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「あなたとわたしは彼女と僕の」第12章

 悠木有紗にとって僕がどういう存在なのか、気にならないと言えば嘘になる。
 でも、僕が彼女にとって特別な存在だなんて妄想は、僕の頭の中にしまっておく。

 ただ一つ、ただ一つ言えることは、僕には彼女が必要だったって事だ。

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2011-01-03 20:28:06 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:288   閲覧ユーザー数:288

  第十一.五章「彼女と僕」

 

 

 深い湖。日の光の届かぬ湖底。

 波もなく、何も見えない深海のような世界。

 

 静か、本当に静かだ。

 ボクは水面より遙か深く漂う藻屑だった。

 

 ゆらゆらと、ゆらゆらと、ボクはただただずっと漂っていた。

 

 ボクはどうしてこんな所にいるんだろう?

 そう聞いて答てくれる人はいなかった。そこは本当に寂しい場所だった。

 

 ボクはずっと上ばかり見ていた。

 微かに見える明るい世界。水面の上には何があるんだろう。

 そう思っても、沈みきったボクにはその湖面がとてもとても遠く見え、見上げることしか出来そうになかった。

 

 多分ボクは、あの明るい世界に憧れていたんだと思う。

 憧れても手に入らない世界。

 そんなものもあるんだと、ボクは思い知った。

 

 ふと隣を見ると女の子がいた。

 ボクと同じように沈んでる女の子。無表情で体を小さく丸めている。

 放っておけばどんどん沈んで行きそうなぐらいに窮屈に丸まっていた。

 彼女に声をかけるのは不思議と躊躇わなかった。

 

「ねぇ。君は上に上がらないの?」

 

「私が上がれないから、あなたが先に行って」

 

 小さく弱々しい声で女の子が答えた。

 

「ボクもね。上がれそうにないんだ」

 

「そう、じゃあ別の人に言って」

 

「別の人?」

 

 女の子に言われて初めて気が付いた。

 その湖底には他にも二人が沈んでいた。

 さっきまでボク一人だと思っていた暗闇の世界は急に騒がしくなった。

 

「君はここが居心地いいの?」

 

 ボクが声をかけた子はニコニコと笑っていた。

 だからそんな風に聞いた。

 でも、その子が首を横に振った。

 

「じゃあ、どうして笑ってるの? 上に行きたくないの?」

 

「笑っている方が楽だもん。

 そりゃ、ここは暗くて何もなくて寂しい所だけど、上に行くのは凄く疲れるよ。

 それに上に出たら、たぶんもっと大変なことがあるよ。

 ここで静かに暮らすのもいいんじゃない?」

 

 ボクはその子の言うことがよくわからなかった。

 

「オマエらうるせぇんだよ」

 

 怒鳴り声をあげる男の子がいた。その男の子はとても怖い目をしていた。

 ボクはそんなに大きな声で喋っていたつもりはなかったけど、彼は本気で怒ってるみたいだった。

 

 ボク、いじめられるんじゃないかと思ったけど、ボクが黙ると彼は直ぐに寝てしまった。

 

 ボクを含め、四人になった湖底。

 寂しくなくなったのはいいけど、四人いても、みんな沈んで漂っているだけ。ボクと同じだった。

 

「ねぇ、どうやったら上に行けるんだろう?」

 

 ボクが聞いても

 

「知らない」

 

「もがいてみたら?」

 

「勝手にしてろ」

 

 と、返事が返ってくるだけ。

 

 やっぱり僕らは沈んでいるしかないのかな?

 

「お前は本当に、上に行きたいのか?」

 

 怖い男の子が聞いてきた。

 ボクは少し考えて「行きたい」と答えた。

 自分でもどうしてここがダメなのかはわからなかった。

 けれど、ここにいても何も変わらないから……。

 

「だったら、アイツに頼みな」

 

 アイツ? 怖い男の子の後ろに、うっすら横たわった人影があった。

 でも暗くてよく見えない。

 

「あの人に頼めば、上に行けるの?」

 

「さぁ? 可能性はあるんだろうな。それがアイツの存在意義なんだから」

 

「ソンザイイギ?」

 

 彼が何を言いたいのか、よくわからなかった。

 それでもボクは彼が嘘をついているようには見えなかった。

 

「ねえねえ。君なら上に行けるの?」

 

 ボクは暗がりにいる人影に声をかけた。

 

「も……ぃ」

 

「え? 何て言ったの?」

 

 闇に溶けた人影の声は恐ろしく小さかった。

 

「もう遅いのです」

 

 再び人影が言葉を口にすると、今度はなんとか聞き取れた。

 その声はボクよりずっと年上で大人の声だった。

 

「我々はここに長くいすぎました。もう手遅れですよ」

 

「もう無理なの?」

 

「我々の力では、もう……」

 

 彼はとっても悔しそうな声を出した。

 

「そう、なんだ」

 

 それに比べ、ボクはあまり悔しくも悲しくもなかった。

 上に行けないならもうこのまま沈んでいるのもいいかもしれない。

 そんな気になってしまったんだ。

 

 それから何ヶ月、ボクは沈み続けたんだろう。

 飽きはない。ずっと同じ風景、同じ感覚。

 僕たち五人はずっと湖底を彷徨う漂流物だった。

 

 五人で色々話したけど、いつも出る結論も同じ。

 もうボクたちの帰る場所もなければ帰る方法もない。

 だったら、いつまでこの湖底で漂うだけ……。

 

 不意に、どこからともなく声が聞こえてきた。

 知らない女の子の声。

 「帰りたい。帰りたい」と繰り返し泣きじゃくる女の子の声だった。

 

「君も帰りたいの?」

 

 姿の見えぬ女の子にボクは問いかける。

 

「君も帰りたいでしょ?」

 

 泣いている女の子はボクにそう聞いてきた。

 もう五人で何万回も話し合われた問いなのに、ボクは少し戸惑った。

 

 ボクは素直に答えるのが怖くなっていた。

 

 ここからはもう出られない。

 それなのに、ここから出て帰りたいだなんて、口にするのが怖かった。

 

「……ジュン。コレが最後のチャンスかもしれない」

 

 年上の人がボクに言った。どうしてだか、ボクは生まれて初めて名前を呼ばれた気がした。

 

「どういうこと?」

 

「気付きませんか? 水面が近くなっています」

 

 その言葉にボクは上を見上げた。確かに水面が近くなっているように見えた。

 そして、その水面の上に、その泣いている女の子がいる気がした。

 

「今ならなんとか、上には行けるかもしれません」

 

「そう、なの?」

 

 ボクはその言葉が意外だった。

 

「ただ、上に行っても、家に帰れるかはわかりません。貴方の頑張り次第です、ジュン」

 

「うん、わかった」

 

 ボクは意を決して泳ぎ始めた。

 水面めがけて両手両足を懸命に動かした。

 湖底で漂っていた他の四人もボクの背中を押してくれた。

 

 頑張るから、諦めないから、みんなであの明るい世界に。

 

 ボクがそう願ったとき、水面に見えていた光が一層強くなる。

 その光の中にボサボサした黒髪の女の子が見えた。さっき泣いていた子だ。

 

「ボクはジュン。君は?」

 

「わたし、まさびしありさ」

 

 彼女は泣きはらした顔で名前を教えてくれた。

 

 ありさ。

 

 ボクは彼女の名前を一生忘れないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

  第十二章「あなたとわたしは彼女と僕の」

 

 

「つまりです。私をさらいたいのなら、もっと誰もいない時に行動を起こせばいいのです。

 尚かつ、さらうという目的には最も不適当な安達郁斗が現れている時に襲いかかるなど非合理的なのですよ。

 結局のところ、真の目的は私をさらうことではなく、悠木有紗が襲われている所を私に見せることだったのです。

 その為に路地裏で安達郁斗が暴れているというタイミングを選んだわけです。

 安達郁斗なら状況も考えずに好戦的な態度に出ることは目に見えています。

 そしてそれを悠木有紗がかばい立てすることも。

 この病院内での話は更に顕著でしたね。

 折角さらった私を研究所ではなく、扉もついていない病室に連れて行くというのはあからさまでした。

 まるで逃げてくださいと言っているようなものです。

 そして逃げ出しても、積極的に追い立てなかったのも。私を監禁し続けても私が出てくる確証はありませんからね。

 今夜、悠木有紗がここに来たのは偶然だったかもしれませんが、潤が逃げ出した後、悠木有紗との合流をするのを待ったのは、敷地内に悠木有紗が侵入したのを知っての処置でしょう。

