No.1185547

天使の旋律

AEさん

「四月は君の嘘」の二次創作動画を観、涙腺が焼き尽くされたので書きました。

2026-04-13 23:18:01 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:70   閲覧ユーザー数:70

「天使の旋律」

                by AE

           2026.04.11

 

 

真っ暗闇。

気が付いたら暗闇の中に居た少女は、周囲の闇を振り切るかのようにキッと目蓋を閉じ、とりあえず記憶を整理することにした。

慌てたってしょうがない、人生当たって砕けろの精神で突き進んで来たこの数年間である。

最後の記憶はまだ灯っていない手術灯の下、口にあてがわれた樹脂製のマスク、そこから流れ込んでくる不思議な匂いの空気。

それを吸い込む度に身体中の辛く気だるい重さは和らいでいき、聴覚が失われていく。聴こえないのは恐いな、等と思って目蓋を閉じた。横たわった四肢の感覚が薄れ始め、手指の感覚が無くなった時に突然、恐怖が訪れた。無意識に声が出た。

 

「待って……」

 

周囲が喧騒に包まれるのを感じる。覗き込んできた看護師の顔が見える。腕を持ち上げようとしたが、鉛のように重い。

 

  指が動かせないの

  それは絶対にだめ

  弾けなかったら、あの人が困る

  指だけは持っていかないで

 

声に出せない。願いは届かず、自らが薄まっていく感覚に、少女は震えた。

何も感じられない時間が訪れて、やがて胸の辺りにぽっかりと穴が空いたような感覚が一瞬、ほんの一瞬だけ感じられた直後、なぜか彼女は自らの姿を見下ろしていた。

マスク越しの青白い顔がよく見える。

これじゃあ君に心配されるわけだよね、等と思いながらも、ふと気付いた。

 

  ・・・そうか、そういうことか。

 

ゼロになっても、彼女はそこに居た。

 

  ああ

  君の音が懐かしい

  君の音が聴きたいよ

 

次の瞬間。

少女はピアノの旋律が鳴り響く壇上に立っていた。

背後から届く、その音はどことなく寂しげだ。

またか、しょうがないなぁ、と思った途端、手指にバイオリンが現れた。

少女はいつものように奏でた。呼吸するかのように。体調は嘘のように元気だった頃に戻っている。

弓をあてがい、流す。

弓と弦の境界線の、目に見えない棘が擦れ、音が紡がれていく感覚。そういえば本当に久しぶりだな、弾くの。まだできるだろうか、等と思いながら腕を動かす。

ピアノの旋律が、それに応えるように力強いものに変わっていく。

ピアノの奏者を振り向く必要はない。

けれど、ほんの少し視線を変えて、奏者を見た。

いつものように汗をかきながら、全力で君は弾いている。少女の身勝手な、それでいて繊細な演奏に必死で合わせようとして。ただ合わせようとするのではない、一音一音に込められた配慮は少女の奏でる音に寄り添い、抗い、まるで音同士が会話しているかのように聴こえてくる。

 

  それでいい

  君はそれでいいんだよ

 

時間の流れが明らかにおかしい。

一瞬のような、永劫のような共演の終盤で、初めて少女は振り向いた。

汗と涙でグシャグシャになった少年の顔。

その視線は確かに少女の姿を認めている。

視線が合って微笑んだ時、手指の感覚が、重力が、消えた。そして自らの身体が薄まって散らばっていくのを感じた。

不思議な感覚に少女は戸惑うが、最後まで彼を見つめていた。

 

  手紙、読んでくれるかな・・・

 

それが彼女が覚えている最後の意識だった。

そして何も見えなくなり、何も聴こえなくなった。

 

 

 

 

その後がこの闇だ。

記憶整理で落ち着いたら、悲しみの次はなぜか怒りが込み上げてきた。ずっとこのままなんていうのはあんまりだ・・・と愚痴ろうとした時のことである。

 

「すみません、お待たせしましたー」

 

どこか舌足らずな口調で拍子抜けしそうな、それでいて相手を労る気持ちが込められている・・・そんな女の子の声が聴こえた。

どこどこ?と首を振ろうとするが、首が動いている感覚がない。かといって手術台に拘束されているとか、麻酔が残っているということでもないようだ。

 

「とりあえず、今一番はっきりと覚えている場所を思い出してみてください。それから、ご自分がそこに居ることを想像してください」

 

ふむ、と言う通りにしてみた。

手術室や病室が一番新しい記憶だけれども、そこに戻りたいとは思わない。やっぱり君と過ごした場所がいいな、と想いを巡らすと最も印象深いのは、なんとあの橋の上だった。二人で見下ろした水面のキラキラした輝きをはっきりと覚えている。目蓋を開いても暗い闇の中で、少女はその輝きを思い出そうと試みる。まるで記憶そのものが光に変わっていくような不思議な感覚があり、頭の中から外に向かって照明が当てられていくように・・・少女を中心にあの時の橋の上の情景が暗闇に広がっていった。数秒後、少女は懐かしい下校途中の風景の中に居た。

あの時のように水面を覗き見ようと、橋の欄干に両手を掛け・・・ようとしたところで少女は自らの奇妙な感覚に気付く。

確かに欄干に両手を置いている感覚はある。しかし、自らの手が欄干の上には見えないのだ。パニックになる直前に、再び女の子の声が聴こえた。

 

「あ、慌てないでください。大丈夫ですよ。

 今そちらに参りますから」

 

橋の、中学があった方の方角からバサッバサッという周期的な風が吹いてきて、ポフッという妙な擬音が聴こえた。

 

「ごめんなさい、予定外のお仕事が入りまして遅れてしまいました。

 本当にごめんなさい」

 

