No.161397

恋姫無双SS 『単福の乱』 第三回

竹屋さん

第三回。
この手の話の運命でしょうが、動かない登場人物を動かそうと思うと、話が増えて仕方有りません。
できますれば、皆様の御目がくたびれませんように「。

2010-07-28 20:37:40 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:2635   閲覧ユーザー数:2314

恋姫無双SS『単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話―』第三回

 

「お断りします」

 

 小夜里は北郷一刀に対して、笑顔のまま、拒絶の言葉を口にした。

「………え」

 それがまた実にいい笑顔だったので、一刀の反応は見事に遅れた。一瞬聞き違えたかと思ったくらいだった。

 余程呆然としていたのだろう。一刀が固まっていると、やっぱり笑顔のまま小夜里は

「県令様に私が剣を教授するなどとんでもないことです。お断りします」

噛んで含めるように懇切な口調で――しかし、きっぱり拒絶の意思を言葉にした。

 ここまでくると最早「追い打ち」である。

「………」

 雨上がりの朝。森には濃い緑の風が吹き抜けていく。黙ったまま、まるで表情を隠すように深く一礼して、小夜里は背を向けた。

 その風の中、きびすを返した後ろ姿に、

「お願いします。本気です。冗談でもありません。ふざけても居ません」

北郷一刀は着座のまま、右手こぶしを前について、言葉を重ねた。

「俺は今のままじゃ駄目なんです。もっと強くならなくてはいけないんです――だから、俺に剣術をおしえて下さい」

「………」

 林中の草地に沈黙が下りた。雨上がりの凪はすでに終わり、今、湿度を伴った重い朝風が遠間で立ちつくす二人の間を流れている。

 浅い呼吸を数回繰り返す程度の短い間の後、黒衣の後ろ姿から独白じみた返事が零れた。

「……私の剣は我流で、人様に教えられるようなものではありません――そしておそらく、貴方が学ぶべき剣でもありません」

 草地に膝をついたままの一刀には、彼に背を向けた小夜里の表情《かお》は見えない。それでも、急に小夜里の様子が変わったことは察しがついた。いいや、確信すらある。おそらく彼女の顔にはさっきまであった微笑みはない。取って付けたような断りの言葉にしてもどことなく力無く空々しく思われた。少なくとも腹の底からでた言葉とは……先ほどの彼に向けてくれた親身な忠告とは違う。同じ人物の口からでたものとは思えなかった。

 一刀が戸惑いながら言葉を探していると、小夜里は背を向けたまま「それに」と小さな声で付け足した。

「そもそも私は、誰かに『師』と呼んでもらえるような人間ではないのです」

 ざわり、と朝靄を払う雨上がりの風が、二人の間を通りすぎる。

「……『師』と呼んでもらえるような人間では、ない?」

 一刀は言葉の真意を理解できなかった。だから、自然と、繰り返すような問いかけになった。

「……失礼します」

 小夜里は顔を伏せたまま、再び一刀に対し一礼し、今度こそ立ち去った。淡々と歩数を刻んで遠ざかり、やがて黒衣の背中は森影に消えた。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 そして同時刻。二人から東屋を隔てた木立の影に人影があった。

 位置的には風下。雨上がりの強い風に乗って、二人の会話はその位置からでもよく聞こえた。

「――………」

 ようするに――それは、ちょっとした偶然だった。

 運命のいたずら、などという大袈裟なものではなく、人間社会に暮らす以上別段珍しくもない、ごくありふれた交錯《ニアミス》。良い出来事ならば「たまたま折良く」などと喜ばれ、逆に悪いことなら「なんとも間の悪い」などと嘆かれて……しばらくすると忘れてしまうような、その程度のこと。

 朝ご飯の前、最近元気のない主人の様子を伺いにいって空振りに終わった彼女は、自室へまっすぐ帰る気にならず、寄り道をしようと雨上がりの森へ入り、「たまたま折良く」――稽古中のたずね人の姿を見つけて、声を掛けようとして――『なんとも間の悪い』ことに

「――………」

彼女の大切な「ご主人様」が、土下座までした願い事を、笑って蹴っ飛ばされる《比喩表現気味》のを、見ることになった。 

 声を掛けてもいいはずだったが、図らずも覗いていたかのような立場になった事を自覚してもいたので、彼女の出足は鈍った。

(違う、な………)

 胸の中に呟き、小さく息を吐く。それは理由の一つに過ぎない。

 彼女の立場からすれば、もっと憤っても良かった。旅人ごときが県令の懇請を袖にしたのだ。北郷一刀の臣下たる彼女が怒らねば誰が怒ろう。思い上がりも甚だしい。非礼の極みである――と声を荒げて糺すべきだ。

 しかし彼女は木陰に身を潜めて、一歩も動かなかった。そのまま木立に背を預けて瞑目し、つむった瞳で空を仰いだ。

 考えるまでもない。わかっていた。彼女が無様に立ちつくす理由は、突き詰めればたった一つ――他は全て些末なこと。

 彼がずっと悩んでいたことを知っていた。何とか力になれないかと考えていた。負担を軽くしたいと懸命になった。でも、思うようにいかなかった。

 頼りにしている。と彼は彼女にいっていた。でも、彼自身けっして自分のワガママや不満を口にしたことはなかった。助けて欲しいと弱音を吐いたこともなかった。

 少なくとも彼女や妹の前でだけは。

しかし、今――その彼、北郷一刀はプライドも何もかも捨てて、助けを求めていた。

「……」

 彼女ではなく、義妹でもなく。出会ったばかりの旅人に。

 ああ、と、声にならぬ声で、雨上がりの空に吐息する。

「………私は、なんと、醜いのだ」

 彼女………愛紗は――要するに。

 彼女の『北郷一刀』《ごしゅじんさま》が、彼女自身以外の誰かに頼る姿を、金輪際見たくなかっただけなのだ。

  

 そして、日常的には全く変わらないまま、一週間が過ぎた。

 

 

 

 

 

恋姫無双SS『単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話―』

 

第三回 とりあえず、三顧の礼でがんばってみた。 

 

