No.150973

二重想 第二章 参

米野陸広さん

どうも、みっともなくて長いけど第二章三話です。
やっぱりどんどん、読んでく人が少なくなるよぉ……。
いっそのこと一気に挙げてしまえばよかった

ではどうぞ!

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2010-06-16 02:51:13 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:1263   閲覧ユーザー数:1184

 冴子さんは、時間通りにやって来た。服は昼に『黄金堂』を訪れた時と、全く変わらない。

 「お待たせしました。……それじゃあ、行きましょうか。」

 定刻十分前に来ていた、僕の姿を発見すると、彼女は軽く挨拶を済まし、すぐに歩き出した。

 時間はたっぷりあると思ったのだけれど、どうやら彼女はかなり焦っているみたいだった。その証拠に、頬がかなり上気している。走ってきたのだろうか?そんな疑問も持ち上がる。

しかし、そんなことは一向に構わないのか、彼女は足早に歩いていく。どうやら、このまま目的地に直行するようだ。それだけ、時間に追われているということなのだろう。

……レストランの、タイムサービスでもあるのかな?

なにはともあれ、僕は、彼女の後を、一生懸命追うのだった。

駅前の銅像の前から、僕達は真っ直ぐと続く、商店街の中へと紛れ込んでいく。

 「何処に行くんですか?」

 彼女を見失わないようについていきながら、僕は聞かなければならないことが数多くある中、手始めにまず、それから尋ねた。少なくとも、今から何処に向かうのかだけは、知っておきたい。

 「私の家。」

 彼女はあっさりと答えた。そう、いともあっさりと答えたのだ……。そのとても奇妙奇天烈な答えを。

そのため、僕にはその意を図ることは出来なかった。僕は立ち止まって、理由を聞こうと思ったが、彼女が先を歩いているので、それもままならない。

……わからない。何で、冴子さんが僕なんかを?

当然のように疑問が浮かぶ。……まさか、彼女に見初められたわけではあるまい。あくまでも、冴子さんが好きなのは……『彼』なのだから。

それからの道のりは、無言が続いた。というより、会話が成り立つ間もなかった。僕は、冴子さんが僕を誘ってくれたことについて、悩んでいたし、また、そのことを口にすることが出来ないほど、彼女の歩くスピードが速かった。何より冴子さんは、全く話す気がないように見えたから。

……。

だらだらと続く人ごみの中を、僕と冴子さんはその隙間をするすると縫っていく。喧騒の中、獣道を行くようで、……結構ハードだ。

商店街を抜け、圧倒的に人の量が減り、更に彼女の歩調は早まった。しばらくいって、横に曲がる。両側には一軒家が立ち並んでいる。どうやら、住宅街に入ったみたいだ。比較的新しいのか、壁が綺麗な家が多く、特に白さが眼に眩しかった。

程なくして、駅から七、八分ぐらいになるだろうか。彼女の歩調が、急に鈍った。そろそろ目的地に着くのかもしれない。と、

「ここが、私の家です。」

彼女は歩くのを止め、僕の方を、振り返った。昔、運動部にでも入っていたのだろうか、あれだけのペースで歩いてきたのに、彼女は息一つ乱してはいなかった。

「はあ、はあ、そう、ですか……。」

彼女とは対照的に、僕は、根っからの文化系のせいもあって、すっかり息が上がっている。自分でも情けないほどに。

「……雪村さん、大丈夫ですか?」

「ええ、まあ。」

「ごめんなさい、急いでしまって。」

「……まあ、ちょっと早かったといえば、早かったですけど、……大丈夫です。」

僕は、出来るだけゆっくり呼吸をし、肩を上下させた。そんな僕を何ともいえない顔で、彼女は見つめている。そして、何も言わず、彼女は視線を自分の家に移し、そのまま口を開いた。

「本当に、ごめんなさい……。でも、早く、真実を確かめたかったから。」

「真実?」

「……ええ。」

「どういう……。」

僕の質問を遮るかのように、彼女は再び僕に背を向け、家の外にある鉄製の門扉に手を掛けた。軋み、甲高い音が鳴る。

「……話は、……中で。」

彼女は、門を開いた。悲しみに暮れた声で、それだけを告げた冴子さんは、敷地内へと入っていく。僕には、この場を解決する手札が何もない。彼女に続くことだけしか出来なかった。

