No.109444

麗しのサブマリン <後編1>

みすてーさん

ライバルがいた。
リトルリーグで女の子ピッチャーをつとめた西原ヒカリは周りの
男の子は簡単に三振に討ち取れるのに、一度も空振りの三振に
討ち取れないライバルがいた。彼の悔しがる顔を見るのが夢。
だがある日、ライバル石崎隆から放たれた一球が運命を変えた。

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2009-11-28 21:56:22 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:969   閲覧ユーザー数:962

【 麗しのサブマリン 後編 】

// 注:こちらは後編1です。 //

 8

 

 姿見に映ったこのコは、誰だろう。

 黒いアンダー、紫色で細いラインの入る白いユニフォーム。

 帽子には、ファルコンズのFとボールを組み合わせたロゴを刺繍している。

 このロゴは――どこかのプロ野球チームとそっくり。

 ――ああ、だれかファンの人がいるんだ。

 くすりと笑ってしまう。

 アマチュアの草野球チームとはいえ、シンプルなデザイン。ヒカリは割と気にいった。

 白地は汚れが目立つが、ユニフォームにいたってはヒカリの好きな色だ。

 ファルコンズのユニフォームに身を包んだ自分自身の姿で颯爽とシャドウピッチングを試みたりもする。モーションのチェックというよりは、姿見に映った自分のユニフォーム姿、投球している姿にニヤニヤしてしまう。

(笑ってる)

 自然と笑顔がこぼれていることを確認して、ヒカリはやはりという気持ちになる。

(もう、十年だもんね)

 野球を辞めてから、いや、チームから離れて、そろそろ十年が過ぎてしまうところだった。

 野球自体はやめてないと心の中ではおおきくうなずく。その証拠にキャッチボールだけは母に隠れて父親と河川敷などでよくしていたものだ。最近はサボりがちの週一回ランニング、あるいは簡単なトレーニングだって、続けていたつもりだ。体がやわらかいのも手伝って徐々にきちんとしたフォームになっていくアンダースローを、投げれるだけの足腰を鍛えたつもりだった。

 くいくいと腰を捻って、何気なく鏡を覗き込めば、ぼんやりともう一人の小さな自分が映っていた。

 リトル時代から同じ姿見を使ってきたためだろうか。

 ユニフォーム姿でこうやって同じように覗きこんだ時代は遥か昔だが、昨日のことのようだ。

(我ながら、大きくなったよね)

 背が伸びた。手足も長い。割と細めで、胸も人並みにある。女の子的なスタイルにはそれなりに勝負できると自負している。

 だが、野球をやるためには間違いなく細すぎる。

 女と男では体付きが違うのはわかりきったことだ。いかに初歩的なトレーニングは積んできたとはいえ、筋肉隆々というわけではない。

 健康的に鍛えられ、それがスタイルのよさを演出しているのはいい。ただ女のコ的ではない出るところが出てしまえば気恥ずかしくもあるから、過度なことは遠慮している

(当たり前だよね、女の子なんだから)

 ユキから貰ったファルコンズの写真にはやはり太めでパワフルなオヤジ、ヤクザ顔負けの強面のお兄さん、無骨で頑強なオジサンなどが映っている。

 どう考えたって、この角の取れた丸みのある女の体で体当たりしたら、間違いなくふっとばされてしまうと不安になる。

 同じように、どんなピッチングをしても簡単に打ち返されてしまうのではないか、自慢の直球も、ピンポン球の様にあっさり、とんでもない飛距離を伴って打ちかえされてしまうのではないかという不安に襲われる。

 ぱっと見の非力さだけはどうしても拭えない。

 自分自身でそう思うのだから、やはり周囲の目はもっと厳しいだろう。

 それでも、ヒカリはグローブとボールを手に取る。

 気持ちで負けたら、勝負にすらならない。

 マウンドの上で挫けない。

 ヒカリのピッチャーとしてのポリシー。

 例え、プライベートなことでつまずいても、マウンドの上では超強気。

 打たれても打たれても、次は抑える。次は三振に獲る。

 それがムリなら、せめてアウトにする。そんな自分でいられることがなによりも楽しい。

 ピッチャーという最高のキャラクターを演じるために、マウンドに戻れる日が来れるということを考えるだけで、やはり自然に笑顔がこぼれる。

 だが、亡霊の様につきまとう黒い影がある。

 目をつぶっていると、誰かが後ろでつぶやいている。

「お父さんの様になりたくないでしょう? 野球に人生かけて、野球に左眼奪われて、それでも野球を捨てられなくて、あがいてあがいて誰にも見向きされなくなっても、バットを振りつづけて、最後には家族を放ってでも他所様の子供達に野球を教えてる。ウイルス性の伝染病と一緒よ、誰かに感染そうとするの」

 残念ながら、そのウイルスはヒカリに遺伝している。

 どうせ身にならない、つまらないこだわりを捨てて普通に活きて欲しいと願う母の気持ちはわからないではない。

 ――そうじゃない。違うの。

 目をつぶって、首を振る。

 静かな、自分の部屋で。

(私にはこれが普通)

 空気を吸えなければ窒息するのと同じ事。

 そう思って、母にこっそり隠れて父親と投球練習した時の思い出が走馬灯の様に流れる。

 高校生になってストレートが伸び悩み、父親のこれじゃ打たれるなの一言に頭きて、アンダースローに変えた。

「対戦することもないんだから、好きなように投げたい」

 と、いくらか自嘲的にフォーム改造にふみきる。

 下手投げの往年の名選手ミスターサブマリンと評されるような選手のビデオを擦り切れるまで見る。もちろん、父親のコレクションである。足の上げ方下げ方、間の取り方、腕の上げ下げ、重心移動にリリースポイント。ひとつずつ体に覚えさせ、高校を出る頃には流れるようなフォームになった。

 バイトで貯めたお金からちょこちょこと野球経費と名づけて関連書籍を買い、読みふけっていたりもした。

 ボールに対する指のかけ方なんかよく参考写真と見比べていた。毎晩のコンクリートの壁に付き合ってもらって投球練習。おかげさまで父親はそんなヒカリの投球フォームにぞっこんだ。

「おまえだったら、ミス・サブマリンか?」

「え~、レディ・サブマリンの方がかわいいよ」

 ほとんど自分のための、自分が演じていて楽しい観賞用とばかりにおもっていた美しきサブマリン。

 活かせる時がきた。

 投げれる時がきた。

 ヒカリはボールがつぶれんばかりにぎゅっと握った。

 感傷に浸るにはまだ早い。

 勝負はこれからだ。

 もう、コンクリートの壁とはお別れだ。

 一人じゃない、キャッチボールは二人以上でやるものだし、一チーム九人、試合になればその倍の数。

 受け取ってくれる相手がいるのだから、これからは野球が出来るのだ。一人きりの投げ込みでは無くて。

 

 海老原自転車店。

 ユニフォーム姿のまま、まともに走れなくなったアルベルトを引き連れて立ち寄った。

 ぴかぴかで銀色の自転車が展示されている横で、油にまみれた器具や鉄パイプが転がっている、白と黒の空間。

 職人肌の頭の禿げたおじいさんが一人で切り盛りする昔ながらのお店。親の代からお世話になってるということですっかりヒカリも馴染みの客としてぶらりと寄ることが多く、寄れば油差してくれたり、空気は入れてくれるわ、軽いパンクならタダで直してくれる。