 それに最終的に悠木有紗が大垣とやらに肩を攻められたのも分かりやすいですね。

 あまり知られてはいませんが、肩の前面には神経が集まっていますで、圧迫されれば激痛が走ります。

 いわゆるツボという奴ですね。傷つけずに痛めるには丁度いいところですよ。

 下手に体幹や頭、首を攻めれば命の危険もありますからね。

 それを鑑みれば、丁重に扱われたということでしょう」

 

「説明を求めた私が言うのもなんだけど、説明長すぎ。

 それと目の前にいる人間を何度も何度もフルネームで呼ばないでくれる? 他人行儀にも程があるわよ」

 

 放っておけば何時間でも話し続けそうな藤堂作弥に、悠木有紗が不満の声を上げる。

 

 そこは安国病院の廊下。十年前に放棄された建物の廊下は物寂しい虚無感が漂っている。

 一歩、歩く度に自らの足音がやまびことなって帰ってくる。

 それが四人となると、まるで輪唱のように不思議なリズムに溢れていた。

 

 相変わらずの真っ暗な世界に有紗は不快感を覚えていた。

 この闇は十年前に囚われていた闇とは異質のものだ。

 今、目の前にある闇はただ明かりがないという物理的な闇。

 あの病棟にあった闇は、もっと暗くて苦しい寂しさが渦巻いていた。

 あの闇に溶けたら最後、戻って来られなくなる人を喰う漆黒。

 それに比べれば全ての電灯が沈黙を守り、足下さえみえなくても廃墟の暗闇など恐くなかった。

 しかし、足下が見えないという苛立ちが徐々に有紗の中で鬱積していた。

 

 四人の先頭を行く黒川は、いつの間にか懐中電灯を手にしていて、その無機質な廃墟を照らし出していた。

 そして黒川の横には、先程まで有紗を痛めつけた大垣の姿もある。

 その二人は後ろの作弥と有紗が大声で話をしようと、我関せずで黙々と先に進んでいる。

 

「おや? フルネームで呼ばれるのはお気に召めしませんか?

 悠木姓にこだわっているようなので、強調した方がいいのかと気を使ったつもりでしたが」

 

「アンタ、ほんと嫌みな性格ね」

 

 有紗は藤堂作弥の言いように顔をしかめた。

 直接会った経験がほとんどなく、有紗の知る彼の性格も、正菱からの情報を見聞きしたものしかなかった。

 

「ええ、私がそういう担当ですから」

 

 有紗が辟易(へきえき)しているのを感じても作弥は気にした様子もない。

 

「さっきの話だけど、アンタに私がやられてる所を見せるように、あの二人が仕向けてたのなら、

 昼にアンタがさらわれた後も私が攻撃されたのってどういうことよ?」

 

「足止めついでに、お灸を据えたのでしょう。

 貴方は少々やんちゃが過ぎるようですから。

 それにある程度本気でやならないと、直ぐ頭に血が上る貴方でも騙せませんからね」

 

「やんちゃって何よ!」

 

「おや。日本語ですが、意味がわかりませんでしたか?」

 

 眉を動かし、作弥は本当に驚いた様子だった。本当に白々しい態度だった。

 

「それぐらい分かるわよ、馬鹿!」

 

「おやおや、また怒らせてしまいましたか、やはり私とは相性が合わないようですね」

 

 作弥は有紗が本当に怒っているわけではないことを知っている。

 潤のどの人格と会話しているときも有紗はこんな感じだ。

 藤堂作弥は柚山潤の交代人格の中でも特殊な存在だった。

 他の人格が現れているときの記憶を完全に保っている。

 作弥以外の人格は他人格の記憶を『何となく』しか覚えていない。

 人格よっては、他人格の記憶が完全に欠落するのだ。

 その差異は各々の人格に与えられた役目によるところが大きいと、藤堂作弥は考えている。

 

「相性が悪そうだから、普段、私の前に現れないの?」

 

「それも理由の一つです」

 

 有紗は普段から気になっていた疑問を聞くが、作弥はその答えを明言しなかった。

 毎日、柚山潤に会っている有紗は、ほとんど会ったことがない人格がいるということに合点がいかないのだ。

 

「えらく仲がいいんだな」

 

 そんな二人の会話に、前を行く黒川が振り返りもせず、ぽつりと漏らした。

 誰もいない静かな廃病院で同じ廊下を行くのだ、数メートル距離を取っていてもその会話の内容は筒抜けだった。

 

「誰がこんな奴と」

 

 有紗は咄嗟に言うが、それを遮るように作弥が口を挟む。

 

「えぇ。普段の潤との会話はまるで夫婦漫才のようですよ。

 私は一番近くの特等席で聞かされてますが、全く聞いている方が恥ずかしくなるような仲むつまじさです」

 

「な、何言ってんのよ! 誰が夫婦漫才なんか!」

 

「君と柚山潤ですが?」

 

「あ、あ、アンタねぇ! 自分も柚山潤の一人でしょ!」

 

「はい。それが何か?」

 

「……もう、知らないわよ!」

 

 やはりどこからどう見てもこの二人は仲がよい、と黒川も大垣も納得した。

 

「で、どこまで行くのよ?」

 

 有紗は話題を変えようと、前を行く黒川に話しかけた。

 

「言わずとも分かるだろう?」

 

 黒川はさらりと答える。それはこの廃病院にある実験病棟の跡地に行くということを示唆していた。

 それは有紗も予想がついていた。しかし、その予想には何の確証もなかったのである。

 

「でも、あそこは閉鎖したんでしょ?」

 

「では、どうして君はここに来たんだ?」

 

 有紗の質問に黒川が質問で返した。

 有紗がここに来たのは、兄の正菱知也が示した黒川の隠れ家リストに、この病院が含まれていたからだ。

 

 確かに人の踏み入らない廃病院は隠れ家とするのに適当な場所と言えるが、

 この病院には深山浩殺人事件の捜査で警察も入っているし、一度、有紗もこの病院と実験病棟の様子を見に来たのだ。

 有紗はこの病院に黒川がいるとは思いもしなかった。

 しかし、兄の提示したリストの他の候補を調べても、黒川が見つからなかったのだ。

 お陰でこの最終候補地の安国病院跡地に来たのは真夜中になってしまった。

 

「まさか、実験病棟は十年前に閉鎖してなかったなんてこと言うんじゃないでしょうね?」

 

「いや、確かに十年前に閉鎖したさ」

 

 それはそうだ。有紗は日本に帰国して間もなくの頃、三年前に一度、実験病棟の跡地を訪れている。

 確かに全てが撤去され、何もなくなった研究所跡しかなかった。

 

「来ればわかる……」

 

 黒川の言葉を最後に一同は黙々と歩くだけだった。

 

 幾度となく増設工事を重ねた安国病院は中館、西館、東館に別れている。

 深山らしき人間の遺体が見つかったのは外来施設の集中する東館の一階。

 中館にはICUや手術室、検査室や薬剤保管庫などが立ち並ぶ。

 そして西館にはリハビリ室や一般の研究室がある。

 入院施設は全ての館の上層階にあり、そのベッド数も日本トップクラスの巨大病院だった。

 

 そんな病院に作られた違法な医学研究所である実験病棟は、病棟という通称が付いてはいるが、地下にもうけられた一施設だった。

 他の地下施設として霊安室なども設けられているが、直接行き来が出来ないように区画分けされている。

 中館の特定の階段を下りない限り、実験病棟には入れないのだ。

 そしてその階段を四人は下りていた。その先に実験病棟跡地しかないことを有紗も作弥も知っている。

 ならば向かう先は一つしかないのだが、二人ともその事実を否定したくて仕方がなかった。

 

 何もないはずの跡地に向かうなど意味がない。向かっている以上意味がある。

 つまり、跡地が行く意味のある場所に変わっている。それを二人は認めたくはない。悠木有紗にも、藤堂作弥にしても、その場所は特別な意味を持っていた。

 

 一同の前に黒い金属製の扉が現れる。

 懐中電灯に照らされたそれは、一見して扉には見えはしない。

 それは圧倒的な壁。重々しくそこにあるだけでプレッシャーを放つ。

 前にするだけで押しつぶされそうな扉は、有紗が遂この間に見に来たばかりなのに、深夜という時間になるだけで全く別物の異物に見えた。

 それは夜に巣くう怪物、引きずり込まれそうな黒色が訪問者を丸飲みにしようと待ちかまえる姿だった。

 

 懐中電灯の明かりが無軌道な揺れをみせる。

 黒川が左手に海中電灯を持ち替え、壁際に跪(ひざまず)いたのだ。

 

「アンタ、何をしてるの?」

 

 有紗が問いの答えは、黒川の手元から電子音として聞こえてきた。

 暗くてよく見えないが、黒川が壁にある、壊れた誘導灯の中に手を入れて、何かを操作しているようだった。

 

 鈍い金属音と共に黒い扉が揺れた。そしてゆっくりとゆっくりと動き出す。

 

