法がある」

 

 私は駅のホームで茫然と立ち尽くしていた彼にそのように言い、計画していた通りに誘導した。

 

 通勤客で溢れそうなホームを私達は歩いていく。彼を先に行かせ、私は後ろからついていく。

 

「皆、なのか?皆が君を見るのか?」

 

 駅のホームの喧騒の中を、彼を先に行かせて私達は進んでいく。

 

「いいえ、あなたはたまたま私を見ただけだ」

 

 私はそのように答えた。そう質問される事も珍しくはない。

 

 やがて、ホームの反対側にやってくる私達。そこは電車が発車していく側であり、駅の先には、

ずっと延びているという線路と、空き地が広がっている。

 

 私はその位置までやってくると、彼の肩へと手を乗せて言った。

 

「この位置から飛び込めば、次の通過電車でいく事ができる。あなたの体が跳ね飛ばされていく

のは、ホームの向こうの空き地だけだし、誰にも怪我はさせないで済む。もちろん、今日の電車

は大幅に遅延する事になるが」

 

 私がそのように説明すると、彼は戸惑っているようだった。だが、少しの時間が経てば彼も納得

したようだった。

 

「分かったよ、そうする」

 

 納得させる事ができれば問題ない。自殺をしようとしている人間は大抵、冷静でいられない事

が多いが、それを落ち着かせるのも私の役目だった。

 

 彼の飛び込みは、飛び込みと言う行為自体は私は推奨していないが、完璧だった。通過電車

の速度は時速80kmほどは出ていたし、彼自身もほとんど痛みを感じる事は無かっただろう。

 

 彼を轢き去った後、列車はブレーキをかけ、ホームから幾分か頭を突き出した所で停車した。

 

 周囲にどよめき、騒ぎは広がったが、被害は電車が遅れた程度だ。彼が飛び込んだ地点の線

路には、彼の残骸が残されていて、それを処理する者達は必要になるが、被害を最小限へと抑

える事ができた。

 

「また飛び込みだよ。もう勘弁してくれよ」

 

 そのように聞こえてくるのは、駅にいる乗客の他人事であるかのような言葉だった。私はその声

を後ろに聞きつつ、その場を後にした。

 私は電車を幾つか乗り継いで、目的の場所まで向かっていた。まだ夕方の通勤ラッシュの時間

にはなっていない。だから黒いスーツを着た僕は、電車の中でゆっくりとする事が出来た。

 

 そう言えば、今日飛び込みをしたあの彼のお陰で、一つの路線のダイヤがまだ乱れているらし

い。そのルートは避けて行く必要があるようだった。日頃からこの街そのものを仕事場としている

ようなものだ。代替となる路線くらいはすぐに分かった。

 

 その移動の間、自殺の担当と私が上司に言われた事を、自分で思い出していた。

 

 それは不適切な言葉かもしれない。中にはそう呼ばれる事に嫌悪感を抱く人間もいるかもしれ

ない。しかしながら、僕がこの社会の中で果たしている役目を答えるのならば、それ以上に適切

な言葉は無かった。

 

 今日、すでに私は二人の自殺を見取っている。更に彼らと私はその自殺の決行の直前の数分

前に交流を持った。そして三人目もそう遠くない時期に見る事になるだろう。

 

 書類に書かれた、午後4時13分はそう遠くない時間だ。この時間にこの書類に身元が書かれ

ている人物が自殺を果たす。

 

 私はそれを成功させ、可能な限り綺麗な形で終結させてやる必要があるのだ。それが私の役

目だ。

 

 私がこの仕事をし出してからは、実はそれほど時間は経っていない。まだ2年程度しか働いてい

ないのは、同業者からしてみれば、かなり経験も浅い方なのだという。

 

 そういう事もあって、私がこれから出会おうとしている12歳の少年と出会うのは抵抗があった。

 

 だがこれも仕事だし、彼は僕を待っている。行ってあげなければならない。

 

 

 

 

 

 その少年は、私を確かに待っていたようだった。彼の住む団地のマンションまでやってきて、玄

関の覗き穴に顔を見せた時、彼は私を自分の家の中へと招き入れてくれた。

 

「やあ、待っていたよ。本当に、あなた達みたいな人が来るんだね」

 

 私は彼にそのように言われるのだった。しかし私は戸惑う。彼がこれから行おうとしている事を

考えてしまうし、そもそも子供もいない私は12歳の少年の扱い方などを知らない。

 

