卑信
「病気、つまり、内在する害悪は卑信にあり」
…これは現代の悟りの内容です
悟りによれば、要するに、こういう事です
病気に巻き取られ、病気に侵されるのが、一枚目です
…二枚目ってありますよね?
……要は、巻き込まれ役の一枚目でも、その他の三枚目でもなく、解決薬の二枚目になってしまえ、というのが、ニーチェ、現代にとってのブッダの発想です
よくお話の展開でありますよね??
「どんな事があっても、言葉を発してはいけない」、病気に対する最も良い対処法も同じです「決して、病気や病気の症状を信じてはいけない、それが二枚目のセオリーだから」という感じが悟りなのです
この「信じない二枚目」には必要条件があります
”自分以外の誰も何も信じず、疑っている事”、これによって「信じない二枚目」を舞台現実で演じる事が出来ます
アレです おそれるという事は、何かを信じて疑わない、という事です …それが壊れてしまう事をおそれて、信じてしまう
…これが卑信の原理です
「卑信」とは「疑う事への臆病」なのです
狂薬
病気の背後には狂気があります
「卑信」とは、その狂気を単體で信仰してしまう事なのです
その狂気を削る狂気があります それが狂薬で、體内で狂薬を生成して、卑信を退ける事が出来ようものです 狂気と言っても、狂薬の狂気は人を殺す狂気ではなく、生かし、優しく助ける狂気です
…実は、卑信の裏にあるその狂気は、『エノク書』という聖なる書物で、「アザゼル」と言われています
狂薬が生まれた理由として、病気の背後にあるそのアザゼルを殺し切る為のものと言えます
狂薬とはいわば、『エノク書』の神の薬とも言えるのですね
世界への卑信、と反対に自分を信用する
「世界は病気である」の真意とはそれなのです
卑信的なものは三つあります それは、神(唯一神)・病気・それと世界です
世界と言うと、分かりづらいですが、要するに現実という病に私たちが犯されていて、私たちの胸の真ん中には死の強制の杭が打ち込まれているという事です
…そして、それも狂薬で治療出来るのです
「世界は病気である」の真意はそれなのです
自分自身の事さえ、信用する、信用者的な、身のある信用、それが卑信の反対です 卑信者的な「おどして、信じさせる」と、信仰者的な「おどして、信じさせられたものを自分の性として受け入れる」、こういうのは、科学信仰でもキリスト教でもユダヤ教でも同じです 同じ、「神」(科学信仰だと「科学」という名の、聖者の間では「アザゼル」という名の)という考えなのです
(真に科学者的な所で言えば、一~三を飛ばして、四流、五流は「科学」に生贄を捧げ始めます 四流の民主主義のルソー、五流の社会主義のマルクスなど)
…神崇拝的な科学はこう言うものであって、また、別に有疑考的な科学もあります、その卑信と反対、落ち着いて、見定める、信用を知る事が卑信をはねのける唯一の手掛かりなのです
病気→常悪
・頭に思い描いている形質(たとえば、「地球温暖化」)が正気的(せいきてき)でない事
例:人々は常識的ではなく、常悪的だ(訳:あいつらは「常識」「常識」言っているけど、要するに、「常悪」=「頭がおかしい事」を「常識的」と呼んでいるだけなんだよ?)
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病気の克服とは、卑信せず、體内で狂薬を作り出す事です