 海老原のおじさんは穴の空いたチューブを見るや、いつも通りだなと笑う。

「空気の入れすぎで思い切り踏み込んだんだろう?」

「そうかなー? そんなつもりないけど・・・・・・」

 急いでいる時に限って、盛大な破裂音を伴ってパンクする、この自転車。急いでいれば、慌てて思い切りペダルを踏みこむという気持ちがあったかもしれない。

「あー、でも、受験前とか前日に空気入れてたな。あん時はマジでビビったね。だって、受験の日にチャリがパンクだなんて不吉な」

「慎重すぎるのもよくないこともある。それにしても、今回はなんで急いでいたんだ?」

「ん~、バイトに遅刻しそうだったの」

「珍しい」

「でしょ、だから慌てちゃってさ」

「珍しい、といえば、今日はユニフォーム姿だな」

 海老原老人はヒカリの姿格好に見とれるように言う。

 この人も野球好きなのだ。

(ていうか、典型的な長嶋好きな巨人ファン)

 ヒカリはそれを知っているから、この姿で寄ったのだ。

「草野球チームにね、入ってみたんだ。どう、久しぶりのユニフォーム姿、似合う?」

「似合うな。試合はいつだ、見に行くぞ」

「ありがと。まだわかんないけど、またマウンド立つよ」

「そうか、がんばれよ」

 簡単な言葉しか口には出さずとも、海老原老人はヒカリの背中を軽く叩いて激励する。

「それで、アルベルトは今乗っていくのか?」

「いや、帰りに寄るからさ、そん時までに直しておいてもらえれば、ありがたいかな」

「何時になる?」

「夕方には戻るとは思うけど」

「そうか、わかった。暇を見つけてやっておこう」

「お願いします。で、それとなんだけど、お母さんが来ても、このこと、言わないでね」

 チームロゴをつつきながら、念を押すように笑顔で。

10

 

「西原ヒカリです」

 ヒカリは帽子を取って、深く頭を下げた。

「ポジションはピッチャー。本日からお世話になります、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします!」

 出だしが肝心、ナメられたらダメだ。

 根性娘よろしくとばかりに大きな声で叫んでみた。

 顔を上げると、ユニフォームをだらしなく着た腹の出た中年のオヤジが手を差し出してきた。昼前の眩しい陽光に照らされ、彼のウルトラマンの眼のような形をしたサングラスは妖しく輝く。このサングラスのセンスで、どんな服を着るんだろう。ヒカリはつまらないことが気になった。

「自己紹介するぜ。俺は細野監督の下でキャプテンを務めさせてもらってる岡部雷蔵だ。恐怖の四番バッターだ、得点圏打率九割五分、人は俺のことを恐れをなしてライディーンなんて呼ぶがな」

 低い声で言いたいことだけ言って、ガハハと笑う。

 だが、名前の由来についてはまったく説明が無く、意味がわからないままだ。

「ライディーン、適当なこというなー。ランナーいなきゃ三振するくせに」

「うるせー、俺は試合を決めるタイプなんだ、お前こそなんだ、チャンスで打てないノミの心臓だろうが」

 リーゼントのお兄さんと突然、口論になる。

 え~っと、と困ったカオでジュン君を見れば、彼はコホンと咳払い一つする。

 ライディーンは気付いたのか、だが、悪びれることなく、

「俺たちは西原ヒカリ投手の入団を歓迎する。まあ、なんだ、このチームは野球バカばっかりだ。仲良くしてやってくれ」

 ヒカリに握手を求めた。

 一呼吸置いて、差し出せれた右手にしっかりと応える。

 ごつごつした中年の手の平。その手の平に息づく素振りをしてできる野球人特有のマメの感触を頼もしく思える。

 そして、そのまま腕を二度三度振る。

「本当によろしくお願いします。トンネルなんかしたらひっぱたきますんでー」

 先制攻撃だ、とばかりにヒカリは嘲笑するようににやりと笑う。

 岡部雷蔵の後ろにだらだらと立つ、チームの男達はにやっとしたり、くすくすと笑った。

 パチンと、握手した手を先に弾いたのは岡部雷蔵の方だった。

「いってくれるじゃねえか、嬢ちゃん」

「監督、挨拶はこのくらいでいいですよね、とっとと練習始めましょう」

 みんなの前で突っ立てるのも気恥ずかしい、そんなこともあった。

 ヒカリの後ろに立つ、これまた角張った黒いサングラスの長身の男に同意を求める。

 白地に紫の細いラインの入ったファルコンズのユニフォームを着ない、一人だけのスーツ姿の中年男性。顔はがっしりしていてるが、目つきはサングラスのため、把握できない。腕を組んだままの男――細野豊ファルコンズ監督――は口を開く。

「岡部さん、今日の練習に入ってくれ」

 重みのある声がグラウンドの砂とともに風に舞う。

 岡部は了解だと答え、チームメイトにランニングの指示をする。

「オラー、だるそうにしてんじゃねぞ! てめえら、今日こそ吐くまで鍛えてやるから覚悟しろよ」

「ライディーンこそ、音を上げんじゃねーぞ」

 怒鳴り声が乱舞し、チームメイトはライディーンの怒鳴り声にわははと笑いながら散っていく。

 最年少、小学生の槙原ユウは隣に立つ、甘いマスクの高校球児、ユニフォームをさわやかに着こなす細野ジュンに目で合図した。ジュンはそれで気づくとヒカリの背中を押した。

「ヒカリさん、行こう。突っ立ってると怒鳴られるよ。それに、ユウがヒカリさんと一緒に練習したいんだってさ」

 少年は少し赤くなって、そんなことないと噛み付く。

 ヒカリはユウの頭の上にぽんと手を平を置く。

「さて、ユウくん、お姉さんと一緒にがんばろっか」

 さらに赤くなって、ユウはヒカリの手のひらを払うが、ヒカリは面白がって追っかけまわす。

「ちょっと、ヒカリさん! うちのユウ君で遊ばないで下さい!」

 いわゆるブレザーとルーズソックスの女子高生スタイルの槙原ユキは弟のユウを後ろから抱きとめる。

「ちょっ、姉ちゃん、離せよ、恥ずかしいだろ!」

「せーの!」

 ユキはパチッとフラッシュを炊いたインスタントカメラのシャッターを切る。

 弟の首根っこをつかまえて、じたばたしている姿と後ろで笑っているヒカリの姿がフレームに収まった。

「ヒカリー! 新入りだからって、さぼってんじゃねーぞ! こっちこい、そのほっそい体を俺様直々に鍛えてやる!」

 ライディーンの怒鳴り声が早速、ヒカリの背中に浴びせられる。肩をすくめながら、ユキに手を振って、チームメイトの円に加わろうと駆け出す。

 その刹那、監督が声をかけた。

「西原、期待している」

「あ、ありがとうございます」

 ヒカリは走りながら、監督に向かって一礼した。後ろに束ねた髪が気持ちに合わせて揺れる。

 久しぶりの団体練習に体は喜んで反応した。

 ストレッチして体をほぐしながら、適当に運動した後のキャッチボール、投球練習を思うと、走りながらもにやけてしまう。

「おまえ、なにニヤニヤしてんだよ、気持ちわりーな」

 思わずぼんやりと彼の頭を眺めてしまった。

 リーゼントのお兄さん、長田隼人は横から覗き込むようにヒカリに悪態をつく。

「すいません、リーゼントなんて生で見たの初めてなんで」

「ヤクザぽいとかいうんだろ、わかってるよ、どうせ俺はろくでもねえ高利貸しだ」

「ハゲるまでやってくださいよ、その髪型」

「はぁ? 当たり前だろ、んなこと」

 太い眉でリーゼント、ヤクザ張りのドスの利いた声でもユニフォームに包まれてしまえば、野球人。

「おい、Hiro、俺のバットとってくれ」

 偉そうに指示を出す、リーゼントの長田。

 Hiroと呼ばれた青い髪の男はピアスを揺らしながら、黙ってベンチから長田のバットをさしだす。

「もう、バットを振るのか? お前はいつもそうだ、周りのペースを無視した……」

「あー、愚痴愚痴うるせいよ、この娘によ、俺の正確無比でどんな球で弾き返す鋭い天才的スイングを見せてやるってんだ」

「こういうわかりやすいやつだ、すまんな」

 お手上げのポーズでヒカリに謝るHiroと呼ばれた男。当たり前のようにヒカリより背は高い。そして、男性にしては細い。運動をやる人間に見えなく、その痩せ方はちょっと不健康に見えた。