声の主の方を見た少女は(既に終わっていたけれど)生涯で最も驚愕した。

頭を下げている女の子が居た。

染めたと思える奇抜な緑色のショートカットの頭頂部が見える。服装は・・・たぶん白の簡素なワンピースなのだろう、素足にはこれまた簡素なサンダルを履いている。頭を下げているので確かではないが、少女より二十センチくらい低い背格好、明らかに年下である。

そこまでは、まあよかった。

下げた頭の向こう側、その背中には。

ゆったりと動いている巨大な白い翼が生えていたのだ。

 

「天使だ・・・」

 

そんな名称しか、少女には思い浮かばない。きっと実物はこんな感じなんだろう、という風貌の人物が目の前で自分に対してお辞儀をしている。

威圧感は全く無いが少女はここから逃げ出したくなり、身を捻ろうとした・・・のだが、ここでさらに気付いて愕然となる。自分の下腕と上腕が見えない。胸も腰も脚も、だ。それでいてあの日の心地好い風の感覚は感じている。まるで目と耳と皮膚の感覚だけがここに存在して、天使と対峙しているかのようだった。

 

「大丈夫、落ち着いてください。ここではそれが普通なんですよ」

 

顔を上げた女の子はにっこり微笑んだ。髪と同じ緑の虹彩、幼げな表情。見ているだけで誰もが暖かい気持ちになれる、そんな笑顔だった。

息を整える感覚を数秒間経過させ、少女は女の子を見た。

 

「あの・・・あなたは一体?」

 

「この姿を天使と呼んでいただけるのなら、天使でよいです」

 

即答だった。音声にならない言葉も、ある程度はこの天使に伝わっているようだった。

 

「今日は、あなたをお迎えに参りました」

 

お迎え、という単語が少女の心に刃物のように突き刺さった。

 

「そっか・・・」

 

想像はしていた。ここが夢にしては妙に現実的な場所だったから。あの、胸の辺りに穴が空いたような感覚は生涯で初めての経験だったから。あれが死というものなのか、と少女は放心しながらも理解することができた。けれど、覚悟はできていなかった。

 

「でも、いきなりそう言われても心の準備が・・・」

 

目覚めたら死んでいた、という状況に即応できる人間はいないだろうと思う。

 

「突然のことでご納得いただけないのは、よくわかります。

 だからここで準備して、納得してください。

 あなたにとって、時間はたっぷりありますから・・・」

 

「準備って?」

 

「どんな生き方をしてきたのか。そしてどんな出会いがあったのか。それを追体験するんです。

 あなたが去った後の世界も、ある程度は見ることができますよ」

 

そう言って天使が片腕を振ると、中空に二つの窓が現れた。

 

「こちらが生前の世界、こちらがその後の世界です」

 

もう驚くのには疲れていたので、いわゆる走馬灯のようなものか、と少女は納得することにした。

 

「では、ごゆっくり。また後程お会いしましょう」

 

すぅっと天使の姿がゆっくりと薄くなり、消えていく。プライベートなことには干渉しない、そんな気配りなのだろうか。

 

橋の上に独り残された少女は、生前と称された方の窓の前に立ち、覗き込んだ。水色一色だった窓の表面が歪み、画像が現れる。まず初めに若い男女の顔が、喜びに満ちた顔が映し出された。

 

「お母さん!お父さん!」

 

両親だった。記憶にあるどの姿よりも若い。きっとこれは少女が産まれた時の記憶なのだろう。自分では全く覚えていない記憶も、再生されているようだった。身体がうまく動かせない感覚が伝わってくる。覗くというよりもその画像の世界に入り込んで追体験するような仕組みなのだろうか。

追体験は続いていく。

今でもはっきりと耳に残っている、幼い彼のピアノの鍵盤の第一音。

 

「・・・・君」

 

想い続けた少年のことを強く想う。

全てはこの一音から始まったことが、今でも不思議でたまらない。

 

他の習い事を止める決心をして、父にバイオリンをねだった時のこと。

 

店の開業準備の時期、決して裕福ではなかったのに音楽教室に通わせてもらったこと。

 

少年と共に演奏したい一心で、全力で技巧を学んだこと。

 

少年の消息が消えても、信じて弾き続けたこと。

 

そして中学に上がってから体調が・・・

両親が泣いていて・・・

 

少女はそこで視線を窓から反らした。

暗い記憶をなぞりたくはなかったからだ。

そしてこの窓の機能は優秀だった。見たくない記憶はスキップされるようだった。

次に現れた情景は、復学した頃の場面。仲が良さそうな三人組が放課後の廊下をこちらに向かって歩いてくる。女の子が一人混ざっていて、異性間でこの仲の良さは幼馴染み同士なのかな、等と少女は感じている。すれ違う時にその内の一人の少年の顔が見えた。

 

  あの人だ・・・

 

喜びよりも驚きで胸が一杯になる記憶が、情景には付随している。その日、帰宅した時のことは追体験するまでもなく、はっきりと覚えていた。

残り少ない時間で如何にして少年に近づくのか。そして如何にして同じ壇上で演奏を行えるのか。

自分には策士の才能があるんじゃないのか、等と思ったりする程に、頭が熱くなるくらい考えに考えて考えた。

初めてのコンタクト、髪型、仕草。そして嘘。

友人達に申し訳ない気持ちがあるのだろう、そこは早送りになってしまった。

 

そして友達と約束した公園で黒猫を見つけて、追っていったら子供達が居て。突然の小さな演奏会の後に・・・

 

「君はやっぱり君だったね」

 

遊具の上から見下ろした少年の姿は、あの時と同じように涙で歪んでよく見えなかった。

 

少年と友人達との当たり前の中学生活は、とても輝いて見える。

 

そして訪れた少年との共演、「クロイツェル」終盤の音の重なり。思えばこれが自らの夢の完遂だったことを、今更ながら少女は思い出した。

 

