No.1175926

柿食えば…

新人さん

柿の旨い季節だ。柿が好物だったという正岡子規は、35年の短い生涯で100くらい柿の句を残したという。10月26日は正岡子規が1895(明治28)年に奈良を訪れた日らしい。 愛媛県松山市で生まれた 正岡子規の本名は正岡常規といい、東京の帝国大学哲学科に進学したが、1891年(明治24年)頃から文学に興味を持ったため 国文科に転科して「子規」の名で句を発表したそうだ。だが1892年(明治25年)7月に学年試験に落第したので翌年3月に帝国大学文科大学を退学している。1895年(明治28年)4月に 新聞社で働いていた正岡子規は、従軍記者として遼東半島(中国の北朝鮮寄りの半島)に渡ったが、2日後に下関条約が調印された為、5月に帰国の途についた。その船中で結核(細菌による慢性感染症)に感染していた子規は 喀血して重態に陥り、神戸病院に入院したそうだ。7月に須磨保養院で療養したのち故郷の松山へ帰郷している。それから東京へ向かう途中に奈良で4日間過ごしたという。その滞在中に法隆寺であの有名な作品が生まれた訳だ。結核は治らず やがて歩行困難となり病床につき喀血したことから、「鳴いて血を吐く」と詠み、ホトトギスと自分を重ね合わせたという。結核菌は空気感染や飛沫核感染をするから、正岡子規はずいぶんと結核菌を撒き散らしながら歩いていたわけだ。彼に移されて幾人の人が亡くなっているのだろうか。子規の時代の結核は「死に病」とされ 子規は35歳で亡くなったが、ほかにも国木田独歩(37歳)、樋口一葉(24歳)、青木繁(29歳)、石川啄木(26歳)など、皆若くして結核で亡くなっているようだ。子規は死を迎えるまでの約7年間も結核で苦しんだらしく、最後の2年間は肺結核から脊椎カリエス(背骨がもろくなり しびれや麻痺や排便障害などを引き起こす)を発症し、寝たきりだったそうだ。 この時代は、結核か心中か童貞で早死にする文人が多く見受けられる。ちなみに 正岡子規が死の前年に詠んだ句は「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」だそうだ。現代でも結核と診断される人々は少なくないそうだが、正しく治療すれば治る病気だという。「柿食えば 正岡子規を想いけり 」と 僕も詠んでみた。

2025-10-26 13:44:21 投稿 / 366×366ピクセル

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