 扉の隙間からあふれ出す一段と深い闇を想像していた有紗の目にLEDの軽薄な光が飛び込んできた。

 それはここが廃墟などではない証。人工の施設が稼働していることを物語っていた。

 

 すうっと黒川が進み出し、扉という境界を越える。そこは廃病院と実験病棟との境界線。

 それを何事もなく超える姿は、この実験病棟にいた者たちから見れば疎ましく思えるものだろう。

 ここに『患者』としていたものなら、躊躇うことなく足が進むなどありはしない。

 

 黒川が壁に据えられたコンソールを操作すると、全てが瞬くように白く塗り替えられ、辺りを明るく照らし始めた。

 

「本当に、ここに研究所を作り直したの?」

 

 有紗が聞いた。

 本当に馬鹿げている。昔は安国病院が病院として営業していたからこそ、実験病棟なる特殊研究施設のカモフラージュになっていたのだ。

 廃墟にそれを再建するなど、目立って仕方がないはずである。

 

「新たに作るよりリフォームする方が早かった。なにせ時間がなかったからな」

 

 そう答えると、黒川は廃墟の暗闇から研究所の明るい廊下を進み出た。

 そして作弥に首で奥を指し、ついて来るように促した。

 

「こんな所に研究所があるって警察は気付かなかったの?」

 

 深山浩の遺体が発見されて、警察が現場検証をしたのは十日ほど前のことである。

 当然、そのときにはもう、この新しき実験病棟は造られていた。

 警察に発見出来なかったのかという有紗の疑問も当然であった。

 

「それなりに偽装していたからな。先程お前たちが見た通り、あの扉を閉めれば外から中の様子は全くわからんし、食料や薬剤も十分な備蓄がある。

 衣食住がこの区画だけで済むように作ってある。

 やろうと思えば、気付かれず何ヶ月でも潜むことが出来ただろうな」

 

「それでも警察が気付かないなんてね」

 

「有紗も気付かなかったでしょう?」

 

 作弥の指摘に有紗は驚いた。

 有紗がこの元安国病院の敷地に侵入して、警察の捜査を覗きに来たことは誰にも話していない。

 有紗の行動を監視していた正菱の人間や黒川が知っているならともかく、柚山潤のどの人格にも知られていないはずである。

 

「どうして知ってるのよ?」

 

「カマをかけただけですが?」

 

 作弥はさらりと答える。

 

「アンタはも~ぉ」

 

 有紗は頭をかかえたくなる衝動にかられながらも、中に入っていく三人を追った。

 

 明るく白い廊下が続く。それは元安国病院の廃墟の暗闇と対をなす世界。

 壁も床も白で染められた空間は、病院という言葉がよく似合う。

 そんな小綺麗な廊下の両脇には段ボールが山積みとなっている。

 しかし、その段ボールは廊下の脇からはみ出ることなく廊下の中央部に絶妙な空間を空けていた。

 それは丁度ストレッチャーの通れる幅。

 ストレッチャーとそれを押す者が廊下を駆け抜けることが出来る最低限の幅が空けられていた。

 それこそが、名ばかりであっても、ここが医療施設であることを如実に示している。

 

「ちょっと、昔より狭い……」

 

 有紗は無意識に呟いた。

 昔のことは思い出したくもない。しかし、この場所に再び立って、昔のことを思い浮かべない方がおかしい。

 有紗の記憶する実験病棟はもっと広い印象を受けた。

 

「面積も部屋割りも変えていない。そんな大規模な工事は出来なかったからな」

 

 黒川が素っ気なく答える。その言葉に珍しく作弥が反応し、辺りを真剣に見回してから言う。

 

「有紗君。それは私も同じ感想です。

 つまるところ、ここが狭くなったのではなく、我々の体が成長したということでしょうね」

 

 有紗と潤がここに『入院』していたのは十年前、小学生の頃だ。

 といっても二人ともまともに学校など行っていない。

 MBAD患者であった二人は生きるだけで精一杯の子供だった。

 

「一つ聞きたいことがあります」

 

 これまで有紗ばかりが質問を繰り返していたが、今度は作弥が黒川に問うた。

 

「新たに作るよりリフォームした方が早かったというのは嘘ですね?

 ここ以外に作れなかったのでしょう? 彼らに目をつけられれ妨害された。違いますか?」

 

「……察しがいいな。やはりお前は『天才』だよ」

 

 かなり忌々しそうな口調。黒川は悪態を吐き、作弥の問いに肯定した。

 

「何? どういうこと?」

 

 やはり有紗には二人が何を言っているのかわからない。

 これでは有紗が蚊帳の外、最も当事者と思っていた自分が取り残されて、有紗はどうにも居心地が悪かった。

 

「先程有紗君が疑問に思った通り、ここに実験病棟を再建する利点なんかありません。

 廃墟に人が出入りすれば、それこそ怪しまれます。それなのにこの場所に再建したのには理由があるのでしょう。

 しかし、ここでなければならない利点など私は思いつきません。

 だったら、ここ以外に再建するのが無理だったと考えるのが自然です。

 無理矢理こんな廃墟を利用するしかない状況だったのです。今の貴方には敵が多すぎる」

 

「私に協力するのが嫌になったか?」

 

「私はそんなことを気にする人間ではありませんよ」

 

 その作弥の言葉は、堂々とし、全く恥じることないものだった。

 作弥はそんな利害関係で物事を判断する人物ではない。

 作弥は己が使命を果たすことだけに特化した人格。

 柚山潤の為だけに生まれた存在だ。

 思考は客観的であるのに対して、判断基準は最も主観的なのである。

 

 その答えが黒川を安心させたのだろう。

 黒川は表情を改めて、そうか、と一言呟いた。

 そして足早にある病室の前に駆け寄り、扉を開けた。

 

「まずは彼らを見てくれ」

 

 黒川が案内した室内は、少し光量を落としてあった。

 明るい廊下から見ると薄暗い印象を受けたが、入ってみれば特に暗いこともない。

 室内には八つのベッドが立ち並ぶ。その全てのベッドに子供が寝かされていた。

 照明の変化は患者たちへの配慮なのだろう。

 

「MBADね」

 

 分かりきったことだったが、有紗は口にせずにはいられなかった。

 

 独特の低い唸りを上げる器機が忙しなく表示信号を点灯させている。

 ベッドに寝かされた子供たちは人工呼吸器をつけ、頭には脳波測定のコードが幾束もつながれていた。

 その様子に、十年前の柚山潤の姿が思い出される。

 この部屋に寝かされた子供はみな意識がない様子で、ただただ静かに眠っていた。

 

「この部屋と同じ規模の部屋があと四つある」

 

「看護体制は?」

 

 作弥は室内をぐるりと見回し聞く。それに対して有紗は、ベッドに寝かされた子供に一人一人、静かに近づいていく。

 有紗はその子供たちに自らの昔の姿を重ねているのだ。

 

「全員、バイタルはコンピュータ管理で監視している。

 全員が意識障害だからな。投薬や身の回りの世話を私と大垣を含め五人で見ている。

 後の三人は有志の協力者だが、今夜は君ら件で人払いしてある」

 

「研究員はいないのか?」

 

「今はいない。必要なスタッフはこれからでも集めよう」

 

 それまで黙っていた大垣が黒川の変わりに答えた。

 彼もまた研究員ではないのだ。明らかに人手が足りない。

 十年前の実験病棟では三十人を超えるスタッフがひっきりなしに働いていた。

 実験病棟の再建という目的は、まだまだ達せられたとは言えない段階だった。

 

「随分、気の長い話ですね」

 

「我々はこれでも急いで準備したつもりだよ」

 

 黒川の眉間に一段と深い皺が寄る。それが彼の言葉が真実だと示している。

 黒川は黒川の最前を尽くしたのだろう。それがどんな結果だったとしても。

 

「ねぇ、これはどういうことなの」

 

 その声に振り向けば、ベッドに乗りだして有紗が一人の子供の手を握りしめていた。

 

「なんでこんなに悪い子が多いのよ!」

 

 有紗は悲痛な声をあげる。

 有紗は気付いたのだ。MBAD患者の様子が十年前とは異なることに。

 昔は寝たきりの子供なんてほとんどいなかった。いても一人か二人。

 なのに今はこの部屋にいる八人全員が昏睡状態だった。

 そして先程黒川の言った言葉『意識障害』。その言葉に有紗はピンとこなかった。

 それが子供たちを一人一人見ているうちに、その言葉が植物状態を表しているのだと気付いたのだ。

 

「有紗君。あのときの潤のこと、覚えていますか?」

 

