No.180789

R.I.P.-1

青春小説でもあり、冒険ファンタジー小説でもあるかのようなスタイルにしてみました。短編小説なのに、相当に長い作品になってしまっていますが、よろしければどうぞ。

2010-10-27 21:59:58 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:357   閲覧ユーザー数:316

 僕は、どこかの廊下の中にいた。

 廊下は延々と伸びており、その終わりは見る事ができないほどに長い廊下だった。背後

を振り返ってみてもずっと長い廊下が連なっている。

 僕はこの廊下が、自分が通っている学校の廊下の光景だと言う事を知っていた。床はタ

イル張りでできており、同じような形の教室の扉がずっと連なっている。

 しかしここは、僕の通っている学校の廊下では無い。

 何しろ、僕の学校の廊下はこんなに長くは無いし、教室の数だってこんなにない。僕が見

ている廊下は果てしなく長く、教室の扉の数も無数にある。

 そして、廊下から外の景色を見てみても、そこは真っ暗闇で何も無かった。ただずっと暗

い空間が広がっている。

 何故、僕はこんなところにいるんだろう。立った一人ぼっちで長い空間に取り残されてい

て、僕は怖くなって来そうだった。

 そんな、異様な空間とは不釣り合いに、僕が着ているのは、いつも寝る時に身につけて

いるパジャマだった。僕は眠っている間に、どこか知らない場所に連れ去られてしまったの

だろうか?