……彼女の話す真実とは一体何なのか、そして、それが僕と何の関係があるのか、それは全くわからない。しかし、僕の足は止まろうとはしなかった。

この不思議なシナリオに興味があったのも事実だが、……何よりも僕は、彼女に恋をしている。彼女の話すことが、どんな不利益になろうとも、彼女と共に時間を過ごせるなら、それだけで、僕にとっては十分に価値のあることになってしまう。

僕が門をくぐると、街灯が定刻になったのか、灯り始めた。歩いているうちに、もう日も暮れており、辺りは暗い。微かだが、秋虫の鳴き声も、聞こえてくる。

僕は、彼女と共に、……一歩、未知なる世界へと踏み出した。

彼女に導かれ、まず玄関に通される。ドアが閉まり、玄関は真っ暗になったが、彼女がすぐに電気を点けてくれた。廊下の明りも点灯し、真っ直ぐと長い一直線の木製道路が浮かび上がる。壁、天井は共に白い。その途中には、トイレかそれとも風呂場かもしくは物置か、ともかく四つほど扉が窺えた。

「さあ、あがって。」

家に着いた安心感からなのか、冴子さんの声は、幾分明るくなって、またそれに比例するように、僕の心も、オレンジ色に染まる。

彼女の雰囲気が、明るければ僕も明るくなれる。悲しくなれば、僕も悲しむ。実に単純な構造だ。

僕は、とりあえず、居間に通されるのかと思ったのだが、彼女は真っ先に僕を、廊下の途中にあった階段から二階へと上げた。何故?と尋ねると、

「そのほうが、都合いいから。」

……都合とはなんだろう?当たり前のように疑問が浮かんだが、ここは言う通りにすることにした。冴子さんにも事情があるのだろう。

螺旋状の階段を上り、また廊下へと出る。それから僕は、和室に導かれた。だが、その部屋は家具や調度品の類は一切無い。そこにあったのは、一組の布団。しかも誰かが使っていたのか、敷布団は皺が寄っていた。

まさか冴子さんの部屋ではないだろう。

「……冴子さん、ここ、誰か、使っているんですか?」

「あっ、ええ、……まあ。」

彼女は歯切れ悪く答えつつ、僕のほうを見る。何かを観察するような目だった。

「何ですか?」

「えっ、ああ、……すいません、何でもないんです。」

「……そうですか。」

彼女の行動には理由が見えなかった。彼女と二人きりで、一つ屋根の下。嬉しくないはずは無かったが、やはり、彼女の態度には釈然としないものを感じる。……しかし僕は、敢えてそのことを口にするのを躊躇った。このことを話題にすると、きっと『彼』のことになるに違いない。そう僕の勘が告げていたからである。……しかし、そこで思い直す。よく考えてみれば、どのみち、彼女が僕をここに呼んだということは、すなわち、『彼』と深く関わっているに違いないのだ。だったら、わざわざ躊躇う必要などないじゃないか。

「あの、それで、話っていうのは何ですか?冴子さん。」

決心した僕は、背後にいた冴子さんのほうを向いて、話し掛けた。すると、急に彼女の顔に影が差す。

「……あの、もう少し、いいですか。」

「えっ?」

「本当にごめんなさい。私、こんなに自分勝手で。自分で誘っておきながら……、凄い迷惑ですよね。」

「いや……別に、」

「いえ、いいんです。実際そうなんです。自分でもわかってるんです。……でも、もう少し、待ってください。……面と向かうと、……言えない。」

彼女の言葉の最後は、小さくなって途切れた。

淋しい沈黙が流れる。

彼女にかける言葉を、僕は持ち合わせていなかった。彼女が求めているものがわからない。慰めでもない。叱咤でもない。一体何を……。

「雪村さん。……ごめんなさい。」

彼女は声を潤ませ、俯いた。表情を見せないようにしてはいたが、泣いていることだけは理解できた。わずかに漏れる、彼女の嗚咽。

……それが僕を動かした。

彼女の振動が、僕に伝わってくる。

どれくらいの時が流れただろうか、僕は彼女の振るえる肩を、いつの間にか抱きしめていた。それが、何というわけでもない。……彼女の涙が止まったわけでもなければ、僕に彼女の気持ちが理解できたわけでもない。そんなことは、初めからわかっていた。彼女はとても奥が深い女性で、僕はその一面しか知らないくらい、いや、それすらも知らないほど、浅い付き合いなのだ。