 有紗は首肯する。

 ここにいる子供たちと同じような潤の姿。忘れられるはずがない。

 虫の息の潤が懸命に有紗に語りかけてきた。彼の優しさにどれだけ勇気づけられたか。

 あのとき潤に会わなかったら、有紗は実験病棟の孤独に耐えられなかったかもしれない。

 

「末期のMBADは、大抵こうなるんです……」

 

 珍しく作弥が言葉を濁す。それはMBADの根絶を目指した藤堂作弥には許し難い現実。

 このような患者を出さないために、藤堂作弥は柚山潤の中から現れた人格のはずだった。

 

 MBADは脳が活性化しながら萎縮するという特異な病気である。

 脳神経が萎縮しても、神経ネットワークが活性化しているので初期症状が表れにくい。

 ある程度病気が進行しなければ日常生活が普通に送れてしまうのだ。

 つまり、自覚症状が出る頃には手遅れになってしまう。

 そして、萎縮した脳内でも神経細胞は懸命にネットワークを広げようとする。

 その矛盾した現象が神経細胞へ過負荷となり、脳神経細胞が連鎖して死滅、最終的に脳死する。

 それがMBADという恐ろしい病気だ。

 

「だって……、十年前はもっとみんな元気で……」

 

 泣きそうな声だった。

 MBADと戦った日々、共に懸命に生きた仲間。どんなに苦しくともみんな頑張って生きていた。

 それなのに今目の前にいる子供たちは、皆ベッドに張り付いて全く動こうとしない。

 夜だから眠っている。そんな楽観的な見方を出来るほど、有紗も素人ではなかった。

 明らかに普通の睡眠ではない。

 

「今は薬で強制的に代謝を抑えている。

 本当は全員、低体温状態にすべきなんだろうが、それでは薬の作用も抑えられてしまう」

 

「彼らを生かす為ですね」

 

 作弥が唸るように言った。

 十年前の実験病棟での研究はMBAD治療に革命的な成果を上げた。

 実験病棟が解体した後に、別の研究所が完成させた対処療法も、その実、実験病棟での研究データが水面下で流れ出た結果だった。

 MBADの進行を遅くし、症状の緩和をする投薬治療。それが最新のMBAD治療法だ。

 

 しかし、この治療法には但し書きがある。『MBADは完治せず、いつかは末期状態に陥る』それを黒川が有紗に伝えると、彼女は奥歯を噛みしめた。

 

「昔は急激に進行するMBADで死亡していた患者が対処療法で生き残るようになった。

 そして生きれるがゆえに末期患者となる。

 末期となっても投薬を続ければ、脳死まで数年稼げてしまう。

 治療止めて見殺しにするか、緩慢な死を待つ植物状態にするか、現代医学ではその二択しかないのだよ。

 だからこそ、今度こそMBADを完治させる必要があるのだ」

 

「だからって、あの悲劇を繰り返すの? あの実験病棟で何人死んだと思ってるの!」

 

 口を挟んだのはやはり悠木有紗。

 実験病棟の生還者としてあの実験で犠牲なった全ての者の代弁だった。

 有紗にはそれを口にする義務があるのだ。

 

「……仕方がないんだ。MBADは人間にしか発症しない病気なんだ。

 主原因が未だにわからない。動物実験で再現も出来ない。

 脳細胞を培養したシャーレの上でもMBADは起こらないんだ。

 生きた人間の脳で研究する以外にないんだよ。

 実験病棟は仕方がなく作られたもの。MBADを治療するのにある程度の犠牲が必要なんだ」

 

「ある程度って何よ!」

 

 黒川の言い様に、有紗がベッドに腕を叩き付ける。

 そこに寝かされた子供の体が跳ね上がり、軽く宙に浮いた。

 有紗は慌てて子供を心配したが、目覚める様子はなかった。

 

「犠牲は必要ですか……。確かに本来はそうだったかもしれません。

 しかし私の目の届かないところでは別の研究を行っていたようですが?」

 

 作弥は確かに実験病棟で研究を手伝っていた。

 子供の被験体自身が研究のアドバイザーとなる異様な状況だった。

 しかし藤堂作弥は柚山潤の一人格である。そんな者が研究内容全てを知ること出来なかった。

 そして藤堂作弥の預かり知らぬ所で、患者を本当に実験動物のように扱った人体実験が行われていたのである。

 

「それについては弁解の余地はない。天才の研究。あれは一部の物が独断で起こしたことだ」

 

「その台詞は完全な責任転嫁ですね。それこそトカゲの尻尾ではありませんか」

 

「藤堂作弥、あなたの存在が異常過ぎた……。

 皆、夢を見てしまった。小学生が研究員よりも一歩先を行く見解を持ち、研究を後押しする発想を生み出すあの姿。

 まさに天才だった」

 

 黒川の言葉に作弥が押し黙る番だった。

 

「前々からMBADが進行するにつれ、知能指数が上がっていくことは知られていた。

 MBADの病症である脳の活性化の成せる業だろう。

 しかし死んでしまってはその活性化も意味がなかった。皆そう思いこんでいた。

 だから柚山潤に藤堂作弥が現れたときの衝撃は一入(ひとしお)だった。

 MBADの天才性を残して、明瞭な意思が存在するのだからな。

 あそこまでMBADの進行した柚山潤が死なずに、植物状態から抜け出したのだから」

 

「えっ……?」

 

 有紗は一つの疑問点に辿り着いた。

 実験病棟のMBAD治療が藤堂作弥の参入によって驚異的に進んだのは、正菱の情報から有紗も知っていた。

 

 しかしそれでは一つ説明がつかないことがある。

 藤堂作弥の本人である柚山潤もMBADではないか、それも末期の。

 ベッドの上でまるで死んだように横たわる姿を有紗は見ているのだ。

 あの状態でMBAD治療の研究に参加出来たわけがない。

 ならば柚山潤はどのようにMBADから回復したのだろうか?

 藤堂作弥がいなければ研究は進まなかったと言われているのに、誰が作弥を治療したのか?

 そもそもMBADには病状の進行を遅らせる対処療法しか存在しないのに末期症状からなぜ回復しているのか?

 

 その疑問を有紗が口にすると、藤堂作弥はただ首を振るだけだった。

 

「藤堂、いや、柚山潤は今でも末期のMBADなのだよ。

 だからこそ藤堂の天才性も保たれている。柚山潤という存在は本当にイレギュラーな存在なんだ」

 

 黒川の言葉には悲しみの色が混ざっていた。

 確かに潤は人格が解離しているが、彼がMBADの症状を患っている所を有紗は見たことがなかった。

 

「有紗君。残念だが私には君がこの十年間会ったことのない人格が存在します」

 

 それは有紗が予想だにしなかったことだった。

 

「十年間、会ってない?」

 

「君は私の人格を何人知っていますか?」

 

「五人よ」

 

「その五人は、あの病室で君と会話してないのです」

 

「あの……病室……」

 

 正菱有紗と柚山潤は実験病棟で同じ部屋にいた時期があった。

 しかし作弥が言う『あの部屋』がそれとは違うのだと有紗には直ぐにわかった。

 そこは有紗と潤にとって大切な出会いの場所。

 そう、有紗が迷い込んだ、潤が寝かされていたあの部屋だ。

 

「そうです、彼は今でも末期のMBADなんです。

 彼が出て来れないのは、彼が私たちの分もMBADの症状を一人で引き受けているからですよ」

 

「何よ……それ?」

 

「これは私の推論ですが、普通の人間は脳機能の一○%以下しか使い切れていないという学説があります。

 それ自体は眉唾ものの学説ですが、人間が脳の全機能を使っていないのは明らかです。

 MBADの私は病気に侵されていない極一部の脳機能を使って人格形成しているのでしょう。

 そしてMBADに侵された本来の柚山潤は……」

 

 言葉に悔しさがにじみ出る。作弥は明言を避けたが、その答えは明快だった。

 

「『柚山潤』は今でも植物状態なの?」

 

「そういうことです。人格解離による病症の分離。非常に奇妙で不可思議な話です。

 それも研究しましたが、結局、再現出来たのはごく少数で成功例は数人です。

 それを治療法とすることは出来ませんでした」

 

「それも……『実験』したの?」

 

「えぇ。成功すれば、私のようにMBADの進行はほぼ止まるのです。

 今の進行を遅める治療とは比べ物にならないほど完璧に進行を遅延させることが出来ました。

 ただし、失敗すれば人格崩壊を起こしてしまいますが」

 

「アンタね!」

 

 有紗が怒鳴り声を上げる。

 藤堂作弥も研究者側の人間だということを思い知らされて、有紗に悔しさが込み上げる。

 

「分かっています。ですからその研究は早急に中止しましたよ。私は」

 

 その刺々しい口調。作弥も憤りを感じているのだろう。

 それはリスクの高い研究を作弥以外が勝手に続けたことを示唆していた。

 