「はは、いいですよ、おもしろいですから。あ、Hiroさんってバンドマンなんですよね、ジュン君から聞いてます。ライブとかやるんですかー?」

 自慢のスイングにヒカリが興味を示さないことに長田は「見ろよ!」と叫ぶが、Hiroが「見るな」とばかりに手で覆い隠す。

「今新曲かいてる最中だ、楽しみに待っててくれ。ライブは今度招待するよ」

「あたしギターとか弾いてみたいんで教えてくださいよ」

 ビジュアル系のお兄さんは困った顔をする。

「悪いな、俺の専門はベースだ」

 さっと髪をかきわける。

 そんなベース弾きのビジュアル系のお兄さんもバッティングが大好きな野球人。もちろん、ギターやベースをバット代わりにすることはない、いたって普通の野球人だろう。

「ヘイ、ヒカリ、ヒロのミュージックセンスに惚れるなよ」

(うわ、ガイジンだ!)

 年はヒカリよりもいくつか上だが、他のメンバーに比べかなり若い。二十台の半ばと言ったところだろうか、流暢に日本語と英語を使い分けるアメリカ系の男性だ。

「ハ、ハロー」

 突然の本物のアメリカンに気が回らず、冴えない発音で気の利かない挨拶をする。学校で4以下になったことのない英語の実力も形無しである。隣でHiroさんが苦笑している。

「おう、こいつは日本語バリバリできるからノーイングリッシュだぜ、いつかネイティブな関西弁で虎党に混じって六甲おろし合唱したいんだとよ」

 リーゼントの長田さんが割って説明する。

 ネイティブな関西弁って何だ、とヒカリは一人考え込むが特に考えても仕方がないことに気付いて考えるのをやめ、笑顔で取り繕う。

「よろしく、マイネームイズヒカリ」

 右手を差し出し、ガイジンらしく握手を求めてくる。ヒカリはそれに答えて、ささやかな国際交流だとばかりに軽く握り返した。

「OH! ヒカリ、ボクはダミアン=ロドリゲス。D=ロッドって呼んでよ」

 メジャーリーグで活躍するアメリカ最高の選手をもじったネーミング。

「どっちかっていうと、ダメ=ロッドだな」

 長田さんが間髪入れずに突っ込む。

「なんでやねん!」

 今度は中途半端な間を置いて、ダミアン流ツッコミチョップとともに突っ込み返しが入る。

(正直、微妙)

 へえ、なるほど、ダメ=ロッドねえ、と思わずヒカリは納得する。

「ヒカリチャン、ヒカリチャン、なに話してんの? 俺も仲間にいれてよ」

 ヒカリはぎょっとした。

 三十過ぎているだろう、オッサンのエリアに入ったにもかかわらず、金髪ロンゲ。あきらかに若作りしているお兄さん。脂ぎったでかい顔がイケテナイ、池田健一。

「なんでもないです、大丈夫です。ちょっとした世間話」

 応えながら、思わず一歩退いてしまった。

「なんだよ、俺、いきなり避けられてるわけ? 一緒にキャッチボールしよーぜ」

「いやー、やっぱり、キャッチボールはキャッチャーのジュン君とやるのがちょうどいいんで、遠慮しておきます」

 さらっと流して、反論の隙を与えず、池田の脇をヒカリは通り過ぎる。

 近づかない方がいい、本能的に悟ってしまった。

 気が付くと、目の前にイケメン高校生細野ジュンが立っており、さわやかな笑顔でヒカリにグローブを差し出す。

「ありがと」

 革のグローブの感触を確かめる。

 いつも慣れ親しんだはずの感触。

 自分で縫い付けた自分の名前をそっと撫でる。

 

 ――長かったね。

 

 自分自身に語りかける。

 ――あたしはまだ野球をやっている。これからも野球をやるんだ。だから、アイツにだって勝負できる。

 ついでに投げ渡された、いわゆる軟式球。ヒカリとしては赤い糸の縫いつけてある石ころみたいな硬式球が好きなのだが。

 自分の投げるボールにみんなが夢中になるのだと考えれば、それは硬式、軟式の違いなどない。

 肝心なのは、相手がいること。チームの中にいることだ。

「それじゃあ、始めようか、キャッチボール」

 距離をとって、肩口から軽く腕をしなると、ポーンときれいな弧を描いてジュンの胸あたりに落下する。

「キャッチボールひとつとってもホント、コントロールいいですよね」

 ヒカリは精神を統一するように、黙ってジュンとのキャッチボールを続けた。

「ホント機械みたいですね、狙ったところにストンと」

 ユキはヒカリのボール使いを横で真剣に見て、機械と評した。

「う~ん、機械はこんなやわらかいボール投げないんだよね。なんていうか、すんなりグローブに入ってくる感じ。ユキちゃんでも簡単に取れるよ」

「速いですよー、速いボールって痛いんですもん」

 二人の会話はとどまることを知らないようだったが、ヒカリはそんなことより身体の温まり方と同時に精神が結晶化する感覚が生み出す緊張を味わっていた。わくわくする心と、失敗できない不安。溶け合うように交じり合い、えもしれぬ高揚感を生み出す。

 ふうっと息を吐いて、雑念を振り払う。

 構えられたミットめがけて魂のこもった球を放る。

 今はそれしかない。

(要求されたどんなコースだって投げてみせる)

 ヒカリは帽子を深くかぶりなおして、ジュンに手振りで座れとの合図をする。

 その瞬間、チームメイトが注目する。

 監督、キャプテン、リーゼント長田、ベース弾きのHiro、イケテナイ池田、ダメ=ロッド、そしてまだ会話をしていないバサバサ髪の無精ひげのお兄さん。

 しんと静まり返る。

(さあ、行くよ。あたしのボールに、みんな夢中になるんだ!)