そこからは少年との会話以外の情景は早送りになった。

心中とかバカなこと言ってたなぁ、と苦笑しながらも、それを真剣に捉えている少年の優しさに胸が痛くなる。

それでも最後はお互いが繋がっていた、それをもう一度確信することができて、別れの場面では息ができない程に胸が苦しくなった。

 

 

全てが暗くなった窓の前、見ることのできない自らの姿、それが窓の縁に寄りかかって放心状態になっているのを少女は感じている。

 

 十五年間か・・・

 

長いのか短いのか。経験した自分の分しか知らないわけだから、比較のしようがなかった。けれど終盤の密度の濃さはどうだろう、自ら胸を張って誇れる気がした。後悔は・・・無いと言えば嘘になるけれど。少女はその生涯で、自分に対して嘘をついたことがなかったのだが。

この窓というか走馬灯というのは良く出来ているなぁ、等と冷静に評価できるくらいに少女は落ち着くことができた。

終わった、という気持ちになりながらも、視界の中のもう一つの窓に好奇心が湧いてくる。天使はその後の世界、と言っていた。まだ残っているような心残りはこの窓が解消してくれるのだろう、とその窓の前に立つ。

こちらの窓の情景はもう一つのそれよりも、霞んでいるというか歪んでいるというか。ほとんどの場面は見定めることができなかった。よく考えてみれば、未だ来ずと書いて未来。訪れていないものを映し出すなんて出来るわけがない、と思いつつ観ていると所々で鮮明になる場面がある。必ず春夏秋冬が訪れるとか、確定していたり高確率の未来は鮮明になるようである。

見流して幾度の季節が巡っただろうか。十周は越えているだろうという頃に、ひときわ鮮明になった場面があって、少女は目を見張った。早送りは止まり、情景は桜の木が芽吹く春間近の季節で通常の再生速度に戻った。

ここは墓地・・・だろうか。一つの墓石の前に男女が墓参に来ている。墓石に刻まれた名前はただ一つだけ。少女の名前だった。事実を知っていたとしても、少女は自らの死をここで初めて突き付けられたのだった。視線を外そうとする。しかし二人の姿を見て、もう一度見つめ直した。

自分の墓前に、少年・・・いや成長した彼と、同じ年頃の女性が立っている。女性は少女の親友であり、彼の幼馴染みだった。そして、二人の右手薬指には指輪があった。二人は線香と献花を準備しながら墓石に何かを語り掛けている。しかし、こちらの窓では一切の音声が再生されていなかった。どうやらそのような仕様らしい。けれど少女には、二人の表情からその感情を理解することができた。懐かしさ。楽しさ。悲しさ。二人が語る内容はその節々で常に共鳴して、まるで二人が楽器を共奏するかのよう。二人の間の絆が自分が知っていた頃よりも深くなっていることに、少女はほんの少しの嫉妬と、それよりも大きい安心感と喜びを感じた。墓参というには長すぎる時間、二人の墓石への語り掛けは続いていた。

 

その次に鮮明になった場面は、二人の結婚式だった。これもほぼ確定された未来らしかった。既に嫉妬のようなネガティブな感情は生じず、安心感と祝福、そしてほんの少しの憧れ。そのうちの祝福の想いが膨れ上がり、少女は二人に向けてバイオリンの一曲を贈りたくなった。両の腕を構えようとしたそのとき、そこで改めてもう一度思い知らされる。今の自分には弾くための身体が存在しないことに。弾くことができない自分に、喜びと祝福よりも空虚感が押し寄せてくるのを感じた。

 

「私・・・もう弾けないんだ・・・」

 

顔を伏せると、そこで未来の窓は再生を止めた。橋の上の情景も消え、ブルースクリーンに包まれたような空間に独り、少女は立っていた。少女は身体が無いのにも関わらず、自らが立ち尽くしているのを感じていた。ずっと立ちっぱなしでも疲れない。それがさらに虚しさを膨らませていくのだった。

 

 

 

 

どのくらいの時間、そうしていたのだろうか。

 

「いかがでしたか?」

 

という声がした方を振り向くと、天使が立っていた。先程のような翼の音は聞こえなかったので、先程は驚かせないための配慮だったと気付き、この天使の気配りに感心したりする。

先程・・・とはいうものの、実質的には十五年プラスアルファ分の追体験をしたわけだ。とても長く感じられた時間の中、喜びと悲しみのどの記憶も、今となっては宝物のように少女は感じることができた。そして音楽を奪われたという、埋めようのない空虚感も。

 

「・・・これでおしまいですか?」

 

こくん、と緑髪の天使が頷く。

 

「あなたの人生はおしまいです、あなたが居た世界の、あなたの人生は」

 

優しい口調の回答に、少女も努めて冷静に答えようと言葉を選んだ。

 

「不思議な感じだった。

 あの人の姿を見ても、生きてた頃のあのぽかぽかした気持ちにはならないの。

 確かに思い出せるけれど、もう二度と感じることができないの。

 身体が無い、ってこういうことなんだね」

 

天使は無言で少女の言葉を聞いている。

 

「あの人と友達の結婚式も観てきた。

 でもね、良かったね、これで良かったんだねっていう気持ちしか生まれない。

 二人の幸せしか考えられなかった。ほんの少しだけ嫉妬もあったけど、

 私ってこんなに聖人君子だったんだなぁ、って驚いてる」

 

「・・・さびしいですか」

 

「ううん・・いえ、確かにさびしいけど、それよりも落ち着いたというか納得できたというか。

 私が居て、あの人が居て、友達が居て。

 私は終わっちゃったけれど、私を覚えてくれている人がたくさん居て。

 私がこの世界に産まれたことは決して無意味じゃなかったんだ、って」

 

妙に饒舌になっているのは、感情を抑えているせいなのだ、と少女は自覚する。

 

「これが成仏っていうことなのかな」

 

はい、と緑髪の天使が頷いた。

 

「じゃあ、そろそろ連れていってください、天使さん。

 もう思い残すことはありません。

 さびしいけど、これで本当に、おしまい、です」

 

少女は天使を見つめた。

天使も少女の居るであろう場所を見つめている。

二人とも喋らなかった。

天使の表情が曇り始める。

それが自分の、抑え続けている悲しみのせいなのだと少女は気付いた。震え続ける自分を感じ、それでも耐えていると、突然、耐えられない感情が押し寄せてきた。

少女は叫んだ。

 

「・・・ほんとは、本当はもっと生きていたかった!