 

 とある一日。時間は昼前――啄県の街。

 北郷一刀は、前日までなら一日でも終わらなかった政務を半日で終わらせて、街へ出た。現在位置は市場。生鮮食品の売買はほぼ終わっている。まだまだ品物の総量が足りない啄県の朝市は、築地の魚市場のセリのような売り手主導のスピード優先。それに対応可能な買い手だけが参加できる、というノリで、朝の早い時間に全部売買が終わってしまう。活気はあるが一般人には楽しむ余裕がない。その点、この時間帯は朝とは違い。朝仕入れた食材を料理して提供する屋台、または日持ちのする果物や保存食、日用雑貨が中心とあって、のんびり一般市民が買い物できる雰囲気だ。これはこれで、朝とは別の活気があって、なかなか楽しいものである――が。

「あのう……ご主人様」

 それら賑やかな街の様子も全く目に入らないようにもじもじと落ち着かない様子で、愛紗は体を揺すった。彼女は仕事が終わった一刀に誘われて、行動をともにしている。

「どうしても、ご一緒しなくてはいけませんか? 私も、その、色々と仕事が」

 怪訝そうに、一刀は愛紗の方を振り返った。 

「あれ? 朝尋ねた時は『コレとコレがすんだら全くヒマですっ! 何にも有りません。あいてます。ふ、ふ、ふりーですっ!』って……」

「うっ! いや、そ、それは……うう。はい。そうでした。確かにそうお答えしました」

 その通りである。彼女らしくもなく、今日の愛紗は一刀に主導権を握られっぱなだった。それも主に政務関係の仕事の分野で。

 実は本日の一刀は、仕事上でちょっとした工夫をして、そのことによって大幅な効率アップを果たしたのである。

「こんなに早く終わると思わなかったから、何か妙な感じだなあ」などと、歩きながら伸びををする一刀であるが、別に妖術を使ったわけでもズルをしたわけでもない。

 彼はいつも官僚たちに書類を持ってこさせて、それに目を通してから愛紗を通じて返事をしていたのだが、今回は担当の官吏に口頭で説明させ、その要点をメモにとって整理した上で、疑問点を質問し、用件によって「許可・不許可・再検討」の三つに振り分け、結果報告の期日を決めて退出させるという方法をとった。

 これは現代日本ならば、それこそ高校の生徒会でもしている仕事の進め方である。が、ここは古代中国ベースの異世界。報告といえば、文章による上奏《じょうそう》が基本だった啄県の文官達にはショックが強すぎたようで、事務部門は朝から大混乱に陥った――が、決裁自体が早くなったので一刀自身の仕事の効率は上がった。結果として、三日分の仕事が半日で終わったのである。

 そして愛紗といえば、てきぱき裁可を与えていく一刀を眺めながら驚いたり喜んだりしていた――で「ああ、やっぱりウチのご主人様は仕事の出来る人だった」などと、その横顔に見とれて「ぽややん」としていたため

「早く終わりそうだから、昼から街に出ようか?」

といわれて、前述のごとく即答してしまったのである。彼女ともあろう者が、激しく浮かれるままに「ふりー」などという覚え立ての天界言葉など使ったりして。

 ……ああ、関雲長ともあろうものがなんという無様な。穴があったら入りたい。壁があったら手をついて反省したい。

どこかに、壁はないか?

 などと、彼女が手頃な壁を探して周囲を力無く見回していると、

「愛紗が忙しいのは知ってる。まあ、ゆっくり出来るのも今日ぐらいだろうから」

愛紗の煩悶には気づかない様子で、一刀は首のコリをほぐすように、右左に頭を捻った。

「官吏の人たちが、あのやり方に慣れてくれれば、忙しいのは元どおりになるんじゃないかな」

 口頭の報告は時間の短縮になるが情報の質・量ともに不足しがちになる。記録保存の面で心許ない。だから文章での報告はどっちにしても必要だ。が、それにしても意思疎通の手段が文語調の上奏文朗読で、しかも原稿は漢文、それも隷書体の白文で書かれているときては効率が悪いことこの上ない。事実、一刀は新しい書類を受け取る度に、隷書を楷書に書き直したり、返り点を打ったり、平仮名を書き加えて書き下し文にしているのだ。おまけに報告や進言にも色んな作法や段取り、つまり定められた『儀礼』がある。これにもいちいち時間が掛かって仕方ない。だから事務方が詰めている部屋の隣を県令の執務室出張所にして、順番に事実関係だけを伝えてくれるように頼み、案件ごとに自分の手元にメモを残し、担当者と経過報告の日時だけ決めて退出させた。

 つまり一刀は、実質やっていることの内容自体は、これまでと変わらないまま、手順と手間を省略しただけなのだ。

「今まで続いてきた方法にはきちんと意味があると思う。官吏の人たちの方法を否定するつもりはない。だいたい、こんな方法を使ってばかりじゃ、俺自身、いつまでたっても読み書きを覚えられないし、文官の人も困るだろうしな」

 愛紗は目を瞬《しばたた》かせた。

「確かに、今日のような進め方は事務方の混乱を招きますが………ひょっとしてご主人様は、ずっと我慢して私たちのやり方に合わせてくださっていたのですか?」

「まさか。違うよ。提出された文章を読まないで仕事をするなんて、一週間前まで、思いつきもしなかった」

「は?」

 愛紗は話の要点がわからなくて聞き返した。今の言い方では一刀は、一刀自身が慣れていた仕事の『やり方』があったのに、今までそれを思いつきもしなかった、ということになる。

 一刀は肩をぐるぐると回しながら「俺は、さ」と、言葉を続けた。

「漢字だけの文章も読まなきゃいけない。読めるようにならなければ認めて貰えない。認めて貰えなければ政治に関わってはいけない。そう思っていた。そして、それは間違いじゃないと思う」

