No.187687

ビスクドールの心(前編)

小市民さん

学習院目白キャンパス(男子校)に通う井伊温志(あつし)を突然に訪ねてきた戸山キャンパス(女子校)の生徒・酒井真結(まゆ)の目的は……
皆さん、お久しぶりです。劇中に実在する団体、個人名がいくつも出てきますが、あくまで創作としてお楽しみ下さい。
ところで、真結が温志を訪ねたとき、校門の前を指定していますが、これはキャンパス内まで取材出来なかったからです。物騒な世の中ですから、はい。

2010-12-03 10:42:21 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:880   閲覧ユーザー数:860

 歩道に植えられたイチョウ並木から、新緑から黄へと色を変えた扇形の葉が、音もなく散って行く。

 西門と呼ばれる学習院目白キャンパスが、JR目白駅に接した校門で、高等科二年生の井伊温志(いいあつし)は、来客を待っていたが、時刻になってもそれらしい人の姿は、どこにも見えなかった。

 唯一、初等科の生徒らしい濃紺に緋色の三本線が入ったセーラー服に、プリーツスカートといった制服姿の女子児童が、母親でも待っているのか、少し離れた目白通りの歩道で、所在なさげに立っている。

 授業の終業は午後三時であったが、今日に限ってはJR高田馬場駅に近い戸山キャンパスから、中等科三年の酒井おむすびという妙な名前の女生徒が訪ねてくるので、午後一時半で早退させてやる、その替わりに、文句は一切、言わずに女生徒につき合ってやれ、と温志は担任から念を押されていた。

 酒井おむすびという女生徒は、日本でも相当に地位のある人物の子女らしい。学習院では珍しい話でもなかった。

 西門を警備する年配の守衛数名ととりとめもない世間話でもして、暇をつぶそうか、と温志が考えたそのとき、歩道に立っていた初等科の女子児童が眉間にしわを寄せ、早足で温志に近づいてくるなり、

「あなた、ひょっとして、井伊温志(いいあつし)先輩?」

 居丈高に温志を誰何した。温志は、直感的にこの女子児童が酒井おむすびであることが解ったが、

「酒井おむすびか? 中等科の三年だって聞いていたぞ?」

 どう見ても身長百四十センチそこそこの小柄で、ツインテールから、てっきり初等科の生徒と思い込んでいたが、まさか中等科のしかも最上級生とは考えもせず、思わず聞き返すと、

「遅い! 午後一時半には西門の所に立っていて、伝えといたでしょ! 女子校の女の子が一人で男子校の校門で待たされる気持ち、考えなさい! しかもだらしのない格好!

彦根藩主宗家の直系っていうから、期待していたのに! それより何より、おむすびじゃない。真結と書いて、まゆ!」

 身長百七十五センチの長身の温志の頭のてっぺんからつま先まで一瞥すると、顔を背けて怒鳴った。

 温志は耳が隠れるほど髪を伸ばし、アンティークカッパーに染めている。多少ウエーブがかかっているが、これは天然パーマである。

 高等科の制服である濃紺の詰め襟は、ファスナーで合わせるようになっているが、温志は襟まできちんと引き上げず、胸辺りまで開けている。それでいて晩秋を寒そうにマフラーをセンスのかけらもなく、首に巻いている。

 黒い革靴はかかとを履きつぶし、迷彩模様のリュックはボロボロで、真結にとって、温志はまるでホームレスに見えた。

 学習院は、明治十年に華族子弟のために開校された伝統校であったが、平成の今日では、私立学校に過ぎない。

 それでも、卒業生の中には、政財界で活躍している人も多い。温志のような身なりの学生は多いが、高等科は義務教育を終えたという位置づけから、一般で考えられているよりもかなり自由な校風となっているのだった。

 それでも、模範生のような真結にとって温志のような存在は、勘に障る。温志は、

「それで、どこへ連れて行こうってんだ? 東京スカイツリーは、まだ工事中だけど?」

 嫌みたっぷりに言うと、真結は、

「バカ、駒場公園!」

 温志の右手首を両手で引っつかむなり、問答無用に歩き始めた。

 

 

 山手線で目白駅から渋谷駅まで移動する間、温志は携帯電話のインターネット機能を使って、真結の家筋である「酒井氏」について調べた。

 酒井氏は、三河国の在地領主で、その末裔は徳川政権下で九家を数え、全て譜代大名となり、一族から老中、大老を輩出している。

 明治にいたっては、華族に列し、庄内、姫路、小浜の三家は伯爵、その他は子爵を授けられている。

 真結はどこの酒井家の家筋かは解らなかったが、同じ学習院とはいえ、他校の感のある目白キャンパスの上級生を戸山キャンパスの下級生が、初対面で怒鳴りつける気位の高さは、やはり大名家の姫君の血を引いているようだった。