 あの人と一緒に音を重ねたかった!

 私の音を、もっといろんな人に聴いて欲しかったの!」

 

怒りに似た感情が抑えられない。

 

「二人の門出だって祝福したかったの!

 でも終わってしまった私には、何もできないじゃない!

 こんなの辛すぎるよ。

 早く連れていって、ここじゃない何処かへ!」

 

立っている感覚を維持できなくて、少女はしゃがみこんで両手の平で顔を覆う自分を意識した。

ふわり、と暖かい感触に身体が包まれるのを少女は感じた。

顔を上げると視界は白い輝きに満ち溢れ、よく観るとそれはとても繊細で柔らかい羽毛だった。

 

「・・・さん」

 

天使はその翼で少女の魂を包み込み、柔らかい、けれど凛とした響きも込められた声で少女の名を呼んだ。

 

「今の・・・全てをやり遂げたあなたは決して無力ではありません」

 

翼が開かれる感覚。そして、天使の指がそっと自らの頬の涙を拭うのを少女は感じた。とてもいたわり深い、まるで楽器を扱う繊細な動作のようだと少女は思った。

 

「なぜ私が自ら、あなたを迎えに来たのか、それを伝えなければなりません」

 

少女が顔を上げて視線を合わせるのを待って、天使の言葉は続いた。

 

「一生懸命に活きた心には、特別な力が宿ります。

 それは種族や時間や・・・世界すら超えて響き渡る不思議な力です」

 

力、という表現に少女は首を傾げた。

 

「・・・何を言ってるのか、よくわからないよ」

 

さらに天使の翼の抱擁が解け、少女はよろよろと立ち上がった。

 

「いろいろな世界で貴方のような方を見つけて、私は導きました。

 私自身も、遠い昔にある方から呼ばれて今に至ります」

 

遠い視線だった。記憶を辿っているのだろうか。少しして微笑んでから、

 

「私達の仕事はとても大変なんです。人手がいくらあっても足りない。

 なぜなら、これを全て護っていかなければならないのですから」

 

天使は上空を仰ぎ見る。突然、ブルースクリーンのような無味乾燥な水色が、自然の蒼空に変わる。そしてその空に無数の扉が現れた。今度は窓ではなくて扉だった。ここには地平線は無かったが、視力の許す限りの遠方にまで、数多くの扉が散りばめられている。

 

「これの一つ一つが、一つの『世界』なんです」

 

青空に拡がるその壮大な情景に、少女は驚愕した。そして何よりも。

 

「力、って何?そんなの私には・・・」

 

ふむ、と天使は少し考え込んだ。

 

「それなら試してみませんか。

 ちょうど、ほら、あそこにあなたの音を待っている人が居ますよ」

 

天使が指差した一つの扉が開いていく。

 

「行ってごらんなさい。そしてあなたの思う通りに行動してみてください」

 

涙を拭った少女は、身体が無いのにドアをくぐるってどうやるんだろう、等と思いながら足があった頃の感覚で歩み、薄く開いたドアを存在しない手で軽く押した。

 

「いってらっしゃい、気をつけて」

 

背後からの天使の声に押されるように、少女はドアを開け放った。向こう側は薄明るく、まず消毒薬の香りがした。良い思い出が無いその香りに躊躇いながらも、少女はドアの向こう側へ入っていった。

 

 

 

 

「手術中」の赤いライトの対面側のソファーには、壮年の男女の姿があった。手術中の我が子を待つ両親だった。待合室を勧められたが少しでも近い場所で、と座り続けて何時間が過ぎただろう。当初予定されていた時間を遥かに超えて手術は続いていた。

廊下の端、フロア入口の自動ドアが開き、開く途中のドアを強引にこじ開けるように、一人の少年が入ってきた。全速力で走ってきたのだろう、とても息が荒い。着替えたばかりで乱れたままの制服。少年は両親に一礼するとその表情を見て、状況を悟った。勧められたソファーに座り、両手を組んで一心に祈った。今の少年にできるのは祈ることだけ。神か仏かではなく、音楽の神に祈った。祈り続けた。

 

少年が到着した頃。扉を隔てた手術室の中。

既に術式は終わっていた。予定通りの工程を終え、あとは術野を閉じて縫合するだけ、の状態で手術室は沈黙に包まれている、呼吸器等の小さな喧騒を除いて。だが、そこには規則正しく鳴り響くはずの心拍音のアラームが、無い。執刀医も執刀補助の医師達も、全員が沈黙していた。

つい二十秒ほど前のことだった。弱まっていた患者の鼓動が完全に停止したのは。一時間ほど前、ひときわ強く健常者のそれと全く変わらない鼓動リズムが始まったことに医師達が喜びと安堵のため息を漏らした直後・・・全力を出し切ったかのようにそれは弱々しくなっていき、ついに停止した。我に帰った執刀医が基本的な蘇生処置の指示を飛ばし、喧騒が戻ってくる。AEDではなく他の策を施す必要があるが、検討している余裕がない・・・。

 

天使に言われるまま扉をくぐった少女は、そこが手術室だったことに戸惑いながらも、患者の鼓動が止まってからの一部始終を見つめていた。横たわった患者の意識と自らの意識が交錯する不思議な感覚がある。こうやって手術台を見ている自分と共に、暗い闇の底に沈んでいくような感覚が重なって感じられるのだ。少女は直感した。

 

  これは・・・あの時の私だ

 

あの人の所で、あの人のピアノに重ねたバイオリンの旋律。それを弾き終えた直後に淡く消えていった最後の意識。ここはその直後に違いない。

手術台の上、少しずつ体温が失われていく手術衣姿の肉体を見、少女は不思議な感覚に囚われた。自らの意識に交錯していた手術台の上の自分の意識が薄まって散らばっていくのを感じる。

 

  だめ!