 この古代中国に似た異世界において、「読み書きが出来る」ということは一種のステータスである。そして文字と文章と儀礼を何よりも重んじる文官や官吏たちと付き合う上で、これらに関する教養の有無は、避けては通れない関門なのだ。啄県に来てからのさほど長くない期間だけではあるけれど、それを思い知る機会にはコト欠かなかった。普通の現代人にして平凡な学生たる北郷一刀であるが、言葉を交わし、寝食を共にし、一緒に仕事までしていれば、彼らの価値観は身にしみてわかる。

「ただ、啄県は色んなコトを急いでやらなきゃいけない時期だからさ。思いこみに縛られないで視点を変えてみようと思ったんだ」

「……思いこみ、ですか」

 愛紗の言葉がほんの少し陰りを帯びた。最近の一刀は「思い込み」とか「固定観念」という言葉をよく使う。そして彼がその言葉を使う時は、きまって何かしら懸案の問題に突破口を見付けた時だった。しかし、それを聞く度に、愛紗はなんとも居たたまれない気分になった。政務には関係ない事での心の揺れだと自覚していたので、愛紗はこと是に関しては堅く自分を戒めて、表情や言動に表れないように努めていた。

 その甲斐あってか、それとも彼女の主が異常に鈍感なのか。

 今もそうであるように、北郷一刀は、愛紗の葛藤には全く気付いていない。今も彼は先日までのプチ落ち込みモードが嘘のように、晴れ晴れとした顔をしている。

「最近、ちょっとした事で色々考えされられたんだ。もしかしたら、自分はこの『世界』に合わせなきゃと思うばかりで、大切な事ややるべき事の本質を見失っているのかもしれない……って。 

 ああ、勿論読み書きの勉強もするよ。愛紗にまた色々教えてもらわなきゃいけないから、迷惑をかけそうだけど」

「……私で、その、お役に立てれば……あの、いいのですけど」

「ん? 当たり前じゃないか。俺に愛紗の他に誰を頼れっていうんだよ」

 何か吹っ切れたかのような、屈託のない笑顔で愛紗に話しかける一刀。それに対し、

「………はい」

 愛紗は何となく目を伏せた。歯切れの悪さを自覚する。今度もどっちつかずの中途半端な受け答えしか出来なかった。

 そうしている内にも、二人は歩き続けて市場の南端まで来ていた。この先は特に見物する対象も、警戒する対象もないが、一刀は歩みをとめない。

「それで、本日はどこに行かれるのですか?」

 もやもやと立ちこめる不安感に苛まれながら、愛紗は尋ねた。一刀はくるっと振り返り答えた。

「夜討ち朝駆けっていうには中途半端なんだけどな。こっちの『誠意』を、いや、この場合は『本気』か。――とにかく伝えなきゃならん。市場に薬草を売りに来ていれば、いい切っ掛けになるとおもったんだけど、今日は来ていないらしい。こうなれば、直接行くしかない」

「……」

 ああやっぱり。と愛紗は心の中だけで溜息をついた。市場に着いた辺りから、もしかしたらこの様な展開になるのではないかと予想していたのだ。

 悪い予感だったので、外れてくれればと願っていたのだが。

「この先に小夜里さん、ほら例の先生の塾があるんだ。悪いが愛紗も付き合ってくれ」

 今日の彼女は、できれば塾《そこ》にだけは、行きたくなかったのに。

 

『小夜里さんの塾』は、もちろん正式名称ではない。子供達は小夜里が旅の間に引き取ったり助けたりしたもので、厳密に言えば生徒ではない。そもそも彼女は自分の仮住まいを『塾』などと名乗っているわけでもないし、生徒の募集もしていない。

 にもかかわらず。ここのところ、弟子入り志願者や子供を連れた父兄が小夜里の庵を結構な頻度で訪問しているのは、啄県の『私塾ブーム』というべき状況が関係している。北郷一刀が県令となって以来、啄県とその周辺地域の治安が急速に改善され、安全を求める人々が街に集まり始めた。

 それは黄巾党から逃げた人たちが生まれ故郷に帰ってきた事もあるが、戦乱を避けて他所から逃げて来た人もいる。街の人口が増え経済活動が盛んになれば行政の規模が大きくなるのは当然で、啄県では試験や面接専門の部署(名前は『人事係』とそのまんまだったりする)を新設して、役人や治安維持の要員を常時募集していた。能力第一主義を掲げる一刀の方針で縁故の採用を極力排除したため、選考方法は面接と実技(文官なら書類作成、武官なら武術の立ち会い)からなる試験による。

 この後世の科挙を先取りしたような採用方法は啄県の街にちょっとした異変をもたらした。採用試験の突破を目指して勉強する人が増え、その需要に応える形で雨後の竹の子のように私塾(文官養成目的)と武術道場(武官養成目的)が増えたのである。ただし、急に増えたので質にはかなりバラツキがあった。ことに啄県の行政部門では即戦力を求めていたので、試験のレベルが高く、官吏志望者は「レベルの高い内容を分かりやすく教えてくれる塾」を血眼にになって探していた。

 そんな折り、市場で質の良い薬草を扱う店が出来、またそこの女主人が人品、学識ともに非常に優れていると評判になった。

第一に彼女が大層物知りな上に聞き上手で、相談に来た人を拒まなかった。第二に彼女を『先生』と慕う子供達が明るく礼儀正しく、周囲の人のために決して骨惜しみをせずに働くし、近所の農作業の手伝いや市場の荷物運びや店番もやった。また、この時勢に、病人やけが人がでると先生自ら薬草をもって治療に赴く。それでいて必要経費以外は謝礼も断る。最初は市場でも近所でも、戦災孤児を連れた若い女性ということで奇異の目でみていたのだが、二週間もするとすっかり街にとけ込んでいた。

 市場というのは街の情報発信基地であるから、「評判」が啄県全体に広まるまでにそれほどの多くの日時を必要としなかった。 

 忙しい主婦が軽い気持ちで子供の世話を頼んで、小夜里が快諾したのが最初。その子供が他の子供達に感化されて手伝いや礼儀を憶えた。また啄県の政庁出入りの書籍商が洛陽で仕入れた古書の真贋について相談したところ、実に明解な答えが返ってきた。それで小夜里が訓詁学(文章の解釈や写し間違いの訂正に関する学問)に詳しく、四書五経や孫呉の兵法書に関して非常に正確な知識を持っている事がわかり、その評判が官吏志望の書生や現役の役人を中心に口伝えで広まった。以後、子供や父兄だけでなく、