 しかし少年は私を先導していく。まるで遊園地の中で次々と遊具を遊んでいく子供であるかのよ

うだった。

 

 案の定、少年はその行為をすでに用意していた。

 

 丈夫な縄の輪が用意してある。それはマンションの一室の壁に縛り付けてあり、天井まで延び、

輪の部分が垂れ下がっている。そして輪の下にはすでに台が用意されていた。誰かが首に縄を

かけ、台から飛び下りれば、立派な首つり自殺が成り立つ。

 

「僕は一人でこれを用意したんだ。お母さん達が出かけてからね」

 

 12歳の少年が用意したにしては、立派な絞首刑台がそこにある。マンションの一室にあるそれ

は、日常的な風景も併せて、とても不気味にさえ映る。

 

「何故、このような事を?」

 

 私は少年の背後からそのように尋ねた。

 

 私が与えられる一枚の書類には、確かにいつ、どこで誰が自殺をするかが書いてある。だがそ

れだけであって、彼らの動機は書かれていない。

 

 私を前にすると、大抵の相手は自分が自殺する動機を明かしてくれる。明かしてくれない頑固

者は少ない。自分の心の中にとどめたまま永遠に口を閉じてしまうのは、自殺を覚悟していても

できない事だ。

 

 だが、私の方から少年に尋ねたのは珍しい事だった。私は本来ならば、彼らの自殺に干渉して

はならない。その行為を終えるまで見届けなければならないのだから。

 

 少年はきょとんとしたように私の方を向いてきた。私がその動機を知っているとでも思っている

のだろうか。

 

「まず、首つりという選択肢は正しい。私としては練炭自殺も良いかもしれないが、あれは失敗し

て生き残ってしまう可能性もあるんだ。そうすると体に重い障害が残ってしまう事がある。

 

 首つりは世間で言われているよりずっと楽だろう。私自身は経験は無いが。決断してやってしま

えば、一瞬さ」

 

 まだ年端もいかぬ少年相手に私は何を言っている?確かに首つり自殺は首を絞められて、苦

しんで死ぬよりもずっと楽だ。

 

 それは死因が窒息ではなく、頚椎の骨折だからであって、急所を自分の体重をかけて一撃で折

ってしまう事ができる。だから、見た目ほど苦しく死ぬものではない。

 

 だが、少年がそのような死に方をするのを、私はただ見ている事しかできないのだろうか。

 

「ネットのサイトで知ったんだ。死ぬにはすごく楽な方法だって」

 

 インターネットで知ってしまったのか。私は少し残念に思う。インターネットで自殺の方法を提供

する事など幾らでもできる。だがそれをまだ、分別もつかぬ子供たちが知っていいわけではな

い。

 

 本当に彼は、自殺するだけの理由を持っているのだろうか?

 

 少年は遺書らしきものを、居間のテーブルの上に置き、すでに首つり用の台の上に上がってい

た。そして、首に縄をかける準備を始めている。

 

「少し、待ってくれないか?」

 

 まるで焦っているかのような行動に、私は彼を引きとめる。腕時計をちらりと見るが、まだ予定

の時刻では無い。

 

「君は、何故そのような事をする?」

 

 そう言った後に言葉を続けようとしたが、私はこの少年の自殺に対して干渉できない。

 

 少年は少し戸惑っているかのような素ぶりを見せる。しかし私に向かって口を開いてくれた。

 

「僕ね。もう何だか疲れてきちゃったんだ」

 

 その声はとてもいたいけなものだった。大人に聞かせれば、守ってあげたいという衝動に動か

されるだろう。

 

「僕は、学校にもいけない。別に体のどこかが悪いっていうわけじゃあないんだけれども、学校に

いけないし、家でもやる事もないんだ。お父さんとお母さんに迷惑をかけてばかりで、最近じゃ

あ、二人ともお仕事ばっかりで僕の事なんて忘れてしまっているようだよ」

 

 学校に行けない。そう言った理由で自殺をする人間を、私は他にも見て来ていた。今までは大

学生、若くても高校生が多かったが、この少年のような小学生が相手なのは初めてだった。

 

 だから私は彼を止めたくなってしまうのか。今朝起きた2件の自殺、そしてそれ以前の幾つもの

自殺を見てきた私は、何も感じなかったと言うのに。

 

 学校の悩みなど、学校に行かなければいいままにしておけばよい。何も命を断つような事をしな

くてもよい。

 

 私はそう言いそうになってしまった。

 