だけど、なぜかそうせずにはいられなかった。これは、恋が起こす衝動的行動なのだろうか?ふと僕は、そんなことを思った。

「……ごめんなさい。雪村さん……。」

僕の胸に埋められていた、彼女から、こもった声が聞こえた。何度もつぶやかれるフレーズ。しかし、最初のときとは違い、もう泣いてはいないようだった。体の震えも小さくなりつつある。

だけれど、僕は彼女の体を放そうとはしなかった。自分の行動が衝動的であるとわかった今でさえ、放そうとしなかった。……考えられないことであった。けれども、今の僕はそれほどまでに、感情が昂ぶっているのかもしれない。

ずっと、……このまま、時が止まったらいいのに。柄にも無くそんなことを考える。

だが、そんなことも束の間。すぐに、もう一人の僕が、冷静に今の状況を分析し始めた。

彼女の艶のある黒髪が、首筋に掛かっている。ふわりと香ってくるシャンプー。さらに、涙で湿った僕のTシャツ。抱きしめた彼女の感触。……この部屋に二人きりという事実。背後には、しわくちゃになった一組の布団。

僕の妄想を駆き立てるには、十分すぎるほどの演出だった。否が応でも、脳の電気信号は、ありもしない事実を紡ぎ出していく。

僕は、彼女の肩を持ち、私の体からゆっくりと離した。理性で、ふつふつと湧き上がる欲望を押さえ込み、最大限、下半身に注意を払う。

「……もう、平気?」

僕は、必死の思いで、声を掛けた。

彼女の顔を見ると、目は赤くなっているものの、もう泣いてはいなかった。涙は、僕のTシャツに吸い込まれたのか、流れた跡は残っていない。

「うん。ありがとう。……おかげで、確信、持てた。」

「えっ?」

僕は、言葉を飲み込む。彼女は嬉しそうに表情を変え、先ほどまでとは、打って変わって、声も明るい。

「あなたは……。」

彼女の放つ言葉に、僕は耳を傾ける。だが、それに、なぜか抵抗感を覚える。それに従ってはいけないと、何かの忠告。

だが、そんな僕の小さな反抗心に、彼女が気づくはずもく、言い放った。

心臓の音。

「あなたは、雪村さん。……雪村恵吾さんです。」

「嘘だ。」

半ば予想していたのだろうか、彼女の言葉を、僕は即座に否定した。彼女を悲しませたくはなかったが、そんなことはありえないのだ。

彼女は、勘違いしている。

僕は僕だ。

『彼』じゃない。

「嘘、じゃないです。だって、あなたはやっぱり、……雪村君さんです。……その右手の甲の傷が、何よりの証拠じゃないですか。」

僕は、はっとして、自分の右手を見やった。縦に入った小豆色の傷。今日の昼、彼女が、僕に聞いた、傷痕。……そして、僕はその理由を知らなかった。思い出そうとしてみる……。記憶には無い。……だから、そう、だから僕は、小さい頃から共にあるのだと思った。この傷痕は。

「この傷痕は……、昔から。」

「嘘です。あなたは、本当は何も覚えていない。」

彼女は問い詰めるように、僕を見据えた。しかしそれはどこか楽しそうにも見えた。

「いや、覚えている。僕の記憶は、僕だけのものだ。……誰のものでもない。」

完全なる自身肯定。

僕は僕。誰でもない。

「……そうかもしれない、でも、それはあなたの作り出した仮の記憶なんだと思う。本当のあなたの記憶じゃない。」

見知ったかのように言う彼女。僕は、『彼』との接点を外そうとした。

「僕には両親がいない。」

「雪村さんもそうだった。」

「高二の時に死んだ。」

「そうだったってお姉ちゃんから聞いてる。」

絶望という名の壁が、すぐそこまで迫っているような気がした。

「僕のせいで、死んだんだ。」

「旅行中に、だったよ、ね。」

「……嘘だ、僕は……。」

彼女の紡ぐ言葉はすべて真実。

「あなたは雪村さん。それ以外の何者でもないの。」

僕は誰?

今までの自分が崩されていく。

僕は誰?

僕は、僕の人生は、全て偽りだったのか?

僕は誰?

それでも、僕は……。

僕は誰?