 

叫んだ。しかし実体の無い少女の叫びは室内の誰にも届かない。今の私に何ができるのか、と先程からの無力さをもう一度嘆いた時のことである。

ふいに猫の鳴き声が聴こえた・・・ような気がした。

もう誰でも構わない、助けてくれるのなら猫の手も借りたいぐらいだ、助けて!と念じた次の瞬間。

自分の胸の辺りの空間が輝き、そこから光の奔流が溢れ出した。その粒子が目の前で凝縮したかと思えば、そこにピンクのバイオリンケースが現れる。蓋が自然に開かれていく。永年連れ添った相棒が変わらぬ姿でそこに在った。弾かなきゃ、でもどうやって?今の私は身体が無いじゃない、と思いつつも、身体があった頃の記憶を呼び覚まして弓を握ろうとする。もう一度、猫の鳴き声のような幻聴を確かに聴いた。バイオリンの周囲が淡く輝き始める。

 

  覚えているよ

 

はっきりとした言葉が旋律のように響いてきた。

 

  キミを覚えている キミの全てを

 

次の瞬間、痩せ細っていない、元気だった頃の健康な指が、弓の傍の空間に産まれた。指が手首が肘が肩が。胴体、頭、脚。まるでバイオリンを中心に自分が産まれ出、再生されていくような感覚。視野には懐かしい、自らの腕が脚が、胸が映っている。久しぶりの自らの身体、しかし驚いている余裕もない。弓とバイオリンを握り締め、手術室の片隅で立ち上がり、少女は手指の感覚に精神を集中する。弓と弦が擦れ合う。一瞬で思い出した。産まれて初めてバイオリンに触れたときのことだ。何の知識もないままで指が奏でた初めての一音は酷いものだった。しかしこの相棒は、そんな自分を受け入れて生涯付き合ってくれたのだ。巧くなろう、と相棒と共に学び続けた全てが脳内に、指に、そして弦と弓に甦ってくるのを感じる。そうだ、わたしはここで弾くためにここに、この場面に戻ってきたのだと少女は確信する。マスク越しの息耐えそうな顔を見つめた。がんばれ。私はあなたの味方だよ。浮かんできた旋律は「クロイツェル」、彼に初めて聴かせたあの曲だ。何者にも打ち勝つ強烈な旋律、バイオリンが望むままに少女は手指を、全身を使って紡ぎ出す。紡ぐというよりも暗い空間を切り裂くような勢いで。手術台の回りの機械が振動を始める。何事か、と驚く医師達。沈黙していたモニターが患者の鼓動の表示を再開し、アラームが鳴り始める。だがそれはまだ乱れていて、とても弱い。少女は脳内の楽譜を書き換えて、即興のアレンジを紡ぎ始めた。

 

  聴いて。そして感じて。

  この私のように負けてはいけない。

  あの人のためじゃない。誰のためでもない。

  私は今、あなたの、私自身のためだけに弾く。

 

戦闘力を付帯された旋律は、少女の叫びをこの場の空間に刻み込み始めた。何か聴こえないか等とうろたえる医師達だったが、この機会を最大限に活用して患者の蘇生を試みている。途切れていた呼吸が少しずつ甦る、振動していた機械が医師の指示とは異なる投薬を始める。医師達が止めようとしても無駄だった。それは既に患者を救うために自ら動き出している、この部屋に奏でられる異空からの旋律によって。患者の呼吸が少しずつリズミカルに変わっていく。旋律に合わせて歌おうとしているのだ。呼吸が、鼓動が、血液の流れがバイオリンの旋律によって脈動し、死神の鎌を凪払っていくのを少女は感じた。手術台の上の患者の指が、全身麻酔で動かないはずの指が、何かを掴もうと震え始めるのが見える。弾こうとしているのだ。

 

  演ろうよ、一緒に。

  自分自身と競えるなんて、最高でしょ?

 

勝手知ったる自分のことだ。このように鼓舞すれば乗ってくるに決まっている。はたして、今まで瀕死の状態だった患者の意識は確かに覚醒して、部屋の片隅でバイオリンを弾くもう一人の自分に気付いていた。

 

  あの人にもう一度会いたいなら、

  眠ってないで起きなさい。そして弾きなさい。

 

弾いていたバイオリンと弓が二重に見えたかと思うと、一方の像が手術台の患者の元へと飛んでいく。まるで猫の跳躍のようだと少女は思った。そしてホログラムのような薄色の質感の手首がそれを力強く掴んだ。むくり、と手術衣姿の像が上半身を起こす。横になったままの実体を見、弾いている方の少女を見、ほんの少し逡巡してから床に立ち上がってバイオリンを構えた。

 

  さすが私、そうこなくっちゃ!