 解き放たれた感情は、なめらかに地面を滑る。ヒカリの指先からリリースされ、風を切り裂き、ジュンのミットに吸い込まれていく。

 ミットから気持ちのいい音が響く。

(この感触がいい)

 振り切った腕が自然に拳を握る。

(今度こそ、空振りさせてやるんだから・・・・・・)

11

 

「おお」

 思わず、漏れたであろう、感嘆の息。

 ヒカリはポーカーフェイスを気取りながら、何事も無かったかのようにジュンからの返球を受ける。

「こりゃあいい。コントロールもいいし、なにしろあのツラがいいな。おーし、いっちょ揉んでやるか」

 岡部雷蔵。チーム内ではライディーンというあだ名を持つ、ファルコンズの四番打者が打席に入った。

 ぶううん、ぶううんと空気を打ちのめすような豪快な素振り。ジュンのミットめがけて何球か投球練習しているヒカリの耳にも、挑戦状のように聞こえてくる。

「せっかくの新人なんだ。手加減してやれよー」

 ベンチからリーゼントの長田さんの声が飛ぶ。

「甘い、甘い、俺様のどでかいのを一発お見舞いしてやるぜ。そのかわいい顔にむかってなあ」

 下品に笑って、ぶんぶんと一回二回素振りをして構えに入る。

 ヒカリは無視するように一呼吸置いて、振りかぶり、足を上げ、投球モーションに入る。

 そして、ボールをリリース。

 外角の低めに構えたジュン。

 しかし、ミットとはまるで逆球。

 内角の高目からさらに顔に近いところへ、ヒカリの直球が鋭い刃物のように突き刺さる。

「うお!」

 肥えた太鼓腹という、見た目の鈍臭さ以上に身のこなしがすばやく、顔すれすれの直球をうまく避ける。

「ったく、あぶねえじゃねえか!」

 尻餅をついたライディーンは怒鳴る。

「ただのインハイじゃん、なに慌ててんの!」

 ヒカリは待っていたとばかりにおどけて叫び返す。

「うるせい、このノーコン女!」

 なにをっとばかりに反論を吐くライディーン。

 まったく最近の若いモンは礼儀を知らん、とライディーンはぶつぶつ。

 ジュンは苦笑してキャッチーミットをアウトコースに導いた。

 二球目。

 ジュンの外の球という要求にしっかり応えるような直球。

 挑戦的なインハイが頭にあったのか、インコースを待っていたのかのようにライディーンは態勢を崩す。だが、体は反応したようでムリヤリ腕を伸ばす、当てにいくスイングで大きく空振る。

「これでワンストライク、ワンボールってところですか」

 ライディーンは空振りが気に入らなかったのか、舌打ちしながら、ジュンのカウントにうなずく。

 ヒカリは黙って、ジュンからの返球を受ける。

 三球目はまた外に。

 今度こそもらった、とライディーンはスイングに入るが、なかなかボールがやってこない。

 しまった、というタイミングがあるほど、一拍遅れてボールがうねっと曲がりながら落ちてくる。思わずバットが釣られるが、ボールは逃げるように曲がり、ジュンのミットに納まる。

 完全に打つタイミングを狂わすスローカーブ。

「これでツーストライク、あと一球ですよ」

「速い球以外投げない、てわけじゃあ、ねえんだな」

 急にマジメな顔つきになって、バットを構えなおすライディーン。

 だが、そんなライディーンに気を取られることも無く、ヒカリの目はすっとなめらかにインコースに寄ったジュンのミットに注がれた。

 要求するコースに、わかってるじゃん、とヒカリは思わず笑う。

 四球目。

 きわどいインコースだって迷い無く、腕を振り切る。

 今日の調子なら針の穴だって通せますよ、ジュンの声が聞こえてくる。本当にそれが出来るって事をジュンだけではなくて、新しいチームメイトにも見せつけなければいけない。

 滑らかな速球はライディーンの強振なんてなかったかのように、元から収まるべくしておさまったがごとく、ジュンのミットに吸い込まれた。

 

 ――やった! 十年ぶりの三振!

 

 ヒカリは声に出さず、口の中で喜びをかみ締める。

「この俺がバットに当てることなく三振だとっ! クソ!」

 バットを地面に打ち付けて悔しがる。

「次、オレ、オレ! ランナーいねえライディーンなんて討ち取って当然だろ?」

 ケンさんがバットを持って、ライディーンを押しのけるようにバッターボックスに入ろうとする。

 ヒカリは不敵に笑って、ボールをしっかりと握る。

「いくらでも相手するよ。あたし自信満々のバッターを空振りさせるの大好きだもん」

 ちょっと嫌な性格だろうか。

「バッティングはどうだ」

 唐突に、監督がベンチから出てきてケンさんを手で制止する。

 ホームベースからマウンドまで届くよう、ボリュームを上げた監督の声。

 ヒカリは挙手して意見する。

「あたしはDH制を支持します」

 グラウンド中、笑いで包まれた。

 

 ベンチの中、きょとんとしたユキは思わず弟の肩を叩く。

「DH制てなに?」

「そんなのも知らねえの? マネージャーだったんだろ?」

 ぷっとふくれっつらのユキ。

「いーよ、もう聞かないから」

 Hiroさ~んと青い髪の男に同じ話を振る。

「DHっていうのは、ピッチャーが打たない制度のことだ。日本はパリーグで導入してる。四番でエースっていう言葉があるくらい高校野球じゃあ、ピッチャーは打つのが当たり前だろう? だけどDHっていう制度の場合はピッチャーは打順にのらない。その代わりに指名打者っていう、いわゆるDHって名目で代わりのバッターが打つことができる。6番DH長田とかいう具合にな」

「なんだよ、俺かよ」

 つられてリーゼントの長田さんが口を挟む。

「ようするに、ヒカリは投げるのに自信はあっても打つのはパスだと言いたいんだよ」

「へぇ~、そうなんだ~」

 わかったのかわかってないのか、ユキはマウンドのヒカリに視線を戻す。

「まあ、女の細腕で男の球を打つのは難しいだろ」

「そうでもない。女子ソフトは硬式野球よりもホームベースに近いところから投球する。スピードガン表示では野球に比べれば比べ物にならないほど遅いが、飛んでくる時――投げてくるホームに辿り着く時間だけで考えれば短い。つまり体感速度は野球よりも速いと聞いている。しかも、硬球よりも重いボールをだ。バッターはそれを打ち返す。理屈の上では女じゃあムリと片付けられる話じゃない。本人の気持ち次第だ。それに俺たちはプロじゃない。打ちたいと思って練習さえすればアマチュア相手なら――」

 髪を掻き分けながら、

「なんとでも、なるはずさ」

「丁寧な解説、ありがとうよ」

 わかったかい、ユキちゃん、と長田はまとめる。

「うーん、たぶん。わかったと思います」

「それじゃ、当の本人のバッティングを見守ろうぜ」

 

「滝、ちょっと投げてくれ」

 カントクに指示され、滝と呼ばれた男がマウンドに向かう。手入れのされていない長髪に痩せこけた頬。長身で、ヒカリの頭ひとつ以上、上背があった。ヒカリはボールを渡して、代わりにバットを握った。滝と呼ばれた男はボールを右手のグラブで受け取った。

 左利き、いわゆるサウスポー。

 終始無言のところが気になった。

(無愛想なヒト)