……僕は雪村聡志だ。

「だったら、何。」

「えっ?」

急に僕の口調が変わったのに驚いたのか、彼女は顔をきょとんとした。

「だからさ、僕が、雪村恵吾だったとするなら、僕をどうしたいわけ?」

「それは……。」

彼女の戸惑いが感じられる。

「僕はさ、確かに雪村恵吾なのかもしれない。でも、だったとしても、今の僕は雪村恵吾じゃない。雪村聡志だ。」

「……。」

「確かに、何となくだけど、冴子さんの気持ちもわからなくはないよ。……だけどね、よく考えてみて。僕にはさ、今の僕には、雪村聡志としての生活があるんだよ。……今はね。僕は、『彼』じゃないから。」

「でも……。」

「冴子さんはさ、『彼』のことが、好きなんでしょ?」

彼女は息を呑んだ。驚いたのだろうか?こんなわかりきったことを指摘されて……。ふん、馬鹿らしい。

「だから、僕のことを、何とかして、助けたいと思うんだよね。……でもさ、助けるって何なのかな?」

「……。」

彼女は答えない。

「僕は雪村聡志の人生を今、生きている。だけどね、記憶もあるんだよ。所々穴はあるみたいだけど。……でも、本来、記憶なんてそんなものだしね。」

「だけど、それじゃあ……。」

彼女は何か言おうとしたが、僕はそれを手で遮った。

「ちょっと待った。駄目だよ。よーく、考えてごらん。僕は今、何の不自由もない。君からしてみれば、雪村恵吾という存在は消えてしまったし、雪村聡志っていう変な人間が生まれてしまったわけだけど、……確かに辛いと思うよ。」

「そんなんじゃ、」

「いや、そうなんだよ。君は、雪村恵吾が好きだから、彼に恋しているから、僕よりも彼を欲しているのさ。」

「そんな……こと……。」

彼女は絶句している。

自分でも不思議だった。なぜ、自分の好きな人を、苦しめるようなことを言っているのか?明らかにこれは、彼女を傷付けている。だが、なぜかそうすることで、僕の心は澄んでいった。