「その頃からです。あの研究所がMBAD以外の研究を始めたのは。

 MBADの天才性。脳神経の活性化。解離による脳機能の分割使用。

 そんなものを目の当たりにして、欲が出たんでしょうね」

 

「人工天才の研究……」

 

 黒川が呟いた。

 十年前、黒川将人たちが研究を始めたテーマ。

 MBADの治療という本来の目的を逸して人体実験に明け暮れた夢だった。

 

「MBADの神経ネットワークの活性化を正常な人間に引き起こし、脳回路の処理能力を上げるなど、全くつまらないことを考え出したものです」

 

「それが、藤堂が研究を放棄した理由か、患者でもある君は嫌気がさして当然だな」

 

 本当に馬鹿なことをした、と黒川は過去の過ちを悔いていた。

 しかし、そんな上っ面の言葉で有紗たちの不信が拭えるものではなかった。

 

「それも一つの原因ではあるのは確かです。まぁ、私が手を引かなくてもあの研究は潰れましたがね」

 

「あの内部告発は、藤堂、お前が扇動したのか?」

 

「いいえ、私は何も。

 しかし。ああなることは予想出来ましたよ。

 何せ正常な人間の脳をMBADと同じ原理で活性化させるのです。

 つまり、それは正常な人間をMBADにするということです。

 健康な人間をわざわざ病気にしてどうするのですか。

 それにMBADの主原因すら把握出来ていないのに、MBADを完全に再現するなど出来るはずがなかった。

 それこそ『実験』じゃないですか。

 正常な精神をもった人間がそんな研究をし続けて耐えられるはずがありませんでした」

 

「しかし、今回は違う。本当にMBADの治療の研究だ。戻ってきてくれ藤堂」

 

 そう言うと黒川は深々と頭を下げた。

 先程から会話に参加することのなかった大垣もそれに習い頭を下げる。

 時間が止まったようだった。二人の人間が礼したまま動かず、それを見守る二人もかける言葉が見つからなかった。

 そんな病室に八台の人工呼吸器の排気音だけが鳴り続ける。

 その沈黙を有紗が破った。

 

「どうして十年が経って今更そんな研究の再開にこだわるの?

 MBADの根本治療は今でも世界中で研究しているでしょ?」

 

 有紗の疑問に黒川は顔を上げた。

 なんとも言えない表情をしていた。怒りでもなく、悲しみでもない、燻(くすぶ)った感情が見て取れた。

 

「十年……。その時間が問題だった。

 十年経ったのに、その世界中の研究機関は十年前のこの研究所で開発した治療に毛の生えた程度しか成果が上がらなかった。

 見ろ! その間に、こんなにも末期の患者が増え続けているのだぞ!

 限界なんだ。今の治療法では!

 だから、藤堂! もうお前しかいないんだ。

 被験体は集めた。研究施設も今後充実させる。人も資金も集める。

 お前が十年前に途絶えた研究を再開してくれなければ、今生きるMBAD患者は皆、そう遠くない未来に死んでしまうんだ」

 

 黒川は勢いに任せ、己が思いを吐露する。

 黒川の望むもの、それは純粋なMBADの治療。

 藤堂作弥ならそれが叶うと信じて疑わない黒川の言葉に答えたのは、やはり有紗だった。

 

「くだらない! ほんとくだらない!

 何よそれ? そんなのMBAD患者を救うのを大義名分に実験したいだけじゃない!

 人間はいつかは死ぬの。私はずっと、いつ死んでもいいように懸命に生きてきた。

 MBADになってから、死から逃げずに生きてるの。

 死ぬのは嫌だし恐いけど。その為にアンタたちの道具になりたいだなんて思ってない」

 

 いつの間にか有紗の瞳が濡れていた。

 涙などとっくに枯れたと思っていたのに目から雫があふれ出す。

 MBADの治療法が見つかるのは有紗の願いでもある。

 しかし、その手段としてあの実験病棟が蘇るなど、有紗は到底許せなかった。

 死と尊厳を天秤にかけるなら、有紗は迷わず死を受け入れるだろう。

 プライドなんてちんけなものではない。それは一人の『人間』としての生き方といえた。

 

「まだわからないのか! 私は道具になったっていい。

 私が味わった苦しみをこれから生まれてくる子供たちが回避出来るのなら。私は喜んで実験台になる」

 

 ずっと黒川の後ろで控えているだけだった大垣が大声を上げた。

 彼もまたMBADを患った人間だった。MBADで苦しむ人間を一人でも減らしたい。それが大垣の願いだった。

 

「そんなのアンタの勝手よ!」

 

 負けじと有紗も声を張る。MBADの根絶という同じ願いを持っていても、二人の主張は全く異なっていた。

 目的の為なら命を捨てる者、手段を選ぶ為に命を賭ける者。

 二人は似ているようで全く乖離(かいり)した路を行こうとしていた。

 

「それはお前のわがままだ。お前たち成功例は研究を手伝う義務がある」

 

「成功……例?」

 

「お前も柚山も投薬なしにMBADの進行がほとんど止まっている成功例だ。

 この十年生き延びたのが何よりの証。

 今、ここにいる子供たちを見ろ! 皆年端もいかぬ子供だろ!

 発症して十年生きている人間なんてここには一人もいない!」

 

 大垣の宣告に有紗には返す言葉がなかった。

 完全に有紗の敗北だった。治療に成功しているから研究再開に反対出来る。

 そういう卑怯な立場を明確に突きつけられた有紗は押し黙るしかなかった。

 

 悔しさが込み上げる。大垣の言う通り、有紗が未だに為しえないMBAD治療の奇跡的な成功例なのであれば、有紗の言葉は安全圏からものを言う卑怯者だった。

 

 そんな有紗をかばうように作弥が一歩前に出た。

 まじまじと大垣を観察すると一言、大垣に問うた。

 

「君は何歳だね」

 

「今年で二十八になる。私は四年前に発症した。

 二十四での発症はMBADで最年長になるらしい。

 私は成人してから発症した極めて特異な例だそうだ」

 

 なるほど、確かに貴重なサンプルですね。と、そうは思っても、ショックを受けている有紗を配慮して作弥は口に出さなかった。

 

「藤堂、お前は知らないかも知れないが、近年、MBADの患者数が急に増えているのだ。

 それも発症の年齢が上がり始めている。

 十年前は幼児期にしか発症しなかったMBADが今は十代の青年期にも発症するようになっている。

 このままではMBADはどんどん広がり続けるのだ、藤堂。お前もMBADを治療するという本懐を遂げるべきだ」

 

 黒川の言葉通り、MBAD治療は藤堂作弥の使命である。

 それは十年経っても変わりはしない。変わるわけがない。それこそが作弥の存在意義なのだから。

 

「……貴方がたの意思はわかりました。しかし私にも、ただ一つ、言うべきことがあります」

 

 その場にいた者は、作弥が一体何を言い出すのかと、静かに待った。

 だからこそ聞こえたのかもしれない。ドンと小さな音がした。

 

 それは街中なら普通に無視しただろう特徴のない小さな音。

 しかし、ここは廃墟の地下という場所だ。誰か人間がいない限り、音が鳴るはずがない。

 全員が耳を澄ませると、その音が連続して鳴り始めた。

 

「なんだ?」

 

 四人の疑問を代表するかのように、黒川が口走った。

 急に音が大きく鳴る。音は実験病棟の入り口の方から聞こえてくる。

 先程の音とは比べものにならない大音量。

 おかげでそれが衝突音だと分かった。

 

「見てきます!」

 

 堪らず大垣が病室を飛び出した。見れば黒川は青い顔をしている。

 音源に心当たりがあるのだろう。作弥も手持ちの情報から音源を予想する。

 そのシミュレートは最悪の結果がはじき出されていた。

 

「有紗、覚悟してください」

 

 急に言われても、有紗には何を覚悟していいのやら。

 肝心のことを作弥が言わないので有紗は文句を言おうした。

 しかし有紗の口は開かなかった。なんとなく直感したのだ、作弥の言う覚悟とは、死の覚悟だと。

 

 質の違う音が混ざり、騒がしく聞こえてくる。そして

 

「逃げろ!」

 

 と、大垣の叫びが上がる。

 それは悲鳴に近かった。黒川と作弥の予想が的中してしまったのだ。

 

「裏口はありますか?」

 

「非常口と排気口があるが、警察の現場検証対策でまだ封じてある」

 

 なんて要領の悪い。そう作弥が愚痴をこぼすのを合図に、黒川と作弥は廊下に飛び出した。

 