 ヒカリのファーストインパクト。

「バッティングセンターのマシンなら自信あんだけどなぁ」

 バッターボックスに入りながら、ヒカリのぼそっと言った言葉を、キャッチャーのジュンはしっかり聞いていたようだ。

「マシンだと思えばいいんじゃん?」

 まあね、と答えながら右のバッターボックスに入り、ホームベースにちょんとバットの先をつけると、マウンドに佇む無口なピッチャーに向かってバットを構える。

 腕をしっかり伸ばしてバットを斜め四十五度傾ける。

 そのバッティングフォームは俗に神主打法と言われている構えに近い。神社の神主がお払いをするときに似ていることからそう呼ばれている。

「苦手の割には凝った構えしますね」

「なんつーか、やってみたかったの」

 小声で、

「神主打法、女の子なら巫女さん打法ってね」

 ヒカリの構えを見て、ジュンが笑いをこらえている。

「真ん中来るよ」

 マウンドのピッチャーは振りかぶって、右足を大きく上げ、体の捻りを利用した体重移動で球を投げ下ろす。 

 オーソドックスな左オーバースローのピッチャーだ。

 指先から放たれたスピードボールは、真っ直ぐジュンのミットに向かった。

 存分に引きつけ、後ろに一旦引いた上体の捻りでバットを振りぬく。ヒカリの振り回したバットは空を切り、勢いを殺されることなく、ヒカリの体をコマのように回転させた。

 その派手なモーションに、勢いよくヘルメットが落ちる。

 短く切り揃えた茶色交じりの髪が爽やかに揺れる。

「カッコ悪!」

 照れるように声を上げながら、ヘルメットを拾うヒカリ。

 ベンチではライディーンが大きな声で笑っている。

「もう一球!」

 ヒカリの催促に応えるように、ピッチャーの滝に向かって返球するジュン。

 ヒカリは素振りをして、また腕をしっかり伸ばしてバットを四十五度傾ける。

 滝という男の球は打てないな、ヒカリは自覚しながらも、せめて当てようとだけ考え、グリップを短く持った。

 ミートだけに、当てることだけに、専念するのだ。

 それが功を奏したか、手首に痺れを残しながら、今度はしっかりと衝突した。

 ストライクゾーン、真ん中の低め。

 が、うまくバットを振りぬけなくて、ボールの上っ面だけに当てただけの打球はグラウンドに小さくバウンドし、無愛想のピッチャーの目の前に力なく転がった。滝はボールをじっと見つながら、左手で拾った。

「ピーゴロかあ」

 ピッチャーゴロを恥じりながらも、当たったことに安堵した。空振りだけはするわけにはいかない。

 ふとジュンを見ると、不思議そうにヒカリを見ている。

「あんなにいい球投げるのにね」

「あたしは生粋のピッチャーだからいいの!」

「一日に百球は投げても、百回は素振りしてないですよね?」

 正にその通りだけに苦笑いを返す。

 だが、監督からの質問には答えないわけにはいかない。

「バッティングはどうなんだ?」

「すいません、バッティングは興味ないんでほとんど練習してないんですよね・・・・・・あはは」

 気まずそうに。

「でもあれだけのボール投げるならいいじゃないですかあ。あたしなんてー、フライすらまともに取れないんですよー」

 ユニフォームに着替えていない理由はそうなのだろう。ユキはもっぱらスコアラー、マネージャー、カメラマンといった立ち位置か。

「その分綺麗な写真とってよ。現像したらちょうだいね」

「はい、がんばります」

 デジカメとインスタントカメラを手元に携え、ユキは元気よく返事した。

 写真が趣味の女子高生。

 タオルで額の汗を拭くと、先程の滝というピッチャーが前に立ちはだかった。

「どうも」

 と、ヒカリは挨拶すると、滝という男はウムとばかりに頷き、脇を通り去っていった。

 右手のグローブ、左利きというのがまぶしく映った。

 左投げというのはヒカリの憧れだった。だが、右利きとしてここまで培って技術がある以上、左で云々というわけにもいかない。隣の芝は青いのだ。

「左ピッチャーっていいですよね」

 スポーツドリンクを乱暴に飲むライディーンに何気なく、声をかける。その言葉に、ライディーンは遠い眼差しで滝という男を眺めながら、ドリンクを最後まで喉に流し、ぼそっとつぶやいた。。

「あいつは、右肩壊してな」

「え……もしかして、ケガとか?」

「投げ方が悪くてな、筋だがなんだか悪くしちまって、ドクターストップだ。医者が止めなくても、激痛で投げるどころじゃなかったらしいがな」

 ふと、ヒカリは自分の肩を見やる。これが無ければピッチャーをやることが出来ない大事なところ。そして、自分の野球人生を背負ってきたところ。これが壊れてしまえば、投手としてそれまでである。鉛筆が折れたので次の鉛筆をというわけにはいかない。常に一本しか用意されていないのだ。芯を磨耗しながら、投球する。肩は消耗品といわれる由縁だ。

 同じ投手という道を選んだからこそ、滝という男の苦労があの背中越しに伝わってくるようだ。

「左にしてでも、投げたかったんですか」

「並大抵な努力じゃねえな。大学で壊してな、それから十年、左で練習積み重ねて、アレだけのボールを放れるようになった。当時はキャッチボールでさえ、左じゃうまくできなかったのに、今じゃうちのチームのエースだよ」

「すごい・・・・・・まさにスポ根ですね」

「だろ。野球小僧はいつまで経っても野球小僧なんだよ、まあ世間的に言えば野球馬鹿ってところか」

 思い当たる節がある。

「うちの父親も大学野球で大ケガしたんですよ。片目の視力失って。それでも野球続けてます。似てますね」

「そうか。素敵なお父様だな。男はそういうもんだな、一途な馬鹿ものよ」

 わっはっはと豪快に笑う。

 だが、ライディーンはぴんと来たようで、笑いを止める。

「もしかして、あれか。外角打ちの西原か?」

 ヒカリはどきっとする。

 ライディーンのデータベースをなめていた。世代としては父親の世代なのだ。野球マニアなら知っていても不思議ではない。

「知ってるぞ。でかい大会だったな。相手は誰だったかな、どこぞのエースだ。外角打ちは脅威の打率、ただし、内角が大の苦手。だから徹底的な内角攻めを受けてたな。それで勢いあまってデッドボール。しかも、当たり所が悪くて左眼の視力喪失。俺は思わず同情したな。ありえない事故じゃないからな」

「よくご存知ですね。二十年も前の話なのに。それ、あたしの父親です。片目無くても相変わらず野球狂です。まあ、あたしをこんな風に育てた張本人ですから」

「そうか、あの西原の娘か。あれだろ、『鬼は外、福は内の西原の竜』懐かしいな。俺たちが大学野球見てた全盛期の選手だ。あの西原の娘とは、奇妙なめぐり合わせだな。だが、それならあの投球も親父仕込みか。なるほど」

 ヒカリは照れ笑いしながら、タオルを置いて、グローブを取った。

「父親はバッティングで有名でしたけど、あたしはピッチングですから。その辺、お間違いなく」

「覚えておくぜ」

 カエルの子はカエル。野球狂の子供は野球狂。狂うという字はあまりスキではないが、クレイジーだとか、それしか能が無い、と言う意味に置き換えればピッタリと思っている。

 だが、なぜバッティングのミートセンスを分けてくれなかったのだろうと、昔の父親のビデオを見るたびに思っていた。

(もし、あれがあったのなら、石崎と打ち合うことも出来ただろうに)

 ふと、頭が石崎に傾いていたことを恥じた。

(―関係ない。そんなことは)

 フラッシュバックの様に蘇る、彼のユニフォーム姿。昔と、今と。

(ずるい、あいつばっかりうまくなって)

 中学、高校と勉強にうちこんでそこそこの大学に入って、自分に何が残っただろう。消化不良の想いとやるせなさがじわじわと積もる一方だ。

 学歴は必要かもしれないが、ヒカリとしては、どんなことがあってもマウンドに立っていられるだけの精神力が欲しい。

 ピッチャーと言うのは自分の投球でしか道を開けず、誰かに助けを求めても何の役にも立たない。ピッチングは孤独なのだ。常に自力で解決しなければいけない。ストライクを投げなければ相手を討ち取れないのだ。ピンチを脱しないのだ。