認めたくないことでも、それは……事実だ。僕はそう割り切ることにした。

相も代わらず僕は軽い調子で続ける。

「ごめんね、少し、言い過ぎたみたい。だけど、自分の気持ち騙しちゃ、駄目だよ。君は『彼』が好き。そのことに間違いはないんだから。」

僕は彼の部分に、アクセントを置いた。彼女は項垂れたままだ。僕はいつの間にか、彼女の肩から手を離していた。今はそのことが、とてつもない距離に感じる。

「……私は、雪村さんと一緒にいたい?」

彼女は小さく呟いた。自分の気持ちを確かめるようなイントネーションだったが、僕の心を貫き通すには、不足なかった。

僕は、笑顔を浮かべる。彼女は、何も気付かない。………気付く余裕なんてないのだろう。

ここで告白……、できる状態じゃあないな。無理に彼女を苦しめたくもないし。

僕は心の中で苦笑した、自分で心を騙すな、なんて言っておきながら……。

「私、よく、わからないんです。」

「えっ?」

突如、彼女は僕に言った。

「私が、雪村さんのことを好きなのは……本当です。でも、彼に戻ってきて欲しいのかどうかまでは、自信がないんです。」

「……意味がわからないんだけど。」

私は、溜息をつく。

「だって、雪村さんは、お姉ちゃんのことが好きだから。」

「……そういえば、……そうだったね。」

雪村恵吾は思い出してみれば、死んだ自分の恋人を未だに好きだったと、彼女から聞いている。記憶喪失中は、それすら覚えていなかったとも。

「だから、私……、自分でも一体、どうしたいのか……。」

「わからないなら、悩む必要はないと思うよ。そのままにしておけば?どうせ、どっちをとっても後悔するんだから。」

「……。」

「それに、一つ忘れちゃ困るんだけどさ、僕は僕だからね、僕は別に『彼』であると、認めたわけじゃないから。」

「えっ、でも。」

「でも、じゃない。僕は僕。どっちにしたって、僕は彼になるつもりじゃないからね。」

「そんな……。」

悲しそうな声を上げたが、それは幾らなんでも我儘というものだろう。

「そんなじゃないよ。僕だって、僕の人生があるし。いくらなんでも、それは我儘でしょ?」

「……。」

「違う?」

僕は意地悪く彼女に問い掛けた。ここで駄々をこねるほど、彼女も子供ではないのだ。彼女は悔しそうにこっちを見ている。なぜかそれが微笑ましかった。

「……それでいいよね。」

「じゃあ、」

「えっ?」

急に彼女が、してやったりというように、笑顔を浮かべた。

「私は、あなたの記憶を引っ張り出してみせます。」

「はい?」

「私は、雪村さんのことが好きなんです。だから、そうします。」

「でもさっき、」

私は彼女が先程言っていた言葉を思い浮かべる。確か彼女は、自分が『彼』を本当に戻したいのかわからない、と言ったはずだ。

「さっきはさっき、今は今です。私は、雪村さんの事が好きですし、だから、彼に戻ってきてほしいんです。」

「でも、」

「雪村さんが、誰を想っていようと関係ありません、例え、それがお姉ちゃんであっても、です。私は私。私が、雪村さんを好きなのは、変わりありません。それに、」

「それに?」

「まだ私、雪村さんに、この気持ち伝えてませんから。」

「……そう。」

彼女の熱意は本物のようだ。僕を本当に、『彼』に変えてしまうつもりらしい。

「協力してくれますよね?」

「馬鹿言うな。」

そこで、僕達の口からは、自然と笑みがこぼれ始めた。それはだんだんと、声になって、二人で笑い転げた。何がおかしかったわけでもない。ただ嬉しかったのだ。純粋に。

それが何に対してだかは、わからない。けれど、嬉しかった。

……しかし、彼女は気付いているだろうか?僕という存在の不自然さに。……まあ、仮に彼女の言っていることが本当だとして、僕が二つの人格を持っているとしたら、僕は多重人格者というわけだ。このこと自体は、大したことじゃあない。だが、おかしいのは、少なくとも、ここ一ヶ月は僕でしかないということだ。『彼』の存在は確認されていない。すると、『彼』は今、本当に僕の中に存在しているのか?それとも、もう既にいないのか?そして、今、本体なのは『僕』なのか、それとも『彼』なのか?

他にもある。僕はただ単純に霧下耀子さんに関してだけ、記憶喪失であるという可能性が。もし、自分が、『彼』であったときの彼女に対する感情、記憶、全てを忘れているのであるとしたら、僕が元に戻ったとき、僕の感情は残るのだろうか?彼女を……、霧下冴子を好きでいられるのだろうか?