 不気味ともとれるこの空間に、僕のパジャマ姿はあまりにも不釣り合いだった。

 延々と続いて行く廊下の中にいるのが恐ろしく、僕は動き出そうとした。ゆっくりと手を使

って壁を支えにして立ちあがろうとする。ゆっくりと、転んだりしないように脚をしっかりと踏

みしめながら。

 僕は怖さに負けそうになりながらも、何とか立ち上がり、体を動かし始めることができた。

 そして、壁に手を当ててそれを支えにするかのように、一歩一歩僕は脚を踏み出していっ

た。

 延々と続く廊下は、まるで暗い空間の中にぽっかり口を開いているかのように続いてい

る。その両脇には僕の通っている学校の教室が続いていたが、教室は、クラス名の表示も

なく、ただ真っ白なクラス名のプレートがかかっているだけだ。掲示板にも何も張られてい

ない。

 ここは、やっぱり僕がいつも通っている学校の廊下では無い。その無機質さ、が僕にとっ

てはとても恐ろしくなってしまった。

 だけれども、恐れる事は無い。きっと僕以外にも誰かがここにいるはずだし、僕を助けに

来てくれる。そう思って、誰か、他に人はいないかと僕は延々と続いて行く廊下を歩いてい

った。

 やがて、慎重に一歩一歩を踏み出しながら歩いて行く僕の元に、声が響き渡ってきた。

 誰もいない学校の廊下の中で、その声は幾度も反射して大きな音となって響き渡ってく

る。

 誰かが、この延々と続いている廊下の中か、教室の扉の向こう側にいる。それが分かっ

た僕は、急いで歩き始めた。だが、壁を支えにして、絶対に転んだりしないように、慎重に

歩みを進めていく。

 声がはっきりと聞こえるようになってきた。

「ここに入ってくるな!ここはお前達の来る場所じゃないんだよ!」

 それは甲高い声で、僕の耳にもはっきりと聞き取ることができた。廊下にずっと続いてい

る教室の扉の内一つから聞こえてきている。はっきりとした口調だ。

「ほら!それ以上こっちに近づくな。おれ達が黙っちゃあいないぜ…!」

 という声が続けて聞こえてくる。同じ声の主だ。その声の主は、扉のすぐ向こう側、学校で

言ったら教室内で声を出している。

 そして誰かと会話をしているかのようだった。

 と、突然、教室の扉が開け放たれ、そこから誰かが飛び出してきた。その誰かは壁際に

いた僕とぶつかり、その拍子に僕達は倒れてしまう。

 床に、僕ともう一人は倒れ込んでしまった。

「痛てえな…。いきなりぶつかってくんなよ」

 僕とぶつかってきた誰かはそのように言って来た。僕が何とか体を起こして見たその誰

かは、小さな子供だった。

 その子供は、赤い服を着ており、髪も伸ばしている。だから男の子か女の子かも分から

ないような姿をしていた。

 だけれども男の子だ。今発したこの子の声は女の子にしては低い声をしている。

 その男の子の身の丈は僕よりも明らかに小さく、年頃で行ったら、8歳か9歳くらいでしか

ないだろう。

 僕の知らない子だった。今まで出会った事もない。どこかで見かけた事もないような子

だ。

 その子供は立ちあがると、僕の方をまるで突きさすかのような目で見てきた。赤い服のよ

うに見えたのは、ローブとか言う一張羅で、その子はそれを身にまとっていた。

「君は誰?」

 僕は突然現れてきたその男の子に尋ねた。

「お前こそ誰だよ?」

 その男の子は、僕に対して大分高圧的な声で言って来た。この場に誰か他の人がいて、

僕達を見たとしても、明らかに僕の方が年上なのに、その男の子はまるでお構いなしだっ

た。

「ぼ、僕は真一…」

 僕は、一体、どこの子だろうと、僕は思いつつその男の子を見下ろしていた。男の子は、

まるで自分が見下ろされている事が不満であるかのような表情で僕の方を見上げてくる。

不思議な事に、男の子の瞳は金色をしていて、まるでそこに吸い込まれてしまいそうな瞳だ

った。

「シンイチだって?変な名前だな?」

 男の子は僕に向かってそう言って来た。

「す…、好きでそんな名前になったわけじゃないよ…」

 僕は男の子から顔をそむけてそう言った。そして、少し恥ずかしい顔になる。この子は明

らかに僕よりも年下だったが、年下の男の子相手に僕は一体何をやっているんだろう。

「おれは、フェンリルって言うんだ。よろしくな」

 と言うだけでその男の子は、自分の着ているローブを大切なもののように、ほこりを叩い

て落とすのだった。

「よ、よろしく…」

 唐突に現れた男の子に対して僕は思わず頭を下げてしまった。

 その時、僕は支えている自分のバランスを崩してしまったらしく、廊下のタイルに尻もちを

ついてしまう。

 尻もちをついてしまった僕は、したたかに体を打つ。冷たいタイルが僕の体を打ってき

た。

「何やっているんだよ全く」

 フェンリルと名乗った男の子は、僕に向かって呆れたような声を出して言って来た。

「さ、さあ…?何をやっているんだろうね…?はは…」

 と、答える僕。フェンリルと名乗った男の子が僕に向かって手を伸ばしてきたので、僕は

その男の子の手を掴む。すると、僕よりも小さな男の子だと言うのに、体を引っ張られて無

理矢理立たせられた。

 すると、僕はよろめきながらも、何とかその場に立つことができた。

 僕は思わず唖然とした。

「あ、あれ、立てる…」

 今まで壁で体を支えていたのだが、今は無事に立つことができるようだった。

「何、言っているんだよ、当たり前だろ?」

 フェンリルと名乗った男は当然のことであるかのように僕に言って来た。

 僕は周囲を見回す。このだだっ広い廊下の中には、僕達以外には何もいないようだっ

た。廊下の窓から外を覗き見ようとも、そこは黒い空間が広がっているだけで何も無い。

「ここは、どこなの?」

 僕は自分が歩いてきた背後を振り向いて見た。その方向にもずっと長い廊下が広がって

いる。まるで呑み込まれてしまいそうなくらい奥深い廊下だ。

「そんな事が、今、大切な事かい? それよりも大変なんだ。すぐにおれと一緒についてくる

んだ」

 と、フェンリルという男の子は僕に言って来る。彼は僕の腕を引っ張って連れて行く。

 僕はその男の子に無理矢理廊下の先へと連れて行かれそうになっていた。

「ちょ…、ちょっと、どこへ連れて行くんだよ…!」

 僕はその男の子フェンリルに尋ねた。彼は、僕の手を引っ張ったまま、廊下の先へと走っ

て行こうとする。

 僕は突然引っ張られたため、再びその場所で転んでしまった。

「何やっているんだよ」

 苛立ったようにフェンリルは言って来た。

 僕は思わず照れ笑いをしてしまった。いきなり引っ張られて走りだす事は僕にはできなか

った。

 再び、床に手をつきながらおぼつかない脚を立ち上がらせ、その身を起こした。

「へへへ…、ごめん…」

「転んでいるような暇は無いんだよ。さっさと体を起こしな。で、おれに付いて来るんだよ。

急いでな」

 再び僕は手を引っ張られ、延々続いている僕の学校の廊下を走り始めた。

 脚の踏み出しがかみ合わないような動きとなってしまったが、僕は何とかフェンリルと共

に走って行く事ができた。

 彼はどこへと向かっているのだろう?突然、僕の目の前に現れた男の子は、何も教えてく

れないままに僕を引っ張り出し、どこかへと連れて行く。

 どこまで走っていってもまるで何も変わっていく様子は無い。ずっと同じような景色が続い

ていくだけだ。

 口を開けているだけのトンネルが延々と続いて行く。

 僕が何故ここにいるのかも分からない。何故、目の前に男の子が現れて、僕を連れて行

くのかも分からない。

「僕をどこに連れて行くの?」

 僕の手を引っ張っていく男の子、フェンリルに尋ねた。彼は全速力で走って行き、まるで

何かを目指していくようだった。

「連れて行くんじゃない。逃げているんだよ」

 フェンリルは僕に言って来た。

「逃げている?一体何から?」

 僕は走りながら尋ねた。脚の噛み合わせが悪くなり、思わずそこで転びそうになってしま