 マウンドから降りてしまった、ただの人になってしまった。

 それで納得する人はいるかもしれないが、ヒカリは自分が納得していなかったことにこうやってまたマウンドに登って、初めて気が付く。納得しているフリをしていたんだと。

 帰ってきた故郷は懐かしいよりも、やっとという念願という安堵の息をつかせる。

「ヒカリさーん、球拾い手伝ってくださいよー」

 ジュンが声を張り上げる。

 外野に散らばったボールを一つずつ拾ってはカゴに収める。打ちっぱなしの打撃練習の功罪だ。

「自分で打った球でしょ、自分で拾いなよー」

 といいつつ、ヒカリは外野に向かう。

(怪我が怖くては野球は出来ないし、球拾いをめんどくさがっちゃ練習も出来ないか)

 悪いところばかり見ては何も出来ない。

12

 

 片づけが済んだ帰り際、ヒカリは監督に呼び止められた。

 ジュンと槙原姉弟を先に行かせ、ベンチに監督と二人で座る。

「来週の試合、投げてみないか」

 単刀直入に用件を述べてきた。

「先発、ですか?」

 途端に熱くなる。

「隣町の六郷ロケッツといってな、商店街のチームなんだが」

「え、でも、ココのエースって滝さんなんじゃないんですか? あたしは新入りですし」

 きっと顔には投げさせてくれと書いてあるのに、どうしてこうも謙虚になってしまうのかと、ヒカリは心の中で笑う。

「いや、滝のボールにはやつらは慣れすぎた。いつも試合をしてるメンバーでな。いつもとは違うことが必要なんだ。そこでアンダースローは強力な武器になる」

 確かにいつも左オーバーの滝のボールに打ちなれているのであれば、右アンダーのヒカリのボールは変則だ。ボールの出所がまったく違う。バッターから見て、右上から振り下ろされるボールに慣れているのであればこそ、まったく逆方向である視線の左下から浮き上がるように伸びてくるヒカリのボールは脅威になるはず。

「えーと、それじゃあ、ぜひお願いします」

「いや、こちらこそお願いする」

「はい、がんばります。完投します。一点もやりません!」

 ヒカリは目を輝かせて早口にまくし立てる。

「その意気込みはいいな。ナイスピッチングを期待する。それと……」

「それと?」

 監督の目はサングラスに阻まれて窺い知れない。

「プロ選手の石崎とは知り合いか……?」

 ヒカリは苦笑する。監督が知っているということは石崎が連絡を取ってきたということだ。

(あたしに連絡しないで先にチームか)

 ヒカリは思わず苦笑した。

「ええ、まあ。昔のライバルってところです」

「ロケッツの山本さんがOKを出せば向こうのチームに加わるそうだ。今回だけ特別にな。ああ、山本さんって言うのは今度の相手チームの監督だ」

 自分がどんな表情をしたかわからないが、急に照れくさくなってヒカリはそっぽを向いてしまった。

「すいません、無理を言って」

「公式の試合ではないからな。大概の無茶は通せる。だが、試合は試合だ。個人的な対戦を楽しむのは結構だが、先発を任せる以上、チームに貢献して欲しい」

 心をきゅっとつねられる、当たり前の話が身に応える。

「わかってます」

「頼んだぞ、私だけではなくチームのみながお前に期待している」

 大のおっさんが若い娘のピッチングに期待するのだ、それはそれでおかしい。ヒカリはにやりと笑って応えた。

「大丈夫です。あたしはいつだって冷静ですから」

 そう言い切って、土ぼこりが無人のグラウンドに舞う中、ヒカリはドラムバッグをぶらさげて帰路についた。鼻歌を口ずさみながら。

13

 

 交差点の信号が目の前で赤になった。

 急いで歩道を渡り歩こうとする人がいる中、ヒカリはガードレールにもたれる様にゆったりと歩みを止める。焦る必要は無いのだ。

 やがて、青になってやはりゆっくりと足を踏み出す。歩幅は変わらないが、速度は若干速いかもしれない。体は前に行きたがっているようだ。

 ――一週間後か。

 今度は討ち取ると何度呟いただろう。

 交差点の次のT字路の角のお店がアルベルトを預けた海老原自転車店。

 夕焼けに染まった秋の空に勇み足な街灯が灯っている。

 店内を確認せずにガラス戸をがらりと開ける。

「おじさーん、出来てるー?」

「おう」という返事を聞く前に、ヒカリはたじろいだ。

 お客さんがいる、というのはよくあることだ。

 問題はそれが誰かということだった。

 豊かな黒髪にぱっちりした目つきできょとんとした母がいた。頭の回転が鈍いのは相変わらずのようでヒカリの姿を確認しても不思議そうな顔をする。

 ヒカリのガラス戸を持った手が震えた。

「あらあ、偶然ね」

「……わしが呼んだわけではないぞ」

 ヒカリのアルベルトと似たような症状なのかもしれない、やはり海老原老人は母親用のママチャリの前輪のチューブをいじっていた。

「さすが親子だな、症状がそっくりだ」

「あら、ヒカリの自転車もパンク? もうやあねえ」

 ヒカリは適当に微笑んで、アルベルトのスタンドをあげる。

「じゃあ、お母さん、あとはよろしく」

 請求は、という意味で何事もなかったようにアルベルトを引っ張って、自転車店を出ようとした。

 が、

「あら、なあに、その格好」

 ヒカリは思わず舌打ちした。

 一番見られてほしくなった人に見られてしまった不快。ごまかす言葉も思い浮かばず、ただ、汗がひんやりと冷たく背筋に走る。

 ヒカリがどんな格好をしているか、思いつくまでに時間がかかった母親だが、それとわかると、作業をする海老原老人の前を横切ってヒカリの前に飛びついた。

「野球、やってたの?」

 ヒカリは黙って頷いた。

「……ゴメン、相談も無しで」

 それだけ言って、荷物を載せて、ペダルを漕ぐ。

「ちょっと、ヒカリ!」

 上ずって呼ぶ声を背中に聞いて、ヒカリはわざとらしく角を曲がった。

 

 アルベルトを乱暴に止め、逃げるように自分のワンルームマンションに戻ると、荷物を玄関に叩き落した。

 ついでにカギも閉める。チェーンロックもしっかりと。

 スパイク代わりのスニーカーを適当に脱ぎ散らかし、同時にユニフォームのボタンに手をかけた。

 途端に着ているのが嫌になった。

 汗が気持ち悪い。

 今日は特別な日なのだ。今日ぐらいはこっそりとしていたかった。好きなように動いていたかった。

(横着なんてしなければ良かった。なんでもいっぺんにやろうとするから、こうなるんだ)

 単なる偶然だろう。

 だが、注意力散漫になっていたのは確かなのだ。

 お店はガラス張り。店内の様子など、少しのぞけばすぐわかることだ。それに、親子で利用しているところなのだ、母親の来店などよくあることだろう。少し考えればわかることだ。

 清く流れる川の前に突如現れた堤防は流れを止めて、停滞させる。停滞する気持ちはやがてくすんでいく。

 留まっていられない体質なのだ、昔からそうだとヒカリはぶつぶついう。

 一球投げたら次のボールのことを、一人アウトにしたら、次の打者をどうやってアウトにするかを真剣に考える。だから、テンポ良く進まないときは調子が悪い。

 こうやって、気持ちがせき止められるときもまた同じだ。

 ヒカリは熱いシャワーを浴びて、気持ちを落ち着ける。

 きっとかかってくる母親のデンワを受け取るのが憂鬱でしかたがない。風呂場の曇った鏡は間近に覗き込んでもヒカリの表情を映してはくれない。

 蛇口は楽でいい。捻れば簡単に水が出るし、止められる。だが、人の気持ちはそうはいかない。

 ましてや、母の野球に関する思いは深い。

 父親がどんなことがあっても野球が好きなだけに、母親はどんなことがあっても嫌いなのだ。父親が野球でがんばればがんばるほど、母親は野球嫌いになっていった。その過程をヒカリは知っている。なにしろ、ヒカリという名前は父親の失った片目の光の生まれ変わりというのが名づけ理由らしいのだ。