笑い転げながらも、僕の心の底では、そんな疑問が次第に渦を巻き始めていた。

僕の気持ちも、空回りのような気がしてくる。

……頭が混乱してきた。

自分の存在が揺らぐ。……僕は……。

考えるのはやめよう。未来のことなんて、そのときになってみなければ、わからないんだから。 僕は、冴子さんが好き。……今はそれだけで、十分だ。

「あの……。」

「ん?」

彼女がこちらを向いて僕を呼んだ。

「あの、これから、聡志さんって、呼んでも……。」

「ああ、そうだね。ややこしいもんね。そうしていいよ。僕もそのほうがいいし。」

「えっ?」

「まあ、こっちにもいろいろとね。」

僕は、追及を軽く逃れた。彼女も、気にしなかったようだ。

「それで、聡志さん。」

早速彼女は僕の名を呼んだ。その響きに、少し心が浮き足立つ。

「……今日、……てい……んか?」

「えっ?」

急に彼女の声のトーンが下がり、途切れ途切れにしか聞こえなくなる。

「ううん、何でもない。気にしないで。」

彼女はほんのりと赤く、頬を染めた。……よくわからない。

なにはともあれ、お腹が空いた。これから、外食というのも、なんだかな。

……ぎゅるる。

彼女のお腹が不意に鳴った。自然と目と目が合った。

「お腹空いた?」

僕は、彼女にそう尋ねた。多少の皮肉を込めつつ。

「……ええ、少し。」

恥ずかしいのか、彼女の頬はさらに赤くなる。

「じゃあ、ご飯作ってよ。」

「えっ?」

「だって、せっかく来たんだし、お客様には何かもてなしがあっても、いいんじゃない?」

「……。」

あれだけ、女性が苦手なはずだったのに、こんな軟派な言葉が飛び出してくる。彼女が何か探るような目つきで、こちらを見た。

「……何?」

「いえ、何でも。」

彼女は、残念そうに呟いた。そして、立ち上がる。

「それじゃあ、何か作ります。あまり、料理は上手じゃないんですけど。」

「いいよ、別に。一流レストランの味を期待しているわけじゃあないし。」

彼女は僕を見下ろし、

「……いいんですね。」

背筋に悪寒を覚えるような、台詞だった。

「あ、ああ。」

「それじゃあ、何か、作ってきます。……ああ、途中で、アルバム拾っていきますから、先に下に下りてください。聡志さん。」

「わかった。」

彼女が部屋を出ると、僕も立ち上がり、部屋を出た。彼女は、隣の部屋に入っていく。僕はその部屋を通り過ぎ、下の居間へ向かった。階段を下り、廊下に出て、玄関と反対方向に歩きながら、突き当りを目指し歩く。大体の感覚で、一番奥が広いことは予測できた。……で、予想通り僕はリビングに出た。

背後から、彼女が階段から降りてくる音が聞こえてくる。

「聡志さん、一回この写真見てくれますか?」

「んっ?」

振り返ると、思ったより近くの位置を、彼女は歩いていた。その右手には写真が数枚握られており、彼女はそれを胸に抱くようにしていた。

僕はそれを受け取る。彼女から渡されたのは三枚の写真であった。その写真には、一組のカップルが、映し出されていた。

長い黒髪を持った、優しそうな顔で微笑む女性。そして、確かに僕が写っていた……。少し若いが、間違いなく僕だ。

「これ、……誰?」

聞かなくてもわかっているくせに、つい口から漏れてしまう。

「それが、雪村さんです。」

「これが……。」

もう、他人の空似というレベルではなかった。双子ではないかと思わされるほど、似ている。同じ名字だから、血が繋がっていたとしても、ここまで似ることは、まず有り得ないだろう。それなら、やはり、……?

そこまで考えて僕は、それをすぐに打ち消した。

僕が『彼』であることは十中八九、間違いない。……と認めながら、それでも自分が『彼』とは、別人であることにしたのだ。往生際が悪いといわれればそれまでだが、どうしても僕は、もう一人の自分の存在を認めるわけには、いかなかったのだ。

「……そう、か。」

「ええ。」

僕も彼女もその一言だけで発言を留めた。気まずい沈黙が流れる、その上、夕食の席でも、冷ややかな食器の音ともに、薄っぺらな会話が交わされるだけだった。そして、その話題も尽きたころ、僕は、ハンバーグ最後のひとかけらを、食べ終えた。

「ご馳走様。」

僕のテンションは下がったままだった。またそれには、彼女の料理の腕が、関係していることは否めない。

「……聡志さん、ごめんなさい。」

「いや、いいんだ。冴子さんの気持ちは良くわかるから。」

彼女の謝罪が、料理に対するものだったのか、悪い雰囲気を作り出してしまったことだったのかは、わからなかったが、僕は、ともかく……その後、すぐに、彼女の家を去った。彼女に悲しい仮面をかぶせたままで。

これが、僕の作り出した罪なら、まだ、ましだった。自分を責めることができるから。……でも、これは彼女のミスだ。僕にはカバーすることなんて出来ない。

……いらない溝が出来ちゃったな。

明日、彼女は来てくれるだろうか?また、今日のように……。

……半々、かな。

暗い夜道、それは未来であり、その真っ暗な未来を照らしてくれる電灯は、彼女である。

こんな考えは、くだらないことだろうか。

「……いや、単に子供なだけだろ。」

希望を抱く少年は、そう独りごちるのだ。

私は目を覚ました。側には、一糸纏わぬ姿で、耀子が寝ていた。……その姿でいるのは、耀子だけではない、自分も同じだ。だが、全く寒いとも暑いとも感じないというのは……。