 病室を出るのが一番遅かった有紗だが、廊下に出ると、床を蹴り一足で二人を追い抜いた。

 兄、正菱知也の言ではないが、有紗こそ危険に晒されても構わない、他に利用価値のない人間だと自覚していた。

 だからこそ、作弥と黒川の前を行くのだ。

 

 白き廊下を有紗が駆ける。十年前も、何とか逃げ出そうと駆け抜けた廊下。

 昔は長く感じた廊下も今の有紗の脚力をもってすれば、ほんの数秒で出入口に辿り着く。

 

 廊下を歩く知らぬ男が目に入る。

 その足下には廊下の端に置いてあった段ボールの箱が崩れ落ち、点滴液らしきパックと梱包材が顔を覗かせていた。

 

 有紗は急ブレーキをかけ、念のために十メートルほど手前で立ち止まった。

 

「アンタ誰?」

 

 有紗が大声で誰何(すいか)する。

 作弥が覚悟しろと言ったのだ。恐らくこの人物が危険因子なのだろう。

 有紗は息を静かに吐き、その男を観察した。

 

 妙だ。二月だというのにコートも羽織らずワイシャツが妙にはだけている。

 いや違う。はだけているのではなくシャツが破れているのだ。

 この地下施設には空調が効いているようだが、直ぐ外は冷たいコンクリートの廃墟。

 そんな服装で耐えられるはずがない。顔は伏せがちでよく見えないが寒がっている様子もない。

 

 見知らぬ男から答えが返ってくるかと一呼吸待ったが、どうやら無視された。

 その男は有紗に目もくれず、ゆっくりと小さな一歩を踏み出した。

 

 有紗の背後から二人の足音が聞こえる。

 有紗はそれに振り返らず、我流の構えで臨戦態勢を整えた。

 どういう男かは知らないが、隙を見せる気にはなれなかった。

 

「深山! お前どこにいた!」

 

 有紗の背後から黒川の怒鳴り声。黒川が口にした名に、有紗は目を見開いた。

 

「深山? やっぱり生きていたの?」

 

 警察の内部情報によれば、この廃病院の敷地内で見付かった遺体は、深山浩の遺体ではない可能性があるとのことだった。

 そして今、その廃病院の地下施設に深山がいる。

 それはつまり、誰かが深山の代わりに死んだということ。

 そして誰かがその人物を殺したという事実。有紗はきゅっと唇を噛みしめた。

 

 もう一度その男、深山浩を見据える。

 伏せている頭から隠れ見える顔は、正直有紗が覚えている十年前の深山の顔に似つかない。

 髪の毛は真っ白になり、十年という時を感じさせる。

 手を前後に細かく揺らす様子は貧乏揺すりに似ていた。

 

 ふと気付く。テレビニュースで聞いた深山の年齢は四十二歳。それほど白髪が進む年齢だろうか?

 それより、様子を見に行ったはずの大垣はどうしたのだろうか?

 先程、彼が逃げろと叫んだはず。彼はどうしたのか。

 その答えは大垣本人の声が教えてくれた。

 

「逃げて……、ください」

 

 弱々しい声。

 その声に視線を向ければ、深山の更に後ろ、あの実験病棟と病院区画を仕切る扉に大垣が寄りかかっていた。

 

 有紗は声が出なかった。それは信じられないものだった。

 大垣は左手をだらりと垂らしている。明らかに肩関節がまともでないことを示していた。

 あの大垣を潰した? 大垣の力は皆知っていた。

 同種の力を持つ有紗でさえ、大垣にダメージを与えたのは全力のパンチ一発。

 それも大垣が避けなかったからであって、十分かわすことも出来た一撃だった。

 

 いや、そんなことよりも、大垣のもたれ掛かっている黒き扉が、クラインの壷でも作るかのように湾曲しているのだ。

 この実験病棟を外から隔てるその扉は、シェルターのそれと同種のものだ。

 だからこそ、閉じれば中の様子を外から知ることは出来なし、外からも中からもセキュリティーを解除しな限り開けることが出来ない。

 外からの侵入を遮る為、患者の逃亡を防ぐ為、無意味とも思えるほど厳重で強固な扉のはずだった。

 なのにそれがねじ曲がって開いている。

 そんなこと、自らの馬鹿力をもってしても絶対に出来ない自信が有紗にはある。

 

「深山! なぜ黒川を殺した!」

 

 返事をしようとしない深山に、再び黒川が叫ぶ。

 黒川が黒川を殺した理由を問うているのだ。そんな状況に、有紗は余計に頭が混乱した。

 

 やはり深山はそれもにも答えず、顔を下に向けたまま、ふらりふらりと有紗たちに近づいてきた。

 それに、思わず有紗は後退る。

 本能が危険を察知したのだろう。目の前に深山がいても、何が危険なのか論理だって説明する自信はなかった。

 しかし、作弥が覚悟しろと言い。黒川が黒川を殺したと言い。大垣が逃げろと言う。

 そんな男が危険でないはずがない。有紗は唾を飲み込み、出来るだけ冷静を装った。

 

 まるで何かを思い出したかのように深山が顔を上げた。

 表情が硬い。目の焦点も合っていない。それは明らかに正気の人間の顔ではなかった。

 その唇が細かく震えながら動き出す。

 

「ま、だいた……。こん……なま、ね、をいつ、ま……で」

 

 深山の口から零れたのはたどたどしい言葉だった。

 その喋り方に有紗は心当たりがあった。それはMBADの末期患者が途切れ途切れに言葉を口にする姿だった。

 

「とまれ! 深山!」

 

 黒川が銃を構える。手にしたのは安達郁斗に対して使った麻酔銃だった。

 

「迷わず打ちなさい! このままでは危険です」

 

 作弥が堪らず声を上げた。それに従うように黒川は麻酔銃を撃ち込む。

 胸元に突き刺さる小型注射器が奇妙に揺れた。

 

「入ってないか!」

 

 黒川が叫ぶ。麻酔銃は衣服の上からでは有効に麻酔薬を注入出来ない場合がある。

 その場合を考慮して、黒川はもう二発、シャツが破けている腕と肩に麻酔銃を撃ち込んだ。

 それなのに、深山の足取りが止まる気配がない。

 

「まさか……」

 

 落胆の声を黒川が上げる。

 薬剤耐性のついた安達郁斗を一発で眠らした麻酔銃を三発喰らって平気だとは、それこそまさかの事態だった。

 

「アレが三人を殺したのですか?」

 

 作弥が黒川に聞く。アレとは目の前にいる深山のことだ。

 作弥はもう目の前の人間を、自らの記憶の中にある深山浩であるという認識を改めていた。

 

「そうらしい。私も確認していないが、恐らく」

 

 三人。深山と思われていた遺体と黒川をマークしていたという二人の警察官。

 有紗は兄から提供された資料の写真を思い出した。

 

 あの写真を見れば、まともな神経の者なら一週間は肉料理が食べられなくなるだろう。

 まだバラバラ死体の方がましだった。ぐちゃぐちゃの遺体。そう、そんな擬態語が一番近い。

 身から出る骨とか、人間の骨格では曲がらないように曲がっているとか、中身がシェイクされているとか。

 思い出しただけで吐き気がする。そんな惨劇を目の前の男が起こしたというのだろうか。

 

 その時、大垣が動いた。

 何の手加減もない、有紗と小競り合いをしていたときと比べものにならない速さの助走。

 その蹴り足を受け止める床のタイルが耐えきれず、ひび割れていく。

 大垣の目には相手を殺しても構わないという気迫がまとっていた。

 そして跳躍。天井ギリギリまで放物線を描き、そのまま両の足で深山の後頭部を弾き跳ばず。

 

 予想外に、深山は何の抵抗もしなかった。

 大垣の体が跳ね飛ばすまま、真っ白な床に顔面を叩きつけられ、朱のしぶきをまき散らす。

 着地を果たした大垣が、素早く有紗の横まで下がってきた。

 

「正菱有紗! 手伝え!」

 

 大垣の顔は蒼白で異常な汗が湧き出ていた。

 垂らした左腕を見れば、肩を脱臼したのではなく、二の腕が折られていた。

 それも単純骨折ではない。二本の骨が原型を留めず、腕の骨格を維持出来なくなっていた。

 

「ちょっと、その腕!」

 

 有紗は大垣の腕を指し示すが、当人は先程倒したはずの深山の方を睨み付け警戒を解いていなかった。

 

「有紗君!」

 

 作弥の声に、有紗も気付く。あの大垣が全力の助走に全体重を乗せた蹴りを喰らって、深山は意識を失っていない。

 何事もなかったかのように、むくりと立ち上がり、あの焦点の合ってない目を四人に向けた。

 

「……いたい」

 