 しかし私が何も言わないでいるものだから、少年はどんどんその行動を進めていってしまう。首

に縄をかけ、自分の体を吊るそうとしている。

 

 私は少年の前に立つ。そして彼に問いかけた。

 

「君は学校に行けない事の何が辛いんだい?」

 

 そのように尋ねると、どうやら少年は戸惑ってしまったようだった。彼は答えを探し、ようやく私

に向かって答えてくる。

 

「多分、僕は、普通の子たちが普通にできる事が、僕にはできないから、それに耐えられないんじ

ゃあないかな?」

 

 少年はそのように言った。まるで自分で自分に問いかけているかのような答え方だった。

 

 実際、彼自身、自分が辛いという原因が分かっていないのだろう。だからこそ苦しんでいる。答

えが見えないからこそ、彼は苦しんでいるのだ。

 

「でも、実際は僕にも分からない」

 

 少年のその言葉が、夕日が差し込んでくるマンションの一室に大きく響いていた。

 

 それ以上、私はどうしてよいか分からなかった。いや、どうにかする必要があるというのだろう

か?

 

 私の仕事は非常にシンプルなものだ。ただ彼の死に立ち会えばそれで良いのだ。

 

 だが、この気持ちは何であるのか、私には分からなかった。

 

「ありがとう」

 

 少年にそのように言われ、私は顔を上げた。

 

「あなたが最後に来てくれて、僕は嬉しかったよ。今まで、僕の為に来てくれる人なんて、一人も

いなかった」

 

 そのように言い、少年は自分が乗っていた台を蹴り、そのまま自分の身を宙へとさらしてしまっ

た。

 

「あっ、いけない」

 

 私はそのように言いかけたが遅かった。

 

 首つり用のロープはぴんと張り、それに体重がかかった事が分かる。

 

 少年の準備は完璧だった。ロープが切れる事も無かったし、彼はすでに決意を固めていたよう

だった。わたしが助けてやる必要も無かった。

 

 部屋の中にロープが軋む音が響き渡る。とても静かだった。少年は苦しみもせず、静かに事を

成就させた。

 

 私は、幾つもの自殺を見てきた。だが、この少年の静かなる死に、私は目を向ける事ができな

いでいた。

 

 この夕日が差し込んでくるマンションの一室が、急激に蒸し暑く、そして息苦しいものに感じられ

てしまった。

 

 気分が悪くなる。私はその場にいる事もできなくなり、すぐにマンションの一室を出た。

 

 扉の向こうでは、団地の公園で子供たちが遊んでいる声が聞こえる。その声はとても無邪気な

ものだ。

 

 ランドセルをしょって帰宅途中の小学生の姿も見えた。だが、扉一枚を隔てた向こう側では、少

年が一人死んだ。

 

 あまりに異なる世界が、扉一枚で隔てられている。

 

 私はその境界線に立たされ、何とも現実感を失った場へと立たされていた。

 

 私はつい数分前に、少年を止めるべきではなかったのではないか、そのように思ってしまって

いた。

 

 しかし私達の仕事では、それはしてはならない事だった。

 チョコレートが沢山入った自動販売機にコインを入れ、スイッチを押すと、私が欲していたチョコ

レートの一枚が、螺旋形のバーが回転する事によって、受け取り口へと落ちてくる。

 

 ビルのロビーの中に異様に響き渡るチョコレートの落下する音。いつもこの自動販売機には、

チョコレートなどの菓子類があるし、コーヒーを淹れる自動販売機も設置されている。

 

 しかしながら、このロビーに現れる私の同僚はほとんどいなかった。チョコレートはいつも自動

販売機に満タンに入っているし、コーヒーが切れた事もない。誰がこのコーヒーを補充していて、

わざわざチョコレートを満タンにしているのか。あの私の上司はいちいち業者を呼んで、この過疎

地域で、買われるかどうかも分からないチョコレートを満タンにしているのか。

 

 同僚はほとんどこのビルのロビーに来ないようだし、設備は無駄に整っている。

 

 そこまでこのビルを、そして私達を動かしている管理者は金に余裕があるのだろうか。

 

 そんな事を思いつつ、私はいつもそのチョコレートを食べていた。

 

 日はだんだんと沈みかかっている。もう時間は6時を回っていた。私の今日の仕事はすでに終

わっている。

 

 あの少年の自殺を見届けた私は、そのまま報告書を仕上げ、あの上司に提出した。それだけ

だ。

 

 しかし、私の中には、大きな塊のようなものが残っているような気がした。石のような大きさを持

つ何かのもの。それが私の中に確かに残っていた。チョコレートでも食べていなければやってい

られるものではない。

 