そうか、私は……夢の中にいるんだったな。いわば……。

「夢じゃないよ、雪村君。」

「ん、ああ、起きたのか。」

「はい。」

にっこり彼女は笑う。……そう、この笑顔なのだ。私が求めていたものは。

彼女はいつの間にか、服を着ていた。外の世界のことを意識してなのか、白のカーディガンにチェックのスカート。随分と秋っぽく変わっていた。

気付けば私も服を着ている。だが、なぜかそれは、私の高校時代の制服だった。こんなシステムもこの世界ならではの特徴といえるだろう。

「何でこんな服に……。」

「まあ、いいじゃない。なんか、若返ったみたいで。」

「そうか?私は、君が大人っぽく見えて、何か不公平な気がするんだが……。」

「雪村君は、いやなの?……どうせなら私も、その方がいいんだけど。」

「えっ?」

すると、途端に彼女の服が制服に変わった。……確かに、若返って見えるような気がする。

「懐かしいね……。って言っても、この頃は、私の一方的な片思いだったけどね。」

「まあな。」

だが、そのとき作らなかった想い出を―――、

「今、作っておくのも悪くない?」

「心を読むなよな。……私の台詞だぞ、そ―――」

言い終わる前に、彼女が座ったまま私の口をふさぐ。その感触は、手の平のように芯があるものではなくて、もっと弾力に富んだものだった。

……。

最初のキスは、そんなに時間を掛けず、すぐに離れた。足を崩した状態のまま、鼻先数センチの状態で見つめあう。

自然と、右手が肩に回る。……もう、傷のことなど気にする必要がない。

彼女は僕の体に体重を掛けてきた。僕は倒れないように、しっかりと彼女を受け止めた。

「……私、こんなに幸せでいいのかな。」

私が愛したことのない耀子が、胸の中で小さく呟く。悲しみではなく、本当に疑問に思ったようだ。そんな彼女の髪を、私は優しく梳く。

「……私、あなたのことを奪っちゃったんだよね。」

「……本当にそう思うのか?」

「……。」

彼女は何も答えなかった。だが、それが答でもある。迷いという名の。

「耀子。誰に罪を感じている?」

私は、柔かい口調で問い掛けた。

「……冴……じゃ、ないから、困るんだよ。誰だかわからないから。」

「そうか。」

「ねえ、雪村君。本当に―――。」

「そんなに、私と離れたいか?」

彼女の体がびくっと、なるのがわかった。そして私の制服を強く掴む。

「……。」

「ありがと、耀子。」

「……うん。」

彼女の顔が微かだが、縦に動くのが、感じられる。

「大丈夫だよ。……きっと、耀子のその罪悪感は、なかなか拭える物じゃあないと思う。だから、辛い気持ちは変わらないかもしれない。でも、それでも、私だけは、いつも耀子の味方でいるから。」

「うん。」

さっきよりも確かに、彼女は首肯を示した。

……。

ゆっくりと時は流れる。

……あるはずの無い、彼女の体熱で、自分の胸が焦がされるようだ。

「雪村君……。」

「んっ?」

「……ありがとう。私を選んでくれて。」

「それが、私の望んだことだ。……君も、そうだろ?」

私は彼女の首筋に接吻した。

「……ずるいよ、雪村君。」

私達は、靄の中へと溺れていった。微かに、ミントの香りがした。

彼女の家を訪れて、家族公認の仲となった私と耀子だったが、だからといって、今までの付き合い方が、特に変化することはなかった。ただ、二人が訪れる場所に、それぞれの家が加わっただけだったから。

「だんだん、寒くなってくよね。」

「そうだな。私も、そろそろ衣替えをしなきゃいけないと思っているんだが……、なかなか暇がなくて。」

「そうなの?」

「ああ。もう最近、家にいる時っていうのは、大抵、寝ている時か、耀子が来ている時だけだからな。」

「……そんなに?」

「自覚無いか?ここんところ、私達は、いつも一緒にいるぞ。学校来る時も、家帰る時も、遊びにいく時も……。サークルも、一緒だしな。」

「そうだっけ?……全然気にしたこと無かった。」

「まあな。……自分でも、こんなに長い間いっしょにいて、嫌にならないのが不思議なくらいだからな。」

大学の帰り道、こんなことを話しながら、私達はあるところへと向かっていた。二人が始めて結ばれた日に、立ち寄ったあの喫茶店である。一回行ってからというもの、あそこは、耀子のお気に入りとなってしまい、私達ちょくちょく、暇があると出掛けるようになったのだ。まあ、いわゆる常連さんというやつだ。そうなると、いろいろわかってくることも増える。例えば、面白いことに、あの店には名前が無い。そのわけを、マスターの大六野さんに聞くと、

「名前なんて無意味だからな……。要するに、それがどんな店かわかれば、いいんだろ。だから、俺の店には名前が無い。名前が無いことは立派な名前になるからな。」

などと屁理屈めいたことを言っていた。

客の数は常に増えていなかったが、というかゼロだったが、料理は常に一級品だった。マスターもこっちの顔を覚えていてくれて、いつも話が弾んだ。相変わらずその会話は、新聞や雑誌越しであったりしたけれども。