うが、何とか持ち直し、男の子に引っ張られていく。

 男の子は何も答えることなく、僕を引っ張って行くだけだ。

 少しの間走っていると、僕は、何かの音を通路の向こう側から耳にした。その音は、廊下

の向こう側から異様な響きを持って、まるで僕達に襲いかかるように反響してきた。

「何?今のは…!」

 僕は思わず声を上げた。だが、僕を引っ張っていくフェンリルという男の子は、僕の方を

振り返って言ってくる。

「ただ、黙って逃げていればいいんだよ!」

 と言うだけで、僕の体を無理やり連れて行くだけだ。

 僕は何度も転げそうになりながら、フェンリルと言う男の子と、背後から迫ってくる何かか

ら逃げだそうとしていた。

 背後からは何が迫ってきているのだろう。僕達が走ってきた廊下のずっと向こう側には何

も見えない。だが、確かに何かが近づいてきている事は分かる。声が反響してくるのだ。

 と、フェンリルは突然脚を止めた。

 あまりにいきなり脚を止めたので、僕はまたその場で転げそうになってしまった。

「こっからは滑っていかなきゃいけないな…」

 フェンリルは、廊下の先を見渡しながら言っていた。僕達二人の前に続いている廊下は、

突然傾斜ができており、それがずっと続いている。

 もちろん僕が通っている学校にはこんなふうに突然廊下が傾斜しているような事は無い。

この訳の分からない空間に突然現れた、激しい傾斜だ。

 多分、歩いて降りていく事は出来ない。傾斜の上を滑り台のように滑って行くしか方法は

無いだろう。

 だけれども、僕は何故、フェンリルと言う男の子に従って逃げて行かなければならないの

かが分からなかった。だから、この廊下の滑り台の激しい傾斜を滑って降りていくつもりは

無い。

「滑ってくよ。ほら、早くしろ」

 フェンリルはローブ姿のまま廊下に座り、僕を前に座らせた。

「い、嫌だよ…。こんな所…」

 僕の知っている滑り台は、終わりが見える滑り台だ。だが、今僕の目の前にある滑り台

は、終わりが見えない。ずっと傾斜が続いている。しかも僕の知っているどんな滑り台より

も傾斜がきつかった。

 絶対にこんな滑り台なんて滑り落ちて行きたくない。

 だが、そんな僕を追いたてるかのように、どこかから突然声が響き渡ってくる。それは非

常に低い音で、廊下に何度も反響して、まるで猛獣の声のように聞こえてきた。

 猛獣の声のようにも聞こえれば、何かの機械の音のようにも聞こえる。そのどちらかも分

からないが、不気味な声である事は確かだ。

「ほら、早く行けよ。ここはお前の来る場所じゃないんだ」

 僕はそのフェンリルと言う男の子に背中から押される。

「ちょ、ちょっと、君は来ないの?」

 僕は自分だけ滑り台を滑らされている自分を知り、フェンリルに尋ねた。

「危ないのはお前だけなんだよ。おれは大丈夫だから、お前はさっさと帰るんだな」

 という言葉を最後に、僕は廊下にできている滑り台を滑り下ろされた。

 僕の体はまるで転げ落ちていくかのような体で滑って行く。あまりにきつい傾斜のおかげ

で、僕の体はあっという間に、加速し、滑り落ちていく事は恐怖を感じた。

 傾斜をしている廊下はその終わりを見ることができない。僕の体はどんどん加速をしてい

き、その加速は無限にも続いて行きそうだった。

 もう背後を振り向いても、フェンリルと言う男の子がいるはずの傾斜の頂上を見る事は出

来なかったし、背後から聞こえてきていた不気味な音も聞こえてはこない。

 だが僕の体はどんどん加速していく。僕だけたった一人になって、延々に続く廊下を加速

していった。

 加速は今まで僕が感じた事が無いほどの速さにまで到達しようとしていた。僕はただ一人

になって、別の世界にも到達しそうな感覚に襲われる。

 延々と続いている滑り台を滑って行く僕。僕の恐怖も圧倒的なものになって襲いかかって

こようとしていた。

 滑り台を転がって行く僕の恐怖が、耐えがたいほどになって来た時、僕は目を覚ました。

 僕がいる場所はいつも僕がいる部屋の中のベッドの上だった。延々と続いて行く廊下でも何で

もない。

 僕がベッドの上から周囲を見回しても、あのフェンリルという男の子もいないし、耳を澄ませてみ

ても、僕達の背後から迫ってきていた奇妙な音も聞こえてこない。

 いつも僕が眠っているベッドの上でしか無かった。

 あの無限に続いている廊下の世界と比べると、僕の部屋はあまりに無機質な世界のようにしか

見えなかった。

 だが、急に現実に引き戻されてしまったかのような感覚はある。

 僕はただ夢を見ていただけのようだった。そう、何の変哲もない夢だ。しかしあの夢の中で感じ

た感覚は、異様なリアリティを持っていた。

 少し夢と現実とを隔てている感覚がこんがらがってしまいそうだった。

「真一。起きたの?」

 と、突然別の声が聞こえてくる。夢の中から戻ってくると、その声は何だかとても日現実的なも

ののように聞こえていた。

 ノックと共に僕の部屋の扉の向こう側から聞こえてくる声。それは僕のお母さんの声だ。

「今日は行くんでしょ?学校」

 そのお母さんの声は僕に、まるでプレッシャーをかけてくるような響きを持っていた。

 だから僕は不満だった。このままベッドの上で横になっていたい。どうせ起きたりすることがあっ

ても…。

「う、ん…」

 僕の声はどうしても響きが悪く、まるでくぐもった音のように僕の部屋の中に反響してしまうだけ

だった。

 僕は体を起こそうとした。ゆっくりと体を起こしていこうとする。しかし、さっき、夢の中でやってい

た時のようにできない事がある。

 僕は脚を起こして体を起こそうとしたものの、脚を動かすことができない。

 僕の脳が幾ら脚を動かすように命令したとしても、まったく持って、脚を動かすことができないで

いた。

 そう、脚を動かすことができない。だから僕はベッドの上で上半身しか体を動かすことができな

い。

 さっき、夢の中では脚を動かして立つことができたけれども、それは今の体ではする事ができな

いのだ。

 どうせ、夢の中で体を動かすことができたとしても、今の体では無理だ。僕がさっきいた世界が

夢で、今いる世界こそが現実だと分かって来た時、僕はそう悟った。

 だから僕は、ベッドの上で腕をゆっくりと動かしていき、そのまま体をベッドの横にある“物”へと

動かしていった。

 その“物” は、ベッドのすぐ横で、僕をまるで待ち構えているかのようにたたずんで佇んでいる。

それは物言わぬ存在であったが、大きな存在感を持ち、僕の目の前に立ちはだかっている。

 そこに佇んでいるのは、車椅子だった。

 僕はベッドの上から動いて行くためには、そこに、置かれている車椅子の上に移動しなければ

ならない。

 その車椅子は、今では僕の脚となっていた。

 だが、僕はその車椅子に乗るのが嫌だった。周りからは特別な目で見られるようになったし、階

段だって一人で降りることができないようになっている。

 それぐらいだったら僕は、ベッドの上から一切動きたくはなかった。

 学校だって、何日も行っていなかった。特別な扱いをされるのが嫌だったし、何より僕は学校で

友達もいなかった。

 行っても意味が無いと思っていたのだ。

 やがて、目覚まし時計のアラームが鳴った。

 僕はその目覚まし時計で仕方なく車椅子へと体を移した。

「ほら、起きなさい!」

 お母さんが部屋の中に踏み込んできた。ここ数日は、僕はお母さんが部屋に踏み込んできて

も、ベッドの上から起きるつもりは無かった。

 だが、今日は何とか起きる事ができた。

 それでも、憂鬱な気分は変わらない。

「ほら、起きれたでしょう?今日は学校に行きなさいね」

 と、お母さんは僕に優しく言って来たつもりだったのだろうが、僕にとっては、学校に行くと言う事

が大きなプレッシャーになった。

「う、うん…」

 僕はどっちとも取れないような答え方で答えていた。

 

 