 そりゃ痛いでしょう。有紗は心中呟き、顔をしかめた。

 床にものすごい勢いで衝突をした深山の鼻骨は砕け、鼻血があふれ出している。

 前歯も折れたのだろう。深山の力無く空いた口元に白く見えるはずの物も存在しなかった。

 

 それでも、起きあがった深山は再び有紗たちの方へ前進を開始した。

 

「何? 何? どういうこと?」

 

 ダメージがないはずがない。それなのに立ち上がるのは明確な意図があるはずだ。

 それなのに深山の表情に意思が感じられない。あの深山は何なのだろう。

 

「大垣、腕はアイツにやられたのね? アイツは敵……?」

 

「あの男をどうにかしないと、こうなるぞ」

 

 有紗でも勝てなかった大垣の腕を砕いた深山。有紗は身震いした。

 

「アイツの目的はアンタたちだけ?」

 

「おそらく見境ないぞ」

 

「そうでしょうね……」

 

 有紗は唸る。深山の様子が尋常ではないのは一目瞭然だった。

 口元が僅かに動き、何か小声で呟いているのが見えるが、何を言っているのかは聞きとれない。

 ゆっくりと前進する歩みも、体を前後左右に揺らし、視線も一定にない。

 

 そんな深山が立ち止まった。何事かと一同に警戒が走る。

 深山はゆっくりとした動きのまま、足下に散らかっていた点滴パックを手にした。

 

 点滴パックを持った深山の手が、すうっと上がる。そして胴体の捻り。

 それが投擲(とうてき)の予備動作だと気付いたときには、風切り音だけが通り過ぎた。

 

 遙か後方で盛大な破裂音。そして液体が飛び散る音が静かに鳴る。

 四人は過ぎ去る物のスピードに身動き出来なかった。

 それは拳銃の弾丸と同じだった。放たれれば最後、目で追うことなど出来はしない。

 運良く四人に当たらず逸れたが、直撃すれば怪我では済まないだろう。

 

「何……それ……」

 

 もちろん有紗が筋力全開でボールを投げれば、速球派のプロ野球選手並のスピードボールは投げられるだろう。

 それでも点滴パックのような空気抵抗の大きい物を、有紗も大垣も反応出来ない速度で投げるなど考えられなかった。

 

「あんな無駄が多い投球動作で百五十マイル以上は出ていますね」

 

「よく骨格が保つな」

 

 作弥と黒川が口々に言う。その口調は他人事のように軽薄だった。

 

「何を呑気に!」

 

「そうは言っても、どうやら彼の相手を出来るのは大垣と君だけのようですよ。

 私に肉体労働を求めるのは酷という物です。私は安達郁斗ではありません」

 

「そんなことわかってる! 深山も私たちと同類なの?」

 

「詳細は知らんが、恐らくは……」

 

 黒川も深山がどうしてあんな状態になったか知らないと言う。

 深山の身に何があったというのだろうか。

 

 深山が再び点滴パックに手を伸ばした。あんなもの投げられ続けたら身が保たない。

 大垣と有紗なら咄嗟の反射で何とかなっても、黒川と作弥では一溜まりもないだろう。

 荒事に向かない二人は後ろにさがり、深山から距離をとった。

 

「厄介ね。……左右同時に行くわよ」

 

 深山をこのまま放置すれば、作弥にも危害が及ぶ。

 有紗も深山を無効化しなければならないと、大垣に連携の提案をした。

 筋肉リミッタが外れたタイプの力をもっているのなら、異常な速さと馬鹿力があっても二人を同時に相手する器用さはないはずである。

 

 深山が振りかぶる。それを合図に大垣が素早く踏み出した。

 先程と同じく腕の振りも見えぬ投擲。その瞬間、大垣はサイドステップで飛び退く。

 飛び来る物が視認出来なくても、リズムがわかれば避けるのは難しいことではない。

 

 予想取りのタイミングで点滴パックは大垣の足下に着弾した。横にかわしてなければ腿(もも)に直撃していただろう。

 

 点滴液の飛沫(しぶき)があがる。

 床に広がったその液体の上を滑るように有紗が飛びかかる。渾身の突き。

 しかし、それも半ば予想通りに手で受け止められた。深山も反射速度が尋常ではない。

 

 ドンという低い音が響き。有紗の突きに合わせて放たれた大垣の蹴りも深山に逆の手で受け止められていた。

 その衝撃が砕かれた腕の痛みとなって大垣は顔を歪めた。

 

 歩く速さはゆっくりだが、やはり深山も反射速度が速い。

 なにより、人間の筋力を一○○%近く発揮出来てしまう二人の攻撃を片手ずつで受け止めて、深山はよろける気配もない。

 

 深山の腕に力がこもり、大垣の体が浮く。

 掴まれた足が片手で引き上げられて、そのまま有紗の方に叩き付けられる。

 

「この!」

 

 有紗は両の足に力をいれて、宙を向かってくる大垣に背を向ける。

 背中に衝撃を感じながら足の屈伸の最大限に使って耐えしのぐ。

 

 有紗の背に受け止められた大垣は、すかさず有紗を台にして、空いた足を深山の後頭部に放つ。

 直撃。その瞬間深山の首がはじけたように揺れるのが見えた。

 しかし、深山は怯まない。

 掴かんだままの大垣の足を再び引き上げて、今度は壁に叩き付けた。

 

「がっぁ」

 

 大垣の肺から、苦悶の息が漏れる。右腕を折られている大垣はまともに受身がとれない。

 その衝撃たるや、壁がまるで豆腐のように大垣の体が突き刺さった。

 

 有紗はそれを隙とみて、肩から深山に突進する。

 勢いよく踏み込んだショルダータックル。だが深山に直撃するはずの肩が直前で止まってしまう。

 

 何かに受け止められたと感じ、有紗は押し切る為に重心を更に押し込む。

 それなのに全く進まず有紗の靴底が焦げ臭い匂いを発し後ろに滑り出す。

 そうなって、ようやく有紗は自分の肩の上に深山の足の裏があることを理解した。

 有紗のタックルは足の裏で受け止められ、押しのけられようとしている。

 

「足ぃぃ、一本でぇえ!」

 

 全身の力を込めたショルダータックルが軸足一本で立つ深山に押し負けようとしていた。

 有紗も意地で均衡を保つが、気を抜けば吹き飛ばされる圧力に両足の筋肉が軋み出す。

 噛みしめる奥歯が欠けた。

 

 徐々に徐々に、有紗の体が後ろに押されてしまう。

 押し負けようとも深山を抑えているこの時こそ好機なのだが、まともに頭から壁に叩き付けられた大垣は、立ち上がりもしていない。

 

「こんちくしょぉっ!」

 

 力限りの声で気合いを入れるが有紗の筋力は限界だった。

 そこに深山の手が伸びる。有紗の頭は鷲づかみされ、そのまま上から押し潰さんと圧力がました。

 

「死ねや」

 

 柚山潤の声だった。

 瞬間、深山の懐に柚山潤が飛び込んでくる。

 その両の拳が深山のボディー、レバー、ジョーと次々に叩き込まれた。

 それは安達郁斗お得意のコンビネーション。藤堂作弥に代わり郁斗の人格が現れたのだ。

 

 郁斗の連撃のお陰で押し込む圧力が減ったと見るや、今度は有紗が一気に肩を押し込んだ。

 限界まで負荷に耐えた筋肉は負荷を取り去られ、力の全てを運動エネルギーへと変える。

 瞬間体中の筋肉に血液が回るのを有紗は感じていた。渾身の一撃だった。

 

 深山は弾き出される様に後方に吹き飛ばされる。その距離十二メートル程。

 その空中を行った距離が有紗と深山がとてつもない力同士で押し合っていた事を如実に語っていた。

 

「苦戦しているようだな、嬢ちゃん」

 

 郁斗の鼻につく言い様。しかし、助けられた形の有紗は文句のつけようがない。

 実際、あの深山に対して苦戦しているのは間違いない。

 

 有紗が見ているだけで、すでに大垣が二発蹴りをクリーンヒットさせているにも関わらず、深山に決定的なダメージを与えることは出来きていない。

 そんな深山に馬鹿力のない郁斗のパンチや、密着状態からの突き飛ばしでダメージを負わせたと考えるのは楽観的過ぎた。

 

 案の定、大の字で床に倒れていた深山は既に立ち上がろうとしていた。

 

「おいおい、効いてねぇのかよ」

 

「どうしてアンタには筋力制御異常がないのよ!」

 

「知らねぇよ。お前とは違う治療法だったんだろ!」

 

 今更そんな事を言っても始まらない。有紗は息を整えながら次に何をすべきか考えた。

 しかし何も思いつかない。今の有紗は血が筋肉ばかりに回り、思考が全く冴えないのだ。

 

「郁斗、お願い。時間稼ぐからそこに倒れている人を黒川の所に運んで」

 

 消去法で決めた。何も思い付かないのなら、作戦は他の人間に考えさせる。

 この深山については黒川が何か知っているはず。だから深山と距離をとる。

 

「なんでオレが! しかもよりにもよって黒川の所だと!」

 

 郁斗の気持ちも分からないではない。一番黒川を忌み嫌っている郁斗がハイそうですかと聞くはずがなかった。

 

「いいからお願い! 後でアンタに抱かれてもいいから」

 

 突拍子もないことは有紗も自覚していたが、この安達郁斗に動いてもらわないと本当に全員深山に殺されかねない。郁斗が喜びそうなことを他に思い付かなかった。

 

「はっ! なんでおめぇみてぇなガキ臭い女」

 

「十九の娘にガキ臭いですって?