「よほど名のある師について勉強した賢者に違いない」

「いずれは世に出る逸材だ」

と、その名を慕って訪問する詩人や学者、さらに官僚も出始めた。

 いや、それだけならよかった。

入城から一ヶ月後の今日では

「小夜里殿は、実は、県令の北郷一刀様がわざわざ洛陽から招聘した隠士(仕官しない知識人)で、すでに高い地位での任官が決まっている」

 などという、極めつけというかなんというか、非常に先走った風評まで流れているのだ。

 どうやら前回の出陣後、一刀たちと一緒に県城に帰ってきたところを見ていた人がいたらしい。 何かと目を引く二人と帰ってきたのだから、そりゃあ色んな憶測も生まれようというものである。

 

「……やりにくいことになった」

 前記のような周辺事情を、うかつなことに北郷一刀は全く知らなかった。塾へ向かう道々、初めて愛紗の口から聞いたのである。

「はい。この状況、小夜里殿の人柄から考えても、あまり好ましくはおもっておられないのではないか、と」

「先生には、あんまり迷惑、懸けたくないんだけどな」

 一刀は難しい顔をして首を捻った。風評の件を知って、行くこと自体を躊躇しているらしかった。愛紗は、さらに尋ねてみた。

「それでは、今日は、お止めになりますか?」

 むむ。と一刀は腕組みをしたが、「いや、やっぱり行ってみよう」と肯いた。

「この前、市場で偶然会ったのが二回目、今日は三回目だしな」

「はあ?」

 愛紗には一刀の言葉の意味が分からなかった。が、丁度よかったので聞き直した。

「ご主人様は、小夜里殿に仕官を勧められるのですか?」

 質量ともに常時駒不足な北郷陣営を強化する意味で、小夜里に仕官を勧めるのは自然な流れである。

「そうだな。小夜里先生にその意志があるなら、俺としては嬉しいけどな」

(やはり、ご主人様は小夜里殿の出仕を望んでおられるのか)

 黄巾党に対する防衛を主軸に行政を立て直した啄県は、軍事に人材が集中し、行政は二の次になっていた。人手不足の事務方は常にオーバーワーク気味で、今朝のように前例にない方法で政務を行うと政庁全部が大混乱する。しかし――例えば、その文官の中に小夜里がいたらどうなっていたろうか?と、愛紗は考えた。

 一刀のやり方を肯定し混乱する文官たちを統御したろうか? それとも「時期尚早である」と諫言して旧法を遵守したろうか? 愛紗にはどちらもあり得るように思えた。またどちらにしても、小夜里であれば、自分よりも巧みに事態を収拾するように思えた。   

「……」

 実際に言葉を交わした愛紗には、小夜里がただ者ではないとの実感がある。

 物腰柔らかながら深みのある為人《ひととなり》。明晰な頭脳。学識に裏付けられた明解な論理性。訓練なり学習なりを経ているであろう弁舌。都の官僚に匹敵する学識。学問を実学として役立てる応用力。そして確固たる自信と志に裏打ちされた行動力と立ち居振る舞い。何より、彼女の主人を『天の御遣い』北郷一刀と知ってなお、動揺しない自然体の生き方――。

 荊州辺りならまだしも、なんでこんな田舎にいるのかと驚くより先に、怪しみたくなるような人材である。

 とはいえ愛紗の脳裏には一週間前の一件がちらついている。

 あの朝に限らず、出会ったから今まで、小夜里に仕官の意志は見えなかった。それが単に名利に興味がないのか、他に大望があってこの街での仕官を望んでいないのかは、分からない。

ただ一つ、愛紗が彼女について、確信を持って言える事があった。それは

(彼女はけっして自分の意志を曲げることは、ない)

 小夜里は、自分自身が仕官するにたる主と見定めればどんな方法を使っても望む主に仕官できるように運動するだろうし、仕官しないと決めれば県令どころか、相手がどこかの太守であっても仕官しないだろう。

 小夜里の、もの柔らかな人格の奧に、けっして折れない剣のような侠気が孕まれていると、愛紗は理屈に依らず感じ取っていた。 

 あくまで愛紗自身の感覚だから根拠はない。が、あえて根拠を求めるなら、それは他でもない愛紗自身が主を求めて諸国を流浪した経験からくる直感だった。

 誰も大志を抱く者は理想の『主』にめぐり合うことこそを生涯の一大事と考える。その『一念』は本能から来る衝動にも似た、夢や誇りや志というものと分離不可分な自分自身そのものであって、それらを全部捨てる以外ではけっして折れない刃なのだ。

 無論、物事には絶対はない。長い人生の内には『節』を屈して望まぬ相手に仕えねばならぬことがあるかもしれない。その機会は愛紗にだってあるかもしれないし、小夜里にその運命が訪れないとも限らない。だが、今のところ、あれほどの人物が自分の節を屈する『理由』を愛紗は思いつけない。

 それは、志を以て天下に雄飛せんとする者にとっては、死よりもなおつらい『士』としての『死』であろう。

 愛紗は胸に浮かんでくる感慨をもてあましていたが、隣を歩く一刀は対照的に気楽そうだった。

「でもなあ。先生自身は、あんまり、役所勤めをしたいようにはみえなかったしなあ」

と、述べる口調も、まるっきり他人事。だが今の愛紗はそれを額面通り気楽な内容と受け取れない。

(それは、それでもなお『必要な人材』である、という意味なのだろうか? それとも無理強いする必要はないという意味だろうか?)