彼はいろんな話をしてくれた。自分が旅人のようなものであること。常に移転して、お店を開いていること。そこで出逢った客のこと。いつか、この土地からも去らなければいけないこと。……その話し振りは、懐古するようなものではなく、単なる世間話のような雰囲気だったが、そのことを記憶していることから、よほど思い入れの強いことだったんだなあ、と感じ取れた。

電車を乗り継ぎ、名のない喫茶店のある駅についた。初めて流れ着いた時とは違い、道はかなりすいている。時間帯が昼間であることも、影響しているだろう。

「ねえ、今日、なに頼む?」

今までしてきた会話から、そこへと話題が転換された。

「ん、ちょっと趣向を変えて、ミートソースにしようと思うんだけど。」

「趣向を変えてって……前もパスタじゃなかったっけ?」

「前は、ナポリタンだったんだ。私は思いつく限りのパスタを、あそこで食べようと思っているからな。……耀子はどうするんだ?」

「私は、コーヒーと、チーズケーキ。」

「ああ、確かに……、あそこのチーズケーキは秀逸だよな。」

私も一回食べたことのある、チーズケーキ。あの、大人っぽい甘さは、きっとあそこでしか出せない味だろうと、思う。だが、驚くべき点はそこではない。凄いことは、ケーキが、いくら時間が経っても、あの味であるということだ。どんな魔法を使っているのかは知らないが、既に作ってあるケーキを、客には出すのである。それであの味なのだ。未だに信じられない。一度尋ねたことがあったが、

「企業秘密だ。」

と、すぐに、回答拒否を受けてしまった。シニカルな笑みをこちらに浮かべながら。

そんな回顧をよそに、私達は、いつもと変わらない白い佇まい。そこに辿り着いた。

そして、その扉に掲げられた文字に絶句する。

『閉店しました』

だが、そこには無愛想な文字が並んでいた。いかにもあのマスターが書きそうな文字ではあったが、私達はそれをにわかに信じることが出来ずにいた。

「……嘘っ。」

「何でまた、……突然に。」

私達は思い思いの感想を述べた。

呆然と立ち尽くしてから、ウィンドウから中を覗く。そこにはあの時と変わらない、空間が残ったままだった。だが、あの時陳列されていたコーヒー豆も茶葉も、既にない。

……時間は動く。止まることなく、ずっと、動きつづける。

この空間自体は変わっていないけれども、やはりそのことを実感せずにはいられない。

もう大六野さんと会うこともない。……友人といえるほどの仲でもなかったが、別れというのはいつだって悲しいものである。それが心を許した人物であればあるほど。

私の側には、まだ、信じられないといった表情で店舗を眺めている、耀子がいる。

私も生きている限り、必ず彼女と別れなければいけない時が、やってくるだろう。それは、私のほうからかもしれないし、彼女のほうからかもしれない。

死にいく者の悲しみは、一瞬だ。でも、残された者の悲しみは、著しく長い……。

いとおしい自分の恋人には、そんな想いはさせたくない。残るのなら、私でいい。私は、彼女の横顔を見つつ、そんなことを考えていた。

本来ならこんなこと考えるべきでは、ないのだろう。

……人を好きになるのは簡単だが、愛するのは難しい。さらに互いが幸福であることは、それ以上だ。

このまま進んで行けば、私達はうまくいくのか、それはわからない。もう既に、取り返しのつかない状況なのかもしれない。胸中に、そんな不安が渦巻く。

不意に耀子を抱きしめたくなかった。耀子が、どんどん遠くへ、行ってしまうような気がしたから。

だが、往来で、さすがに気恥ずかしい。私は彼女の手を握るだけに留めた。彼女の瞳は、前を向いたままだったが、私の手を握り返してくれていた。

いつも、……いつまでも一緒に……。

きっと、それでいいのだろう。

「雪村君、これからどうしようか?」

「そうだな、……うちに来るか?紅茶ぐらいなら淹れられるから。」

「……うん、そうする。途中でケーキでも買ってこ。」

「ああ。」

……今だけが、全て本当のこと。だから、私が幸せであることは、……真実だ。

未来が不安になったなら、今を見ればいい。そこには、必ず、未来への指標が隠されているはずだから。

 


 
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