 

少女が身構えるよりも早く、手術衣姿の自分は痩せ細った頼りない身体で、長期間弾けなかったとは思えない技巧を繰り出して来た。あの人と重ねるために磨いてきた腕だった。それが叶った今、どうしても競演したかった相手・・・それは自分自身だった。

時に重ね、時に競い。二人?の演奏は全力で続いていく。

元々は好きな人と一緒に居たいがために学び始めたはずだったのに。

ここでは息絶えそうな肉体を鼓舞するための演奏だったはずなのに。

今はこんなにも音楽そのものが愛おしい。

ふと、手術衣姿の自分の演奏が止まった。手術台の方を見つめている。気付かぬうちに執刀医達は蘇生と縫合等の処置を終え、室内の全員が歓喜の声を挙げている。手術台の上の顔はマスク越しでもその血色の良さが見てとれた。

戻らなくちゃ、という思いが込められた一音が弾かれた。

OK、という和音で返した。

それだけで互いの意志は伝わった。それから二人同時に弓を持った手でサムズアップ。手術衣姿の手に握られたバイオリンと弓が輝き、戻ってくる。手術衣姿の自分は光の粒子に変わって、肉体に帰っていった。

それを見届けると、もう既に肉の身体ではないのに、少女は全身の力を搾り出しきっていたことに気付き、膝を着いた。このまま消えてしまいそうな脱力感、そして高揚感と満足感。

弓とバイオリンの調子を確認してから、ありがとうと伝えてケースに仕舞う。するとバイオリンケースは来た時と同じように光の粒子の塊に姿を変え、再び胸に吸い込まれていく。

 

ベッドが手術室から搬出された時。

手術室の外から両親と、懐かしい少年の声が聴こえた。

 

「来てくれたんだ・・・あんな激しい演奏の後なのに」

 

自分の時はもう死んでいたのだから気付けるはずもない。でもきっとあの時も、あの人はこの場面のように来てくれたのだろう。そして聞いたのだろう、自分の死を。そう思うと謝りたい気持ちで溺れそうになる。

医師の説明を聞き、目を真っ赤にして涙を流す少年の姿を見て、駆け寄りたい衝動を全力で抑え込み、少女はベッドと共に病室に移動した。

 

 

 

 

もう一人の自分が目覚めたら、いろいろ伝えたいことがあった。しかし意識が戻り始めた頃からは、どんなに語りかけても、もう一人の自分には伝わらなかった。そのような仕組みになっているようだった。両親の姿を見た時には思わず抱き着いた。しかし通り過ぎた。今の自分の状態を思い知らされて、少女は改めて胸が裂かれるような寂しさを感じた。

医師からの説明があるらしく、両親は別室に移った。去り際に父が少年に深々と一礼し、母は娘の側に居てやってくださいと伝えた。少年も一礼して少女の側に腰かけた。そして少女の顔を見つめ続けた。

しばらくして麻酔の余韻が完全に解けた手術衣姿の少女は、ベッドの傍らに少年の姿を見つけてぎこちない微笑みを浮かべてつぶやいた。

 

「・・・おはよう」

 

「もう夜だけどね」

 

「どうだった・・・?」

 

コンクールの成績のことを尋ねているのだろう。でも少年はこう答えた。

 

「最高の演奏ができたよ。君が来てくれたから」

 

「やっぱり正夢だったんだね」

 

少女は目を閉じて記憶を反芻しているようだった。

 

「最初に君のピアノに合わせて弾いてる夢を見たの。とても気持ちよかった・・・」

 

少年は頷いた。

 

「途中で倒れそうになったら、もう一人のわたしが現れてね」

 

え?と少年はいぶかしげな表情になる。まだ混乱しているのではないのか、と不安になる。

 

「もう一人の私ががんばれ、って弾き始めたんだけど、これが巧いのよ。

 負けるもんかって競い合っていたら、力が湧いてきて。目が覚めた」

 

「君らしいね」

 

ただの夢なのだろうが、少女の性格を把握していた少年はさもありなん、と納得した。

 

「それでね、こっちも全力でこうやって・・・」

 

少女が腕を布団から出して演奏の真似を始めようとしたときのことである。動かし始めた指を止め、また動かし始め、幾度かそれを繰り返した少女は突然叫んだ。

 

「指が動く・・・動くよ!」

 

少年も驚いた。その動きは先週までの、震える弱々しいものではなく。まだ痩せ細ってはいたが、知り合った頃の気力に満ちた滑らかな動きだったからだ。

まるで時間が逆に流れたかのように、指の動きは数ヶ月前の状態に戻っている。嬉々として演奏の動作を繰り返す少女を見、少年は目頭と喉が熱くなるのを感じた。少女が自らの両手を差し出して来る。

 

「思い通りに動くの、この指が!」

 

うんうん、と頷きながら少年は少女が差し出した指に触れ、自らの指で優しく包んだ。

二人の奏者の指が、互いの体温を伝え合う。

数時間前は楽器を駆動していたその指が、今は互いの魂を駆動している。

駆動された魂が心臓と、頬の熱を上げて行くのがわかる。

熱い熱が頬を伝うのを感じても、それを止めずに二人は互いの瞳を見つめ続けた。

 

「・・・ただいま」

 

「・・・おかえり」

 

「また一緒に弾けるんだね」

 

「弾こう、ずっとずっと一緒に」

 

我慢していた嗚咽が、泣き声が、二人分同時に病室内に轟き始める。

二人とも、とても他人には見せられない、しわくちゃな赤子のような泣き顔だった。

でも二人にはわかっていた。

目の前にいる人は他人なんかじゃない、これからずっと一緒に歩んでいく相棒なのだと。

親も友人も幼馴染みも全て愛していた。

でも今は目の前の、互いの存在だけだった。

 

 

 

 

二人を見ていた少女は、涙でコンタクトが流れ落ちそうになり、それを抑えながら病室のドアをすり抜けて外に出た。廊下では天使が待っていた。

 

「どうでしたか?」

 

ぼろぼろな泣き顔を恥ずかしくなって、袖で涙をぬぐい、鼻を何度もすすってから、ようやく少女は答えた。

 

「ここの私は死ななかったけど、この私は消えないんだね」

 

「世界線は一本だけじゃないんです。

 この世界は、あなたが切り開いて、導いて、そうやって創られた新しい世界ですから」

 

音楽書の合間に読んでいただいた空想小説にそんな理屈が書いてあったな、等と少女が思い出していると、天使は宙を見つめて何かを探すような仕草の後、

 

「そうですね、あなたのおかげでこの世界はこの後・・・」

 

すぅ、と瞬時に病院の情景は消え、代わりに現れた場所は。

 