 温志は、担任が午後一時半で早退させる替わりに文句は一切、言わず、女生徒につき合え、と念を押した一言が、理解できた。

 温志は、走行する車両のドアに憮然として寄りかかり、天井近くのモニターに映し出された天気予報を見上げている真結に、

「おい、いつまでも怒っていないで、せめて用件だけでも聞かせろよ」

 見かねたように言うと、真結は、

「この間の鳳櫻祭のとき、写真部の展示で見たの。ビスクドールを古い洋館の中の西洋家具に寄りかからせて撮った作品。

 あのビスクドールは、リーサという名前で、井伊先輩のものでしょう? あのリーサを貸してほしいの」

 一般に文化祭と呼ばれ、十一月に行われる学園祭を学習院の目白キャンパスの中・高等科では鳳櫻祭と称している。

 その行事に際し、写真部に籍を置く友人が、「他の部員達とは一線を画する絵がほしい」ということから、温志が所有するリーサと名付けられたビスクドールを、横浜の山手にある洋館へもって行き、エキゾチックでクラシカルな雰囲気が漂う作品に仕上げたのだった。

 当初は、洋風家具が多く入れられている上野の不忍池近くにある旧岩崎邸で撮影しようとしたのだが、管理のボランティアの目と観光客が多く、とても撮影出来ず、思案していると、横浜市が運営・管理している洋館群ならば、仰々しい手続きなど経ずとも、目的にかなう撮影が可能であることが解り、まだ残暑が厳しかったものの、好天に恵まれた日曜の午前中に訪ねることができたのだった。

 真結は温志の友人が撮影し、パネルに仕立てた作品と、パネルの下端にタイトル、撮影地、撮影者名、撮影データーに加え、備考として人形所有者:井伊温志と記された奥書のアップをデジカメで撮影し、家庭用のプリンターで印刷したものを温志に見せた。

 手回しのよさに苦笑したが、何よりも人形の名がリーサであることを知っていた真結に、温志は驚いた。

 

 

 京王井の頭線を駒場東大前駅で降り、駒場公園の正門へ向かう途中の住宅街は、広壮な住宅と、低層ながら高級マンションが建ち並ぶ閑静な住宅街だった。

 植樹が鬱蒼と枝を拡げ、昼間でも小暗い駒場公園に入ると、既に陽が傾き始めていたものの、樹間からスクラッチタイルを貼った外装の旧前田侯爵邸の洋館が見えてきた。

 文化財好きの温志は目を輝かせたが、真結はイギリス後期のゴシック様式を簡略化した、チューダー様式の特徴を見せる扁平アーチを用いた、玄関ポーチから足早に内部へ温志の手を引いた。

 公開時間が午後四時半までと定められており、急いでいるのだろう。

 建物に入ると、各室にはイタリア産大理石をマントルピースや角柱に用い、壁にはフランス産絹織物や壁紙を貼ったヨーロッパ調でありながら、日本の伝統的な唐草や雛菊が随所に見られる。

 こうした大邸宅は、旧加賀百万石前田家の第十六代当主前田利為の本邸として、昭和四年に欧州建築の粋を集めて建築され、当時は東洋一と称されたという。

 真結は温志の手を引き、二階のロビーまでやってくると、「前田家の様子」というパネル展示を見せた。

 実際に住まいとして使われていた時代の記録写真と共に、一家を玄関ポーチ前に集めて撮らせた記念写真が展示されている。真結は目を凝らし、

「ほら、ここ」

 前田利為一家が揃った写真を指さした。

 白黒で、粒子の粗い写真の中央には、当主で大日本帝国陸軍の軍人で大将にまで進んだ人らしく、面長で口ひげを蓄え、陸軍大学校を卒業した際、下賜された恩師の軍刀を携えた凛々しい軍服姿で、どかりと腰を下ろしている。

 その隣には、軍人妻の鑑といった表現がふさわしい着物姿の夫人が、慎ましく腰をかけている。

 温志が携帯電話のインターネット機能で調べてみると、夫人は後妻で、雅楽頭系酒井家宗家の第二十代当主の娘、菊子であった。

 二人の左右には、洋装の子息や令嬢と思われる幼児たちが並んでいるが、立ち位置から長女と次女と思しき二人が、よく似たビスクドールを抱いている。

「何か気がつかない?」

 真結が言うと、温志は長女と次女に目を凝らした。瓜二つの双生児であった。しかも、長女はリーサを抱き、次女はリーサとよく似たビスクドールを抱いている。

 思うに、元々は作者が双子という設定で創った対の作品だったのだろう。

 双子として生まれた姉妹が、双子として創られた人形を所有していたのだった。真結は口を開いた。

「利為と菊子には、美意子と美奈子という娘達が生まれたの。美意子はリーサを、美奈子はレイというビスクドールを父親から贈られたのね」

 温志が再び携帯電話を操作し、前田利為の経歴を確かめると、昭和二年から五年まで駐英大使館附武官に就いており、この間に双子として創られたビスクドールを英大使のつてで娘達へのプレゼントとして買い求めたのだろう。