 自動販売機にあったチョコレートの甘ったるいカカオの味と、ゼリーが口の中に広がっている

と、私の前に一人の同僚が姿を見せた。

 

「こんにちは、大村君。それともこんばんは?」

 

 同僚の女性はそのように言って来た。狭山さんは、私と年も近い女性の同僚だった。しかしな

がら、彼女の方が私よりも前から仕事をしているようだから、同僚と言うのは不適切なものかもし

れない。

 

「じゃあ、こんばんはで」

 

 そう言いながら、私は更にチョコレートを口に運んだ。

 

 狭山さんは私と向かいのソファーに座った。ロビーは異様に広く、二人だけいると、ぽつんと大

海原に取り残されたような気がする。声も異様に響き、こんなに広い空間を自分達だけで利用し

て良いのかと思わされてしまう。

 

「暗い顔しているね」

 

 そのように私の顔を見た狭山さんは言ってくる。私は自分の顔を見ていなかったが、大体どん

な顔をしているのかは想像がつく。

 

「ああ、暗い顔をしているだろうね」

 

 私は答える。その答え方は、とてもそっけないものに聞こえてしまっただろう。

 

「それは今日の仕事が原因なの?」

 

 そう言ってくる狭山さんは、手に書類を持っていた。これからあの上司にその報告書を提出しに

行くのだろうか?

 

「そうかもしれない」

 

 私はそれだけ言うと、半分だけ食べかけたチョコレートが、それ以上進まなくなってしまった。

 

「あなたの担当は、都内の自殺担当でしょう?随分と酷いものも見てきたと思うけれども、今日の

は格別だったの?」

 

 狭山さんが促してきた。今日のは格別だった、という表現は不適切かもしれない。首つり自殺な

んて幾らでも見てきたし、もっと酷い死に方も見取って来た事がある。だが、今日の相手は、まだ

年端もいかぬ少年だったのだ。

 

 私は彼の自殺を止めずに見取り、そして無機質な紙に報告書を印刷して、上司に提出する事し

かできなかった。普通の会社員がやる仕事と同じだ。それはとても機械的な作業でしかないが、

私自身は機械ではない。しっかりと感情を持っている。

 

 狭山さんは私の感情が理解できるだろうか。

 

「今日、私が担当した自殺は、少年の自殺だった。彼は、学校に行けなくなった自分自身に耐え

られなくなって、死を選んだ。少年の割には完璧な自殺の方法だったよ。インターネットでその方

法を知ったと言っていたな」

 

 そのように言いつつ、私はチョコレートを再び口に運んだが、甘ったるい味も何もしなかった。

 

「その子、それですっきりできたのかしら」

 

 狭山さんがそのように言った。

 

「さあ、分からなかったが、彼は自殺する前からすでに、全てを悟ったかのような表情をしていた

よ。自殺もとてもスムーズだった。ためらいもせず、とても楽にいけたと思う」

 

「それで、大村君は、そんな、いたいけな子の最後を見取ったことで、気分が悪くなっちゃったの

ね」

 

 確かにその通り、狭山さんの言っている通りだ。私は子供の死を見てしまった事によって、そこ

にこの世の最も恐ろしい面を見てしまった様な気がする。

 

 しかしそれは私自身も覚悟をしていたはずの事なのだ。

 

「この仕事につく前に、上司は言っていたよ。子供の死を見取るのは、例え他人であっても精神

的な苦痛になると。

 

 だから仕事をし始めた頃は、大人の死ばかり私に回されてきたのかもしれない。だが、ここにな

って、私は初めて、子供の死というものを見てしまった。どんな物事にも、必ず最初と言うものが

ある。そして、最初と言うものが最も辛い。それを痛感したよ」

 

 私はチョコレートを食べ干したが、やはりそこには無味乾燥な味しか無かった。むしろ、歯の間

に挟まるナッツの欠片が邪魔に感じられる。

 

「そうね、確かに辛いわ。ただ、私の担当は自殺じゃあないから。不慮の事故っていうものは、結

構子供にも起こってしまうものでね」

 

 狭山さんはそのように僕に言って来た。彼女の担当を僕は思い出す。

 

「あんなに危なっかしい子供たちでも、そう毎日車に轢かれたりするわけじゃあないけれどもね。

命っていうのは、何とも脆いものよ。

 