 ……知ってるわよ。アンタ面食いだから、私みたいな見た目が綺麗な女性が好みなんでしょ?」

 

「自分で自分を綺麗って言う奴があるか。

 そんなことでオレが動くとでも思ったか! 古里の野郎じゃあるまいし」

 

 郁斗も他の人格の記憶が多少あるタイプの人格だった。身の危険を察知して現れる緊急避難型の人格にはその機能が必要なのだろう。

 

 郁斗の言うとおり、確かにそれが古里沖の役割であり安達郁斗のスタンスだった。

 説得の仕方を間違った。安達郁斗は交換条件ではなく、焚きつけるべきだった。

 有紗は直ぐに反省し、言うべき言葉を見つけた。

 

「そう、じゃあ深山に勝つために戦術的撤退よ。アイツを倒すために動きなさい」

 

「誰がお前の命令を聞くか!」

 

「なら死にたいの? 早くしなさい!」

 

 有紗の言葉は途端に効果を見せる。郁斗は渋々ながら倒れていた大垣に駆け寄ったのだ。

 安達郁斗は何かに反抗したり、立ち向かう気質がある。

 そして柚山潤のなかで一番死にたくないと考えている人格でもある。有紗はその郁斗の矜持(きょうじ)を利用したのだ。

 

「嬢ちゃん、死んでるぞ」

 

「えっ……」

 

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 死んでる、何が? そう問い返す必要もない。

 郁斗が抱き起こした大垣の目は見開いたまま、全く動こうとしなかった。

 

「首が折れてるな。それに、こんだけ頭かち割られれば誰でも死ぬわ」

 

 郁斗の冷静な見立てに、何故かしら憤りを覚える。

 大垣が死んだ? たった一度壁に叩き付けられただけで?

 昼に手合わせした有紗だからわかる。大垣がそんな簡単に死ぬような人間ではない。それをたった一撃で……

 

 どんなに否定したくとも、大垣の後頭部から染み出たらしい血溜まりと、大垣が衝突した壁の盛大な破損状態が真実を告げていた。

 

「大垣っ!」

 

 堪らず有紗が声を上げる。確かに有紗は大垣と親しいわけではない。

 昼に初めて会って、ボコボコにされた関係だ。恨みはあっても好意なんて欠片も抱いていなかった。

 意見だって全く食い違った。それでも死んでいいなんて、こんな所で無駄死にしていいだなんてありえない。

 大垣はMBADを根絶できるなら死んでもいいと考えていた。

 それはこんな形の終わり方ではないはずだ。有紗は心苦しさと怒りに心を染めていた。

 

 当の深山は有紗に吹き飛ばされたにもかかわらず、何事もなく立ち上がり、再び有紗たちに向け、あのゆっくりとした前進を再開していた。

 

「深山ぁあっ!」

 

 有紗は吠えていた。

 

「戦術的撤退だろ?」

 

 怒りにまかせ飛びかかろうとしていた有紗の手を郁斗が引いて止めた。

 これでは立場が逆だ。血の気の多い郁斗が人を制止するなど普段からはあり得ない行動だった。

 それだけ目の前で人の死を見た有紗は頭に血が上っていた。

 

「わかってる!」

 

 悔しまぎれに大声を上げ、有紗は作弥と駆けだした。残念だが大垣はその場に置いて行った。

 今すぐ治療すれば蘇生する可能性もあっただろう、しかし治療時に深山に襲われては元も子もない。

 後方で待機していた黒川にも二人のやりとりが聞こえていたのだろう。物寂しい顔つきをしていた。

 

「死んだか……」

 

 黒川の問いに有紗は首肯するしかなかった。

 

「私の所為だな」

 

 そう、打ちひしがれる黒川を連れ、有紗たちは扉が開いたままになっていた部屋に駆け込んだ。

 そこは元いた病室だった。扉を閉めると反射的にロックをかけようとするが、鍵が見あたらない。

 

「なんで鍵がないの!」

 

「病室に内側からかける鍵はねぇだろ、普通」

 

 慌てていた有紗は郁斗に諭されてしまう。

 自分がそんなことにも気が回らないようになっていると自覚した有紗は頭(かぶり)をふって、気を取り直した。

 

「とにかく、あの深山は何なの? ちょっと普通じゃないんだけど」

 

「恐らく、深山はMBAD治療を元にした肉体異常化の一種だと思う」

 

 黒川の推論は、この場にいる全員が抱いた予想と同じ物だった。

 

「深山もMBADだったの?」

 

「私の知る限りではMBADを発症したとは聞いていない。

 大垣の例もあるので、成人で発症した可能性はあるが、深山はすでに四十を超えている。

 そんな年代の発症は、それこそ聞いていない。とすれば健康体からの人体改造と考えるのが筋だ」

 

 それこそ、十年前にこの実験病棟で研究していたテーマそのものであった。

 人工天才。それはなにも思考が優れているだけではない。

 運動神経の天才。トレーニングをしなくてもパワーが出せる運動の天才も研究されていた。

 もちろん有紗の体に表れた筋力制御異常が元となっている。

 

「誰が? 何のために? どうして深山が?」

 

「私はその答えを持っていない。

 ただ言えることは深山がMBAD末期に特有の『クラザ徴候』に陥っていると考えられることだ」

 

「クラザ徴候?」

 

 黒川が有紗の知らない用語を口にした。

 有紗もMBADについては人一倍の知識を有しているが、その言葉は聞いたことがなかった。

 

「クラザ徴候の研究は進んでないからな。脳信号の混乱が著しく、制御出来なくなる状態だ。

 ああいう風に自らの意思をコントロール出来なくなり、やがて脳のネットワークが電気的異常発散を起こして、オーバーヒートを起こす……」

 

「オーバーヒートなんて回りくどい表現はやめてよ」

 

 有紗の口調は、その真実を察していることを物語っていた。

 

「脳神経が異常信号で過負荷状態になり次々と死滅する。その先にあるのは死だけだ。

 麻酔銃が効かなかったのも、深山にダメージを与えても立ち上がってくるのも、脳が正常に働いてないのだろう。

 痛覚信号も薬品の効能も無視されるほど脳内の異常信号が大きくなっている状態なら説明がつく」

 

「なら、放っておけばアイツ死ぬのかよ」

 

 郁斗の声はさして興味なさそうであった。安達郁斗にとって深山がどうなろうと知ったことではないのだ。

 

「いつかは死ぬだろうな。ただそれが今日明日といった一両日中かどうかはわからん。

 黒川を殺したときからあの状態と考えれば、もう二週間近くあのままなのかもしれない」

 

 その言葉に有紗は不審の眼を向ける。

 

「……アンタ何者なの? 黒川将人じゃないの?」

 

 今、目の前にいる男は「黒川」と呼ばれて一度も否定しなかった。

 しかし、その言葉ぶりは黒川将人と別人であることを示していた。

 黒川と思われていた男は目を閉じ、何かを考え巡らせた後に語り出した。

 

「……ニュースで深山浩の遺体と報道されていたのが本物の黒川将人だった。

 私も現場を見たわけではないが黒川は深山に殺されたのだろう。

 私は黒川が死に、その意思を継いだ者だ。だからもう私は黒川と同じ存在だと思ってもらえればいい。

 私が誰なのか、君たちにはどうでもいいことだ。

 ……君たちはここから逃げろ。おそらく深山の狙いは私だ。

 黒川を殺し、そして私を殺し、深山も死ぬ。

 それが深山の望みなんだろう……」

 

「望み? 何よそれ? 死にたいなら一人で死ねばいいじゃない」

 

 人を殺して自分も死ぬ。そんな心中的思想は有紗には理解出来なかった。

 

「そう言ってやるな。彼も……」

 

「オレは知ったこっちゃないな。それより、外の様子がおかしいぞ」

 

 ずっと廊下の様子を窺っていたいた郁斗が声色を落として言う。

 

 

 

 

 

(第12章の2につつぐ)


 
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