「んで、七十年以上も昔の写真を見せるために、駒場まで引っ張ってきて、俺にどうしろって言うんだ?」

 温志は真結の目的を尋ねると、

「美意子おばあちゃんはハクビ総合学院の学長を勤めていたんだけど、平成十一年に亡くなったの。その形見分けのとき、リーサは行方不明になったの。きっと、アンティークショップに売られて、井伊先輩の手に渡ったのね。

 美意子おばあちゃんが亡くなったことと、リーサが行方不明になったことから、美奈子おばあちゃんに認知症の症状が出始めたの。

 美奈子おばあちゃんは、『何も解らなくなってしまう前に』と言って、わたしにレイを譲ってくれたの。

 今は、すっかり症状が進んで、慶應大学病院に入院している……そこで、今一度、思春期に大切にしていたリーサとレイが揃った姿を見せれば……」

「それで、俺にリーサを貸せ、と言い出したわけか」

 温志は困惑し、ため息をついて言った。

 今までの話から、真結は姫路藩主酒井家の直系らしい。温志は真結が年長者をぞんざいに扱う気質が理解できた。

 美奈子が真結にレイを譲ったのは、真結が五つか六つの頃で、物心もつかぬ子供に希少な美術品を贈るなど、温志には考えられなかった。

 しかし、前田利為が美意子と美奈子にリーサとレイを贈ったのも、娘達が五つか六つの頃で、歴史は繰り返される、とはよく言ったものである。

 更に、真結はしきりに美意子と美奈子をおばあちゃんと呼んでいるが、実際には曾祖母に当たるはずで、細かいことは気にかけない家系なのかもしれない。

 黙り込んだ温志に、真結は顔を輝かせ、

「リーサとレイにとっては、感動と奇跡の対面よ、それで、認知症の元持ち主を救うの。泣ける話だと思わない?」

「俺にとっては、不愉快極まりない話だ」

 温志が斬り捨てんばかりに言うと、真結はむっとして、

「な……何よ?」

「いいか、ビスクドールというのは、簡単に言うと焼き物だ。百年や二百年もって当然のものなんだ。ということは、持ち主が二代三代と代わるのも、これまた当然だ。そんな当たり前のことに感動して、貴重な美術品をボケ老人に渡すなど、出来るか!」

 温志が言うと、真結はまたも短気を起こし、

「何さ、あんたは井伊家当主の直系だから、少しは物分かりがいいと思っていたのに。それに、美奈子おばあちゃんは畜生腹だと自らに生涯、言い聞かせ、美意子おばあちゃんの陰でひっそりと生きてきたのよ。わたしはそんなおばあちゃんの力になりたいの!」

「畜生腹がどうした? 俺の家は近江国彦根藩主と井伊家当主を務めた家系らしいが、昭和二十八年から九期に渡って彦根市長に就いた井伊直愛(なおよし)には双子の弟で、直弘という人物がいた。

 直弘は畜生腹だの日陰者だの考えず、東京帝国大学農学部を終えて、農林省に入り、昆虫の研究をしていたらしい。

 明治末から昭和初めという時代背景もあったのだろうが、自分を日陰者と思い込み、卑下して生きてきた人生の結果は、自分の責任だ!」

 温志が言いきると、真結は本気で怒り出し、

「何さ! 言いたいことはそれだけ?」

「二つある。今更、ボケ老人の前に対として創られ、何の欠損もなく、伝わる美術品を持ち出しても無意味だ。もう一つは、展示室5としている旧長女居室と、展示室10としている旧三女居室に比べ、展示室7としている旧次女居室ははるかに狭い。こうした部屋の間取りからも美奈子という人の母譲りの慎ましい性格が伝わってくる。お前に説明されるよりも、はるかに雄弁に、だ!」

 温志が言いきると、真結は目に涙を浮かべ、

「何さ! バカ!」

 旧前田侯爵邸を飛び出して行った。温志は真結の小さな後ろ姿を目で追いながら、

「褒め言葉にとっておく」

 これでゆっくりと目黒区管理ながらも都指定有形文化財を見学出来ると、パンフレットを手に一階へ戻った。


 
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