 別に難しい問いではないはずなのに、そんな簡単な質問すら口に出来ないほど、愛紗の心は乱れていた。彼女の立場からすれば、答えは簡単である。もし小夜里の仕官が北郷一刀の意志なら、愛紗は一刀の『臣下』として、小夜里を何としても彼の幕下に加えなければいけないのだ。

「……」

 愛紗自身に出来ない方法で、一刀を補佐できる人材として。

「…………はあ」

 愛紗はため息をついた。ついでに拳で自身の側頭部を小突く。

「………………女々しいぞ、関雲長」

 ――などと、愛紗が自己嫌悪と困惑の波で溺れそうになっていると、先を歩いていた一刀が歩みを止めた。

 それに気付いて、愛紗も我に返って顔を上げる。

 白い雲が浮かんだ青い空の下。木立の濃い緑を背に、子供の玩具のような民家が一棟、立っている。

「とにかく! 今日のこれで三回目だ。今日こそ何かが起こるっ」

「あの、ご主人様」

 出走前の競走馬のように入れ込んでいる主人に、愛紗は恐る恐る声を掛けてみた。

「先ほども仰っいましたが『三回目』にどんな意味があるのですか?」

 愛紗の問いかけに「むふふふふ」と一刀は含み笑いをもらした。

 ――なんとなく愛紗が心配になるような口調で。

 と、そこへ、どこからともなく「おにーちゃーん」と声がして、何かが駆け寄ってきた。地平線の点から人間の姿になるまであっという間。ドップラー効果で声が妙に間延びして聞こえるほどである――というか、鈴々だった。

 ずしゃしゃしゃしゃしゃーと土煙を上げて急停車する。

「小夜里先生のトコに遊びに行くのなら、鈴々もいくのだっ!」

「鈴々! 遊びではないぞ!……ないですよね? ご主人様?」

 いつものように脊髄反射で鈴々を注意し……注意してから自信がなくなった愛紗は、小さな声で一刀に尋ねた。

「遊びではない――三度目の今日こそ勝負だっ!」

と言いつつ、一刀は庵の扉の前にたった。そして

「こんにちはー」

フレンドリーに声を掛けた。すると髪をお下げにした女の子が出てきて「あ。県令さま、こんにちはー」と頭を下げる。一刀は片膝を折って屈むと、少女に目の高さを合わせて話しかけた。

「啄県県令の北郷一刀です。先生にご相談があって参りました。どうぞ取り次いでください」

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

 ぺこり。と頭を下げて、女の子が部屋の奧へ入る。

 なんと礼儀正しい子供だろう、と愛紗が感心していると

「ぬふふふのふ……関羽と張飛を連れているし、先生は留守ではない……きたっ。来たぞおっ。これで昼寝をしていれば――勝ったも同然っ」

 部屋の奥へ向かう子供の後ろ姿を眺めながら、一刀が不気味な含み笑いを漏らし続けているのが聞こえてきた。

 愛紗は少し引いた。でも、そのままにもしておけない。敬愛する上司の名誉……よりも正気が心配になり、再三躊躇した挙げ句「あの……ご主人様?」と声を掛けようとした頃、やっと小夜里が出てきた。

 麻の長衣に黒い上衣を羽織った簡素な出で立ち。短い髪は結ぶでもなく結い上げる出もなく流れるに任せている。いつも通りの質素ながらも清潔感のある装いだが、少し慌てていた。そういえば、戸口に客を待たせるなんて「礼儀」にうるさい彼女らしくもなかった。

 小夜里は三人に「お待たせしました」と頭を下げ、少し恥ずかしそうに笑った。

「良いお天気ですね。私、洗濯物を干していたら、ついうたた寝をしてしまって……」

 そんな小夜里に愛紗は「本当にいい天気ですからねー」と愛想笑いを返したが、

「昼寝キタコレ!! ヒィィィヤッハーっつ」

と、隣で一刀が、妖しい言動を連発しつつ変な踊りを踊っているので、かなり居たたまれない気持ちになった。

 小夜里はといえば、そんな一刀を視線から外して愛紗の方を向いた。……無視することに決めたらしい。

「わざわざのお運び、恐れ入ります。どのような御用向きでしょうか?」

「先生っ! お願いします! 俺に――」

「お断りします」 

 一刀は小夜里と愛紗の間に割り込んで話しかけたのだが、小夜里は絶妙の間合いでばっさり会話を断ち切って、彼に剣術の「け」の字を言わせなかった。そして、そのまま、くるりと背を向ける。一刀は言葉の接ぎ穂を失って凍り付いた。そんな一刀の前で、ぱたり、と扉がしまる。

「おお、全くスキがなかったのだ」

 鈴々が感心したように言った。愛紗ですら、どこで言葉を挟んだらいいかわからなかった。

それくらい、一連の動作が流れるようで「隙」がなかった。

「ごしゅじんさま……?」

「三回目の訪問」とやらは、あまりにあっけなく終わった。愛紗は一刀の様子をそおっと窺った。

一刀は話しかけた姿勢のまま、しばらく硬直《フリーズ》してから「はっ」と我に返った。そして「えーっと」なとど人差し指でコメカミをひっかいてから、「ぽん」と手を打った。

