No.166805

私のお気に入り

まめごさん

恋とピアノと名曲と。

今回はピアノじゃないんですが(汗)。

2010-08-19 21:20:37 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:914   閲覧ユーザー数:899

電車の扉がアナウンスと共に開くと、押し込まれていた人々はそれぞれの正しい形に戻って足早に降りて行った。

相沢真樹もその内の一人だ。

非常に不機嫌な顔をしてエスカレーターを登ってゆく。

そう、彼女は不機嫌だった。

理由は簡単、男に振られたからだ。

 

「君は強い人だから」

誰もいない会議室に真樹を呼び出して、言い訳のように彼は言った。

「一人でも大丈夫だろう。でも、あの子は僕がいなくちゃ駄目なんだ」

はあ? 突っ込む所がありすぎて困るんですけど。

弱いくせに強がっている、そこが好きだと言ってくれたのは、どこの誰でしたっけ。

勝手に一人で大丈夫って決めつけないでくれますか?

あの子ってあんたがトレーナーしていた新人ちゃんですね?新入社員の間で「裏のドン」って呼ばれていたのはご存じ?

会社の屋上で「仕事超つまんなーい。もー適当な男見つけてさっさとやめたーい」とかほざきながら煙草すっていた子ですけど?

てゆうか、そういう話を会社でするなー!

 

真樹はヒールを鳴らしながらずんずん歩く。

 

信じていたのに。

信じていたのに、裏切られた。

ちぇっ、あの時一発くらい殴っておけばよかった。それをいい大人ぶって「分かった」なんて微笑んだりして、馬鹿じゃない、わたし馬鹿じゃない。

あいつも明らかにホッとした顔しやがって。

 

ぴたりと止まった足先、パンプスのエナメルが少し剥げている事に気が付いたが、見ないふりをして再び歩き出す。

 

何よりも腹立つのはあんな女に負けたことだ。若さ以外は勝っていると思いたくても、男を巧妙に仕掛けるトラップ術はあちらの方が格段に上だった。

 

「ただいま」

がらんとした部屋、電気をつけながら真樹は大きな溜息をつく。

もう、ここにあいつが来ることはない。

 

こんな時は。

 

 

勢いよくブラウスとスカートを脱いで、洗濯機に放り込む。家着に着替えてCDラックを物色、お目当てのCDをコンポにセットする、冷蔵庫を開けてビールを一口。

 

「Raindrops on roses and whiskers on kittens」

 

コンポから流れてきたのは、「マイ・フェイバリット・シングス」。

これを歌いながら、かつ飲みながら料理をするのが真樹なりの復活の儀式だった。

励ましソングは日本語じゃ感情移入しすぎていただけない。英語の、この丁度いい距離感がいい。

 

「Bright copper kettles and warm woolen mittens」

 

冷蔵庫から取り出したマイタケ、エノキ、シメジを適当に切る。

冷凍していた鮭を一切れ、キノコと共にホイルに包む。

ポン酢をかける、零れないように気を付けて。

 

「Brown paper packages tied un with strings

These are a few of my favorite things」

 

グリルで蒸し焼きにしている間、小鍋に水を張る。

豆腐をさいの目に切って投入、油貫していた油揚げも細く切って入れる。

 

「Cream colored ponies and crisp apple strudles」

 

作り置いていたモロヘイヤのおひたしを器に盛って、小鍋の火を止める。

 

「Doorbells and sleighbells and schnitzel with noodls」

 

ダシ入り味噌を溶いた後、洗った塩ワカメをざく切りにして散らす。

グリルが鳴って鮭の焼き具合を確かめた後、皿に移す。

 

 

「Wild geese that fly with the moon on their wings

These are a few of my favorite things」

 

 

冷凍していたご飯をチンする。

 

「When the dog bites, when the bee stings」

(犬が噛んだり 蜂が刺したり)

「When I'm feeling sad」

(悲しい気持ちになるときは)

「I simply remenber my favorite things」

(私はただ 自分のお気に入りを思い出す)

「And then I don't feel so bad」

(そうすれば そんなにつらい気分じゃなくなる)

 

お気に入りの赤いランチョンマットに行儀よく並べられた本日の晩御飯。

鮭とキノコのホイル焼き、モロヘイヤのおひたし、豆腐とわかめとアゲの味噌汁、そして白ご飯。

 

大丈夫。

わたしには仕事がある。ごちそうってわけじゃないけど、おいしく食べられるご飯がある。愚痴を聞いてくれる友達もいる。

だから、大丈夫。人生の底辺にいるわけじゃない。

会社にはあいつもあの子もいるけれど、なんだか涙がボロボロ出ているけど、大丈夫。

毎日、ちゃんとご飯をたべて、ちゃんと睡眠を取れば、いつか復活する。

心は体についてくる。

大丈夫、大丈夫。

 

流れる涙を拭いもせずに、真樹は手を合わせて目を閉じた。

 

「いただきます」

 


 
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