No.113379

ピンクローズ - Pink Rose - 4. 巡り合わせ

瑞原唯子さん

王宮医師のラウルは、ある日、父親に手を引かれて歩く小さな少女を見て驚く。彼女のあどけない笑顔には、かつて助けられなかった大切な少女の面影があった。

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2009-12-20 22:23:21 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:526   閲覧ユーザー数:521

4. 巡り合わせ

 

 ラウルが初めてラグランジェ家へ行った日から一週間が過ぎた。

 まだ家庭教師は続けている。

 サイファの部屋を壊し、外壁にまで穴を開けてしまい、辞めさせられるだろうとラウルは思った。彼としては、そうなっても一向に構わなかった。もともと、嫌々ながら引き受けたものである。狙ったわけではないが、そうなればいいという気持ちは、どこかにあったかもしれない。

 だが、リカルドの反応は予想外のものだった。「家を壊したんだから、その分ちゃんと働けよ」などと、軽く笑いながら言う。サイファも、直後は呆然としていたものの、その後はなぜか妙にラウルに懐いてきた。

 怒っていたのはシンシア一人だけである。どういうつもりだと眉を吊り上げ、ラウルに詰め寄ってきた。家を壊され、息子を危険な目に遭わせられたのだ。当然の反応だろう。この家でまともな感性を持っているのは、どうやら彼女だけのようだ。だが、その彼女もリカルドになだめられ、結局は渋々ながら引き下がった。

 こうして、ラウルの家庭教師が続行されることになったのである。

 

「ねぇ、それ違うんじゃない?」

 ノートに数式を書いていたラウルの横から、サイファは頬杖をついたまま口を挟んだ。自分の鉛筆で、空きスペースにさらさらと数式を書いていく。

「ここで放射されるのは光粒子だよね? だったらその基本エネルギーはその定理を使ってこう……で、影響を受けるのは重力と空気抵抗だから……こうなるんじゃないの?」

 トン、と最後に点を打ち、顔を上げて隣のラウルを窺う。

「相互干渉の補正分が抜けている」

 ラウルはサイファの数式の斜め下に追記し、それを丸で囲んだ。

 サイファはじっとそれを見つめ、怪訝に眉を寄せた。

「この魔導で相互干渉なんて聞いたことないけど?」

「相互干渉を起こさない魔導の方が少ない」

 ラウルは淡々と言う。

「でも、今までは考慮してなかったよ」

「微量だからだろう。大雑把に求めるのなら、おまえのでも間違いではない」

「なんかその言い方、喧嘩を売られているみたい」

 サイファは頬杖を付き直し、口をとがらせた。

 ラウルは横目で冷ややかに睨んだ。おまえの方がよっぽど喧嘩を売っている、と思ったが、あえて口には出さなかった。鉛筆を置き、教本を閉じる。

「今日はここまでだ」

「もう終わり?」

 サイファは頬杖を外し、目を大きくした。

「3時間はとうに過ぎている」

 ラウルは無表情で片付け始めた。教本を重ね、筆記具とともに帯で束ねる。

 サイファはその様子を寂しげに見つめながら言う。

「少ないよね、3時間じゃ。もう少し延ばせないの?」

「おまえとこれ以上長くはいたくない」

「父上に頼んでみるよ」

 ラウルは顔を上げ、サイファを鋭く睨みつけた。

「おまえ、人の話を聞いているのか」

「わかってる。今日はここまでだね」

 サイファは少しも動じることなく、両手を広げ、にっこりと大きく微笑んだ。

「でも、あとひとつだけ質問してもいいかな?」

「何だ」

 苛立ちを含んだ声で、ラウルは先を促した。

「最初に会った日のあれ、ラウルを一歩でも動かしてみろってやつだけどさ。ずっと考えていたけど、いい手が思い浮かばないんだ。ラウルならどういう手を使うの?」

「床を抜く」

「え?」

「二階なら床を抜くことは容易い」

 ラウルは前を向いたまま、無表情で答えた。

「人の家だと思って、むちゃくちゃ言うよね」

 サイファは半ば呆れたように、苦笑しながら言った。

「あ、でも、部屋の周囲には結界が張ってあったよね。あの結界を破らない限り、床を抜けないんじゃない?」

「破ればいい」

 ラウルは事もなげに言った。

「僕には無理だよ」

「私ならどうするかという問いに答えただけだ。おまえのことは知らん。自分で考えろ」

 サイファは恨めしそうに、じとりとラウルを睨む。

「じゃあさ、僕の戦い方で、直すべきところを教えてよ」

 ラウルは教本の上に手をのせたまま、サイファを一瞥した。そして、面倒くさそうに溜息をつくと、腕を組みながら椅子にもたれかかる。ギィ、と濁った音を立て、背もたれのバネが軋んだ。