「うむ。庵を訪ねたのはコレが初めてだから、前の二回はノーカンだ」

「……いや、確かに市場と森の中ですから、三度『庵』を訪ねたわけではありませんが――そういうものなのですか?」

「たぶん。って、あれ? 森でのコト愛紗に話したっけか?」

「えっ! いや、ほらさっき、そのようなコトがっ あったりなかったりしたようなっ」

「そうだったか? 市場の話しか、していなかったような……」

 などと、一刀と愛紗がオチのない漫才のような消化不良感ただようやり取りをしていると。 

「……県令様」

 ごそそと微かな音がした。そして再び扉が開かれて、先ほど家の中に消えた黒髪の頭がひよっこり現れる。

「……どうぞお入り下さい」

「それじゃあ!」と喜色を浮かべる一刀に小夜里は首を振った。

「ご返事はかわりません。ですが、せっかくお尋ね頂いた皆様を玄関先でお引き取り頂くなど礼法に反しますし、なにより……」

 軽く溜息をついた後、彼女は空を仰いだ。

「まもなく雨が降ります。見たところ雨具の類はお持ちではありませんが、おそらく政庁まで天気は持ちますまい」

「雨?」と愛紗は怪訝な顔をした。今日は朝から天気がよい。政庁を出て市場を抜けてきたが、雨雲などは一つもなかった。

 一刀と鈴々は顔を見合わせた後、小夜里に向かって笑いながら、空を指さし

「いやでも、こんなに晴れてるよ(のだ)……」

と言いかけて――次の瞬間、二人揃って絶句した。

 先ほどまでの青空とはうってかわり、暗くしずんだ灰色の雲が西から急速に広がってきた。

 透明な水差しに灰色の絵の具をぶちまけたような勢いで、空の色が塗り変わっていく。

「――おい、いそげいそげ」

「手伝ってよー」

「んしょんしょ」

と幼い声があちらこちらから上がる。どうやら天候の変化に気付かなかったのは彼女たちだけのようだった。

 愛紗も周囲を改めて見回して、子供達がザルにさらした薬草や豆をテキパキと回収しているのに気付いた。それぞれに分担がきまっているらしく、一糸乱れぬ連携で仕事を片づけていく。

「大したお構いもできませんが、せめて雨をお凌ぎください」

 口調を改めた小夜里の声に、愛紗は半睡から覚醒するように我に返った。

「……さ、関将軍、張将軍もどうぞ。お茶菓子も用意していますから」

「そうだな。どうやら、その方がよさそうだ。な、愛紗?」

 後ろを振り返った一刀に、愛紗は一礼して同意をしめした。

 

 

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 むかしむかし、あるところに。

 色々頑張っているのに、いつまでたっても弱小勢力なままの殿様がいました。部下には一騎当千の強者がいるのに、戦では勝ったり負けたりの繰り返し。今は城には住んでいるものの、これは人様の好意で間借りしているのでした。

「これでは励んでくれている皆にも申し訳ない。私は一体どうすれば一国一城の主になれるのだろうか?」

悩んでいた殿様に、ある人が勧めました。

「殿様に必要なのは知恵に優れた賢者です。この国には今、天下の英才が集まっています。伏竜鳳雛。このどちらかを部下に出来たなら、貴方は大望を成就できるでしょう」

 殿様は国中を探しました。そして、ついに、伏竜先生の友人と出会い、目指す賢者が隠遁生活を送っている住所を教えてもらいました。

「伏竜先生をご存じなら、貴方が説得して下さいませんか」

 殿様がそういうと、伏竜先生の友人はこう言いました。

「彼は呼びつけて出てくるような人間ではありません。お殿様自らが草庵を訪ねて、お招きになるべきです」

 なんと生意気な奴だ、と怒る周囲の声を抑えて、殿様は義兄弟と伴に、教えてもらった住所を訪問しました。ですが残念ながら留守。もう一度、今度は大雪の中を出直しますが、相手は知り合いと雪見の宴を催すために外出して、又も留守。二度も訪問したのに、相手から殿様を訪ねてくる様子も無いし、手紙の一通も来ません。春を待ちかねて三度目の訪問の準備をしている殿様をみんなは止めました。しかし、殿様はがんとして聞き入れません。

「私は何としても伏竜先生に会って、この乱れた世を鎮め、民草を安んずる術《すべ》を教えてもらわねばならないのだ」

と、庵に向かいました。

 そして三度目の訪問。ついに殿様は伏竜先生に出会いました。二人は時間を忘れて語り合いました。そして三度も訪ねてくれた事に心を動かされた伏竜先生は庵を出て殿様の臣下となり、殿様が皇帝になるために大いに力を尽くしたのです。

 めでたし。めでたし。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

「……というのが『三顧の礼』の大雑把なあらすじ、なんだけどな」

 ずびっ。と出されたお茶を啜って、一刀は説明を終えた。

「なるほど、感動的な話です」

 うむ。と隣に座る愛紗が言った。

「伏竜先生を招くため、真摯かつ誠実な態度を貫く武将。そして、その知遇に応えて粉骨砕身、主を皇帝へと押し上げた伏竜先生の知略と忠誠。さすが天の世界には優れた先人の伝説がつたわっているのですね」

「……まーなー」と一刀は投げやりに応ずる。何しろこんなアホらしい話はない。なんで三顧の礼の故事(の実名NGダイジェスト版)を、登場人物本人に語ってきかせねばならんのか。

「でも、殿様の一番下の弟は悪い奴なのだ。ちょっと待たされたぐらいで、先生の家に火を付けるとか考えちゃいけないのだ」

と鈴々。それをきいて愛紗が続ける。

「それをいうなら、二番目の弟も情けない。もっと長兄たる殿様を信じなくてどうするのだ!」

 ……愛紗と鈴々《きみたち》が、そう言うんならきっとそーなんだろーねー、と一刀は多少やさぐれ気味に、心の中で呟いた。

 もちろん一刀としては三度といわず五度十度と訪ねる気だった。でも、寸前に張飛(鈴々)が来たり、先生が居眠りしていたりと妙にフラグじみた事が重なって

「なにこれ、イケんじゃね」

と、つい思ってしまったのだ。

 はずかしいやらみっともないやら。

 そんなふうに一刀が眉を八の字にしていじけていると、「くすくす」と笑い声が聞こえた。

「なるほど、その故事に倣っての『三回目』でしたか」

 卓の反対側に腰掛けた小夜里が、手を口元に当てて笑っている。

「では、せめて雪除けの手伝いくらいはお願いしないと、お話になりませんね」

「……来年になるじゃないか」

 ぶすっとした顔で、一刀は小鉢の茶菓子をつまんで口の中にほうりこんだ。

 まだ肌寒いものの、そろそろ梅が咲こうという今日この頃である。

 