 今日なんて、トイレで死んだ人がいたわ。それも男だから、どうしてもその死を見取るのが面倒

でね。知っている?トイレで踏ん張っている時に、頭の血管が破裂して死んじゃう人、年間に百人

くらいいるって事」

 

 意外な事を狭山さんは言ってくるものだと思った。そんな事は当然、僕が知るようなことでは無

かった。

 

「それは知らなかった。じゃあ僕も気をつけなきゃあいけないって事か」

 

 僕はそのように言ったが、

 

「でも、全死者数の1%にも満たないような事だから、気にしなくていい事よ。そんな事だから、よ

っぽど癌とかを気にしていた方がいいかも」

 

 確かに狭山さんの言う通りだ。

 

「癌や、三大成人病の担当者は忙しいって言っていたわ。毎日、結構若い人でも突然死しちゃう

って言っていたし」

 

 そう言いながら、狭山さんは自分が持っていたコーヒーを飲んだ。

 

「だが、そんな死の中でも、自殺と言うものは特別だと思う。病気や事故の死は外からの影響に

よって起こるものだけれども、自殺と言うものは、自発的に死を選ぶわけだから、何というか、そ

の、条件が異なるもののように思える」

 

 僕はそう言って結論付けるのだった。

 

「そうね。自殺は特別なものかもしれない。でも、報告件数の話じゃあ、やっぱり自殺って多いそう

じゃあない。そんなに特別な事が、当たり前のように起こっている。しかも子供に自身で選択する

ように起こっている。

 

 それって一体、どのような事なのかしらね?何かの予兆なのかも」

 

「さあ、どんなものだろうね」

 

 僕は特別には思っていなかった。自殺と言うものは、自分の周りで起こっているだけであって、

自分自身には介入してこないもの。そう思っていた。

 

 それが、今日の少年の自殺で、僕を揺るがそうとしている。あの自殺を見取った以上、自分自

身にとって関係の無い事だとは思えなくなってきている。

 

「まあ、いずれ慣れるんじゃあないの?確かに子供の自殺なんて、聞いただけで重い事かも知れ

ない。私も、子供の不慮の事故を見取っていた時は、結構辛かったかもしれないかな。

 

 だけれども、それは結局のところ、慣れでしょ。わたし達がどうこうしたって、自殺を止める事が

できるわけじゃあないし」

 

 狭山さんはそのように言って来たが、僕はあの時、もしかしたら、少年の自殺を止めていたかも

しれない。

 

 それは間違った事では無いはずだ。

 その日は、上手く眠る事ができない時を過ごした私は、再び仕事のために、殺風景なビルへと

やってくるのだった。

 

 ここでは外界から隔離されたような空間が広がっている。それはおとぎの国でも何でもない。あ

くまで現代的な空間で、とても無機質なものとなっているのだが、外の世界にある雑踏も、何もか

もが、ビルの扉を潜りぬけてくると、全てが遮断されたかのようにされる。

 

 あたかもここは、外の世界とは時間の流れも、空間も閉ざされているかのように思える事だ。

 

 僕はそんなビルをエレベーターで登り、再び上司の前に姿を現した。

 

 いつもと変わらない、上司は書類の整理ばかりしている。しかしそれは無意味な行動の繰り返

しでは無く、非常に重要な意味があるのだ。

 

「今日は早いわね、大村君」

 

 上司は私に対してそのように言って来た。

 

「お早うございます」

 

 私の方はと言うと、そのように答える事しかしない。上司とは無用な関わりを持ちたくは無かっ

た。

 

「早速だけれども、仕事よ。今日、入ったばかりの」

 

 そのように上司は言って、いつもながらの紙を私の元へと差し出してきた。しかしながらその紙

はいつもと色が違う。

 

 私が担当している自殺に関して情報が記載された書類は、いつも黄色い書類に情報が記載さ

れているのだが、渡されたのは緑色の書類だった。

 

「これは?いつもと違うようですが」

 

「そう、いつもと違うの。今回だけ、あなたには別件を扱ってもらうわ」

 

 印刷のし間違えではないし、渡し間違えでもない。上司はその油断のならない視線を私へと向

けて言って来ていた。

 

「別件。これは?」

 

 その書類の紙の色だけで分かる。上司が私に何を担当させたいのかと言う事が。

 

「狭山さんから聞いたわ。あなたは昨日の男の子の自殺を見たおかげで、随分と思い詰めている

ようだと。ショックに感じたのかしら。確か、あなたが担当する子供の事件は初めてだったはずだ

から」

 