 僕の脚が動かなくなったのは、3年ほど前の事だった。

 そう、3年ほど前までは僕の体は五体満足にきちんと動いていたのだが、学校に下校するある

時、僕は交通事故に遭い、車にはねられた。

 僕の脚はそれ以来、全く動かなくなってしまった。僕の頭がいくら脚に命令したとしても、何も動

かなくなってしまったのだ。

 車にはねられたのは、今、思い返せば完全に僕の不注意だった。学校から下校する際、友達

とふざけていたせいで、僕の体は知らない間に道路に出てしまっていたのだ。

 その後に僕に襲いかかってきたのは、普通の乗用車だ。歩道を歩いていれば、何も怖くない、

ただの乗用車が、僕へと襲いかかって来たのだ。

 痛みとか、辛かったとかいう記憶は無い。ただ気が付いたら、僕の体が動かなくなってしまっ

た。それだけだ。

 だが決定的だったのは、僕の体から脚の自由を奪ってしまったと言う事だ。

 僕は脚の自由があった時は、かなり明るい少年だったと周りも思っていたし、僕自身もそう思っ

ていた。だが、脚が動かなくなった時から、僕は突然、塞ぎこむようになったようだ。

 それは僕自身が望んだことだ。

 脚が動かなくなることが、どんなに不便で、どんな人よりも不利な事である事か、僕は身にしみ

て分かっていた。

 僕は一瞬で自由を奪われてしまったのだ。

 自由を奪われてしまった僕は、これ以上、生きている意味さえ感じることができないでいた。

 だから僕は塞ぎこんだ。

 今日も、久しぶりに学校に行く事ができたものの、結局のところ、何も無い日と変わらない一日

でしかなかった。

「今日も、大丈夫だった?」

 僕が学校から帰ってくるなり、お母さんは僕に言った。それはとても優しい声だった。僕の事を

本当に想っているからこそ出せるような声だった。

「う、うん…」

 しかし、僕はどっちともつかないような声で答えていた。

 お母さんは僕に付き添う形で学校まで送り届けてくれていたが、正直のところ、僕はそうして学

校に送り迎えして貰うのが嫌だった。

 何とか、車椅子の状態でも、普通の中学に通う事ができていた僕だったが、周りから特別な目

で見られるのが、とにかく嫌だったのだ。

 お母さんの送り迎えをしてくれると言う気配りも、僕にとってはいつしかストレスになっている。学

校の行き帰りの途中で、また事故に遭ったりしないようにという気配りと優しさだったのだろうけれ

ども。

 そんなお母さんは、学校から帰ってくるなり、僕に向かってある事を言って来た。

「そろそろ、リハビリを始めてみない?」

 学校から帰り、居間に入るなり、お母さんは言って来た。その言葉に僕は思わずどきりとした。

「ねえ、どう?」

 僕が答えられずにいると、お母さんは更に僕に向かって言ってくる。リハビリという言葉を聞い

て、僕は動揺せざるを得なかった。

「いや、いい…」

 動揺している僕の心の鼓動は激しい。だが、それとは反して、僕から発せられる言葉はかなり

弱気な言葉となってしまっていた。

「だって、先生だって言っているじゃない。ずっと車椅子に乗っている事は無い。もうリハビリは始

められるから、あとは真一のやる気次第だって…」

 とお母さんは更に僕に言って来る。

 だが僕は断固としてお母さんに反対をした。今度ははっきりとした口調でお母さんに向かって言

い放つ。

「いいんだよ!僕はリハビリなんかしなくていいんだ!一生車椅子だっていいんだ!」

 とお母さんに言い放つなり、僕は車椅子の方向を自分の部屋の方へと向けて、一直線に走りだ

した。

 家の廊下の何箇所かに僕は車椅子をぶつけてしまった。だが構わない僕は車椅子に乗ったま

ま自分の部屋の中へと突っ込んでいき、学校の制服を着たまま、自分の車椅子からベッドの上

へと体を移動させた。

 半泣きになっている自分に気が付いていた。

 僕は自分のベッドの上で泣きべそをかいているのだ。僕はもう14歳だったし、小さな子供じゃ

あないのに、何て情けないんだろう。

 でも、車にはねられて車椅子になってからというもの、僕はずっとそうだった。これは、最近の僕

では何も珍しい事では無い。

 ずっと優しくしてくれているはずのお母さん、そしてお父さんとは衝突し、車椅子に乗るのも嫌だ

った。

 そして、リハビリを始めるのも嫌だった。リハビリの辛さ、リハビリで感じる痛みは元より、また

歩けるようになることが、僕にとっては怖いのかもしれない。

 僕は泣きべそをかいたまま考えた。

 そう、結局は僕はお母さん達に迷惑をかけるだけの存在。誰かの世話無しには生きていけない

存在なのだ。

 それもこうなったのは、誰の責任でも無い。

 僕が、小学校の下校の時に、自分の不注意で招いた自業自得の行為なのだ。

 僕は泣きべそをかいたまま自分の部屋で何時間も過ごしていた。お母さんは諦めてしまったの

か、部屋の外から僕に向かって何も言ってこない。

 お母さんはどうしてしまったのだろう?そう思った僕は、いい加減ベッドの中に引きこもっている

のはやめて、また車椅子に乗って部屋を出ていこうとした。

 ベッドの上でずっとうずくまっている。そんな事も多くなってしまっていた僕だが、どうもさっきから

様子がおかしい。

 異様に静かすぎるのだ。

 今、家には僕とお母さんがいるはずだったが、それなのに部屋の外が異様に静かすぎる。少し

は物音さえも聞こえてきても良いはずだ。

 もしかしたら、お母さんがどこかに出かけてしまったのか?僕はそう思って、車いすへと体を移

して、自分の部屋の扉を開けた。

 すると、その扉の向こうには、僕の知らない世界が広がっていた。

 僕の部屋から扉を開け、外に出ようとすると、そこには家の廊下があるはずだったが、僕が開

いた扉の先は廊下にはなっていなかった。

 廊下ではなく、代わりにどこか、知らない廊下に続いている。そこは、赤い絨毯が敷かれた廊下

になっており、電灯の代わりに、燭台の上でろうそくの光が灯っていて薄暗い。そして、どこかの

古めかしい洋館の中であるようだった。

 こんな洋館に何で僕がいるのか、自分でも分からなかった。だが、僕は思い出していた。どこか

で、今、僕が目の当たりにしているこの洋館に、来た事があるような気がする。

 それがいつかは思い出せなかったが、確かにいつの時か、僕はこの洋館にやってきたことがあ

った。

 僕の車椅子が軋む音を立てる。洋館の廊下は右にも左にもずっと続いていて、今朝、僕が見た

夢に似ていた。

 無限に続く学校の廊下。あの世界に似ている。

 としたらここも、夢の中なのかもしれない。しかし夢の中にしてはあまりに不気味な世界だ。何し

ろ、感じられる空気も匂いも、全てをリアルに感じることができる。まるでこの世界が夢の中では

なく、本物の世界であるかのように感じることができるのだ。

 僕は恐ろしくなって、自分の部屋へと戻ろうとした。これが悪い夢であってくれ、と思い、車椅子

を引き変えさせようとする。

 しかし僕は自分の部屋へと戻る事は出来なかった。車椅子が壁にぶつかる。僕は背後を振り

返ってみた。しかしそこにあるのは壁だけで、僕が入ってきた扉などそこには無かったのだ。

 扉があったはずの壁を探ってみても、そこには何も無い。ただの廊下の壁があるだけだ。

 僕は戸惑った。知らない洋館のような場所に突然やってきてしまい、どういうわけか、扉を通じ

て繋がっていた僕の部屋も無くなってしまっている。

 僕は一人、訳の分からない場所へと放り出されてしまっていたのだ。

 声を出して、人を呼んでみようかとも思った。左にも、右にもずっと続いている洋館の廊下は、と

ても静かで物音ひとつ立てない。人の気配さえも感じられない。

 人の気配さえも感じられない事が、僕にとっては声さえ上げるのに抵抗を持たせた。

 僕は車椅子をゆっくりと動かそうとした。ここにとどまっていても仕方がない。むしろ、この場所

に留まっている事が怖かった。

 頭の中が混乱している。気が付いたら知らない世界へと放り出されてきていて、僕はどこに行っ

たら良いのかも分からない。この場所から一刻も早く脱出したかった。

 僕が動かす車椅子の音だけが、ゆっくりと洋館の廊下の中に響き渡る。その音はとても無機質

で、金属の軋む音がとても無機質にさえ感じられた。廊下には等間隔で蝋燭の灯りが灯っていた

が、その蝋燭の炎は誰が付けたのかも分からない。ゆっくりとその場で揺らいでいるだけだ。

 僕が進んでいく廊下の方向は、終わりの見えない廊下がずっと伸びているだけだ。その終わり

を覗こうと思っても、見ることができない。

 一体この廊下の長さはどれほどのものがあるのか。恐ろしくなっていくほど長い。

 僕の車椅子の軋む音だけが、ゆっくりと廊下の中に響き渡る。右にも左にも廊下のどの方向を

見ても扉のようなものは無く、僕を廊下の先へと進ませようとしている。

 ある所までやって来た時だった。僕の車椅子が軋む音以外に、僕のやってきた背後から、突

然、奇妙な音が聞こえてきた。

 その音は一体何なのであろうか?まるで、金属と金属同士をこすり合わせたかのような、そん

な耳障りな音だ。

 まるで僕の背後から迫ってくるかのように、その音は廊下の中を何度も反響して僕の耳へと飛

び込んできた。

 僕は思わず背後を振り向いた。この音は聞いたことがある。今朝、夢の中で聞いたばかりじゃ

あないか。

 僕の通っている学校の廊下。突然現れた奇妙な男の子。そしてこの奇妙な音。僕はまた同じ夢

を見ているのではないのか。

 奇妙な音は再び聞こえてきた。洋館の廊下の中を何度も反響しながら迫ってくるかのような音

は、まるで僕を追いかけてくるかのように、再び聞こえてくる。

 僕は車椅子のハンドルを握りしめ、急いで車を転がした。力一杯車椅子の車輪を回転させ、僕

の体を前へ前へと持っていこうとする。

 だが、背後から聞こえてくる音はよりその音を強めていた。僕のすぐ近くにまでやってきている

のかもしれない。

 背後を振り向くのが恐ろしかった。振り向こうならば、どこまでも続いている廊下の背後に、その

音を出す何者かが迫ってきているかもしれない。

 僕はその正体を知るのが怖かった。

 だが、音は僕を追いたてるかのようにどんどん迫ってくる。僕は車椅子を全速力で動かし、その

音から逃れようとした。

 ある所まで行った時、僕は突然廊下が階段になっている事に気がつかなかった。ずっと同じ直

線の廊下が伸びているものだとばかり思っていたものだから、僕は車椅子を全速力で階段へと

放り出してしまった。

 階段は下りになっており、僕の体と僕を乗せていた車椅子は一緒になって転げ落ちていく。

 平坦で変化も無い通路が、いきなり階段になっていたものだから、僕は身構える余裕すらなく、

車椅子から体を飛び出させてしまった。

 僕は頭を抱え、落下の衝撃に備える。車椅子は階段を転がり落ちるかのように転げていき、僕

の体は宙を舞った。

 階段の高さはそれほど無かったが、僕は車椅子と共に、一段低くなっている廊下の床へと転が

った。

 痛みはそれほど感じない。だが僕は落下したショックでうめいてしまった。

 僕の目の前で、車椅子の車輪がゆっくりと回転している。車椅子から転げ落ちてしまった事は、

車椅子に乗るようになってから無かったから、それだけでも僕のショックは大きい。

 痛いのか、怖いのか。でも、奇妙な音を出す何者かは僕の元へと迫ってきているようだ。まだあ

の音は聞こえてきているのだ。僕はゆっくりと身を起こしながら、車椅子へと近付いて行く。

 車椅子に乗るためには、体を引きずっていかなければならない。何しろ僕の体は、脚が動かな

いのだから。

 まるで這ってでも進むかのように僕は体を動かしていき、車椅子へと手を伸ばそうとした。

 だが、僕の伸ばそうとした手を、誰かが背後から掴んでいる。まるで、煙であるかのような、影

であるかのような、黒い何かが僕の腕を背後から掴んでいた。

 一体、それは何なのか、いつの前にか僕の背後へと回り込んでいたその奇妙な黒い影は、金

属がこすれるような音を放ちながら、僕の腕を掴んでいる。

 僕は必死になってその黒い何かから手を振りほどこうとしたが、上手くいかない。黒い何かは、

確かな実体を持って僕の体に掴みかかっているのだ。

 このまま僕は、この黒い何かに何をされてしまうのだろう?食われてしまうのか?