「・・・お墓?」

 

静かで凛と張りつめた空気の中、たくさんの墓石が並んでいる。少女と天使はその一つの前に立っていた。墓前は活けられたばかりのたくさんの花や葉書等で埋まっている。葉書の文面は感謝の言葉ばかりだった。墓参が絶えない状況が見て取れた。そして少女はその墓石に刻まれた二つの名前を見、口が開いたままになった。

 

「私とあの人の名前・・・」

 

自分が生きていた頃から数十年後の命日が刻まれている。二つの日付は近かった。

 

「仲睦まじい生涯を過ごされたみたいですね。生前は世界中で演奏されていたようですよ」

 

「展開、早すぎるよ・・・」

 

こめかみを押さえながら、それでも少女はこの世界の二人を心から祝福した。よかったね、おつかれさま、と。

 

「あ、他に離婚された分岐世界もあるみたいですよ」

 

宙空に扉が一つ現れる。一つだけだった。それを見て少女は苦笑した。

 

「それは・・・ちょっと見たくないかも」

 

ふふっと微笑んでその扉を消してから、緑髪の天使は真剣な眼差しで少女を見つめ直した。

 

「どうです、信じられるようになりましたか?」

 

「・・・」

 

「あなた達の演奏が、この世界のあなたを救ったんです。

 あなたがたくさんの方々を救ったんです」

 

「私が・・・?」

 

「これがあなたの力なんです。短い時間を一生懸命に活きたモノ達に芽生える力なんです」

 

天使は遠い視線になる。自分自身の過去を思い出しているのだろうか。

 

「あなたが居た世界の他にも、このようなたくさんの世界が織り重なって存在しているんです。

 みなさんがこういう世界を築くためのお手伝いを、これからもお願いできませんか・・・?」

 

天使はさらに真剣な眼差しになった。そして少女の名前を呼んで、

 

「あなたの演奏には、その力があるんです」

 

「わたしと似た境遇の人達を救えるの・・・?」

 

はい、と天使は強く頷いた。

 

「どうやって?」

 

「私と同じになってもらいます。

 構成要素を時流粒子の影響を受けない媒体に置き換えて同時に時空連続体の再生タイミングに依らない顕現アルゴリズムを」

 

「ごめん!」

 

呪文のような単語の連なりを警戒して、少女は瞬時に茶々を入れる。

 

「えーと、それって痛い?」

 

「ちょっと、くすぐったい感じです」

 

きっとこの緑髪の天使も、同じように産まれ変わったようだった。

 

「いかがですか、同意していただけますか?

 私達と共に働くことに」

 

緑髪の天使がさらに真剣な表情で尋ねてきた。最終確認なのだろう。半端な覚悟では済まされないのだろう。

しかし少女は既に心を決めていた。

視野の片隅に先程のたくさんの墓参の花が映る。

自分を、好きな人を救うだけじゃない。

音楽にはこんなにも、たくさんの人々を幸せにする力がある。

立場は変わっても、それを続けていけるのなら。

自分の演奏に、その力があるというのなら。

これからも弾けるというのなら。

 

「やります!演らせてください!」

 

「わかりました!」

 

緑髪の天使は上空を見上げ、

 

「よろしくお願いします!」

 

そう天使が叫んだ次の瞬間。

重力が、消えた。いや、消えたというよりも感じようとした時にだけ現れる、という感じだろうか。これなら弾いている時の腕の感覚が変わらなくて便利だな、等と思っていると次に地面が、景色が消えて青一色になった。まるで青空という銀幕に映し出されていた世界が、一瞬で消えたかのようだった。見渡すと遠い下方に雲海が見え、水平方向遠方は少し暗く、水平線が弧を描き始めている。ふと川に飛び込んだ時のことを思い出して苦笑していると今度は下方から、水平線の向こうから、光の粒子が集まってきた。身体を覆うように包むように周囲を回転し始めた光の渦の中で、眩しくて目を開けていられない。でも、眩しいけれど優しい。それは朝起きた時の朝日の眩しさによく似ている。生前、この感覚にいつも包まれていたことを少女は思い出した。そして、これはこの星そのものなのだ、と直感する。何か語りかけられているのを感じたが少女にはそれを聞き取ることはできない。きっと緑髪の天使は会話できるんだろうな、わたしもお礼を言いたいな、等と思うと頭を撫でられるような感覚が始まる。きっと言葉は要らないのだろう。感謝すれば伝わる。星に感謝するなんて、今まで意識したことは無かった。これからは演奏の時にはこの星に届くように祈ろう、と心に決めた。ギュッと抱き締められる感覚、光の渦が身体中の皮膚から体内に入り込んでくる感覚、肩甲骨の辺りに夏の日の直射日光のようなジリジリとした痛みのような感覚が続く。そして片方の肩と、腰の背中側の辺りに軽い重量感が生じた。きっと相棒も一緒に再構成されているのだろう。

 

それらがふっと終わった後で。

目蓋を開くと、狭くて白い世界があった。

 

「もう大丈夫ですよ」

 

天使の声が向こう側から聴こえてきた。

 

「真っ白・・・これは一体・・・」

 

と尋ねようとした瞬間。肩甲骨の辺りが勝手に緊張したかと思うと、ゆっくりと白い世界が開いていく。先程と変わらぬ蒼空の世界。しかし先程までのふわふわとした不安定な感覚は消え失せていた。両足の底で踏ん張るというのではなく、背中の辺りに身体を預けているような不思議な感覚だった。背中で何が起こっているの、と視線を動かすと、ゆったりと動く白いモノが見えた。

 

「うわ、わわわ?!」

 

少女は思わず叫んでしまった。背中から生えていたのだ・・・天使と同じような白い翼が。

 

「おめでとうございます、いきなり三対なんてすごいですー!」

 

まるで幼児のような歓声をあげる緑髪の天使は、実はこれが地のようであった。意味不明だが誉められたことに少し恥ずかしくなって両手で顔を覆うと、小さい翼一対が同じように顔を覆い、翼が白い羽根の連なりで構成されているのがよく見えた。どうやら勝手に動くらしい。

 

「さあ、これであなた達は私と同じように何処にでも行けます!