 上司は作業を止めて、私の方をじっと見て言ってくる。

 

「ショックだなんて、そこまでは」

 

 私は言いかける。しかし、

 

「ショックに感じる方が普通よ。まあ、狭山さんの話からして、あなたは自分の仕事に疑問を持つ

ようになった。そんな所かしらね」

 

 その上司の言葉に対して、私は口を噤んでしまう。的を射ている。反論するような気にもなれな

い。

 

「そこであなたには、今回は担当外の別件を扱ってもらう事にしたわ」

 

 私は再び書類に目を落とす。この書類に名前が乗ること。それが何を意味しているのかは私も

良く知っている。

 

 しかし緑色の書類の担当にされるのは初めてだ。

 

「それと、私があなたに知らせておかなければならない事があるわ。ちょっと、来てくれるかし

ら?」

 

 彼女はそのように言って、私を部屋の外へと案内した。

 

 

 

 

 

 このビルのエントランスと、ロビーと、上司の部屋以外に私は出入りした事がない。他にオフィス

ルームがあるのかどうか、ステンレスで覆われたエレベーターの中からは知る由も無い。

 

 やがてエレベーターはビルの中層階で止まった。13階。この階で降りた事は無い。

 

 上司は私を連れだって、歩くと音が響く静かな廊下を歩いていく。窓はどこにもない。殺風景過

ぎる廊下と相まって、圧迫感、不気味ささえ感じられる。

 

 扉がいくつかあり、廊下は延々と先まで伸びているような気がしたが、私の上司は、ある一つの

扉を開いた。

 

 扉のドアプレートには年号が書いてあった、それは今年の年号だった。

 

 部屋に入ると、中の照明は灯ったままだった。

 

 何かの倉庫だろうか。金属で出来た無駄の無い棚が数多く並んでおり、部屋は結構広かった。

 

「今年は、まだ全て埋まっていないのよ」

 

 上司はそのように言った。

 

 私はここの棚に何が置かれているのかすぐに分かった。私達が渡される書類、そしてそれを私

達は報告書にして上司に提出する。

 

 その報告書がどこに行っているのか、私は知らなかったが、どうやらここに保管されているよう

だった。

 

 しかし膨大な量である。数万件以上はあるだろうか、本棚は何列にもなっており、書類の色ごと

に分類されている。

 

 上司がやってきたのは、黄色い表紙を持つ報告書が並んだ棚だった。そこに並べられている

棚に、上司は一つの書類を入れこんだ。それは昨日、自殺をしたあの少年の書類だった。

 

 報告書がまた一つ並んだ。しかしすでに棚に並べられている報告書の数も膨大である。

 

 それらは理路整然と整理されており、ここには古い本屋の様な印象は無い。どの報告書の紙も

きれいなままだ。空調設備も稼動し、どこからか低い音が聞こえているが、ここにいるのは報告

書達だけであって、人の姿を見る事は全くなかった。

 

 しかし一体何の為に?何の為にここまで膨大な書類が保管されていなければならないのか。

 

「全ての生命は管理される必要があるわ。特に生まれる子供の情報は管理されなければならな

い」

 

 報告書をしまい終えるなり、上司はそのように言ってくる。

 

「それについて異論はあるかしら?」

 

 彼女は棚の並ぶ部屋で、眼鏡越しに僕を見て尋ねてくる。

 

「いえ、ありませんが」

 

 しかしながら生まれてくる子供の情報の管理は我々の担当では無い。病院や両親がする事だ。

 

「同じように、死も管理される必要がある。生命というものがある以上、それを尊く思い、敬わなけ

ればならない。生と同じように、死もしっかりと管理され、保管されなければならないの。たとえそ

れが自殺であったとしても」

 

 上司のその言葉の通りならば、この棚に並んでいるものは全て死だ。報告書は死を記録したも

のであり、それが棚には無数に並んでいる。

 

 ここには今年の死が収められており、このフロア、いや、ビルには無数の死が丁寧に保管され

ているのだ。

 

「私達はそんな死をきちんと管理していなければならない。そんな必要があるかどうか、あなたは

迷っているかしら?だからこそ、次の仕事を与えたの。きっと、あなたにとって、自分の仕事の大

切さというものが理解できるはずよ」

 

 上司はその言葉を残して、自分だけ部屋から出ていった。

 

 緑色の書類を私は手渡された。日付は今日になっている。

 

 緑色の書類が、どのような死を意味しているのか、それは担当外である私も知っている事だ。

そしてその死は今日やってくる。


 
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