「掛け声は不要だ。相手に有利になることはあっても、自分に有利に働くことはない」

「それは、そうだね……」

 サイファは控えめな声で同意した。図星を指されたせいか、そのときのことを思い出したせいか、僅かに耳元が紅潮している。恥ずかしいという認識はあったようだ。

「呪文の詠唱もない方がいい」

 ラウルは腕を組んだまま、淡々と畳み掛けた。

「そうだよ! それ、どうやってるわけ?」

 サイファはぱっと顔を上げ、興味津々に身を乗り出した。青い瞳を輝かせながら、じっと返事を待つ。

 ラウルは煩わしげに顔をしかめ、投げやりな説明をする。

「その場で式を組み立て、計算し、魔導を構築する。原始的な方法だ。おまえも知っているのではないのか」

「それは、魔導の原理としては知っているけど……呪文より素早くなんて無理なんじゃないの? だいたい、原始的な方法じゃ時間がかかりすぎるからってことで、実用化するために呪文が発明されたんだよね?」

「多くの人間にとってはそうだ。だが、おまえくらいの頭と魔導力があれば、訓練次第で呪文詠唱なしの魔導も可能になるだろう。呪文より損失が少ない分、効率がいいし、融通も利く」

 サイファは小さく息を吸ってラウルを見つめた。

「へぇ、面白そう」

 独り言のように呟くと、大きく瞬きをして尋ねる。

「ラウルが稽古をつけてくれるんだよね?」

「……そのうちな」

 ラウルは低い声で答えると、束ねた教本を無造作に掴み、椅子から立ち上がった。長い焦茶色の髪が、広い背中で大きく揺れた。

 

 ふたりは連れ立って部屋を出た。

 そこから三部屋向こうが、先日、ラウルが壊した部屋である。何もかもが、ほとんどそのときのまま放置されていた。瓦礫さえも片付けられていない。まだ修復作業には取り掛かっていないようだ。

 外壁の方は、壊した翌日には修復されていた。こちらの対応は素早かった。さすがに、家に大きな穴を開けたままで、何日も放置しておくわけにはいかなかったのだろう。

 

「サイファ」

 鈴を転がしたような、それでいてあどけない声。

 それは、ラウルたちが階段に差し掛かったときに聞こえてきた。階下からである。声の方に視線を向けると、淡い水色のワンピースを着た幼い少女が、愛らしい笑顔で待ち構えているのが見えた。

「レイチェル、来てたの?」

 サイファはぱっと顔を輝かせると、金色の髪をなびかせながら、緩やかにカーブする階段を駆け下りた。迷うことなく、その小さな体を抱え上げる。いくらレイチェルが小さいとはいえ、サイファ自身もまだ子供である。それなりに重いに違いない。だが、はたから見た限りでは、まったくそうは感じられなかった。抱き上げ方が手慣れているせいかもしれない。

 彼はレイチェルと目線を合わせると、にっこりと微笑みかけた。レイチェルも小さな手を伸ばすと、幸せそうな笑顔をサイファに寄せた。

 ラウルはその様子を上からじっと眺めていた。

 レイチェルがラグランジェ家の人間であることは確信していた。本家であるここにいても、驚くべきことではない。だが、ようやく断ち切れたと思った途端の邂逅である。そこまで冷静ではいられなかった。何とも言いようのない気持ちが湧き上がる。小さく息をついて視線を離すと、広い階段を降り始めた。

「あ、紹介するよ」

 サイファはレイチェルを下ろしながらそう言うと、通り過ぎようとするラウルの手首を掴んで引き留めた。そのまま少し身を屈め、反対側の手で彼を示すと、レイチェルに優しく語りかける。