 僕に恐怖が襲いかかってきた。階段からまっさかさまに落ちた時のように突発的な恐怖でも無

い。確実に僕の体へと迫ってくる恐怖だ。

 助けて!と僕は叫ぼうとした。そうすれば、誰かが助けに来てくれる。僕はそう思った。

 この薄暗い洋館の中を進んできて、僕は誰とも出会っていなかったけれども、僕が叫べば、誰

かが駆けつけてくれる。そう思ったのだ。

 案の定、それは本当の事になった。しかも助けは、僕が声を上げようとするよりも早くやって来

たのだ。

 突然、僕の体のすぐ側をかすめて何かが通過した。すると、その何かは、僕の腕を掴んでいた

黒い物体を切り離した。

 まるで、煙を切り裂くかのようにして、黒い何かは僕の腕から振りほどかれた。

 金属と金属がこすり合わさるような音が廊下の中に響き渡り、黒い何かは空中に浮かぶ塊のよ

うになって廊下のずっと向こうへと消え去ってしまう。

 黒い何かが消え去ってしまうのは、あっという間の出来事だった。

 そして、黒い何かが消え去った後には、背の高い誰かが立っていた。

 僕の前に、まるで立ちはだかるように立っているのは、黒いドレスのような服を着て、銀色の長

い髪をした女の人だった。

 僕が今まで見た事も無いような女の人だ。着ているドレスも、僕が普段生活しているような環境

では滅多にお目にかかれない。まるで、一昔前の外国の世界から迷い込んできたかのような服

装だ。

 真っ黒な服装で、しかも銀色の長い髪。僕よりもずっと背が高く、見下ろしているかのようなそ

の姿は恐ろしい。

 銀髪の女の人は僕をじっと見下ろしてくる。

 彼女は赤い瞳をしていた。これも僕が今までに見た事も無いような姿だ。赤い瞳は薄暗い洋館

の廊下の中でもまるで光を発しているかのように輝く。

 その瞳から発せられる視線は僕を射抜いているかのようだ。

 僕は、体を動かせる範囲でゆっくりと身を起こしながら、その銀髪の女の人の姿を見上げた。

「あなたは…?」

 恐る恐る僕は尋ねた。

「私は、お前を助けに来た」

 その女の人は僕に向かってはっきりとした口調で答えてきた。低い声をしていて、まるで僕の心

の底へと響き渡らせるような声をしている。

 黒い何かに襲われたばかりの僕の心臓はどきどきしていて、その心臓の鼓動に更に響き渡っ

てくるかのような声だった。

「はあ…?僕を、どうして?」

 僕は女の人を見上げて答えた。

 女の人は僕を見下ろしてきて、変わらぬ口調と変わらぬ声の響きを持って答えてきた。

「この廊下にいるのは危険だ。私についてこい」

 と、高圧的な言葉だったが、僕は仕方なく彼女についていこうとした。

 だが、僕は足早にこの場から立ち去って行こうとする彼女に、そのままついて行く事は出来な

い。

 何せ、僕は脚が動かないのだから。車椅子が無ければ、このまま這って行くしかない。僕は自

分の側に転がっている車椅子へと手を伸ばそうとした。

 だが、その時に気がついた。

 僕が手を伸ばそうとした時、脚が動いたのだ。もしかしたらと思い、僕は脚に力を込めて、その

場から立ち上がろうとすると、できてしまった。

 ふらふらとおぼつかないが、僕は何とか脚を立たせることができたのだ。

 そう言えば、今朝に見た夢でもそうだった。あの少年が現れた夢の中でも、僕は脚を動かして

立ち上がることができ、そして、少年について走って行く事ができたのだ。

 だが、あれは夢の中の話だ。現実の世界では僕は変わらず脚を動かす事は出来ないし、車椅

子が無ければ、満脚に動く事も出来ない。

 じゃあ、僕がいるこの世界も夢の中なのだろうか?

 僕は、歩き方を忘れてしまいかけている脚を動かしながら、黒いドレスの女の人の後をつけた。

 女の人は僕よりも前に立ち、堂々とした様子でその脚を進めていく。目はしっかりと、先へと向

いていた。

 赤い瞳を持つ目は、永遠に続いていこうかと言う廊下の先の、一体、何を見つめて歩を進めて

いっているのだろうか?