 あの後――雨は、本当に降ってきた。

 青かった空が俄《にわか》に曇ったかと思うと、ぽつりぽつりと滴が墜ちてきて、すぐさまそれは大粒の雨に変わったのである。

 すぐに止む雨と思われたが、そこそこ強い雨だったので、無理を推して政庁まで帰るのはためらわれ、小夜里の勧めに応じることにした。

 案内されたのは天井の高い大部屋で、子供達が書き方の稽古をしている。

 小夜里は年長の子供達に手伝わせて窓側に椅子と卓を用意し、お茶と茶菓子を持ってこさせた。  

 少し緊張した様子でお茶の支度をする女の子に礼を言ってから、一刀は小夜里に話しかけた。

「啄県での暮らしはどうですか? 子供達は風邪ひいたりしていませんか?」

 小夜里は、腰を折って一礼した。

「ありがとうございます。みな息災ですよ。それに県令様のおかげでとても助かっています」

「へ? 何にもしていませんよ。俺」

「薬と茶の税を撤廃されたのは北郷様だと聞いています。洛陽から此処まで旅をしてきましたが、このような政策をとる街は初めてです」

「ああ、そのことですか」と一刀は破顔して、愛紗と顔を見合わせた。愛紗は誇らしげに肯いた。

「薬と茶の税を撤廃したのは、ご主人様がこの町にこられたばかりのころに始めた施策ですね」

 一刀が行政に携わり始めた頃、最初にやったのはライフラインの整備と生活必需品の市場価格調査だった。勿論一刀は行政の知識なんて持ち合わせていない。だが、いきなり戦乱に巻き込まれた経験から、『命』を守る事を第一に考えた。だから当面の仕事を、井戸を中心とした上水の整備と疫病対策に絞った。本当は病院をつくりたかったのだが、実現するには人も時間も足りない。そこで市場にでまわっている『薬』について調べ、それが他の生活必需品に比べて高価だとわかったので、薬に関わる全ての税を撤廃したのである。市場での出店料は無料。売上税も免除。なにしろ薬か茶を一定量持っていたら、城門の通行税まで無料になるというのだから徹底している。

 この処置によって啄県では町中に薬屋が増え、街を訪れる卸の商人も増えた。公庫の収入が増えない政策を疑問視する声もあったが、そもそも薬の流通量を増やして単価を下げる事が目標だったのだから、政策としては成功したといえるだろう。市場での値段が上がらない程度に政庁でも買い入れて備蓄を増やしてもいたし、あらたに薬草園も作った。これは疫病や戦乱に対する備えである一方で、医療品の安定供給を目指すための準備でもある。

 ただこれらの改革案はかなり性急だったので、特に「どうすれば税収が増やせるか」という点に腐心していた役所の古株文官には受けが悪かった。故に少なからず軋轢も生じたのだが、その反面「税を撤廃して商品の流通量を増やし、市場価格をコントロールする」という発想に若手の官吏が刺激を受け、一刀の政策の信奉者になるなどという思わぬ影響も出た。彼らは(頭の固い古株官吏たちに隠れてこっそりと)一刀の政策や発言をもとに、天の国の政治経済について勉強会を開いているらしい。

(『県令殿』に直接質問して教えを請う……というところまで、思い切れていないあたりが微笑ましい)

 愛紗は武官ということで政治からは一歩引いていた為、色々もどかしい思いをしていた。だから政策を切っ掛けに一刀が周囲に認められたことで安心した。その切っ掛けといえる薬とお茶が褒められるのは、彼女自身、我が事のように嬉しかったりする。

 小夜里はそんな愛紗の心中を察したように、彼女に笑いかけた後、一刀に向き直った。

「薬草は売った分だけ儲かる。質の良い薬草は高く売れる、なら自分もやってみるか――と、実に良い循環で、啄県の薬草は質量ともに充実していますね。かく言う私も、市場に店を構えて、そのお相伴に預かっているわけですし」

 それから、と小夜里は机の上の茶碗に目をやった。

「お茶もそうです。啄県では他の街に比べてお茶の価格が安い。元値が下がったわけではなく、税の分だけ安くなりましたから、啄県で商売をしたい商人が遠くから茶を運んできます。つい先日まで、そこそこ、お金持ちでなければ飲めなかったお茶を、この町では誰もが飲めるようになりました。ありがたいことです」

 そこまでいってから、小夜里は「機会があれば一度質問させて頂きたいと思っていました」

と、顎を引いて口調を改めた。

「薬はわかります。

 戦乱で苦しむ民にとって、薬が手に入る事は、何よりもありがたいものです。貧しい者にとって、薬は常に高価で手に入らないのが当たり前。妖しげな祈祷に頼るのが精一杯ですからね」

それがこの世界の庶人の現実だった。民間療法や祈祷が治療の基本姿勢で、症状に応じて薬草を処方するなどと言うことはかなり身分の高い人間か、金持ちの特権である。

「ですから啄県の薬の価格引き下げと、備蓄の為の政庁での買い上げ、薬草園の設置は、素晴らしい施策であると思います」

 しかし、薬草と茶葉は違う、と小夜里は指摘する。

「お茶は贅沢品です。お茶を飲もうとする人は大抵お金があります。税を取っても構わないと、私などは思うのですが……」

 一刀は笑った。

「俺はお茶が好きなんです。できれば一日中飲んでいたいくらいに。それで良いお茶を安く呑みたいから、俺はお茶には税を掛けない――これくらいは県令《おうさま》の役得でしょ?」

 小夜里は視線を動かさず。一刀を見続けていた。一刀はそんな彼女を黙って見返している。愛紗はそんな二人を、息を詰めて見守っていた。何が気に触ったのか。愛紗にはそれまで無難で当たり障り無かった小夜里の態度に方向性の違う力が加わったように感じられた。

「県令様ともなれば、高いお茶だって飲み放題でしょうに」

「気が小さいんでね、俺は。『あいつだけ贅沢している』と思われると、せっかくのお茶がのどに詰まる」

 その返事をきいて、ようやく、小夜里が笑った。

「つまり」

 小夜里は微笑んだまま視線を卓上の茶碗に落とした。

「北郷様が美味しいお茶を飲むためには、啄県の人がみんな美味しいお茶を飲まねばならない……という事ですか?」

 一刀は残りのお茶をのどに放り込むようにして飲み干すと

「まあ、そんなところですね」

と答えた。小夜里は軽く肯いて、

「なるほど」

と言って少しだけ目を閉じた。

 それきり、二人は茶葉の話を止めて、別の話を始めた。

 