「このコは俺の新しい光。希望の光りだ」

 とかいったとか言わないとか。

 デッドボールを受けて、隻眼のスラッガーとなってしまい名声を一気に地に落とした父親。それでもあがく。結果が出るわけも無く、落ち込む一方。純然たる野球狂の父はいわゆる普通の生き方ではない。苦労してでもまた野球で日の目を浴びようと今でも希望を抱いている。だが、母親はそうではない。普通の生活に憧れた一人の女性だったのだ。ヒカリはどちらの気持ちも備えているだけに、どちらの味方でもあり敵ではない。

 だから、父親からキャッチボールをやろうといわれれば、何百球でも受けるし、野球なんてやめてしっかりいい学校に入りなさいと母から言われれば、受験勉強だって寝ずにやる。

 

 ――結局、なにがしたいんだ! あたしは!

 

 濡れた髪をぐしゃぐしゃにして、気を吐く。

 立ち込める湯気のせいで周りも良く見えない。

 だが、いつまでもこのままではいられない。進まないといけないのはあきらかなのだ。

 ピッチャーは自分の投げる球でなければ危機を脱しない。

 まずはボールを放るのだ、ストライクかボールかが問題じゃない。

 気持ちいっぱいのスピードボールで空振りに討ち取れるかもしれない。

 希望は希望、だが、じっと怯えるだけではなにも解決しないのだ。

 ヒカリは風呂場のドアを半開きにして、手探りでバスタオルを探した。

14

 

「いやー、あのあとおもしろかったですよー。あの人前で素振りをしないライディーンがぶんぶん振ってましたからね。よっぽどヒカリさんに討ち取られたのが悔しかったんでしょうね。僕がまだシンカーがあるんですよっていったら、次の試合はもらったなとか言っちゃって、滝さんもエースの座を奪われるんじゃないかって、冷や汗もんみたいなこと言ってましたし。ユウくんもいつかヒカリさんの球を打つって張り切ってますよ。僕も練習しなきゃ置いてかれちゃいますよ、あはは。って、聞いてます?」

 珍しくがらんとした店内をぼんやり眺め、ヒカリは適当に頷いた。

 その様子にジュンはきょとんとしながら、しばし考え、また口を開く、

「えっと、また僕、怒らせるようなこと言いました?」

「言ってない」

 ヒカリは即答するも、その言い方では相手は納得しないなと我が身を振り返る。

「お客さん、来ないね」

「来ないですね。まあ、仕事が暇なのはいいことです」

「仕事中に暇を持て余すことはよくないよ」

「そうかな? 僕は楽なほうがいいですけど」

「いつでも忙しい振りをしていれば、仕事が出来るように見えるってことだよ。覚えておいた方が役に立つよ」

 先輩らしい物言いも、感情は入らず、なんだか棒読みになっている。

「へー、そうですか、なるほどねえ。で、その割にはさっきからヒカリさんぼっとしてますね。練習ン時はあんなにハイテンションだったのに、なにかあったんですか? 監督から変なこといわれたとか」

 監督からの言葉……ヒカリにぴんとくるものがあったが、ジュンの顔を見て、口にするのをやめた。なにかしら知っているはずなのだ、あえて問うこともする必要も無いし、なおかつ、今のヒカリはそのテンションではない。

「来週の先発やるってのは聞いてますよ。その点で不満があれば、対策くらいなら付き合いますけど? キャッチャーとしてそれくらいはしますよ」

 任せてください、といったジェスチャーもお客と一緒に素通りする。

「いや、マジで無口ってわけわかんないですけど……」

 ヒカリはまじまじとジュンを見つめ、

「じゃあ、仕事に集中すれば?」

「やっぱ怒ってる」

「怒ってないよ、困ってるだけ」

「困ってる?」

「説明するのがダルイ」

「お手上げですね」

「そうだね、来週の試合もお手上げかもね」

 ヒカリはため息をつく。

 そのとき、店の自動ドアが開く。

「いらっしゃいませ~」

 と、笑顔でいつも通りに挨拶をすると、ジュンがびっくりしたような顔をする。

「表と裏、見事なもんですね」

「そうやって生きてきたんだから、仕方ないでしょ」

「けっこう深いですね」

「どっちかっていうと“不快”だよ。あたしはあたしでいたい」

 もう一度、自動ドアが開く。

「いらっしゃいま……あ、ユキちゃん」

「こんちわー。元気ですかー」

 ぺこりとお辞儀しながらの挨拶にジュンが不思議と気まずそうな顔をする。

「ココ教えたっけ?」

「勘ですよ、勘。この辺かなって、あたしの直感も捨てたもんじゃないですよ」

「それで、どうしたの、買い物?」

「いや、先輩がヒカリさんにちょっかい出してないか見に来たんです」

 ヒカリはくすっと笑う、ジュンはそれを見て、ユキと見比べているようだった。

「ジュン君がさっきから喋りっぱなしで少し鬱陶しいかな。とっとと連れて帰ってくんない?」

 つられてユキが笑う。

「了解で~す~」

 と、敬礼までして。

「って、違いますよ。今日は写真が出来上がったんで届けに来たんです。もしかしたら、次ぎ会うのって、試合の日になっちゃうんじゃないかと思ってー、やっぱこうゆうのって、前々の方がいいじゃないですかー」

 カバンをごそごそと探って、なんちゃらフィルムと横文字で書かれた紙封筒を取り出す。

「この前の練習のと、野球見に行った日の両方入ってますから。フォームとかばっちり映ってますよ。ヒカリさんってスタイルいいから、すんごいカメラ映えするんですよぉ。いいなあ。あと、あのアンダースローって言うのもカッコよく映ってるんで、フォームの修正とかに役立ててください。あれって、ホント絵になるしー。ココだけの話、あたしの写真で先輩のバッティングフォームって大分変わったんですよ」

 フォーム改造後の結果が知りたいところだが、ユキの話を半分に聞いて、写真の封筒を受け取る。

 意外と厚みがある。

「ありがと。お金は?」

「いいですよ、あたしからの餞別です。今度の試合、いいピッチングしてくださいね。ばっちり撮りますから」

 次の試合……ふと、ヒカリの表情に影が落ちる。

「あれ、あたしまずいこといいました?」

 ジュンが首を振る。

「なんか今日、ずっとこんな感じなんだよね、ヒカリさんって」

 ジュンはお手上げのポーズ。

「なにかあったんですかぁ? わたしでよければ相談に乗りますよぉ」

 ヒカリはふふっと苦笑する。

「なんていうか、次の試合、出れるかわかんないかも」

 言って、不意に石崎の顔が思い浮かんだ。

 

 バイト帰りの深夜の道はいつも以上に暗い。

 煌々と明かりを放つ電灯が立っていても心細くて仕方ない。

 闇を照らす光は人工のものではダメなのだ。

 風も冷たくなって、夜はコート無しではいられなくなってきている。厚く着込んで本来の動きも鈍くなる。でも、気持ちさえ、満ち足りていれば半そで短パンでランニングすることも可能である。要は気持ちの持ち様である。

 だからこそ、気持ちが沈んでは勝てる戦も勝てない。

 いや、戦ではないのだ。勝ち負けなどないのだから。

(嫌だと言われたら、あたしは逆らいたくは無い)