「レイチェル、この人は僕の新しい家庭教師のラウルだよ」

 今度は、体を起こしてラウルに向き直った。少女の頭に手をのせて言う。

「ラウル、この子は僕の婚約者のレイチェル」

「婚約者?」

 ラウルは思わず聞き返した。

「そう、僕の未来のお嫁さんだよ」

 サイファは屈託なく言った。

 ラウルは睨むように彼を見下ろした。ラグランジェ本家の後継者は、子供のうちから婚約者を決めねばならない——いつだったか、そのような話を聞いたことを思い出す。サイファはラグランジェ本家の一人息子だ。つまり、そういうことなのだろう。

「ラウル」

 甘い声が、彼の思考を中断した。

 ラウルが振り向くと、レイチェルは花が咲いたようにふわりと可憐に微笑んだ。それは、いつも窓越しに見ていた笑顔そのものだった。近くで見たのは初めてである。ますます懐かしい面影と重なり、夢と現実が溶け合ったような不思議な感覚に囚われる。

「ラウル、手」

 サイファは小声で囁きながら、彼の袖を引っ張った。

 ラウルは我にかえった。いつの間にか、レイチェルがこちらに手を伸ばしていることに気がつく。握手を求めているのだろう。それに誘われるように、右手を差し出した。小さな彼女に届くように、少し腰を屈める。焦茶色の長髪が肩から滑り落ちた。

 レイチェルはにっこりとして踵を上げると、小さな柔らかい手を、大きな手にそっと触れ合わせた。

 その瞬間——。

 ラウルはハッと目を見開いた。戦慄にも似た何かが、体中を駆け抜けた。それが何であるか、彼は理解していた。だが、にわかには信じられず、何かの間違いではないかと思う。彼女の小さな手を包み込むように握り、澄んだ蒼の瞳を探るように見つめ、神経を研ぎ澄ませた。

 ——間違いでは、ないな……確かに存在する……しかし、なぜこんな……。

 ラウルは彼女を見つめたまま眉を寄せた。

「はじめまして」

 レイチェルは言った。

「……ああ」

 ラウルは低い声で答えた。握っていた彼女の手を放し、体を起こす。

「ラウルに愛想がないのはいつものことだからね」

 サイファは両手を腰に当て、苦笑しながら補足説明する。レイチェルに対しての配慮だろう。ラウルを知らない人間には、その無愛想な態度がとても恐ろしいものに映るようだ。幼い子であれば、なおのことそうだろう。

 だが、レイチェルは少しも怯えた様子を見せなかった。愛らしい微笑みを絶やすことなく、あどけない声で続ける。

「やっと、おはなしができた」

「…………」

 ラウルは口を固く結び、眉をひそめた。

「あれ? 知ってるの?」

 サイファはふたりを交互に見て、どちらにともなく尋ねた。

「王宮で見かけたの」

 レイチェルが答えた。

「そうか、ラウルは大きいから目立つよね」

 サイファは軽く笑いながら応じた。

 レイチェルもそれを肯定するかのように微笑んだ。

 だが、本当はそうではない。ラウルが彼女を見つめていたから、彼女はラウルの存在に気がついたのだ。なぜそのことを説明しないのだろう。面倒だったのだろうか。取るに足りないことだったのだろうか。それとも——ラウルは様々に考えを巡らせた。

「じゃあ、僕はラウルを送ってくるから、またあとでね」

 サイファは腰を屈め、レイチェルの柔らかな頬を右手で包み込むと、額と額を軽く合わせた。

 レイチェルは無垢な笑顔でこくりと頷いた。

 

 ラウルとサイファは並んで王宮内を歩いた。

 家庭教師が終わると、ラウルは医務室に帰る。そのとき、なぜかいつもサイファがついてくるのだ。送っているつもりらしい。ラウルが頼んだわけではない。むしろ来るなと言った。だが、サイファは素直に聞くような子供ではなかった。

 