 ――この人は茶葉の件に『裏』を感じているようだ。

 愛紗は、小夜里の様子から、そう感じていた。また一刀があからさまに「含み」のある言い方をしたことで、彼がこの『謎解き』を『餌』にして、小夜里を『釣る』つもりなのだとわかった。 

 そして小夜里も、意外なことに、『勝負』に乗りかかっている。 

 彼女が、どうしてそんな気になったのかは、不明であるが。

 ――なるほど。

と、愛紗は心の中だけで呟いた。

 ――どうやら『これで三回目だ。今日こそ何かが起こる』というのは、まんざら「思い込み」でも「縁起担ぎ」でもなかったらしい。ご主人様も、存外したたかでいらっしゃる……

 愛紗は黙ったまま茶碗を取り上げて、一息に飲み干した。

「……」

 正直なところ、小夜里を一刀の幕下に迎える件について、愛紗自身の『答え』は不透明である。 それでも、小夜里に対して北郷一刀が「本気」で執着している事はわかった。だが、このとびきり有能な女性を、一刀が常に口にするところの『仲間』に加える事で、彼女の主と彼女自身に何が起こるのか――今の愛紗には想像出来ない。

 愛紗はふと窓の外に目をやった。いつのまにか、雨はすっかりあがっていて、青空が見えている。

「……」

 雨の名残の灰色の雲が、そこ此処に散らばる、ひどく荒れた青空だった。

 

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 深夜。芯を削った燈明が心細い光量で灯り続けている。

 

 その部屋の中には人影がある。幽かな朱光に浮かび上がる、癖のある黒髪と白皙の頬。麻の単衣と黒の上衣、と常の装いと変わらない『彼女』が、今夜に限って一振りの剣を携えていた。

 ただ、携えているだけである。抜く素振りはない。

 肘掛けのない簡素な椅子に腰掛け、剣を膝の上に横たえている。

 そうしたまま、いったいどれ程の時間が過ぎたのか。

 闇に近い書斎に幽かな呟きが漏れた。

 

「伏竜……鳳雛……」

 

 そして、また沈黙。漏れた呟きが闇に溶けるの待つかのような静寂である。

 

「解せない……」

 

 何事につけ常に明解な答えを用意している『彼女』にしては、めずらしい呟きだった。『彼女』にとって思索とは、常にただ一つの『答え』を導き出す為の過程である。地理・天文・気候・政治・経済……人と人が暮らす世界の大方のことは単純化、法則化することが可能であり、一見して予測不可能な事も、多くの場合、正しい情報と正しい思索によって、解析が可能なのである。

 この世に解析不能な事象があるとしても、せいぜい、未来予測と不老不死程度――そんなものは、仙人か妖術遣いの範疇で、なおさら『彼女』のような現実主義者《リアリスト》が気にすることではない。君子は怪力乱神を語らぬものだ。

 だが。しかし――ここに一つ、解きがたい謎がある。

 ふとしたことで耳にした奇妙な『おとぎ話』

 そこに登場する「伏竜鳳雛」という二人の軍師。

 地に伏す竜だろうが、鳳の雛であろうが、世に出る前の偉才という意味であればわかりにくい比喩ではない。誰が思いついても不思議ではない。おとぎ話の登場人物と笑って流せばよい。

 が、そうはできない理由が、『彼女』にはあった。

 

「何故、その名を知っている……」

 

 他ならぬ『彼女』は、知っていたのだ。

 賢者の門に学び、未だ年若く世に出ぬ偉才。されど一旦機会を得たならば、咆吼する竜の如く、羽ばたく鳳の如くに知略を振るい――流浪の将軍を皇帝に押し上げることすら可能な『二人』を。

 

「だが、そんなことはありえない……」

 

 そう――ありえない。なぜなら、その二人の存在を――その真価を知り、その二人を「伏竜」「鳳雛」と呼ぶのは、今はまだ、その『二人』の師と、彼女自身を含めても十人に満たない同門の学友のみだからだ。

 

 じりりと燈明の光が揺れて、耳障りな音が書斎の静寂を侵し、ふと一時、『彼女』は朱色の光を見つめた。

 黄昏色の光に、郷愁を伴って無色の記憶が映っては消える。

 

『彼女』は、その二人をとても大切に思っていた。

 自分よりも幼くありながら、驚くべき速度で知識を吸収し、あらゆる事象を思索し探求し、戦略・戦術に鋭い見解を述べ――無垢なほど、この世に希望を抱き、未来に理想を願っていたあの子たち。

 挫折し、苦悩し、傷ついて最後にたどり着いたあの『学舎』で、あの子達の無垢な『理想』が、素直な『夢』が――どれほどまぶしく憶えたろうか?

 どれほど貴重な宝と思えたろうか?

 あの子達は自分などとは違う。本物の王佐の才を持ち主だ。

 あの二人こそが、きっと、この乱離たる世界に残された最後の希望なのだ。

 故にあの子達が仕える相手は、この世を救う者でなければならない。あの子達が夢を託すに足る真の英雄でなければならない。

 己の野望を満たすために、あの子達の才覚を悪用するような輩《やから》に断じて仕えさせてはならない。

 故に今、自分たちの他にあの子達の事を知るものがいるとすれば――それが彼女たちの夢と希望を邪魔する者であるならば。

 

「……先生不知何許人」(先生、いずこの人か、知らざりき) 

 

 かすれ声の詩《うた》が、黄昏色の闇に溶けるやいなや、「しゅっ」と風が、風を裂く――燈明が消え、書斎は全き闇に沈む。

 後に残るはあまりに幽かな鞘鳴りのみ――

 

「北郷……一刀」

 

 ――貴様は、いったい、何者だ。

 

 

 

単福の乱―黄巾残党掃討戦挿話― 第三回 とりあえず、三顧の礼でがんばってみた 完

 

 

 

 

 ――第四回「何処の誰かはしらないけれど」に、つづく

 

 

 

 

 

 

 


 
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