No.210154

浄土で聞いた声(前編)

小市民さん

帝国芸術大学美術学部美術研究科工芸科で工芸基礎を学ぶ藍田(あいだ)遥(はるか)は、卒業後の進路に悩んでいました。遥が横浜市金沢区にある神奈川県立金沢文庫で開催中の特別展「運慶 中世密教と鎌倉幕府」の会場で出会ったのは……皆さん、お久し振りです。小市民久々の新作をお届けします。劇中で語られている金沢文庫での展覧会は今年の1月26日から3月6日まで開催されていました。まあ、この時期の物語ということで……

2011-04-05 20:48:00 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:602   閲覧ユーザー数:585

 小暗い神奈川県立金沢文庫の二階の展示室には、運慶作の仏像の他、像内に納められた納入品や関連する諸記録が展示されている。

 特別展「運慶 中世密教と鎌倉幕府」は、平日の開館間もない時刻であるにも関わらず、多くの拝観者で賑わっていた。

 帝国芸術大学美術学部美術研究科工芸科で工芸基礎を学び、間もなく一年次を修了する藍田(あいだ)遥(はるか)も人垣の合間から、平安末期から鎌倉初期に一門を率いて活躍し、現代の諸分野にも多大な影響を与えている名仏師の作品一つ一つをまぶたに焼き付ける思いで見つめている。

 金沢文庫は、鎌倉時代の建治元年(一二七五)頃、北条実時が居館内に作った最古の武家文庫で、政治、法制、農政、軍事、文学などを広範囲に学び、これらの書物を鎌倉から金沢に移し、基礎としたものだった。

 昭和五年に神奈川県立金沢文庫と称し、図書館として復興され、文化財の保管、研究、調査を進め、昭和三十年に博物館としての運営が始められている。

 ふと、十九歳の男子学生である遥の傍らで、婦人の二人連れが、願成就院蔵の諸尊を解体修理した際に取り出され、重要文化財に指定されている五輪塔形銘札の前で、

「……がんじょういん……変わった名前のお寺ね」

「違うわよ、ねがいじょういんでしょ」

 ひそひそと話しているのを耳にすると、遥は、

「がんじょうじゅいん、です。源頼朝の舅に当たる北条時政が邸を寺院に改めたとき、運慶が所属する奈良仏師とも慶派一門とも呼ばれる造仏集団に仏像の制作を依頼したんです。伊豆登山鉄道の韮山(にらやま)駅の近くに現在も伝わっていますので、機会があれば訪ねてみて下さい」

 簡単に解説すると、婦人の二人連れは若年にも関わらず、学識に優れた遥に目を見張った。遥は他の拝観者の迷惑とならぬよう、それ以上は話さず、すっと立ち去り、今回の展覧会の目玉の一つである奈良・円成寺が所蔵する大日如来座像に見入った。

 この大日如来座像の制作は、運慶の名が史料に記された初例となっているが、その完成度は見事というより他はなく、若き運慶が父・康慶の指導の下、入念に制作されたという記録に遥は頷かされる。高さ九十八.二センチメートルで檜材の寄木造、玉眼を嵌入(かんにゅう)し、漆箔(うるしはく)を施している。

 漆箔とは、原型像の全身に黒漆または赤漆を塗り、金箔を一枚一枚押す技法で、金鍍金の金銅像のような神々しい出来栄えとなる。

 遥の父は、こうした金箔の製造・販売を石川県金沢市で行っており、遥を東京へ出したのも家業を継ぐことを条件としてのことであった。

 しかし、遥はいかに日本の金箔の総生産量九十八パーセントを占める独占的な産地で、江戸時代中期から続く伝統ある家業であろうと、裏日本で人生を送るよりは、例え裸一貫であろうと東京で働きたい、という思いが強くあった。

 同時に、累代が守り継いだ土地と家業を自分の代で変化させることは、父に対する大きな裏切りであり、万が一にでも失敗に終わったら、正に親先祖に合わせる顔がなくなる不安もあった。