 がんばってください!」

 

両拳を顔の前で握り締め、緑髪の天使が意気込んだ。

 

「え、と・・・なんか心得とか指導とかマニュアルとかはないのかな」

 

アルバイトの経験など皆無だった。当分は一緒に手伝ってくれるのかと期待していた少女は、いきなり梯子を外された気分になった。

 

「あなた達なら大丈夫ですよ。何かあったら声をかけてください。すぐに飛んでいきますから」

 

またお会いしましょう、と言うなり緑髪の天使はフッと消えていなくなった。よほど急ぐ特急案件が生じたらしい。あ、他の天使に呼び出されたのかな、等と気付く。本当に忙しい職務なのだろう。蒼空の彼方まで並んでいる扉の数々を見上げた。総数を目算しようとしたが、諦めた。いずれ訪れることになるのだろうから、と。

 

 

 

 

「さて、と」

 

独り残された少女は悩んでしまう。引き受けたにしても、これから何処を訪ねればよいのか。この無数の扉を一つずつノックすれば・・・なんてことはないはずだ。そんなことを考えていると、背負っていた相棒に違和感を感じる。

 

「えっ、えっ?」

 

もぞもぞと動いたそれ、ピンク色のバイオリンケースが輝いたかと思えば、それは自ら少女の正面に飛び出して脈動し始めた。

ポン、という擬音が聴こえた途端、それは黒い毛皮の塊に姿を変えていた。

目を見開いた少女の目前に、一頭の黒猫が現れる。少女はその姿と表情に見覚えがあった。そうだ。自らの人生の節目節目に現れたあの猫だ。

 

「・・・あなただったのね」

 

自らの今の境遇と照らし合わせれば合点がいく。生命/非生命を問わず。昇り詰めた存在が時流さえ超えて様々な場所に行けるというのなら。

永年連れ添った相棒が、過去の自分に会いに行くことだって不可能ではない。

少女は、あの天使が時々「あなた達」と呼んでいた理由が、たった今わかったような気がした。

父親にねだって買ってもらった大好きなバイオリン。それは決して高価な名品ではなかったが、生涯を通じて傍に居てくれた大切な、とても大切な相棒だ。

 

「あなたも、わたしを導いてくれていたのね」

 

黒猫は応えるように鳴いた。それは弦と弓が奏でる聞き慣れた音程にとてもよく似ていた。そして虚空を軽やかに歩み、少女の前方方向に数歩進んでから振り向くと、鼻先をつん、とある方向に振った。あっちで弾こうよ、と誘っているらしい。

その方向を眺めると、遠方にこれから行くべき扉が在るのを感じることができた。少女は直感する。きっとあそこだ。自分が居た世界、友達と彼の結婚式の日だ。弾くのは「愛のよろこび」に決まっている。どんなアレンジにしよう・・・そんなことを考えながら目標を見定めるべく視線を動かした瞬間、目に違和感を感じた。ほんの少し像に遅れと歪みが生じるのだ。

 

「ごめん、ちょっと待っててくれる?」

 

実体を顕現された時から、ずっと感じていた違和感があった。こんな所まで再現するなんて、と感心してしまう。

コンタクトに変えた時、実は辛かったのだ。以前かけていた縁の太い眼鏡。両親が選んでくれたお気に入りのそれが、思い出すだけで瞬時に鼻の上に実体化する。同時にコンタクトの感覚は消えた。

走り出した後ではなく、走り出す勇気を振り絞った時の姿に戻る。ただそれだけで、あの日の勇気がもう一度湧き上がってくるような気がした。

 

「じゃあ、行こうか!」

 

小さく鳴いて応えた黒猫はいきなりの全速力で飛び出した。そのまま宙空を蹴って駆け抜けて行く。

負けるもんか、と軽く眼鏡を押さえてから虚空を踏み締める。空間が風に変わっていく。

黒猫に導かれるまま、六枚の白い翼を広げて、蒼空に連なる扉の一つに向けて少女は飛び立っていった。

 

 

 

 

 

 

誰かが覚えている限り、あの少女は決して消えることはない。

時代や、時流や、世界線すら超えて。

いまや何の縛りもなく自由に舞い、相棒を弾き続けていることだろう。

彼女の奏でる音は、これからも決して、決して絶えることはないのだ。

 

  「天使の旋律」。

 

少女が奏でる旋律は、織り重なる世界の至る所で、今日も響き渡っているに違いない。

 

こうしている瞬間も、

この画面の前、

あなたのすぐそばで。

 

 

 

 

以上。

 

 

 

 

 

 

 

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あとがき

 

猫だとバイオリンよりも三味線のイメージだよな・・・とも思ったんですが。

まあとにかく一生懸命活きたキャラクターには、ただ消えてしまうだけではなくて、ふさわしい役割があてがわれるべきだと思うのです。それは「公生君の心の中に活きている彼女」という役だけではないんじゃないかと思い、書きました。

HMXー12先生、神尾観鈴さん、まひる君に続く四作目の天使化SSですが、マンネリでも書かずにはいられなかった。書き始めたきっかけは件のハッピーエンド動画です。ああいう世界線も在っていいんだ、否定することはないんだ、という気持ちを込めました。

 

物凄く久しぶりに二次創作小説を書くことの情熱と喜び(と苦しさ)を味わうことができました。

原作とアニメとあの動画に心からの感謝を。

そしてここまで読んでいただいた方へ。本当にありがとうございました。

 

 

追伸:

眼鏡に戻ってもらったのは、単なる趣味です。

 


 
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