 僕は黙って歩を進めていくその女の人の横から、恐る恐る声をかけてみた。

「あの…、ここはもしかして、夢の中?」

 と尋ねると、女の人は、僕の方を見下ろしてきた。彼女の方が何ユミールチ背が高いのだろ

う?僕は中学生で、男の中でもそれほど身長が低い方では無かったが、それでもまだこの女の

人の方が背が高い。

「何故、そう思う?」

 女の人は僕の方を見下ろしつつ、はっきりとした口調で僕に向かって言って来た。その口調は

まるで僕をテストするかのような、そんな響きを持っていた。

「何故って、僕は本当は脚が動かなくて、車椅子がないと立つ事も出来ないんだ。なのに、こうし

て歩いている。これって、絶対にあり得ない事だから、夢の中なんでしょう?この廊下も、僕自身

も…。それに、あなたも…」

 僕は自分の発する言葉に自信が無いかのような口調でそう言ってみた。

 僕自身の中では、僕がいるこの世界は夢の世界なのだと言う事をはっきりと自覚している。本

当にこの世界が夢の世界なのだと言う事なんて、頬をつねってみても分からないことかもしれな

い。

 やがて、女の人は、僕の質問には答えないまま、ある扉の前まで連れてきた。

 ここまでずっと廊下が続いているだけの一本道だったのに、そこに突然現れている一つの扉。

その扉はこの洋館のような場所にふさわしく、ただの扉でしか無い。

 もしかしたら、僕が車椅子で自分の部屋から迷い込んできた場所なんじゃあないかと思った。

 もしかしたら僕はぐるりと廊下を一周してしまい、元の場所へと戻ってきたんじゃあないのか。そ

うとも思った。

 女の人は何も言わずに、僕の目の前にある扉を開いた。扉は奥側へと開き、そこには部屋が

広がっていた。だが残念な事にそこは僕の部屋では無かった。見知らぬ部屋だ。どこかの洋館

の中にある居間のような場所だ。

 暖炉があり、ソファーがあり、テーブルがある。天井には蝋燭の灯りが灯るシャンデリアがぶら

下がっていた。

 後は床に絨毯が敷いてある。ただそれだけである。何故、僕は突然無限に続いていくような洋

館の廊下に放り出されて、そこに突然、今僕の目の前にいる銀髪の女の人が現れ、そして、この

居間に通されるのか、僕には分からない。

 ただ、この世界が夢の中だとすれば、それは納得できるのだろう。

 僕が自分の脚を使って歩く事ができるなど、夢の中でしかあり得ないことだ。

 僕をここまで案内した女の人は何も言わず、扉を開け放ったままだ。僕は女の人よりも先に扉

の中へと入った。僕が入ると女の人も黙って僕の後に続き、共にソファーの上に腰掛けるのだっ

た。

「あの…」

 僕は恐る恐る、向かい合ってソファーに腰掛けた女の人に話しかけようとした。

 この女の人も、僕の全く知らない人だった。何故、今日は立て続けに知らない男の子と、女の

人に出会うのだろう。僕にはさっぱり分からなかった。

 僕が恐る恐る口を開いても、女の人はまるで僕の言葉が聞こえていないようだった。

「あの!」

 僕は今度ははっきりと聞こえるような声を上げて女の人に話しかけようとした。

 すると、女の人はようやく僕の方を向いてくれた。

「何だ?どうした?」

 と、言ってくる。随分とそっけない口調だ。まるで僕の事など構っていられないと言うかのような

感じである。

「あなたは、何者?何故、僕をこんな所へ?」

 そう言った質問はあまりにも愚問だったかもしれない。何しろ僕は、これは自分が見ている夢の

世界で、これはあくまで僕の中の想像に過ぎない事だからと思っていたからだ。

 僕は、目の前の女の人という、僕の勝手な想像が生み出している人物に対して質問をしてい

る。しかしそれはそのまま、僕自身の夢、そして僕自身への意識への質問になっているのだ。

 だが、彼女はまるで彼女自身に意思があるかのように、僕に対して答えてきた。

「私は、ユミールという。ここへは、君を守るために連れてきた」

 はっきりとした人が発する言葉だ。夢だったならば、もっと曖昧な口調と意味を持っていても良

いかもしれない。

 それにユミールという名前だって、僕が初めて聞く女の人の名前であって、言葉の響きだ。今ま

でに聞いたことも無い。

 僕は夢というものは、今まで自分が経験した物事しか出てこないものだと思っていたから、見知

らぬ場所の見知らぬ人に出会うなんて、思ったことすらないのだ。

「あの…。僕を守るって言うのは…?」

 共にソファーに座り、向かい合いながら僕は尋ねる。

 静かな洋館の一室の中で、パジャマ姿の僕と、ドレス姿のユミールと言う女の人。その二人が

向かい合っている姿は、これが夢でなかった現実ならば、あまりに不釣り合いな姿だ。これが夢

でなければ、恥ずかしくてじっとしている事なんてできないだろう。

「さっき、君に襲いかかってきた、黒い何かがいただろう?あれから君を守るために、この部屋に

連れてきた」

 ユミールと名乗ったその女の人は僕に対して表情も変えずにそのように答え、再び口を閉じて

しまった。

 確かに彼女自身は生きた人間のような姿をしているが、まるで口を閉じてしまうと、ロボットが黙

ったかのように口を閉じられてしまう。

 見知らぬ女の人と、僕らの他に何の音も聞こえない洋館の一室。照明として使われている燭台

の上の蝋燭の炎が揺らぐ音さえ聞こえてきそうなくらい、静まり返っている。

「あの、これは “夢”なんですよね?」

 僕はユミールと名乗ったその女の人に尋ねた。

 するとユミールと言う女の人は、少し眉をひそめた。何かが癪にでも障ったのだろうか?