「ねぇ、ラウルは気がついたよね」

 サイファは青い空を見上げて切り出した。緩やかな風が、鮮やかな金の髪を吹き流し、きらきらと煌めかせる。

「何のことだ」

 ラウルは無表情で聞き返した。

 サイファは空を見たまま答える。

「レイチェルのこと」

「……ああ」

 ラウルは表情を険しくした。サイファは具体的には言わなかったが、それが何なのかすぐに察しがついた。思い当たることはひとつしかない。

「僕はさ、最近ようやく気がついたんだ。ずっと一緒にいたのに情けないよね」

 サイファはラウルに振り向き、少し寂しげに微笑んだ。

「気がついただけでも十分だろう」

「へぇ、ラウルが慰めてくれるなんて思わなかった」

「そんなつもりで言ったのではない」

 ラウルは前を向いたまま素っ気なく言う。

 サイファはくすりと笑った。頭の後ろで手を組み合わせ、再び空を見上げる。長めの前髪がさらりと揺れた。

「でも、不思議なんだよね。普通に魔導を使っているのを見ると、そんな力があるようにはとても思えないんだ」

「あいつは力の大部分を奥底の深いところに閉じこめている。無意識だろうと思うがな」

 ラウルは淡々と言った。意識的な封印ならば知っている。だが、無意識に自らの力を閉じこめるようなものは、これまで見たことも聞いたこともなかった。

「僕もそれは感じていたよ」

 サイファは空を見たまま、目を細めた。

「そこってさ、すごく深くて、静かで、誰も踏み入ったことのない深い森の湖みたいでさ。なんだか心地いいんだよね」

 そう言うと、頭の後ろの手をほどいてラウルに振り向いた。

「ラウルにも似たようなものを感じるよ。ラウルの場合は、湖じゃなくて底なし沼かな?」

 悪戯っぽく笑うサイファを、ラウルは横目で睨みつける。

「あいつを、どうするつもりだ」

「うん……ちゃんと訓練すれば稀代の使い手になるかもしれないけど、僕はそんなことは望んでいない。危険な目には遭わせたくないよ。レイチェル自身もあまり魔導には関心がないみたいだし」

 サイファはまるで保護者のような口ぶりで答えた。まだ子供の彼がこのようなことを言うのは奇妙に映るが、彼自身はいたって真剣だった。

「でも、制御の方法だけは身につけさせた方がいいよね」

「……ああ」

 ラウルは腕を組んで答えた。

 強い魔導力を持つ者は、制御の方法を学ぶ必要がある。そうでなければ、暴発を起こす恐れがあるからだ。通常であれば、制御はそれほど難しいものではない。だが、レイチェルの場合は、魔導力が桁外れなのだ。そのうえ、力の大部分を封印しているも同然の状態である。本来の力に見合った制御を学ばせることは、かなり困難になるだろう。

「レイチェルの両親には僕から忠告しておくよ」

 サイファはにっこりと笑って言った。

 ラウルは僅かに眉を寄せた。

 今のところは、力が封じられているため、暴発する危険性はほとんどないと思われる。切羽詰まった状況ではない。だが、いつまでもこのままとは限らないのだ。早めに制御を身につける必要があるだろう。

 重い荷物を背負って生まれてきたレイチェルに、重い宿命を背負って生まれてきた少女の面影が、またひとつ重なった。

 

「ラウル、こっち。見せたいものがあるんだ」

 サイファは急にそう言うと、ラウルの手首を引っ張った。医務室とは逆方向の小径へ向かおうとしている。ラウルが一度も行ったことのない場所だ。この先に何があるのかは知らないが、知りたいとも思わない。

「断る」

 冷たく端的に拒絶する。

「そんなこと言わずにさ」

 サイファは軽い調子で受け流すと、大きな手をしっかりと握り、強引に小径を歩き出す。

 ラウルは小さく溜息をつくと、仕方なくサイファに従って歩き出した。その小さな背中に向かって、ぶっきらぼうに尋ねる。

「何があるのか言え」

「バラ園だよ、ほら」

 蔦の絡みついた煉瓦造りのアーチをくぐると、視界一面にバラ園が広がった。広大というほどではないが、種類ごとに整然と整備されており、遠目に見ても美しいものだった。近くで見ても、細かなところまで手入れが行き届いているのがわかる。ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐった。