 嫌がらせでヒカリに野球をやらせないのではない。幸せを願うから、つまらないこだわりを捨てて普通に生きろと言っているだけなのだ。

 例えヘタでも、野球に関するこだわりを捨てきれないヒカリにとっては、苦痛の理想なのだ。中学、高校は塾通いで進学校という枠の中では身動きがとれず、さすがに庭先でのキャッチボール程度だが、ファルコンズという出会いはヒカリの心の芯の部分に猛烈に突き刺さるのである。

 いや、とヒカリは訂正する。

 

 ――石崎との再会があったからだ。

 

 だから、またあの時のような対戦を夢見てしまう。

 元気になったアルベルトに跨って、ヒカリはため息をつく。

 なんだかペダルを漕ぐのに疲れ、道路脇の小さな公園のベンチにそっと腰を下ろす。頭上にはやはり煌々と輝く電灯が立っていた。

 コーヒーが飲みたいなあと辺りを見回すも、自動販売機は見当たらず、無人の砂場とブランコが目に入る。

 またため息をつく。

 母親のアパートに乗り込んで話をつけにいこうと意気込んでみたものの、やはり途中でこういう有様になってしまう。

 ハンドバッグをつかむと、ふと封筒が目に入った。

 ユキから貰った写真。手にとり、写真を眺めると、全部ヒカリの映っているものだった。

 それでこの厚さとヒカリは驚く。どうも気に入られているようであるという確信が芽生える。

 写真をめくる手がとまったのは、あの、石崎の試合を見に行った日の日付。

 そして、映っているのは石崎とヒカリが並んでなにか話しているような遠景。だいぶ離れたところから撮っているのだろう。表情を窺えない。だが、二人だけの空間という意味では間違っていない。もう少し近い距離で、もう少し、石崎が有名なら、週刊誌にだって売れるかもしれない。

(まったく、余計な写真撮って)

 だが、この写真で手が止まるということでヒカリの中で自分の正直な想いがわかる気がする。

 でも、それはあまりに馬鹿馬鹿しくて、気にいらない感情。

 冗談じゃないと一笑に付す。

 わざとらしく大袈裟に次の写真をめくる。

 次はマウンドの上のヒカリ。

 凛とした表情でセットポジションに入っている。

 そして、次の写真は投球動作中のヒカリの姿。連続写真の様に投げるモーション、投げたあとのモーションと続いている。うまく撮るものだと感心しながら、自身のピッチングフォームに感動する。アンダースローのピッチングフォームは我ながら美しいと自画自賛するところだが、どちらかというと一生懸命といった表情の方が気に入っていた。

 好きなことに精一杯打ち込める喜び。それが気持ちから態度、真剣な表情として前面にあふれ出ていた。

 気持ちの入った投球は、例え相手がおっさんだろうがプロだろうが、恐れを捨てて、自信を持っていける。

 ヒカリは自分自身の最高に真剣な表情を見つめ、今はこれだけのカオが出来るか、不安になる。

 男だとか女だとか、おっさんだろうと小学生だろうと性別、年齢に関係なく、チームみんなで小さなボール相手にバカみたいに夢中になっていたい。打てるとか打てないとかウマイとかヘタとか、かっこいいとかダサいとか、お互いに激励したり、罵倒しあったりして、制限された体と拘束された心を自由にグラウンドに解放することがどんなに楽しいことか。

 いつのまにか、写真が滲んでいる。涙が少しずつこぼれているようだ。

 近くて遠い風景。

 心だけが乗り遅れている。

 母親に恨み言を言うつもりはないが、野球をやるためには母親が自分の応援団長でなくてはならないのだ。それでなくてはやる意味が無い。否定されたままこっそりなんて、一時期だけの応急処置に過ぎないのだ。

(だったら、いっぱい話をして、解決しないと!)

 だが、それが怖い。また否定されたら、どうしょう。そればかりが頭をよぎる。

 どうして、マウンドを降りると強気という武器が無くなってしまうのだろうか。

 自分のことに呆れてしまう。

 冷たい風が肌に染みる。プロ野球も消化試合の季節に入り、野球の季節は終わりだ。

 でも、プレイボールの声はこれから何度でも聞きたい。そのためには、やはり、することはひとつだけ。

 ふとベンチの枯葉の上、乱雑に置いたハンドバッグの中で何度も光って自己主張している携帯電話に眼が止まる。

 母親からかかって来たのかもしれないと、内心ひやりとしながらバッグから携帯電話を取り出し、相手を確認するが、知らないナンバーで何度もコールしている。

 ご丁寧に留守番電話に録音している。

(誰……?)

 内心どきりとしながら、慎重に再生キーを押す。

 テンション的にはあまり聞きたくない声だとイヤだなと思いながら。

「もしもし、ねえちゃん、来週の試合、投げないかもしれないんだって?」

 ねえちゃん? だれのことだ?

「ブランクとかさあるだろ。そういうの気にして投げないとかだったらさ、俺、練習相手になるから、今度の試合出ようぜ」

 ぷっと思わず吹き出す。

(ああ、ユウくんか)

「……今度の試合、石崎来るんだろ? ていうか、呼んだんだろ? 俺、試合の日、ヒカリ姉ちゃんがマウンドに立っていることを期待してるからな。練習したかったらいつでも誘えよ、じゃあな!」

 早口で言いたいことを全部言って、デンワを切ったのであろう。家電の受話器を乱暴に置いたであろう音が電話越しに伝わってくる。きっと、ユキが隣でどうだったとか聞いている様子も想像できる。

 まさか少年に期待され、励まされるとは。

 まいったな、と時計を見ると0時に近づいている。バッグの奥底に常駐させている使い古しのボールを探り、一球投げたら帰ろうと心に決める。

 ボールを探り当て、ポーンと空中に投げて手の平でキャッチ。軟式とはいえ、素手で受け取るのは痛い。手の平からの衝撃は肉と骨を貫くように手の甲へと抜けていく。

 右手にボールを持ち替え、いつも相手をしてくれたコンクリートの壁へ足を向ける。

 目算で距離を測りながら、周囲を見渡し、瞳を閉じる。静かに佇む木々の隙間から流れる風の音、遠くで自動車が滑走する音、足首を左右に動かすだけで聴こえる砂利の音、それらを自然に受け止めて、一体となるつもりで息を吸い込む。

 たった一球のためにも精神集中は欠かせない。

 瞳を見開いて、目の前のコンクリートの壁の一点を見つめ、同時に大きく振りかぶる。

 グローブはなく、左手は添えるだけになってしまうが、気にせずいつものモーションにつなげる。左足を上げて体重移動、体を沈ませながら、背中から右腕を一気にしならせ、ボールに魂を込める。

 スピンのかかったボールは指先から風を切ってぐんぐんと伸び、腕を振り切ったヒカリは投げ終えたフォームのまま、コンクリートの壁に直進するボールの行方を見守る。

 コンクリートの冷たい反射音がするのと同時に、携帯がベンチの上で震えた。

 意識がふと携帯に向き、ボールがどの方向に向かって反射していったのか、見失う。意識を反らされたことに頭きて、電源もろともオフにしようと携帯を手にした瞬間、それが意外な相手で逆に興味を引き立てられた。

 それこそボールの行方よりも、だ。

「夜遅くごめーん。今週末ヒマー? ちょっと泊りがけで手伝って欲しい仕事があるんだけどさー」

 相手は香織だった。

 

[後編2へ続きます・・・]


 
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