 自分はどうしたらいいのか……

 堂々巡りの考えを高校進学のときから抱え、もう四年が過ぎている。そうした中、横浜市金沢区にある金沢文庫で、神奈川県立でありながら国立博物館並みに運慶に関連した国宝、重要文化財が一堂に会した意欲的な特別展が開かれていることを知り、足を運んだのだった。

 金箔のうち、最も利用されている四号色という規格は、金九十四.三パーセント、銀四.九パーセント、銅〇.六六パーセントの合金を厚さ〇.〇〇〇一ミリメートルに伸ばしたものである。

 したがって、一立方センチメートルの金から約十平方メートルの金箔を作ることが出来るのだった。

 こうした大きな展性をもつ純金は、表面装飾に用いられ、箪笥、屏風など家具、襖などの建具、漆器などの工芸品、そして仏像や仏壇などの美術品に多く利用されている。

 平安末期、どのような規格の金箔を仏像制作に使っていたかは解らなかったが、遥が運慶に代表される鎌倉彫刻に強く惹かれたのも、金箔のもつ魅力からだった。

 金箔の製造工程は、澄屋(ずみや)が行う延金(のべきん)、上澄(うわずみ)と箔屋(はくや)が行う箔打ちに分業している。

 遥の父は、この製造工程のうち、上澄の澄打ちを行う職人で、澄打ち用の紙を使い、圧延機で百分の三ミリメートルまで伸ばし、六センチ角に切られた延金を更に四段階に分けて打ち伸ばす作業を担当している。

 自宅に続く仕事場で、無茶な納期を指示されても愚痴一つこぼさず、叔父とともに黙々と働く父の背中を思い出すと、弟もいない一人息子の自分が、卒業しても東京でやらせてくれ、とはとても言い出せない。

 しかし、叔父には息子が二人いて、決して藍田金箔の跡取りがいなくなるわけではない。

 運慶が父・康慶の指導の下に制作した円成寺の大日如来座像と、運慶が長男の湛慶とともに造立したと伝えられる愛知県の滝山寺蔵の色彩鮮やかな帝釈天立像を人垣の向こうに見つめた。遥は、妙な考えなど起こさず、父祖が敷いておいてくれたレールに素直に乗るのが自分のため、と自らに言い聞かせるもののやはり釈然と出来ない。こうした葛藤を抱き続け、もう四年が過ぎている……

 ふと、奈良・東大寺の南大門に奉渡された八メートルを越す金剛力士立像のうち、阿形像が手にした巨大な金剛杵部材の模造の前まで順路を進んだとき、三つ揃いの高級注文紳士服を着こなし、銀髪をオールバックにしたやせぎすで長身の男の横顔が遥の目についた。

 銀座英國屋のオーダーメイドのスーツに身を包んだ彫りの深い紳士は、帝国芸大音楽学部音楽研究科楽理科で講師を務める三国(みくに)誠司(せいじ)だった。

 三国は器楽科でパイプオルガンの演奏も教えられるほど、J・S・バッハのオルガン曲に精通しているものの、バッハ家がドイツの中部テューリンゲン地方で、代々音楽を職業とした一族で、約二世紀半の間に家系から輩出した音楽家は約六十人に達している、との記録を学んで以来、遺伝学にも傾倒したというし、最近では、日本の鎌倉彫刻にも興味をもち、独学を繰り返しているらしい。

 これに加え、一体、どこから学んでくるのか、平安前期の役人・小野篁(おののたかむら)のごとく六道往還でもしなければ、到底知り得ない人間の一生を天から見つめるがごとくの視点をもっている。

 こうした独特の視線をもった三国の音楽史の講義は、人気のカリキュラムだった。

 更に、収入も顧みないヨーロッパかぶれの身なりは魅力の一つとなって、三国は学生からは人気の的となっている。

 その評判は、音楽学部のみにとどまらず、美術学部にも届いている。遥は、この変わり者の老講師に、自分の進路相談が出来ればと、藁をも掴む思いで、

「あの……三国先生」

 声をかけると、三国は縁のないメガネのレンズを銀色にきらめかせながら、ゆっくりと振り向いた。

 


 
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