「僕が好きなのはこれ、ピンクローズ」

 サイファはピンク色が咲き誇る一角に駆けていき、そのひとつに手を添えた。顔を近づけ、目を閉じる。

「華やかだけど、可憐で、可愛らしくて、まるでレイチェルみたいじゃない?」

 そう言って、薄紅色の花びらにそっと口づける。

「レイチェルの話をしてたら、急にここに来たくなったんだ」

 ピンクローズから手を放さないまま、顔だけラウルに振り向けると、小さく肩をすくめて見せる。子供らしい仕草ではないが、不思議と違和感はなかった。

「ねぇ、ラウルはどれが好き?」

「興味はない」

 ラウルは即答した。あからさまに無関心な態度だった。

 サイファは不満げに口をとがらせる。

「ラウルって何に興味があるわけ? いつもそんな……たっ!」

 突然、短い叫び声を発すると同時に、顔をしかめて手を引いた。その指先に、赤い血がじわりと丸く盛り上がっていく。バラの棘が刺さったのだろう。

「不用意に触れるからだ」

 ラウルは冷たく言った。

 サイファはムッとして彼を睨んだ。ふてぶてしく口を開く。

「治療してくれる?」

「そのくらい水で洗うだけでいい」

 ラウルは突き放した。

「うわ、王宮医師とは思えない言葉だね。それって職務怠慢じゃない?」

 サイファは意図的に大袈裟な言い方をすると、僅かに口もとを上げた。

 だが、ラウルは眉ひとつ動かさずに言い返す。

「医師として治療不要と判断した」

「傷を見もしないで、よくそんなことが言えるね」

 サイファの口調はますます挑戦的になった。血の流れる指先を立て、ラウルに突き出す。

「せめて傷を見てからにしてよ」

 ラウルは冷淡な瞳で見下ろした。

 サイファは攻撃的に睨み返した。

 ふたりは無言で視線をぶつけ合う。

 どちらも引かない。

 膠着状態が続く。

 ——ズッ。

 微かな衣擦れの音。

 先に動いたのはラウルだった。

 差し出された細い指を、大きな手でガシッと掴んだ。

 そして、僅かに身を屈めると、徐にそれを口に含む。

「なっ……」

 サイファの体がビクリと震えた。

「何をしているわけ?」

 顔を赤らめながら、少し怒ったように、とまどったように、呆れたように、だが努めて冷静に尋ねた。

 ラウルは血の混じった唾を吐き捨て、平然と言い放つ。

「治療だ」

「化膿したらどう責任をとってくれるの?」

 サイファは負けじと詰問する。

「だから水で洗えと言った」

 ラウルは鬱陶しそうに言う。

「消毒してくれる? 医務室できちんと」

 サイファは強気に追いつめる。感情的な口調ではない。だからこそ、そこに貫禄めいたものが感じられた。

「……来い」

 ラウルは観念したかのように低い声を落とした。いや、観念したわけではない。面倒になったので譲歩した——少なくとも彼の方はそういうつもりだった。サイファには目も向けず、早足で医務室に向かって歩き出す。眉間には縦皺が刻まれていた。

 

「やっとラウルの医務室に入れてもらえた」

 丸椅子に座ったサイファは、にこにこしながら声を弾ませた。いつも医務室の前までは来ていたが、中に入ったことはなかった。ラウルに拒否されていたのだ。

「そのためにわざと怪我をしたのではないだろうな」

 ラウルは消毒液を棚から取り出しながら尋ねる。

「まさか」

 サイファは軽く一笑に付した。

 ラウルは眉をひそめて睨んだ。笑ってはいるが、サイファならこのくらいのことはやりかねない。嘘も平気でつくだろう。だが、今さらそれを追及しても仕方がない。

 無愛想なまま椅子に腰を下ろすと、笑顔のサイファと向かい合った。怪我をした方の手をとり、人差し指を消毒して絆創膏を貼る。ごく簡単な処置である。わざわざ医務室にまで来ずとも、本来なら自宅で可能なものだ。