「その質問に答えるのは、少し難しい」

 と、ユミールという女の人は言ってくる。何が難しいと言うのだろう?ただ一言答えるだけで良い

じゃないか。

「何か、決まりでもあるんですか?答えちゃあいけないとか」

 そんな決まりがあったとしても、それは僕の夢の世界での話だ。つまりは僕が勝手に夢の中で

決めた決まりだ。

「いいや。説明させて理解させるのが難しいっていう事だ」

 ユミールと言う女の人は全く違う答えを僕に向けてきた。説明?一体何が必要なのだろう?僕

のいるこの世界が夢であるか、そうでないか。それを答えるだけじゃあないか。

 僕は訳が分からなくなってきた。

 だが、さっきから妙だ。僕がいるこの場所は夢のはずなのに、やけに現実味のある世界だ。こ

の洋館の廊下に迷い込んできたのだって、僕が自分の意思で、自分の部屋の扉を開けた事が

始まりだ。

 自分の部屋の扉から外に出ようとして、そのまま夢の世界に入っていく。そんなリアルな夢があ

るのだろうか。

 このまま洋館の一室で、見知らぬ女の人とソファーを向かい合わせて座っているだけの夢。そ

れが、今、僕が見ている夢なのか。

 少し時間がたった時だった。突然、僕らがいる洋館の居間に響き渡る音があった。

 今朝見た夢から何度も聞いている。あの金属と金属をこすり合わせたかのような、不気味な音

だ。

 僕の頭の中には、あの黒い煙のような姿をした、不気味なものの姿がうつった。

「来た!」

 ユミールは突然ソファーから立ち上がった。まるで、今までじっとこの音を待っていたかのようで

ある。

「来たって?一体、何が?」

 僕はユミールに聞き返した。

「お前を狙っている奴だ。あいつに捕まったらお終いだ。私と一緒にこっちに来い!」

 と、ユミールは言い、僕の手を引っ張りだした。引っ張られた僕は、よろめきながらも彼女へと

ついて行く事になった。

 ユミールは、洋館の居間にあった別の扉へと飛び込んでいこうとした。僕はその先に何がある

のかを知らなかったけれども、ユミールはまるで、そこがどこかへ通じている事を知っているかの

ように飛び込んでいく。

 金属同士をこすり合わせるかのような音を発す、何物かはすでに僕らのいた居間のすぐ向こう

側にまでやってきているようだった。

 あの黒い何かには、僕も再び出くわしたくは無い。彼女があれから守ってくれると言うのなら、

僕はついていく。

 だが、ユミールが体当たりをするかのようにして開いた扉の向こうに広がっていたのは、今、僕

達がいた居間と、全く同じ居間だった。

 この洋館には、同じ部屋が2つあるのだろうか。しかし、燭台の置き方も、ソファーの置き方ま

で、何から何まで同じ造りになっている部屋だった。

「これは、どういう事?」

 僕がユミールの顔を見上げて尋ねた。

「やられた。どうやらあいつに閉じ込められてしまったようだ」

 全く同じ造りになっている居間を前にして、ユミールが言って来た。

「閉じ込められたって…?」

 と、再び僕は尋ねるのだが、そんな僕の質問などよそに、ユミールは、僕の手を引っ張りなが

ら、居間を横切って行き、またそこにある同じような扉を開いた。

 まさかとは思ったが、その先にあるのも、僕らがいた居間と全く同じ造りになっている居間だっ

た。

「まさか、同じ場所を、ぐるぐると回っているって言う事…?」

 僕が再びユミールの顔を見上げて尋ねる。

「ああ…、そういう事さ…」

 ユミールは今度は居間を再び横切って、僕らが無限に続いていた廊下から居間へと入って来

た方の扉を開いた。

 すると、そこはずっと続いている廊下に繋がっているはずだったが、そうではなかった。

 今は、僕らがいる居間と、全く同じ造りの居間が扉の向こう側に繋がっていたのだ。

「これって、どういう事?」

 僕はユミールを見上げる。すると彼女は静かに呟いた。

「迷いは巨大な迷宮と化し、恐れは、恐るべき怪物になる…。か…」

 ユミールが言った言葉には、僕にはまるで理解することができなかった。理解するよりも前に、

僕達の背後から、再び金属同士をこすり合わせる、あの不気味な音が聞こえてくる。

「こっちだ!」

 僕はユミールに導かれるまま、腕を引っ張られ、何度扉を開いても同じ部屋に繋がっている場

所を走らされた。

 5度か6度か、僕達は同じ造りになっている部屋を通り過ぎたが、それでも、後ろから迫ってくる

あの不気味な何か、の音は聞こえてくる。そして、部屋も果てが無かった。何度僕達が扉を潜り

抜けても、全く同じ造りの部屋にやってきてしまう。

 あの不気味な迫ってくる怪物から逃れる事ができるのか、僕には分からなかった。

 と、突然、ユミールが開いた扉の向こう側に、真っ黒な煙が漂っている部屋にやってきてしまっ

た。

 その部屋はまるで家事にでも遭ったかのように、真っ黒な煙が部屋を覆っており、部屋全体が

黒く塗りつぶされたかのようだった。

 僕らがその部屋に脚を踏み入れようとすると、黒い煙は何かに気がついたかのように僕達の方

へと襲いかかってこようとした。煙がまるで意志を持っているかのように、扉を開いた僕達の方へ

と向かってくるのだ。

 ユミールはすかさず開いていた扉を閉じる。そして僕を1つ前の部屋へと戻すのだった。

「参ったな…。こっちには行けない…」

 ユミールは僕に向かってそのように言った。彼女自身も少し焦っているかのようだった。

「あの黒い煙みたいなのは、一体…」

 とユミールに尋ねる僕。だが、これは僕の夢の中に過ぎないはずだ。あの黒い煙だって、僕の

勝手な想像が生み出した産物にしか過ぎないはずなんだ。

 この夢の中に現れている、無限に続いている居間も何もかも、僕が想像しなければいいだけの

はずなんだ。

 だが、僕の目の前に現れた女の人、ユミールは僕の腕を引っ張り上げると、僕の体を引っ張っ

たまま、居間にある他の部屋の扉を開け出した。

 すると、そこにも黒い煙は姿を現してきた。

 どうやら、僕達のいる居間の全ての扉の外側に、あの怪物がいるようだ。

「どうしたら、良いの?」

 僕は追い詰められてしまったと言う恐怖を感じながら、ユミールに尋ねた。ユミールは周囲を見

回すが、僕らのいる居間にある扉の全ての向こう側には、あの黒い煙の怪物がいる。

 あの黒い煙の怪物に襲われたらどうなってしまうのか、僕には分からなかった。

 これは僕の夢の中なんだ。本当はあんな黒い煙の怪物なんかいなくて、僕は勝手な想像をして

いるだけなんだ。

 だが、そう思えば思うほど、僕の周りでたった今、起こっている事が、リアルな現実として感じら

れてしまうから不思議だった。

 ユミールと共に、僕達が今いる居間を脱出できる場所がないかと探っていると、僕に一つの扉

が飛び込んできた。

「あのクローゼットは?」

 僕が指差したのは、居間に置かれていたクローゼットだった。ちょうど、人が2、3人ほどは入れ

るほどの大きさのクローゼットである。

 もしかしたら、そのクローゼットの中に入れば、あの黒い煙の怪物をやり過ごす事ができるかも

しれない。

 僕がクローゼットを指差すと、ユミールと僕に名乗った女の人は、その大きなクローゼットを両

側に開いた。

 そこはただのクローゼットでしかなかったが、ユミールがその扉を両側に開くと、その場所には

真っ黒な空間が現れた。

 そこは、クローゼットの狭い空間でしか無かったはずだ。少なくとも、僕の知っているクローゼッ

トと言うものだったら、そこは狭い空間しかないはずだ。

 だが、このクローゼットは、何故か扉の向こう側には吸い込まれていきそうな黒い空間が広がっ

ている。

「あった。抜け道だ」

 ユミールは僕に向かって言って来た。

 抜け道。抜け道とは一体どういうことなのだろう。僕にとっては何が何だか訳が分からない。無

限に続いている廊下。扉を開いても開いても、全く同じ居間が続く場所。そしてそこに更に現れた

抜け道。僕には訳が分からない。

 これは、僕が見ている夢なのだろう?だったら、僕自身の思い通りで何だってできるはずだ。

「この中に飛び込め」

 突然、ユミールは僕へと言って来た。

 一体、何を言っているんだ。この中に飛び込めって。僕の前にあるのはただのクローゼットの扉

でしかない。だがその中に広がっているのは無限に広がっている空間である。

 宇宙でも広がっているかのようだ。いや、宇宙だったら、星の灯りが輝いて見えるはず。僕が見

ているのは真っ黒に塗りつぶしているかのような空間だ。

 もし、この中に飛び込んでしまったら、僕はどうなってしまうのだろう。どこかに落ちてしまうの

か?それとも、永遠にこの空間をさまよい続けるのか。

「早くしないと、あいつらが来るぞ」

 と、ユミールは僕を急かして来る。そんな事を言われてしまっても。

 そうだ。ここは僕の夢の中だ。だったら、僕が目を覚まそうと思えば、目を開く事ができるはず。

この悪夢のような夢からも目覚めることができるはずなんだ。

 と思って僕は無理矢理自分の目を覚まそうとした。

 だが、目を覚ます事ができない。僕は目を無理矢理覚まそうとしても、すでに覚めてしまってい

る。無理矢理現実の世界に戻る事なんてできない。

「そんな事をしたって無駄さ。この中に飛び込まないと、君は逃げる事はできない」

 と言って、ユミールは僕を催促してくる。

「はあ?こんな所に飛び込むなんてできないよ!」

 僕は弱腰になって言った。

 だが、このクローゼットの中に広がっている空間に飛び込むのと、あの黒い煙に襲われるのは

どちらが良いかと聞かれたら、僕には分からなかった。

 ここは僕の夢の中なんだ。だから、この黒く塗りつぶされているような空間のずっと向こう側に

は、僕が普段生活している現実の世界があるのかもしれない。

 僕が幾ら目を開こうとしても起きる事ができない代わりに、このクローゼットの中に飛び込む事

によって、僕はこの奇妙な世界から脱出できるのかもしれない。

 抵抗はもちろんあった。ここは夢の中だと僕は分かっているのに、クローゼットの向こう側には

無限の空間が広がっていると言う事も確かに分かる。クローゼットの底も抜けていて、そこに一

歩脚を踏み出してしまえば、僕は、そのまま下に真っ逆さまに落ちていってしまうと言う事がわか

る。

「いいから行け。君は自分自身がどうなってしまっても良いのか?」

 ユミールが僕に向かって顔を近づけて言って来た。

 彼女の赤い瞳が輝き、まるで僕を射抜いてくるかのようである。

 僕はまだためらっていた。僕は今、自分がいる世界を夢であると確信してはいるが、もしかした

ら、夢では無く現実かもしれない。

 夢だったら、クローゼットの中の空間に飛び込めば、ユミールの言うように、元の世界に戻るこ

とができるのだろう。

 でも、そうではなく、僕は現実を勝手に夢だと勘違いしているのならば、クローゼットの中に脚を