 処置が終わると、サイファはきょろきょろと物珍しそうにあたりを見まわした。

「ねぇ、あの扉は何?」

 ほとんど壁と同化した扉を、目ざとく見つけて尋ねる。

「私の部屋だ」

 ラウルは素っ気なく答えた。

「その向こうの部屋に住んでるってこと?」

「そうだ」

「中を見せてよ」

「断る」

「散らかっていても僕は気にしないよ」

 サイファは明るく言った。

 ラウルは軽く睨みつけた。

「そういう問題ではない。誰も招き入れないことにしている」

 そう言いながら立ち上がり、消毒液を棚に片付ける。ガラスの扉をゆっくりと閉めた。

「見られたくないものでもあるの?」

「私的な空間に踏み込まれたくないだけだ」

「じゃあ、いつか招待してね」

 サイファは人なつこい笑顔を浮かべた。

「おまえ、少しは人の話を聞け」

 ラウルは疲れたように溜息をついた。サイファのあまりにも自分勝手な物言いに、怒りを通り越して呆れていた。抑揚のない低い声で言う。

「治療は終わった。もう帰れ」

「ラウルのことが少しわかってきたよ」

 サイファは上目遣いでラウルを見ると、形の良い唇に、意味ありげな笑みをのせる。

「けっこう動物的だよね。言葉じゃなくて行動でわからせようとするあたりさ。最初に自分の力を誇示して、相手を服従させようとするのもそうだよね」

 ラウルは氷のような瞳で睨めつけた。

「たった10年しか生きていない奴に何がわかる」

「そういうラウルは、何年、生きているの? 300年は超えているよね」

 サイファはにっこり微笑んで言った。

 ラウルはじっと彼を見下ろした。ゆっくりと息をつく。

「知っていたのか」

「父上が話しているのを聞いたんだ」

 サイファは極めて軽い口調で言う。

「怖くはないのか」

 ラウルは尋ねる。

「どうして?」

 サイファは首を傾げた。そして、当然のように言う。

「人間じゃないから危険ってことはないよ」

「私は人間だ」

 ラウルは間髪入れず訂正した。

「え、そうなの?」

 サイファは目を丸くした。どうやら本気で人間外の生物だと思っていたらしい。少し興奮した様子で、身を乗り出して尋ねる。

「どうしてそんなに長く生きられるの?」

「さあな」

「僕もラウルみたいに長く生きられるかな?」

「さあな」

 ラウルは答えをはぐらかした。

 サイファは口をとがらせた。だが、すぐに気を取り直して質問を続ける。

「じゃあ、ラウルはどこから来たの? それくらいは教えてくれる?」

 ラウルはしばらく考えたのち、無言で窓の外を指さした。

 サイファは視線でそれを辿る。

「空?」

「その向こう側だ」

「空の、向こう側?」

 ぽつりと疑問形で呟きながら、椅子から立ち上がった。引き寄せられるように窓へと足を進める。窓枠に手をのせると、ガラス越しに空を見上げた。広く、深く、どこまでも青が続く。その向こう側にあるものは、ここからは見えない。

 ラウルは腕を組み、うつむいた。焦茶色の長髪がはらりと落ち、表情を覆い隠す。

「もう帰れ。レイチェルが待っているのだろう」

「うん、ありがとう」

 サイファは絆創膏を貼った指を立てて見せた。そして、右手を振りながら、軽い駆け足で医務室をあとにした。

 

 医務室にいつもの静寂が戻った。

 ラウルはガラス窓を開けた。風が渦を巻くようにして医務室に滑り込む。焦茶色の長髪がうねりながら舞い上がった。

 ——おかしな奴だ。

 リカルドも恐れることなく入り込んでくるが、サイファはそれ以上だった。遠慮なく踏み入ってきて、強引に自分のペースに巻き込む。それは、単なる子供のわがままとは違う。押すべきところと、引くべきところを、上手く使い分けているのだ。自然にやっているようにも、何もかも計算づくのようにも感じる。

 一緒にいて、これほど頭にくる奴もそうはいない。一方で、彼という人間と、彼の持つ才能には、多大な興味を引かれていた。

 家庭教師をすぐに断らなかったのも、おそらくその興味ゆえだろう。だが、今後も続けていくと決めていたわけではない。しばらく様子を見てから結論を出すつもりでいた。それが、リカルドとの当初の約束でもあった。

 ラウルは窓枠に両手をつき、緑が茂る静かな裏道を見下ろした。

 誰もいないそこを見据え、眉根を寄せる。

 もう、自分の中で結論は出ているのだろうと思う。

 それには、サイファへの評価ではなく、明らかに別の存在が影響していた。

 レイチェルだ。

 外見や表情が似ているだけならまだ良かった。断ち切ることは可能だっただろう。だが、彼女の持つ魔導力の危うさは、目を離せなくさせるのに十分だった。

 今日の話しぶりからすると、彼女が本家に遊びに来ることも度々あるのだろう。無関係の自分には何もできないが、せめて見守ることくらいは——そんな使命感にも近い思いが湧き上がった。

 ——運命までは、似なくていい。

 ラウルはゆっくりと顔を上げた。

 空を仰ぎ見て、目を細める。

 白い翼を持った鳥が、青い空を滑るように横切っていった。

続きは下記にて連載しています。

よろしければご覧くださいませ。

ピンクローズ - Pink Rose -

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