踏み入れたら、無限の底へと落ちてしまうかもしれない。

 だから僕はまだためらっていた。

 自分の意思でクローゼットの奥へと飛び込んでいく事ができない。だが、僕達のいる部屋には

どんどん、黒い霧状のものが流れ込んできていて、僕とユミールを取り囲んできていた。

「仕方ない!」

 突然、ユミールはそのように言い放って、僕の体をひっつかむと、クローゼットの中に投げ入れ

てしまった。

 ユミールは背は高かったけれども、特別屈強そうな女性ではなかった。だが、僕の体を軽いも

のであるかのように、いともたやすくクローゼットの中に投げ入れてしまう。

 僕は悲鳴を上げてしまった。そこも知れないような闇の中へと突き落とされていく僕。

 上も下も、右も左も分からない。突然、空間の中へと投げ出されてしまった僕は、ただ赤子のよ

うに身を縮め、恐怖の中へと突き落とされていった。

 だが、やがて、柔らかな感触が僕の体を包み込んでくる。はっと気がつくと、僕は、自分の部屋

の中にいた。

 僕はベッドの中でただ身を埋めている。車椅子で外に出ていった様子さえ無い。僕はずっとベッ

ドの上にいただけだ。

 僕はずっと奇妙な夢を見ていただけに過ぎないのだ。

 僕は一歩も外へは出ていなかった。

「いいですか、お母さん。リハビリを始めるか否かというのは、ご本人の意思です。ご本人が嫌と

いうのにリハビリを始めたとしても、それは無駄な行為でしかありません。結果も思わしくあります

し、もしかしたら今よりももっと悪くなってしまうかもしれないでしょう」

 病院で、僕のお母さんと、僕が交通事故に遭ってからずっと主治医を務めている医師が会話を

している。

 僕に対しては包み隠すことなく、診察室で僕の目の前で会話をしていた。それは僕に対して、ま

るで見せつけているかのような光景だった。

 数ヶ月前からリハビリの話は持ち上がっていた。僕の交通事故による両脚の怪我は、実際のと

ころそれほど重いものではないらしく、リハビリによって車椅子生活から脱することができるのだ

という。

 僕もリハビリをすることによって車椅子生活から、元の生活に戻ることができるのだと、僕の主

治医は何カ月も前から言ってきている。

 僕がリハビリで元の状態に戻れば、他の同級生達と同じように学校に通う事ができるだろうし、

何よりも日常生活で不自由しなくなる。病院でも経過観察をするだけで済むようになる。

 だが、僕はリハビリを始めるのが嫌だったし、リハビリなど最初からするつもりも無かった。

「はい、私も前からそう言い聞かせてきているのですけれども、何しろ本人にその気が無いもので

すから…」

 お母さんは僕の主治医にそのように答えた。

 そう、お母さんの言う通りだ。僕にはリハビリをする気が無い。

「ですが、始めるのならば、なるべく早めに始める事をお勧めします。真一君はまだ成長期だ。も

っと年を取ってからだとリハビリはもっと辛くなる。治る見込みも少なくなってしまう。それに、車椅

子に頼った生活い慣れてしまい、リハビリを始めようとする気力も失せてしまうでしょう…」

 それは何カ月も前から主治医が僕に言い続けてきた言葉だ。もういい加減聞き飽きている。

「何故、うちの子が、リハビリを始めようとしないのか、私にも分かりません…。もちろん、事故に

遭ったと言うショックもあるのでしょうけれども…、もう何年も経ちますし」

「普通なら、 “車椅子生活なんてもううんざりで、一日も早く歩けるようになりたい”と思うものなんで

すけれどもね」

 医師は僕の母親に向かってそのように言ったが、まるで僕に向かって言い聞かせるかのような

口調をしていた。

 この数ヶ月間、僕の母は、リハビリを始めようとしないこの僕の事を心配しているようだが、医

師の方は不思議がっているようである。

 そして僕自身もまた、リハビリを始めようとしない自分自身の事を不思議に思っていた。

 また歩けるようになれば、きっと今僕が抱えてしまっているこの悩みも何もかも吹き飛ぶかもし

れないというのに。

 きっとこれは僕にとっての自分自身への戒めなのかもしれない。

「もしかしたら、私達には言う事ができない、精神的な問題があるのかもしれません。一度、カウ

ンセリングを受けてみる事をお勧めしますよ…」

 と、医師は僕の母親に向かって言う。

「はあ…、カウンセリングですか…」

 だが、僕の母は気乗りがしないようだった。

「私達がする事ができるのは、リハビリや傷の治療であって、精神的な事までは難しいでしょう。

良いカウンセラーなら知っていますから。ご希望があれば紹介しますよ」

 と、医師と僕の母はどんどん話を進めて言ってしまうのだった。

 僕の母と、医師からは分からなかっただろうけれども、僕は今、普通の人が暮らしている世界

にはいないものと自分自身で思っていた。

 僕は事故で車椅子の生活になってしまってから、別の世界の住人となり、決して元の世界には

戻ることができないもの。そう思っていた。

 元の世界に戻るためには、覚悟が必要なのだと思っている。

 それは多分、元のように車椅子などに頼ることなく、自分自身の脚で歩く事ができるようにな

る。そして塞ぎこむ前の僕自身に戻るという覚悟なのだろう。

 それが、今の僕には無いことが、自分自身でもよく分かっていた。

 リハビリを始める気が全くないのはそれが原因なのだろう。

 その覚悟という言葉や気持ちは、僕の中にもやっとした霧のようなものとして漂っていた。

 よく陰鬱な気持ちになったり、気が落ち込むようなときは、頭の上に重い石を乗せられているよ

うな気持ちになるなどと言われたりするものだが、僕の場合は重い石ではない。

 それは実体の掴むことができない靄のかかった霧のような存在だった。

 

 

 学校の無い休日を利用して病院に通っている僕と母だったが、それは今のところ、通院の意味

を持っていなかった。

 ただ病院に言って、やりもしないリハビリの説明を受ける。ただそれだけの時間になっている。

リハビリを始めようとするならば、すぐにでも始めることができる準備はできているそうなのだが、

僕にとっては余計なお世話でしか無い。

 今の僕は、何も始めたくは無かった。

 学校にも行きたくは無かったし、リハビリを始める事もしたくはない。家から車椅子で出ることさ

え嫌だったし、挙句の果ては、生きている事さえ嫌だった。そう言って良いだろう。

 今日の病院も、結局のところ、リハビリの話も進まず、特に薬なんかも出されないままに診察が

終わってしまった。

 多分、リハビリを始めない限りは病院などに行っても意味は無いのだ。

 ただ、お母さんがどうしても病院に行くように言うものだから、僕は病院に行っているに過ぎな

い。ただそれだけの事に過ぎない。

 お母さんの方も、僕が、いつリハビリを始めると言いだすか、待ち望んでいるかのようだが、そ

れは、今の僕からしてみれば無駄な努力にしか思えなかった。

 止めて欲しい努力、僕なんかに期待をしていても無駄な努力としか思えない。

 一生歩けなくたって構わない。むしろ、車椅子に乗っていて、歩けないという事が周りには僕の

姿を一目見ただけで分かる。

 それだけで、周りは僕に対して気を遣ってくれる。

 学校に行けない事も仕方が無いし、一日中ベッドの上でごろごろ過ごす事も仕方が無いと思っ

てくれる。

 それだけで僕は気が楽だった。

 いや、本当にそうだろうか?実際のところはその逆だ。周りが僕に対して気を遣ってくれると言

う事が、分かれば分かるほど、僕はむなしい気持ち。そしてやるせない気持ちにさせられてしまう

のだった。

 この世の中に大きなバランスがあるとしたら、そのうちの一つには、人と社会とのバランスがあ

るに違いない。

 僕達人間は、生きていく事で、社会の恩恵を受けている。それは生まれた時から必ずついてま

わるもので、僕達は、ただ生きて生活をしているだけでも、社会の恩恵を受けなければ生きていく

事は出来ない。

 僕達はある時期まで、それが例えば日本で言えば高校を卒業する、大学を卒業するまでは、親

元にいても良いと言われている。

 それは、一体誰が決めたのかは分からないが、とにかく一般的な常識ではそういう事になって

いる。

 それまでは学業に専念していると社会は僕達の事を見るからだ。

 だが、学業を終えたら、僕達は何かしら働かなければならない事になっている。働き方はそれ

ぞれ自由だが、親から離れなければならないと言う事にされている。

 そして働いていく事によって、僕達は、今まで社会の恩恵を受けてきた分、働くと言う事によっ

て、社会に返済しなければならないとされている。

 それが、社会とその中で生きていく人間のバランスだ。

 良く出来たバランスかもしれない。

 だが、僕のように心身に障害がある場合はどうだろうか?

 ある程度の障害があるくらいだったら、僕らは働く事もできるが、交通事故で全身不随になって

しまった場合などは、働く事は出来ないだろう。一生、障害を背負って生きていき、親や介護者の

世話にならなければならない。

 だが、それに対しては誰も文句を言わないし、仕方が無いと言うだろう。

 僕のように車椅子生活になったくらいならば、大半の社会の仕事をしていく事ができる。

 学校にだって通う事ができるし、勉強もできる。

 だが、今の僕にはその生活をする事も嫌だったし、リハビリをする事も嫌だった。

 僕が自分自身の責任で、自分で造ってしまった車椅子と言う枷は、あまりにも重いものだと言う

事は、自分自身でも十分に察知している。

 このまま一生車椅子生活を続けていき、何もする気が起きないのならば、いっそのこと、交通

事故で全身不随になってしまった方が良かったのではないだろうか?そうとさえ僕は思っていた。

 ここ最近見るようになった、夢の中でのように、また歩く事ができるようになれば、僕も変わるの

だろうか?

 夢というのは良い。なんでも僕の願いを叶えてくれる。

 リハビリ無しで、また僕を歩けるようにしてくれるし、僕を助けてくれる人もそこにはいる。

 いっそのこと、夢の中に逃げ込んでしまいたい気持ちだった。

 もしかしたら、全身不随で植物状態になってしまった人は、それができているのかもしれない。

 僕はベッドの上に横になり、“もし自分が、あの交通事故に遭った時、自分が全身不随になって

しまい、しかも植物状態になってしまった”自分を想像してみた。

 僕は3年もの間、ベッドの上からピクリとも動きもせず、ベッドの上で横になっているだけなの

だ。

 僕は何も動かなくていいし、悩み、考えるような事も無い。

 ただ時を過ごしていくだけ、植物のように平穏な日々。それだけで済むようになるのだ。

 それも悪くないかもしれないし、今の僕はむしろそれを望んでいるんだ。


 
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